Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年12月24日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-269
 スピノザの云う真の観念とは彼独自の「観念の観念(idea ideae)」の表現に強く連関します。ある事物の本質を知り、そのある事物の本質を最近原因の認識によって捉えるものを語彙とします。
 定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。
 証明 我々の中の真の観念は、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神の中で妥当な観念である(この部第二部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々により)。そこで今、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神の中に妥当な観念Aが存在すると仮定しよう。この観念についてはまた、この観念と同様の仕方で神に帰せられるある観念が神の中に必然的に存在しなければならぬ(この部第二部の定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられるによる。その証明は普遍的である、そしてすべての観念にあてはめられうるから)。ところが、仮定によれば、観念Aは神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神に帰せられている。ゆえに観念Aの観念もまた同様の仕方で神に帰せられなければならぬ。言いかえれば、再びこの部第二部の定理一一の系人間精神は神の無限な知性の一部である云々。により)観念Aについての妥当なこの観念は、妥当な観念Aを有する同じ精神の中に在るであろう。したがって、妥当な観念を有する者、あるいは(この部第二部の定理三四 我々の中において絶対的なあるいは妥当で完全な観念はすべて真である。により)物を真に認識する者は、同時に、自分の認識について妥当な観念あるいは真の認識を有しなければならぬ。言いかえれば、それ自体で明らかなように、彼は同時にそれについて確実でなければならぬ。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 備考 この部第二部の定理二一の備考の中で私は、「観念の観念」とは、何であるかを説明した。しかし前定理はそれ自体で十分明白であることをここに注意しなくてはならぬ。なぜなら、真の観念を有する者は誰でも、真の観念が最高の確実性を含んでいることを知っているからである。というのは、真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言のものであって思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは。あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。次に真理の規範として役立つのに真の観念よりいっそう明白でいっそう確実なものがありえようか。実に、光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。
 これで私は次の諸問に答えたと信ずる。
 それはすなわち、もし真の観念が〈思惟の様態である限りにおいてではなく〉単にその対象と一致すると言われる限りにおいてのみ偽の観念と区別されるのなら、真の観念は実在性あるいは完全性において偽の観念以上のものを何ら有しないのかどうか。なぜなら両者は単に外的特徴によってのみ区別される、即ち内的特徴によっては区別されないのだから。したがってまた真の観念を有する人間あるいは人間精神も単に偽の観念のみを有する人間より実在性あるいは完全性において優れていないのかどうかという問いである。
 次に、人間が偽の観念を有するのは何に由来するのか、という問いである。
 最後にまた、人は自らがその客体あるいは対象と一致する観念を有することを何によって確知し得るかという問いである。
 これらの問いに私は、今も言ったように、すでに答えたと信ずる。
 なぜなら、真の観念と偽の観念との相違に関して言えば、前者は後者に対して有が非有に対するような関係にあることがこの部第二部の定理三五虚偽(若しくは誤謬)とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。によって明らかになっている。
 次に、虚偽の原因については、私はこの部第二部の定理一九から定理三五およびその備考に至るまでの間に虚偽の原因を掲げて十分明瞭に示した。これによってまた、真の観念を有する人間と偽の観念しか有しない人間との相違も明白になっている。
 最後の点、すなわち人間は自らが、その客体、またはその対象と一致する観念を有することを何によって知りうるかということについて言えば、それは、今しがた十二分に示したように、単に、彼がその客体あるいはその対象と一致する観念を有するということ、あるいは真理が真理自身の規範であるということ、そのことだけから出てくる。これに加えて、我々の精神は物を真実に知覚する限りにおいて神の無限な知性の一部分である(この部第二部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々により)。したがって精神の有する明瞭判然たる観念が神の有する観念と同様に真であることは必然である。
 以上定理四三を紐解けば、スピノザの捉える神存在は世界=法則=数学が神そのものとして浮かび上がってきます。スピノザには量子物理科学理論のシュレジンジャー不確定性理論の猫の生死は登場しません。



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最終更新日  2021年12月24日 06時10分04秒
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