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2017.04.29
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カテゴリ: 探訪 [再録]

本福寺の次に 「祥瑞寺」 を訪れました。  

(かそうそうどん) 和尚の許に入門したお寺でした。
本堂と開山堂の拝観は予約がいるということで、探訪の対象外となり、境内だけ訪ねました。

臨済宗大徳寺派の寺院。山号は太平山。本尊は鎌倉時代の釈迦如来像です
玉泉庵の第6世覃澡 (たんそう) が聖瑞庵を創建したのが、このお寺の直接の起源になるようです。玉泉庵は、鎌倉幕府が滅びる直前頃、元弘2年(1332)の創建。当初天台寺院だったのが、後大徳寺に寄進され、聖瑞庵もまた応永17年(1410)に大徳寺の末寺になったそうです。応永年間(1394~1428)に大徳寺派の高僧、華叟宗曇が開基し、当初は祥瑞庵と呼ばれていたといいます。
開山堂に華叟と一休の木造が安置されているとのこと。 (レジュメと祥瑞寺のページ)

宗純は22歳から34歳までここで修行 し、華叟和尚から「洞山三頓の棒」という公案を与えられ、悟りを開いたと伝えられています。そして一休の道号を授けられたのです。つまり、 堅田は禅僧・一休誕生の地 でした。
私は、一休さんが堅田で修行していたということを、今回の講座に参加して初めて知りました。
 この 句碑 が山門を入った左手側少し斜め前方奥に
       秋の淡海かすみ誰にもたよりせず  森澄雄


        境内の一隅に置かれた 石に鬼瓦が立てかけてあるのがおもしろい

石畳みの参道を左折して鐘楼の傍近くまで行くと、通路の左手側にもう一つ句碑が建っています。
こちらは芭蕉の句でした。

この元禄3年というのは、元禄2年8月に「 おくのほそ道」の旅を終えた翌年 です。
大垣に到着した芭蕉は、江戸に戻らず、伊勢を経由して故郷伊賀上野に向かいます。そして 京都の去来亭 に立ち寄った後、 膳所の義仲寺で越年 します。
再び伊賀上野に帰り、膳所に戻ってきた(3月)後は、 石山の幻住庵 に入るのです。ここで『幻住庵の記』を執筆し始めます。8月下旬には脱稿。この後で、芭蕉は堅田を訪れたのです。9月13日~25日の間に、前回ご紹介した本福寺の千那を訪れています。そして、この時に、この祥瑞寺も訪ねたということになります。

この元禄3年、芭蕉は、堅田→義仲寺→京都→義仲寺→伊賀上野→京都→大津→義仲寺、と忙しく往還しています。  (参照1)
この俳句は、『はせを盥』(朱拙・有隣編・半一・享保9年刊)に所収されています。 (参照2)


屋根や塀に置かれた飾り瓦が目にとまりました。なかなか風情があります。

境内と本堂前庭を仕切る中門と塀の近くで、仲川講師の説明を拝聴しました。
冒頭に記した宗純の入門や公案にかかわるエピソードなどが話材に取りあげられたのです。
 中門横の透塀・格子窓の間から眺めた庭
多分、正面が開山堂で右手が本堂でしょうね。

「洞山三頓の棒」の公案の説明を部分的にしか記憶していません。そこで、ネット検索してみました。
求めよ、さらば与えられん・・・です。いい解説にめぐり会えました。
高杉光一氏の執筆による「No.10 洞山三頓 <無門関.第十五則>」をお読みいただくと、よくお解りいただけると思います。こちらからご覧ください。

洞山という修行僧が雲門禅師に参謁して対話したとき、突然に洞山が禅師から60回棒で打ちのめされた意味を問う課題だったようです。それが、宗純に与えられた公案でした。

華叟和尚にこの公案を授けられた宗純は?
補遺に掲げた、『洞山三頓の棒の公案で悟る』の項をお読みください。


祥瑞寺を出て、 「都久生須麻神社」 の前を通りすぎ、堅田藩陣屋跡に行きました。
その前にこの神社に少し触れておきましょう。所在地:本堅田1丁目18-18(南側です)
伊豆神社の境内社(摂社・末社)の一つになりますが、境外に所在します。
都久夫須麻神社(=竹生島神社)の系統だろうな・・・・と推測しています。

  堅田藩陣屋跡の案内板                            
場所としては民家が建っていて駐車場の傍に説明板がありました。ここは 陣屋の船入跡 になります。
説明図と文を切り出してみました。

この案内板の場所に陣屋の表御門があったのだとか。
元禄11年(1698)に下野国(栃木県)から転封してきた掘田正高(高島郡に1万石)以来6代、 約130年間にわたり、堅田藩主の陣屋がここにあったのです。 文政9年(1826)掘田氏が下野国の方に陣屋替えとなることで、にこの陣屋は撤収されました。 そして後、堅田は天領となります。
三代目藩主堀田政永の墓が、先ほどの祥瑞寺にあるそうです。


