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日記更新メール テスト
2024.02.16
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日記更新メールから
2024.02.14
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昨日は甲子園で応援
2023.08.05
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テスト 再開できるか?
2022.08.16
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Test これで 日記更新可能?
2020.11.24
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震災25年の年頭に。そして、あの日、1月17日には わがヴィッセルは25歳。初タイトルの喜びよりも、なんか 肩の荷が半分おりた・・・?いや むしろ 仇討ち、敵討ちの ひとつが出来た様な。何の仇討だろうかと 自分でも不思議だが、そう思っている。震災相手に敵討ちしてとしても、亡くなった方や 地震で、震災で人生が変わってしまった多くの人たちが救われるわけでない。気休め?かもだが、私にとっては なんか ザマーミロ、地震なんかで 人間を 俺たちを やっつけられると思ったら大間違いだ。地震なんか ナマズの寝返りだ!この大地は、この街は ここに住み続ける者たち(動植物含め)のものだから。神戸讃歌にあるように「俺たちの この街」「俺たちは守りたい」「命ある限り」やっぱり・・敵討ち 少しできたかも。そして 初タイトルを胸に 開幕戦を迎える ヴィッセル神戸に こころから感謝をしたい。
2020.01.06
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元旦 天皇杯決勝に勝利でした!言葉ありません・・。ずっと 節目節目で、震災〇〇年で優勝、タイトルを!と望んでいた。ヴィッセルは1995年1月17日「あの日」生まれたチームゆえ。しかし震災10年の節目に降格、しかし そこで 神戸讃歌が生まれ・・・あの時の「もう一度 あの場所へ」「よみがえれKOBE」の標語には 震災復興とのダブルイメージ、ダブルミーニングが込められていたと思う。アツが 三浦選手がJ1昇格を決めたとき「神戸の街のように 蘇りました!復活しました!」と喜びの声を上げたのも まちがいなく復興とJ1復帰のダブルイメージの意味がこめられていた。20歳のヴィッセルには 初タイトル獲得はなかったが、25歳になる今年の ヴィッセルくんはついに!ついに!テレビ参戦で、勝利の瞬間 『やったーあああああ』と絶叫するかと(フラッグも手元に持って応援していたから、準備万全)思っていたのだが、我ながら 不思議に 泣けて泣けて・・・ただ 泣けた。そして ふと 震災のなかで知り合った方の息子さん 当時大学生・・が 何もなければ息子さんつれて 国立に行っていたかも いや おじいちゃん、息子さん、お孫さんで観戦?と、ふと思って また泣けていた。ヴィッセル おめでとう! そして ありがとな!KOBEのために。(記 2020.1.5.)
2020.01.01
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三顧の礼で迎えた指揮官をシーズン途中で解任して・・他のチームでも同じ例があるのだろうがどうも わがヴィッセルは多いのでは?結局 戦術が一定せず、カンフル剤にはなっても 長続きせず ある時は残留争いまでいってしまうことも。では あるが、吉田孝行 吉田のアニキ(むろん私より実年齢は下ですよ)が指揮官としての 明日が初陣!なかなかスタジアムに行けず、ようやく以前からチケットを取っていた試合が偶然にも 吉田ヴィッセルの初陣とは。吉田選手は、二度目のJ2残留時のトモニ戦った選手であり トモニ立ち上がった 港町の戦士であり、震災20年の時のメモリアル試合の提唱者であり実行者の一人でもあるので 感慨大いに有り。実は三浦アツ選手が ヴィッセル経験者としては先に?監督として戻ってくるのではと 密かに期待をしていたのだが。それはそれとして。以下に 今日の芝氏のメールマガジンを転載し わが気持ちの代弁としたかったが、なぜか貼り付けができない・・・ので一部を抜粋します。ネルシーニョ監督には感謝しかありません。僕らに勝つ喜びを教えてくれました。「負けたけどいいねん」というレベルから、「タイトルが欲しい!」というところまで引き上げてくれました。ネルシーニョ監督のもとで今年は優勝したかったです。2年半ありがとうございました。ここから反撃開始です。僕らは新しい吉田体制を支えるのみです。ネルシーニョ監督は最後にこう言ったそうです。「扉が開いたら、進むしかないんだ」。明日は吉田監督を、目いっぱいサポートしたいと思います。絶対に絶対に勝ちましょう!
