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萩の花が満開になりました。 今週のNHKラジオ、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」。 まずは、鹿島紀行から帰った芭蕉が、杉風への感謝の意を表して渡した、鹿島の記、とあつめ句。鹿島の記は旅の風雅の記録であり、あつめ句は、定住している芭蕉庵での四季が。まず、「あつめ句」の中から、漢詩の題である「友を訪ねて会わず」のテーマで ☆ある人の隠れ家を訪ね侍るに、あるじは寺に詣でけるよしにて、年老いたる1男ひとり庵を2守り居暮しける。垣穂に梅盛りなれければ、「これなん3あるじ顔なり」と言ひけるを、かの男、「4余所(よそ)の垣穂にて候ふ」と言ふを聞きて *留守に来て梅さへよその垣穂かな=ある人の隠れ家を訪ねたところ、主は留守で年老いた男が留守番をしていた。垣根に梅が今を盛りと咲いているので「この梅こそ主人のように私を迎えてくれる」と言うと、老僕は「その梅はうちのではなくよその垣根のものです」というので一句。 *友の留守に来て、梅の花さえよその垣根のものだった!また、「友に訪われて喜ぶ」の俳諧版。 ☆一年都の空に旅寝せしころ、道にて行脚の僧の知るひとになり 侍るに、この春みちのおく 見に行くとて、わが草庵を訪 ひければ *またも訪へ藪の中なる梅の花 ある年、都の空に旅寝をしていた頃に知り会った僧が、陸奥を見に行くと、私の庵を訪ねてきてくれたので一句。*藪の中にひっそりと咲く梅の花を、再び訪ねてきてほしい。わび住まいの暮らしの誇りもあって。では、笈の小文の読解に・・・。序章。 『百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。』= 人体を構成する百の骨、人体にある九つの穴=荘子からの引用。(100分de名著、でやってましたね♪)そんな体に、心=ものがある。仮に名づけて風羅坊という。うすものが風に破れ易いことを言う のであろうか、(自分の中のものは、風に破れやすい、薄物のようなものだ=芭蕉の葉っぱもそのように。風羅坊は俳諧を好み、ついにそれを生涯の仕事にして しまっているのだ。= 『ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。』= ある時は、飽きて放り出そうとしたことも、ある時は他人に勝って誇ろうとしたこともある。どういうあり方が良いのか、胸の中で考えが戦って、そのために身 が休まることがない。立身出世を願ったことも、学問を修めて自身のおろかさを悟ろうとしたこともある。いずれにしてもうまくいかず、俳諧のために心を奪わ れて、無能無芸のまま、何事もできなかった。= 『西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。』=西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶・・・彼らは芸術的な真実を捉えたという点で、根本的に共通している。風雅の貫道はひとつ。= 芭蕉は、偉大な4人の名をあげ、貫道するものは一つ、と言った上で、しかも・・・と言い切る。芭蕉は俳諧をこれらと同等であり、しかもそれ以上と位置づけたのだ。当時の社会一般の考えとは、雲泥の差があるのに。 『しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。』= 風雅におけるもの=俳諧は、自然に従い風雅の心で見ればすべては花になりすべては月になる。見るものに花を感じないなら夷てきと同じ、心に花を思わないな ら鳥獣と同じである。ただ自然の中に回帰せよ。不易流行説に通じる考えは、造化との一体化をめざす風雅論になった。あらゆる対象の中に花を、月をみつけて、それを表現するのだ!芭蕉さんの檄文なのでした!
