Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年11月05日
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カテゴリ: 霊魂論
真相から見た宇宙の進化
第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行-Ⅶ
ベルリン 1911年11月14日 
 「太陽」進化から「月」への移行に際して、ケルビームが不死になるとともに、他の存在たちが、彼ら自身の実質の中で、ケルビームの継続する発達から自分自身を分離する可能性、実際のことに不死なる存在から自分自身を完全に引き離す可能性が生じたのです。後に取り残されることのより深い理由を見いだせば、これらの存在を後に引き留めた責任は、原因の究極的な要因について語りたいのであれば、それらの存在たち自身にはないということもまた理解できます。これは私たちが把握しなければならない最も重要な点です。もし、ケルビームが犠牲を受け取っていたら、ルシファー的な存在たちが後に取り残される可能性はなかったのです。何故なら、彼らがこの犠牲実質の中に体現するようになる機会はなかった筈だからです。諦念こそが存在たちがこのようにして独立するための前提条件だったのです。賢明なる宇宙の導きは神々自身がその反対者たちの存在を呼び出すように命じます。神々が自分自身から自由にならなかったとしたら、存在たちが彼らに反対することは不可能だったでしょう。あるいは、もっと簡単に表現すれば、神々は彼らが「土星」から「太陽」への移行の後も、それまでと同様に創造行為を続けていたとしたら、自分自身の主体性から行動する自由な存在たちは決して存在しなかっただろうということを見通していたと云うことができるでしょう。神々は、自由な存在が創造されるためには、敵対者たちが全宇宙の中で彼らに反抗し、それによって、彼らが時間に左右されるあらゆるものの中で、抵抗に遭遇する可能性が与えられなければならないということに気づいていたのです。彼らはすべてを支配する者が彼ら自身だけであったとしたら、そのような反対を見いだすことは決してできないだろうということを知っていました。もし、神々がすべての犠牲を受け入れていたとしたら、ものごとは彼らにとって非常に容易なものとなった筈だ。何故なら、そのときには、すべての進化は彼らの思い通りになっていたはずだからということを彼らは認めざるを得ないだろうと私たちは想像することができます。けれども、彼らはそうしないことに決めました。彼らは彼らから自由な存在たち、彼らに反抗することができる存在たちを望んだのです。そのため、神々は、犠牲のすべてを受け取ることはせず、それによって、存在たちが、神々自身の諦念を通して、そして、その他の存在たち自身がその犠牲を受け取るという事実を通して、彼らの反対者になるように定めたのです。このことからも分かるように、悪の起源はいわゆる悪の存在たちの中にではなく、いわゆる善なる存在たちの中、つまり、その拒絶によって、世界の中に悪を齎すことができる存在たちを通して悪が生じる可能性を初めて与えた存在たちの中に探さなければなりません。さて、誰かが次のように反論することは十分考えられます、つまり、誰かが「今まで私は神についてもっとましな意見を持っていた。神々は必ずしも悪を創造しなくても人間の自由のための舞台を設けることができるはずだと考えていた。一体どうしてこれらの神々は悪なしに人間の自由を世界の中に齎すことができなかったのか。」と反論するかも知れません。皆さんに思い出していただきたいのですが、世界があまりにも複雑すぎると考えたスペインの王様は、「もし仮に、神様が世界の創造を自分に任せてくれていたら、もっとずっと簡単にしていたのにと言いました。人間たちは、その弱さの故に、世界はもっとシンプルにできた筈だと。」、しかし、賢明な神様たちは世界の創造を人間たちには任せませんでした。精神科学の観点から見ると、この状況をもっとずっと正確に特徴づけることができます。何かの台を必要としている人に、誰かが柱を立ててればその上に物を置く支えになるよと示唆すると仮定してみましょう。そのように言われた人は、「しかし、別の方法もあるだろう!どうして別のやり方でやらないのだ。」と言うかも知れません。あるいはまた、別の誰かは、建設中に三角定規を使いながら、「どうしてこの三角定規には三つの角しかないのだ。多分、神様は三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ。」と言うかも知れません。けれども、神様は悪や苦の可能性なしに自由を創造できたはずだと云うのは、三角定規は三つの角を持つべきではないと言うのと同じくらい無意味でばかげたことなのです。ちょうど三つの角が三角形に属しているように、自由は精神的な存在たちの側からなされた諦めによってもたらされた悪の可能性に属しているのです。私がお話ししてきたことはすべて神の諦念に属しています。と申しますのも、神々は、犠牲を受け取ることを諦念によって不死のレベルに上昇した後、悪を導いて善に戻すために、不死から進化を創造したからです。それは正にこの「諦め」という手段を用いてなされました。神々は、それだけが自由の可能性を与えることができる悪を回避しませんでした。もし、神々が悪を抑え込んでいたとしたら、世界は貧弱で単調なものになったことでしょう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許さなければならず、それによって、悪を善へと導くのに必要な力をも獲得しなければなりませんでした。そして、この能力は拒絶と諦めの結果としてのみやって来ることができるような何かだったのです。「諦念」としての諦めは、偉大な宇宙の神秘を写し出すために、いつも像やイマジネーションとして存在しています。今日、私たちは、太古の発達段階に言及するとともに、犠牲や与える徳の概念に諦めの概念を付け加えることによって、マーヤや幻想に対峙する真の現実に至るためのさらなる一歩を踏み出しました。宗教はそのような像や概念を私たちに提供します。ですから、聖書的な宗教においてもまた、私たちは犠牲や諦め、あるいは犠牲の拒否といった概念に近づくことができるのです。例えば、アブラハムの物語では、自分の息子を「神」に犠牲として捧げようとするのですが、「神」は 父祖の犠牲を受け取るのを差し控えます。もし、私たちがこの「差し控える」という概念 を私たちの魂の中に取り入れるならば、私たちが既に述べた瞑想のイメージもまた私たちの元にやって来ます。かつて私は、アブラハムの犠牲が受け入れられ、イサクが犠牲になっていたらという仮定について示唆しました。もし、「神」がこの犠牲を受け取っていたとしたら、イサクに発する古代ヘブライ民族の全体が地球から取り去られていたことでしょう。「神」は、ヘブライ民族の領域を諦めることによって、つまり、自分の影響が及ぶ範囲からそれを締め出し、それが自分の外にあるようにすることによって、アブラハムに由来するすべてを贈り物として与えたのです。仮に、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れていたとしたら、「神」は古代ヘブライ民族が活動していた領域全体を自分自身の中に取り込んでいたことでしょう。と申しますのも、犠牲になったイサクは「神」と共にいることになったでしょうから。しかし、「神」はそれを放棄し、それによって、この進化の流れ全体が地球上に発散するに任せたのです。太古の父祖によって提供された犠牲の意味深い像を通して、すべての諦めや犠牲の概念が私たちの中に呼び起こされます。私たちはまた、より高次の存在による諦めあるいは犠牲のもうひとつ別の例を地球の歴史の中に見いだすことができます。私たちは、ここでもまた、既に前回触れたことに、つまり、レオナルドダビンチの絵、「最後の晩餐」に言及することになり ます。「地球」と「キリスト」双方の本質的な意味を同時に私たちの目の前にすることになる場面を思い描いてください。その絵の持つ完全な意味の中に貫き至るようにしてみましょう。そして、「もし、私が死の供儀を避けたいと欲したならば、天使の大群を呼び出すことができないということがあろうか。」(マタイ二六章五三節)という福音書 の中の言葉を思い出してみましょう。諦めと拒絶によって、「キリスト」は発動できたは筈のこの明確で安易な解決法を拒否したのです。キリスト・イエスが私たちの前にもたらす拒絶の最も偉大な例が生じたのは、彼を裏切るイスカリオテのユダが彼の領域に入って来ることを許したときです。もし、私たちがキリスト・イエスの中に見ることができる筈のものを本当に見るべきであるならば、私たちは彼の中に、犠牲を諦めなければならなかったあの存在たち、その本性自体が諦めであるところのあの存在たちのひとつの反映を見なければなりません。「キリスト」は、ちょうど神々自身が、古「太陽」期の間に、彼ら自身の反対者たちをその拒絶行為を通して呼び出したように、もし仮に、ユダが彼の反対者として行動することを許さなかったとしたら生じたであろうことを拒否したのです。こうして、私たちは、この宇宙の力に対する反対者たちの出現が「地球」上において絵画的に繰り返されるのを見ます。私たちは十二人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者としてそこに立つユダとともにいるのを見ます。人類にとって図り難い価値をもつものが進化の過程に入ってくるために、「キリスト」自身が彼の反対者を彼自身に対立する位置に置かなければならなかったのです。この絵画「最後の晩餐」が私たちに深い印象を与えるのは、それを見つめることが、力強い、宇宙的な瞬間を私たちに想い出させるからです。「私とともにその手を皿に浸した者が私を裏切る」(マタイ二十六章二十三節)という「キリスト」の言葉を私たちの前に掲げるとき、私たちは神々自身によって神々に反対する位置に置かれた神々に対する反対者たちの地上的な反映を見ます。これはいつも言っていることですが、火星の住人が地球に降りてきたとすれば見ることになるあらゆるものは、たとえ彼らがそれを十分に理解できなかったとしても、多かれ少なかれ、興味深いものである筈です。けれども、そのような火星人たちがこのレオナルドダビンチの手になる絵を見たならば、宇宙的な観点から見て、地球にとってばかりではなく、火星にも密接に関連した、そして、実際には、太陽系全体に関連した何かを見いだすことになるでしょう。そして、それによって、「地球」の意義が認識されることでしょう。