2017.08.19
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戦後70年の 天皇誕生日に 今上さんの談話。いつか、しみじみと(ある悔悟をもって・・そんなことがないよう望むが)すべての日本国民が思い出すことがあるかもしれないと考えて・・・全文をhttp://digital.asahi.com/articles/ASHDP5R67HDPUTIL02Q.html?rm=891朝日新聞デジタル>記事社会皇室 東京災害に胸痛め、ノーベル賞の2人に喜び 陛下の会見全文2015年12月23日05時08分写真・図版オーエックスエンジニアリング社で、陸上競技用の車いすの製造現場を視察する天皇皇后両陛下=12月8日、千葉市若葉区、関田航撮影 天皇陛下は82歳の誕生日を前に記者会見に臨んだ。全文は次の通り天皇陛下、82歳に 「先の戦争を考え過ごした1年」 ◇【宮内記者会代表質問】 今年は自然災害などいたましい出来事があった一方、日本人2人がノーベル賞を受賞するなど、明るい話題もありました。天皇陛下は戦後70年の節目に当たり、新年のご感想で「満州事変に始まる戦争の歴史を学び、今後の日本のあり方を考えることが極めて大切」と述べられ、パラオをはじめ、国内外で慰霊の旅を重ねられました。また、全国戦没者追悼式では「さきの大戦に対する深い反省」という表現を新たに用いてお言葉を述べられたほか、玉音盤の原盤や、御文庫附属庫の公開もありました。年明けには、フィリピンへの公式訪問が予定されています。 戦争や平和への思いに触れながら、この1年を振り返るとともに、来年へのお考えをお聞かせください。【天皇陛下】今年の自然災害としては、まず5月に鹿児島県の口永良部島の新岳(しんだけ)が噴火して、海岸まで達する火砕流が発生し、全島民が島から避難したことが挙げられます。火砕流は雲仙岳の噴火災害のお見舞いに行った時に見ましたが、海岸まで達する火砕流は本当に恐ろしい光景だったと思います。島民は幸い皆無事でしたが、まだ避難生活が続いていることに心を痛めています。 9月には豪雨により鬼怒川などが氾濫(はんらん)し、8人が亡くなる大きな災害となりました。氾濫により多くの人々が家々に閉じ込められ、どんなにか不安な時を過ごしたことかと思います。自衛隊を始めとするヘリコプター等の救助活動により、人々が無事に救出されたことは本当に幸いなことでした。危険を伴う救出活動に携わった人々に深く感謝しています。水につかった家屋や田畑の復旧作業には多くの労力を必要とするもので、多数のボランティアが協力してくれていることをうれしく思っています。困難に遭遇している人々を助けようという気持ちが日本人の中に豊かに育っていることを非常に心強く思います。後日、常総市の被災地をお見舞いしましたが、泥水につかった田畑が広がり、苦労して作物を育ててきた人々の気持ちはいかばかりかと察せられました。 今年の喜ばしい出来事としては、まず二人の日本人がノーベル賞を受賞されたことが挙げられます。大村博士の生理学・医学賞は、アフリカや南米で、人に感染すると盲目になる危険をもたらすオンコセルカ症を治す薬を地中の菌から作り出されたことなどの業績によるものです。私は以前、オンコセルカ症を患って盲目になった人々が連なって歩いている痛ましい映像を見ていましたので、この病気を治す薬が出来たということを本当にうれしく思いました。一方、梶田博士の物理学賞は、神岡鉱山の地下にあるスーパーカミオカンデにおけるニュートリノの研究で、ニュートリノに質量があることを見出されたことに対する授賞でした。11年前、スーパーカミオカンデを訪問したことが思い起こされました。お二人の長年にわたる地道な研究を誠に尊いものと思います。 また、日本製のジェット旅客機が完成し、試験飛行が行われたこともうれしいことでした。かつて日本で戦後初めてつくられたプロペラの旅客機YS11の試験飛行を、羽田の空港で関係者と共に見守ったことが懐かしく思い起こされました。それから50年以上がたったわけです。 今年は先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります。この戦争においては、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われました。平和であったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると、非常に心が痛みます。 軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。 この節目の年に当たり、かつて日本の委任統治領であったパラオ共和国を皇后と共に訪問し、ペリリュー島にある日本政府の建立した西太平洋戦没者の碑と米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花しました。