シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2026年04月23日
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カテゴリ: 神秘体験空間
禅は日本の神秘学で秘儀参入法で波動共鳴現象にある
80年代の音楽が好みなので、ほとんど80年代の音楽しか聴いていないのだが、シティポップが海外で流行っている、というので、そういえばシティポップのほとんどが80年代なので、80年代と現在の2020年代が時空を超えてつながっているような気がした。そこで、なぜシティポップが海外で人気なのかググってみたら、以下のサイトに出くわした。

なぜシティポップは海外で人気なのか? 4 つの理由を徹底解説 | GYOKKODO

『3. 日本語歌詞のシティポップが海外で人気な理由
海外のユーザーは、なぜ日本語歌詞のシティポップを聴くようになったのでしょうか。そこには、 「歌詞の意味がわからないからこその魅力」 があります。
 海外のリスナーにとって、シティポップの日本語の歌詞は意味が分からないからこそ、かえって魅力的に響いているのです。歌詞の意味に縛られないため、そのメロディやサウンド、そして声の響きそのものを 一つの「楽器」のように、純粋な音楽 として楽しむことができます。
日本語の持つ、滑らかでリズミカルな音の響きが、シティポップの洗練されたサウンドと見事に調和しているのです。言葉の壁を越えて、音そのものの心地よさ が、世界中の人々を惹きつけているといえるでしょう。』

上のサイトでは、主に4つの理由が挙げられているが、特に人気がでたのは、恐らく、海外では、シティポップの日本語の歌詞がわからないので、英語の歌詞でのヴォーカルの主張がないために、バッググラウンドミュージックの一種として聴いているようなのである。

つまり、海外では、シティポップを主に80年代の環境音楽として聴いているようなのである。環境音楽といえば、Eテレの「クラッシックTV」でかなり前に、環境音楽の父ともいえる、エリックサティーを特集していたのを思い出す。この番組をみると、エリックサティーは音楽をいわば時空にしたかったようである。

クラシックTVの最新情報 - NHK

クラシック TV - Wikipedia

もしかすると、サティは音楽を自然霊として理解していたのかもしれない。つまり、サティは音楽で時空をつくり、音楽でその時代の雰囲気を演出する、時空を旅するタイムマシンをつくっていたのかもしれない。サティはどうやら音楽で中世の雰囲気を演出したかったらしい。つまり物質を音楽の音符に分解し、同じ波動で表現したかったようなのである。

だからサティは音楽家というよりも波動の魔術師を目指していたようなのである。だから当時の音楽家には理解されない作曲を沢山したようである。サティにとっては、音楽は過去に旅するタイムマシンの実験だった。それが結果的には、故きを温ねて新しきを知るで、斬新的な前衛的な未来の環境音楽の作曲家となった。

そして、サティは、音楽と感じさせない音楽を、作為的でない、自然な音楽を目指したようなのである。だからサティの音楽を聴くと、どこか懐かしくもあり、哀愁を感じさせながら、古くはなく、斬新さを同時に感じさせる。つまり音楽ではない音楽を目指していたようなのである。とどのつまり、自己主張のない、無の音楽が、サティの音楽なのかもしれない。どこか禅の無我の境地や、老子の無為自然にも似ている。

さて、先日、東北で大きな地震があったらしいのだが、近くで道路工事をしていたために、工事で頻繁に揺れていたので、工事の揺れなのか、地震なのか、区別がつかなかったので、ほとんど地震に気づかなかった。地震と言えば、地球の振動なので、時空の大きな振動であり、物理的な意味での波動の概念でいえば、いわば音楽と同じなのである。

神智学では、地震が起こる理由を、地上の人間などが出すネガティヴな想念のエネルギーの蓄積を解消するためであると解き明かされている。簡単にいえば、淀んだ空気などを揺らして解体する一種の浄化作用、解毒作用といえるかもしれない。

