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50~60年代に活躍したソウル界のベテランアーティスト、シル・ジョンソン(Syl Johnson)の娘。いわゆるニュークラシックソウルの流れをくむプロダクションをバックに、"Chapter1:Love Pain & Forgiveness"(2001)、"Chapter2:the Voice"(2002)をリリース。一部で高い評価を受けた。同郷のカニエ・ウェスト(Kanye West)のヒット曲"All Falls Down"で、ローリン・ヒル(Lauryn Hill)からサンプリング使用許可が下りなかったパートをシリーナが歌ったことで、その知名度は飛躍的にあがった。2005年、その勢いに乗ってサード・アルバム"Chapter3:the Flesh"をリリース。カニエはじめトゥイスタ(Twista)、コモン(Common)などのシカゴHIPHOP勢もバックアップして好評を博している。 http://notrax.jp/bands/detail/00000512.html【R&B/Hip-Hop:シ】シリーナ・ジョンソンSyleena Johnson / Chapter 3: The Flesh(CD) (Aポ...
Apr 23, 2006
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意外なことにRoc-A-Fellaが手がける初のR&Bシンガーという、ティアラ・マリー(Teairra Mari)のデビューアルバム。なのだが、いまいちプッシュされていない気がするのは気のせいだろうか? わかりやすく言えばデビュー当時のアシャンティ(Ashanti)あたりのような路線だろう。ファーストシングル1."Make Her Feel Good"が比較的地味なトラックだったためかもしれないが、セカンドシングル2."No Daddy"で徐々に火が付きつつある、いまはそんな空気。このセカンドシングル、ぜひPVを見てもらいたいのだが、シングルマザーに育てられた若い女の子(=ティアラ)が母の恋人や教師に反抗する痛快?な内容で、とにかくキュートな彼女の魅力が全開なのだ。攻撃的なトラックと合わせて、マションダ(Mashond)"Blackout!"あたりと一緒にフロアでもヒットしそう。そのほかのトラックも全体的に極力シンプルな音を目指したようなスキマ感がHIPHOPレーベルならでは?の気持ち良さを生んでいる。ロドニー・ジャーキンス(Rodney Jerkins)による4."Stay in Ya Lane"はストリングスをいじった不思議な浮遊感があるし、オルゴールの音をループした7."La La"はかわいいささやきがセクシーに響くトラック。そういうフワフワ感を重いビートでぶった切る、というサウンドが基調になっている。いわゆるROCジルシな電子音系トラック(ハンドサインプリーズ!)の8."Get Down Tonight"、10."Confidential"なんかもクラブで聴いたらぶっ飛ぶんじゃないかというキックの太さがかっこいい。バラード系では5."Act Right"、9."Phone Booth"があり、どちらも驚くような出来ではないにせよ、気持ちよく聴ける歌。ただ甘口のメロディをはめ込んだだけのR&Bよりも、もっと今のメインストリームなHIPHOPサウンドの先を見て作られたと思われるプロダクションは、一聴、地味に聴こえるかもしれない。しかし爆音で聴けばその破壊力は格別だ。 http://notrax.jp/review/detail/0000000223.html TEAIRRA MARI/ROC-A-FELLA PRESENTS TEAIRRA MARI
Apr 23, 2006
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■真実のソウル・シンガー、リーラ・ジェイムス「幼い頃は教会で歌っていたの。初めて教会のステージに立ったのが11歳の時。歌い始めたら、自由な気分になったわ」リーラ・ジェイムスはその驚くべき音楽的才能の源についてこう語っている。息を飲むようなリズム&ブルース、激しいファンクに熱いゴスペル――これらをダイナミックに融合したロサンゼルス出身の小柄なリーラは、極めて独創的な音楽を見事な歌声に乗せて届けてくれる。真のソウル・ミュージックの原点を称えつつ、それをさらに進化させた音楽。ここまで率直かつ素晴らしい声を聞くのも久しぶりだが「私のすべてが"自家製"なの」というリーラの説明通り、それは彼女の内面の奥深くから湧き出しているのだ。デビュー・アルバム『A CHANGE IS GONNA COME』を聴けば、リーラが現在のミュージック・シーンに登場した屈指の大型新人であることが確信できるはずだ。「ソウル・ミュージックが大好き。アル・グリーン、マイティ・クラウズ・オヴ・ジョイ、スピナーズ、ステープル・シンガーズ、シャーリー・シーザーの曲を聴いて育ったわ。とは言え、ただの"良い思い出"以上のものを自分の音楽で表現したい。人の心に触れる本物の歌声と、体に染み付くような忘れがたいメロディーを取り戻して、変化をもたらしたいの。」 ◎幼少時から70'sソウルを聴き地元の教会で歌ってきた彼女だが、学生時代の目標は陸上選手になることだった。しかし膝の負傷によりその夢が断たれると、音楽がリーラの生活の中心に躍り出た。「英語の授業時間には教室の片隅でいつも歌詞を書いていたわ。歌詞を書いて興奮しちゃって、大声で歌い出したこともあったな」と彼女は笑う。「ある日、"そこまで歌いたいなら、いい場所があるぞ"って先生に言われたの。"校長室で説教"って意味だと思ったんだけど」しかし、その"場所"とは校長室ではなく、その先生が副業で運営していた音楽スタジオだった。「先生はラテン・シンガーのセッションに関わっていて、私をバック・ヴォーカルに起用したの。この仕事でお小遣いが稼げたし、最終的にはガール・グループのメンバーになったのよ」3人グループのメンバーとして2年を過ごした後、彼女はソロで活動していこうと決意する。「私はソウルとR&Bのルーツに踏み込んで、深く掘り下げてみたかったの。でも他のメンバーはそういう音楽には興味がなかったみたい。私はゴスペルやブルースのシンガーが持っている要素に強く惹かれてたの。こういう音楽が苦痛や悲しみの多くを取り除いてくれるんだもの。私にとって歌とは内面のものを解き放つための"表現"法と言えるかも。私の歌は叫びなのよ」献身的に音楽活動に打ち込んでいた彼女はある日Warner Bros/リプリーズのA&R担当重役であるダミュ・エムトゥーメの目に留まる。「彼女の声を聞き、その熱い歌声を目の当たりにして、一緒にやりたいと思った」と語るエムトゥーメ。こうしてリーラはWB/リプリーズとの契約を手にし、アルバムの制作に取り掛かった。エグゼクティブ・プロデューサーのコミッショナー・ゴードンをはじめ、一流のプロデューサーの協力を得た彼女。「ほとんどの曲はオリジナルよ。でもサム・クックの"A Change Is Gonna Come"はどうしてもやりたかった。自分の人生と音楽について感じていることがこの曲に集約されているから。私がここまで来るには長い時間がかかったし、音楽が昔のような良さを取り戻すにも長い時間がかかった。この曲を通じて、ようやくその時が来たことを私なりに感謝しているの。」リーラは、自分の最終的な目標が何かをはっきりと分かっている。「永遠の名作とみなされる音楽、偽りのない誠実さを評価されるような音楽を作っていきたい。そう、アル・グリーンみたいな音楽を作りたいわ。自分のスタイルを作り上げて、アル・グリーンの声にあるようなソウルを自分なりに打ち出していきたいの。それって買うこともできなければ、努力して学べるものでもなくて、自分の内側になければ出てこないものなのよ。ソウルって真実のもの。無理して作ったものじゃないし、偽りでもこじつけでもないの」確かにリーラの歌は偽りではない。正真正銘の本物だ。傑出した楽曲が並ぶ「A Change Is Gonna Come」は過去の音楽の素晴らしさに立ち戻りつつも、それを現代、さらには未来に向けて進化させていく新人アーティストの大傑作である。http://wmg.jp/artist/leela/profile.htmlリーラ・ジェームス/チェンジ・イズ・ゴナ・カムLEELA JAMES/CHANGE IS GONNA COME
Apr 20, 2006
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アメリカ・オハイオ州のスプリングフィールドに生まれたジョン(本名:ジョン・スティーブンス)は、音楽に溢れた家庭で育つ。 幼少時代より祖母からゴスペルとピアノを教わり、8、9歳頃には地元の教会の聖歌隊で演奏するまでになっていた。 16歳の時、進学のため地元を離れ、フィラデルフィアへと移住。 音楽活動を続けながら、ジル・スコットやザ・ルーツ、ミュージック、アメール・ラリュー、グレン・ルイスら様々なミュージシャンたちとの交友関係を広げていたところ、友人の一人の従兄弟がカニエ・ウエストであることから、カニエ・ウエストと知りあう。 その後、カニエの大ヒット・アルバム「THE COLLEGE DROPOUT」に収録された「JESUS WALKS」など2曲を合作することになる。 これまでにもローリン・ヒルの「EVERYTHING IS EVERYTHING」でタップ・ピアノを披露したり、ジャネット・ジャクソン、ブリトニー・スピアーズ、コモン、タリブ・クウェリ、ブラック・アイド・ピーズなど数多くのアーティストのセッションワークに参加していたジョンだが、これがきっかけとなり、さらにオファーが殺到。 アリシア・キースやJay-Zらの作品に携わる一方で、満を持してのデビュー・アルバム『GET LIFTED』をカニエ・ウエストが主宰するレーベル“GETTING OUT OUR DREAMS(GOOD MUSIC)”の第一弾として、リリース。 カニエ・ウエストはもちろん、ブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アムがプロデューサーとして参加するなど、ジョンのソウルフル・ヴォイスにヒップ・ホップ・フレイヴァーがブレンドされた最高の仕上がりとなっている。http://www.creativeman.co.jp/040912pages/john.html John Legend/Get Lifted【ジョン・レジェンド】
Apr 19, 2006
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http://www.click2music.se/product.asp?prd=1121&art=123わずか15歳でデビューしたブラックミュージックシーンのアイドル的シンガー、通称「ニカウさん」ことアッシャーは、強力なエンターテイナーだ。歌い、どんなスローな曲でも必ずといっていいほど踊ってみせるそのパフォーマンスは、明らかにマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)を意識したものだと思われ、特にアメリカ国内では女性ファンからの圧倒的な支持を集めているという。14歳でLA Reidに見出され、翌年リリースしたアルバム"Usher"からは"Think of you"をヒットさせ、高校卒業後の97年のセカンドアルバム"My Way"でその人気を決定づけた。このアルバムから出世作"You make me wanna.."をはじめ"Nice & Slow"、"My Way"といったヒットシングル(3枚ともにプラチナム=100万枚のセールスを記録!)を生み出しており、その時期の流行を貪欲に取り入れ、方向づけた感がある。さらに2000年の"All About You"に楽曲を追加した、01年の"8701"(オフィシャルの3rdアルバムとされる)とたて続けにアルバムをヒットさせ、スターの貫禄を身に着けた。特にこの時期はポップよりな男性R&Bシンガーとして同じようなポジションにあったジニュワイン(Ginuwine)とのライバル関係のようなものがお互いの作品から感じられて面白かった。"8701"からは"U remind me"、"U don't have to call"、"U got it bad"などの連続ヒットでお子様アイドル的イメージを払拭、これらの曲が気合いの入ったライブ・パフォーマンスで楽しめるDVDなどもリリースしている。そして迎えた2004年、前評判の高かったアルバム"Confessions"をリリース。相前後して長期にわたるチリ(Chilli / TLC)との破局が伝えられるなど話題になるが、それよりなによりリル・ジョン(Lil Jon)プロデュースによるクランク(Crunk)ビートをR&Bに仕上げた"Yeah!"が特大ヒットを記録、アルバムも売れに売れている。 http://notrax.jp/bands/detail/00000002.html【R&B/Hip-Hop:ア】アッシャーUsher / 8701(CD) (Aポイント付)
Apr 3, 2006
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http://www.upenn.edu/almanac/volumes/v51/n13/decextras04.html80年代から活躍する、アカペラを得意とするコーラスグループのなかでも最も評価の高いグループの一つ。85年に結成、メンバーの変更を経て、アルビン・チーア(Alvin Chea)、ジョーイ・キブル(Joel Kibble)、マーク・キブル(Mark Kibble)、クロード・マックナイト(Claude McKnight)、デビッド・トーマス(David Thomas)、セドリック・デント(Cedric Dent)の6人で活動している。1988年に発表した、"Spread Love"を含むデビューアルバム"Take 6"が大ヒットを記録、グラミー賞を獲得したことでその地位を確かなものとした。その後90年代初頭まで続く男性コーラスグループの流行のさきがけともいえるが、その中でもジャズよりのスタンスをとり、現在に至るまで安定した人気を維持している。 http://notrax.jp/bands/detail/00000536.html
Apr 2, 2006
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http://en.wikipedia.org/wiki/TLCファーストアルバム"Ooooooohhh...On the TLC Tip"で登場し、セカンド"crazysexycool"でビッグスターとなったアトランタベースのR&Bグループ。レフト・アイ(Left Eye)、チリ(Chilli)、Tボズ(T-Boz)という3人の女性がそれぞれの個性を際立たせ、HIPHOPの流行を取り入れて成功した、90年代のトップアーティスト。メインボーカルをTボズ、ラップや曲作りをレフト・アイが主に担当した1992年の一作目ではレフトアイの強烈な個性と、LA ReidやDallas Austin、そしてもちろんベイビーフェイス(Babyface)によるニュー・ジャック・スウィング後期のプロダクションがガッチリはまり、"Baby, Baby, Baby"、"What about your friend"などがヒットした。94年には”crazysexycool”が110万枚(USのみ)のセールスを記録、シングル"Waterfalls"がビルボード年間no.1ヒットとなるなど、"Creep"、"Diggin' on You"、"Red Light Special"などヒットを連発。彼女らはこの作品でグラミーを獲得、人気を不動のものにするだけでなく、ブラックミュージックファンの枠を超えた人気を集めることになる。満を持してリリースされた3作目"Fanmail"からも"No Scrub"がヒットするなど、アルバムで600万枚を売り上げ、再びグラミー賞を獲得した。このころにはレフト・アイの精神的不安定さ(恋人との関係から起こした放火事件が有名)とメンバー間の対立が頻繁に話題になるようになり、レフト・アイのソロ作やレコード会社移籍の発表などが行われる。実際にレフト・アイのソロアルバム"Supernova"が世界中でリリースされるが、US国内では発売を中止されるなど、問題が絶えなかったようだ。ところが、2002年4月25日、レフト・アイが休暇中に交通事故による頭部のケガが元で急逝。残された2人はTLCとして既に制作を進めていたアルバム"3D"をリリースするが、さすがに前2作ほどの勢いは得られなかった。周知の通り、彼女らはHIPHOPがまだまだマイナーなものだった時期に登場し、ファーストではHIPHOP界で流行していたJBなどのサンプリングビートを大胆に取り入れ、セカンドではバスタ・ライムズ(Busta Rhymes)やアリ(A Tribe Called Quest)が登場するなどHIPHOPとの連携をはっきり打ち出していた。しかもラップと歌をどちらも含んだ楽曲を連続してポップフィールドでヒットさせてきた彼女らは、ある意味でHIPHOPを一般に認知させる上で多大な貢献をしてきたということができるだろう。
Apr 1, 2006
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現代の音楽シーンにおいて、ソングライティング/アレンジ/パフォーマンスのあらゆる要素において、まさに二人といないセンスと才能を持ったアーティスト。生まれてすぐに起こったアクシデントで盲目となってしまうというとても困難な状況におかれながらも、幼少期にピアノとハーモニカ、ドラムをマスター。デトロイトへ移住するとミラクルズ(The Miracles)のロニー・ホワイト(Ronnie White)に見初められ、Motownの創設者ベリー・ゴーディ(Berry Gordie)に引き合わされMotownと契約。弱冠12歳でリトル・スティービー・ワンダーの名で、同じ盲目の巨人レイ・チャールズ(Ray Charls)にトリビュートしたデビューアルバム"Tribute to Uncle Ray"('62)をリリースした。現在までオリジナル、ベスト盤双方を含め30タイトル以上のアルバムをリリースし、ソングライティングでクレジットされている作品数は数え切れない程に存在する。60年代のいわゆるモータウンテイストを十分に打ち出したカヴァーソング達や、"My Cherie Amour"、"Signed, Sealed, Delivered"など彼の代名詞とも言える大ヒットソングは多数あるが、70年代初期に完全なセルフ・プロデュースの体制へ移行していき、自己のサウンドを発掘/展開していった過程にリリースされたアルバム達には、現在の音楽シーンの礎となった楽曲がやはり数多ある。中でも数えて17枚目のアルバム"Talking Book"('72)は、チャートの上昇とともに彼の名前とキャリアを一気にスターダムにまで押し上げた、ターニングポイントの時期の1枚で、"You Are the Sunshine of My Life"、"Superstition"等の名曲がずらりと並んでいる。続く"Innervisions"('73)でも"Too High"にはじまり"Higher Ground"、"Golden Lady"、"Don't You Worry 'Bout A Thing"等、現在でもライブで人気の楽曲や、カヴァーされ続けている素晴らしいメロディを持った曲たちが収録されており、この時期が彼のシーンにおけるソングライター/アーティストとしての存在を不動のものにしたと言える。続くアルバム"Fulfillingness' First Finale"('74)では、セルフ・プロデュースに移行して初のビルボード1位を獲得し、同じく1位を獲得した"Songs in the Key of Life"('76)には、数多のアーティストにカヴァー/参照され世界中のラジオ・クラブなどで今でも愛され続ける"As"、"Isn't She Lovely"や"Another Star"などが収録されている。その後も"Hotter Than July"('80)や"In Square Circle"('85)等のオリジナルアルバムや、"Woman in Red"('84)、スパイク・リー(Spike Lee)監督作品"Music From The Movie 'Jungle Fever'"('91)等のサウンドトラックなどを担当 / 制作、スターが集結したUSA for Africaによるチャリティープロジェクト"We Are The World"やディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)らと競演した流麗なメロディーのスロー"That's What Friends Are For"など、多方面の作品に関わり、その名を残してきている。元妻でもあったシリータ(Syreeta)やミニー・リパートン(Minnie Riperton)、マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)やディオンヌ・ワーウィックら他のアーティスト達への楽曲提供も非常に多数行っており、また他アーティストにより彼の楽曲がカヴァーされるケースも非常に多く、それだけ楽曲としてのクォリティが高く同時に愛される作品が多いソングライターと言える。また、ヒップホップやハウスのクラブシーン/DJからも絶大な支持があり、サンプリングソースとしても多数の楽曲が使用されているほか、近年ではDJ スピナ(DJ Spinna)とボビート(Bobbito)が"Wonder Wrote It"というミックステープ(後にブートレグCD化)をリリース、スティービーが携わった曲たちをミックスするという手法で彼に対するリスペクトを示している。余談だが、個人的にも大変な親日家であるという彼は、ライブの他にも多数のテレビCMにも登場したり来日時にK-1を観戦したり、と今でも色々なところでここ日本でもお目にかかることがある。http://notrax.jp/bands/detail/00000281.html
Mar 29, 2006
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http://funkysouls.com/79index.htmlここ日本のヒップホップシーンが、今の大きさを形成するまでの経緯を思い返してみる。すると要所で彼の存在がその広がりの起爆剤の一部になっていることに気が付く。その小さなきっかけの1つ、デジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)に属していたことは、時代が経つにつれて触れられるコトがなくなってきているようだ。91年にリリースした"2Pacalypse Now"では、後にかなりのヒットシングルとなる"Brenda's Got a Baby"を収録しているのだが、リリース時にはあまり話題にはならなかった。彼のアーティストとしてのもう1つの側面である俳優業の成功を、近代ブラックムービーの傑作"Juice"において収めた結果を待って初めて得られたヒットだったのだ。続く2ndアルバム"STRICTLY 4 MY N.I.G.G.A.Z..."('93)からは、"I Get Around"とそのカップリング"Keep Ya Head Up"、その後のカット"Papa's Song"もヒット。兄とのユニット"Thug Life"でのアルバム"Volume 1"もリリースし、映画もジャネット・ジャクソンと共演した"Poetic Justice"('93)や"Above the Rim"('94/サントラには"Thug Life"名義での"Pour Out A Little Liquor"を収録)等に出演し、こういった点でも本国のみならず、日本のシーンにもそのファンを増やしていく。が、やはり爆発的にリスナーを増やし、カルチャーとしても大きく世界中の注意を引くコトになった出来事は、2Pacが襲撃され5発も銃弾を受けたところから始まった、ノトーリアス・B.I.G.(Notorious B.I.G.)/ パフ・ダディ(Puff Daddy。現P.Diddy。)に代表されるBad Boy勢との確執だった。