パラオ共和国大統領御夫妻、マーシャル諸島共和国大統領御夫妻、ミクロネシア連邦大統領御夫妻もこの訪問に同行してくださったことを深く感謝しています。この戦没者の碑の先にはアンガウル島があり、そこでも激戦により多くの人々が亡くなりました。アンガウル島は、今、激しい戦闘が行われた所とは思えないような木々の茂る緑の島となっています。空から見たパラオ共和国は珊瑚礁(さんごしょう)に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います。 パラオ訪問の後、夏には宮城県の北原尾、栃木県の千振、長野県の大日向と戦後の引揚者が入植した開拓の地を訪ねました。外地での開拓で多大な努力を払った人々が、引き揚げの困難を経、不毛に近い土地を必死に耕し、家畜を飼い、生活を立てた苦労がしのばれました。北原尾は、北のパラオという意味で、パラオから引き揚げてきた人々が入植したところです。 この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。 私はこの誕生日で82になります。年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました。したがって、一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです。 今年もあとわずかになりました。来る年が人々にとって少しでも良い年となるよう願っています。以下は 毎日新聞 宮内庁撮影の近況映像ありです・・天皇陛下・82歳の誕生日 記者会見の全文毎日新聞2015年12月23日 05時00分(最終更新 12月23日 09時59分)
2015.12.23
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五山の送り火のあった16日に 念願の大文字山に。2年間の京都で果たせなかった 大文字山登山を 送り火の日にできたわけですが、送り火の日には 登山規制があるので保存会関係の方といっしょに登りました。暑かった・・・が 見晴しよし。点火されたらもっと熱かった。 送り火の前には 読経あり。大文字の横一文字と 人の字の交錯するところに弘法大師さんが祭られていて そこが一番大きな火床になっている。 点火の後も お坊さんがカンカンカンと木を打ち鳴らし続けていて・・ なるほど 祈りの火なのだと 実感お盆の送り火ですから、死者を悼み 想いながら 見つめる火だと、生者が死者を見送るための火だと 頭では理解していましたが、宗教行事だと よーく分かりました。※8時に点火、8時30分過ぎから下山する人が増え 下山路が混雑する懸念あってわたしたちも下山。懐中電灯で足元を照らして 滑らないように気をつけながら。登山口まで降り切ると 10人近くの方々が待っていまいした。同行者が「えらいなあ、これから 消し炭とりにいきはんねん」と。送り火の消し炭を持ち帰り 水にまぜて飲むと1年病気しないということです。 日中 湿度もあって少しガスっていたと思うが、「妙」「法」などの 別の山の送り火が くっきりと見えました。何度も登っている同行の知り合いも「いやあ、くっきり見えるなあ」と。また後日 京都在住の職場の同僚も「大文字 きれいでしたね」と言ったので (これは市街から見ての感想)、すこし大気がゆらめいたぐらいが ほどよく光が屈折して美しく見えるのか?※なお、お堂は弘法さんなので真言宗の開祖だと思いますが、この大文字山で読経し祈祷するのはふもとのお寺で 後で確認すると浄土宗知恩院派のお寺でした。ご祈祷の読経も 般若心経のほか南無阿弥陀仏など。真言があったかどうかはわかりませんでしたが。そういえばお盆て 宗派は問わないし・・わがやは神道ですがお盆やります、故郷の宮崎の村では盛大に迎え火、送り火をしていたと父親からきいたことがあります。(以上 『五山の送り火の日に 大文字山登山、祈りの火を実感・・・』でした)
2013.08.17
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オリックスブルーウエイブのホームだった 現「ほっともっとフィールド神戸」スタジアムへ。オリックス対千葉いつ行っても(外野ですが)見やすくて 気持ちのいい球場と思います。長年のヤクルトファンゆえ東京での単身赴任中は神宮へよく行きましたが(いまは改修されたようですが)神宮の外野はコンクリートに腰掛ける形式だった記憶 しかも それが弧を描いていないので なんとなくダイヤモンドを見てると 場所によっては脇から見るような具合で微妙に体をねじらないといけませんでした。1995年の震災時は 神戸の球場も改修前?で同じような作りだったのかもですが・・・。いわずとしれた元祖「がんばろうKOBE」の聖地でもあります。試合は千葉に敗れましたが・・・。うしろの年配の方は ブルーウエイブのネームが入ったパチパチメガホン(かなり年季が入っていると推察)を手にされていました。
