シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2026年01月27日
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カテゴリ: 神秘体験空間
人生は幸福を見つけるために活きるもの
巷は選挙一色の気配となり、相変わらずオールドメディアは既得権益支配者層に有利な捏造報道を繰り広げ、かつての大本営発表を思わせるような、犬HKの大河ドラマ仕立てにして、明治維新以来の捏造日本史のように垂れ流して、自身の判断能力さえ疑わない高齢者を中心に洗脳している。

中道を中立と仕立て上げる怪しい「欧米化」とタカトシ漫才でツッコんでほしい、即席政党ができて、オールドメディアの宣伝が、かつての右翼の街宣車のように、地上波から連呼で湯水のようにコダマするのが見苦しくて、TVをつけない暮らしが当たり前で電気代節約になっていいかもしれないが、それに代わるネタ探しに、多様な動画をユーチューブでみるにつれて、日本人は、霊魂の上では、果たして、江戸時代から進歩しているのか、怪しく感じてくるから不思議でもある。

民主化といわれながらも、TVに飼い馴らされ奴隷化してきたのではないか?とすっかり左傾化したオールドメディアの醜態から感じるからでもある。中道一つとっても、どこのメディアもマトモに解説できるような専門家は皆無で、怪しい宗教団体創価の独裁池田大作が掲げた標語だといって有難がるのも笑止千万である。そんなに宗教を利用した金儲けや権力奪取が大切なのか、高次の宇宙人もテレパシーで送っているのに、宗教を利用すると罰が当たるのが、わからないらしい。

ネットフーテンの寅をしていると、大河ドラマ「豊臣兄弟」の影響か、戦国時代の捏造日本史をネタにしている動画をよくみかけるが、八切史観を超えるものがほとんどないのが残念である。ほとんどが江戸時代に書かれた義理人情本の類や、明治維新以後に捏造された日本史に洗脳されているのが多く、そのことすら気づいていないので、なぜいま八切史観が面白いのか、あとで紹介するが、その前に、巷のオールドメディアの騙しの手口が酷過ぎて、もはやなにがなんだかわからない捏造カオス状態になっている。

中道改革連合とかいうような党名からして意味不明な衆議院選だけの烏合の衆の私党を、与党の対立政党にし、せっせと支持率アピールに創価を奔走させるのは、いかにも役不足で、財務官僚と経団連が消費税減税を潰したい悪巧みと考えるのが妥当だろう。財務官僚の姑息な手口は、森山石破ラインと、安住野田ラインで度々消費税減税を潰してきた経緯でもわかり、軽減税率で唯一恩恵を受けているオールドメディアの走狗には一国民としても、反吐が出るからでもある。そのような誑かしに容易に騙されるのが、大河ドラマのような日本史にも騙されて、話題の土地に金銭落としの旅に出る高齢者に多いからでもある。

特に高齢者が洗脳されやすいのは、振り込め詐欺の被害者になりやすいのでもわかるが、例えば、水戸黄門人情ドラマが流行り過ぎたために、水戸黄門の諸国漫遊を信じて、自分が騙されているのさえ気づかない高齢者も昭和には多かった。捏造されたドラマの日本史を疑わない日本人が昭和には多かったが、現代ドラマならフィクションとわかるのに、時代劇となると、なぜに洗脳されるのか不思議でもある。

ちなみにAIに回答を求めると以下のようになる。

水戸黄門に騙される高齢者

AIアシスタント
承知いたしました。「水戸黄門に騙される高齢者」に関して、お答えします。

🧓 高齢者を狙う詐欺と「水戸黄門」
最近、高齢者を狙った「スピリチュアル詐欺」などの問題が報じられています。中には、家族が気づいた時には300万円もの被害に遭っていたケースもあるようです。

ドラマの『水戸黄門』は、悪事を正す勧善懲悪の物語として広く知られており、多くの人に親しまれています。「この紋所が目に入らぬか!」という決め台詞は、悪人たちが本物の証拠を前にして観念する象徴的なシーンです。しかし、 現実の世界では、このような権威ある存在が悪事を正してくれることはなく、むしろ巧妙な手口で高齢者を騙す詐欺が横行しています。

水戸黄門に騙される高齢者?
「水戸黄門に騙される高齢者」という表現は、直接的に水戸黄門が悪事を働くという意味ではありません。これは、正義の味方であるはずの水戸黄門が悪人に成り代わって高齢者を騙す、という皮肉や冗談の混じった表現と解釈できます。

高齢者のドラマ視聴:『水戸黄門』は長寿番組であり、高齢者層に特に人気があります。そのため、テレビ番組の話題やイメージを使って、高齢者層をターゲットにした詐欺の手口を表現している可能性があります。
権威の悪用:ドラマの「水戸黄門」のように、社会的地位や権威があるかのように装って高齢者を信用させ、詐欺を働くケースは少なくありません。

このようなAIの回答からもわかるのは、高齢者が社会的地位や権威に弱く、信じやすい傾向を、オールドメディアや詐欺師などが利用していることで、昨今の警察をかたる詐欺などが、水戸黄門の印籠のように高齢者を騙している構図が、AIの回答からも明らかになる。ということは、昨今の高齢者はAI以下の騙されぶりということになる。

まぁ、確かに朝のモーニングショーなどはデマばかり流すのでもはや視聴する価値も無いが、あんなデマ番組を見て洗脳される高齢者を、水戸黄門を信じた昭和の老人に当てはめれば、AIの回答からも納得いくかもしれない。しかし、少し自分のアタマで考えて、実際に体験した現実感からすれば、あのような騙しにひっかかることはない。

以下は、勝海舟の話なので、割り引いて聞く必要があるが、江戸時代の将軍でさえも、印籠などの権威を使って、土下座の強要が困難だったのが、次の逸話でもわかる。

『勝海舟の氷川清話に、将軍が鷹狩りしていたときに、馬子(駄馬や伝馬を引いて荷物や人を運ぶ職業の者)が、将軍の前を横切ったエピソードが語られています。

 将軍は、家臣に、あの馬子を懲らしめろと、命令したが、その馬子は、逆に、家臣たちを散々に投げ飛ばして、「鷹狩りがなんだ」といって行ってしまった。将軍は、「馬子でも侮れないよ」といって、後で、その馬子を、お咎めなし、としたという。

 また、三代家光が、お忍びで、夜中によく市中巡りをしたエピソードも載っています。家臣たちは、家康も、お忍びで、よく市中に碁等を打ちに出かけた、という話から、家光が、真似して、お忍びで、つまり身分を隠して、市中に出ることを、危ないのでやめてください、と懇願していた。

 しかし、いっこうにやめる気配がなく、あるとき、家光たちが城の裏門から出ると、覆面をした男が待ち構えて、家光たちを散々に投げ飛ばして、行ってしまった。次の日、家臣がそれを聞きつけてやってきて、家光に、「だからいわんこっちゃない。これからは厳禁ですよ」と言って出て行った。すると、家光は「さては、あやつめが」といって悟ったという。

 このようなエピソードから、ドラマはあくまでフィクション(虚講)なのである。』

江戸時代の町民が、将軍の権威などよりも、自分たちの日々の生活を優先していたのに、現代人が、虚構の権威に騙され洗脳されているのがアホらしい。しかも、三代将軍家光でさえも、城外に出るときは、警護や用心棒が必要で、治安も悪かったらしいから、治安のいい現代とは真逆なのである。治安が悪いのに将軍も糞もないだろう。孔子でさえ、礼儀は暮らしが成り立たないと意味がないと言っているわけなんだから。

しかし、治安がよいとされる現代だってオウム教団に、警察庁長官が狙撃されているし、統一教会員に、安倍総理も暗殺されたわけで、治安がいい、というのはマスコミの流すデマかもしれない。昨今は殺人事件が毎日のように起こっているし、交通事故も頻繁に起こっているのだから。