数年にわたる巨大な東西の抗争にまで発展したこの件は、2人の死後も事件的に釈然としない点を残してはいるが、エミネム(Eminem)やドクター・ドレ(Dr.Dre)他のアーティストの努力により、近年では音楽的にも1つの終結をみている。95年には、93年に起こしたレイプ容疑の為、襲撃後の判決により収監されるが、同年にリリースした"Me Against the World"はマルチ・ミリオンを売り上げるNo.1ヒットとなり、PVもまさに「ヘヴィープレイ」された"Dear Mama"をはじめ、切られるシングルは全て大ヒット。皮肉ではあるが、件のニュースの話題性も相まって、全米中の関心を集めるアーティストとなる。その後、ウエストサウンドを象徴するレーベルの1つ"Death Row"のトップ、シュグ・ナイト(Suge Knight)に説得され同レーベルと契約。シュグが保釈金を払うことにより保釈されると、そのままレコーディングへ。その結果、96年には2Pac名義では4枚目のアルバム"All Eyez on Me"をリリース。今でもクラブではヘビープレイされている"California Love"や"How Do You Want It"などがシングルとして切られるや、やはりチャートを席巻し、もはやヒップホップの枠組みを飛び越え、自身の言う"Amerika'z Most Wanted"となった。が、同アルバム収録の"2 of Amerikaz Most Wanted"や、シングル"How Do You Want It"のカップリングにノトーリアス・B.I.G.とその弟分ジュニア・マフィア(Junior Mafia)をディスした"Hit'em Up"を収録した為に、東西抗争はさらに激化してしまうことになる。そして同年9月、ラス・ヴェガスにて襲撃に遭い収容された病院で他界してしまうが、この事件とアーティスト間の抗争との関連性は未だ明らかにされてはおらず、犯人はおろか動機すらも定かになっていない。その後は、他界前までに収録していたとされるマキャベリ(Makaveli)名義のアルバム"Don Killuminati: The 7 Day Theory"('96/Death Row)や、2pacの母がAmaruレーベルを設立・リリースまでこぎつけた"R U Still Down? (Remember Me)"('97/Amaru/Jive)、"Greatest Hits"('98/Interscope)、Outlawzとレコーディングしていたという"Still I Rise"('99/Interscope)や"The Rose That Grew From Concrete" (2000/Interscope)、"Until The End of Time"(2001/Interscope)、"Better Dayz"(2002/Interscope)とほぼ毎年のようにリリースされ、その殆どがマルチプラチナムを売り上げる。2003年には、家族が企画した伝記映画"Ressurection"プロジェクトで、「彼の母親から託された」ということで、エミネムやドクタードレーらがサウンドトラックを手掛け、そこからのシングルは全てヒット。死後8年、伝記映画のタイトル通り、実は復活したのではないか、と思えるほど彼の「新作」が今もなお続々聴ける。不幸にも同様に他界してしまったビギー同様、死してもなお、ヒップホップシーンに影響を与え続けているアーティストである。http://notrax.jp/bands/detail/00000065.html
Mar 28, 2006
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http://kvsp.com/artistofthemonth.html90年代以降、ジャマイカのDANCEHALLシーンを代表する存在として、特にその音楽を世界に紹介するアーティストとして知られるベテランレゲエディージェイ。1996年に"Baby Girl"でデビュー以後、レゲエシーンでコンスタントに楽曲を発表する一方、DMXなどHIPHOPアーティストの作品に参加するなど、アメリカのマーケットを視野に入れた活動を展開。2003年、その時期までのヒット曲などをまとめたアルバム"Dutty Rock"をワールドワイド・リリースするや、ディワリというリズムトラック(レゲエで言うところのリディム)の流行やクールでエネルギッシュなPVとあいまって、大ヒットを記録。"Gimme the Light"、"Like Glue"、"I'm Still in Love"などがジャンルを超えてフロアを沸かせた。その後はエレファント・マン(Elephant Man)やヴァイブス・カーテル(Vybz Kartel)にスポットを奪われた観があるにせよ、2005年に続くアルバム"the Trinity"をリリース。ファーストシングル"We be Burnin'"をポップチャートに送り込んでいる。
Mar 27, 2006
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http://www.kantor.com/blog/2005/03/index.shtml1978年クィーンズはサウスジャマイカ出身。実際にドラッグディーラーとして生き延びていた10代、牢に収監されるよりRapに傾倒することを選んだ彼の人生は、ランDMC(Run DMC)のジャムマスタージェイ(Jam Master Jay)にその才覚を見出され、トラックマスターズ(Track Masters)に出会ったところから加速度を増す。トラックマスターズがColumbiaとの契約を用意すると、フルアルバムを完成させるべくレコーディングに入り、アルバムリリース前にシングルとして発売された"Your Life's on the Line"や"How to Rob"はそこそこのヒットを出す。が、"How to Rob"をリリースした直後の2000年5月、何者かに襲撃を受け、瀕死の重体に。これ以上無いであろう幸運のもと、9発もの弾丸を受けながらも、死の淵を渡ることなく生き延びたが、待っていたのはColumbiaの契約撤回とアルバムのお蔵入りという状況だった。それからの50はアンダーグラウンドに戻り、現Gユニット(G Unit)のメンバーと共に「Mix Tape内にメジャーなトラックを使ってフリースタイルや自作曲を収録する」という形でその存在を再びアピールし始める。2002年までにリリースされた幾多のMixテープがもたらしたものは複数のメーカーからの契約オファーだったが、最終的に「一番アーティストとしてきちんと扱ってくれた」として、エミネム(Eminem)が提示した契約に落ち着くことになる。それからの彼の快進撃はと言えば、映画"8 Mile"のサントラ用に録音された"Wankasta"のブレイクから始まり、アルバムのリードシングルでドクター・ドレ(Dr. Dre)プロデュースの"In Da Club"がリリースされるや空前の大ヒットになるなど周知の通り。そして発売後たった5日間で80万枚以上を売り上げたデビューアルバム"Get Rich or Die Tryin'"への舞台は用意された。その後もアルバムからのリカットシングル"21 Question"や"P.I.M.P."などのクラブ/ラジオ・アンセムでヒットを飛ばし、先述の自身のユニット"Gユニット"のアルバム"Beg for Mercy"もリリース。ジャ・ルールを筆頭にしたマーダー・インク(Muder Inc.)との確執は、数年前の2パック(2Pac)とノトーリアス B.I.G.(Notorious B.I.G.)のそれを思い起こさせるほど加熱し、話題となっている。とにもかくにも、New York Timesにもそのデビューを取り上げられるほどの注目を集めた50セント。その少しボケた感の有るフロウと、現在のハードコアリスナーを満足させるリリックで、今後も当分の間その人気が失速することはなさそうだ。http://notrax.jp/bands/detail/00000033.html【CD】50Cent/ザ・ヴァレンタインズ・デイ・マッサカー《期間限定特別価格盤》<2005/3/7>
Mar 26, 2006
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http://noted.blogs.com/westcoastmusic/best_of/15歳でデビュー、というのは、当時でも格別驚くほどの事ではなくなっていた時代なのだが、やはりかなりセンセーショナルに扱われた彼女のデビュー作"Brandy"('94)は、"I Wanna Be Down"('94)や"Baby"('95)、"Best Friend"('95)に"Brokenhearted"('95)と、切ったシングル全てがトップ10入り(うち前3曲はトップ3に)し、'95年末にはアルバムがトリプル・プラチナムに輝く。メアリー・J(Mary J. Blige)以降、ヒップホップテイストを取り込んだR&Bに時代の潮流が向きを変えていた事実もあり、同時期にデビューしたモニカ (Monica)然り、「ヒップホップのビートでも歌えるティーンエイジャー」をどこのメーカーも擁立しまくっていた時代に、先述のモニカ同様、頭ひとつ飛び抜けて評価されていたアーティストだった。その後はサントラ"Waiting to Exhale"用に収録された"Sittin' up in My Room"('96)等のシングルヒットを残していくが、'97年には一度演技の世界へ傾倒し、"Cinderella"をはじめ数々のテレビドラマやショーに出演。'98年にリリースされたモニカとの話題のコラボレーションシングルで、ロドニー・ジャーキンス(Rodney Jerkins)制作の"The Boy is Mine"がリリースされるまでは、シンガー活動は控えめだった。続く2ndアルバム"Never Say Never"も、13週もビルボードチャートのNo.1に鎮座した先述シングルのヒットの影響もあり、'99年には売り上げが500万枚に到達。そこから切られたシングルもチャートを賑わせ、"Have You Ever?"('98)などはやはりチャート1位に。様々な賞を獲得し、テレビシリーズにも出演。完全にスターダムの位置が定着した彼女は2002年にやはりロドニーとのコンビで制作した斬新なサウンドのシングル"What About Us"をリリース。しかし音楽業界の不況突入も手伝い、アルバム"Full Moon"は前作ほどの売り上げまで伸びず100万枚でストップ。シングル"Fullmoon"もカットされるが、爆発的なヒットにはならず。そうして2004年になり、リベンジのごとくリリースしてきた最新アルバム"Afrodisiac"は、スーパープロデューサーの栄冠を手にしたカニエ・ウエスト(Kanye West)制作の"Talk About Our Love"で快調なスタートを切り、ティンバランド(Timbaland)等も脇を固める内容で評価も上々。内容は決して悪くないものの、アレンジやエディットにウェイトを置いていた感のあった前作に比べ、ブランディのスキルが前面で十二分に引き出されている内容だけに、この先どれだけシングルが切られるかが楽しみな1枚である。http://notrax.jp/bands/detail/00000055.html【R&B/Hip-Hop:フ】ブランディBrandy / Afrodisiac (CD) (Aポイント付)
Mar 25, 2006