2013.08.03
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このたび 京都から大阪に職場が変わりました。ショージキ最初は面食らうこともあり(おんなじ関西かあ?いや京都は ほんまは日本でない?地球ですらない!・・・ちょっと大袈裟)ましたが ま ようやく様子もなんとなくわかりだして あと1年くらいは京都で仕事するかなあと考えていただけに残念でもあります。さすが千年の都(実際は蛤御門の変で市街の三分の二が焼失しているので、150年前は 多くの日本の戦後の都市と同じく 戦災復興都市でした。方丈記の時代には直下型地震で壊滅しているので800年前はKOBEと同じ 災害復興都市。)つまり 何度も何度も 灰燼から「ともに」「立ち上がって」きた復興する都市と市民の底力、不屈の粘り強さがこの千年の都の魅力の源泉で、そこに伝統と革新、保守と新し物好きという相反するものが お互いに独特の調和をみせながら 強力に発信しつづける原動力になっているのだと つくづく。実際 京都の町並みは明治における再建・都市再生・あるいは近代化策による新生の賜物です。戦災をこおむらず江戸期にも大火にあわなかった各地の小京都より京都の町並みの方が新しい、しかし ずっと古い貌で 魅力を 常に 新たに再生し 発信している ということになります。※たとえば 私の父母の郷里・宮崎の飫肥の武家屋敷が残る町並み、あるいは豪農や豪商の屋敷が残る各地の宿場町と比べると 京都はまことに明治の都、都市という・・・。(平安千年の都という発信力はこれまた別で。ここらへんが ま 京都の魔術というか魅力なのでしょう)ということで 京都は7月は祇園祭の季節・・・これも戦争中に中断し、戦後ようやく何基かの鉾ではじまった祇園祭が いまや110万人を集客する大イベントに復活しています。仕事で また 京都に行くこともあり、このうだる様な季節に 祇園囃子をききながらもええなあと ふと思っています。
2013.07.08
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あの日 1月17日にむけてさまざまな思いが出てきますが・・・昨秋 わが娘がめでたく嫁に行きました。披露宴で婿様の小学校の先生がスピーチして、彼が親友を震災でなくしていることを知りました。KOBEではどこにいても震災に出会う、思いがけず震災に出会う といわれますが・・・わがやでは下の娘の同級生が震災で命をなくしています。命を救えなかったご近所の方々も・・・。先生は 親友のぶんまで幸せになってほしいと・・。おめでたい席ではあまり言わないことかも知れませんが やはり被災地・KOBE阪神間だからこそ。しっくりとくる言葉でした。そして10数年後 東北でもこうしたことが 同じように 同じような二人が出会い(もちろん 肉親を失った同士が出会うでしょうし・・)、同じ はなむけの言葉が送られるのではと 花嫁の父の席に座りながら おもっていました。
2013.01.16
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祇園祭の宵山(夜祭)には ちょうど3連休とあって 学生時代の友人が東京からやってきて 山鉾を見て回り、屋台でキューリの一本漬けを食べ・・。(やつが言うには 東京の祭にはないぞ と。湯島天神とかの近くにも住んでいたし 神田祭りに なぜか若いときから行っているやつなので そうかもしれませんが・・)男ふたりで床で飯を食い 等等。あすは 神輿が八坂神社にもどるにあたっての「あとの祭」たる花傘巡行。平日ですが ちょうど都合がついて 探訪ウォークというのに参加します。なんでも「後の祭」の語源?もここから?
2012.07.23
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金環食、神戸ではよく見えたとかみさんが。小生は、娘と中国・広州3日目。広州だと早朝、6時頃ということで早起きしましたが・・曇り。この時期 高温多湿の亜熱帯の広州は雨多しでした。(ようやく6月にこの項 書いています)
2012.05.21