だから、人間が悪口や怨み妬みなどのネガティヴなエネルギーを吐いて、地上に貯めると、それら環境破壊から、地球が汚されてくるので、それらを解体するために、再生のための破壊の解体工事をはじめるわけなのである。ウマなどが蚊が皮膚にとりつかないように、皮膚を揺らすのや、人間がハエを追っ払うようなのと同じかもしれない。地球が人間に、おいおいそんなに悪口を吐き出して貯めるなよ、と嫌悪しているのかもしれない。

だからして、地震が起こらないようにするには、悪口をいわないなどのネガティヴなエネルギーを貯めないことなのである。このような地震で時空の揺らぎが起こり、もしかすると、そのような揺らぎから、海外でも、一種のデジャヴのような、80年代のシティポップが流行っているのかもしれない。そのようなカオスのバタフライ効果ともいえるような話を、お馴染みの「人智学らぼ」の動画で解説していたので以下に紹介する。

三陸沖地震・「時間の滑り」という霊的な現象の仮説 - YouTube


さて、外国人からみた日本文化を再発見させられるので、「ワタシが日本に住む理由」という番組をほぼ毎週みているのだが、先日、禅を描くブラジル人の漫画家を紹介していた。現在は帰化しているらしいので日本人なのだが、画面を見る限り、雰囲気はブラジルの物静かな、さかなクンという感じの人物である。

ワタシが日本に住む理由 - Wikipedia

ワタシが日本に住む理由 | 見逃し無料配信は TVer !人気の動画見放題

この元ブラジル人漫画家をみていて、その作品がなんとなくシュールなのと、禅を漫画で描く斬新さに感激したのだが、そこで他にもいないかググってみると、以下のサイトに出くわした。

「禅の極意」を漫画化してみた| t.oishi


上のサイトで紹介されている漫画の題材は「盗み」なので、あまりよいとはいえないが、禅を『 直覚的な理解より得られる知識で、これを「智慧」と呼ぶ 』と紹介するのは、なかなか的を射ていると思う。しかし、それでもなんだか説明くさいようにみえるので、唯物論に染まっている現代人に、「 智慧は経験を通じて身体の奥底から呼び起こされるものじゃ 」と達摩のような人物に語らせているのはなかなか面白い。

ダルマ・達摩・達磨 | 臨済宗大本山 円覚寺


ちなみに「直覚的」という言葉はなかなかお目にかからないので、AIで調べてみると、以下になる。

「直覚的」のAI回答
直覚的(ちょっかくてき)は、推論や説明を経ずに対象を直接にとらえる知的な把握のしかたを指し、日常語の「直感的」よりも哲学的・専門的な文脈で使われます。

「直覚的」の基本的な意味
判断や推理を積み重ねず、対象を「いきなり」知的にとらえること
感覚的なひらめきよりも、「本質を直接つかむ」ニュアンスが強い
哲学・宗教・数学などの文脈で用いられることが多い (kotobank.jp)

「直感的」との違い
用語 主なニュアンス 使われ方の場面
直感的 感覚的・経験的なひらめき 日常会話、ビジネスなど
直覚的 推論抜きで本質を直接知的に把握する 哲学・宗教・数学の議論など
「直感」は「感じとしてすぐ分かる」イメージ
「直覚」は「概念や論証を介さず、本質を直接知る」イメージ (kotobank.jp)

使用される主な文脈
哲学:カントの「純粋直観」、直覚主義・直観主義などの議論 (kotobank.jp)
宗教・禅:言葉や理屈を超えて「真理を直接見る」態度の説明 (zennooto.com)
心理・思想:論理以前の「直接的な把握」としての直覚を論じる場面 (soai.repo.nii.ac.jp)

類語・関連語
類語
直観的(ちょっかんてき)
直知的(ちょくちてき)
関連概念
知的直観
純粋直観(カント哲学での空間・時間の直観) (kotobank.jp)

日常での理解のコツ
一般的な文章では「直感的」と書かれることが多い
専門書や哲学書で「直覚的」とあれば
「理屈抜きで、本質を直接つかむような知の働き」
と理解すると意味を取りやすいです。』

