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あけましておめでとうございます今年から楽天日記は終わりにしてアメブロhttp://ameblo.jp/yogafuku1/で更新していきます。よろしくお願いいたします。
2012年01月07日
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量子力学におけるひも理論の動画をニコニコ動画で見てたんですけどそこで、ふと地球に住むわたしたちひとり、ひとりは地球交響曲楽団のオーケストラの一員ではないか?と思えてきました。精神世界でははるか昔からすべては「宇宙の意志」すなわち「ひとつのエネルギー」でこの世界は構成されていると言われてきました。しかしわたしたちは物質を構成している最小単位いわゆるクォークは「物質」であると信じて疑ってきませんでした。科学では「実証」されないと単なる「哲学」として扱われるからです。そこに現代物理学のひも理論が物質を構成しているのは原子の100億分の1のさらに100億分の1のひも状のエネルギーであるとそしてこの3次元に限らずその他の次元も存在すると唱え始めました。その後ひも理論は5つに分かれその後M理論によってひとつに統一され現代物理学の「主流」になっています。つまり現代物理学においても物質を構成している最小単位は物質ではなくエネルギーであるという流れになってきているのです。このことは精神世界のアセンションに限らず地球全体の流れが「ひとつの方向」 に向かっているんだなと感じました。(しかしながら ものすごく 小さな分野を説明するには 量子力学はすごく有効だけど 惑星単位の大きな分野を 説明するには 相対性理論のほうが有効で この2つの理論を 統一するために ひも理論を さらに進化させることが 今の物理学の 課題です。 ブラックホールを 説明するのに この2つの理論では 矛盾が生じるのです。)けれどもわたしたちは間違いなく「本当のことを知る」流れに乗っているのだと思います。わたしたちは自分と同じレベルのひとと出会います。この「同じレベル」というのは「同じ周波数」ということです。そして周波数はエネルギーの動きによって決まってきます。そしてエネルギーの動き(周波数)を決めるのはそのエネルギーが出会う「かたち(次元)」です。「ひと」に置き換えるならその「かたち(次元)」はそのひとが何を信じているか?です。すなわちそのひとが採用する「考え方」です。「信念」といってもいいかもしれません。あなたがすごいと思うひととあなたが持っているエネルギーは「同じもの」なのです。そこにある「違い」はそのエネルギーを自分の中の「どんな考え方と 出会わせているか?」なのです。そこをふまえた上でかなり脱線しましたがオーケストラというところに戻ります。オーケストラにはいろんな楽器があります。そのいろんな楽器がそれぞれの役割をきちんとこなして初めて「ひとつの曲」が演奏できます。そこでオーボエやティンパニーやビオラの役割のひとが「やっぱりバイオリンがやりたい」「やっぱりピアノがやりたい」「やっぱり指揮者がやりたい」と言い出したらもう曲を演奏するどころではなくなると思います。地球に住むわたしたちを地球交響曲楽団のオーケストラの一員にたとえてそれぞれに与えられた楽器をそれぞれに与えられた自分の個性とした場合その楽器を演奏することに(この自分を発揮することに)務めるひとがひとりでも増えていくと今まで文句をたれていた楽団員たちもしだいに「全体の流れ」に従うようになってやがて「調和(ハーモニー)」が生まれるような気がしません?「あのひとは得した」「自分だけ損した」から「みんなで一緒に 楽しまない?」と自分の意識が変わったとき初めて自分が地球交響曲楽団のオーケストラの一員であったことが思い出されるような気がするのです。周りがどうだろうと社会がどうだろうと政治家がどうだろうと「自分はどうありたいの?」「自分はどうふるまいたいの?」「それを するの? しないの?」ただそれだけなんだろうと思うんです。兵器を作り放射能をまき散らしからだによくないものを平気で食品に混ぜる利益がすべて効率がすべてのこの世の中を変えたいと思ったらあなたがあなたをどれだけ大切に扱うか?そこから始めていくしかないんです。
2011年12月29日
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こころの傷を癒す方法ってひとそれぞれあると思う。これが正解ってないけどわたくし個人が思うにこころの傷って癒そうとせずさらけ出したほうが治りが早いような気がします。カウンセラーさん等と出会って人生変わるひとが多いけどそのカウンセラーさんのおかげじゃなくてひょっとしたらそのカウンセラーさんにこれまで隠してきた自分をさらけ出すことにOKをあげた自分のおかげかもしれない。ということです。恩義を感じることとそこに上下関係を作ってしまうことはまた別のことだと思うのです。救ってくれたひとも救われたわたしも同じ赤い血が流れている同じ人間。救われたことに感謝しつつも救ってくれたひとと同じ「人間」である自分の尊厳も同時に見つめていく。でないと自分をどこか他人より下に見る自分から卒業できない気がするんです。本当の救いって「自分が自分を どう扱うと決めるか?」そこにしかないような気がするんです。だって24時間自分とつきあってくれるのは自分だけだから。自分を大切に扱えない自分の穴埋めを自分を大切に扱ってくれる他人に求めていたら「その他人の都合に 合わせる自分」しか待っていないから。本当は誰も自分を誰かより下なんて思いたくないはずなんです。けどそう思ってしまう。それはそう思うことで「何かと向き合わなくてすむ楽」を得られるからなんです。けどあなたが本当にしたいことは「楽」することではなく「自分を発揮すること」のはずなんです。
2011年12月28日
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これから変わっていくんだね。何度も輪廻を繰り返して「これが自分」と信じてきた自分が「幻」だったと思い出すときが来たんだね。「あるがまま 受け止める」ということはその出来事と自分が「ひとつ」になるということ。そこに「自我」は存在できない。「その出来事を 受け止めよう」「その出来事を 受け止められる 自分になろう」と思っているのは実は自我。だから本当にこころから受け止めることができない。自我とはそれほど巧妙なもの。なぜならあなたが何かとひとつになる体験をしてしまったらもう自我はあなたを支配できなくなってしまうから。生きている間に自我の支配を超える。それが生きながら死ぬということ。これまであなたが何度も輪廻を繰り返し死の間際で感じてきたものを生きている間に体験することが可能な時代(段階)にあなたはやってきた。これまで本当にご苦労さまでした。もう同じところをグルグル回ることに本当に飽きたならどうか自分に素直になってください。自分に素直になることは自分に素直にふるまうことはとても怖いこと。今まで自分に素直になっていろんな大人からさんざん傷つけられいやな思いをたくさんしてきたから。素直な思いを出すたびに必ず裏切られてきたから。だからもうこれ以上傷つくくらいなら素直な自分を出すことをやめてしまおうとあなたは固く固く誓ってしまった。けどそうしたら傷つくことは減ったけどどこか息苦しいすっきりいかない人生が現れるようになってしまった…もう!!!どうしたらいいの!!!やっぱり自分に素直に生きるしかないんよ。だって自分には自分しかないんやから。だから他人がそうするあなたに何を言おうとそうしたいあなたの味方にあなたがなってあげへんかったら自分は救われることはないんよ。それにかつて素直な自分を出して傷ついたときと今とではあなたも環境も時代もまるで違うものなんよ。だからもう一度できるなら素直な自分を出すと決めてみません?これからの自分をハッピーライフの中に置くために。ハッピーライフって望む結果を得ている自分じゃないんよ。自分に嘘をついていない自分で生きている自分の「ありかた」なんよ。「自分に嘘をつかない」これ以上のよろこびってひとにあるのかしら?↓よかったら見てね♪「Validation」http://www.youtube.com/watch?v=IIBzU9V_p8w&feature=autoplay&list=FLPstpw0irZjjsQLrFhuamiQ&lf=plpp_video&playnext=2
2011年12月27日
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笑いたい奴は笑え!!!けなしたい奴はけなせ!!!馬鹿にしたい奴は馬鹿にしろ!!!このなさけない何もできないみっともないこれがわたしだ!!!!わたしはわたしを本気で生きてやる!!!!!
2011年12月26日
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いやぁ~~~寒いでんなぁ。わたしの住む地方は今年一番の雪でした。うちの家はすきま風ピュ~ピュ~で外気温と室内温が同じなので(笑)部屋の中でもダウンジャケットを着ています(笑)でも寒い!(笑)前回の日記で「生きてるだけでいい」って書きましたけどなかなかそうは思えないと思います。「生きてるだけでいい」って思い通りにいかない人生を「生きてるだけでいい」って言って自分をごまかすための方便じゃなくてそれは「自分に安住する」という意味です。みんな違うじゃないですか。自分とまったく同じ人間はいないじゃないですか。ほんでどんだけ他人をうらやましいと思っても自分は今回与えられた自分でやっていくしかないじゃないですか。どんだけ他人をうらやましいと思っても他人にはなれないんだ!自分は今回与えられた自分でやっていくんだ!と腹をくくる。そこがスタートラインだと思うんです。そのスタートラインに立てて初めて自分がどうありたいのか?どうふるまって生きていきたいのか?が見えてくるような気がするんです。そのスタートラインに立てて初めて「何ができる」「何ができない」「何を持っている」「何を持っていない」そこにはない自分の価値が見えてくるような気がするんです。社会的な価値と照らし合わせて見えてくる自分とまた違った「思いもよらぬ自分」とでもいいましょうか。わたしはこの自分でやっていくんだ!と腹をくくる前に自分を否定して「この自分」ではない「何か特別なもの」にずっとなろうとしてたからこれまでずっとうまくいかなかったんだろうなと思います。だから「恥ずかしい自分」「なさけない自分」「みっともない自分」をもう「隠す」ことはやめていこうと思います。それらも「この自分」。それらを「隠す」ことは自分の「歪み」につながっていくと思うから。
2011年12月26日
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あなたは何ひとつ間違ってないよ。だってあなたは「生きるために」生まれてきたんだから。だからまず「思いが叶っていない」とか「ひとの役に立ってない」とか「やりたいことが見つからない」とかそういう立場から離れて「生きるために」生まれてきたという自分の一番の思いが「すでに」叶っていることに目を向けよう。本当は自分は生きてるだけでOKやったんよ。けどだんだん何十年も生きてるとそれが当たり前になってきてその間にいろんなひとからいろんな考えを刷り込まれていつしか生きてるだけじゃだめで「何かをしている自分」でないと罪悪感を覚えるようになってしまった。あなたもわたしも。けど本当は自分の使命を見つけられなくても何かを成し遂げなくてもひとの役に立たなくてもひとと比べてどんなにいたらない自分でも自分は生きてるだけでOKやったんよ。どんだけ苦しい人生を送っていても「わたしの人生は 何ひとつ 間違ってないよ。 だって わたしは 「生きるために」 生まれてきたんだから。」そう自分にこころから言える自分になれたらどんなにこころが軽くなることだろう。その自分はどんだけ思いが叶っていなくとも自分が生きているということによろこびをみいだしているのだから。理想に近づくことに価値を覚える自分から自分が今生きていることそのものに価値をみいだせる自分になれたら今の自分がどんなにグダグダでも胸を張って生きていけることだろう。何も変えなくていいんだよ。このままでいいんだよ。「生きるために」わたしは生まれてきたんだから。そう自分にこころから言える自分になれたらどんなにこころが軽くなることだろう。ひとからどんな評価を下されようと「そうですか」「あなたはそう 思いたいのですね」けどわたしはあなたにとって都合の悪い人間でもわたしを「生きるために」生まれてきたのですからご期待にそえなくてごめんあそばせ。そう自分にこころから言える自分になれたらどんなにこころが軽くなることだろう。「な~んだ ただ 生きてるだけで いいんだ」このシンプルなことに自分で自分に「許可」がだせたときひとのこころはどんなに軽くなることだろう。