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http://www.demodaze.com/news/features.cfm?template=features&id=569DMXなどのプロデュースで知られるヒットメイカー、スウィズ・ビーツ(Swiz Beatz)のレーベルFull Surfaceが、第一弾アーティストとして契約した攻撃的なスタイルのラッパー。レーベルとの契約当時わずか16歳だったにも関わらず、フリーウェイ(Freeway)とのラップバトルに(一般的な評価として)勝利を収める一方、R・ケリー(R.Kelly)をフィーチャーしたシングル"Hotel"が大ヒット。これを受けて2004年にデビューアルバム"Split Personality"をリリース、マスした。2005年には早くもセカンドアルバム"I'm a Hustla"をリリース、よりハードなスタイルを提示した。このアルバムからはタイトル曲やメアリー・J.ブライジ(Mary J.Blige)をフィーチャーしたそのリミックス、"B-Boy Stance"などがヒットしたが、リリースと相前後して殺人事件の被疑者として拘留されてしまい、現在審理中の身。 http://notrax.jp/bands/detail/00000414.html【R&B/Hip-Hop:キ】キャシディCassidy / I'm A Hustla(CD)(Aポイント付)
Mar 24, 2006
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http://noted.blogs.com/westcoastmusic/music_charts/本名Ciara Harris, ATL(アトランタ)生まれの18歳。軍の仕事に携わっていた両親の関係でドイツやNY、カリフォルニア、アリゾナ、ネバダ州など様々な都市で暮らした経験を持つ。幼い頃にはモデルになることを夢見たシアラだったが、15歳の時にTVで観たDestiny’s Childのパフォーマンスに衝撃を受け、シンガーになる事を決意。その日からホイットニー・ヒューストン、パティ・ラベル、ジャネット・ジャクソンといった憧れのシンガー達のスタイルから学びながら、本格的なトレーニングを始める。まず「Hear Say」なるガールズ・グループで短期間活動した後、ソロ・シンガーとして独立。そして2002年大物プロデューサー=ジャジー・フェイと出会い、即座に彼女の才能を見抜いた彼のレーベルSho-Nuffとプロダクション契約を結ぶ。シアラが“ミュージック・ソウルメイト”と呼び、尊敬するジャジーの元で更なるトレーニングを積む一方、LAリードとのオーディションの機会を得て、LaFaceからのメジャー・デビューが決定し現在に至る。約3年という短期間でデビューをつかんだシアラだが、この3年間で多くの事を学んだという。 「今までの人生を通して典型的な18歳が学ぶ以上の事を学んできたと思う。音楽業界に身を置くと成長のスピードが普通よりずっと速いの」だが、シアラの18歳らしからぬ成長振りと成熟さはむしろ夢をかなえるんだ、という自身の強い意志に起因するものかもしれない。「実際に紙に書いたみたの、“私はプロのシンガーになるんだ、出来るだけ早く”って。そのためには多くのものを犠牲にしなきゃならなくて、でもその犠牲こそが今日こうして夢をかなえることが出来た事におけるキーポイントだったと思う」「映画に行くことや友達と遊ぶことを我慢した、実際友達にこう言ったこともある、“今月は遊ぶのも無理だし、電話も出来ないと思う”って・・・。どっちにしてもそんなに沢山友達はいないんだけどね、友達は少なくてもいいの。ボーイフレンドとの時間も我慢した、実際には失恋しちゃったんだけど、“私はシンガーになってみせる、トップに立つんだ”って自分に言い聞かせたわ」そしてシアラは今、現実に世界のトップに踊り出ようとしている!「でもただえらそうなリリックを書いて、バウンシーなトラックに乗って歌って踊るだけじゃ嫌なの。私の目標はポジティブなメッセージを世に届けて“辛い経験をしているのはあなたひとりだけじゃない”って皆に伝えてあげること。偶然私は友達の相談に乗る、という才能には恵まれて、自分は何かメッセージを伝える為に存在してるんだって思うの。私達が周りに与える影響って凄く重大でしょう?だからただレコードを出す為にレコードを作りたくはない。自分が書くものすべてにメッセージをこめたいし、それによってアーティストとしてのキャリアも長続きするんじゃないかな?」この意志の強さ、そして18歳らしからぬ思慮深さはシアラのユニークな個性のひとつ、あのリル・ジョンでさえ彼女のこのエネルギーに圧倒されたとか!!http://www.blackcandyonline.com/_artist/biography.php?id=1745【R&B/Hip-Hop:シ】シアラCiara / Goodies (CD) (Aポイント付)
Mar 23, 2006
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http://www.esmas.com/espectaculos/musica/479044.html2000年代、徐々にラテンアメリカで発展した新しい音楽、REGGAETON(レゲトン)のアーティストの中で、いち早く世界的大ヒットを飛ばすことに成功したのがこのダディ・ヤンキー(Daddy Yankee)だ。そのヒット曲、"Gasolina"は収録アルバム"Barrio Fino"が発売された2004年から2005年にかけてじわじわとその勢いを拡大し、当初はリリースされなかった日本盤が発売されるなど日本でも大きな支持を集めた。1977年2月3日、アメリカ自治領であるカリブ海の島、プエルトリコで生まれたダディ・ヤンキーはSALSAとHIPHOPの影響を受けて音楽活動を開始、90年代後半からサウンドトラックへの参加などでREGGAETONシーンそのもを先導する役割を果たしてきた。2000年にはデビューアルバム"El Cartel de Yankee"をリリース、続いてセカンド"El Changri.com"(2002)、"Los Homerun-es"(2003)をリリース、プエルトリコを中心にカリブ海沿岸で大ヒットを記録した。その後、Universalのもとで大ヒットする4thアルバム"Barrio Fino"のリリースに至るわけだが、このタイトルはBillboardチャートで初登場1位を記録した初めてのアルバムとなった。 http://notrax.jp/bands/detail/00000372.htmlDaddy Yankee/Barrio Fino【REGGAETON】
Mar 22, 2006
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http://pitbull-dmx.tripod.com/NYはヨンカース出身のハードコアMC。1991年にソース誌の"Unsigned Hype"に取り上げられると、そのままRuff Houseと契約。1992年にはデビューシングル"Born Loser"をリリースするも、まったくプロモーションされなかった為にセールスに繋がらず、Ruff Houseとの契約が終了してからは、'94年にもリリースを試みるも、トラブル続きで断念。が、'97年にDJクルー(DJ Crue)のミックステープにフィーチャーされると、Def Jamが契約をオファー。同年のL.L.クール・J(L.L. Cool J)のシングルで、彼とキャニバス(Canibus)とのビーフという話題のきっかけにもなった"4, 3, 2, 1"にゲストとして参加。その勢いで準備は整い、'98年にリリースされた"Get at Me Dog"で大ブレイク。同年にリリースしたファーストアルバム"It's Dark and Hell Is Hot"は400万枚を売り上げる大ヒットアルバムとなった。同年の暮れ近くにリリースした2ndアルバム"Flesh Of My Flesh, Blood Of My Blood"も翌年の3rdアルバム"...And Then There Was X"もマルチ・プラチナム・アルバムとなり、特に2000年にリリースしたシングル"Party Up"は特大のセールスを記録。"What's My Name?"等もヒットし、彼の名を不動のものにしたシングルとなった。一方で、'99年にはDMXが中心となり、ファーストアルバムからの盟友スウィズ・ビーツ(Swizz Beatz)、イヴ(Eve)らと共にラフ・ライダース(Ruff Ryders)を結成。時流に乗ったそのサウンドと、ハードコアな内容が人気を呼び、DMX名義の"Ruff Ryders' Anthem"や、ラフライダース名義でジェイ・Zをゲストに迎えたシングル"Jigga My Nigga"の大ヒットと共に、"Ryde Or Die Compilation, Vol. 1"はシーンの一大話題作となる。2000年にはそのラフ・ライダースの2ndアルバム"Ryde Or Die Compilation, Vol. 2"をリリース。同時期に映画"Romeo Must Die"に楽曲提供とスクリーン出演と言う形で絡み、俳優業もデビュー時の"Belly"以降から着実にこなしていく。翌年には4枚目のアルバム"The Great Depression"('01)をリリースし、"Who We Be"等のヒットを産み、その後にも"Cradle 2 The Grave"という映画に出演、サントラにも参加して絶好調振りをアピールするが、レーベルとの確執が生まれていった影響を語り「次のアルバムで最後になる」という宣言を残す。そうしてリリースされた5枚目のアルバム"Grand Champ"('03)もプラチナム・アルバムに認定されるが、結局その後のアルバムリリース等の話は一切無く、シングル曲"Get It On The Floor"がクラブヒットしたにとどまっている。http://notrax.jp/bands/detail/00000020.htmlザ・グレイト・ディプレッション
Mar 21, 2006
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http://www.live-eight.org.uk/paris/1981年、イギリス・サウサンプトン出身の現在24歳。UKガラージの一角にカテゴライズされるサウンドで、大規模ではないものの日本においても一定の盛り上がりを見せたムーヴメント、「2ステップ」。そのムーヴメントのなかで”キング・オブ・2ステップ”の異名を取ったのがこのイケ面野郎こと、クレイグ・デイヴィッド。2000年にリリースされたシングル「フィル・ミー・イン」がUKヒット・チャートで第1位を獲得。その勢いに乗ったまま同年に発表した1stアルバム『ボーン・トゥ・ドゥ・イット』もアメリカをも含む全世界で大ヒットを記録!UK生まれの19歳の若者は、アルバム1枚で一躍、時代の寵児となった。2002年に発表した2nd『スリッカー・ザン・ユア・アヴェレージ』で、クレイグは本格的にUS侵略を果たす。クレイグ史上、唯一のコラボとなった、スティングと絡みあうシングル「ライズ&フォール」(スティングが’93年に書いた「シェイプ・オブ・マイ・ハート」をサンプリング)を筆頭に、前作よりもスムーズなナンバーを多く内包するこのアルバムも大きなヒットを獲得。その後、所属レーベルのTELSTARが消滅に伴い、ワーナー・ミュージックUKが契約。レーベル消滅というショック時にも、その創作意欲は止まらず、曲を作り続けていたという。そして2005年、24歳の若き天才は、R&B/ソウルの王道を歩み始めた。2005年版「ライヴ・エイド」とも言われる話題騒然の「ライヴ8」パリ公演(他にジャミロクワイやユッスン・ドゥールらが出演)を皮切りに、ライヴ活動も再開!モントルー・ジャズ・フェスティヴァル等各国のジャズ・フェスにも軒並み出演し、8/8には、話題の新人:リーラ・ジェイムスをオープニング・アクトに迎え、ロンドン・サマーセットハウスにて、1stシングル「オール・ザ・ウェイ」発売記念ライヴを開催!もう、クレイグ・デイヴィッドから目が離せない!!http://wmg.jp/artist/craig/profile.html CRAIG DAVID/THE STORY GOES…
Mar 20, 2006
