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February 19, 2008
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カテゴリ: カテゴリ未分類
養老2年(718年)4月19日、元正天皇の勅命により、紀州熊野から船団が出航しました。


その船団には、熊野本宮神の御分霊と、それを守る数百人が付き従いました。

行く先は、陸奥国。

現在の宮城県気仙沼市唐桑町です。


船団は、南海、東海、常陸の海を渡り、陸奥国に上陸したのは9月9日のことでした。

上陸後は、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。




何故、熊野本宮神を陸奥国に祀ったのでしょうか?

この時代は、大宝元年(701年)に大宝律令が制定されたり、和銅3年(710年)には都が藤原京から平城京に遷都され、大陸の唐を範した国際都市の建設と共に、蝦夷征討が積極的に進められていました。


蝦夷とは、主に東北地方に住み朝廷の支配を受け入れなかった人たちのことをいいます。

和銅5年(712年)には、日本海側に出羽国(現在の山形県)が設置され、朝廷の支配が進んでいきます。



熊野本宮神が陸奥国に上陸した6年後には、多賀城(現在の宮城県多賀城市)が築かれて、陸奥国の国府と鎮守府(軍の基地)が置かれることになりますが、蝦夷の抵抗は非常に激しく、征討は容易なことではありませんでした。


そこで鎮守府将軍であった大野東人は、蝦夷征討の祈願のために、霊験あらたかな熊野本宮神をこの地に迎えることを、元正天皇に願出たのでした。




それでは熊野本宮神とは、どんな神なのでしょうか?

現在の熊野本宮大社の主祭神は、家都美御子神(けつみみこのかみ)で、それは須佐之男命(すさのおのみこと)とされています。


しかし、それは明治維新以後のことで、平安後期以降は浄土信仰と共に神仏習合が続き、熊野は極楽浄土と見なされていました。

熊野本宮に祭られてきたのは、阿弥陀仏如来でした。


そして、更に遡ると平安初期には、熊野巫神(くまのいますかみ)となり、ここで名前が消えてしまいます。



しかし、また更に遡ると、藤原氏の氏神を祀る春日大社に伝わる秘伝書「古社記断簡」によると、熊野本宮熊野証誠殿の神は、瀬織津姫であると記されています。


他に、「紀伊続風土記」には、「月ヶ瀬村領地北岸に祓の宮があり、幹の回り一丈の櫟(いちい)の木を御神木として祭る。 祭神は瀬織津姫。」とあります。



実は、熊野本宮神が陸奥国に上陸後、仮安置されたところは現在の舞根神社であり、それは瀬織津姫神社なのです。


熊野大神、熊野本宮神とは、瀬織津姫だったのです。




蝦夷征討の前線基地として機能していた鹿島神宮と香取神宮の祭神は、鹿島神が武甕槌神(たけみかずちのかみ)で雷神、香取神が経津大神(ふつぬしのかみ)で剣の神と、それぞれ武芸の神として祀られています。


それなのに何故、武芸の神を差し置いて、瀬織津姫が迎えられたのでしょうか?


それは、まだこの時点では日本書紀が編纂中であったことと、鹿島・香取の武芸の神が祀られる前だったからではないでしょうか。


そして、何よりも瀬織津姫の穢れを払う禊の力が強力だったからだと思います。







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Last updated  December 24, 2012 07:59:54 PM


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