怪しい宗教の勧誘だって盛り沢山で、政教分離だってほとんど形骸化し、選挙に創価の組織票が公然と動員されているのに選挙管理は野放し状態でいる。かつてサメ脳森総理が「神の国」と言って干されたのに、池田大作の中道を掲げる似非政党を応援するオールドメディアの手のひら返しには呆れ果てる。

このような似非宗教団体には、工作員が潜んでいるから始末が悪い。昨今はこれに移民問題も関わってくるから二重に始末が悪い。このような治安は現代も鎖国をしていた江戸時代も同じで、幕末の京都や江戸で暗殺が多発したのは、新選組の創設でもわかるだろう。その新選組でさえも元々は百姓の被差別民で、近藤勇と土方歳三は部落出なのである。

だから近藤土方らは、身分制度上の目の上のタンコブの、水戸藩士だった芹沢鴨を暗殺したわけで、新選組は各藩の工作員が入り乱れる用心棒の組織団体だったといえるかもしれない。現代では、言論になって、ある程度欧米化され、民主化された与党と野党の対立も、遡れば、幕末当時の治安上の対立の、長州毛利家と江戸徳川家との、京都の朝廷を巡っての政治権力闘争の構図にほぼ変わりはない。

その証拠に、山口県と群馬県が総理大臣を多く輩出している、のでもわかる。なぜ群馬県なのかは、以下のサイトをみてもわかるが、徳川家発祥の地とされているからである。だから、毛利家の高杉晋作の部落民を組織化した奇兵隊に対抗して新選組ができたようなものである。

徳川氏発祥の地 云われ | 太田市観光物産協会


上のサイトでは世良田の二郎三郎が、三河に移り住んで松平になったと誤って伝えているが、八切史観では、後の家康となる二郎三郎は、駿府に奴隷として買われていって、成長したのが真相らしい。つまり松平元康とは別人なのである。被差別民の奴隷の身から将軍になったのが家康で、同じ境遇から太閤関白の公家最高位にのし上がったのが秀吉なのである。

「秀吉」と言う名は、当時尾張の土地では、稗がよく取れたので、稗良し(ひえよし)から来た名で、部落民の名は、他にも、田吉や粟吉などがあったという。ハシバも、当時の火付け木に良い、端柴からきている、そのような小枝を集めて売る乞食のような職業のことである。だから秀吉と家康は下克上を地で行った人物なのである。

この二人が当時の身分制度を超えた下克上を成し遂げたのは、同じ卑賎民の出の、八田家を源流にした織田家の信長と、アジアを植民地にしようとしていたポルトガルのキリスト教宣教師たちの影響が大きかったといえるだろう。

このような当時の身分制度と海外植民地政策について、現代の日本史に欠ける視点が、身分制度とキリスト教との仏教の関係についての日本史で、大局的にみるなら、日本史は、拝火教を源流した古神道を基にした、差別撤廃の歴史ともいえる。明治維新で、四民平等となったといっても、まだまだ差別が残っているのは、学閥の官僚主義が残っている、のでもわかるわけなのである。

現代の官僚の登用制度が、つまり、国家公務員試験が、中国の科挙制度に由来するのがわかれば、官僚が左翼化する理由もわかるだろうし、学閥による天下りなどの身分制度をつくりたがる理由もわかる。その官僚がつくった歴史での、四民平等は士農工商とされているが、八切史観では、この意味は、源平藤橘の姓で、古代から日本は主に4つの多民族国家だったのである。

