Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年06月30日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-456
 記:本能と欲望と欲求の違い
 欲求には「生理的欲求」と「精神的欲求」があり、本能というのは「生理的欲求を発生する機能」であり、それを「精神的欲求に変換する機能」が情動ととされます。そして欲望とは情動を通して「精神的欲求が生み出す感情」です。其の大いさは人間精神の感情に付随するものであり、夫々その人間の精神的欲求の不足に比例します。スピノザは理性を感情を超越した異相のものとは定義せず精神感情の一形態と捉えています。スピノザの理性の概念は、アリストテレスの徳論の中心概念、理性によって欲望と行動を統制し、過大と過小との両極端の正しい中間に身をおく中庸を意識しているのかも知れません。
 定理六一 理性から生ずる欲望は過度になることができない。
 証明 欲望は、一般的に見れば、人間の本質が何らかの仕方であることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである(感情の定義一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。により)。ゆえに理性から生ずる欲望、言いかえれば(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)働きをなす限りにおいて我々の中に生ずる欲望は、人間の本質が単に人間の本質のみから妥当に考えられる事柄をなすように決定されると考えられる限りにおいて人間の本質ないし本性そのものである(第三部定義二我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば、我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「受動」と言う。により)。だから、もしこういう欲望が過度になりうるとしたら、それ自体で見られた人間本性が自己自身を超脱しうることになるであろう。すなわち人間本性がその能力にあることよりももっと多くのことをなしうることになるであろう。これは明白な矛盾である。したがってこういう欲望は過度になることができない。Q・E・D・
=これが証明すべきことであった。



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最終更新日  2022年06月30日 06時10分06秒
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