Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年12月31日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-276
 スピノザは第二部の定理四七では人間精神が神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有するとしますが、此の人間精神とは真実だれもが有しているものだと断言できるのでしょうか。そこには様々な条件を前提としているに違いありません
 備考 これによって神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる。ところで、ありとあらゆるものは神の中に在りかつ神によって考えられるのであるから、この結果として、我々はこの神の認識からきわめて多くの妥当な認識を導き出し、このようにしてかの第三種の認識を形成しうる、ということになる。第三種の認識について我々はこの部の定理四〇の備考二 人間の概念形成に関しての経緯の中で述べたが、その価値と効用についてはさらに第五部で述べるであろう。
 しかし人間が神については共通概念によってほど明瞭な認識を有しないのはなぜかといえば、それは人間が神を物体のように表象することができないということ、また人間が神という名前を自分らの通常見慣れている諸物の表象像に結合してきたということによる。これは人間が絶えず外部の物体から刺激されている関係上ほとんど避けがたい事柄である。
 実際大抵の誤謬は、単に次の点にのみ、すなわち我々が物を正しい名前で呼ばないという点にのみ存する。例えばある人が、円の中心から円周に向かって引かれた諸線は等しくないと言うなら、たしかにその人は、少なくともその瞬間には、円を数学家たちと異なって解しているのである。同様に、人々が計算において誤る場合も、彼らは精神の中においては紙上におけるのと異なった数を有しているのである。だからもし彼らの精神を見ることができるとしたら、彼らは誤っているとは言えない。それにもかかわらず彼らが誤っているように見えるのは、彼らが精神の中においても紙上におけるのと同じ数を有すると我々が思うからである。もしそう思わなかったとしたら、我々は彼らが誤っているとは信じないであろう。現に私はこのあいだある人が「うちの座敷が隣りの鶏へ飛び込んだ」と叫ぶのを聞いたが、彼の言葉は不条理であったけれども、彼の精神が私には十分よくのみこめたので、彼が誤っているとは信じなかった。世の大抵の論争も、人々が自分の精神を正しく表現しないか、それとも相手の精神を誤って解釈しているかから起こる。というのは、彼らは最も激しく対立している場合でも、実はまったく同じことを考えているか、そうでなければまるで異なる主題について考えているかであり、したがってたがいに相手のせいにしている誤謬あるいは不条理が本当は存在していないことが多いのである。



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最終更新日  2021年12月31日 06時00分52秒
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