「思考と直覚」青年ヘーゲル派からの脱皮(百二十六) ヘーゲルの「弁証法」とフォイエルバッハの「唯物論」を青年ヘーゲル派の仲間から、プチブルの観念性を否定して、観念と物質は、どちらが本来的な存在なのかという議論を、精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考え、物質が本来的かつ根源的な存在であり、人間の意識は身体器官の大脳、小脳、延髄などの活動から生まれる。現在は分離していると考えられている精神と物質は、自然科学や医学などの物質や身体への研究が進めば弁証法的に統一されるとする大脳生理学や神経学の発達で、人間の精神や意識はすべて説明、分析、操作できると考える従来の静的で定常的な宇宙観や人間機械論に弁証法的な運動と発展性という概念で対応しています。なかでもフリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義、1845年にプロイセン国籍を離脱して、以降は無国籍者であったいわゆるマルクス主義を打ちたてたカール・ハインリヒ・マルクス(独: Karl Heinrich Marx, 1818年- 1883年)は弁証法を正しく理解したとして自然ばかりでなく社会や人間の思考までをも唯物論的に解釈,当然の如く人間の創造主など荒唐無稽、人間意識も内精神も総ては物質との外感覚反応であり観念が入る余地がないとします。結果、此等の自然科学や医学などの物質や身体への研究が進めば弁証法的に物質運動に統一される筈と述べているのです。「思考と直覚」的には寂しいかな同様に人民の生来身分を物質能力しか持たない人間を平等意識として捉え、其れを科学的世界観としているところに。人間が本性的に感じる不安を与えるのも事実です。青年ヘーゲル派の仲間から離脱してプチブル観念論を打破する唯物論的弁証法は、自らの精神の自立までをも危機に貶めています。人間内精神とりわけ理性その深奥のおおもとの霊魂の存在を物質外感覚反応であり虚構とする唯物論的弁証法は、如何にマルクス主義に被れているにしても内精神を道具としているところに「思考と直覚」は異をとなえます。