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http://entertainment.news.com.au/story/0,10221,15925686-7484,00.htmlLos Angelsのアンダーグラウンドシーンで、ダンサーとして活動していたウィル・アイ・アム(will.i.am)、アップルダップ(apl.de.ap)、タブー(Taboo)によるグループ。バンドとプログラミングビーツとを組み合わせたサウンドプロダクション(ウィルがメインプロデュースを担当)とメンバーそれぞれの強烈なキャラクターを武器に、ファーストアルバム"Behind the front"から"Fallen Up"などのアンダーグラウンドヒットを飛ばすが、人気が爆発したのは第3作、"Elephunk"に収録されたメッセージソング、"Where is the love"から。売れっ子アイドル、ジャスティン・ティンバーレイク(Justin Timberlake)の控えめな客演も光るこのメローな一発で、US本国はもちろんヨーロッパ、アジアでも爆発的なヒットを記録、ビッグアーティストの仲間入りを果たした。一方では第1作でのポップさを控えた作風やウィルのソロ作での実験的なサウンドでアンダーグラウンドからも評価されていたり、ダンサーという出自を生かしたパフォーマンスやハイクオリティなPV、ひたすらおしゃれなファッション性でも注目される、多面的なアーティストだ。ちなみにグループ名はアメリカで一般的な食用の豆のこと。 http://notrax.jp/bands/detail/00000045.html【輸入盤CD】Black Eyed Peas(ブラック・アイド・ピーズ)/Elephunk
Mar 19, 2006
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http://www.aight-genossen.ch/index.php/m=events/id=2833シカゴ出身のMC。1992年のファーストアルバム"Can I Borrow a Dollar?"をリリース。秀作だらけのニュースクール全盛期にこそ、今のような目立つ程の人気にまでは至らなかったものの、このアルバム自体は後年になるにつれて評価が上がっていく。その後の2ndアルバム"Ressurection"('94)以降、2002年暮れのリリースとなった5thアルバム "Electric Circus"まで、作品をリリースする毎に常にその年の話題作となり、その特徴的なフロウとギャングスタ化されないスタイル、そして常にセンスの良いプロダクションのバックアップのコンビネーションが人気を呼んでいる。特に2ndアルバムでは、DJシニスタ(DJ Sinista)のスクラッチとアーマッド・ジャマル(Ahmad Jamal)のピアノサンプルをフィーチャーした"Ressurection"や、Ice Cubeとのバトルの一部としても有名な"I Used to Love H.E.R."など、世界中にファンを広げた。1997年には、ヒットシングル"Reminding Me (Of Sef)"や、ローリン・ヒル(Lauryn Hill)をフィーチャーした"Retrospect for Life"を収録した3rdアルバム"One Day It'll All Make Sense"を制作。豪華ゲストを迎えたそのアルバムをリリース後、所属レーベルだったRelativityを離れ、その活動拠点をNYに移す。その後 MCAと契約し、2000年には4枚目の話題作"Like Water for Chocolate"をリリース。ザ・ルーツのuestloveをアルバムプロデュースの中心に据え制作されたアルバムは、プロデュースチーム"ソウルクェリアンズ(Soulquerians)"の代表作ともいえる作品になり、ジェイ・ディー(Jay Dee)プロデュースでボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell)の"Open Your Eyes"をバラバラにしてフックにしてしまう、という斬新なプロダクションが産んだ"The Light"のヒットが記憶に新しい。シングルにもなった"Ghetto Heaven Pt. 2"やDJプレミア(DJ Premier)プロデュースのリードシングル"The 6th Sense"他、より人種的なルーツの部分や意識の領域にもトピックの中心を移していっており、アルバムコンセプトが非常に明解な作品として評価が高い。5thアルバム"Electric Circus"では、先述のソウルクェリアンズのバックアップに加え、リードシングルとなった"I Got A Right Ta"でネプチューンズ(The Neptunes)のファレル(Pharrell Williams)を迎えたファンクネス溢れるネプチューンズサウンドに挑戦。続いて、メアリー・J(Mary J. Blige)をフィーチャーした"Come Close"は、シングルリリース後大ヒット。ロック的なサウンドに寄ってみたりと、uestloveの実験的な色も垣間見せつつ様々な趣向に挑戦したアルバムである。ちなみにアーティスト名だが、2ndアルバムのリリース後まではコモン・センスと名乗っていたが、名称の権利関係の問題が発生した為、改名した。http://notrax.jp/bands/detail/00000155.html【R&B/Hip-Hop:コ】コモンCommon / Be (CD) (Aポイント付)
Mar 18, 2006
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http://lib.verycd.com/2004/04/23/0000010326.html1990年にデビュー以来、トータルで3000万枚以上アルバムを売り上げているモンスターR&Bグループ、ディスティニーズ・チャイルド(Destiny's Child)のメインヴォーカル。2001年にグループが個々の活動を重視する為に、一旦活動停止すると、2002年には映画"Austin Powers in Goldmember"のヒロイン役として大抜擢され、華々しい銀幕デビューを飾る事になる。同時に内容的にも好評を得た同映画のサントラに、ネプチューンズ(The Neptunes)プロデュースによる"Work it out"を収録。彼女の名前が一般的にもソロアーティストとして認知されると、2003年、デビューアルバムからの衝撃的なリードシングル"Crazy in Love"をリリースし、ラジオ・クラブともにチャートを席巻。ウワサの相手とされるジェイ・Zをフィーチャリングした同曲が飛ぶように売れると、その後にリリースされたソロデビューアルバム"Dangerously in Love"もお約束のようにビルボードアルバムチャート1位。"Baby Boy", "Me, Myself and I", "Naughty Girl"とカットしたシングルは全てヒットし、その後またまたヒロイン役で出演したゴスペルコメディ映画"Fighting Temptations"のサウンドトラックからは"Fighting Temptations" / "Summertime"がシングルカットされ、殆どの曲がラジオやクラブで定番となった。彼女とジェイの関係においては、色々なゴシップが登場してきているが、グループのメンバーであるケリー(Kelly Rowland)は一足先に婚約を発表したそうで、アルバムのリカットも一段落した今、その手のニュースこそ、聴くのを待ち望んでいるファンが多いのでは無いだろうか。http://notrax.jp/bands/detail/00000026.htmlビヨンセ/デンジャラスリー・イン・ラヴBEYONCE/DANGEROUSLY IN LOVE
Mar 17, 2006
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http://rhymeflow.exblog.jp/Ne-Yo、T-Pain、(そしてAkon、Van Hunt)などの活躍も今年は楽しみですが、私はJermaine Paulが、動き出さないか楽しみです。すでにかなり話題となっていますが、聴けば聴くほど彼の声にひきつけられます。Alicia Keysのバックヴォーカルを担当しているハイ・トーンボイスの彼です。彼の経歴を辿っていくと、17歳の時に兄とともに「1 Accord」をいうR&Bグループを結成し、スーパースターShaquille O'Neal が経営するTwism Recordsと契約を交わし、96年には、Shaquille O'Nealのアルバム「You Can't Stop The Reign」に参加、97年にはBooty Callというサウンドトラックに、"Don't Stop, Don't Quit"という曲を提供しています。また98年には、Shaquille O'Nealのアルバム「Respect」にも参加しています。その後、レコード会社の関係上NBAのオープニングなどでその歌声を、ソロで披露する機会が多かったことから、業界関係者と多く出会い、2003年にリリースされるAlicia Keysのアルバム「The Diary of Alicia Keys」にPV参加することになります。2005年には、 Luther Vandrossトリビュートアルバム「So Amazing: An Allstar Tribute To Luther Vandross 」に"If The World Were Mine"にAlicia KeysにJermaine Paulがフィーチャーされます。この曲は、2006年のGrammy賞Best R&B Performance By A Duo Or Group With Vocals部門にノミネートされています。惜しくも受賞は、Beyonce and Stevie Wonderの「So Amazing」でした。心を揺るがす本当に良い曲です。是非聴いてください。パソコンからアクセスの方は、Alicia keysのホームページで視聴可能です。そして、話題となっているAlicia Keysの「Unplugged」に参加します。Alicia Keysとの「Diary」でのデュエットの相性の良さといったら、鳥肌ものですよね。ソロアルバムをリリースされたら、今一番騒がれる男性アーティストであることは間違えありません。最近では、6人組みユニットFOCUSの一員としての活動も頑張っているようなのですが、ソロアルバムが聴いてみたいです。今までに、ソロとしては、今年Grammy賞3部門を制した"Kanye West/Gold Digger"のトラックをまんま使いした「I Got Girls」という曲を1枚リリースしています。今年は、無冠に終わったAlicia Keysですが、「Unplugged」は、歴史に残る1枚になるとともに、Jermaine Paulの存在を世に知らしめることのできた重要な作品となったのではないでしょうか。映像として「Unplugged」をまだ見れていない人もいると思いますが、PVでは味わえない感動を味わうことができます。http://exp-blog.seesaa.net/article/13302193.html
Mar 16, 2006
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http://www.fuseblog.com/dailydownload/1977年6月シカゴ出身生まれ、28才。シカゴの美大に通うが一年で退学、トラック・メイキングに専念するようになる。2000年、ジェイ・Z『ザ・ダイナスティ~ロッカ・ラ・ファミリア』に「ディス・キャント・ビー・ライフ」を提供、以後『ザ・ブループリント』では「Izzo(H.O.V.A.)」、『ザ・ブループリント』では「’03ボニー&クライド」と、手掛けた楽曲は何れも1stシングルとなり、ジェイ・Zが“リスペクトするプロデューサーだけに楽曲提供を依頼した”という『ザ・ブラック・アルバム』でも2曲提供している。2002年、MCとしてロッカフェラと契約。2004年、『カレッジ・ドロップアウト』で満を持してのアルバム・デビュー。全米ではノラ・ジョーンズと同じ発売日にリリースされ、惜しくもチャート初登場2位にとどまったが、発売1週目で44万枚と驚異的なセールスを記録。第47回グラミー賞ではアーティスト、ソングライター、プロデューサーとして合計10のノミネーションを得るという快挙を成し、3部門を受賞。2005年、米タイム誌「今日最も影響力の強い100人」の一人に選定され、作品の影響やメッセージの複雑さが賞賛されている。同年のBETアワードでは唯一の複数受賞者となる。 デビュー・アルバムが日本でもゴールド・ディスクに認定され、全世界でのセールスは400万枚を突破。世界的に期待が高まる中で、遂にニュー・アルバムヲリリースする。 [主なプロデュース曲]・Jay-Z - Encore, Lucifer, Mr. Roc-A-Fella, Never Change, Izzo (H.O.V.A.), Bonnie & Clyde 2003, The Dream, Popping Tags, Some People Hate, This Can't Be Life・Ludacris-Stand Up・DMX-The Dog Is Out・Beanie Sigel -The Truth, Nothing Like It, Gangsta Gangsta・Cam'Ron-Dead Or Alive・Scarface - In Cold Blood, Guess Who's Back, Heaven・Alicia Keys -You Don't Know My Name・Britney Spears feat. Madonna -Me Against The Music・Twista - Show Go On, Slow Jams・Nas - Poppa Was A Player・Da Brat -Chi Town・Carl Thomas-My Baby Don't Love Me・Eve -Don't Get Caught・Fabolous-My Life・Foxy Brown-My Life http://www.universal-music.co.jp/u-pop/artist/kanye_west/bio.html【R&B/Hip-Hop:カ】カニエ・ウェストKanye West / Late Registration (CD) (Aポイント付)
Mar 15, 2006
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http://www.whudat.com/musicreview/pages/chingy_jackpot.phpアトランタ出身のスーパースター、リュダクリス(Ludacris)擁するディスタービング・ザ・ピース(Disturbing the P.E.A.C.E.)に所属。売れに売れまくったファーストシングルの"Right Thurr"は、実はプロモーション開始から全米ヒットになるまでにかなりの時間がかかった。が、とにもかくにもあのとぼけたトラックにゆるいフロウでつかんだ成功は、今や全米中の若者の定番ソングと化し、続くシングル"One Call Away"もR&Bテイストをうまく絡めた楽曲で大ヒット。リュダクリスと肩を並べるほどのトップスターになった。その後、「リュダクリスの決定権が強すぎ、マネージメントも自分が望むような形ではなかった」こと、経済的な問題など示唆してDTPレーベルを離脱。自らのレーベルを立ち上げ、2004年にはセカンドアルバム"Powerballin'"をリリースしている。先行シングル"Balla Baby"も変わらぬユルいスタイルでヒットした他、このアルバムでは自らが率いるG.I.B.ことギット・イット・ボーイズ(Git It Boyz)のお披露目も果たしている。http://notrax.jp/bands/detail/00000196.htmlチンギー/パワーバリンCHINGY/POWERBALLIN'
Mar 14, 2006
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http://notrax.jp/review/detail/0000000229.htmlR&Bアーティストはもちろん、ポップスのフィールドでも多数のアーティストにスムースで流麗なメロディを多数提供してきたトッププロデューサーの一人。同時に自らもアーティストとして多くのヒット曲を生み出してきたシンガーソングライター。1959年にインディアナポリスで生まれたケネス・エドモンズ(Kenneth Edmonds)は10代にしてブーツィ・コリンズ(Bootsy Collins)のバックバンドに参加する機会を得、そこで「ベイビーフェイス」というあだ名をつけられる。その後、70年代後半にファンクバンド、マンチャイルド(Manchild)の2枚のアルバムに参加する。80年代に入るとザ・ディール(the Deele)として3枚のアルバムをリリース。当初はギタリスト/ソングライターとして活動していたが、次第にボーカルをとるようになり、1986年に"Tender Lover"でソロデビューを果たす。それと同時にペブルス(Pebbles)など外部でのプロデュースワークを増やしつつ、"Lovers"(1989)、"For the Cool in You"(1993)、"the Day"(1996)、"Unplugged"(1997)、"Christmas with Babyface"(1998)とリリースを重ねていく。90年代を通して、朋友LA・リード(LA Reid)らとともにボーイズIIメン(Boyz II Men)、TLCなどをビッグヒットさせ、プロデューサーとしての名声を確立。マドンナ(Madonna)やエリック・クラプトン(Eric Claptonn)などポップス畑でも多数のヒット曲を手がけた。2000年代に入るとSonyからBMGからSonyへ移籍、挑戦的な新作"Face2Face"(2003)、スタンダードな"Grown & Sexy"(2005)をリリースしている。http://notrax.jp/bands/detail/00000488.html【CD】Grown & Sexy / babyface
Mar 13, 2006
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http://www.musicmen.co.uk/e107_plugins/content/content.php?content.127オリジナルメンバーはビヨンセ(Beyonce Knowles)、ラタヴィア(LaTavia Roberson)、ケリー(Kelly Rowland)、ラトーヤ(LeToya Luckett)。90年初頭にビヨンセとラタヴィアが出会ってから、1992年にケリー、'93年にラトーヤが加わってデビュー時の4人になる。デビュー曲は'97年の映画"Men in Black"のサントラに収録された"Killing Time"。翌'98年には、フージーズ(The Fugees)のワイクリフ(Wyclef Jean)プロデュースでのシングル"No, No, No"をリリースし、最終的にはチャート1位を飾り100万枚以上売り上げる。シングルリリース後に発売されたファーストアルバム"Destiny's Child"も100万枚を突破。翌年に続く2ndアルバム"The Writing's On The Wall"は、最終的に国内800万枚以上、全世界で1000万枚を越すセールスを達成し、グループ最大のヒットアルバムとなった。アルバムから"Bills, Bills, Bills"('98), "Say My Name"('99-'00), "Jumpin' Jumpin'"('00)等の曲が次々とチャートを制覇していく間に、ラトーヤとラタヴィアが「クリエイティブな方向性の違い」という理由でグループから脱退(2000年。後に2人がグループらを相手取り訴訟を起こす)。新メンバーとしてミッシェル(Michelle Williams)とファーラ(Farrah Franklin / 加入後、数ヶ月ですぐにグループから解雇されてしまう)が加入する。その後、映画"Charlie's Angel"に提供した"Independent Woman Pt. 1"やアルバムの"Say My Name"が翌年のグラミー賞の数部門を獲得。さらにシングル"Survivor"がメンバー交代劇にあて付けたかのような歌詞も話題を呼んで大ヒット。続くシングル"Bootylicious"('01)を含んだ3rdアルバム"Survivor"('01)では、3人がそれぞれパートによってリードを取り合うスタイルにチャレンジし、最終的には400万枚以上のセールス記録を残す。その後、同年末にクリスマス企画盤"8 Days Of Christmas"をリリースすると、ミッシェルをはじめとする各々のソロ活動に入る。2004年8月現在のメンバーは、ビヨンセ(Beyonce Knowles)、ケリー(Kelly Rowland)、ミッシェル(Michelle Williams)の3名。ビヨンセの妹で、3人のツアーサポート等を担当、自身もソロ活動を経験しているソランジュ(Solange Knowles)正式加入のうわさもあったが、実現しなかったようだ。2004年、先行シングル"Lose My Breath"に続いてアルバム"Destiny Fulfilled"をリリース、完成度の高い内容で、"Soldier"、"Girl"、"Cater 2 U"などいずれのシングルをもヒットさせている。http://notrax.jp/bands/detail/00000027.html【R&B/Hip-Hop:テ】デスティニーズ・チャイルドDestiny's Child / #1's (DualDisc) (CD) (A...
Mar 12, 2006
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http://www.oneposter.com/UserData/Poster/Poster_18627.jpgその名前を知らない人が一番少ないアーティストを挙げよう、と言われれば、必ず最初のほうに挙がってくるであろうジャマイカを代表する伝説のラスタファリアン/ミュージシャン。「第三世界の最初のスーパースター」と呼ばれ、36年と言う短い生涯のなかで数々の名曲を残し、音楽を通して権力との闘争と訪れるべき自由と平和を歌い続けた詩人。バニー・ウエイラー(Bunny Wailer)、ピーター・トッシュ(Peter Tosh)らと共にスカを吸収した伝説のバンド"ウェイラーズ"(Wailing Wailers)でジャマイカから世界を揺り動かした男。16才の時にレコーディングした(が全くヒットしなかった)"Judge Not"から始まり、列挙していけばキリが無いほどの音源を残していくが、特にウェイラーズ名義で73年リリースした2ndアルバム"Burnin'" / '75年リリースの"Natty Dread"らは紛れも無く傑作。前者には後にクラプトン(Eric Clapton)もカヴァーしNo.1ヒットとなった"I Shot the Sheriff"や"Get Up, Stand Up"、後者には今も世界中で流れている"No Woman, No Cry"や"Talking Blues"を収録している。その後にピーターとバーニーがそれぞれソロへ転向していくと、"Bob Marley & the Wailers"となり、あの伝説の"No Woman, No Cry"のライブテイクや'77年収録で、世界中で売れた名盤"Exodus"などを残していく。80年9月、ジョギング中に倒れ脳腫瘍が発見されるも、そのときに組んでいたツアーの予定をキャンセルすることを拒否。だが、その年のピッツバーグでのライブを最後にツアーは中止。ドイツで最後の望みをかけた治療を試みるも、回復の兆しは現れず、36歳の誕生日を迎えた後の81年5月、ジャマイカへ到着するころ無くマイアミの病院で息を引き取った。http://notrax.jp/bands/detail/00000164.html〔送料無料キャンペーン中〕ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ レジェンド+2-CD-
Mar 11, 2006
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ついにアクセス1000件突破しました!!これからも皆さんよろしくお願いします!!
