Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

2023年09月16日
XML
カテゴリ: 霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
3:人間のエーテル体と元素的な世界について
 人が遥かなる超感覚的な霊やその理解のための認識を達成することになるのは、当初この認識に対抗して魂の中に存在するある種の障害を克服することによってである。ここで示される障害は、確かに魂的な体験のただ中で働いてはいるが、日常生活の中ではそのようなものとしては意識に上らないという点に基づいている。人間の魂の中には、さしあたり魂自身がそれについては何も知らないけれども、ちょうど外的世界の存在や事象についてそうするように、最初は少しずつでもその知識を獲得していくべき多くのものが息づいているのである。魂がこれらについて知るようになるまでは、魂にとっての霊的な世界とは、何か全く未知のもの、その独自性において、魂が感覚世界の中でその体験を通して学ぶことができるようなものが何もない世界である。そのようにして、魂はこの霊的な世界の前に置かれ、その中に全くの「無」を見ることになる。無限の、空の、荒涼とした深淵の中を覗き込んでいるように感じるかも知れない。そのような感情は、当初は無意識的な魂の深みに実際に存在している。魂が有するこの感情は怖気や恐怖に転じる。それについては何も知らないままに、魂はその中で生きている。魂がそれについて知っているものだけではなく、魂には未知であっても実際にその中に存在しているものもまた魂の生活にとって支配的となっているのである。さて、魂がその思考領域から「反論の根拠」、霊的世界に対する「反証」を求めても、それが生じることはない。それでも、魂自体の価値からして、この「根拠」は必須であることから、魂は上記の感情に対する一種の麻酔を求めるのである。人は、霊的世界の「非存在」を「証明」できるが故に霊的な世界やそれを認識する可能性を否定する者となるのではなく、「霊的世界を前にした尻込み」を誤魔化そうとする考えで魂を満たそうとするが故にそうなるのである。ここで述べられた魂的生活のすべての事実を俯瞰したときに初めて「霊的世界を前にした尻込み」に対する唯物論的な麻酔薬への欲求から解放され得る。「魂的な恐怖現象としての唯物論」は魂論の重要な一章である。「霊的なものを前にした尻込み」が理解できるものとなるのは、感覚世界の事象や存在たちは超感覚的世界の事象や実体たちの外的な表現であるという事実の承認に向けて格闘したときである。この理解が生じるのは、人間にとって感覚的に知覚可能な体、外的な科学だけが関係する体は、その中に感覚的あるいは物質的な体が雲の中のより濃縮された核のように含まれている繊細で超感覚的・エーテル的な体の表現であるということを洞察したときである。このエーテル体は人間存在の第2の構成要素であり、その中には物質体の生命の基盤が横たわっている。さて、このエーテル体に関して、人間は、彼がその物質体において物質的な外的世界から隔絶されている程には、その外的世界から隔絶されてはいない。エーテル体に関してひとつの外界が語られる場合、それは感覚によって知覚される物質的な外界を意味しているのではなく、人間のエーテル体が物質体に対するように、物質世界に対する霊的環境を意味している。人間はエーテル的な存在としてエーテル的・元素的な世界の中に立っているのである。さて、日常的な経験の中ではそれについて何も知られてはいないが、人がよく経験すること、すなわち、彼がエーテル存在として元素的な世界に存在しているという事実が意識されるとき、その意識は日常的な経験についての意識とは完全に異なったものである。この意識が超感覚的な経験のために生じるとき、日常的な意識には隠されているが、人生の中ではいつもそこにあるものが知られるようになる。さて、人は、日常的な意識の中で、自分のことを「私」と言うが、それによって彼はその肉体の中に生じる存在のことを意味している。感覚世界における健全な魂的生活は、彼が自分を自分以外の世界から区別された存在として認識することに基づいているのである。人が何らかの外的世界の事象や存在を「私」に属するものと見なすとき、この健全な魂的生活は損なわれる。人がエーテル存在として元素的な世界の中で自己体験する限りはそうではない。そこでは、私であるとしての自分の存在と、何らかの周囲の事象や存在との境目がはっきりしなくなるのである。また、エーテル的な人間存在は、感覚世界の中で見慣れているような「内面」ではない内面の中に自分を見出さなければならない。ある意味で「外界」であるとはいえ、自分の「私」に属していると言わざるを得ない力、事象、及び実体が、元素的な「遺産管理の」世界には存在する。人はエーテル的な人間存在として元素的な世界実体の中に紡ぎ込まれているのである。人は物質的-感覚的な世界において思考を有しているが、それを「私」の現状と見なすことができる程にそれらの思考と一体化している。エーテル的な人間存在の中には、感覚世界における思考のように、「内部」へと親密に働きかけている力、事象等々があるが、それらは思考のようにふるまうことはなく、存在たちのようであり、魂とともに魂の中に生きるものたちである。従って、超感覚的な認識には、魂がその思考に対して自立したものとして自己主張するために有しているような、力強い内的力が必要となるのである。そして、基本的に、真に霊を見るための準備は、魂を内的に強化することによって、思考に満たされているときだけではなく、エーテル界の力や実体がそれ自体の存在の一部であるかのようにその意識領域の内に生じるときにも、魂の独自存在として自覚を可能にしておくということにある。魂が、エーテル界の存在として、自分を主張する手立てとなるその力は日常生活の中に存在している。最初、魂はこの力について何も知らないが、それを有しているのである。魂がその力を知るためには、まずそれに向けた準備が必要となる。魂は霊を見るための準備の中で獲得されるすべての内的な魂的力を自分のものにしなければならない。人は、この内的な魂的力を自分のものにしようと決意できない限り、周囲の霊的な世界を認知することを恐れ、霊的世界は存在しない、あるいは、それは認識できないという幻想に、無意識の内にすがることになる。この幻想は、彼の独自存在(私)が実体的で外的な霊的世界により覆われ、あるいは、曇らされるときの本能的な恐れに打ち勝つのを助ける。ここで述べられたことに対する洞察を有する者は、物質的-感覚的な人間の「背後」にエーテル的な人間存在を、そして、物質的、感覚的な世界の背後に超感覚的なエーテル的・元素的世界を認めるようになる。物質的な意識が感覚世界の中で自立的でも実体的でもない思考を見出すように、霊視的な意識は元素的な世界の中である程度の自立性を有する実体を見出す。この元素的な世界に精通してくると、より大きな関連の中で部分的に自立した実体を見るようになる。最初、物質的な人体の四肢が部分的な独立性を有しているように見えたとしても、その後、全身の一部として存在しているのが分かるように、超感覚的な意識にとって、元素的な世界の独自存在たちはひとつの大きな霊体の生きた四肢として統括される。そして、超感覚的な経験の進展により、その霊体が地球の元素的な・超感覚的な生命体であることが理解される。この地球生命体の内部では、エーテル的な人間存在そのものが、ひとつの四肢として感じられる。 霊視における進歩とは元素的な世界の存在に精通することである。この世界は様々な種類の存在たちによって生気を与えられている。これらの実体的な力の活動を表現しようとするなら、彼らの様々な特徴を像によって示すことしかできない。そこにいるのは、恒常性、堅牢性、重さへと突き進むあらゆるものと類縁であることが分かる存在たちである。彼らを地の魂と呼ぶことができる。そして、知ったかぶりや生半可な真実の説教と思われることを恐れずに云えば、「グノーム」について語ることができる。その特徴から、空気の、水の、火の魂と呼ぶことができる存在たちが見いだされる。しかし、そのとき、別の存在たちもまた現れる。確かに、これらの存在たちは元素的でエーテル的な存在たちのように現れるが、彼らのエーテル的な存在性の中には、元素的な世界の実在性よりもさらに高次の種類の何かが差し込んでいるのが認められる。単なる物質的な意識によっては、人間の真の存在に近づくことができないように、元素的な世界にまでしか手が届かない超感覚的な認識段階においては、これらの存在の真の在り方に近づくことはできないことが分かる。
 前述の、仮に地の、水の、空気の、火の魂と名づけられ得る存在たちは、ある意味で、地球の元素的な生命体の内部に彼らの活動の場を有している。彼らはそこに彼らの課題を有しているのである。より高次のものとして特徴づけられた存在たちの活動は地球の領域を超えたところにまで到達する。超感覚的な体験の中で彼らをさらに知るようになれば、人は意識を保ちながら彼自身が地球の領域を超えたところへと霊的に導かれることになる。人が見るのは、この地球の領域がいかにして別のものから構築されたかということ、そして、その中に発達させている霊的な核から、将来、いかにしてひとつのさらなる領域、ある意味で「新しい地球」を生じさせることができるのかということである。そこから地球が構築された世界を何故古い「月惑星」と呼ぶことができるのか、そして、地球がそこに向かって苦闘している将来の世界を何故「木星」と呼ぶことができるのか、ということについては私の「神秘学」の中で述べた。実際、「古い月」の中には、地球世界がその変容を通してそこから生じたところの遥か昔に過ぎ去った世界が見られ、地球世界がそこに向かって苦闘している将来の世界は霊的には「木星」として理解されるのである。
*ここまでの要約/ZUSAMMENFASSUNG DES VORANGEHENDEN
○繊細なエーテル的人間存在が物質的な人間の基礎になっている。
 この存在は、物質的な人間が物質的な環境の中にあるように、エーテル的な環境の中にある。エーテル的な外界は地球の超感覚的な生命体へと編成されている。これは古い世界である月世界が変容した存在として、そして、未来の世界としての木星世界への準備状態として生じる。以上のことから、図式的には人間を次のように考察することができる。
 I.「物質的、感覚的な環境中の物質的な体」:それによって、人は自分を自立した独自存在(私)として認識する。
 Ⅱ.「元素的な環境中の繊細な(エーテル的な)体」:それによって、人は自分を地球生命体の一員として、また、間接的には、3つの連続した惑星状態の一員として認識する。



哲学・思想ランキング





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年09月16日 06時10分06秒
コメント(0) | コメントを書く
[霊魂論] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

プロフィール

cap-hiro

cap-hiro

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

バックナンバー

2026年05月
2026年04月
2026年03月
2026年02月
2026年01月
2025年12月
2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: