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2021.05.23
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テーマ: 史跡巡り(781)
カテゴリ: 荒尾の城跡
増永城(館)跡だとの話で訪れました。

宅地の庭ですが、家の方は撮していません。庭のみです。


庭の近くに、土塁跡と思われなくもないところもありました。
よくは判りません。

増永
 増永では、重俊の子息政平が増永村を領して増永七郎と称した。
 南北朝時代の貞和六(1350)年に、足利直冬(尊氏の猶子で、弟忠義の養子)が、増永名内迫村の地頭職を増永孫二郎隆平に安堵状を送っている、この安堵状には、武蔵国人西郡小代郷内に田畑一町(3000坪)と在家も同時に安堵されている。観応年間に起こった観応の擾乱こおいて、直義は京の尊氏を攻めて、一旦は尊氏を京から追い落としたが、後に毒殺された。この時、小代郷に加恩の地を得た隆平が、直冬の徴兵に応じて尊氏攻めに従軍したとも言われる。
 なお、室町期に竜造寺が野原庄に攻めこんだ際、多くの地蔵の首を切り落としたといわれているが、その代表的なものが正楽寺付近に残っている。
館山
 増永には、新才、北外磯、南外磯、北蔵屋敷、南蔵屋敷および堀後などの字がある。堀後天満宮の下に中屋敷という字があり、堀後には堀之内という下名があったと思われる。この東側に森があって、「館山」と呼ぱれ、周囲には濠(堀)を巡らしていたという。ここが、堀之内の屋敷地で、政平の本拠館であったと推測される。
 なお、堀後の東奥に潮見という字があり、小代水軍のための高台であったと思われ、近くに鎌倉時代の墓(持ち主不明)がある。





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最終更新日  2021.05.23 00:00:19
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