Mar 11, 2006
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http://www.barks.jp/feature/?id=1000009578LA生まれのR&Bシンガー。「日本人」の父と「日本人とイタリア系アメリカ人のハーフ」の母を両親に持つクォーターの女性R&Bシンガーで、ゴスペルをしっかり成長過程のバックグラウンドに持つ実力派アーティスト。15歳から本格的にパフォーミングを学び、1999年にはジャネット(Janet)のシングル"Go Deep"のプロモーションビデオにダンサーとして出演。18歳でBMGファンハウスからデビューし、2000年にはファーストアルバム"My name is AI"をリリース。その後、ユニヴァーサルジャパンがDef Jam Japanを社内に設立すると、2002年に移籍。2003年には1stシングル"最終宣告"をリリースすると、一気に知名度をあげ、同年に1stアルバム"ORIGINAL A.I."をリリース。"My Friend"等のヒットを経て、2004年には2ndアルバム"2004 AI"をリリースした。平井堅をはじめとし、スイート・シーク(Suite Chic)やMichiko他のアーティストとの共演も数多くこなしており、シンガーとしての実力はもとより、そのラップのスキルも高い評価を受けている。 http://notrax.jp/bands/detail/00000057.html【CD】MIC-A-HOLIC A.I. / AI
Mar 10, 2006
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http://www.target.com/.htmlマンハッタン育ち。幼少からピアノとコーラスの習熟で才覚を伸ばし、16歳の時には成績優秀者として高校を飛び級で卒業。そのままかのコロンビア大学に入学するが、より音楽を人生に求め大学を中退。1998年に、Aristaに籍を置いていた現J-Recordsの創設者クライブ・デイヴィス(Clive Davis)に見初められ、彼がJ-Recordsを立ち上げると共にアリシアも移籍。2001年に19歳でのデビューにして珠玉のフルアルバム"Songs In A Minor"をリリースする事になる。そしてその後の彼女の輝ける軌跡は、もはやコアな音楽好きならずとも知るところであろう。「クラシックがベースなのよ」と語る彼女だが、「だから私の音楽にはクラシック的な領域がある。でも同時にブルースもジャズもR&BもHip Hopのもね」と言うとおり、大ヒットシングルで成功へのきっかけとなった"Fallin'"も、オル・ダーティー・バスタード(Ol' Dirty Basterd)のBrooklyn Zooのピアノフレーズを引用してきた"Girl Friend"も、プリンスの名作を珠玉のカヴァーに仕上げた"How Come You Don't Call Me"も、全て違う趣向を持った楽曲になっている。にもかかわらず、アルバム全体を通せば、確立された統一感というものがあり、それは『でも私の音楽の大部分を占めているのは「私」なのよ』と言う本人の言葉で説明が付く。そうしてデビューアルバムで大成功を収め、競争率が高いと思われた翌年のグラミー賞でも"Song of the Year"をはじめ5部門を独り占めするという快挙を成し遂げた彼女は、2003年の冬にリリースした2ndアルバム"Diary of Alicia Keys"は、時代の寵児カニエ・ウエスト(Kanye West)をファーストシングル"You Don't Know My Name"のプロデューサーに向かえやはり大ヒット。続くシングル"If I Ain't Got You"もジワジワチャートを上り詰め、様々なRemixまでリリースされその人気は頂点へ。さらに第3弾となるシングル"Diary"では、トニー・トニ・トーン!(Tony Toni Tone!)のラファエル・サディーク(Raphael Saadiq)を向かえ、リスナーを深遠にいざなう。アルバムのプロデューサーには、先述のラファエルや、旧知のアンドレ・ハリス(Andre Harris)らのベテランも起用し、同時にティンバランド(Timbaland)やカニエ等のHip Hop界の旗手達も起用。ファーストアルバム同様に彼女の「彼女たる要素」が全てそのままに詰め込まれた、素晴らしいアルバムである。http://notrax.jp/bands/detail/00000018.html
Mar 9, 2006
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http://www.danpapirany.com/images/Image14.jpg 美しく白き炎のピアニスト- ビル・エヴァンス Bill Evans -<ジャズ史に残る白人ピアニスト>マイルス・デイビスに認められた数少ない白人ミュージシャンのひとりであり、その美しいメロディーは特に日本での人気が高く本人も日本と日本の文化が大好きだったようです。しかし、その独特なサウンドを生み出した彼の繊細な神経はあまりに脆く、暗い影に覆われがちだった人生の重さに耐えることができませんでした。しかし、その悲劇的な人生から生まれた美しいメロディーは、黒人音楽として発展してきたジャズ史の中で、数少ない白人天才アーティストの作品としてひときわ異彩を放っています。<ロシア系の天才ピアニスト>ビル・エヴァンスが生まれたのは、1929年8月16日アメリカ北東部ニュージャージー州のプレインフィールドという街でした。父親はウェールズ出身で、母親はロシアからやって来た移民でした。音楽好きだった父親、ハリー・L・エヴァンスは、ビルと彼の兄ハリー・エヴァンス・Jrに小さな頃から音楽を学ばせました。ビルは6歳からピアノ、ヴァイオリン、フルートを学び、10歳でモーツァルトを弾きこなしていたと言います。15歳で南部のサウス・イースタン・ルイジアナ・カレッジに入学した彼は、その後トニー・スコットやハービー・フィールズらの元でピアニストとしての実力をつけ、1956年にリバーサイドから初のリーダー・アルバム「New Jazz Conception」を発表します。<マイルスとの出会い> 彼のピアノは、クラシックからの影響を取り入れた独自の美しさをもっており、すぐにジャズ界の注目を集めるようになりました。そして、そんな彼の才能を認めた彼の師匠だったジョージ・ラッセルは、ちょうどその頃新しいピアニストを探していたマイルス・デイビスに推薦します。こうして、1958年マイルス・デイビスはレッド・ガーランドに代わるバンドの新しいピアニストとして、ビルを参加させることになったのです。マイルスはビルに「モー」というあだ名までつけてかわいがり、当時彼が生み出したばかりのモードの手法をビルに教えます。それに対し、ビルはマイルスにラフマニノフやラベルなどのクラシックを聴かせることで、モードの完成のために大きなヒントを与えることになりました。<白人であるがための逆差別> マイルスは、彼のピアノが生む音楽が気に入り、バンドのサウンドを彼のスタイルに合わせて変えてしまうほどでした。しかし、そんなマイルスの好意とは反対に、他のバンドのメンバーたちは白人である彼の存在を認めようとせず、逆差別ともいえる態度をとりました。音楽的にも、彼のクラシックの影響を受けた繊細なタッチのピアノは、弱々しいと感じられたようです。もともと繊細な神経の持ち主だったビルは、そんな扱いに耐えきれず、わずか一年でバンドを去ってしまうことになりました。<歴史的傑作「Kind of Blue」誕生> しかし、ビルの才能を認めていたマイルスは、1959年再びビルを呼び戻します。そして、マイルスにとってのモード時代の最高傑作「カインド・オブ・ブルー Kind of Blue」を彼と共に録音します。このジャズ史に残る傑作はあくまでマイルスの作品ではありますが、ビルの存在を中心として企画されており、ラベルとラフマニノフの影響なしには生まれなかったとも言われています。(そのせいか、マイルスは自伝の中でこの作品を自ら失敗作だったと言っています)<ソロ活動、黄金時代へ> 1959年、彼は再びマイルスを離れ、自らのピアノ・トリオを結成します。メンバーは、ドラムのポール・モチアン Paul Motianとベースのスコット・ラファロ Scott La Faroです。マイルス仕込みのモード手法によるアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ Potrait In Jazz」を発表します。そして、この時のメンバー、スコット・ラファロこそ、ビルにとって生涯最高のパートナーとも言えるベーシストで、彼との共演によって生み出されたこの時期の作品群によって、彼はそのキャリアにおける絶頂期を迎えることになります。<悲劇のベーシスト、スコット・ラファロ>スコット・ラファロは、1934年4月3日ビルと同じニュージャージー州に生まれています。学生時代はテナー・サックスやクラリネットを吹いていましたが、その後ベースに転向。チェット・ベイカーやベニー・グッドマンらの元で活躍した後、ビル・エヴァンス・トリオに加わりました。<「ワルツ・フォー・デビー」誕生> 彼らは、1961年にアルバム「Exploration」を発表した後、ニューヨークのクラブ、ヴィレッジ・バンガードでライブを行いました。そして、このライブの最終日(6月25日の日曜日)、急遽ライブ・アルバムとしての録音が行われることになりました。なぜ、最終日となったのかは、未だに謎なようですが、後がないぶんテンションが高い演奏になっていたのかもしれません。こうして、2枚のアルバム「ワルツ・フォー・デビー Waltz for Debby」と「サンデイ・アット・ザ・ビレッジ・ヴァンガード Sunday At The Village Vangard」が誕生し、後にジャズ史に残る傑作と呼ばれることになったのです。<早すぎる死> 多くの黒人ジャズ・ピアニストが、リズムを生み出す力強いタッチを売り物にしていたのに対し、ビルのピアノはリズムの間をかいくぐるようにメロディーを紡ぎ出すのが特徴でした。そして、このリズムとの絡み合いを得意とする彼だからこそ生まれたのが、天才ベーシスト、スコット・ラファロとの共演作だったと言えるのでしょう。しかし、残念なことに、この頃から彼の人生の歯車は、少しずつ狂い始めます。それは、彼にとっての最高のパートナーだったスコット・ラファロの交通事故死がきっかけだったのかもしれません。 1961年7月6日、「ワルツ・フォー・デビー」の録音からわずか11日後に、スコット・ラファロの運転する車が路外に飛び出して木に激突、彼は27歳の若さでこの世を去ってしまいました。彼の死は多くの人々に衝撃を与えましたが、最もショックを受けたのはビルだったのかもしれません。<新しい挑戦、ジム・ホールとの共演>スコットの死の後、ビルは後任のベーシストとして、チャック・イスラエルを迎え、アルバム「Moon Beams」(1962年)を発表しますが、その出来に満足できなかったのか、すぐにリズム楽器なしの作品に挑みます。その相棒は、ジャズ・ギタリストのジム・ホール、元々メロディーを生み出すための楽器、ギターとピアノがお互いにアドリブでやり取りをしながら、一つの音楽を生み出して行くというのは、それまでにない画期的な試みでした。しかし、この作品「Undercurrent」(1962年)はけっして実験的な作品にありがちな分かりにくい作品にはならず、実に聞き易い彼にとっての代表作となりました。(ジャケット写真の美しさも魅力です!)<新しい挑戦、自分との共演> ギターとピアノ、一対一の他流試合の成功に気をよくしたビルは、さらにもうひとつ先を行く共演作に挑みます。それが、オーバー・ダビングによる自分自身との共演作「自己との対話 Conversations with Myself」です。彼はよりストイックにピアノと自分自身を追求して行きました。1973年には日本に来日し、日本における自分の人気に驚くことになるビルは、サルトル、フロイト、プラトンらの愛読者であると同時に、日本の文化である禅にひかれており、水墨画も大好きだったようです。彼の無駄を省いたシンプルで美しい演奏スタイルは、日本文化特有の「わび、さび」から来ていたのかもしれません。<ライブ・アルバム、ソロ・アルバム>1968年、彼はジャック・デジョネット(Dr.)、エディ・ゴメス(Bass)とトリオを組み、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演。ライブ・アルバム「Evans at the Montreux Jazz Festival」が発売されます。さらに1969年には、初のピアノ・ソロ・アルバム「Alone」を発表しました。<悲劇の季節> しかし、その後再び彼を悲劇が襲います。離婚したばかりの彼のもとの妻エレインがニューヨークの地下鉄に飛び込んで自殺してしまったのです。当時、彼は麻薬にどっぷりと浸かっていましたが、この悲劇は彼をさらに麻薬の深みへと追いやって行きました。悲劇はそれだけでは済みませんでした。1979年に彼はピアニストでもありピアノ教師でもあった実の兄のためにアルバム「We Will Meet Again」を発表しますが、この作品を聴くことなく彼の兄が自らの頭を銃で打ち抜いてしまったのです。この悲劇が彼を襲った時、すでに彼の身体は麻薬と栄養失調によって、取り返しのつかない状態になっていました。1980年9月15日、彼はクラブ・ファッツ・チューズデイでの演奏中に倒れてしまい、そのまま息を引き取ってしまいました。直接の死因は、出血性潰瘍と気管支肺炎でしたが、肝炎とドラッグの乱用によって、すでに彼の身体はボロボロになっていたようです。<ジャズにこだわり続けた男>1970年代、彼ほどジャズにこだわり続けたアーティストはいなかっったかもしれません。マイルスを筆頭にして、多くのミュージシャンたちがフュージョン化、ロック化を試みて話題作を発表してゆく中、彼は伝統的なピアノ・トリオなど純粋なスタイルにこだわり続けました。彼がガラス細工のように繊細で美しい独自のピアノ・サウンドを構築できたのは、彼がジャズ界における異端的存在、白人であると同時に誰よりも「もろい心」の持ち主だったせいかもしれません。http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/bill-evans.htm