「最後の晩餐」の中に地上的な図式において示されているのは全宇宙にとって意味があることなのです。つまり、ある種の力が不死の神的な力に対抗する者としてそれに対立する位置に置かれたということが示されているのです。そして、死を克服し、地上における不死の勝利を具体的に示した「キリスト」が証しているのは、神々が時間にとらわれた存在たちから自らを区別し、時間に対する勝利を達成したとき、つまり、不死になったときに生じた意義深い宇宙的な瞬間なのです。私たちがレオナルドダビンチによる「最後の晩餐」を見るとき、このすべては私たちの心の中で感じられるのかも知れません。どうか、素朴で単純な感受性を持って「最後の晩餐」を見る人は、今日私たちがお話ししたようなことは理解しないなどと言わないでください。そのような人がこれらのことがらを知る必要はないのです。と申しますのも、人間の魂の神秘的な深みとは、人間の魂の中で感じられることがらは知的に知る必要はないというようなものだからです。花は、それによって自分が育つ法則を知っているでしょうか。いいえ、そんなことに関係なく、それは育つのです。花が自然法則に対していかなる必要性を有しているというのでしょうか。そしてもし、私たちが神とその反対者が私たちの目の前で繰り広げているものを見るとき、つまり、表現することができる最も高貴なできごと、不死と死の差別化が私たちの前へと齎されるとき、私たちの目の前に存在するものの圧倒的な重要性が感じられるとすれば、人間の魂は、理性に対して、つまり、知性に対して如何なる必要性を有しているというのでしょうか。それを知的に知る必要はありません。人が世界の意味そのものを写し出すこの絵の前に立つとき、寧ろ、その経験が不思議な力によって、その魂の中へと貫き至るのです。その絵を描くために、画家が神秘家である必要もありません。そうでなかったとしても、レオナルドの魂の中には、正にこの最も高く、最も意義深いものを表現へと齎すことができる力が存在していたのです。偉大な芸術作品がそれ程までに力強い効果を有しているのはそのためです。つまり、それはそれらが宇宙的な秩序の意味に密接に結びついているからなのです。以前の時代には、芸術家たちは、それと知ることもなく、ぼんやりとした意識の中で、宇宙的な秩序の意義に結びつけられていました。けれども、将来においては、もし、精神科学が、新しい知の形として、芸術に対する新しい基礎を齎らさなかったとしたら、芸術は存続していくことができないでしょう。
 無意識の芸術は過去のものとなりました。精神科学によって息を吹き込まれるのを自らに許す芸術はその発達の初期段階に立っています。過去の芸術家は、彼らの芸術の根底に立つものを知っている必要はありませんでした。しかし、未来の芸術家はそれを知っていなければならず、それも、もう一度不死を描き出すことができる力、それは魂の内容全体から何かを提示することができる力によって、それを知らなければならないでしょう。精神科学を知的な科学に、図式や範例で表現される知的な科学にしようとする人は誰であれ、それを理解していませんが、私たちがここで展開したあらゆる概念、犠牲、与える徳、そして拒絶のような概念によって、言葉のひとつひとつについて、その言葉から湧き出てこようとしているもの、その考え方そのものを、その絵の多様性から流れ出て来るものを体験しながら経験するような人、そのような人は誰であれ、精神科学を理解している人です。人が、世界の発達は抽象的な概念の中で成し遂げられると信じているならば、図式を提示することもできるでしょう。けれども、犠牲、与える徳、そして諦念のような生きた概念を提示しようとするのであれば、図式はもはや充分ではありません。これら三つの言葉は、いくつかの文字の向こうにあるものをあまり考えさえしなければ、図式的に提示されることもできます。けれども、私たちがこれらの概念―犠牲、与える徳、そして、拒絶―についてよく考えてみようとするのであれば、私たちは前回私たちが記述したような絵を、犠牲を捧げるトローネ、ケルビームに供儀を送る者たち、犠牲の煙をまき散らす者たち、大天使から反射される光を受け取る者たちの絵やその他の絵を自分で描かなければなりません。私たちは、次回の講義で「月」存在の考察へと進むとき、いかにその絵がより豊かになるかを見ることになります。私たちは、いかに集まる雲の塊が液体となり、「月」の塊としてさざ波を立てるかということを、そしていかにセラフィームの魅了する光をそれに付け加えなければならないかということを見ることになるでしょう。そのとき、私たちは十全なる理解に達しようと努めなければなりません。これについては、次のように言わせていただきたいのですが、未来において、人類は、外的な世界において、外的な世界のために、そうでなければアーカーシャ年代記の中に読むことができるものを表現へともたらすための可能性、芸術的な素材、そして、芸術的な手法を創り出すための方法を見いだすであろうと。(了)



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最終更新日  2023年11月05日 06時10分08秒
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