2011年12月23日
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「何処へ行こう?」「何処にだって行けるでしょ?」「本当に?」「本当に行けないと 思っているの?」「でも…」「でも…何?」「・・・」「行きたいの? 行きたくないの?」「できることなら…」「できることなら…何?」「・・・」「本当はどうしたいの?」「・・・」「何が怖いの?」「もうこれ以上 傷つきたくない… 失いたくない…」「だから行かないの?」「うん」「それでいいの?」「だってこれまで 挑戦して うまくいった ためしがないから」「だから 残りの人生 あきらめるの?」「うん。 これだけやって だめだったんだもの」「そう。 あなたがそう決めたなら そうしたら?」「うん。 そうする」「それで あなたに残るものは 何?」「えっ!?」「いろんなものから 逃げたら あなたはもう 傷つかなくてすむ。 けど もうこれ以上 傷つかない自分になることが あなたの 本当の夢だったの?」「どういうこと?」「いろんなことを あきらめてまで もうこれ以上 傷つかない自分になることが あなたが 本当に なりたかったあなたなのか ということを 聞いているのよ」「できることなら 僕も 思うような自分で 生きたいさ! けど そんな現実は 何をどうしても 僕の目の前に 現れないんだから どうしようも ないじゃないか!」「けどさ 『できることなら 僕も 思うような自分で 生きたいさ!』 と言いながら あなたは そのことを とっくに あきらめてるじゃん」「だって…」「だってじゃないよ! あんた 本気でそのことを 思っているのかい? そこに行きたいのなら なぜ そこだけを 目指さないんだい? そこに行く途中に 1回や2回 思うようなことが 起きなかっただけで 簡単にあきらめることが あんたの本気 なのかい?」「・・・」「出会った結果 じゃ ないんだよ。 結果を気にするから あきらめが 出てくるんだよ。 大事なのは どんな結果と 出会おうと 最初に 自分に 芽生えた思いを どれだけ 大切にしてあげられるか? それが 自分を大切にする ということなんだよ」「けど 自分が望まない 結果とばかり 出会っていると やってられないです」「だとしたら それが あんたが本当に望んでいるもの かもしれないね」「どういうことです?」「ひとは どんだけ 拒もうが 自分が 必要としているものとしか 出会わない ということさ」「わからないです」「わからなくていいさ。 わかろうとせず そこで感じるものを 正面から 感じたらいいのさ。 本当のことは 理解ではなく 体験の中にだけ あるんだから。 そこに 判断をからませるから 自分で 自分の人生を ややこしいものに してるだけなんだから」
2011年12月20日
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できるなら別ウインドウでhttp://www.youtube.com/watch?v=7a657CRRZaEこの曲を流しながらこの日記を見てください。高橋優『福笑い』http://www.youtube.com/watch?v=7a657CRRZaE作詞 高橋優 作曲 高橋優 唄 高橋優 あなたが笑ってたら 僕も笑いたくなるあなたが泣いていたら 僕も泣いてしまう難しい顔 難しい話 今ちょっと置いといて笑えますか?きっとこの世界の共通言語は 英語じゃなくて笑顔だと思う子供だとか大人に関わらず 男だとか女だとかじゃなくあなたが今楽しんでいるのか 「幸せだ」と胸張って言えるのかそれだけがこの世界の全てで 隣でこの歌唄う 僕の全て奪い合うことに慣れ 疑い合う人で溢れそこで誰か泣いていても 気に留める人もいない・・・どれを切り取って”人間らしさ”って呼べるか分からないけど誰かの笑顔につられるように こっちまで笑顔がうつる魔法のように理屈ではないところで僕ら 通じ合える力を持ってるハズあなたは今笑っていますか? つよがりじゃなく心の底から憎しみが入る隙もないくらい 笑い声が響く世界ならいいのにその姿形ありのままじゃダメだ!と誰かが言うそれにしたって笑顔は誰も ありのままにゃ敵わないきっとこの世界の共通言語は 英語じゃなくて笑顔だと思う笑う門に訪れる何かを 愚直に信じて生きていいと思う誰かの笑顔につられるように こっちまで笑顔がうつる魔法のように理屈ではないところで僕ら 通じ合える力を持ってるハズあなたがいつも笑えていますように 心から幸せでありますようにそれだけがこの世界の全てで どこかで同じように願う 人の全て
2011年12月17日
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今日は(今現在の時点では)日本で2か所しかないといわれている磁場ゼロスポットのうち2番目に発見された松江の磁場ゼロスポットに行ってきました。たまたまとあるひとのブログを読んで(中古車屋のカミサマね(笑))その存在を知って自分が米子に行く用事があったのでそのついでに次の日に行ってみました。事前にネットを調べるととあるサイトで 「松江しんじこ温泉駅の西側に城西公民館があります。 公民館の西側に天倫寺があり、その右側の坂道を上がります。 100m程上ると右側にサウナオアシスがあります。 すぐ下り坂になって100m進みまた上り坂になります。 左側のがけ上に家が見えてきます。 と10段くらいの石段があります。 その石段をあがると、のぼりが立ち並んでいます。 それに従って進むと、ゼロ磁場に着きます。聖地です。」 という記述を見つけ松江しんじ湖温泉駅から簡単に歩いていけるんだろうと駅の近くに車をとめてその指示のとおり歩いていきました。ですがとんでもない間違いでした。今日の松江は雪が真横に吹くような暴風と雪でした。その中びしょびしょになりながら1時間以上歩くことになりました。車で行くひとなら現地近くまで車でいくことをおすすめします。誰もこないこのブログをたまたま読んでそこに行きたいと思う人がひとりでもいた場合のことを思いここで松江の磁場ゼロスポットパーフェクトガイドをお伝えします。まず松江しんじ湖温泉駅のタクシー乗り場や駐車場のある側に立ち松江しんじ湖温泉駅を背にして前を見ると山陰合同銀行と一畑電鉄ビルに挟まれた一本の道があります。その道を進みます。すると左手に「岡本旅館」の看板が見えますのでその看板の手前の筋を左に曲がります。そこから600メートルほど進むと右手に城西公民館があります。そこから100メートルほど進むと右斜めに行く道がありそこを行くと天倫寺に上る石段が見えるのでその右の道を行きます。すると右側にサウナオアシスがあってそのあと道が2つに分かれます。左の登り道のところが駐車場で右の下り道を200メートルほど行った右手の赤いのぼりが並んでいる階段が松江の磁場ゼロスポットの入口です。入るとそこを発見した山伏のおっさんの顔写真入りの電話番号入りの「私有地だから1000円払え」だの「見学だけで立ち入るな」だの「気がどうたらこうたら」だのいっぱいパウチした張り紙が見えてきます。その山伏のおっさんがいなかったので奥に入ります。すぐに磁場ゼロスポットに到着します。ほんと住宅街の中です。荒れた竹林の竹が無造作に倒れています。きたない椅子がいくつもあって黒い水が入ったバケツや台の上に水の入ったペットボトルがいくつも放置されています。見るからに「汚い」です。正直なところこの土地に「愛着」を感じているひとの仕業とは思えませんでした。そこのすぐ上には役行者の石像や弘法大師の石像がおまつりされていました。わたくし個人の率直な感想を言います。はっきりいってこの土地のエネルギーはわたしがこれまでいろんな土地やいろんな樹木で感じてきた癒しとか元気をくれるとかそういったたぐいではなく「そのひとをチューニングする」とでもいえばいいのでしょうか。そのひとを「フラットな状態にしてくれる」エネルギーです。それは確かに感じました。わたしが今までに感じたことのないエネルギーでした。だから自分が何かを決断する前にこの土地のエネルギーに触れることは有効だと思います。けどそれよりもこの土地に触れて感じたことは竹林も管理されず道路や住宅で地脈がズタズタにされて本来のエネルギーではない状態でなおかつこの土地を発見したと豪語している自分はひとよりも特別な存在と思いお金を強要して一方的に自分の価値観をひとに押し付け毎月行う護摩炊きに使うヒノキの葉を上から目線で他人に提供を求めるようなこの土地を管理する山伏(わたしは実際このひとの ブログを読みました)にさらに土地を汚くされながらもこの土地がその山伏がしたいようにさせて抵抗せず自身をゆだねている様に「ここを訪れるひとが ゼロ磁場だとか エネルギースポットだとか そういうものに 自分とは違う 「特別性」を感じて 自分にはないものを 「補おう」として来ているの だとしたら それは違いますよ。 あなたは あなたが思う以上に すばらしいのです。 どうか 自分を信じて 「外」に 求めないでください」その思いを伝えたいからあえてその山伏に好きにさせているその土地の思いを強く感じました。 自分が汚された。傷つけられた。そんなことも気にも止めず自分の伝えたいことを伝え続けることを貫き通す。わたしにはまだまだ無理ですけどその姿勢にこの土地から「愛とは何か?」ということを見せてもらった気がします。自我に溺れこの土地を汚し続ける山伏がいてくれたおかげでこの土地の存在をわたしは知ることができました。そのことにわたしが感謝できる機会も「すべてをわかったうえで」自身を山伏に好きにさせているこの土地が与えてくれたものでした。愛ってごっついなぁ。この土地にとったらこの山伏も愛おしくてどうしようもない存在なんやろな。
2011年12月16日
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そのひとを好きになる。そのことはいずれそのひとと別れるときがくるということを含んでいる。だから別れのつらさや受け入れてほしかったひとに受け入れてもらえなかったつらさを抱えているひとほどまた自分が誰かを好きになることに無意識にブレーキをかけてしまうのかもしれない。あきらめている自分より誰かを好きでいる自分のほうが自分は好きなことをどこかで知っているはずなのに…木蘭の涙http://www.youtube.com/watch?v=L2yQjmbq9iA&feature=related
2011年12月13日
