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最後に資料館内も見学しました。熊本城攻防戦の配置図です。高瀬・岩崎の戦いです熊本鎮台の隊員写真がありました。宍戸正輝:薩軍を潜り抜け、官軍本隊へ鎮台の様子を報告し、更に鎮台に戻って報告した人です。(長州藩士と思う。) 谷村は鎮台に戻れませんでした。
2019.12.29
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別府晋介生誕地に来ました。31.627327128849267, 130.56180357586183こちらも石碑が建っていました。別府晋介誕生地:西南戦争の幕引き:西郷隆盛から「晋どん」と呼ばれた勇将: 「汝等尚未だ去らざる耶」と別府晋介は自分の側を離れようとしない従僕たちを叱りつけました。1877年西南戦争最後の城山決戦が自ら介錯した西郷隆盛の死によって結末を迎えた時のことです。晋介の人柄は、陸軍時代の俸給を士卒で平等に分配したことで知られるように豪気で潔く、部下の信望を集めていました。重傷の身を奮いたたせ、討ち死にを覚悟した晋介は、従僕を道連れにすることをさけたのです。 陸軍の勇将別府晋介は、1874年この吉野実方の地で生まれました。西南戦争で全軍を指揮した桐野利秋は従兄にあたります。戊辰戦争で名を馳せ、戦後は近衛陸軍少佐にまで昇進しました。遣韓使節をめぐる政争では、西郷の密命により朝鮮半島の情勢を探りましたが、敗れて西郷とともに帰郷しました。 加治木ほか4ヶ郷の区長として私学校の育成にあたり、西南戦争では連合大隊長として熊本城を攻撃。各地を転戦し重傷を負いながら城山で西郷と最期をともにしたのです。31歳の生涯でした。
2020.12.19
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薩軍三勇士の墓に来ました。32.8964944,130.62525細い人道を登るとありました。周辺は、土地の方の墓所のようです。薩軍三勇士の墓: ここには、藤坂吉左衛門宗隆、伊集院義兼、山倉文左衛門吉種の三勇士が葬られています。 藤坂、伊集院の両士の命日は明治10年3月10日。この日、薩軍は木葉の政府軍を襲う目的で三個小隊を木留の本営より出動させ玉東町西安寺の辺りで政府軍と戦っています。この戦いで薩軍萩原隊に10余名の死傷があり、藤坂、伊集院と山倉の三士は萩原隊士であったとかんがえられています。山倉は3月10日戦傷し、近所の山野家に匿われますが、5月20日落命。藤坂、伊集院両士の墓地に追葬されました。現在の墓碑は昭和63年に新しく建てられたもので、三士の位牌は山野家で今も祀られています。
2022.01.29
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荒尾干潟 水鳥・湿地センターに立ち寄って、パンフレットを貰ってきました。32.961419, 130.432550
2021.11.02
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230413黒崎玉垂神社鳥居に来ました。33.0730373, 130.4282418黒崎玉垂神社は、以前、神社境内を照会してます。鳥居は上から見たばかりでした。大牟田干拓以前は、この下の道まで海でした。参道の急な石段ですが、現在危険箇所で通行禁止です。
2023.08.30
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慧日寺の小野家・墓所に来ました。33.073564, 130.492165本堂前を右に、ワンちゃんに吠えられて進み、右下へ、左へ進むと矢印で示されます。石段を上がると、墓所が広がっています。平らにされた地に、歴代の墓が並んでいます。三池炭鉱を開いた小野家の墓所★享保6年(1721)、三池鷹取山で石炭採掘事業を始める 江戸享保年間から明治初期まで約150年間にわたって 石炭採掘を行い、大牟田の石炭産業の基礎を築いたのが柳川藩代々の家老、小野家です。 ここ大牟田市岩本にある慧日寺は小野家の菩提寺であり、小野家墓所には第20代正俊から30代までの小野一族が埋葬されています。 