Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年07月23日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-115
 スピノザが神のある属性の絶対的本性、言い換えれば、人間である場合は身体的・精神的な制約を持つ本性ですが、其の制約がなく無限の自由を持つ神は、此の属性により世界の有りと有らゆる属性が「実体」に属することになります。
 証明 この定理二一を否定しようとする者は、もし出来得るなら、神のある属性の絶対的本性からして、その属性の中に有限で、且つ、定まった存在ないし持続を有するあるものが生ずる。例えば思惟の中に神の観念が生ずると考えてみよ。さて思惟は神の属性と仮定されているのだから、その本性上必然的に無限である(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により。しかし思惟は神の観念を有する限り有限であると仮定されている。ところが(定義二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。)により、思惟が有限と考えられるのはそれが思惟自身によって限定される場合のみである。だが思惟は神の観念を構成する限りにおいての思惟そのものによっては限定されない、なぜならその限りにおいて思惟は有限であると仮定されているのだから。ゆえにそれは神の観念を構成しない限りにおいての思惟によって限定されるのである、そしてそうした思惟もまた必然的に存在しなければならぬ(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により。これで見れば神の観念を構成しない思惟が存在することになる。したがって神の観念は絶対的なものである限りにおいての思惟の本性から必然的に生ずるのではないということになる(なぜなら神の観念を構成する思惟と構成しない思惟とが考えられるのであるから)。このことは仮定に反する。ゆえにもし神の観念が思惟の中に、またはあるものが神のある属性の中に、この証明は普遍的なものであるから何をとろうとも同様であることを踏まえて、その属性の絶対的本性の必然性から生ずるとしたら、それは必然的に無限でなければならぬ。これが第一の点であった。即ち、定理二一の前半部分、神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬとの記述を追認します。


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最終更新日  2021年07月23日 06時10分04秒
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