Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年11月04日
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カテゴリ: 霊魂論
真相から見た宇宙の進化
第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行-Ⅵ
ベルリン 1911年11月14日
 私たちは今や、諦念として古「太陽」期の間における神々による拒絶と不死の達成の両方の意味を知るようになりました。このことのさらなる結果とは何でしょうか。「神秘学概論」によりますと、その中の記述にははある意味でマーヤのヴェールがかけられてはいますが、「月」進化期が「太陽」期に続くその終わ りには、すべての存在条件が一種の黄昏、宇宙的なカオスの中に沈められ、これらが再び「月」として現れるということが分かります。私たちは犠牲の出現を再び熱として見ることができるのですが、「太陽」上で熱に留まるものも「月」上では外的な熱として現れます。以前に与える徳であったものはガスあるいは空気として再び出現します。諦念、犠牲の拒絶もまた継続します。私たちが諦念と呼んだところのものは古「月」上で生じるあらゆるものの中に存在しています。それは本当にそうなのです。つまり、私たちは、私たちが「太陽」上で諦めとして経験することができたところのものを、「太陽」からやって来て、古い「月」上に存在するあらゆるものの中に存 在する力としても、そして、何か外的な世界の中に存在していると考えられるものとは異なるものとしても考えなければなりません。犠牲として存在していたものは、マーヤの中では、熱として現れ、与える徳であったものはガスあるいは空気として現れ、諦めとして存在していたものは液体あるいは水として現れます。水は外的にはマーヤであり、仮にも、拒絶と諦念の中にその精神的な基礎を有していなかったとしたら存在していなかったでしょう。世界の中で、水があるところには必ず神的な拒絶があるのです。熱が幻想であり、その背後には犠牲が存在しているように、ちょうど、ガスあるいは空気が幻想であり、その背後には与える徳が存在しているように、物質としての水は外的な現実としては単なる物質的な幻想であり、真に存在しているもの、すなわち、ある存在たちが別の存在たちから受け取ることができたはずのものの拒絶の反映なのです。水は諦念がその現象の下に横たわっているときに世界の中を流れることができるだけだと云うことができるでしょう。さて、私たちが知っているのは、「太陽」から「月」への移行に際して、空気の状態が水の状態に濃縮したということです。水が最初に存在するようになったのは「月」上であり、「太陽」期の間には水はありませんでした。私たちが古「太陽」進化期の間に集積する雲の塊の中に見たものが圧縮されるにしたがって水となり、「月」進化期の間に「月」の海として現れたのです。私たちがこのことを考慮するとき、ここで提示される疑問を解くことができます。水は諦念から生じます。実際には、水は諦念そのものなのです。こうして、私たちは、水とは本当は何なのかという疑問に対して、非常に特別なタイプの精神的概念を獲得します。けれども、私たちは次のように問いかけることもできます。ケルビームがこの諦念を達成しなかったとしたら生じたであろう状態と、彼らが彼らに提供されたものから自由になったときに生じた状態との間には相違があるのではないのかとの思いです。この違いは何らかの方法で表現されるでしょうか。それは然り表現されます。それは、あの諦念の結果が「月」の状態の間に生じたという事実によって現されます。仮に、この諦念が生じていなかったとしたら、もし、拒絶するケルビームが彼らにもたらされる犠牲を受け取っていたとしたら、彼らは図式的に言えば―彼ら自身の実質の中に犠牲の煙を有することになったでしょう。つまり、犠牲の受容は犠牲の煙の中に表現されることになったでしょう。これらのケルビームがあれこれの行為を遂行すると仮定してみましょう。その時、その行為は、外的に表現すれば、自己変容する空気の雲を通して現れたことでしょう。捧げられる実質を受け取ることによってケルビームが行ったであろうことは、空気の外的な形態の中に表現されることになったでしょう。けれども、彼らは捧げられる実質を拒絶し、そのことによって、死ぬ運命から退き、不死の中に入っていきました。一時的なものから退き、継続するものへと入っていったのです。犠牲の実質はまだそこにあるのですが、そうでなければそれを吸収したであろう力から、いわば解放されるのです。捧げられる実質はもはやケルビームの傾向や衝動に従う必要がありません。何故なら、それはこれらのケルビームによって解放され、差し戻されたからです。そのとき、この犠牲の実質に関して何が起こるでしょうか。それは別の存在たちが独立できるようになるのです。これらの存在たちはケルビームの近くに見い出されますが、もし仮に、ケルビームが犠牲の実質を受け取っていたら、彼らはその指導の下にあったことでしょう。けれども、その実質はもはやケルビームの内部にはなくて独立したものとなっています。そのことによって、諦念とは正反対のことが起こる可能性が生じるのです。つまり、別の存在が、その注ぎ出された犠牲の実質を彼ら自身へと引き寄せ、その内部で活動するようになるのです。これらは後に取り残された存在たちです。ですから、後に取り残されたものたちの存在はケルビームによる拒絶行為の結果なのです。後に取り残された存在たちを生み出したのはケルビーム自身です。彼らはそのようにして「後に取り残される」可能性を生じさせました。ケルビームによる犠牲の拒絶を通して、それを諦めず、自分自身の欲望や望みに身をまかせながら、それらを表現へともたらす他の存在たちが、供儀とその実質を自分のものにする可能性、そして、他の存在たちと並んで独立した存在になる可能性を得たのです。



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最終更新日  2023年11月04日 06時10分05秒
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