Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

2023年10月25日
XML
カテゴリ: 霊魂論
真相から見た宇宙の進化
第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅲ
ベルリン 1911年11月7日
 私たちが古「土星」存在から古「太陽」存在へと突き進もうとするのであれば、私たちの現在の太陽ではなく、古い「太陽」の実質についてのイメージを創造するための概念に向けて、その基礎づけを行わなければなりません。この場合にも、私が「神秘学概論」の中で提示したのはその外的な表現に過ぎませんでした。古「太陽」は、空気と光を熱につけ加えることによって、その熱を高めたのですが、ちょうど私たちが「意志の霊」によってもたらされた犠牲の輝きを知覚するためには熱を越えたところを探求しなければならなかったように、今やもし、私たちが古「太陽」上で熱につけ加えられた空気と光を理解したのであれば、私たちは、空気と光の本質として、何か道徳的なものを探さなければなりません。私たちが古「太陽」上における空気と光についての考え、表現、感情に至ることができるのは、私たちが、魂的、霊的な方法で、私たち自身の内部で経験することができるものを探求するときだけです。この感情は次のような方法で魂の経験として記述することができます。皆さんが真の犠牲行為を観察すると想像してみてください。つまり、前回の講義の中で記述したように、トローネがケルビームにその供儀を捧げるというイメージが皆さんを深く感動させ、そのため、そのイメージが皆さんの魂を無上の喜びによって生き生きとさせると想像してみてください。もし、皆さんが、そのような犠牲を捧げる存在を観察するならば、あるいは、皆さんの魂を目覚めさせ、生き生きとさせるようなこの種の像について想像するならば、皆さんの魂は何を感じるでしょうか。皆さんが生命に満ちた感情を持っているとしたならば、皆さんが、犠牲行為の中で感じる喜びを前にして、無関心で立っていることができないのであれば、皆さんはこの犠牲行為を目の当たりにして、深い目覚めを経験せざるを得ないでしょう。皆さんは、犠牲から生じる無情の喜びを見守るということは最も美しい行いであり、そもそも魂の中で生じ得る最も美しい経験であると皆さんの魂の中で感じざるを得ません。別の経験も生じ得ます。それは完全に身を任せるという態度です。実際、犠牲が魂の中に完全な献身をもってそれを見つめたいという憧れを生じさせないとしたら、そして、自己犠牲の雰囲気を齎さないとしたら、皆さんは一片の木でなければならないでしょう。そのように自らを諦める無我について考えてみてください。それは行為の中で変容された自己犠牲です。そして、能動的で意識的な自己犠牲について熟考することにより、自分を譲り渡すということ。自らをなくすということ。自己を忘れるということに対する親和性を作り出すことができます。そのような雰囲気、あるいは、少なくともそれについての示唆もしくは残響を作り出すことができないとしたら、犠牲についてのより綿密な理解へと本当に至るということは決してないでしょう。実に私たがは淡々と自己を諦めるというこの雰囲気を魂の中に注ぎ込むならば、より高次の認識形態が私たちに与えることができるものへと至ることができ得るかも知れません。自己犠牲の精神を創造することができない人は、より高次の認識を達成することもできません。この自己犠牲という態度の正反対のものとは何でしょうか。それは自己意志、自分自身の意志を主張するということです。自分が思索するものの中に自らを無くすこと、そして、自らの意志で自分の中にあるものを主張すること、これらが魂の生活におけるふたつの極です。これらは大いなる対極です。もし、皆さんが真の認識を達成し、皆さん自身を叡智で満たしたいとすれば、この自己意志は致命的なものとなります。日常生活においては、自己意志は偏見として知られています。そして、偏見はより高次の洞察を絶えず破壊します。実際、自己犠牲への能力として私がここで記述しているところのものを思考の中で強化する必要があるのですが、それは、自己犠牲の強化された感覚によってのみ、人はより高次の世界に向けて歩を進めることができるからです。より高次の世界においては、自分を捨てる能力、少なくともその魂的な雰囲気を経験できなければなりません。もし、私たちが科学的な知識や日常的な思考だけでやっていくならば、より高次の認識を達成することは決してできないということを強調しておきたいと思います。通常の科学や日常的な思考が働くのは、通常の人間的な意志、すなわち、私たちが受け継ぎ、あるいは涵養してきた経験や感情、そして、考えにおいて自己意志が創り出してきたあらゆるものを通してであるということを私たちは明確にしておかなければなりません。私たちはここで間違った方向に導かれる可能性があるのですが、実際、この領域では、錯覚することが非常に多いのです。人々がやって来て、例えば、次のように言うかも知れません。精神科学が提示する知識のあれこれの側面を受け入れるべきであると言われても、私は、私が既に考えたことと一致しないものは何ひとつ受け入れるつもりはない、証明されないものを受け入れるつもりはないのだと。確かに、証拠なしに何かを受け入れるべきではありません。しかし、私たちが私たちに提示されたものの中から私たちが既に知っているものだけを受け取るとしたら、私たちは一歩も前に進むことができないでしょう。超感覚的な能力を持ちたいと願う人であれば誰であれ、自分は自分が既に証明したものだけを受け入れることにしよう、などとは決して言わないでしょう。超感覚的な能力を持ちたいと願う人はあらゆる自己の追求から自由でなければならず、宇宙から自分たちのところへやって来るものはすべて、ただ「恩恵」という言葉で記述されることができるだけだということをあらかじめ知っていなければなりません。そのような人々は、照らし出す恩恵からあらゆるものがやって来ることを見通しています。では、人はどのようにして超感覚的な認識を達成するのでしょうか。それは私たちが既に知っているあらゆるものを脇にやることによってのみ可能となります。私たちは、通常、私には私自身の判断があると考えています。けれども、通常の判断は皆さんの先達が既に考えたこと、皆さんの願望を刺激するもの、あるいはその他のものを単に新しくすることからやって来るに過ぎません。決して自分自身で判断するかどうかが問題なのではありません。自分自身の判断を行使していると最も主張する人たちが、いかに自分自身の偏見に隷属的に結びつけられているかに最も気づいてはいない人たちなのです。もし、私たちがより高次の認識を達成したいのであれば、これらのことすべてから脱却していなければなりません。魂は空虚でなければならず、空間もなく、時間もなく、対象もなく、事象もない、隠された、秘密の世界から受け取ることができるものを静かに待つことができなければなりません。私たちは、顕現あるいは悟り、つまり、照らし出すものとして私たちに提供されるあらゆるものに出会うための雰囲気が私たちの中に醸成されることを待つことなしでも、より高次の認識を獲得できると決して信じるべきではありません。私たちに近づいてくるあらゆるもの、他でもない恩恵として、私たちのところに「来るべきもの」として、私たちに何かを与えるところのあらゆるものを私たちが待っていられるのは、ただこのような雰囲気の中においてのみです。



哲学・思想ランキング





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年10月25日 06時10分06秒
コメント(0) | コメントを書く
[霊魂論] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

プロフィール

cap-hiro

cap-hiro

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

バックナンバー

2026年05月
2026年04月
2026年03月
2026年02月
2026年01月
2025年12月
2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: