Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年08月21日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」第三講●解説 概要・解説
●概要
 1-1病理学と治療の診断による結びつき。三分化された人間。運動神経と感覚神経。1-2暗示と催眠。1-3治療手段と人間の関係。植物における成長の変容。適応力と再生。人間の形成力と霊的・魂的機能。現実に適応した心理学の基礎。上昇する進化と下降する進化。血液形成プロセスと乳汁形成プロセス。
●解説 1-1病理学と治療の診断による結びつき。三分化された人間。運動神経と感覚神経。
 今日の医学においては、治療と病理学との関係は明らかではなく、単なる経験的方法ばかりが優勢であるため、実践的なものに対して応用のきくような合理的なものを、治療において見い出すことはできません。(*ちなみに、ここでは、哲学的なイギリス「経験論」と大陸「合理論」の対比を踏まえて語られているようです。)。医療は対象を診断し病気を識別することで満足するのではなく、まず診断の段階で病気の本質から治療プロセスまでを見通すような仕方で病気の本質を認識することができなければならないのです。ここで治療における「理性/Ratio」の必要性ということが示唆されます。そもそも今日の医学研究はどのような性質のものなのか想定すると、少なくとも大筋において見い出せることは、治療は病理学と並んで現れているけれども、両者の間に、明確に見通せる関係は成立していないということではないでしょうか。とりわけ治療においては、今日現在(こんにちげんざい)でも往々にして、単なる経験的な方法の独壇場となっています。合理的なもの、つまり、それに基づいて実践的なことにおいて実際に原理を打ち立てることのできるような、そういう合理的なものは、とりわけ治療においてはほとんど見出すことができないのです。周知のとおり、19世紀におけるこの医学上の思考方法の欠陥は、医学上でのニヒリズム派にさえ通じてしまいました。このニヒリズム派は、すべて診断に基づき、病気が識別できれば満足し、治療における何らかの理性(Ratio)に対しては大体においてまさしく懐疑的な態度をとったのです。医療制度に対して、いわば純粋に理にかなった要求をするとしたらやはり、そもそも診断と関連したところですでに治療を暗示するものが存在していなければならないと言わねばならないでしょう。治療と病理学の間に単なる外的な関係が保たれているだけではいけないのです。私たちはいわば病気の本質を、この病気の本質から治療プロセスについての見解を形作ることができるようなしかたで認識することができなければならないのです。病気の本質から治療プロセスまでを見通すというあり方は、自然のプロセス全体において、治療法と治療プロセスがどの程度まで存在するのかという問いと関連したものだといえます。人間の病気と治療のプロセスに対応するようなものが、自然のなかに見い出されるのかどうかという問いが出てくるのです。然し乍ら今日の自然科学にもとづいた医学ではこうした問いかけはなされてはいません。唯物論的傾向にある医学では、神経組織を機能においてまったく誤解しているからです。このことは当然のことながら、そもそも自然のプロセス全体において、治療法と治療プロセスがどの程度まで存在し得るのかという問いと関連しています。パラケルススの大変興味深い箴言「医者は自然を通じて試行していかねばならない」は非常にしばしば引用されますが、最近のパラケルスス文献は、まさにこういう箴言からとりかかるということをじゅうぶん心得ているとは申せません。さもなければ、自然そのものから治療のプロセスをひそかに学びとることをどのみち目論まざるを得ないからです。なるほど、自然そのものがそれに対して策を講じてくれるような病気のプロセスがそこにあるときは、其のような試みもされるでしょう。けれども、真の自然観察は正常なプロセスを観察するものなのに、すでに損傷があって自然が自ら自衛策を講じる場合は、その治療処置に関して、やはり自然というものを特例として観察することが目指されているのです。すると、次のような疑問が起こってくるにちがいありません。つまり、治療処置について何らかの見解を得るための手がかりとして、正常なプロセス、いわば正常なプロセスと呼ばれているものを自然のなかに観察する可能性があるのかという疑問です。皆さんはすぐにお気づきになるでしょうが、このことはいくらか考慮を要する問題と関連しています。病気のプロセスが自然のなかに正常な在り方で存在しているときには、当然のことながら、自然のなかに正常なしかたで治療プロセスを観察することが可能です。すると、いったい自然そのもののなかに自然を通じて試行し、自然を通じて癒すことができるような、病気のプロセスがすでに存在しているのかという疑問が生じてきます。この疑問に対してはもちろん、この連続講演が進むにつれてはじめて完全に答えが与えられるでしょうが、きょうのところはせめて少しだけこの答えに近づくことを試みてみましょう。けれどもその際、即座に言えることは、ここに呈示しましたような道は、今日通用しているような「自然科学に基づいた医学」を注がれて覆われてしまっているということです。現在のような前提においては、このような道を歩むことは非常に困難です。と申しますのも、たいへん奇妙なことに、ほかならぬ19世紀における唯物論的傾向が、ここで私が骨組織、筋肉組織、心臓組織に続いて付け加えねばならない組織、すなわち神経組織をそもそもその機能において完全に誤解するという事態を招いてしまったからです。