そこで、明治以来の創作の日本史に騙されないように、以下に八切史観の古代史を少し紹介する。

1050 古代史入門  2
                  第一部
近視眼的な教科書騒ぎ
 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。
 なにしろ隠忍[鬼]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。
 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と和田、三浦と源氏の主だった連中を処分。郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。
 頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。
 それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。
 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。
 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。
 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったからして、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。
 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。
 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。
 「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。
 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取っ組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。
 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。
 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。
 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。
 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。
 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷をよばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。
 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。
 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。
 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。
長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」と、後にベルリン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。
 だから歴史の専門家が一人も認められていないゆえ、まぁ古代史は無理といってしまえばそれまでの話だが、もし良心があるなら各大学で歴史担任の教授は丸坊主にでもなるべきだろう。
 なにしろ日本以外の国では、歴史を愛国心を育てるために重点的に教える。大学入試でも、歴史は必須科目として必ず受けさせられる。しかし日本ではディスカッションし学生たちに研究討議させる重要科目ではなく、中学生の頃から文字通り教科書を暗記させ、年号を覚えさせるだけであって、大学の入学試験にも歴史を必須受験科目にするようなところは全然ないのである。
 なにしろ各時代の権力者によって、日本歴史は都合よく美化され創作されているにすぎないのは、各会社が自費出版して得意先や関係会社へ配付している社長伝や社史と同じことである。それゆえ歴史を受けもち講義する者は、恩師に対し弟子として領分からはみ出さぬようにのみを心がけて、昇任昇給だけを望み、隠れたベストセラーともいえる文部省検定歴史教科書をだせるようになって、莫大な印税を得られるようになりたいとの願望だけのみであるらしい。
 それゆえ、騎馬民族は日本海を渡ってきて裏日本へ入ってきた潮流学を無視して、日本書紀に合せ鴨緑江をわたってクダラ人みたいな騎馬民族とし、体制に合わせ江上教授も発表した。大伴家持が飼戸の「四つ」の奴隷頭ゆえ、いくら働いても認められず癪にさわって飛び込み憤死したのを、日本書紀に辻つまを合わせてた梅原教授も、今では学長にまで昇任した。みなお利口さんは御用歴史作家であるが、彼らとて歴史の講義をする教授ではなく、他科目の教授である。というのは、いくら体制べったりにそっての、事なかれであっても、歴史畑であれば、恩師が言っていないことを発表するには、立場が拘束されていて、絶対に不可能のせいだろう。
 つまり監督官庁の文部省の指導方針にそい、恩師の口ききがなくては立身出世の途がひらけぬからである。他の考古学畑にしても、やはり親方は文部省で、宮内庁の権威が影についているから、少しでも日本書紀からハミ出しては、枠内からの落ちこぼれとみなされてしまう。世界最大の墳墓といわれる仁徳陵の発掘を、絶対に宮内庁が不許可にしているのも、日本書紀に記載されているのとは、どうも違う結果がはっきりしていて、はたして仁徳陵といっても、どなたが埋められているか判らぬといった危惧があるせいらしい。
 なにしろ学校歴史では、「民のかまどは賑わいにけり」と高屋から望みみられたもうた御情け深い御方となっている。しかし、民のかまどから炊煙が絶えるくらいに搾取され、暴動を怖れて淡路島へ待避しておられたのが、浪花へ戻られ、また高所から民の有様をご覧になり、そうおっしゃられたというのは、恐らくまた戻ってきて、これなら課役が増やせて良いと、のたもうたのではあるまいか。
 広大な仁徳陵と称せられるような大規模なものになると、ブルドーザーもなかった昔ゆえ、何千どころか数万の奴隷が鞭打たれつ何年も働かされて構築されたものゆえ、古代史の中では、奴隷社会の始まりといえよう。もちろん同国人を奴隷にしてまで、ひどく酷使できる筈はない。となると、鉄製武器をもって渡来された方が、原住民である日本縄文人を捕え働かせたものとみるが至当で、珍、讃などと中国からよばれた五王の四世紀初頭の捕虜課役大工事だったろう。
産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。
 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥
初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」するのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。
 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。
 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。
 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。
 しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。
 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。
 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。