2015年09月13日
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晩菊です! 古今集 *心あてに折らばや折らむ 初霜のおきまどはせるしらぎくの花 みつねくん NHKラジオ第二放送、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」 前回は「あつめ句」のまとめをした。発句34句を並べることで、芭蕉庵の四季、くらしをえがいたもの。 俳諧撰集法は、元禄15年刊行の「宇陀法師」におさめられた。そこには「師曰く・・」のように、芭蕉から教えられたことを記してある。 内容のひとつに「前後の続きともようが大切。並べ方で妙味がうまれるので、それを大切にすべき。世間では、ただ季語ごとに並べるだけの形であるが、そこに 何か一工夫ほしいものだ」という言葉も。 句集の刊行は門人にまかせ、ほとんど関わらなかった芭蕉であるが、元禄4年1691年刊行の「猿蓑」は例外的に芭蕉が関わったことが「去来抄」から伺える。去来、凡兆に任せてしまうのではなく、芭蕉は気合をこめて猿蓑に取り組んだ。そして、「俳諧の古今集」ともいえる「猿蓑」ができあがった。 その前後の句の並びの例 *猪に吹かへさるゝともしかな 正秀 <いのししに ふきかえさるる ともしかな>。「ともし」は灯しで、夏の夜に鹿狩りをするのにつかう松明のこと。鹿狩りをしているとびっくりした猪が灯しの炎を吹き消すような勢いで逃げ去った。期待はずれの笑いも。 明石夜泊 *蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉 *君が代や筑摩祭も鍋一ツ 越人 <きみがよや つくままつりも なべひとつ>。「筑摩祭」は、近江坂 田郡筑摩明神の祭礼で、この日氏子の女たちは自分が交わった男の数だけ土鍋をかぶって奉納するという風習があった。 <解 釈>猪・・・猟 蛸・・・漁 と、季節にこだわらず2つの「りょう」を並べたことに編者の意思が。荘子の万物斉同の考えがうかがえる。明日を知らず蛸 が短か夜の儚い夢をむさぼっているのは、平家一門の哀しい末路を想像させ、つくままつりの女たちがかぶる鍋はみな一つであり、安寧の世の中を寿ほぐ。前の 2句が生きる儚さを、後の句は今の世の平安を・・・。句と句の関係性を考えながら読む「猿蓑」。では、「更科紀行」 =本文= 何ゝ といふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、たゞむつゝとしたるが、腰たはむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ 来れるを、ともなひける人のあはれがりて、をのゝ肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて馬に付て、我をその上にのす。高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず、只あやうき煩のみやむ時なし。 <解釈> とあるところで、六十路ばかりの行脚僧の、愛敬がなくただむっつりとした人が、腰がまがるほどに大きな荷物を背負い、息も切れ、足はよろよろと小刻みに歩 いているのを、越人がかわいそうに思い、皆の荷物をまとめて馬をやとって背負わせ、その上に予を乗せて、同行四人になった。 高い山に珍しい形の峯が頭の上を被い、左には大河(木曽川)がながれ、岸の下は千尋の谷。ほんの少しも平地がないので、鞍の上でも落ち着かない。 =本文= 桟 はし、寝覚など過て、猿がばゝ・たち峠などは四十八曲リとかや。九(つづら)折重りて雲路にたどる心地せらる。歩行より行ものさへ、眼くるめきた まいゐしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりける を、あとより見あげてあやうき事かぎりなし。仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしさも我身にかへり見られて、あはの鳴 門は波風もなかりけり。 <解釈> 歌枕として名高い木曽の桟、寝覚めの床などを過ぎ、いくと、四十八曲がりとか言われるようにつづら折が重なっていいて、雲の中をたどるような心地がする。 歩いていても目がくらみ、魂が縮むような気持ちになるようで足元もしっかりしないのに、例の下僕は少しも恐れず、馬の上で眠りこけている。