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広州行きにあたって、陳 舜臣さんの「実録 アヘン戦争」を熟読。英国人学者(外交官)の書いた「夷狄の泥土 ―英中アヘン戦争― 」も少し読んで・・。英国の どう考えても正義のない戦いに対した中国(清朝)側にもいろいろあり 一枚岩でなく、途中で皇帝の弱気?と変心もあり、宮廷政治の弊害もあり、アヘンを焼いた林則徐は左遷され、その後 英軍が攻めてきたとき砲台を死守した将軍(関天培)は覚悟の戦死。英国に遠慮した北京の命令で、守兵を大幅に減らした結果・・。砲台跡でかの将軍の無念をおもったりしました。砲台跡近くにある「海戦博物館」では その将軍と清国兵が上陸してくる英兵を迎え撃つジオラマあってけっこう迫力。この戦い(1841年)の20数年後 下関での長州対4国艦隊(英蘭仏米連合軍だが英国主導)の戦いで やはり 上陸軍を長州兵が迎え撃った(1864年)。そうかあ、20年以上経っていたのか・・。なおペリー来航は 英軍の広州攻撃の12年後となります。アヘン戦争の結果、香港が割譲され・・いまの香港があって けっこう娘たちにも人気なのでまあ 歴史は正邪だけでは語れない??いやいや、そういう問題ではない!(これは余談)
2012.05.20
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今回の旅の 最重要課題である「アヘン戦争」の故地を巡るということで娘は市内で別行動。車で1時間30分くらい南へ虎門という場所へアヘン戦争の砲台跡、海戦博物館、林則徐紀念館を巡る昼ごはんのおいしさと安さに驚く15時頃市内にもどり 孫文紀念堂、16時にホテルへ 帰り着いたら しばらくして また豪雨!アヘン戦争は 中国と英国の戦いで、この敗戦に 当時の日本は衝撃を受けペリー来航後の開国と近代化に成功したともいえるので、アヘン戦争は中国と日本近代化に大いにゆかりあり。それにしても本来、植民地化をねらう西洋とアジアが戦っていたのに、なんで 中国と日本がその後半世紀して戦うことになったのか。本来は日中あいたずさえて英仏などをたたきだす!というのが筋だったと。少々、政治向き?歴史解釈にかかわることなので これくらいに。
2012.05.20
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娘の知り合いが広州にいて・・父親(小生)は一度広州に行きたいと思っていたので、なんと娘と二人旅。広い空港ビル。高速道路。高層ビルの林立する市街に うーん。以前 上海でも体験した 経済成長する中国の姿をまざまざと。ホテルについて近くの「西漢南越王博物館」へ湿気がすごい。そして16時頃 夕立いや スコール!前が見えない。夜になっても湿度は高く、なんでもこの時期、湿度は85%から90%とか。ほとんど水の中にいる状態。(サウナというより ほぼ霧の中状態)しかし、繁華街にたくさんの人出。すごいなあ。娘が 広州の街を歩くとけっこう消耗するというようなことを以前言っていたが・・。なるほど。しかし活気と湿気がすごくて これもクセになると・・・?
2012.05.19
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京都が職場になって はじめての桜の季節。気がついたのは、市内あちこちに いわゆる桜の名所があることと、(同じ古都の奈良にいた身としては・・・ずるいな という気も。名所は 人間が名所にするから名所なので。)枝垂れ桜が結構多いこと。遅咲きもあり、いわゆる桜の季節は4月いっぱい続くようです。合間合間に、携帯で写真を撮っていますが 残念なことに写真容量がいっぱいでアップできません。増量?とか方法あるのかも分かりませんが・・・。先だっても岡崎公園(でいいのかな?) 京都会館横、平安神宮近くの枝垂れ桜とか、京都府庁中庭の桜とか(洋館と桜のコントラスト)写真におさめたのですが。そうそう 大阪は いよいよ造幣局の通り抜け。あの八重桜の列は 毎年ですが 見物。通り抜けの後、川岸のテントの出店で一杯というのも 毎年のコースでした。若いときに住んでいた石川県 能登の桜とか 加賀は手取川、白山へいく途中の桜とかこのごろ急に 思い出しています。
2012.04.20
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と言っても、ヴィッセルでなく甲子園での阪神対スワローズ戦の結果ですが・・・(あ、いまこれを書いている19日は惜敗)産経アトムズからのサポーターなもので、甲子園での応援では「にっくきタイガース」となってしまいます。タイガース対ヨミウリ戦は タイガースグッズ持って もちろんタイガース応援に行くのですが。←支離滅裂?それにしても、甲子園でのタイガース軍団の応援 いつもながらすごいですね。いやおうなく 完全アウェイでの敵愾心も高まり燕サポたちの結束も高まりそれに 神宮でのスワローズファンと違って関西の燕党は 関西らしい きつーいギャグでタイガースはもちろん味方側のスワローズ選手にも 辛らつな一発をオミマイしカマセますから これも楽しく。愛するが故のキツーイ一発(野次)だと理解。ところで、わがヴィッセル 浮上は いつ!?