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実は最近わたしがいてくれたからという理由で目覚めたひとが2人もいるんですね。(目覚める=自分が180度変わる)主にメールのやりとりだけで実際には会っていないのですが。わたし自身まだ自分が180度変わるといった体験をしていないもんですからそれを聞いてもわたしが「きっかけ」を与える役割だからなのかなぁと思っていました。そんなときイギリスに住む日本人のひとがたまたまわたしのブログを見たらしくコンタクトをとってきて1回スカイプでお話しして旅行中に突然呼吸困難になって8回も死にそうになった話しとかせきやのどの痛みが取れないという話しになってそのあと気になったから~~~~~~~~~~~~○○○ 元気かい!? う~ん(リーディング中) まだ 右側の のどの痛みがひいていないようだね。 ねぎを刻んで 岩塩をまぶして(波動の高い塩で)それをガーゼにくるんでのどにあててタオルか包帯を巻いておくのだ。 ヒリヒリするのは長年それだけのものを積み重ねてきたということなのだ。 けど、あともう少しなのだ。 長引くのはまだまだ本気で自分に「ごめんなさい」が言えてないからなのだ。~~~~~~~~~~~~~~~~というメールを送ったんです。すると~~~~~~~~~~~~~~~~よがちゃんありがとう!!!!メールしようと思ってたんだー。昨日DRにあって確信したよ。やはり浄化とこびりついた長年の・・・だと!各場所での窒息もまさかの自分の仕業!??ガウデイとのコラボなんて自分、愛されてるよねー。dr曰く、喘息じゃないし、ダイビングするころは元気になってるよ。と。。。色々親身に話きいてくれて、女医さん(かかりつけ)かっこいいぜーーーーーー!!!!で、いまだかつてない、薬を処方されなかった。ただうがい薬買ってウガイシナサイ。って薬の名をかいてくれてダイビングのレター書いとくね!っていってくれた。からだはパアーフエクトだってーーーまたジャー何年後かに会いましょう!ってー(それほど医者いってない最後2008年)もうひといき!脱皮まで!!!!本当の自分まで!!!!お帰り自分、おつかれさん、概念の旅楽しかったかい!???~~~~~~~~~~~~~~~~~という返事が返ってきました。DR ってのはドクターのことなんやろね。ほとんどのひとは「有名」 = 「実力がある」 = 「対費用効果が期待できる」ということで「有名」 を 訪ねるんやけど年に数人 たま~に有名か無名か関係なしにわたしのブログを読んで自分の感覚を信じてわたしにコンタクトをとってくれるひとがおるんよね。そういうひとにはわたしはその道のプロやないから無料でエネルギーの側面から物質の側面からエゴの側面から宇宙意識の側面からそのひとの今の段階を見極めてそのひとが受け取りやすいように表現を工夫して今まで積み上げてきたわたしのすべてを提供してるんやけど実はそこには必要とされてうれしい自分もおるんやけど(笑)年数人なんで総数は少ないんやけどメールなりスカイプなり電話なり有名か無名か関係なしに自分の感覚を信じてわたしにコンタクトをとってくれたひとで目からウロコが落ちなかったひとがひとりもおらんのよね。自慢に聞こえるかもしれんけどほんと100%結果出せてるんよ。不思議なことに。なんなんやろこれは?わたしがそういうことをするひとならそういうことをして食べていける道がついているはずなんよね。けどどうやらそうでもないみたい。ということはわたしにとって自分がそのひとが今、何につまづいているのかが会ったことがなくても少しやりとりを交わせばありありとわかってカウンセリングやヒーリングやリーディングができるということは自分にとって「趣味」 なのかな?わたしはこんなことを書いて自慢したいのやろか?それとも求めるひとが少ないのにこんな能力があることに疑問を感じてるだけやろか?わからんなぁ。わからんけど何か理由があるはずやねん。けどそう書きながらもただ認めてほしい自分がいるだけのような気もするなぁ。それで食っていけなければその能力に価値はないという価値観に縛られている自分もいるような気がするなぁ。う~ん。これだけの苦労をしてきた自分はこれだけのことができる自分は「すごいんだぞぉ~~~」って言いたいだけのような気がするなぁ。うん。そやな。そうやなかったらこんな内容の日記書こうと思わへんわ。まだまだ俺はすごいと言ってほしくて認めてほしくてそれで自分の価値を作ろうとしてるんや。うん。それが今の自分なんや。OK!了解!(ブ)ラジャー!それが今の俺の段階なんや。俺は認めてほしい~~~~~~すごいと言ってほしい~~~~~~必要とされたい~~~~~~~~~~~そのことによって自分を確認したい~~~~~~~~~~自分に価値をつけたい~~~~~~~~最初の落としどころと違うところにいきついたから「そろそろ」というタイトルが意味不明のものになってしもうた(笑)
2011年12月13日
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今の自分を知るってめっちゃ大事やと思うわぁ。精神世界の本を読むとかセミナーに参加するのって「地図」をもらいにいっているのと同じやと思うねん。たとえば見知らぬ土地での旅行で迷った時地図があったらどうやって進んでいけばいいかわかるはずなんやけど「自分の現在位置」がわからんかったら地図があっても役に立たへんやん。そんなときどうする?最初に聞いたひとに「知らん」と言われても「知っているひと」に出会うまで「現在位置」を聞くやろ?そうやって「現在位置」を知って初めてその地図が役に立つようになって「目的地」に行けるようになるわけやん。そのときの現在位置をひとに尋ねている行きたいところに行きたいと思っている自分に恥ずかしいとかみっともないとかそういう気持ちはないと思うねん。それは見知らぬ土地やから知らないのはあたりまえやんと「知らない自分」を「素直に受け入れている自分」が自分の中におるからやと思うねん。何が言いたいかというとどんだけ本読んでもどんだけセミナー行ってもなんか変わらんなぁというひとは自分で自分のことを「知ってる」「わかってる」と思ってるひとやねん。そういうひとは「今のわたしは どんな自分ですか?」(わたしの現在位置はどこですか?)という質問じゃなくて「どうすればいいのですか?」(どの電車に乗ればいいのですか?)という質問をいきなり相手にしてしまうねん。けどいきなり「どうすればいいのですか?」(どの電車に乗ればいいのですか?)という質問をされても質問された側は「あなたはどうしたいのですか?」(あなたはどこに行きたいのですか?)そう答えるしかないと思うねん。ひとは生まれたときから片時も離れず何十年も自分とつきあってきた自分が自分のことを一番よく知っていて一番よくわかっていると思っている。けど本当は自分のことを知っていているのでもわかっているのでもなく「自分とはこういうものだ」という「勝手な思い込み」がそこにあるだけなのかもしれないということやねん。他人には「もっとこうしたら」ということがよく見えてくるやん。けどいざ自分のことになると「どうしたらいいのか・・・」ということが多くないですか?ひとって鏡や水などの自分を映し出すものがあって初めて自分を見ることができて他人だけが自分の後ろ姿をまじまじと見ることができる。そういう存在だと思うんですね。見知らぬ土地で「道を知らない自分」を素直に受け入れて素直に道を尋ねている自分と同じように「自分は自分を 知っているようで 本当は 知っていなかったんだ」と素直な気持ちで「あなたには今のわたしが どう映ります?」と聞けるあなたになれたときその答えに左右されずあなたが溜め込んできた地図を活用できるときが始まるのかもしれません。あなたがこれまで蓄えてきた知識や経験は他人より優位に立って優越感を覚えて自分の無価値感を補うためにあったのではなくわかっている自分とわかっていない相手との間に「違い」を生むためでもなく「自分は自分を 知っているようで 本当は 知っていなかったんだ」そのことを知るために知ってきたことなのです。「無知の知」(自分が何も知らなかったことを知る)「素直」にそれを受け入れる自分になる。それが地球上で「悟り」と言われているものを得たとしてもまだまだ続く過程の中の第一段階です。わたしたちには肉体レベルで思う「愛」すらも「概念」である。そこを超えていかないといけない道も用意されているのです。だからいきなり高みを目指さずしっかりと自分の現在位置を知る。そしてそうしてしまうのがこれだけ未熟なのが現在位置の自分だ!と勇気を持って承認してこの人生でその自分をやりきる覚悟を持つ。それが「自分のレベルが上がらないと 自分は救われない」という「価値観」から抜け出す方法です。ひとはいまここの未熟でどうしようもない自分を「それでいい」とこころから言えるようになれて初めて何も変える必要はなかったということを知ることができるカラクリの中で生きています。自分の人生は他人に左右されるものではなく主導権はいつもあなたにあるのです。それを忘れたあなたが他人から左右されていると錯覚しているだけなのです。どれだけ他人から圧力を受けても最終的に「そうする」と決めているのはあなたなんです。大切なのはあいつがああしたからこうせざるをえなかったではなくあいつがそうしたときなぜ自分はそうすることを決めたのか?という自分の中の決める仕組みを知ることなのです。そこに自分を自由にする鍵があるのです。
2011年12月12日
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これまで出会ってきたいやなこと苦しいことそのすべてがぜんぶ自分が創造してきたことだったとしたら。いやなこと苦しいことぜんぶそれらを体験したい自分が望んで創造してきたとしたら。これまでの人生は完璧に願いがかなってきた人生だったことになります。そして自分の人生の創造主は自分だったということになります。(これまでの)自分の人生の目的そのものがいやなこと苦しいことを体験することだったんだ。そのために無価値観欠乏感といった便利なアイテムを自分に用意する必要があったんだ。なんかそういった思いが今わたしの中にあります。ほんの少し前まで自分が自分の人生を創造しているのなら自分が苦しいと感じるものを創造するはずがない!ハッピーなシナリオを与えられているやつだけが得をするんだ!そうわたしは思い続けていました。けど自分の目的そのものが苦しいやつらいを体験することそのものだったんだということがひとから言われて不思議に違和感なく受け入れることができてなぜ、苦しいやつらいを体験することを目的に設定したのかその理由はわからないけど「自分が」体験したがっていたんやから誰も責められへんよな。しかたないよな。と過去に対する決着が90%強、ついたような気がします。(当社比)(残り数%は、おとうちゃんと、おかあちゃん。 あん♪ いややわぁ~。 きっついわぁ~。 向き合いとうないわぁ。 もう!いけず!(笑))そしてもうわたしは苦しいやつらいを体験することにおなかがいっぱいみたいです。だから次に体験したいことを創造する方向に自分をシフトしていく時期に来ているような気がします。こんなにも今でも自分の中に「怖い」がいっぱいあってぜんぶ「怖い」で動いてきたことをようやく感じ取れるようになってきました。そしてその「怖い」は「怖かったんやねぇ」とただそばでじっと感じてあげるだけでいいのだと思います。そうそう。よがちゃんは小心者のビビリやねん。だからこれからもうんと怖がってええねん。怖いけどこれからもこの肉体をお返しするそのときまで歌ったり踊ったり肉体があるからこそできることをいっしょにやっていこうな。
2011年12月11日