(交代で馬に 乗ったらしい)何度も落ちそうになるので、後ろから見ていても危なっかしいことこの上ない。そこで予はあることを思った。仏様の御心から人間どもの浮世の さまをご覧になるというのも、きっとこういうふうに危なっかしく見えることなのだろう。無常迅速といわれる言葉が、実感できる言葉として理 解できたのだった。「あはの鳴門」は、兼好法師の*世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は波風もなし =人の世の苦しさに比べれば、阿波の鳴門など波風などないと同じ。 という歌から。落馬の話題は徒然草41段にあり、そこで兼好の歌を持ってきた。落馬しそうな男から兼好を持ってきた♪ =本文= 夜は草の枕を求て、昼のうち思ひもうけたるけしき、むすび捨たる発句など、矢立取出て、灯の下にめをとぢ頭たゝきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心 うくて物おもひするにやと推量し、我をなぐさめんとす。わかき時おがみめぐりたる地、あみだのたふとき、数をつくし、をのがあやしとおもひし事共はなし つゞくるぞ、風情のさはりとなりて何を伝出る事もせず。 とてもまぎれたる月影の、かべの破れより木の間がくれにさし入て、引板の音、しかおふ声、所ゝにき こへける。まことにかなしき秋の心爰に尽せり。 <解釈> 宿を求めて、昼に見た景色を思い、そのとき浮かんだ発句などを思い起こし、矢立を取り出して灯火のもとにうめいていると、例の行脚のご坊が、予が旅の辛さに苦しんでいると心配して、なぐさめようとしてくれる。 若いときに拝んで回った土地のこと、阿弥陀様の尊さ、あれこれ語って、旅も悪くないと言ってくれる。しかし、発句をまとめようとしている予には、句をまとめる妨げになってしまい、何もつくることができなかった。感興を失ったので句などできない。気にならなかった月影が壁の間から差して、耳には獣よけの引き板の音、鹿を追う声などが聞こえて、まことに哀しい秋の風情が、ここで最高潮になったのでした。人、木石に非ず、皆、情けあり。 リアリズムの芭蕉さん!今週はここまででした。
2015年11月29日
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バラのオレンジバーニーちゃんです! 日テレの人気番組「笑点」が50周年となり、司会も桂歌丸さんから古今亭?昇太さんになるとのこと。「こんなおふざけ誰が見てるの?」と思いつつ、けっこう楽しく見ています。関東では視聴率けっこう高いんです。 そこでもっともおふざけキャラの林家木久扇さんの半生を振り返った「この道」が、東京新聞夕刊に連載されているんですけど、きちんとした立派な人だなあ!というのが感想。 そろそろ笑点に参加のころに入りそうです。 家業は東京は銀座の近くの小物(荒物?)問屋さんだったので、店で働く人も多く、朝食、昼食は母はそのお世話でてんてこまい、父はその母のために夕食は外食と決めていたそうです。 戦争でなにもかも失った母のために機転をきかして稼いだ少年は、都立高校で食いはぐれのない職業を目指します(何だったけな?畜産?)その後森永乳業に就職したらしい。 その後、絵の好きだった少年は母に連れられて、漫画家の清水崑さんの住み込み書生になり、清水家と交流のある鎌倉文士(大佛次郎、川端康成など)と出会います。これだけでもすごいこと!笑点で「河童」の真似するときは、若き日の追憶の中にいるのかも。 4年ほどつとめた、清水崑さんの紹介で落語家の桂三木助師匠の弟子になります。 病気がちだった師匠。そのときにおかみさんは小さなポチ袋に3万円を入れてくれた林家正蔵師匠のことを「落語家は名前だけでは食べていけない。花や果物よりもこういうのが一番有り難い」と言っていたそうです。 師匠はほどなく亡くなり、弟子たちは新しい師匠を選ぶことになりました。小さん師匠のもとへ行った兄弟子たち。最後に木久蔵さんは林家正蔵師匠の弟子になることを決めます。三木助師匠のおかみさんの感謝の言葉を思い出したのです。 師匠の長屋に住み込み、通いの弟子たちの練習を階段に腰かけて聞く日々。 昨日は、前座修行を4年務めて晴れて二ツ目に昇進した昭和39年9月。手拭いを名入りに染めて、一緒に昇進した金原亭桂太(現・金原亭伯楽)さんと、付き添いの金原亭馬生師匠、林家正蔵師匠と4人で紋付袴の正装で、当時の落語協会会長・桂文楽師匠宅と、当時の落語芸術協会会長・春風亭林橋師匠のところへ挨拶回り。 普通はタクシー2台で行くのが、正蔵師匠は大のタクシー嫌い。ぜいたくだというので、その姿で4人でバスに揺られて行ったこと。今でも良い思い出だそうです。 また、根岸の林家三平師匠のところへ行くと、師匠がすごいいきおいで二階から降りてきて、ちゃぶ台の上に正座。「木久蔵さん、おめでとう。もう大変なんですから!」と言われたそうです。面白がらせようとしたらしい。 そばに、きちんと畳紙(たとう)に包んだ三平師匠愛用の緑色の袴が置いてあり、それをお祝いにいただいたそうです。 以下に木久扇さんの本文。=普通二ツ目の祝いは帯とかをくださる方が多いが、三平師匠からはお使いになっていた袴を賜り、袴の膝のところに手をあてた脂汗の跡があった。私にとってそれがまたうれしくて、後に高座の私は、芸にあやかろうと、同じ場所に手を重ね、念じた。 昭和四十年代、テレビ演芸の時代がやってきていた。=☆落語界の人々の人情話、泣かせますね~!多分、今日は笑点に参加の頃の話かも♪
2016年05月23日
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今日は大好きな立春です。我が家の大量のさくら草も、1ヶ月遅れで咲き始めました。咲き始めは初々しいけど、全部咲くとものすごいことになるんですよ。 さて、なぜ立春が好きかといえば、例の古今和歌集の歌があるからです。そしてこれに対する正岡子規の批判を思い出すからです。 今日は旧暦の12月24日なのですが、もう立春です。よくあることらしい。 こういう古今集の歌があるのです。1番目にふるとしに春たちける日よめる 在原元方*年の内に春はきにけり ひととせをこぞ(去年)とやいはん ことしとやいはん2番春たちける日よめる 紀貫之*袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん11番春のはじめのうた みぶのただみね*春きぬと人はいへども 鶯の鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ 立春になった喜びを、口々に歌っているのですね。 ところが、それにかみついたのが正岡子規くんです。 歌よみに与ふる書では、この歌をまずあげて「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にこれ有り候。(自分も以前は崇拝していたが) 三年の恋一朝に覚めてみれば、あんな意気地のない女に今までばかにされておったことかと、悔しくも腹立たしくあいなり候。 古今集をとりて第1枚を開くとただちに「去年とやいはん今年とやいはん」 という歌が出てくる。実に呆れ返った無趣味の歌にこれあり候。 日本人と外国人との合いの子を日本人とや申さん、外国人とや申さんとしゃれたると同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候。 この外の歌とても大同小異にて駄洒落か理屈っぽいもののみに候。= と、子規くんが言ったために、万葉集はいいけど古今和歌集はくだらない、という風潮が全国に広まってしまったのだそうです。 近年、古今集の再評価が進んでいるらしいけど。 「日本文学と気象」で、高橋和夫先生は、古今集の撰者たち、伝統を作りあげた人たちは、京都の自然観察と季節についての知識をまとめあげ、吸収し、芸術心を実現し、京の風土を作り上げた・・・人たち、としています。 子規が古今集の歌人たちの歌を詠む姿勢をもっと知れば、自分と同じ誠実さ真剣さを見出したにちがいない、と書かれています。 子規が読み足りなかった古今和歌集! むきになって怒っているのが、楽しい! 古今の編集者たちは、政権をとって権勢を思うままにしている藤原氏に対して、人が生きるための王道、本当はこっちのほうが大切なんだよ、と文化人としての自分たちの価値観をまとめ上げたのね♪ 在原さん、紀さん、壬生さん、小野さん、、、たちの人々・・・・。
2013年02月04日