このAIの回答でもなんとなくわかるが、オカルト知識で要約すれば、五感を超えた「無」の感覚のことで、霊感のことと思われる。この無の感覚というか、物質界を超えた無限大の感覚は、言葉では表現できないもので、だから、禅では、言葉の代わりに公案が持ち出されるようである。

公案 - Wikipedia


俳句などは、禅の公案からはじまったものではないか、と考えているのだが、それらしい逸話を、先に紹介した番組の元ブラジル人の漫画家が、喫茶去(きっさこ)で紹介していたのが印象深い。この喫茶去とは、昔、中国で、「悟りとはなんですか」とある人が僧侶に聞いたところ、「まぁ、お茶でも飲みなさい」といった公案からきた言葉らしい。

とどのつまり、悟りは伝え教えられるものではなく、オカルトでいう、霊感なんで、自分の感覚を無にして、自分で獲得するしかないから、お茶でも飲んで、悟りを知ろうとする欲求をまずは捨て去りなさい、ということなのである。安易に悟りを得ようとするな、という戒めで、無知の知ということのようである。

面白いのは、この漫画家は、漫画を描いてくれと仕事を依頼されるのだが、作品が出来上がっていざ提出すると、その漫画が何らかのトラブルで採用されないという不運に度々出くわしていることで、そのような不運な出来事から、禅語の、無念無想(雑念や欲望を捨て想いを描かない)を学んだという。

そして、日本で、禅語の、自由自在(自分の意志で行動し自然で在ること)で活動するために、ビザなどの申請に囚われないために、日本国籍を取るために帰化したという。そしてまた且座喫茶(しゃざきっさ;答えを急がず一服してから考える)、本来空寂(人は1人で生まれ1人で死んでいく寂しいと感じる必要はない)、水急不流月(水は激しく流れても水面に映る月は流れない)などをイラストで表現する、禅をアートで表現する作家になったという。水急不流月は、信念は揺るがない、もしくは明鏡止水という諺を連想させる。

これらの禅語は、霊感の一種といえるかもしれない。例えば、有名な禅語の、一期一会(一度きりの瞬間に誠心誠意を尽くす)が、この番組で紹介されていたが、これはオカルト知識でいうなら、物質界での人生を、物質界だけで終わらせるのではなく、高次の霊的な体験に昇華させ、端的にいうなら、人智学でいわれている、物質の霊化を目指すべき、という意味になる。

つまり、物質界の出来事は、前世からのいわば引き継ぎなので、その引継ぎを全うし、来世へとつなげていく、いわゆる過去と未来をつなげるのが、いまの自分の役割で、その役割と共に、宇宙の進化に合わせて、霊魂を成長させるのが、人間がいま生きる課題というのを、端的に表現したのが、一期一会なのである。

この物質界のミクロコスモスと、霊界のマクロコスモスとの交流、つまり物質と霊との相互作用を、一期一会と呼んで、愛の交流に昇華させるのが、人間が失楽から楽園に戻る羅針盤となる、いわば霊感を獲得する生き方なのである。

確かに、生まれつき霊感をもつものもいる。とくに前世がカリユガの時代よりも古く、霊感をもっていた時代から転生してきた霊魂の持ち主などで、現代の肉体に入り込めない、生まれつき身体が弱いとか、俗に運動能力に乏しい人などである。

そのような霊能者が、エーテル体が肉体に深く浸透した特有の人体をもつ現代人に、霊能を伝授できるかといえば、人体の構造が、人智学でいえば、エーテル体と肉体のバランスが異なるのでほぼ不可能だろう。また、生まれつき霊能力があっても、現代に適合するために、肉食したり、飲酒したりすれば、エーテル体が肉体に深く浸透するので、人体の構造が変わり、霊能力を失ってしまう。

しかし、霊能力を持たない人でも、自らで修行すれば、霊能力を開発できるわけで、そのために古くからヨガなどが伝えられてきた。禅は、古代インドのヨガが日本に伝わって、形を変えた古代の秘儀参入法で、いわば神秘学なのである。だから、禅の公案には、神秘学の秘密の教えが隠されている。