2012.04.18
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楽天ブログの機能が色々変わるようですが・・・楽天フォトから楽天写真館へ説明を読んで はじめて そうか写真家掲載できなくなったのは限界まできていたからだと。逆に 有料サービスで 5GBまで掲載可能になるがその申し込みは1月末日までと。その申し込み方法を 楽天フォトで探しているのですが・・・よく分かりません。楽天写真館でもそういう増量?サービス受けられるのでしょうか?うーん。
2011.12.29
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何度もメールして失礼。設定間違えか?メールで更新できず 過去の日時に掲載します。すいません。 今回、また かみさん連れて参戦。あるところからの招待チケットで、バックで前から5段目。大変迫力ありましたが、惜しむらくはアウェイサポーター寄り しかも、一番寄っていました。 遠くに、サポーター席見て でも神戸讃歌には歌い、勿論かみさんと一緒にマッチデープログラムの裏の真っ赤な表紙?で選手入場を迎え。 勝利の後の神戸讃歌も、バックからタオマフ掲げる人あり。今後も、サポーターター席をトモニ盛り立て、スタジアム一体のお手助けと。 帰りのミサキガーデンで芦屋応援団のmumumuさんとお会い出来ました。
2011.11.23
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対山形戦。残留か降格のボーダーの山形さんには申し訳ない?が。 勝利しての 神戸讃歌! なかなかスタジアムに来れなかった身としては 感激でした。 横にいた ちび君たち兄弟が帰ろうとするので 「歌わなきゃ!」と引き止めました。 不思議な顔で私を見てましたが、歌が始まると兄弟二人でサポーター席見ながら、肩を組み…。 大きくなったら、息子や娘に 神戸讃歌教えてな。 「なんか、最初は変なおっちゃんに、引き止めれて…。また歌うんや。意味わからんかったが、今は父さんも…」と。
2011.11.03
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明日に備えて 現在、阪急で京都から神戸方向へ移動中。JRの方が速いし 十三での乗り換えも無いのですが ほぼ半額なのと 標準軌(阪急、阪神など関西私鉄の常識。新幹線と同じ)と 狭軌の(省線、国鉄の流れからJRにとっては、標準。それと関東私鉄も。)比較から、やはり乗り心地がいいかなと。
2011.11.02
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出張で東京です。 わがアトムズ、現在スワローズ 勝利! つまり?! ところで、昨夜はハロウィン。街中、魔女やらカボチャ大王 うろうろ。びっくり。でも、万霊節は、キリスト教以前の大地の神へ、ヤオロズの神様の、祈りの祭り。 大都市に 湧き上がった 神こそ尊し。
2011.10.31
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唐突ですが この度の震災から、ずっと思っていた事なので この列島には、時々 神様も仏様もいなくなる。 勿論、神も仏も 必ずいてはるだろうが、(いないとは証明出来ないから) しかし、時々 この島国から、いなくなる。 この度の震災で、幼い頃、先の震災 阪神淡路大震災を経験した娘が、「神様っていないの!」と悲鳴の様に言ったので、父親として 思わず 「いてはらへんことは、ないが、時々いなくなりはるんやろう」と。 と言うことは、神も仏もないことには、人が人を助けるしかない と言うことで この列島に生きてきた者たち、わが先祖はずっとそうして来た。災害の度重なる経験から。 阪神間の我が家に戻って、6月11日の、ヴィッセル神戸対ベガルタ仙台のDVD久しぶりに見ながら…。 実に個人的感慨です。 試合前のエールの交換。震災で生まれた「幸せ運べるように」をききながら涙ぐみ仙台サポーター。我がヴィッセル神戸サポーターが掲げる、頑張れ東日本。 それらを映像で再び見ての感慨です。 実は、先日京都の学生のボランティアの報告会に行きました。 <「東北は忘れられているようで…」と、被災地で声があり、みなさん「忘れないでください」と言われて。どうしていいか、その場ではわからなかったんです。> と、その報告した京都の学生ボランティアの、若い人が「一度でも被災地に行った僕らには、伝え続ける義務がある」と言う姿を見たこともあり。 我々には、先の震災にあった我々には、義務があると。
2011.10.29
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この頃会合多くて、会う人、会う人、都の古さいいはります。 平安時代から住んでるみたいな顔してはりますが いやあ、まさか1300年前から、ずっと京都にいてはる一族はいないはずで。 天皇さんも、公家も、明治になって、東へ行き その前には 蛤門の変で丸焼けの京都 しかし、焼け跡に、あちこちから移住してきて(三条通りに伊勢屋さんあり、伊勢から新たに来たとの事) 元の住民も京都が好きなので、すみ続けた人がいたから、今の京都があるはずで 阪神淡路大震災を受け、街の3分の1以上の方が十年たってみれば、いなくなりました。 しかし街は滅びないどころか、この街を愛する方が来て、新しい子供たちが、震災記念公園で屈託なく遊び、街には笑いが戻り、みな頑張っているなあ、 という私の経験からは 街は、古さが尊いとは思えないこの頃です。しかし京都は?ほんまに古いか! 古さだけ自慢しても、街は無くなります。まあ、私、京都には親類もいなくて、なんの義理は無いですが。 伝統の再生、いや伝統の創造。つまり伝統神話の再生産。 やはり神戸とは対極。かな。
2011.10.21
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いささか、うんざり。 新しいこと大好きの、神戸、阪神間生まれとしては。まあ笑い話の範囲ですが。 しかし、かつては京都は災害と戦災の都市。たまたま第二次大戦の空襲を、不幸にして受けなかっただけで、明治直前の蛤門の変で、市街地丸焼けです。 記憶の記録と、記録の記憶がないと…、危うい! かつてのKOBEの如く。
2011.10.21
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負けて、かつ西武勝ち… クライマックス進出出来ず。 京セラドーム、最終戦には京都で会合のため行けませんでした。 また、来年! あとは、アトムズか(いまのスワローズです)。 勿論、わがヴィッセル神戸も10位以内へ、期待。