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結局は「怖い」から逃げたい。恥ずかしい自分を見られたくない。みじめな思いをしたくない。もうこれ以上傷つきたくない。そういうところから始まっていたのかな。本当はあきらめたくはないんだと思う。けど「まただめだった」ともうこれ以上傷つきたくないから初めからあきらめる自分が自分を守ってくれていたんだろうな。わたしのように感受性の強いひとは何度も何度も「まただめだった」と出会うとつらいよね。一度くらい小さな成功体験でもあればと思うよね。ひとりでも無条件にわたしを愛してくれるひとが現れてくれたならと思うよね。「こうだからこうなった」と自分以外のどうしようもない力で自分がこうなってしまったと信じているうちはこれからも苦しいは続くのかもしれない。「こうだから こういうことを わたしは 感じてしまうのです」というところから「なぜ そのことに対して わたしは それを 感じているのか?」という「逆転の発想」を持てたときまたそのことに対する「違った見方」を持つことができるようになるのかな?わたしのように自分を守るために言いたいことを言わない感情を表にださないそうやって「相手にとって都合のいいひと」をずっと演じ続けていると感覚が麻痺して「自分はどうしたいの?」ということが自分でもわからなくなってくる。そしていろんなことを「これがわたしだから」「これがわたしの 人生だから」と「しかたない」のひとことでますます「あきらめ」を深めていく。そうしてしまうのはこういうことがあったからではなく何が起こったとしても自分を大切にしてこなかったあなたが招いたことなんですよと面と向かって言われてしまうことから逃げたい自分がいるからかな?「わたしは悪くない」「いきなりこうされた」「どうしようもなかったんだ」「あいつは 何もしていないわたしも こうも傷つけたんだ」それを言いたいがためにそれをみんなに主張して「そうだね。 あいつが悪いよね」と言ってもらえる自分であるためにもうそいつらから傷つけられてない今でも自分を「だから苦しいんです」と言い続けられるような状態に自分を置き続けることにわたしは何を求めているのだろう?思い出せないけど幼いころは「わたしの生きたい生き方」がわたしの中にあったと思う。それを阻止する敢え無い(あがなえない)力にわたしは恐怖を覚え次第にその力に服従することで恐怖から逃げる手段をわたしは覚えていったのだと思う。それを長年繰り返すことでその生き方が「習慣」となって今でも無意識にわたしを突き動かしているのだろう。「無意識の怖い」を避ける生き方でわたしが得たいものとわたしが「本当に得たいもの」との違いに気づける自分でいるためにはわたしは何をどうしないといけないのだろう?こう書いて出てきた言葉が「素直」。けど動きたいように動いてわたしが出会った現実は自分が傷つく現実しかなかった。それらもわたしが「素直」に動いていなかったからだったのだろうか。それともわたしの「受け取り方」が歪んでいたのだろうか。言葉が降りてくる。「過去どうだった ではなく 今どうしたいのか? それがすべてです」と。けど今のわたしはまだこれだけ思い通りにいかなかった人生で今どうしたいのか?に従ってもまた傷つくだけという強い思いがぬぐいきれない。まだまだ「自分が出会う現実がすべて」そこから抜け出せないわたしは「自分が出会ってきた 現実がすべて」だからこれまで何度も思いを改めて挑戦してみても結局根本のところは何も変わらなかったからこの先また何かアクションを起こしてみても「これから自分が 出会う現実」を一切信頼できない。別のところで「信じたい」自分がいるのは感じているのに信じられない。「信じて やっている自分」でいれば「楽にやっていける自分」がいることはわかっているのに「数年、十数年と 人生のほんの一時期苦しい 他のひとのシナリオと 人生ずっと 手を変え、品を変え苦しい お前の与えられたシナリオは 他のひととは違う 特殊なものなんだから また、信じてしまったら また 『今度もだめだった』 と 思う現実が待っているだけだよ」と思う自分が自分を支配する。叶うか叶わないかではなく「そうなる」ことをただ信じてみたらいいのかな?信じるはただ信じるで「信じられる自分 になるための条件」を自分に複雑に与えていただけなのかも?「ただ、そうなる」ということを信じている自分であるためにはあれこれ考えない「素直な自分」であらないと。たぶんそうなんだろうな。自分が「素直になれない理由」を他に押し付けているうちは苦しくて、「苦しい」は自分に「素直になろう」ということに目を向けさせるための「ギフト」なんだろうな。でわたしのように自我が強いひとほど(プライドが高いひとほど)極限まで「苦しい」を味わうんだろうな。うん。何の根拠もないけど今、叶うか叶わないかではなく「そうなる」ことをただ信じてみたらいい。そう思える自分がいてそうしてみようと思う自分がいる。自分が思う時期とそうなる時期が違っていてまたこれからも宇宙を呪い自分を責めだすんだろうけどそのときはうんと宇宙を呪い自分を責めよう。だってそのときのわたしはそうしたいんだろうから。どれだけ苦労してきてもそれと自分の価値は関係ないことを受け入れよう。過去わたしを傷つけてきた誰よりもわたしを粗末に扱ってきたのはわたしでした。生まれて初めてこころから自分に「ごめんね」が言えました。京さんありがとう。
2011年12月09日
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フィギュアスケートに夢中な猫http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=y_EAAkaDBhA
2011年12月08日
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たまたま立ち寄ったレンタル屋でアリエッティが借りれたから見てみました。従来のジブリファンから見たらあのキャラ設定(特にアリエッティのお母さん)やシナリオは(宮崎駿の当初のシナリオを 今回の監督が変えたところ)はNG部分が多いと思うけど「宇宙」はこの作品が世に出ることを選びました。わたしもこれは「ジブリ作品」としてではなく監督単独のレーベルで出してほしかったと思ったうちのひとりですが同時にこれが「世代交代」のときに「これまで」のひとが感じる感覚なのかなとも思いました。そこからレンタルDVD熱がついてしまってナウシカハウル紅の豚魔女の宅急便と立て続けに過去の作品を見ました。今も昔も魔女の宅急便だけは飛べるようになった後でもなぜジジの声が聞こえないのかその説明だけはしてほしいという違和感が残るのだけれどもハウルのラストの過去の回想シーンの意図やキスシーンの意味がよくわからないのだけれどもナウシカと紅の豚は今見てもすばらしかったです。かつて宮崎駿は紅の豚を作ったあとあれは完全に個人的な趣味で作った作品なので世に出すべきではなかったとコメントしていたけどわたしはそうは感じません。これからも「豚が雲を引いた」あの場面のあのセリフと共にある感動はわたしの中に残ると思います。トトロも千と千尋ももののけもラピュタも大好きです。ただもののけは設定が壮大すぎて上映時間の関係上宮崎駿が描きたかったことの3分の1も描けてないだろうなということとラピュタはラピュタにたどり着いてからが短いのがわたし的には残念という思いがあります。わたくし個人の思いとして宮崎駿作品の根底に流れているのは「女性の持つ強さ」であってそこに触れることで男は「ホッ」とするのだと思います。それを求めてわたしはときおり無性に宮崎駿作品が見たくなるのだと思います。そのあと実写版宇宙戦艦ヤマトを借りました。わたくし個人の意見としてはどこを見て作品を作っているの?という感想でした。なぜ、そこまでアメリカを意識する必要がある?(ガミラス艦のデザイン デスラーのデザイン)君たちのコンプレックスをぶちまける「手段」として「宇宙戦艦ヤマト」という作品をその「媒体」に使ってほしくないというのが正直な感想でした。なぜ、あの状況でお互いのその心理状態で古代が森雪にいきなりキスができる?敵の戦闘艦を捕獲したときになぜ真田さんの出番がない?VFX畑のひとが今回監督をやっているのですがVFX(視覚効果)の監督と「人間」を描く場面での監督をはっきりと分けていたらもっといい作品になっていたと思います。柳場敏郎さんは嫌いではないですが明らかに「真田さん」としてはキャスティングミスです。緒方直人も木村拓哉も原作を愛しているひとは「感情移入」ができないと思います。アメリカに対する「日本でもこれだけのことが できるんだぞ」という制作側の顕示欲と配給側の興行収入を視野に入れた原作を無視して知名度だけを重視したキャスティングがこれだけチグハグな作品を生み出したのだと思います。けどこの思いも「世代交代」のときに「これまで」のひとが感じる感覚なのでしょうね。「宇宙」はこの作品が世に出ることを望んだわけですから。(ヤマトに関する記述は 40歳以上の男子にしか わからないと思うので ごめんなさい)そのあとSUPER8 を 見ました。スピルバーグいつまで未知との遭遇ひきずっているの?そんな感じでした。と同時にこれが「アメリカ(人)のコンテクスト」なんだなと感じました。(コンテクスト= 背景、文脈、さらには文化が共有している価値や嗜好のこと)そのあとカーズ2を見ました。そこで車を飛ばしたらカーズ3が作りにくくなるやんと思うところもありましたが(実はこれが2013年公開の ディズニーの新作(カーズではない)の 布石でもあるのですが)1に続き車好きにはとても好感がもてる作品だと思います。東京のレースではいやいや日本ではそんなに芸者や舞子はもう表に出てこないしという描写もありますが特にラストのレースシーンなんか本当に車が好きなひとが作っているんやなぁと日本人でも感じることができると思います。日本でもスバル360やベレットやコスモスポーツやKPGC10やKPGC110やL型のZやトヨタ2000GTやAE86なんかと共に現代の車が一緒に出てくるカーズみたいなCGムービーを作りたいと思うひとが現れてくれたらいいのになぁと思いました。
2011年12月07日
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わたしは来月で生まれてからこの3次元特有の時間という概念で44年たったということになるのですけれどもこの44年間親自分の周りの大人学校の先生社会の上司 等自分の上に立つ人に一度たりとも恵まれたことはありませんでした。そういった経験をしてさらに離婚自己破産風俗業界での生活ホームレス5年半それらを経験して「自分なりに」少しは成長したかな?と思える自分が今、出会っている上司も54歳になった今でも84歳の母親からおやつを買ってもらっているような5歳から精神の成長がストップしている自分がすることで自分が言うことで周りのひとがどう感じるか一切気にも止めることのない「自分の自我の満足」 しか眼中にない死ぬまで生きても「自我=自分そのもの」というところから抜け出せないひとです。そこから導かれることはわたしは自分のこころが豊かになれば出会う物質的現実も豊かなものになっていくといろいろ仕入れた知識で思っていたのですけれどもどうやらそれは違うみたいということです。どうやら精神的な高みに行けば物質的な自由度が高まるということすらも「価値観」みたいです。どうやら自分のこころが豊かになることと出会う物質的現実が豊かなものになっていくことは「切り離して」考えていく必要があるみたいです。「わたしたち」という「カタチある存在」は宇宙(というカタチを持たない意識)が「体験」をするための「媒体」でしかありません。その中で「宇宙が望む体験」と「カタチあるわたしたちの脳に 存在する自我という 防御プログラムが望むもの」が合致しないとき「苦しい」という感覚が生まれます。けれどもひとのDNAは「苦しい」ではなく「快」 へ 向かうようプログラミングされています。つまり今回の人生でどうあがいても何回輪廻を繰り返してもいずれは「自我」 を捨てないと(自我は自分そのものじゃないんだ ということを思い出すこと)というところに導かれるように宇宙そのものの仕組みが成り立っているということです。死にたくないと思うあなたが愛しているのはこれまでいろんなことを「すばらしい」「苦しい」と「感じてきた自分」でその「感じてきた自分」が「脳内に残した記憶」ではないのです。いろんなことを「すばらしい」「苦しい」と「感じることのできる自分」が自分の中にあることにひとはよろこびを感じるから死にたくないと思うのです。しかし自分が死んだ後もそのいろんなことを「すばらしい」「苦しい」と「感じることのできる自分」は「次の媒体」を通して「あり続ける」のです。だからわたしたちに「自分とは何者か?」その問いに対する大きな意識変換求めているのが今の地球のアセンションと呼ばれているものなのです。
2011年12月05日
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阿部さんの日記より。わたしは今回の人生で見性(けんじょう)体験をしていないので「自我」の「知識」「理解」の範囲を超えて書くことはできませんがさいわい「自我の範囲」 の中で「自我とは?」 がわかりつつあるのでこういった文章を「ご紹介しよう」 と思えるところにまで来ているのでしょう。以下、引用です。~~~~~~~~~~~~人生とは自分が誰かを知る旅です。問いかけはこれしかありません。「私は誰か」他の問いは全部思考が作り出しています。たとえば何のために生きているのか存在が夢ならば、なぜ夢を見ているのかもともと大いなるひとつなのに、なぜ分離意識を持ったのか。なぜ・・・なぜ・・・なぜ・・・「私は誰か」この問いは、思考からではなく実存からのものです。したがってこの答えは、論理としてではなく、実存の体感として与えられます。それが「神」ということです。神とは概念ではなく、「私は誰か」の体験です。今日あなたに、気づきの祝福が訪れますように。~~~~~~~~~~~~~~~~引用、終わり。自分を卑下するのも自分のレベルが上がって喜ぶのもどちらも同じ「自我」 です。「わかった!」「気づいた!」その衝動でヒーラーやカウンセラーになったひとの多くは「自我がひとり二役を 平気でこなす巧妙さ」そのことに気づけずヒーラーやカウンセラーになったあとひとには立派なことを言えるけれども根本が変わっていかない自分にどこか違和感を覚えながら疑問や迷いを抱えながらヒーラーやカウンセラーを続けて「本来1万5千円のところを 3000円で」なんて具合に値段を下げることでごまかしているひとも多いのではないでしょうか。ヒーラーやカウンセラーをやってるひとで自ら値段を下げるひとって自分の「こころ」の中で「自分が本当はどうしたいのか?」よりもまだまだ「ひとから認められること」=(イコール)「自分の価値が上がる」その「価値観」に縛られているひとなんですね。だから値段を下げて間口を広くしようとする。(より多くのひとから 受け入れられようとする)そして値段を下げることで「この金額でやってるんだから」と「責任」 から「無意識に」逃れようとする。(今の自分を出すことで クライアントが望む 結果が得られなかった場合の 言い訳を用意しようとする)この2つの心理が働いているんですね。だからヒーラーやカウンセラーをやってるひとで「誰も来てくれないから 値段を下げよう」と思うひとはまだまだ自分の中でクリアにできてないことをクリアにできてない自分に「価値」を感じられない自分を「ひとから認められる」ことによって自分の中に生まれる「価値」で無意識に補おうとしていることに気づかないといけません。あなたにセミナーや講座であなたがヒーラーやカウンセラーになろうと思ったきっかけを作ってくれた有名なヒーラーやカウンセラーはあなたが開業したあとここまでつっこんだことをあなたに言わないはずです。なぜならそれがそのひとたちにとっての「職業」でありそこまでつっこんであなたの人生を背負うことで「自分の人生」に「負担」が生まれることをそのひとたちが望んでいないからです。自分の人生は自分で気づいていくしかないんです。けど損得で生きる自分で生きてもうどうしようもないところまで追い詰められてそこから「まず自分から すべて 投げ出さないと」と思えたとき「ほんまもんの師匠」に出会えるんです。「このひとしかいない」「このひとに会ってみたい」ではなく「ある程度の余裕」「ある程度のマージン」の中で「この日時なら行けるから」「この金額なら払えるから」「その範囲」 で参加するセミナー等を「選んで」いるうちはそのとき「なるほど」「あぁよかった」と思えても次の日から「その気づきを 愚直に実践して生きる自分」には出会えないのです。なぜなら「本気」でそのセミナーに参加したのではなく「ある程度の余裕」をもってそのセミナーに参加してるからです。あなたを救ってくれるのは「有名な人」ではなく「自分が何に対して 本気になるのか?」その「自分が選ぶ生き方」なんです。あなたが「うらやましい」と思うひとはあなたにとっての「道路標識」です。その「道路標識」の前でアクセルを踏むかブレーキを踏むかハンドルをどちらに切るのか決めるのはいつも「あなた」なんです。あなたが「うらやましい」と思うひとが思い出した「自分の価値」とあなたがまだ思い出せていない「自分の価値」は「同じもの」なんです。
2011年12月03日
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同じ風に吹かれて同じ時代(とき)を生きているんですよね。人間だから嫌いなやつは嫌いですよ。けどその嫌いなやつが吐いた息が混じった空気を吸いその嫌いなやつが出した小便が巡り巡って水になったものを飲んでいるのが「わたし」なんですね。嫌いなやつは嫌い。それはどうしようもないことです。けどその嫌いなやつと同じ風に吹かれて同じ時代(とき)を生きているのも「わたし」なんですよね。
2011年11月30日
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生きることに息苦しさを感じるときって「過去の果たせていない復讐」を今でも果たそうとしている自分が無意識の中にいてその自分が今でも今の自分の行動を無意識に決定づけていることに気づけず「何でこんな人生ばかり 繰り返すのだろう?」と原因に悩むことは少なからずあるんですね。いろいろ気づいていろいろ学んで高みに近づいているはずなのにそれでも「こいつ許せない」という現象にあいかわらず出会うひとほど「過去の果たせていない復讐」を今でも果たそうとしている自分が無意識の中にいることに気づけていないケースが多いと思います。そのカラクリは「過去の果たせていない復讐」の復讐する相手が今は目の前にいないからその代りとなる自分が正当性を持って怒りをぶつけることができる相手を必要としている自分が「こいつ許せない」と自分が思えるような人物を自分の目の前に招待しているということです。目の前のそのアホに腹を立ててその怒りに溺れる前に過去自分が子供で肉体的に弱くて主張できなかったとか家族のためにお金を得るためにしぶしぶ頭を下げたとかいろんな理由があって怒りをぶつけたくてもぶつけることができなかった自分がいるからそのときの感情がまだ自分の中で処理ができていないからその感情をその本人に直接ぶつけることが叶わない今擬似的にその感情を出すために今そのアホと出会っているんだという考え方を一度でも採用できたらそのアホに向けている感情を一番初めに自分が出したいと思った出来事は何だったんだろう?というところに意識を向けることができるようになってきます。するとそのアホがそういうことをするから腹が立つのではなく過去出せなかった怒りを抱えている自分がいるからそのアホがすることに「腹が立つ」という「受け止め方を採用する自分」がいることに気づけるようになってきます。つまりあなたの中で「過去の未完了の復讐」がなくなればそのアホが同じことをしても今のあなたとは「また違った受け止め方」を「選択できるあなた」が「あなたの中に現れる」ということです。あなたの周りの「アホ」と思える人間の数とあなたの中の「過去の未完了の復讐」の数は「比例する」ということです。そしてそのひとが選んだ生き方をあなたが変えることはできないのです。あなたができることは「過去の未完了の復讐」を自分の中で終わらせると決めてあなたの周りの「アホ」を「アホ」ととらえなくなる自分になってこれまで相手を責めていたエネルギーを自分をしあわせにすることに転換していける自分をこれから選ぶのかどうか?ということだけです。「アホな人間」「わかっていない人間」「劣っている人間」がいるのではなく「過去の未完了の復讐」を抱えている自分がそのひとが選んだ生き方に「アホ」「わかってない」「劣っている」という「ラベル」を貼り付けているだけなんだということに気づいていくことからおだやかな自分が始まっていくのです。「その出来事」が自分に苦しさを感じさせているのではなく「その出来事」を「責める自分」にひとは苦しさを感じているのです。そしてもう「責める自分」に飽き飽きしてるのならそれは「過去の未完了の復讐」を終わらせる時期に来ているのです。復讐を果たすことだけが復讐を終わらせることではないのです。自分の本音に気づくこともまた復讐を終わらせるひとつの手段なのです。
2011年11月29日
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あなたは今以上しあわせにはなれません。なぜなら今にしか生きられないわたしたちに今以上も今以下もないからです。「いつか」はありません。いつも「今」です。「今」苦しくいることを自分に許して「いつか」を目指す生き方は「今」「できること」を先延ばしにしているだけです。過去のあなたが目指したものが「今のあなた」です。「いつか」 に逃げる前に「今」それをまず認める勇気が必要です。今以上しあわせにはなれないのならその「今の自分」を認めるところから始めていかないと始まっていかないのです。「いつか」を目指す生き方をすててその「今の自分」を認めるところから始めていったひとだけが体験できることがあります。その体験こそが今のひとたちに一番必要な体験なんです。
2011年11月22日
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起こることがただ起こっているだけです。そこに意味(ストーリー)をつけるからその意味に似あった感情が芽生えてきます。そこに意味(ストーリー)をつけているのは「自我」であって「本来のあなた」ではありません。まずは意味(ストーリー)をつける前に「それが起こった」ということをまず認める。認めることが自我のカーテンの向こうの「忘れてしまったわたし」に近づく手段であることを知りました。最近は何か起こったら判断する前にまず「起こることが ただ 起こっているだけ」そう自分に言うようにして訓練しています。(起こることが ただ、起こっているだけで そこに、いいも、わるいもない。 ということを 自分の意識に染み込ませよう という訓練です)それを繰り返していくと自分を「被害者」 だと感じる自分が薄くなっていくのを感じます。これは古人が残してくれたこの苦しい3次元を生きやすくするためのひとつの知恵です。
2011年11月21日
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ニコニコ動画ってオタクの巣窟ってイメージがあるけど実際そういう動画が半分以上だけど(笑)ほんと「これからの可能性」を感じさせる動画も多いんですよ。なんていうかなニコニコ動画に覚える抵抗って「これまで」の価値観を守ってきたひとが「これから」の価値観を提示されたときに「反射的に起こす抵抗」みたいな感じかな。自分がこれまで信じてきたものが簡単に覆されたら「自分の歩いてきた道そのもの」が「全否定」されるみたいな「錯覚」 にひとは陥るけどそんなことはないんです。そこにあるのは「変化」だけです。嫌いなものは嫌いなんです。人間生きているとある程度の予測が立てられるようになります。けど予測で終わらせず一度食べてみて「やっぱりまずかった」と「自分に体験させること」が大事なんです。ニコニコ動画はメールアドレスを登録するだけで見れるようになるので興味を持った方は半分以上クソみたいな動画が並んでいるニコニコ動画の中でキラッと光るものを見つけてください。自分が抵抗するものをつきつけられるということは自分は自分に「どんな縛りを設けているか?」ということを知る機会にすぎないのですけど今日はそんな小難しい話しはやめておきます。「自我ベース」 で生きている間はひとの原動力は「感情」 ですから嫌いなものは嫌いそれを中途半端にごまかさず徹底してください。中途半端に精神世界の知識を仕入れて自分を抑えて自分をごまかして「行動を起こさなくなること」それこそが自分で自分を苦しくする一番効率のよい方法なのです。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~小惑星探査機 「はやぶさ」 地球に帰還? NASA撮影版http://www.nicovideo.jp/watch/sm11061029はやぶさが地球を出発してからどういう経緯で地球に還ってきたか?それを知っているひとには感動ものの映像です。ちなみに消えゆくはやぶさの前で光っているのははやぶさが放出したサンプル回収カプセルです。http://www.nicovideo.jp/watch/sm6984410こういうマジで泣ける動画もあります。カメラワークが最悪なんで目を閉じて聞いてください。