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テリハノイバラです!花の右上の方の葉っぱに、灰色のシジミチョウが動かずに止まっているのですが、そのうちに毛虫が野茨の葉を食べつくす成り行き。*愁ひつつ岡にのぼれば花いばら 蕪村*花いばら古郷の路に似たる哉 蕪村 蕪村の句っていいですね! さて、芭蕉さんの野ざらしの旅の、故郷伊賀上野で年を越したあたりを、高橋和夫先生の「日本文学と気象」からひもといてみましょう。以下に引用させていただきます。=大垣からは揖斐川を桑名まで舟運を用いたであろう。ここから冬。そして熱田、名古屋と冬を過ごし、年暮れて故郷伊賀上野に帰って越年した。 そして春。芭蕉は再び畿内をめぐる。(中略) 芭蕉は伊賀を出立し、東大寺二月堂のお水取りの参観にでかけた。道筋は加茂・木津経由、今の関西本線沿いであろう。そしてお水取りは陰暦二月一日から十四 日間で、この貞享二年は、陰暦二月一日が太陽暦の三月五日だから(ただし、この年から、平安時代の貞観以来用いられてきた宣明暦に代わって、その誤差を修 正した貞享暦が用いられた、二月一日は、どちらをとっても変わらない)、その少し前に伊賀を出発したことになる。 この年の立春は正月三日 であった。すでに古今和歌集の章で述べたように、春の到来を真っ先に知らせるのは霞である。西高東低の冬型気圧配置が崩れて、移動性高気圧が本土上空を通過 する時、立春以前では日射が弱いので、この高気圧が通過してもそれは寒冷高気圧で、地表は余り暖められない。それに対して立春以降は日射が強くなり、地表 から水蒸気が立ち上って霞が棚引く。*春なれや名もなき山の朝霞 芭蕉がこの霞を見て「春なれや」と句作したのは、この季節の伝統を俳諧の上にみごとに継承したことになる。それを「名もなき山」というところに俳諧がある。吉野でもない、高砂でもない。歌枕ではない、名もなき山である。『三冊子』に先師の言葉として「春雨の柳は全体連歌也、田螺(たにし)取る鳥は全く俳諧也」という有名な伝承があるが、それまさしく「名もなき山」にあてはまる。= 名もなき山・・・いいですね。ところで『三冊子』とは何?先師って誰と思い、ネットで調べて見ました。=『去来抄』『旅寝論』は去来、『三冊子』は土芳による蕉門の代表的俳論。いずれも芭蕉から直接教えを受けた弟子が、俳諧の起源、不易流行、句作の技術、ま た修行の心得等について師の真意を伝えるべく執筆したもので、理念と実作の両面から蕉風俳諧の本質を解きあかす貴重な資料である。= 岩波文庫の本の紹介で「去来抄・旅寝論・三冊子」というものがありました。なあんだ、芭蕉さんのお弟子、土芳さんの本でした、そして「先師」とは芭蕉さんの言葉だったのね♪
2015年06月09日
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斉藤美奈子先生と言えば、同姓同名のミスミナコサイトウのことを、どうしても思い出してしまいます。バブルが咲かせたあだ花?でも、彼女の豪華絢爛のうしろに、意外と真面目な一面を感じてしまい、きわものとは言えない何かを感じる私です。 ミスミナコサイトウ(斉藤澪奈子)は、1956年東京生まれ、高校卒業後、ヨーロッパに留学、主にロンドン、フィレンツエで物理化学とルネッサンス美術史を学ぶ。 そして30代後半で結婚して、女の子を産んだそうです。 イタリアとの貿易、ファッションブランド、セミナーやカウンセリングに活躍。日本語以外に5カ国語を話し、豊かなブランドの知識で、当時の女の子たちの憧れの的になりました。 彼女の書いた「超一流主義」の前書きには嫌いな人なら身震いするような言葉がいっぱい。「皆さま、お元気でいらっしゃいますか?ヨーロッパでの生活から私が学んだことは、”ディグニティー(誇り)”を持って生きるということでした。 ヨーロッパの上流の人々は、美しいものをこよなく愛し、毎日の生活をエレガントでバラの香りがあふれるようなたおやかさで包んでいます。しかし、エレガントに生きるためには、目には見えないたくさんの「努力」といえるものが必要だということも痛感しました。」「さて、私が日本に戻ってからそろそろ8年が過ぎようとしていますが、最近私の生まれ故郷の日本の女性たちが、あまりにマテリアルで表面的な生き方しかしていないのを見て「もうそろそろ本当の一流の生き方を学んで欲しい」という思いがつのってしまいました。本当の美意識を養うことや、心の洗練に励むことが、ブランド製品で身を固めたり、見栄だけの生活様式を追いかけることより大切なのに、誰もそれを教えてあげない・・」「私は、ヨーロッパ仕込みの”ディグニティー”と”ポジティブ・シンキング”という考え方を身につけたことで、女性として生まれたことの本当の幸せや、女性としての成功を味わっています。」「さあ、皆さま、私と一緒に、生きていることの美しさをたくさん体験して、輝くようなディグニティーを胸に、気高い日々を送りましょう。」 