Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年01月20日
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カテゴリ: 霊魂論
内的霊的衝動の写しとしての美術史
第2講  ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロ
ドルナハ  1916年11月1日-1
 偉大なルネサンスの巨匠たちの時代へと流れ込んだあの時代の芸術を、しばらく前にここでご覧に入れ
ましたが、あのときの考察が行き着いたところは、その後レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロによ
って壮大なしかたで総合されたものへと、芸術的感情世界のなかでつながっていく結びつきを示すという
ことでした。この三人の偉大なルネサンスの巨匠とともに、むろん芸術的な意味においてですが、芸術的
にその兆しを告げるアトランティス後第五期の黎明のなかに、新たな時代の出発点が見出されます。この
時期はまさしく、このアトランティス後第五期の始まりにあたります、つまり1452年にレオナルドが生ま
れ、1475年にミケランジェロが、1483年にラファエロが生まれ、レオナルドは1519年、ラファエロは1520
年、ミケランジェロは1564年に死にます。ここで私たちは出発点に立っているのです。けれども同時にこ
れらの芸術家のなかには、まさに先行する精神潮流の完結、総合のように観察されうるものもいくらか含
まれています、この先行する時代がいかに芸術的なものへと流れ込んだかを観察できるのです。とは言え、
ここで考察されるものについての現在(いま)、まったく直接に理解するということはできません。何故なら、今日の時代にあっては、芸術というものは、謂わば、あまりにひどく追放されている、或いは少なくとも、これを批判と結びつける必要はありませんが、共通する精神生活から追放されているからです。世界を芸術史的に観想するひとが、芸術をまるごとの精神生活のなかにもう一度据えようとすると、欠陥のよう
に思われるということさえ屡々あるほどです。何故なら、そうすることによって、本来の芸術的で美的なものから遠ざかり、内容的なもの、題材的な(stofflich)要因に大きな価値が置かれすぎると勘違いされているからです。決してそのように思われてはなりません。そもそもこういう違いが是程大きな意味を持ち始めたのは、現代になってからのことです。人間の感覚全般にとって芸術的な理解がもう少し育成されていた以前の時代にとっては、そういう違いはそんなに直接的な意味を持ちませんでした。昨今、描写として造形的な描写として人間の感覚の前に登場してきた醜悪さのすべてによって、本来の芸術的な理解が如何に酷く根絶やしにされてしまったかをここで私たちは忘れてはなりません。任意の如何に(いかに/Wie)のなかに何を(なに/Was]を感じ取ることがヨーロッパにとってある意味でどうでもよくなることによって、如何に(いかに/Wie)に対する理解がどれほど失われてしまったか、見誤ってはならないのです。こうして、きわめて広範囲にわたって芸術的な理解全般がひどく失われてしまいました。私たちがきょうまた取り上げねばならない時代がどのようなものであれ、このようなかなり古い時代にとって、ラファエロやミケランジェロやレオナルドのような芸術家は、単に一面的に芸術家であるということはまったくなく、その魂のうちに精神生活をまるごと担い、精神生活から、彼らの時代の精神生活から創造していたということについて語られねばならないならば、それは彼らがこの精神生活から題材(Stoff)を取り出したという意味ではありません、そうではなく、彼らの創造活動の特に芸術的なもののなかへ、形態(Form)付与と色彩付与のなかへとまさしく題材が流れ込んだということ、当時の世界観と名づけられうるものの独自性のなかへと流れ込んだということです。現代にとって、世界観とは諸理念の総計です、つまり彫刻したり描いたりすれば、形(フォルム)や色その他のなかに当然ながらあまさず具現されうる、芸術的な把握にとって最大の野蛮さを示している諸理念の総計なのです。これと関連して、ほかでもない私たちのの人智学的発展の内部に、いわば繰り返し戒めなければならないことがあります。ほんとうの意味で芸術的なものという感情が、私たちのグループ内のどんなところにも広がっているというわけではないからです。今もぞっとしながら思い出すのですが、私たちの神智学運動の初期の頃、ある男がベルリンにやってきました。彼は自身が描いた菩提樹下の仏陀という一枚の絵のコピーを携えていました。さて、なるほどその絵では、樹の下に朽ち果て崩れたような人物が座していましたが、この男は芸術について、 陳腐な表現をお許し下さい、でもこの場合こういう言い方ができるのです。 まる一週間草を食(は)んだ牡牛が日曜日について理解する程度にしかものごとを理解していませんでした、この男は、何らかのモティーフ(motif)、動因・因子としてのあるものを据えさえすれば、それがその何かを表すのだと考えていたのです。それはつまり場面全体を、菩提樹下の仏陀を思い描くひとはそれを見ることができるのだというわけです。けれども、それが現れてきたとき、そもそもなぜそういうものを創り出そうというのか。それについてはまったく根拠がないのです。けれども、レオナルドや、ミケランジェロや、ラファエロの場合、彼らがその魂のうちに、当時イタリアの文化を貫いていた感じ方をまるごと担っていたことについて語るなら、それはなにか別のものでした。何故なら、彼らにおいては、芸術上の描写のしかたにこの文化が入り込んでいて、この文化に対する感情なしに彼らを考察しても、この芸術家たちを完全には理解できないからです。今日、ほんとうに奇妙なことが信じられています。例えば、ミサ聖祭についてまったく何も知らなくても、誰かがゴシック教会を建てることができると思われているのです。実際には教会を建てることなどできません。三位一体のなかに生きているとされるものについて、何ら感じるところのない人でも三位一体を描くことができると想われています。こういうことが今日芸術を脇へ押しやっているのです。他方、単に今日芸術において持たれるような感情や美的な見方だけで、ラファエロあるいはミケランジェロあるいはレオナルドについて批評できると思うなら、特別に芸術的なものを理解することはやはりできません、何故なら、彼らの感情と感じ方全体が、今日までにそうなったものとは異なったものだからです。彼らの場合まさに自然に即して、本日はこれ以上を申し上げられません、ほんとうに語るべきことを語るためには多くの時間が必要だからです。彼らの場合まさに自然に即して、彼らはその時代の感じ方すべてのただなかに生きていたということです、ですからキリスト教がその興隆の時期にとった特徴を理解しなければ、彼らの創造を理解できないのです。
参照:ルネサンスの三人の巨匠-肖像




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最終更新日  2024年01月20日 06時10分08秒
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