2011.10.18
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この春には、楽天と 元祖?!震災復興、ガンバロウKOBEのオリックスで、優勝争いを夢見ていましたが… いや、再起を!トモニ
2011.10.18
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今日は、京セラドームで スワローズ対タイガース。 負けました。関西燕軍団は、最後まで応援。 写真は、9回の攻撃 最後の攻撃を前に 力強く振られた旗ですが、うまく掲載できないかも…。いままでの掲載した容量の問題でしょうか。
2011.10.05
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いわゆる タグという機能は 楽天ブログからなくなったのでしょうか??小生の設定が不味いだけかなと思っていたのですが・・・。
2011.10.03
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めずらしい、サッカーのラジオ中継中。 京都ローカルのようですが。
2011.10.02
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本日は、昼まで京都で仕事。いま、西京極に来て 京都対水戸の試合観戦しています。私自身は神戸サポーターゆえ ここではゲスト?ですが、やはりサンガを応援。昨年のヴィッセル神戸 奇跡の残留の恩返し…もありますし。 しかし、二点ビハインド。サンガサポーターも、熱い応援です。
2011.10.02
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3ヶ月ぶりの、釜石駅。 前回は 後で気付いた 「黄そば」を、頼みました。 昨年の12月くらいから、始めたのだそうです。岩手県で黄そばは、この店くらいかな?と、店の人が。 で、勤めて長い?そのご婦人のイチオシは、伝統の味の ラーメンでした。
2011.08.10
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被災地、岩手・大槌町。町長さん以下多くの職員がなくなられ、1600人を越える方々が犠牲となられました。 よく見ると、(笑顔?いや…少しかなしそうな)お顔の下 胸のところが「絆」です…。
2011.08.10
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(写真添付) 魚の出汁が効いて、かつ醤油も。濃い味。 お魚の出汁だけでも十分とは思いましたが、歩き回った身体には とてもパンチあって、良かったです。 また、食べたいと…。
2011.08.08
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(写真添付) 魚の出汁が効いて、かつ醤油も。濃い味。 お魚の出汁だけでも十分とは思いましたが、歩き回った身体には とてもパンチあって、良かったです。 また、食べたいと…。
2011.08.08
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魚の出汁が効いて、かつ醤油も。濃い味。 お魚の出汁だけでも十分とは思いましたが、歩き回った身体には とてもパンチあって、良かったです。 また、食べたいと…。
2011.08.08
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仙台の七夕祭り。今年は 鎮魂と祈りと復興への思い… 絆の文字を見つけたので 間もなく大津波・大震災から5ヶ月となる地で。 今日は、ボランティアにやって来た京都の学生さんと話す機会があり、16年前のKOBEの話しをしているうちに 言葉に詰まってしまいました。 この仙台七夕祭りには京都・祇園祭のお囃子が、初参加。京都を出るのは初めてだそうです。 明日は石巻に。
2011.08.07
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削除ができず 四苦八苦・・ですいません。
2011.07.23
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転勤族の習いで、また異動があり この度 職場が京都になりました。 阪神間の自宅から通えないことは無いのですが、諸般の事情から単身赴任です。しかも、土日に仕事が入ることもあり せっかく二年前に関西に戻りながら、またまたホムスタ参戦が難しい時もままありそうで、誠に残念。 加えて、平日に京セラや甲子園に行くことは、夢のまた夢。 ですが!同じ職場の若い同僚に、熱烈なヴィッセル神戸サポーターがいて 結託して、神戸遠征を画策中です。 彼は、ホムスタに行って、バックスタンドのピッチの近さと迫力と、そこから仰ぎ見るサポーター席の熱さと、試合前の「私たち神戸の街へ、ようこそ」のナレーションと拍手、そしてなんと言っても、「あの!『神戸讃歌』しびれました。鳥肌が立ちましたよ」と言い、「本当に、あったかくて、優しくて、熱い、あの雰囲気いいですよ。」と、東京から転勤したばかりの上司・部長に京都の街中を、私含め三人で挨拶まわりしながら(何故か)神戸のこと話していました。 私は、補足のつもりで東京から転勤したての、その同僚に『そもそも、ヴィッセル神戸は震災の日に生まれたチームやから、だからな…』と、蒸し風呂状態の京都を歩きながら、<熱く>語って…。 (うーん、引き継ぎとか挨拶とか、ちゃんて出来てたのかなあ。まあ、ええか。) こうなったら! 京都で、ヴィッセル神戸サポと「神戸讃歌」ファンを増やします! 今後とも宜しくお願いします。 なお、地下鉄構内で見かけたサンガの掲示板添付します。が、どうやら写真容量が満杯らしく(少し前から、なーんで掲載されないのか?楽天ブログが故障かあ?と思っていたのですが…)掲載出来ないかも知れません。 そうそう、サンガは我がヴィッセルの奇跡の残留の 陰の、いや一方の立役者。いまJ2で苦しい戦いの最中。平日は、時間見つけて西京極に行こうかと考えています。 では、トモニイコウ!です。
2011.06.29
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試合の前と、後の エールの交換!よかったです。 疑惑?のゴールありましたが、引き分け。 よかったかな…ある意味。 しかし、今度 アウェイでは!
