Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年04月08日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-373
 付録:感情の諸定義 二八:高慢 二九:自卑 三〇:名誉 三一:恥辱
 二八 高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである。
 説明 だから高慢と買いかぶりとの相違は、後者は外部の対象に関係するが高慢は自己を正当以上に感ずる当人に関係するという点にある。なおまた買いかぶりが愛の一結果あるいは一特質であるように、高慢は自己愛の一結果あるいは一特質である。このゆえに高慢とは自分について正当以上に感ずるように人間を動かす限りにおける自己愛あるいは自己満足であると定義することもできる(この部第三部の定理二六の備考
(要項: 高慢とは狂気の一種である。なぜならこのような人間は、単に表象においてのみ達成されることをすべてなしうるものと目を開きながら夢み、そのためにそれらのことを実在するかのように観想し、そしてそれらの存在を排除しかつその人間自身の活動能力を限定するものを表象しえない限りにおいて、それらについて誇っているのだからである。ゆえに高慢とは人間が自分自身について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。次に人間が他のものについて正当以上に感ずることから生ずる喜びは買いかぶりと呼ばれ、最後に人間が他のものについて正当以下に感ずることから生ずる喜びは見くびりと呼ばれる。を見よ)。この感情には反対感情が存しない。なぜなら、何びとも自分への憎しみのため自分について正当以下に感ずることはないからである。実に人間は、自分がこのことあるいはかのことができないと表象する限りにおいても自分について正当以下に感じているのではない。というのは、人間が自分にできないと表象する事柄はすペてそう表象せざるをえないのであって、この表象によって彼は自分ができないと表象することを実際になしえないようなある状態に置かれる。すなわち自分はこのことあるいはかのことができないと表象する間は彼はそれをなすように決定されないのであり、したがってまたその間はそれをなすことが彼には不可能でもあるのである。
 しかし単に他人の意見のみに関する事柄を眼中に置くなら、我々は、人間が自分自身について正当以下に感ずるということもありうることを考えうるであろう。例えばある人が悲しみをもって自己の弱小を観想し、他の人々が少しも彼を軽蔑しようと思わないのに自分がすべての人から軽蔑されるように表象するということはありうるのである。そのほか人間は不確実な未来に関して現在の瞬間にある事を自分自身について否定する場合に、自分について正当以下に感ずることができる。例えば自分は何も確実なことを考ええないし、また悪いこと賎(いや)しむべきことしか欲しあるいはなすことができないなどという場合のごときである。最後にある人が自分と同等の他の人々のあえてなすようなことも、恥辱に対する過度の恐れからあえてしないのを我々が見る時に、その人が自分自身について正当以下に感じていると我々は言うことができる。そこで我々はこうした感情を高慢と対置させることができる。この感情を私は自卑と名づけるであろう。すなわち自己満足から高慢が生ずるように、謙遜から自卑が生ずるのである。したがって我々はこれを次のように定義する。
 二九 自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである。
 説明 しかし我々はしばしば高慢に謙遜を対置させるのが慣(なら)いである。けれどもその場合には両感情の本性よりもむしろ結果を眼中に置いているのである。すなわち過度に自らを誇り、この部第三部の定理三〇の備考 (抜粋:名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。)を見。、自分の美点と他人の欠点のみを語り、すべての人の上に立とうと欲し、また最後に、自分よりはるかに地位の高い人々に見るような威儀と服装とをもって立ち現われる人、そうした人を我々は高慢な人と呼ぶのが常である。これと反対に、しばしば赤面し、自分の欠点を告白して他人の美点を語り、すべての人に譲歩し、最後にまた、頭を垂れて歩み、かつ身を飾ることを嫌う人、そうした人を我々は謙遜な人と呼んでいる。
 なおこれらの感情、すなわち謙遜と自卑とはきわめて稀である。なぜなら人間本性は、それ自体で見れば、できるだけそうした感情に反抗するからである(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。および定理五四 精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。を見よ)。こんなわけできわめて自卑的でありきわめて謙遜であると見られる人々は大抵の場合きわめて名誉欲が強くきわめてねたみ深いものである。
 三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。
 三一 恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである。
 説明 この二つについてはこの部の定理三〇の備考(抜粋:自分は他の人々を喜びに刺激しているとある人の表象するその喜びが、単に表象的なものにすぎないこともありうるし、また各人は自分を喜びに刺激すると表象するすべてのものを自分について表象しようと努めるのであるから、名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。)を見よ。
 だが恥辱と羞恥との相違をここに注意しなくてはならぬ。すなわち恥辱とは我々の恥じる行為に伴う悲しみである。これに対して羞恥とは恥辱に対する恐怖ないし臆病であって、醜い行ないを犯さぬように人間を抑制させるものである。羞恥には通常無恥が対置されるが、無恥は、適当な場所で示すだろうように、実は感情ではない。しかし一般に感情の諸名称は既に注意したように、その本性を表わすよりもその日常の慣用に関係しているのである。
 これでもって喜びおよび悲しみの感情に関する予定の説明を終えた。だからこれから欲望に関係する感情へ移る。



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最終更新日  2022年04月08日 06時04分00秒
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