Mar 8, 2006
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http://www.flix.co.jp/movie/T0004064ドラえもんのび太の恐竜2006レイトショーで見たので人がほとんどいませんでした。子供向けの映画なので人がいなかったみたいです。なかなか迫力のある映画でおもしろかったです。キャストも劇団ひとりなど著名人がたくさんいたみたいです。この映画はドラえもん好きの人でなくても十分に楽しめる映画だと思うので、まだ見にいってない方は、映画館に足を運んでみてはいかがでしょうか。
Mar 7, 2006
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http://fdrouin.free.fr/wordpress/index.php?m=2005041930~9月23日、ジョージア州オルバニーの貧しい家庭環境の中で誕生。5歳になる前からピアノを学ぶ。6歳頃、弟ジョージが溺死するのを見て自分を責め、そのトラウマと緑内障が重なって7歳までに完全に失明。母親はレイを260キロ離れたセント・オーガスティンの盲学校に入学させた。ここで彼は点字で音楽を読む方法を習い、いくつかの楽器演奏を学び、10代の半ばになると、フロリダ北部にある小さなクラブやダンス・ホール、バーで演奏を始め、カントリー&ウエスタンのバンド、ザ・フロリダ・プレイボーイズとも共演した。10歳の時に父、15歳の時に母が他界する。1948~ 一人でグレイハウンド・バスに乗りシアトルに向かった。その後、クインシー・ジョーンズと出会う。ピアノ弾き兼歌手として、ジャック・ローダーデイルのスイングタイム・レコードと契約。 R&Bのギタリスト、ロウエル・ファルソンのバンドの一員としてツアーに出るとともに、49年には「コンフェッション・ブルース」で初のチャート入りを果たす。 1952~アトランティック・レコードと契約。衝撃的な<ソウル>は賛否両論を呼び、初期のヒット曲は多くのラジオ局で放送禁止となった。黒人のアルバムは“レイス・レコード(人種レコード)”と呼ばれた時代だったが、ジャンルを超えたレイの音楽は白人、黒人を問わず広くアピール。 55年には「アイ・ガット・ア・ウーマン」がR&Bチャートで2位になり、その後「こぼれる涙」「ホワッド・アイ・セイ」をR&Bチャート・ナンバーワンに送り込む。この頃、エルヴィス・プレスリーが全米を席捲する。 1959~ジョージア州議会はレイ・チャールズに対して正式に謝罪し、「我が心のジョージア」を州歌にした。 80年には、映画「ブルース・ブラザース」に出演。1961~黒人差別のある会場での演奏を拒否した初めてのアーティストとなる。ジョージア州から終身にわたり活動を禁止されることになった。 62年のアルバム『レイ・チャールズ、C&Wを歌う』はミリオンセラーを記録、全米アルバムチャートに101週ランクインし、14週連続ナンバーワンを記録した。1965~モントリオールから着いたボストンのローガン空港で麻薬の不法所持・密輸のために逮捕された。有罪判決を受けて自ら更生施設に入る。その後、中毒を克服してキャリアを取り戻したレイは、晩年まで年に 200回以上のコンサートを行った。67年、映画歌『夜の大捜査線』の主題歌「イン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト」を発表する。 1986~ロックの殿堂入りを果たす。1988~生涯で 12回受賞したグラミー賞の功労賞を受賞。 1989「エリー・マイ・ラブ~いとしのエリー」を発表。この前後数年、来日も重なり日本でのファン層をさらに拡大する。 2004ベスト・セラー・チャートに 76本のシングルを送り出し、75枚以上のアルバムをレコーディング。ケネディ・センター名誉賞、ナショナル・メダル・オブ・ジ・アーツを受け、ブルースの殿堂、NAACPイメージ・アワードの殿堂入りを果たし、黒人の慈善活動、教育、芸術のために2000万ドル以上の資金を集めた。 6月10日、肝臓疾患による合併症のため、73歳で永眠。 http://entertainment.aol.co.jp/music/raycharles/profile.html
Mar 6, 2006
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http://eil.com/shop/moreinfo.asp?catalogid=331147UK出身、1979年9月15日生まれの26歳。「父親はノース・キャロライナ出身のアメリカ人で、母親はチェスターフィールド出身のイギリス人。さらに両親の血筋をたどればイングリッシュ、アイリッシュ、アメリカン、チェロキーが1/4ずつ入ってる」。そんな環境から、UKとUS双方のソウル・ミュージックに触れながら育つ。18歳の頃、”NOTORIOUS”という5人組R&Bグループのメンバーとして、ワーナー・ブラザーズと契約。しかし、レコード会社の合併に伴う政治的な理由で、何もリリースされないままに契約終了の憂き目に。「でも、それはそれで良かったと思ってる。当時俺はまだ若かったし、あの経験から音楽業界について多くのことを学ぶことができた。するべきこと、してはいけないこと、誰を信用すべきかが分かったからね」2004年、自らプレスしたWhite Label「Set The Tone」が話題となる。同年、いち早くUNIVERSAL MUSIC PUBLISHINGが、彼の楽曲に関しワールドワイドの出版権を獲得。2005年3月、シングル「Set The Tone」のオフィシャル・リリースによりUKデビュー。レーベルは、OneTwo Records(THE BRAND NEW HEAVIESが所属することで有名)。しかし、あくまで本人原盤。7月には続くシングル「Universal」をリリース。本格的にラジオや音楽チャンネルでOAを獲得し、メジャー・シーンで注目される存在となる。8月にアルバム『SET THE TONE』リリース。9月にシングル・カット「The Message」と相次いでリリース。TV音楽番組「CD:UK」でもリクエスト・チャートTOP10入りを記録。UKで、そして日本で、2006年必ずやBIGになる、MR.SOUL GUY。それが、ネイト・ジェームスである。http://www.mtv-aw.jp/profile/0215_003.htmlNate James『ユニヴァーサル』
Mar 6, 2006
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http://images.google.co.jp/.htmlMario、Mary J. Blige、Chris Brown、Christina Milian、Faith Evansなど、数多くのBIGアーティストたちのソングライトを手掛けた経験をもつ、ラスベガス育ちの才能あるシンガー・ソングライターNe-Yoのデビュー・アルバム『In My Own Words』について。アルバムに先駆けて放たれていたシングルがどれも上質なものばかりだったので、おのずとアルバムへの期待もふくらんでいたわけですが、本作はその期待を裏切らない素晴らしいものになっていました。特筆すべき楽曲は、名曲DeBarge"Stay With Me"をサンプリングし、「自分がどれだけ音楽が好きか」をラブソングに置き換え歌った病み付き度100%のスムージーなナンバー『Stay』甘く伸びのある歌声をフルに活かして歌う甘酸っぱいミッド『Let Me Get This Right』現在大ヒットを記録している詞、メロ、トラックすべてが切なさをかもし出すStargateプロデュースのメロウ・チューン『So Sick』ストリングスやギターなどの美しい音色を従え伸びやかに歌う『When You're Mad』元Something For The PeopleのCurtis Wilsonが手掛けたNe-Yoのファルセットや高音を堪能することができる『It Just Ain't Right』ハンドクラップや煽りが効いたHIP HOP寄りのアッパー・チューン『Sign Me Up』、Boolaがプロデュースしたどこか懐かしさ漂う味わい深いミッド『I Ain't Gotta Tell You』歌好きなら必ず昇天させられるO'Jays"I Swear I Love No One But You"使いの要チェック曲『Get Down Like That』Ghostface Killahをフィーチャーしたそのリミックス『Get Down Like That(Remix)』どこまでも果てしなく美しい世界が広がる『Sexy Love』同じくStargateプロデュースの『Let Go』&『Time』透明感のある歌声の魅力に陶酔を余儀なくされる『Girlfriend』切なさを帯びた哀愁が曲全体を包み込む『Lonely』と、メロディアスで上質な楽曲を余すところなく詰め込んだ傑作に仕上がっています。ソングライターとしては言わずもがな、歌声も素晴らしいし曲の質もいい。アラを探す方が難しいですよ。とにかくこれは必聴。間違いなく今年を代表する作品になることでしょう。 http://notrax.jp/bands/detail/.html【今週発売】【R&B/Hip-Hop:ニ】Ne-YoNe-Yo / In My Own Words(CD) (Aポイント付)
Mar 5, 2006
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今日、街に遊びに行ってある服の店のチラシを貰いました。そこには、きんにくんに腕相撲で勝ったら「オリジナルタンクトップ」と「一万円分の商品券」が貰えると書いてありました。私はプロフィールに書いているように特技は腕相撲なので自分の力がどこまで通用するのか試してみたくなりその腕相撲の試合にエントリーすることを決めました!!!!!!この試合で生のなかやまきんにくんに会うことができるので楽しみです!!!!ひょっとしたら試合に出れないかも知れませんが出れたら全力で向かい打つつもりです!!!!そして勝ったらサインを貰うつもりです♪ホームページリンク
Mar 4, 2006
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左は私の好きなアリシア・キーズのグラミー賞を取ったアルバムで右は5.1chデジタルホームシアターシステムです。私は音楽が好なのでこのいいスピーカーで臨場感のある音楽を聞きたいです。
Mar 3, 2006
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最近、アリシア・キーズのアンプラグドのDVD買ったのですが、その中にはいっているダイアリーという曲の中でバックヴォーカルをやっていたところを見て初めてジャーメイン・ポールの存在を知りました。彼はパワフルなハイトーンボイスの持ち主で私は彼の声を聞いて衝撃を受けました!!!まだ知ったばかりなのでこれから調べたりしようかなと思っています。
Mar 3, 2006
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はじめまして!!私はアキラというものです。ブログに興味が出てきたので始めることにした音楽好きの高校生です。今日からはじめますのでよろしく!!!!!今、高校二年生なのですがなかなか進路が決まらないので、最近いろんなところに資料請求するようになりました。一応、進学校に通っていますが勉強はあまり得意じゃないので、なんとなく他の人みたいに大学にいくわけにもいかないので自分の進む道を模索中です。プロフィールにも書いてありますが、私は音楽好きです。特に洋楽のBLACK MUSICが好きで特にR&Bなどが好きです。Alicia Keys Baby Face Craig David Frankie J Usher Beyonce Ginuwine R.Kellyなどが好きです!!Jazzはあまり知らないのですが、Norah Jonesとかも好きです。 HIP HOPは、Kanye West Cassidy Jermaine Dupri Chingy Nelly Baby Bash Ja Rule Bow Wow Fabolous Twista DMXなどが好きです。REGGAEは、T.O.K. Sean Paul Mr.Vegas Bob Marleyなどが好きです。私のようにBLACK MUSIC好きの方がここに来てくれたらうれしいです♪そうでない方もここに来て少しでもBLACK MUSICに関心を持っていただければうれしいです♪私もそんなに詳しくないので皆さんからいろいろと教えていただければうれしいです♪
Mar 2, 2006
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明日からブログはじめますのでよろしく。
Mar 1, 2006
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