霊的・魂的なものを神経組織によるものであるとすることが一般的になってきていることに対して、シュタイナーは異論を提出しています。神経組織と関係しているのは、表象プロセスのみであって、感情プロセスは、律動組織(呼吸・循環系)と関係し、意志プロセスは新陳代謝組織と関係しているというのです。これが、シュタイナーのいう、いわゆる「生体組織の三分節」という概念の基本となっています。この考え方は、生物学上の事実によって証明できることですが、それに対して、神経系に関する従来の考え方、つまり魂生活を神経組織によるものだとする見解は証明できないのだといいます。いわば魂的なものをすべて神経組織に負わせ、人間において起こっているあらゆる霊的ー魂的なものを、その際、神経組織のなかに見出され得るはずの平行現象において解明するということが次第に一般的になってきました。ご存知のように私は、こういった類の自然観察に対して、「魂の謎について」という著書のなかで異議を申し立てざるを得ませんでした。この本において私がまず第一に示そうと試みたことは、この真実を実証するために経験の面から加えられることは、ほかならぬこの通常の観察法によってこそ数多く得られるのですが、神経組織と関係しているのは、本来の表象プロセスのみであって、感情のプロセスは、間接的にではなく直接的に、生体組織の律動的現象に関連しているということです。今日の自然科学者は通常、感情プロセスは律動組織とは直接関係はなく、この律動プロセスが神経組織に中継されることによってのみ関係している、つまり、感情生活も神経組織によって営まれるのだと考えます。さらに私は、意志生活全般もまったく同様に、間接的にではなく直接的に、新陳代謝組織と関係していることを示そうとしました。つまり、意志のプロセスに関しても、神経組織にとっては、この意志プロセス自体を知覚すること以外の何物も残されていないわけです。神経組織を通じて何らかの意志が実行されるのではなく、意志を通じて私たちのなかで起こっていることが知覚されるのです。私が主張いたしましたことはすべて、生物学上のそれに応じた事実によって完璧に証明されうることですが、他方、これと反対の、魂生活を神経組織だけに組み込む見解は、まったく証明することができないのです。感覚神経と運動神経が別のものであるとするとらえ方がありますが、運動神経といわれるものと感覚神経を切断するとしますと、その両者をつなぎ合わせることができ、そこから均一の神経が生じるという事実があるように、感覚神経と運動神経は別のものではありません。運動神経というものは存在せず、運動神経と呼ばれているものは、四肢の新陳代謝で生じていることを「知覚する感覚神経」のことなのです。シュタイナーは、第二講で、病気の本質を探究するためには、新陳代謝に関連した「下部」と感覚・神経活動を含む呼吸活動に関連した「上部」とが密接に関係しあっているという事実を見なければならないことについて語っていましたが、現代の医学の傾向としてあるのは、病気の諸症状について、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまったり、ヒステリーを神経組織だけで説明しようとしたりすることなのです。いわゆる運動神経を切断し、感覚神経を切断して、両者をつなぎ合わせることができ、そこからまた均一の神経が生じるという事実がありますが、感覚神経(sensitive Nerven)と運動神経(motorische Nerven)があるという見解とこの事実が、まったく健全な理性のもとではどうやって関係づけられるべきなのか、ちょっと見ていきたいと思います。感覚神経と運動神経といったものは実は存在せず、運動神経と呼ばれているものは、私たちの四肢の運動、すなわち、私たちが意志するときに、私たちの四肢の新陳代謝において起こっていることを知覚する感覚神経にほかならないのです。つまり、運動神経とは実際のところ、私たち自身の内部においてのみ知覚する感覚神経なのです。それに対して、「感覚神経と本来呼ばれているもの」は、外界を知覚しているのです。医学にとって非常に重要な意味を持っているけれども、事実そのものをきちんと見据えることによってはじめて正当に評価され得るものは、この方向にあるのです。なぜなら、昨日私が結核の例を得るために出発点とした病気の諸症状に対しても、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまうことは実際困難だからです。従って、賢明な自然観察者は、どの神経も単に周辺から内部へ、あるいはその逆へと伝わるだけでなく、周辺から中心へ、あるいは中心から周辺へも伝わるということをすでに受け容れてきたのです。同様に、どの運動神経にも二つの回路があるということになります。すなわち、神経組織から、何かを、たとえばヒステリーを説明しようとすると、互いに反対に流れている二つの回路を容認することが必要なのです。つまり、事実に立ち入るやいなや、神経組織についてのそもそもの仮定に完全に矛盾する、こうした神経の特性を容認することがどうしても必要になるのです。たとえばヒステリーの場合に起こっていることのように、生体組織のなかで通常神経組織に定められているものについて知るべきであったことが、神経組織についてのこういう通例の考えかたを習ったことですべて塞がれてしまったのです。
参考画:sensitive Nerven - motorische Nerven




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最終更新日  2024年08月22日 04時13分37秒
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