Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年11月27日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-242
 定理二ー 精神の(人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。)この観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。
 証明 精神が身体と合一していることを我々は身体が精神の対象であることから明らかにした(第二部 「精神の本性および起源」についての部の定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような〈あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起こりえないであろう。及び、定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)を見よ。したがってこれと同じ理由により、精神の観念も、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方でその対象と、言いかえれば精神自身と、合一していなければならぬ。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 備考 この定理はこの第二部の定理七の備考の中、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ述べたことからはるかに明瞭に理解される。なぜなら、我々はそこで、身体の観念と身体とは、言いかえれば(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により、精神と身体とは同一個体であって、それがある時は思惟の属性のもとである時は延長の属性のもとで考えられるのであることを明らかにした。同様に、精神の観念と精神自身ともまた同一物であって、それが今度は同一の属性すなわち思惟の属性のもとで考えられるのである。つまり、精神の観念と精神自身とは同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずるのである。なぜなら、精神の観念すなわち観念の観念と(ideae idea)というものは実は観念、その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいての形相(本質)にほかならないからである。これは、ある人があることを知ればその人はそれによって同時に自分がそれを知ることを知り、また同時に自分は自分がそれを知ることを知ることを知り、このようにして無限に進む、ということから明らかである。しかしこれについてはあとにゆずる。
 以上の「定理二を要約:精神の観念を精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している」を鑑みればスピノザは人間身体と精神は合一しており人間の肉体の滅びには内在する精神も雲散霧消すると考えているのでしょうか。



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最終更新日  2021年11月27日 06時10分05秒
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