2025.03.27
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カテゴリ: 伝記

情熱と冒険 本田圭佑

大阪府摂津市で生まれた一人の少年がいた。1986年6月13日、本田圭佑はサッカーへの情熱を持ちながら成長していく。彼の幼少期から、異なる環境での挑戦が彼の人生を形作っていく。




選手としての軌跡:サムライの誕生
本田圭佑は両親が小学校2年生の春に離婚し、父親に引き取られたが、仕事で忙しかったこともあり、祖父母に育てられていた。幼少時は鳥飼さつき園に通園し、摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始めた。
「サッカーは物心ついたときからやっていました。Jリーグができたのが小1で、急激に流行ったでしょう。僕の周りもみんなサッカーをやり始めたので、自分が摂津FCに入るのは自然のなりゆきでした」
本田は二人兄弟。三つ年上の兄・弘幸さんとはつねに競い合い、刺激しあって成長した。彼の幼少期は、ディエゴ・マラドーナが世界を沸かせた86年メキシコワールドカップの真っ最中に始まり、93年5月にJリーグが発足した影響もあってボールを蹴る機会は日に日に増えていった。





ジュニアユース時代:挫折と成長
1999年春、通学区内にある摂津四中に入学した本田は、ガンバ大阪ジュニアユースに通い始めた。三つ上の弘幸さんは高校サッカーの名門・帝京高校へ進み、家を出て東京へ行ってしまった。幼い頃からつねに背中を見続けてきた兄と初めて離れ、本田はプロへのチャレンジを一人で本格的にスタートさせることになった。
練習場のある大阪モノレールの万博記念公園駅は、自宅に近い南摂津駅から5駅。最初はごく普通にモノレールを利用していたが、1〜2カ月が経ち、ようやく学校にもクラブにも慣れてきた頃、父・司さんが息子の行動に物言いをつけてきた。
「お前、なんでモノレールで行っとるんや。チャリンコで行くのもトレーニングやろ」
本田にも意地がある。すぐさまモノレールを使うのをやめ、自転車でのクラブ通いに切り替えた。
「ウチの親父はラクをしようという考え方が大嫌い。そういう気持ちを少しでも持っていたら絶対に許さへん。怒られるのはいつもメンタルのことでした。おじいちゃんも相変わらず厳しかった。ガンバの練習が終わって家に帰ると、晩酌に付き合いながら『お前は甘い』と怒られる。普通の中学生じゃないですよね。逃げ道なんかなかったし、いつも自分との戦いでした」
中学になると本田選手は体が大きく急成長。運動能力とのバランスを崩し、うまくプレーできなくなっていた。ガンバ大阪ジュニアユースではサブメンバーで、試合にはほとんど出られなかった。
「苦しんでいたと思いますよ。でも、これっぽっちもそんな様子は見せなかったですけどね」
ただ、本田選手は他のサブメンバーとは違うところがあった。
「試合のときは真ん中にはいなかったけど、オフザピッチ(グラウンド外)のときはいつも、家長やらいっぱいおる中の真ん中に圭佑がいた。そこではやっぱり中心やったよね。そういう子なんですよ、彼は。絶対俺はおまけじゃない、真ん中におらなあかんっていう本能を持っていた」
厳しくもあり温かくもある家族のサポートを本田は成長へのエネルギーに変えた。自分との戦いは家の中だけではなかった。エリート集団のガンバに行けば、熾烈な競争が待っている。特に誕生日が一緒で同じレフティである家長の存在は、本田にとって大きな壁であり、刺激だった。
「アキはクオリティが高かった。小さかったけれど、ドリブルに優れていたし、ボールタッチの仕方、体の使い方……、すべてが抜きん出ていました。でも自分も負けていなかったですよ。ガンバの練習は1対1、2対3、4対4、6対6とかほとんど対人で、体をぶつけ合うことばっかりやっていたけれど、俺だけじゃなくて、みんなアキに負けたくない気持ちは強かった」
ガンバ大阪ジュニアユースの同期には家長昭博や安田理大、東口順昭らがいた。東口順昭は当時を振り返り「ガンバ大阪ジュニアユースの同期ではアキ(家長昭博)が抜群にうまくて、中2のときから中3の試合に出ていた。(本田)圭佑は全然試合に出ていなかったけど存在感はあった」と語っている。
本田から「なんで俺、出られへんの?」「試合に出してほしい」と言われるたびに、現場の監督はその理由を説明したり、ヒントを与えたりした。アカデミーの指導者たちの間でも「なんとかならんかな」という想いが常にあったという。
しかし、本田の持久力、スタミナ、スピードはなかなか伸びなかった。結局、最終学年を迎えてもレギュラーに定着することができず、準レギュラーという立ち位置のままだった。
ユースに昇格できたメンバーも、昇格できなかったメンバーも、最後に全員で飯に行った。焼肉の食べ放題。東口順昭は「はっきりとした記憶は残ってないけど、圭佑がアキに向かって『高校で俺はお前を越えるからな』ってずっと言っていたのは覚えている。いつもの負けず嫌い。周りはそれを見て、『また言ってるわ』みたいな感じで笑っていた」と回想している。
ガンバ大阪ジュニアユースを卒業した本田は、石川県の名門、星稜高校に進学する。河崎護監督は本田を見て「この選手やるかも分からんっていうのはありました」と言い、「大きいけど動かんかったでしょ」と指摘しながらも、「ボールがない時に周りをうかがうっていうか、狙ってるというか、ボールが入ったらどうするか、常に考えている。ボールが動く度に周り確認して。情報を得ながら自分のプレーにつなげるっていうような習慣がすごく身に付いている」と評価し、2つ返事で本田を選んだという。