小野家は、平安時代に権勢を極めた藤原道長を遠祖に持ち、道長の孫・藤原祐家が、居宅としていた京都の「小野宮第」に因み小野姓を名乗るようになることに始まります。 時代は下って戦国、第18代小野和泉守鎮幸が立花宗茂公 (1567-1642)に仕え、5000石を拝領して柳川藩筆頭家老の地位を得ました。 この鎮幸から数えて6代目の第23代春信が、藩政功労により立花鑑任公より三池平野山の鷹取山を賜り享保6年(1721) そこで石炭採掘を開始、 三池 炭鉱の始まりとなったのです。★日本七槍・立花四天王の一人に数えられた戦国武将和泉守鎮幸 小野家の石炭は瀬戸内海の製塩などに使われるようになり、藩財政を 大きく潤わせました。このため度重なる飢饉のときも、柳河藩では 一人の餓死者もでなかったと伝えられています。 明治5年(1872)、三池炭鉱は政府所有となり官営化、その後明治22年(1889)に三井組の経営となって日本の炭鉱に発展しました。 三池炭鉱は平成9年(1997)に閉山しました。 小野家中興の祖となった鎮幸は、日本七槍・立花 四天王の一人に数えられた戦国武将でした。 主君宗茂が関ヶ原の戦いで西軍についたため 立花家は取り潰しとなり、宗茂は肥後の加藤清正預かりの身となります。鎮幸も家臣団を率いて清正に仕え、その後宗茂が放浪の旅に出たあとも清正の下で生活資金を宗茂に送り続けました。慶長14年(1609)、鎮幸は熊本で没しました。★一族にはオノ・ヨーコ (小野洋子)さんも 元和6年(1620)、宗茂は柳河藩主に復帰します。 取り潰しのあと旧領復帰できた大名は、あとにも先にも宗茂だけです。 小野一族はただちに熊本から呼び戻され、代々立花藩の家老職を世襲することになりました。鎮幸の墓は熊本市の本妙寺参道脇の東光院にあります。 ビートルズのジョン・レノンの妻、 オノヨーコ(小野洋子)さんは、この小野一族です。墓の配置図です。
2022.05.27
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官軍砲台跡に来ました。32.218351, 130.755477西南の役官軍砲台跡(村山): 明治10年の、西南の役において、熊本方面で敗れた西郷軍が、兵を建て直すため、人吉まで退き、33日間永国寺に滞留した。しかし官軍は、総攻撃を行ない、この人吉の街が見降ろせる村山の要地を占領し、大砲を構え、攻撃をかけた。西郷軍は、球磨川南側の人吉城周辺に本営を置き、防戦に努めた。双方の砲弾は入れ交り、人吉の街全体を巻き込む未曾有の戦いとなった。官軍の破裂弾は、薩軍の本拠地、永国寺、新宮家、或いは薩軍の軍列に命中したが、薩軍の砲弾は、この村山砲台までは届かなかったという。官軍は、6月1日朝、市街地に、突入した。小高い丘の上で、人吉市内が見渡せます。掲示されている地図を拡大:左上の赤い字で「現在地」が村山砲台。現在の人吉駅の裏手になる。 球磨川を挟んで、ほぼ真下方角に永国寺。右下に人吉城がみえる。改めて、人吉市街を眺める。これで、西南戦争史跡巡りを終え、帰宅の途に(高速で)つきました。
2020.06.27
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鵜戸神宮本殿に入ります。洞窟内です。そして、おっぱい岩です。そして本殿の前から海に向かって・・下の岩の穴に、見事入れば、祈願成就ですが・・・なかなか入りません・・・
2020.08.12
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大蔵廃寺毘沙門天堂に来ました。32.99777, 130.49483(65)大蔵おおくら廃寺毘沙門天(図版12(1))平山字簸ヶ坂はたがさか(付図2-268) 城集落西の平坦な丘陵を大蔵という。中世寺院の跡で小堂のなかに、小代八郎影向ようごう仏と称する毘沙門天像が1軀ある。その法量は、総高180cm、像高160.5cm、楠の一木づくり、無銘ではあるが、室町時代中頃の製作である。右手に宝棒、左手に宝塔を捧げ邪鬼を踏みしめた武装忿怒ふんぬ形は、仏法守護、北方守護の法力をそなえ、衆生のために除災招福与えるところより参拝者が多い。 調査者菰田宗二郎(文化庁公認)、多田隈豊秋(元福岡県文化財専門委員)。
2021.09.05
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