ちょっと、通りを南に歩いて行くと、湖岸方向(左手)に 「満月寺」の山門 が見えます。
あの有名な 浮御堂のあるお寺 です。今回は探訪の対象外でした。

 陣屋跡のすぐ近くにある 「伊豆神社」


                      水路に囲まれた伊豆神社
          ここは、 「堅田大宮」 とも称され、 堅田の中心的な神社、堅田全域の総鎮守 です。

由緒によれば、寛平年中に諸国行脚した比叡山の法性坊尊意僧正が、この辺りの風景が三嶋と似ているところから、 寛平4年(892)に三嶋明神をこの地に分祀したのが草創 と伝えられています。 伊豆国三嶋明神は海難と猟師の神様。また、天暦3年(949)に山城加茂大神を勧請します。 京都賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神玉依姫命を分祀するのは、 堅田が賀茂社の御厨(神領)であった ことに由来するのでしょう。古来、伊豆神社と神田神社の両社殿があったようです。 (レジュメ、説明板、滋賀県神社庁より)

三島神社という社名の神社は全国に1万1000を数えるそうですが、現在はその頂点が三嶋大社です。三嶋大社は伊豆半島の守護神。この三嶋大社・三島神社の本源は、実は愛媛県越智郡大三島町の大山祇 (おおやまずみ) 神社なのだとか。この所在地の名から、三島明神・大三島神社などと呼ばれてきたといいます。そこで、 祭神は大山祗命 ということになります。 大山祗命は、和多志大神ともいわれています 。和多は綿津見(海神)のわたであり、海の意味、つまり海の神でもあるのです。 (参照3)
「永禄十二年に至って兵火に罹り、天正年間に伊豆神社のみ再建された」ということです。 (滋賀県神社庁)

                            ここの屋根の飾り瓦もおもしろい。
境内社として、

               年丸稲荷大明神という社があります。

また、 天満宮があります(左)。天満宮の鳥居と稲荷社の鳥居 が仲良く並んでいます。
最初の石鳥居は稲荷大神の額で、後の鳥居には年丸大明神の額が掛けられています。
他に、樹下神社というのもあるようです。 これは見落としました。

この堅田大宮では、 室町時代より殿原衆を中心とする宮座(3座)が運営されていました 。その後「宮座は、本村・神主村・大村・新村の四座から構成される。しかし中世後期には、堅田宮の切・東の切の氏神としての性格も合わせ持つようになった」 (レジュメ) とのこと。その後、永禄5年(1562)には、南座・北座の2座になるようです。

「宮座とは、地域の鎮守もしくは氏神である神社の祭祀に携わる村落内の特権的な組織及びそれを構成する資格者の集団。専任の神職を持たず、宮座の構成員が年番で神主役を務める当家 (とうや) 制を取る。」 (ウィキペディア) ものだそうです。
堅田では、殿原衆が独占していた宮座に、「堅田大責」以降、全人衆が参加(新村)するようになった そうです(3座→4座)。惣中での自治運営において、殿原衆と全人衆の身分的格差が是正されるということは、全人衆がそれだけ経済的実力をつけてきていたということでしょう。それは、「堅田大責」の後の山門衆への3000貫文上納において、全人衆である本福寺法住他数名が相当の額を負担した事実が裏付けているように思います。 (レジュメより)  堅田の自治のあり方が変化していく樣が宮座のあり方にうかがえて興味深いところです。

話が横道にそれました。
この後、西ノ切の船入跡に向かいました。


                        当初の探訪想定ルート図

つづく

参照資料
1)  芭蕉総合年表  :「芭蕉DB」(製作著作・伊藤 洋氏) 
2)『芭蕉俳句集』(中村俊定校注・岩波文庫) p225、p469
3)『日本の神様読み解き事典』(川口謙二編著・柏書房) p474,p98

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
祥瑞寺  :「一休さんのくにプロジェクト」
祥瑞寺・大津市堅田
   森澄雄氏の句碑がここに建てられた理由が引用されています。参考になります。
一休宗純  :ウィキペディア
一休誕生 『洞山三頓の棒の公案で悟る』  :「一休さんのくにプロジェクト」
伊豆神社  ;「滋賀県神社庁」
都久夫須麻神社  :ウィキペディア
宮座  :ウィキペディア
エリアの歴史 琵琶湖湖西地区  :「大津西ロータリークラブ」
一休禅師の墓  :「酬恩庵一休寺」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -1 堅田教会、本福寺 へ
探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -3 舟入跡・神田神社・湖族之郷資料館 へ
探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -4 光徳寺、浮御堂、堅田十六夜の弁 へ







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Last updated  2017.04.30 10:27:31
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