例えば、先に紹介した以下のサイトでは「経典によって仏教の大意」というのが紹介されている。

ダルマ・達摩・達磨 | 臨済宗大本山 円覚寺

『「経典によって仏教の大意」を知ることです。
その理解すべき真理というのは、「 生きとし生けるものは、凡人も聖人もすべて平等な真実の本質を持っている 」ことに外ならないのです。
ところが、私たちは「 ただ外来的な妄念にさえぎられて、その本質を実現することができぬだけのことだ 」というのです。
 そこで「 もしも、妄念を払って本来の真実にかえり、身心を統一して壁のように静かな状態にたもち、自分も他人も凡人も聖人も、ひとしく一なるところに、しっかりと安住して動かず、決して言葉による教えによらないならば、それこそ暗黙のうちに真理とぴったり一つになり、分別を加えるまでもなく、静かに落ちついて作為がなくなる 」というのであります。
 そして「これを原理的ないたり方と呼ぶ」と説かれています。
この教えが達磨大師のお弟子の慧可大師にも受け継がれていて、慧可大師もまた「 ひとびとの身体の中に、ダイヤモンドのようなブッダの本質が潜んでいる。あたかもそれは太陽のように、それ自体が明るく完全に充実していて、限りもなく広く大きい。 」と経典の言葉を引用して説かれています。
 しかしながら「 ところが、われわれの精神を構成する五つの要素が、重なった雲のようにそれを覆いかくしているというただそれだけの理由で、ひとびとはそれに気づかぬのである。だからもし、智恵の嵐が吹き払うとなると、五つの要素という重なった雲は消え尽き、ブッダの本質が完全に輝き、もえるばかり明るく浄らかになるのである 」と示されています。』

以上のように長々と引用したが、人間は神に似せてつくられたのだから、人間のなかに神があるので、神から、人間足らしめている欲深さを喜捨すれば、神の精神に戻るというわけなのである。この欲深さを演出しているのが人間の五感で、それを支配しているのが潜在意識のなかの、これまでの凡そ一万回の輪廻転生から、おろそかにしてきたカルマの罪で、それが悪魔の誘惑として絶えず囁いているのである。この誘惑に負けずに、いまを生きることで自由にカルマを解消していく、のが、人間の地上での修行なのである。この修行を成就すると、以下のように、悟りも糞もないのがわかる。

無知と智恵とは本質的に別ものではなく、さればこそあらゆる存在はすべてもとのままであると知られるのだ。あの分別にとらわれている連中を気の毒に思うあまり、わたしは、言葉をつらね筆をとって、この文章をつくるのだ。わが身がブッダと別でないことに気付くとき、謂うところのニルヴァーナなどをことさら求める必要がどこにあろうか。 」と説かれています。
 これは『禅の語録2初期の禅史』にある二祖慧可大師の言葉です。』

全ては神の元に平等なのだから、悟る悟らないの区別もなく、ただ「 いまを真剣に生きる 」のが求められるだけなのである。要するに、上下関係などなく、悟った者が偉いわけでもなく、悟りは無限なので、悟りに果てもない。だから以下の真実に還るわけである。

「生きとし生けるものは、凡人も聖人もすべて平等な真実の本質を持っている」

この全ては一なる神に還るカルマの法則を、お馴染みの「人智学らぼ」では、熱力学のエントロピーの法則で解釈しているので以下に紹介して終わる。つまり、禅とは、カルマの法則で、熱力学の法則なのである。そしてそれはエーテルの振動で表現できる。

エントロピーとプララヤ・カルマと物質世界の構造 - YouTube



























この熱力学からもわかるように、熱において平等な真実を探求する生き方が、天から与えられた自分の道を生きることなのである。人間は宇宙の天国を灯す火で光なのである。エントロピーの法則が一期一会の生命を意味あるものとしている。感じるか感じないかは貴方次第!





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Last updated  2026年04月23日 20時56分57秒
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