土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.06.07
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カテゴリ: 正岡子規
いちご熟す去年の此頃病みたりし (明治29)
 明治34年4月の「ホトトギス」に掲載された『くだもの』には、「 明治廿八年の五月の末から余は神戸病院に入院しておった。この時虚子が来てくれてその後碧梧桐も来てくれて看護の手は充分に届いたのであるが、余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソップも飲む事ができなんだ。そこで医者の許しを得て、少しばかりのいちごを食うことを許されて、毎朝こればかりは欠かした事がなかった。それも町に売っておるいちごは古くていかぬというので、虚子と碧梧桐が毎朝一日がわりにいちご畑へ行て取てきてくれるのであった。余は病牀でそれを待ちながら、二人が爪上りのいちご畑でいちごを摘んでいる光景などを、頻(しき)りに目前に描いていた。やがて一籠のいちごは余の病牀に置かれるのであった。このいちごのことがいつまでも忘れられぬので余は東京の寓居に帰って来て後、庭の垣根に西洋いちごを植えて楽しんでいた 」とあり、日清戦争取材で中国に渡り、その帰途の船上で吐血して危篤状態に陥って入院した時の西洋イチゴの思い出を書いています。
 明治28(1895)年5月、大連から帰国する船上で吐血した子規は、神戸病院に運ばれて命をとりとめます。子規は衰弱して、牛乳やスープも飲めません。そこで、医師に許されたイチゴを食べさせることにしました。しかも、古いイチゴは体に悪いと、新鮮ないちごを与えなければなりませんでした。
『病床日誌』に「 九時ごろ西洋いちごを食べてみたいと言う。購入して帰り食べさせた。とても気に入ったようだ。子規が言うには『これほど美味しいものはない』 」とあります。
 高浜虚子と河東碧梧桐は、子規のために新鮮なイチゴを畑まで摘みに行きました。ふたりは神戸に住んでいる外国人のためのイチゴ栽培農家を捜してきたようで、朝、陽の出ない、暗いうちから畑に入ってイチゴを摘んできたのでした。このイチゴは、子規を喜ばせました。子規の喜ぶ顔見たさに、ふたりはせっせとイチゴを摘みに行きました。
  6月13日には、子規は昨日からイチゴをやめたいといいます。果物を食べ過ぎると胃がむかつくので、イチゴを食べないようにしようと思いたったのでした。
 退院して、松山の漱石との52日を経て東京に帰った子規は、庭の垣根に西洋イチゴを植えました。虚子と碧梧桐の心が込もった介護の思い出を、イチゴの味と一緒に心に留めようと考えたようです。
 しかし、明治34年6月13日の『墨汁一滴』には、「 西洋いちごよりは日本のいちごの方が甘味が多い、けれども日本のいちごは畑につくって食卓に上すように仕組まれぬから遂に西洋種ばかり跋扈するのだ 」ともあります。子規が今のイチゴを食べたとしたら、どう思うのでしょう。02





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最終更新日  2022.06.09 16:34:07
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