「思考と直覚」マルクス主義の源泉1(百二十七) 唯物論的弁証法を掲げるカール・マルクスにドイツの古典哲学やイギリス古典派家在学と並んで彼の思想及び其の思考に影響を与えたものがあるとしたら、其れは空想的社会思想と呼称されるものです。かってはフランス革命が起こる直前まで、古典に帰るを旗印に啓蒙思想の理想に燃え「理性の王国」を目指していた思想家及び知識人が、革命で眼にしたのはブルジョア的社会体制でした。その実現された体制を、かっての封建体制と同様、非理性的かつ不公正なものと看做して、ブルジョア的社会体制も、また、資本主義に取り変わる新しい社会体制を考案しなければいけない、将に自らの脳で考えださなければいけない、空想の体制であるがゆえに空想的社会思想と呼ばれることになるのです。先ずは、フランスでも高位の貴族の末裔としてパリに生まれ、16歳でラファイエットの義勇軍の士官としてアメリカ独立戦争に参加し、合衆国の産業階級の勃興に感銘を受け、既にその当時パナマ運河の建設計画をまで考案しているサン・シモン伯爵クロード・アンリ・ド・ルヴロワ(Claude Henri de Rouvroy/Comte de Saint-Simon/ 1760年- 1825年)です。其の行動は彼の関心が主として産業と商業の諸問題に向けられていることがわかります。その主張するところは専ら科学と産業の結合に関心が向けられ生産の計画的組織の必要性を語っていましたが、1819年以降はキリスト教の道徳を産業社会に適用する方策を夢想します。すなわち、新しいキリスト教は礼拝や形式から脱却して、人間は互いに兄弟として行動し、富者は貧者を救済すべきであるとする人道主義へと傾いたのです。サン・シモンの諸説は後代の社会主義学説の発想を凡そ含んでおり、生前は認められなかったが、弟子のアンファンタンとバザールなどによって、サン・シモン主義と称する半ば宗教的な教説として世界の社会思想に影響を与えます。その思想と思考方法が後年コントに受け継がれ、実証主義社会学として結実します。然し乍ら、唯物主観の宿命ともいえる内精神に脅かされ、晩年は貧困に苦しみ、1823年に自殺を企てるほどになります。唯物論的弁証法を金科玉条にすれば人間精神の強靭さと「人間の死の現実」を所謂「動物の仕留め」と同等の思考となり人間に隠された深奥にある絶対意識の様態の延長としての意思は読めなく、人間精神の静止の不安からは解放されないことに「思考と直覚」は訴えます。