CSKAモスクワでの栄光:欧州の舞台へ
2009-10シーズン、本田はオランダで輝きを放ち、CSKAモスクワとPSVアイントホーフェンから正式オファーを受けた。「当時PSVが欲しがってくれてたんですけど、それもCSKAモスクワの半分くらいしか移籍金がなかった」と後に本田は語っている。
2010年1月1日、本田はCSKAモスクワへ移籍。4年契約で背番号は「7」。移籍金は900万ユーロ(約12億円)と報じられ、ロシア・プレミアリーグでプレーする初の日本人選手となった。
CSKAでの本田のデビューは鮮烈だった。2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦に先発出場。3月16日の2ndレグでは約30mの距離から決勝点となる直接FKを決め、チャンピオンズリーグ初得点を記録。この活躍により、CSKAはクラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるチャンピオンズリーグベスト8進出を果たした。
2011年8月28日、スパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、9月1日に手術を受けた。この怪我は彼のキャリアに大きな影響を与え、全治には最長3か月と発表された。11月18日のルビン・カザン戦で復帰を果たすも、試合後に右膝の故障が再発し、長期離脱を余儀なくされた。
2012-13シーズン、本田はトップ下で起用され、19試合で7得点を挙げる活躍でチームの原動力となった。2013年5月18日、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を達成。本田にとって初の欧州1部リーグでの優勝となった。6月1日にはロシア・カップ決勝でも勝利し、2冠を達成した。





ACミラン:10番の重圧
2014年1月、本田は夢にまで見たACミランへの移籍を実現させた。「心の中のリトル・ホンダに聞きました。『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と。そうしたら、心の中のリトル・ホンダが『ACミランだ』と答えた」と入団会見で語った本田。
ミランでは、ルート・フリット、ズボニミール・ボバン、マヌエル・ルイ・コスタなど歴代の名選手が背負った「10番」を選択。この決断は彼への期待と評価に大きな影響を与えることになる。
2014年1月12日、サッスオーロ戦でロビーニョに代わって途中出場し、ミランデビューを飾った本田。しかし、ミランでの3年半は苦難の連続だった。チーム自体が低迷期にあり、本田も自身が得意とするトップ下での起用は少なく、主に右ウイングでプレーすることになった。
2014-15シーズンは29試合に出場して6得点を記録。2015-16シーズンは「新監督シニシャ・ミハイロヴィッチの要求するシステムに溶け込むのに苦戦した」と言われながらも、30試合に出場して1得点。2016-17シーズンはヴィンチェンツォ・モンテッラ監督の下で出場機会が激減し、わずか8試合の出場にとどまった。
それでも本田は、2017年5月21日のボローニャ戦で2カ月ぶりにピッチに立つと、フリーキックからゴールを決め、有終の美を飾った。ミランでの通算成績は92試合出場11ゴール14アシスト。セリエAでは81試合に出場し9ゴール10アシストを記録した。
挑戦と成長:怪我との闘い
本田圭佑のキャリアは、常に新たな挑戦と成長を伴っていたが、怪我との闘いも彼の人生を彩る一部となっている。
2011年8月28日、スパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、9月1日に手術を受けた。この怪我は彼のキャリアに大きな影響を与え、全治には最長3か月と発表された。
手術後、本田は11月18日のルビン・カザン戦で先発フル出場し、2か月半ぶりに復帰を果たした。しかし、試合後に右膝の故障が再発し、またも長期離脱となった。この時期、彼はチャンピオンズリーグのグループリーグを全試合欠場することになった。
2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグのレアル・マドリード戦で途中出場し、3か月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で欠場し、チームも敗退した。4月21日のディナモ・モスクワ戦で1か月半ぶりに復帰を果たした。
2018年12月14日のブリスベン・ロアー戦を最後に、直近のリーグ戦9試合を欠場し、2019年2月10日にパース・グローリー戦で復帰した。
2019年2月の復帰時、本田は「100%と呼べるわけではないですけど、少なくとも悪化はしてない」と怪我の状況を明かし、「次に向けて準備できるということがわかっただけでも、一応復帰できたと言えると思う」と語った。
2023年10月には、メルボルン・ビクトリーで右ハムストリングの怪我を負い、約4週間の離脱が見込まれた。専門家の診断を受け、リハビリテーションプログラムを開始した。






バセドウ病の疑い
本田圭佑には、バセドウ病の疑いがかかっている。2014年頃から、彼の首元に手術跡が見られることが話題となり、バセドウ病の可能性が指摘された。バセドウ病は甲状腺機能亢進症の一種で、甲状腺ホルモンが過剰に分泌される自己免疫疾患です。
この病気は、頻脈や息切れ、眼球突出、体重減少、多汗、手足の震えなどの症状を引き起こします。本田圭佑も、練習で大量の汗をかい、疲れやすいという話がサッカー関係者の間で出ていたことがあります。
2016年には、喉仏の下に10センチの手術痕があり、バセドウ病の症状が進んで「甲状腺切除手術に踏み切った」とも噂されました。ただし、公式な発表はなく、真相は明らかではありません。
私生活と哲学
本田圭佑は、幼馴染みの三宅美咲子と結婚し、三人の子供を持つ。彼の家族は彼のサッカー人生を支え続けてきた。
彼は「子供たちの夢を叶えるために」という使命感を持っており、Ashinagaや他の団体と協力して、世界中の子どもたちにサッカーを通じて希望を与える活動を行っている。


彼の物語は、まだ終わっていない。新たな挑戦が彼を待ち受けている。






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Last updated  2025.03.27 10:07:39
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