2011年11月18日
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死後450年近くたってもこの日本でまだ有名な武田信玄さんですがこのひと知れば知るほどすごいひとでどうしようもなく暇なときにまだ信玄さんが武田晴信だった21歳の時に(「信玄」とは出家後の法名)父、信虎を追放したときから45歳のときに信玄さんの嫡男義信が謀反を企てて自分の子供に自害を命じたあたりまでを図書館やネットなどで調べていただけると武田信玄 = 風林火山以外のことをいろいろと感じ取っていただけると思います。 名だたる戦国武将として有名な武田信玄さんですが以外や以外若かりしころに決めたひとつの志を貫いておられます。 それは 「生涯刀を抜かない」 ということです。 川中島の戦いでの上杉謙信との一騎打ちでも上杉謙信の刀を軍配(相撲の行事が持っているやつ)で受け止めた逸話が残っています。(ですが、近年の研究では それが事実だったかもしれないという 研究者が増えてきています) 武田信玄さんが「生涯刀を抜かない」と決めた背景にはこんな話しが言い伝えられています。それは武田信玄さんが武田晴信だった若かりし頃尊敬していた恵林寺(えりんじ)の快川紹喜(かいせん じょうき)和尚が読経中に刀を向けたときでした。どんなに偉いお坊さんでもいきなり鼻先に刀をつきつけられたら動揺するものだとふんでの行動でした。しかしそのとき快川紹喜和尚は動揺することもなくたんたんとこう言ったそうです。 「一国の総大将たる者は 自らの刀に頼るようでは 其の器量は 大した者ではない。 将来京にのぼり 全軍を指揮しようという 心構えがあるのなら もはや刀のことなど これからは考えるな」 その言葉を聞いて武田信玄さんは「生涯刀を抜かない」と決めたそうです。 武田信玄さんのすごいところは父親を追放したり実の子供に自害を命ずる大胆な面を持っているのと同時にこのときの快川紹喜和尚の言葉や父親を追放した後遊びほうけているときに家臣から受けた忠告など素直にひとの言うことに聞く耳を持ち合わせていた面も持っていたということです。 武田信玄さんを見ていると本当この宇宙に「いい」 「わるい」はなくてその時代を通して人々(の精神)が成長していくための「その時々の役割」というのが各々にあるだけで「今」を生きる人々の精神レベルに合わせて「時代」が用意されているんだなぁとわたしは感じました。 ちなみに快川紹喜和尚の弟子の虎哉宗乙さんは伊達政宗さんの教育の師です。こうしてみると快川紹喜和尚というひとは本当にすごいひとだったんだなぁと思います。その快川紹喜和尚も武田信玄さんの死後織田信長さんに敵対した六角義弼さんらを恵林寺にかくまい織田信忠さんの引渡し要求を拒否したため焼き殺されます。ここにも本当この宇宙に「いい」 「わるい」はないんだなぁというのを感じます。 「いい」「わるい」「ただしい」「まちがい」「すぐれてる」「おとっている」それらを決めているのは全部「自我」でそれは「本来のあなた」が決めていることではないんだよ。そこにみんなが気づくためのこの数千年の歴史だったように思います。そしてようやくいろんな意味での「総決算の時期」に来ているような気がします。 みんなこの地球の大変革の時を見たくてそこに立ち会いたくてわざわざ地球人になることを選んで生まれてきてるんでしょうなぁ。
2011年11月17日
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今日、3本目。奴はとんでもないものを盗んでいきました!それは・・・駅です!これは2007年11月上旬マレーシアで実際にあったことで駅そのものはマレーシア国鉄"Keretapi Tanah Melayu Bhd (KTMB)"所有のものですが日本のようにちゃんとした建物ではなく犯人たちは、スチールでできた組み立て駅を解体してしまい停止サインなどもすべていっしょに盗んでしまったようです。どうやら「奴(爆)」は鉄を売ってお金を得るために「駅」を盗んだみたいです(笑)~~~~~~~~~~~ここから真面目な話しですがこういうふうにこれまでの世界経済は「個人の欲」 を出発点として成り立ってきました。野田のアンパンマンはどうやらTPPに参加するみたいです。これは日本の農業を始めとする国民健康保険までに及ぶわたしたちの生活にさまざまな弊害をもたらすと言われさまざまな論議が交わされています。けどわたし個人はこの流れを「毒を以て毒を制す流れ」のような気がしています。日本がこの先TPPに参加するかどうかわかりませんけど(たぶん参加でしょう(笑))どちらにせよわたしは「日本がこれからの世界(地球)を 変えていく役割において 必要とする全体の流れの一部」ととらえています。日本がこれからの世界(地球)を変えていく役割においてそのリーダー性を発揮するためにはまだまだ日本国内において「変えていかないといけないこと」が山のようにあります。「それらを変えていく そのひとつのきっかけ」 が野田のアンポンタン(笑)がTPPに参加することで日本国内がいろいろアメリカによってズタズタにされて「その刺激によって」ようやくやっと 今の日本の「平和」 や 「豊かさ」 や「安全」 が「あたりまえ」 と思っている日本人がいろんなことに目覚め「日本人の意識」 が 変わっていくことにあるような気がします。ですから来年も「今の経済システム」 を基盤とする生き方を選択する日本は今年よりももっと厳しい状況になっていくでしょう。日本がこれからの世界を誘導する役割があるのは日本には「和を以て尊しとする」という精神があるからです。けど今の日本ではそれが「個」 を 殺すことに作用しています。全体の調和のために「自分さえ余計なことを 言わなければ」と自己を犠牲にすることが半ば「あたりまえ」になってしまっています。世界を誘導する役割を与えられた日本人がこれから目覚めないといけないことは「個を発揮する」ということです。「個を発揮する」ということは「自分らしく生きる」ということです。「和」 は自己を殺すことで保たれるものではなく「自分らしく生きる」ことで初めて保たれるものなのです。なぜなら「自分らしく生きる」ことで初めてひとは自分の中の愛を行使することができるからです。自分の中の愛を行使することこそが「和」 です。自己を殺して得られる 「和」 は単なる自我の世界の「損得」「取り引き」にすぎません。もしあなたが自分の中の愛を今の状況で行使したらいろんなものを失うでしょう。それが今の段階での世の中の仕組みだからです。これまでのように出したい感情を出さなければ言いたいことを言わなければ「それなりの生活」は維持できるでしょう。けどあなたは本当はできることならどういう自分で「ありたい」のでしょう?それを実行に移せなくてもそのことを自分に確認することは今の状況の自分でもできるのではないでしょうか?「何をしてる自分」ではないですよ。それをすることは「ありたい自分」になるための「手段」にしかすぎませんから。「こうありたい自分」があなたの中にあるから「そうなるための手段」として「こうしている自分になりたい」というのを望んでいるということは自覚しておいてください。あなたは本当はできることならどういう自分で「ありたい」のでしょう?あなたは本当はできることならどういう自分で「ありたい」のでしょう?そしてあなたはこれからも今までと同じように「そうできない理由」を探し続けて巧妙に自分をごまかし続けるのでしょうか?それとも例えまた傷つくことが待っているとしても「こうありたい」と思う自分を大切にしてそれが叶うようにまた立ち上がっていくのでしょうか?あまり人生に深刻にならないでください。「真面目」 は大切ですけど真面目に「なりすぎると」人生は深刻なものになってしまいます。どちらを選んでもいいのです。この宇宙に正解とよばれるものはないのです。ただ後悔を残さずよく死ぬためにははよく生きないといけません。これはこの3次元の仕組みにおいて事実です。自分に納得して生きないと納得して死ねません。自分に納得して生きるには「自分らしく」生きる以外に方法がありません。さぁどうしましょう?自分に納得して生きるには「あいつのせいでこうなった」「何かのせいでこうなった」に向けているエネルギーを起こることがただ起こっているだけなんだから起こってしまったことはしかたない。起こってしまったんだからどうしようもない。ところで「今の自分はどうありたいのだろう?」そこに意識を向けることを選ぶ自分で「あること」を「自分で決めること」が必要になってくるのです。~~~~~~~~~~~~~~~「追記」起こることがただ起こっているだけなんだからここに納得できない方もいると思いますがひとは自分の人生の現実は自分の努力次第で自分の行動次第で変えられると思いがちですが実は目の前に現れる現実というものは地球に70億人いるとすれば70億個の意識が相互に作用した結果生まれています。(本当はそこに 宇宙全体の意識も作用しているのですが それは抜きに 地球単位で考えてください)だからどれだけ努力してもひとは「自分の思いにそぐわない現実」とも多々出会います。ではひとの自由とはどこにあるのか?それはその現実と出会ったときに「どんな自分を創造するか?」ということです。「どう受け止め」「どうふるまうのか?」ということです。「そこで どうある自分を 選択するのか?」ということです。「何を手にして」「何をしている」ではなく実はそれこそが人生のすべてなんです。だから「自分ひとりが こうしたところで 世の中は・・・」という意識を捨ててひとりひとりが「自分らしさを発揮すること」に挑んでいくことがとてもとてもこれからの世界に重要になってくるのです。
2011年11月12日
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2本目きゅっきゅっきゅっニャー http://www.youtube.com/watch?v=1TY4jVe8jtE&feature=related
2011年11月12日
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人間ってすごい!映像 2011(たまに合成?っていう映像も 混じってます)けど、すごい!特に、野球のインタビュー中のひと!http://www.youtube.com/watch?v=yKWoPlL2B8I&feature=youtu.be&noredirect=1人間ってすごい!映像 2010http://www.youtube.com/watch?v=Vo0Cazxj_yc
2011年11月12日
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「さよなら、またね」http://www.youtube.com/watch?v=HQLm99zH0JQ
2011年11月11日
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もともと なにも持たずに はだかで 生まれてきたのですから 手にした 失った それらにとらわれず 「本来の自分」 を 思い出すことに 専念してください。 あなたには 「力」 があります。 「考えること」 を 「意識的に」 やめる時間を自分の人生に作って 「損得」 ではなく どうしたら 自分の中の愛を有効に使えるか? そのことに 専念してください。 「義務」 ではなく 自分の中の 「心地いい」 に 従ってください。 日本人は 世界のひとと比べたら めちゃくちゃ恵まれているひとです。たとえば家、公衆を含めトイレに紙が常備されている国というのは今、現在においても地球のすべての国の「1割」 なのです。日本人はやさしい人種ですから大切なひとを気づかってついつい「自分がこうしなければ」と思いがちですが 自分がこうしたら 誰かが不幸になる という考えは実は 傲慢なんです。 それは そのひとが そのひと自身で自分をしあわせにできる力を 信頼していない ということです。 目に見える かたちあるものだけを信頼せず 「本当のところ」 に 目を向けてください。 自分で自分を否定してる暇があったら 「与えられた力」 を使って 自分をまっとうしてください。 自分が書いたものを自分が言ったことをそのひとが どう受け止めようと それは そのひとが必要とする体験で あなたには 「一切の責任」 は ありません。 理解してもらえないかも しれませんけど ひとがひとを傷つける ということはなく そのひとが 出会った出来事に対して 「自分が傷つくような受け止め方」 を「採用」 しているに すぎないのです。 あなたには ただただ 「考える自分」 が 「自分そのもの」 ではなく 「もうひとりの自分」 が 自分の中にいることに 気づいてほしいです。「何かを判断している自分」と出会ったら「意識して」その自分と距離をおく機会を自分の人生に設けてみることです。つまり30秒でもいいから「意識して」「何も考えない時間」を自分の人生に作ってその間は「過去こうだった」「これからどうなる?」その思いを一切捨てて自分を「今」 「ここ」に自分が存在しているという事実だけに丸投げにするんです。 それが これからの 「地球のありかた」 にも つながっていきます。 「考える自分と同化しないこと」 これが これからの わたしたちの キーワード です。
2011年11月06日
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長生きするためではなく本来の自分を思い出すためにわざわざ肉体を持って制限のある世界(次元)をやっているわけです。何年生きたか?ではなく何をしたか?です。死なないために生きるのではなく自分を活かすために生きるのです。
2011年11月05日
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googleでdo a barrel rollと検索すると画面がグルリンと1回転します。ただしウインドウズの IE(インターネットエクスプローラー)ではうまく作動しないのでIE 以外の ブラウザでやってください。
2011年11月05日
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「あんたは違う」「あんたは間違っとる」そう思うときは相手が自分が守っているものを守っていないとき。「わたし」 は「ひとを傷つけてはいけない」「ひとを粗末にしてはいけない」その思いを大事に生きている。けどあいつときたらどうだろう。ひとのことなんか気にせずに自分勝手に生きている。だからといってそのひとが「間違って」いるわけではない。そのひとにはそのひとの「守りたい生き方」があるだけ。「自分が守りたい思い」を「無意識」 に「相手にも守らせよう」と「押し付けた」ときに「自分の心の中」で「争い」が生まれる。「相手が間違っている」のではなく「わたしが守っているものを どうしてあなたも守らないの?」という「無意識」 の 「下」での想いがあるだけ。わたしはこんなにもひとを傷つけないように気を配って生きているのにどうしてあなたはそんなにも自分のことしか考えずふるまえるの?あなたは何も学ばず自我のおもむくまま子供のまんま大きくなったのね。その「否定」 の「下」 にあるのは「できることなら わたしもそうしたいわよ」という「あこがれ」。「うらやましい」という思い。「こうするのが 正しい生き方」というのが「一切ない」ということを知るためにわたしたちはさまざまな「ひとの生き方」と「出会う機会」を与えられています。「こうするのが正しい」「こうしてはいけない」その思いはあなただけが「自分がそう思いたいだけ」で他の人はそうは思っていないんです。自分で自分に「許可」を与えられていない部分に「許可」を与えているひとにひとは「拒否感」を覚えるのです。つまり「否定してしまうひと」と出会ったときは自分で自分にどんな「○○をしてはいけない」という制限を加えているから拒否してしまうのかな?という「機会」ととらえてそのひとを責めることだけに専念しないことが「次」につながるんです。「○○をしてはいけない」その自分が信じた思いを「守りたい自分」がいるだけで「正しい自分」がいるわけではないんです。もう一回言います。自分が信じていたいその思いを「守りたい自分」がいるだけで「正しい自分」がいるわけではないんです。「正しい自分」がいるわけではなく常に「そうしたい自分」がいるだけなんです。そして相手もそうなんです。極端な話しを書くとあなたの中には「ひとを殺さない自分」ではなく「ひとを殺したくない自分」がいるはずです。極端な話しを書きましたけどそうすることが「正しいこと」(自分の信じていることと 照らし合わせて合致していること)か「間違っていること」(自分の信じていることと 照らし合わせて合致していないこと)かではなく自分は純粋にすべてを抜きにして今日死ぬのならば「それをしたい自分なのか?」「それをしたくない自分なのか?」そこを常に問えばいいのです。
2011年11月03日
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PCの性別を見分ける方法まず、デスクトップで新規のテキストを作ります。これまではこの前と同じ。そこにCreateObject("SAPI.SpVoice").Speak"I love you"これをコピペして貼り付けて「名前をつけて保存」 でcomputer_sex.vbsという名前で保存します。これもコピペして使ってください。そして出来上がったファイルをダブルクリックしてみてください。するとあなたのPCの性別がわかります。ちなみにわたしのPCは50代のおっさんの声でした(笑)不思議なことにPCによって男のひとの声や女のひとの声で再生されます。もしあなたが複数のPCをさわれる立場にあるならいろんなPCでためしてみてください。では♪
2011年11月02日
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人間失格http://www.youtube.com/watch?v=F5CM3Cfj1VI&feature=related人間失格Metis作曲:Metis作詞:Metis歌詞もう帰らぬ日の青春何より自分が大切だった苦しむ友を救う事さえできなかった人間失格つまずく足元に咲いていた頭を垂れたお人好しな花色んな者に踏まれる為にきっと強く立っていたのでしょう?人を従わせ支配しそんなに自分を大きく見せたいのですか?君の庭に咲く花は寛大ですか?心のままにいつも咲いていますか?涙を忘れていませんか?大事な事から逃げてませんか?自分に嘘をついてませんか?諦める事に慣れ過ぎてませんか?泣きたければ 泣けばいい 叫びたければ 叫べばいいそれでいいんだよ…君でいいんだよ…全ていいんだよ…きっといいんだよ…明日は明日の風が吹く信じ合うなんてここでは軽々しく聞こえる分かり合うなんて言葉は多分無意味に響いてる人は誰も弱き生きもの見えない幸せ探す旅人過去は暗いままでもいいんだよ君の笑顔が明日にあれば人の過ちをあざ笑い 人を責める事が全てですか?君の空に架けた虹は愛しさですか?心のままにいつも「好き」と言ってますか?涙を忘れていませんか?大事な事から逃げてませんか?自分に嘘をついてませんか?諦める事に慣れ過ぎてませんか?泣きたければ 泣けばいい 叫びたければ 叫べばいいそれでいいんだよ…君でいいんだよ…全ていいんだよ…きっといいんだよ…明日は明日の風が吹く後悔していませんか?夢を忘れていませんか?道をはずれていませんか?下を向いていませんか?家族を大事にしてますか?ありがとうと言ってますか?今誰を愛してますか?大切な人涙してませんか?無駄遣いしてませんか?贅沢をしてませんか?もうタバコはやめましたか?楽に生きようとしてませんか?もう人間やめますか?人生放棄するのですか?生きる事は素晴らしいのです君を今必要としています故郷を覚えていますか?バイトは続いてますか?自分の時間がありますか?泣けるくらい恋してますか?涙を忘れていませんか?大事な事から逃げてませんか?自分に嘘をついてませんか?諦める事に慣れ過ぎてませんか?泣きたければ 泣けばいい 叫びたければ 叫べばいいそれでいいんだよ…君でいいんだよ…全ていいんだよ…きっといいんだよ…明日は明日の風が吹く後悔していませんか?夢を忘れていませんか?道をはずれていませんか?下を向いていませんか?家族を大事にしてますか?ありがとうと言ってますか?今誰を愛してますか?大切な人涙してませんか?無駄遣いしてませんか?贅沢をしてませんか?もうタバコはやめましたか?楽に生きようとしてませんか?もう人間やめますか?人生放棄するのですか?生きる事は素晴らしいのです君を今必要としています故郷を覚えていますか?バイトは続いてますか?自分の時間がありますか?泣けるくらい恋してますか? Lalala…
2011年10月31日
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今日はあなたの目の前にあるパソコンで遊んでみましょう!!!!ただし、ウインドウズの方のみですのでご容赦ください。1まず、ディスクトップに新規のテキストファイルを作りましょう!ディスクトップ上で右クリック新規作成 → テキスト ですね~。次にmsgbox""と入力しましょう。めんどくさいひとはこれをコピペしてね♪つぎに "" の間に好きな言葉を入力してね♪たとえばmsgbox"今日の晩御飯うどんでいい?"みたいな感じで。次に左上の ファイル → 名前をつけて保存をクリック!名前は適当に半角英数字でつけて最後に.vbsとつけてください。たとえばyogapu.vbsみたいに。保存するとディスクトップ上にS みたいなマークのついたファイルがありませんか?それをダブルクリックしてみてください。どうですか~?(笑)さ~て次はそのファイルを右クリック編集 を クリックしてmsgbox"自分を否定しすぎです",16,"運気が低下しています"と入力してみましょう。めんどくさかったらこれをコピペして上書き保存。そしてそれをダブルクリックしてみてください。どうですか~?(笑)左が本文、右がタイトルなんですね。で真ん中の数字を変えて遊んでみてください。数字は必ず 半角 で 入力してください。数字の意味は…0 [OK] ボタンのみを表示。1 [OK] ボタンと [キャンセル] ボタンを表示。2 [中止]、[再試行]、[無視] の 3 つのボタンを表示。3 [はい]、[いいえ]、[キャンセル] の 3 つのボタンを表示。4 [はい] ボタンと [いいえ] ボタンを表示。5 [再試行] ボタンと [キャンセル] ボタンを表示16 警告メッセージ アイコンを表示。32 問い合わせメッセージ アイコンを表示。48 注意メッセージ アイコンを表示。64 情報メッセージ アイコンを表示。msgbox"もっと自分を信頼しましょう",64,"あなたのこころにエラーがでました"msgbox"プロポーズされました。どう答えますか?",4,"僕と結婚してください!"みたいな感じで遊べてますでしょうか?でもこれだけじゃおもしろくないですよね。なのでnum = msgbox("プロポーズされました。どう答えますか?",4,"僕と結婚してください!")if (num=6) then msgbox("必ずしあわせにします!\(^○^)/")else msgbox("(TOT)ストーカーになるじょ")end ifとコピペして上書き保存してダブルクリックしてみてください。各ボタンには1 [OK]2 [キャンセル]3 [中止]4 [再試行]5 [無視]6 [はい]7 [いいえ]と数字が割り当てられていてif (num=6) then (もし「はい」(6)が押されたら) msgbox("必ずしあわせにします!\(^○^)/")(これを表示しなさい)else(それ以外のボタンなら) msgbox("(TOT)ストーカーになるじょ")(これを表示しなさい)end if(この命令を終了します)こういう感じで使っています。(num=6) ここの数字を変えたらいろんなメッセージボタンで遊べそうですね!では今日はこのへんで!!!
2011年10月29日
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たとえば「わたしは何にもわるくないのに」理不尽な場面にでくわすことがあると思います。そういうときほど過去自分が出したくても出せなかった感情を表に出す機会を与えられている場合が多いんですね。「わたしは何にもわるくないのに」理不尽な場面にでくわしたときほど「知識」 を捨てて「感情」 をあらわにしたらいいんです。「その相手に直接」で なくとも。すべてのひとがそうとは言い切れませんけど想いと現実が「一致しない」人生を生きている場合「過去の未消化の感情」がいろんなことを知ったわかったと思っている自分の中にまだ残っているケースが多いんですね。「いいひとでなくては」「おりこうさんでなくては」「迷惑をかけない自分でなくては」「ひとというものははこうあらねば」「こうしたらこうなってしまう」そういう思いが今の自分がしたいと思うことを無意識に押さえ込んでしまって自分でも知らないうちに「自分の正しさ」 に結びついてしまうとその場の自分の感情を出すことにひとは「罪悪感」 を感じ「ためらい」 を覚えるようになってしまいます。そこから「歪み」 が生じ自分のエネルギーをまっすぐに出せない自分になってしまいます。「ありたい自分で生きていきたいんだ」その想いよりも「迷惑をかけない自分でなくては」「ひとというものははこうあらねば」「こうしたらこうなってしまう そうなったら食べてはいけない」その想いのほうを「抑制」 せずにまっすぐに出しているから「そのとおりの現実」がやってきているだけなんです。あなたが「それが真実なんだ」と「信じたもの」 があなたにとっての真実すなわちあなたにとっての現実としてあなたの前に現れているだけなんです。(ここすごく大事です。 だから 何も 「ひとのせい」に できないんです。 あなたは 「自分とはこうだ」 「自分の人生とはこうだ」 と 「自分が信じたとおりの現実」 を ただ 味わっているだけなんです)10億円ほしいですか?といわれたらたいていのひとはほしいというと思います。けどその中で本当に「今の自分は10億円を受け取れるだけの人間だ」と「こころから信じているひと」は少ないと思います。仮にそれで受け取れなくても「本音の自分」は「3000万あればいい」と思っているかもしれないということです。「ほしいと思う自分」ではなく「必要とする自分」が現実をつくるんです。そこに気づくには「今、何を手にしているか?」ではなく「これがあったらこうできるのに」ではなくたとえこの先それが手にできない自分だとしても「自分はどういうありかた(存在)で 生きていたいのか?」を自分に問う生き方が求められてくるんです。そこに「納得」 できない間は精神世界の知識を変にふりかざして「おりこうさん」 にならずに徹底的に抵抗するべきです。もがいてあがいて周りを否定して自分を卑下して人生を徹底的にネガティブに生きることも実は「前に進む」ひとつの方法なんです。「これが正解」というのがあるのではなく「あなたにぴったりの道」があるだけなんです。だからね「悩んでいられる間」というのは「自分に余裕がある証拠」というのを早く知って1日も早く何かに「本気」になったほうがいいと思うよ。
2011年10月28日
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お前はお前で丁度良い顔も体も名前も姓も、それはお前に丁度良い貧も富も親も子も、息子の嫁もその孫も、それはお前に丁度良い幸も不幸も喜びも、悲しみさえも丁度良い歩いたお前の人生は、悪くもなければ良くもないお前にとって丁度良い地獄へ行こうと極楽へ行こうと、行ったところが丁度良いうぬぼれることも無ければ、卑下することも無い上も無ければ下も無い、死ぬ月日さえも丁度良い御仏と二人連れのこの人生が丁度良くないはずが無いお前にそれは丁度良いお前にそれは丁度良いお前はお前でちょうど良いBy 良寛
2011年10月27日
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生まれてから今日まで連続して「自分」というものが存在しているとひとは思って生きているけど本当は違うんよね。今の自分と1秒前の自分は違うんよ。だから「過去こういうことがあった」で自分を決め付けないことが本当に大切になってくるんよ。今の自分は1秒前の自分とは違う今まで自分でも知らなかったまったく新しい自分。わかりやすく言うと胃は3日ですべての細胞が入れ替わる。変わらないのはあなたが採用する「考え方」 だけ。それは事実やしまたそうやって切り替えていかなあかんのよ。「過去」 は記憶の中。「未来」 は想像の中。あなたが生きているのは「今」の中。「過去」も「未来」も脳の中の電気信号にすぎず「どこにも存在してない」んよ。「今」 だけにリアルなあなたはおることができるんよ。だから過去に後悔せず未来に不安を覚えず「今」に自分を委ねてくつろぐことができるか?そのことが本当に大切になってくるんよ。どれだけ自分の人生に納得いっていなくても「今」に自分を委ねてくつろぐことができるか?それだけが求められているんよ。そんなこと「考える自分」は到底納得いかない。だからこそ「考える自分」が「自分そのものではない」ということにいつか気づく必要があるんよ。そしてみんなそこにたどり着けるんよ。「そのとき」はみなさんが選んだ過程でそれぞれ「時期」が違うから気づいた時期の早い遅いで「優劣」はないんよ。大事なんは今目の前に何が起こっていようがどれだけ自分で自分を大切にできるか?そのことが自分の人生に起こることをどれだけ信頼できるか?ただそれだけなんよ。そのことが自分の人生に起こることの「意味」がわからんでもええねん。ただ「そのことが起こることを 必要としている自分がおるから 起こっているんやな」と思える自分になれたら「謙虚」 になれて「謙虚な自分」 こそが「いろんな意味」 を知っていくことになるねん。かたちのある存在かたちのない存在みんなあなたに本来のあなたを「思い出してほしい」と願ってるねん。だからあなたが謙虚になるすなわち「本来の自分に 素直になる」までどれだけあなたにうらまれようがあなたに方向修正をうながす現実を用意し続けるねん。それこそが愛やねん。愛っちゅうのは決してあきらめず信じ続けることやねん。自分ではどうすることもできない力で自分の人生が左右されているのではなくあなたが本来のあなたに素直になってないから「思い出してね」と言われているだけやねん。「考える自分」 を捨てるねん。「考える自分」 は「感じる自分」 の想いをこの3次元で現実にしていく段階で初めて必要になってくるものでまず最初に「考える自分」 ありきではないねん。損得ではなく何を持っていなくてもどういう自分(存在)であれたら心地いいか?そこを見る必要があるねん。その上で物質的なものを求めていったらええねん。もう一度自分が求めているものが安全安定安心なのかそれとも「しあわせ」なのかそれを見つめなおしてください。
2011年10月25日
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本当のこととあなたが「正しいと信じたいこと」は違うんですね。誰もがみな自分が生きてきた過程を無駄だったと思いたくないから自分の採用する考え方を正当化することに必死になる。ここまで苦労した自分が間違っていたとなったらやってられなくなるから。けどねその「わたしは正しい(間違っていない)」という生き方を選ぶことであなたがどこか今の人生に息苦しさを感じているのならあなたの採用する「正しさ」に疑問を持ってはどうだろう?あなたはどこか息苦しくても正しくいたいの?(間違っていないと思う 自分を証明する 満足を得たいの?)それともしあわせを感じて日々を生きていたいの?仮にすべてのひとから「あなたは正しい。 間違っているのはあいつだ」と認められたとしよう。その後あなたに残るものは何?その後のあなたは何を目標に生きていくの?「あなたは正しい。 間違っているのはあいつだ」とすべてのひとから認められ一時的な満足を得た先にあなたの人生に待っているものは何だろう?結局どれだけのひとから認められようと自分で自分を認めていなかったら「その先」を決められない虚しさが待っているだけではないだろうか。自分で自分を認めていないから「ひとから粗末にされる」という現実を「自分で」招いているだけではないだろうか?想いが叶わないその状況も自分で自分を認めていないから引き寄せているのではないだろうか?だとしたらあなたはこれまで何を決めてきて何を決めてこなかったのだろう。一度何かを「本気で」決めてみてはどうだろう。グチを言うのは簡単だ。けどその前に自分が本気でそのことに取り組んできただろうか?自分に本気になれないひとに自分に与えられた可能性に気づけるはずもない。それすらもせず簡単に自分に結論を出すなんてなんてもったいない生き方だろう。
2011年10月24日
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小さな自分の頭の中でさまざまな思いがよぎるだろう。でもそれを「すべて」 と思わないことが大切になってくる。何も知らなかったころ見上げていた空といろんなことを知った今見上げる空は何も変わらずあなたを包んでいる。「自分にとって」は自分が体験してきたことが「すべて」となる。しかしそれは宇宙にとってはほんの一部にすぎない。だから何事も「決め付けないこと」が自分を自分らしく導く道しるべとなる。「大切にしてほしかった…」その想いから生まれる「すねる」という気持ちはよくわかる。すねたら「かまってもらえる」可能性が生まれてくるから。けどもう「そのひと」 から大切にしてもらえることを待たずに自分で自分を大切にするポジションに自分を切り替えよう。それができるまでにあなたはもう大きくなったのだから。あなたはそのひとが大好きだったんだ。大好きだったからこそ「期待を裏切られた傷」が大きく残ってしまったんだ。けどそのひとはただそのひとの成長の段階においてそうするしかなかった。そのことと自分の価値を結びつけることはもうやめよう。自分にいたらない点があったからそのひとからそうされたのではなくただそうしたいそのひとがいただけなんだ。あなたが何かをいやだと思うようにそのひとにも何かをいやだと思う自由があるだけなんだ。お互いその自由を使っているだけなんだ。だからそのことと自分の価値を結びつけることはもうやめよう。あなたはただ誰から何を言われようと何をされようと「自分はどうありたいのか?」それだけを自分に問い続けそれを実行に移していくだけでいいんだ。失うことへの恐怖を「自分は自分を生きていく」その覚悟で乗り越えることだけが今のあなたに求められていることなんだ。
2011年10月23日
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ひとさまからみて高得点の自分であるように自分の中の小さな声をずっと無視し続けてきた。自分を粗末にすることにもすっかり慣れてしまった。思い通りにいかないことも「何かのせい」にすることで何かに責任を押し付けてきた。ひととかかわらず「ひとり」 でいるとわずらわしさがないことを覚えた。結果「楽」 だった。「楽」 だったけれども「楽しく」 はなかった。すべての行動は「もうこれ以上 傷つきたくない!」その想いから始まっていた。もうこれ以上傷つかないためには「自分からこころを閉ざす」それが一番「楽」な方法だった。だからこころを閉ざした。結果「楽」 になった。「楽」 になったけれども「楽しく」 はなかった。そこで「わたしが本当に求めているもの」はもうこれ以上傷つかない人生じゃないのかな?と思うようになってきた。そのときのわたしは現実を変えたかったら自分からこころを開くことがこの3次元の仕組みにおいて必要という「知識」 は持っていた。だからこれからは自分からこころを開いてみようかなと思った。そしてそれをやってみて思った。魚が水を知るためには一度水から出ないといけない。それと同じように「信頼する」 とはどういうことか?それを知るためにはひとは一度自分からこころを閉ざすという経験をする必要があるんだということを。苦しいときのわたしは「苦しい」 に自分の人生すべてが支配されていた。それ以外はないと思っていた。けどそれは「その反対側にあるもの」を知るためのプロセスであったことに気づけた。すっかり自分の人生をあきらめなげやりになっていたわたしでもそこにたどりつくことができた。なぜだろう。それはおそらく「飽きるまで」ネガティブな生き方を貫き通したからだろう。「飽きたとき」が新月が満月に移っていく「転換点」 だったのだろう。自分で自分の人生を「創造」したかったら本気で「いいひと」 を目指す生き方を捨てなければならない。その「覚悟」がこれからのわたしに求められている気がする。
2011年10月22日
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お前はことばがわかるのか、それとも意味がわかるのか?
2011年10月21日
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エビメタ・バンドhttp://www.youtube.com/watch?v=aTPJT_RMVPIhttp://www.youtube.com/watch?v=UC-NsgSos6I&feature=related
2011年10月21日
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忍者犬http://labaq.com/archives/51707301.html
2011年10月21日
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オリンピックの男子マラソンでもっとも遅かった公式記録は、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。http://labaq.com/archives/50798375.html
2011年10月21日
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クジャクの飛んでる姿がすごいhttp://labaq.com/archives/51707515.html
2011年10月21日
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アフリカ大陸にあるサハラ砂漠の西部には、巨大なクレーターのような円形構造物があるそうです。サハラの目とも呼ばれるこの地形は「リシャット構造」と言い、その直径は約50kmもあって全貌は宇宙空間からでなければ把握できない凄まじいサイズだそうです。かつては巨大隕石の衝突によって出来たと思われていましたが、最近の研究では自然の侵食や隆起によって出来たことがわかっています。http://maps.google.co.jp/maps?t=k&hl=ja&ie=UTF8&ll=21.058871,-11.47522&spn=2.024793,2.007751&z=9
2011年10月21日
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「こんなわたしだから」こうなんです。「こんな過去だったから」こうなんです。その「わたし」 や「過去」 に対する「自分のとらえかた」 がそもそも間違っていたのかも!?というところに意識が向けられるようになってきたら出口は近い。
2011年10月20日
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やりたいことがわからない武田 双雲http://ameblo.jp/souun/entry-11052314809.html
2011年10月20日
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