2011.06.11
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本日は、1日おいて 京セラドームで オリックス対ヤクルト戦に。 小生、小学生からのアトムズサポーターゆえ、またまた複雑な気持ちですが 今回は京セラドームで 初の外野アウェイサポーター席 スワローズの応援。 負けました。単身赴任で神宮球場に通った時も 我がスワローズなかなか勝てず。 しかし、スワローズ応援席で「やったれー」「まだまだ、いけるぞー」「あほかあ。何しトンねん」「あー、あかん」と言う周りの声、関西では当たり前ですが 新鮮。神宮だと、皆さん 余り感情を吐露すること無く、「いやあ、惜しかったですね」「いい試合でした。また明日頑張りましょう」と帰る事多く。 オリックス連勝中。これは これで 頑張れ!
2011.06.08
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先程から 写真添付してますが… うまくいきません。残念。
2011.06.06
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太秦東映映画村で 水戸黄門ラーメンその後 嵐電乗って・・西院でおりて阪急乗換えですが 西院と書いて 嵐電は「さい」阪急は「さいいん」の呼称・・・???
2011.05.22
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バクスター元監督も観戦。ヴィッセルの基礎を作り、危機を救い、サッカーチームとサポーターの 絆 と言うものを示してくれました。 後半、後 二点入ったかなあ と思えましたが…。 本日は 職場の同僚達とバック観戦。前の席取るため四時半過ぎから並びました。ま、その甲斐あり。 さっきまで 三ノ宮で祝杯。京都から来た者もいて、若い時みたいに同僚の部屋に泊めてもらうと。いつの間にか、サッカーの輪が広がっています。
2011.05.21
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新しい大阪駅の、大屋根。迫力あります。ただし 今日は雨強く、伊勢丹三越側の 一枚目を撮った場所に立っていると 吹き降りの滴が少しですが かかります。
2011.05.11
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グリーンスタジアム→スカイマークスタジアム→ことしからほっともっと神戸災害復興「がんばろうKOBE」をモットーに ほんとうに!優勝したあの仰木オリックスのかつての本拠地で今度は「がんばろう東北」という訳でヴィッセル神戸のユニを着て帽子を被り「がんばろうKOBE」の聖地に「東北」を支援しに行きました。(ヴィッセルの対甲府・開幕戦1-1をWEBで確認しつつ)甲子園で<がんばろう東北>のワッペンが売り切れていたので通販で申し込んだら、この日の朝に到着。さっそくヴィッセルの臙脂色のキャップの横側に貼って・・・。ヴィッセルサポも思いは(臙脂の色が同じように)同じですよという気持ちで。電光掲示板に「がんばろう東北」そして「東北魂」の旗スタジアムで イーグルスのカンフースティックを購入しましたが、やっぱり使い慣れたヴィッセルの猫の手パンチで応援。試合は9回まで拮抗、そして一発逆転!東北魂の旗が激しく揺られ、サポーター歓喜の嵐サッカーみたいに選手たちが外野応援席に来てくれましたこの勝利の喜びを・・ きっと東北の被災地でも みなさんが喜んでいると思うとにわか1日東北楽天ファンの小生も ぐっときて西から 東の空を(・・・そのかなたを)見上げていましたそして 津波の被災地にもこれから思いをつないで、得点し 最後に<一発逆転!東北>の日が来ることを
2011.04.23
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昨日の 東北対オリックス戦 於甲子園 ケーブルテレビの画面から(画面を撮ったのですが これっていいのでしたっけ?) 持っていらっしゃるのは お知りあいのサポさんで、思わず目がとまり 夜の再放送を録画して・・。 思いは同じです! なお、今日是非買いたかった「がんばろう東北」ワッペン 売り切れ完売・・でした。 そのかわりというか義援金の列にならび きのう わがオリックスを封じ込んだ永井投手に 「オリックスファンですが、がんばってください」と言って 募金箱に・・。
2011.04.17
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