何故に歴史を知りたがるか
 「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。
 それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住処だったから、そう明確に、私は言えるのである。
 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。
 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。
 「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女史中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。
 ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。
 「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認。(坂本勝説)
 しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。
 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。
 当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。
 それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。
 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。
 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版。
 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である。
 第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。
 「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。
 崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。
 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。
 歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。
 しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。
 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。
 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。
 が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。
 のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私の<仁義と任侠>の本に詳しい。
 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八つぁんの部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。
領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。
 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。
江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあう日本原住民どうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。
 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。

            ☆       ☆       ☆

江戸時代も現代も差別は隠されてきたが、実情はそんなに変わっていないのが、この話からもよくわかる。自分が子供のときには、日本人離れした容姿で、東南アジアに近かったので、どことなく日本人以下の存在に見られている向きもあった。

とにかく、当時の家庭は親戚付き合いから、体裁ばかりを気にかけていて、あの家は百姓出身とか、こちらは武家だとか、皇室に近いとか、そんなことは子供にはどうでもいいのに、明治時代を生きた祖父祖母たちの集まりでは、そんな井戸端会議をしていて、皇室は尊敬されていたが、政治家は嘘つきで豪勢な邸宅を構え、嫉妬もあり嫌われていた。

表向きには、最大多数の最大幸福の、公のために、国のために働くといいながら、自分さえ良ければいいという私心があるから、日本史についても、自説を広めて権威を悪用するわけなのである。デマを流す連中の手口は、自分たちだけの欲望の私利私欲でやっているかどうかを見分ける能力が結局は求められるわけである。

私利私欲にならないことを、こんなことをしてなんの意味があるのか、わからないのをやるのが、つまり利益を度外視した、行為をするのが、その人しかできない、その人が生まれてきた意味で、その人の幸福となるわけで、それは何の見返りも求めないからこそ、至上の幸福となるわけだろう。

巷の中道を掲げるニセモノ政党についての話からはじめたわけだが、本来の、中道とは、至上の幸福を求める態度のことで、ヘーゲルの弁証法の正反合の合のジンテーゼを求める態度で止揚(アウフヘーベン)の考え方のことである。物質的な対立から昇華することなのである。泥のなかに華を咲かせることで、仏教では蓮華というわけである。蓮はカルマで、華はカルマの軛からの解放で、成仏することである。

騙す方が悪いのか、騙される方が悪いのか、はともかくも騙す方がいずれ騙される側にまわるのが、カルマの法則で、本来の意味の、仏教の説く、「中道」の悪因悪果なのである。この中道の意味は、有名な禅の話にもあり、旗が風によりたなびくのか、旗がたなびいて風が吹くのか、の禅問答に回答を与えたのが、中道の、その現象を観察している「人の心にある」という、現代でいうなら、量子力学の観測論のことなのである。

非風非幡~厄介者の風と心地よい風 – ZENzine / 禅人

量子力学の観測論では、量子は、観測するまでは確率波として、エネルギーの一種をもつ波動として存在しているが、観測してはじめて、量子と呼ばれる粒子状態に収束するわけで、人間の観測行為が、地上の物質的な現象に影響を及ぼすわけである。

これは三次元の物質界では、四次元を時間として捉え、物質の塊として解釈するのが簡便だからである。人間が物質の認識に余りに馴れてしまったせい、ともいえるかもしれない。だから外界に現れた現象を、心の動きとして捉える、のを忘れているわけなのである。

三次元以下の心の動きでは、時間をいわば区切って、便宜上、物質に見たてているが、四次元以上の心の動きは無限なので、時間に限定されずに、無限で、非線形なのである。だから、確率統計で線形するしかないが、それを鵜呑みにすると、間違え、錯誤に陥るわけである。そもそもどんな現象も運動を続けているわけで、静止してみえるのは、そのような立場に固執しているだけである。

だから、そのような現象と心を一つにし、共感している、自分にも責任がある、という視点なのである。どんな地上の現象もただ一つで成り立つことはなく、それに関わる配分において、それ相当の報いがある、といういわば宇宙の大局からみた捉え方なのである。本来の自分を度外視した、無私の視点からみた観点を中道というのである。簡単にいうなら、自業自得である。

騙す心も騙される心も、同じ人間の心である。なぜそのような邪心が生じたのかは、互いに利己心や虚栄心や承認欲などの悪心に共感したからである。そのような詐欺心や邪心に共鳴せず、より広い慈悲の心が悟りの仏心なのである。

そもそも、自分の能力でつくりだせるのなら、騙す必要がない。自分の能力でカネをつくりだせるなら、詐欺をする必要がなく、皆が幸福になるために働いているのなら、カネは自然とまわってきて、経済がよくなって、自分も幸福になるわけで、それがカルマの法則で、中道の仏心の働きなのである。仏というのは知恵が沸くので、知恵を降ろすテレパシーの霊視のことである。

このような宇宙の中道の働きを巧く解き明かしたのが、「21世紀 死者の書」で、この本は、これまでの地上のインチキ宗教を解体させるために、本来地球人の誰もが宇宙人で、地球で幸福を見つけて、その幸福を携えて、故郷の宇宙にすんなり帰れるように、地上への依存心を改めるように地球の管理者で、教育者でもあるトートがチャネラーに降ろした話がまとめて書かれている。

「21世紀 死者の書」のトートがチャネラーに、この本の内容を降ろしたのは、古代エジプトの死者の書が当時の祭司たちに都合よく捏造されて伝承されてしまったためで、それらの悪い果実を刈り取り、霊魂の成長にとって真の果実となる新しい収穫期を迎え、これまでの間違った宗教やそれに付随する差別や禍の素となる根を断つためであるという。

フリーメーソンに伝わる、「つむじ風を起こして風を巻き取る」を行うためである。

要するに、あらゆる身分制度や上下関係をなくし、宇宙創造の神が絶えず行っている、万人平等の最大多数の最大幸福を地上に実現するような、かつての高次の宇宙人たちともテレパシーで自由自在に交信できるような人間進化を再発動するために、この本の内容をしたためた、というのである。

そのような中道の、ルシファーの権威主義に染まらずに、アーリマンの物質主義を回避するための、キリストの中庸精神を取り戻すために、お馴染みの「人智学らぼ」から動画を紹介する。

人智学らぼ . - YouTube

シュタイナーの瞑想と集中・霊視の三段階 思考の死と再生  GA161 - YouTube

シュタイナーの三つの霊的世界・頭、胸、腹部から見る霊視ガイド  GA161 - YouTube




















シュタイナーが説く、物質的感覚器を超える三次元以上の、このような三つの霊的感覚器を獲得するために、霊魂は地上で幸福をみつけ、それをもとに、霊的な心の感覚器をつくりあげる。やがて、地上で肉体は死んで、変容し、霊的な感覚器に成り代わり、霊界へと旅立っていくが、地上で幸福をみつけられずに、未完の執着が残っている霊魂は、執着を完全に捨てるまで、欲界といわれる幽界にとどまる。この幽界で行われるのが、死者の書で有名な死後の審判である。

トートによれば、この審判は、閻魔様に頼る受動的なものではなく、自分で自主的に行うものらしい。また、幽界はAIなどのインターネットの世界に徐々に置き換えられ、縮小しているという。だから、現代人は地上でどうにかして幸福をみつけ、幸福の感覚器を完全につくりあげ、幽界にとどまることなく、スムーズに霊界に移行すべきなのである。

高次の宇宙人は、そのように宇宙からメッセージをテレパシーなどで送り、地球人が、地球に生まれる前に宇宙人だった故郷の宇宙に帰れるように、古代からサポートし続けている。感じるか感じないかは、あなた次第!





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Last updated  2026年01月27日 20時13分38秒
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