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カテゴリ: 飛鳥・奈良・平安
 かつて、都は複数あった・・・:

 前のブログでちょっと触れたのですが、これには興味深い発掘記録があります。

 奈良時代、もちろん平城京が都だったのですが、聖武天皇時代、コロコロ都を変えていました。恭仁、難波、信楽という具合です。あまりにも短時間の都だったため、また平城京に戻ってしまったので奈良時代と総称しているわけですが、確かに都が変わっていました。

 その中でも特に難波京だけは平城京と併行して存続していたといわれています。

 難波京は大阪城の南あたり、上町台地の上にあった都で、瀬戸内海の入り口でもあり要所でした。

 なぜ併用したのかわかっていませんが、当時の大唐帝国が長安、と洛陽という2つの都をもっていたのを真似たかもしれません。

 しかし、長岡京の跡からは、難波京と平城京の瓦が2種類出てきていることから、ここで都を一つにまとめてしまったのかもしれません。

 でも、平安京に遷都したとき、都は1個しかないけど中国の真似をしたいとばかりに、平安京の左を洛陽、右を長安と名づけていたようです。

 後に平安京は左側(東側)が栄え、右側が衰えていきます。すなわち洛陽側が発展しました。

 いつしか京都のことを洛陽の「洛」というようになりました。上洛とか洛中なんて言葉は今でも使いますね。

 この話は昔ブログで書いた記憶がありますが、そういうことです。





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最終更新日  2010年01月26日 17時10分42秒
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