ミスミナコは、こうして、バブルで手に入れた「財」のようなものを手にした親たちの、貧しい成長の記憶にはなかった上流階級の香りをちょこっと嗅がせて、夢を見させてくれた人だったんですね。 自分にはかなわぬ夢だったけど、努力すれば娘にはブランド品も海外旅行も、聖心もフェリスも白百合にも行かせられるという・・・娘は母の代理戦士の時代の水先案内人・・・。 彼女は、人間をアッパーとロウアーの2種類にわけて評論しています。おおまかにいうと成金ぽいのをロウアーといってものすごく馬鹿にしています。成金になれなかった私はこの部分でひどく共感したのでした。 メイクや食事、ブランド、香水などの女の子向けのものの中に少しだけ理屈をこねた文もあります。「私のことを”ハイソ(ハイソサエティーの略。こういった短縮語を日本人は好むが、私の感性には合わない)評論家”と呼ぶ人がいるが、私は評論家ではないし、その類の人種が嫌いである。 私が思うに、評論家は”不毛の人々”にすぎない。なぜなら、いかに過去の歴史的かつアカデミカルなデータを学んだとて、決定的なリアルタイムの経験には、誰もかなわないからだ。 すなわち、評論家たちの積み重ねられた机上の努力は、たった一回の実践という経験の前では、瞬時にして消え去る運命に置かれているわけである。」 こうしてマスコミにももてはやされた彼女でしたが、経歴や出自の詐称疑惑などが起き、ブームも消えました。女の子を出産したあと、亡くなったそうです。 当時、ほんとに面白いと思ったアッパーのわけかた、ちょこっと真似をしたりもしました。今読むと、そう面白くも斬新でもないのは、時代が彼女に追いついたのと、私が年をとったせいでしょう。 でも、今になると彼女の息づかいが聞こえてくるような近さを感じます。けっこう本物だったんじゃないかと思うんです。 斉藤美奈子先生は、講演の時に同じ名前の彼女のことを話されることもあるそうです。いつか、斉藤美奈子による、ミスミナコサイトウの分析を読みたいものです。
2007年09月27日
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NHKラジオ古典講読「方丈記」方丈の庵は、何の不足もない。長明の隠遁生活のまとめ部分。『それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』 人が友として選ぶのは、富のある人、いろいろ分け与えてくれる人を大事にする。情け深くて正直な人は、選ぶ基準にない。 糸・弦楽器 竹・管楽器 友にするのは楽器と自然が良い。 奴は報酬が多く、口利きしてくれる人を好み、心安く静かな人を選ばない。そうなってくると、奴を持つのも大変になる。だったら、自分が奴の役をすれば良い。 自分が奴婢になれば、自分のことは自分の身でする。疲れて嫌な時もあるが、人を使うより楽だ。 歩くべき時は自分の足で歩く。体を使ってしまった方が良い。 自分の身体を使い、二つの事が出来る。手の奴、足の乗り物、体が苦しい時は休み、元気な時は使う、使うといっても無理はしない。 歩き、体を動かすことは体に良い。無駄に休んでいては良くない。人を頼らず自分で動け。(800年前に、運動の良さを語る長明!) 衣食についても同じである。 藤の衣、麻の夜具、野べのヨメ菜、峰の木の実、命をつなげるくらいで十分だ。 人と付き合わなければ姿を恥じることもない。 食べ物が少ないので美味しくいただく。 こういう楽しみは、富める他人に言うのではない。ただただ自分の事として言っている。それは賀茂の頃と今の自分を比較してのことだ。 人との交流を断つという長明と比べて 隠遁者として並び称される、西行、兼好はどんな言葉を残しているか。 西行は。友といられることを願っていた。山家集・もろともにかげをより来る人もあれや(人がいるといいなあ)月の漏りくる笹の庵に・さびしさにたえたる人のまたもあれな(いたらいいなあ)庵並べん冬の山里兼好は徒然草12段、13段で友人論を「友だちというのは難しい、そんなことより書物を友とするのが一番だ」と書くが、私歌集では・年ふれば問い来ぬ人もなかりけり世の隠れ家と思ふ山路を131番 (=聞き間違いで不正確かも)(隠れ家なのに人が絶えないでうるさい)といいつつ・山里は問はれるよりも問ふひとの帰りてのちはさびしかりけり132番 と、人恋しさを歌っている。
2019年07月14日
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