Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年08月25日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」 第四講 1920年 3月23日 ドルナハ*1998.11.21.改訳 本講:本文・解説
第四講本講:本文1-2
 腸内、そして人間の生体組織全般に現れてくる植物相、さらには私たちがこれから見ていくように動物相のなかに、病気であることの原因のようなものを見るとしたら、それは表面的な見方でしょう。実際これはもう恐るべきことなのですが、今日病理学の文献を調べてみると各章ごとに新たに、この病気にはこの菌が、あの病気にはあの菌が発見された云々にぶつかるのです。これらはすべて、人間の生体組織の腸内植物学、腸内動物学にとっては非常に興味深い事実なのですが、病気にとっては、せいぜいがひとつの指標という以上の意味を持ってはおりません。つまり何らかの病気の型が根底にあると、人間の生体組織においては、何らかの興味深い微小な動物あるいは微小な植物の形状がこの基盤のうえに発達する機会が提供されるけれども、そうでない場合はそれ以上のことは何もないと言える限りにおいての指標にすぎないのです。この微小な動物相および植物相の発達が実際の病気に関与している程度は非常に低く、間接的に関わっているだけです。と申しますのも、おわかりでしょうか、この今日の医学の内部で展開されている論理は、きわめて奇妙なものだからです。考えてもみて下さい、皆さんが、良く飼育されて見事な雌牛がたくさんいる土地を発見するとします。皆さんはそのとき、これらの雌牛がどうにかして飛び込んできたから、この土地が雌牛に感染されたから、私がここに見ているものはすべて見ての通りなのだなどとおっしゃるでしょうか。たぶんそのようなことはほとんどお考えにならないでしょう。そうではなくて、この土地に勤勉な人たちがいるのはなぜか、何らかの動物の飼育に適した土壌がそこにあるのはなぜかを探究せざるをえないでしょう。要するに、皆さんはおそらく、良く飼育された雌牛がそこにいるということの原因となりうるすべてのことを、思考の拠り所とされることでしょう。けれども、ここで起こっていることは、この土地が、良く飼育された雌牛がやってくることによって感染されたからそうなったのだと言おうなどとはまさかお考えにならないでしょう。しかし、今日の医学が微生物その他に関して展開している論理はそうではないのです。この興味深い生きものが実在しているということから見て取れるのは、そこに肥沃な土壌があるという以上のことではなく、この土壌の観察こそ当然留意されてしかるべきものなのです。ただ、たとえば、この地方には良く飼育された雌牛がいる、これを何頭か譲ってやろう、そうしたらもっと勤勉になろうと奮起するひともいるだろうと言うとき、間接的にあれこれのことが起こる可能性はあります。これはむろん付随して起こりうることです。準備の行き届いた土壌が菌によって刺激され、土壌自体も何らかの病気のプロセスに陥ってしまうということは当然起こりうるのです。けれども実際のところ、この菌という生物の観察は、本来の病気というものの観察とはほとんど関係がないのです。健全な論理の養成ということに留意されているならば、このように他ならぬ公認された科学から発して健全な思考の荒廃を招くようなことはそもそも起こり得ないはずなのですが。考慮すべきことは、先日来その特徴をお話ししてきました人間における上部と下部のある種の関係が誘因となって、上部と下部との正しい相互関係が成立しない可能性もあるということです。その結果、上部の人間の反作用が少なすぎることにより、植物化していく傾向を阻止されるべき植物プロセスと申しますか、そういう植物化プロセスを阻止することのできない力が、下部の人間において活性化する可能性があるのです。そうすると腸菌群落(腸内植物相)がおびただしくはびこる機会も与えられ、そしてこの腸菌群落は、まさに人間の下腹部がしかるべきやりかたで働いていないということを示すものとなります。人間においては、下部の水準に従って起こるべき活動が下部で起こることができない場合は、せき止められて押し戻されるという特殊な事態が起こります。つまり、下腹部において、この下腹部に組織されている特定のプロセスが起こることができない場合、これらのプロセスは、押し戻されるのです。こういう言い方は素人臭いと思われるかたもおられるかもしれませんが、これは今日通用している病理学に少なからず見出される表現よりは科学的なのです。人間の下部において規定通りに起こるべきこれらのプロセスが上部へと押し戻されるわけですが、肺における排出や、肋膜その他のように上へ向かって置かれた部分における排出についても、その原因は、それが人間の下腹部の正常あるいは異常な排泄プロセスといかに関連しているかを調べることによって追求されねばなりません。生体のこういうプロセスが下腹部を通じて上半身に向かって押し戻されることを正確に見ていくことがきわめて重要です。上半身で起こりうることの多くは、下腹部から押し戻されたプロセスに他ならないのです。上部人間と下部人間との間に正しい関係が成り立たないと、これらのプロセスは押し戻されるのです。さてこれに加えてもうひとつ注意していただきたいことがあります。おそらく皆さんも日常経験から、こういう事実があるのを御存知と思いますが、この事実がまたしても十分に評価されていない事実であり、健全な科学においてはこういう事実の正しい評価こそ重要なことなのです。つまりこの事実というのは、皆さんがある特定の器官について考える瞬間、もっと良い言い方をすれば、その特定の器官に関連する考えを抱く瞬間に、この器官にある種の活動が起こるということです。人間においてわき起こってくるある種の考えと、唾液分泌、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、精子を、ここにもまた未来の学位請求論文のための豊かな領域があるのですが、それを一度研究してみてください。これらの生体組織の現象と並行して現れるある種の考えがどのようにして起こってくるのかを研究してみてください。ここで目にしているのはどのような性質の事実なのでしょうか。皆さんの魂生活に特定の考えが生じると、それと並行して生体組織の現象が起こってくるのではないでしょうか。これはどういうことなのでしょうか。皆さんの思考のなかに生じてくるものは、まるごと器官のなかにあるのです。つまり皆さんがある考えを抱いてそれと並行して何らかの腺分泌が起こる場合、その考えの基礎を成している、そう考える基礎となる活動を、皆さんは腺から取り出しているのです。皆さんがその活動を腺から分離させて実行し、腺をそれ自身の運命にゆだねると、腺は自身の活動に没頭して分泌をおこなうわけです。この分泌が妨げられているということはつまり、そうでなければ腺から排除されるものが、思考がそれを結びつけたことによって腺と結びついたままになっているということです。ここで、形成活動が器官から思考のなかに入り込んで現れてくるということを、いわば明白にご理解いただけると思います。私がそのように考えなかったとしたら、私の腺は分泌しなかっただろうと言うことは可能なのです。すなわち、私は腺から力を奪い、これを、この力を私の魂生活に移行させる、だからこそ、腺は分泌をおこなうということです。ここで皆さんは人間の生体組織そのもののなかに、私が今までの考察で申しあげてきたことの証明を見出せるのです。つまり、私たちが霊的ー魂的生活において体験していることは、私たちの目の前にある他の自然秩序のために分泌された形成力に他ならないということの証明です。外的な植物相として外的自然のなかで私たちの腸菌群落(腸内植物相)に並行して発達するものを通じて、外部の他の自然のなかで起こっていることのなかに、まさにこの内部にこそ、私たちが自らの腸菌群落から引き出した形成力が潜んでいるのです。皆さんが戸外で山の植物相を、草原の植物相を眺めるとき、本来は次のように言わなくてはなりません、このなかには、表象のなかに生き、感情のなかに生きているときに、皆さんが思考のなかに発達させる諸力が潜んでいるのだと。したがって、皆さんの腸菌群落は外部の植物相とは異なっています。外部の植物相からは思考が取り去られる必要はないからです。外部の植物相において思考は、茎、葉、花と同様に植物の内部に潜んだままなのです。ここで皆さんは、花や葉のなかで支配しているものと皆さんが腸菌群落を発達させるときに皆さん自身のなかで起こっていることとの親近性について理解を得られるでしょう。このとき皆さんは腸菌群落に形成力をゆだねず、腸菌群落から形成力を奪い去るのです。これを奪い取らないとしたら、皆さんは思考する人間ではあり得ないでしょう。皆さんは、外部の植物相が持っているものを、自らの腸菌群落から取り去ったのです。動物相の場合においても事情は変わりません。こういうことを洞察することなくしては人間と植物薬との関係に行き着くことが出来ないのと同様、外部の動物界において形態を与える諸力を、人間は自分の内部の腸内動物相からは取り去ったのだということについて意識しなければ、治療用血清の使用に関して正しい理解に至ることはできないのです。このことからおわかりだと思いますが、このように人間とその環境との関係を本当に見据えないことには、理性、つまりこうした事柄の体系学は不可能なのです。さらに私はもうひとつ、非常に重要なことを皆さんに指摘したいと思います。少し前に滑稽にも至る所で唾を吐くことが禁止されたとき、はなはだひどい状態になりましたが、あれを共に体験された方がここに多数おられるかどうかは存じません。ご存じのように人々はこの唾吐き禁止によって結核を撲滅しようとしたのです。さて、この唾吐き禁止が滑稽なのは、これは誰もが知っておくべきことでしょうが、病原菌、結核菌は、ごくありきたりの分散した太陽光によりきわめて短時間で殺されてしまうので、しばらくしてから痰を調べてみると、少ししか時間がたっていなくても、痰のなかにはもう結核菌はいなくなっているからです。太陽光は即座にこの病原菌を殺すのです。ですから、通常の医学上の前提が正しい場合でも、こういう唾吐き禁止はなおもきわめて滑稽なことと言えるでしょう。このような禁止行為はせいぜいのところ、ごく一般的な衛生という面では意味もあるでしょうが、最も広義の予防医学にとっては意味のないことなのです。けれどもここでも、事実を正しく評価し始めた人にとっては、このことは非常に大きな意味を持っています。なぜなら、このことは私たちに、結核の動物相ないし植物相に属するもの、つまり病原菌は太陽光のもとでは自らを維持できないということを示しているからです。病原菌は太陽光のもとでは自らを維持できません。太陽光は病原菌には都合が悪いのです。病原菌が自らを維持できるのはどういうときでしょうか。人間の体内にいるときです。それではなぜ、人間の体内でなら自らを維持できるのでしょうか。病原菌を本来的に害をなすものであるかのように見るのではなく、体内で活動しているもの。これこそが探究されねばならないものなのです。けれどもこのとき注意を払われていないものがあるのです。私たちは絶えず光に囲まれています。この光は、おそらく皆さんが自然科学から記憶しておられるように、人間の外部の生物の発育にとってきわめて大きな意味を持っています。とりわけ、人間の外部の植物相全体の発育にとってきわめて大きな意味を持っています。私たちはこの光に囲まれているのです。しかし、私たちと外界との境目において、この光に、つまり純粋にエーテル的なものに、非常に重要なことが起こっています。つまり光が変化させられているのです。光は変化させられねばならないのです。よろしいでしょうか、ちょうど植物化プロセスが人間によって阻止されるように、この植物化プロセスがいわば中断され、炭酸の発生というプロセスによって植物化に抗する働きかけがなされるように、ちょうどそのように、光生命のなかにあるものも、人間によって中断されるのです。したがって私たちが人間のなかの光を探究すると、それはなにか別のもの、つまり光が変容したものであるにちがいありません。私たちが人間の境界を内に向かって越える瞬間に、光の変容が見い出せます。すなわち、人間は自らのなかで、単に通常の外的な計測しうる自然現象を変化させているのみならず、計測できないもの、つまり光をも変化させているのです。人間は光を別のものに変えるのです。太陽光のもとではすぐに死んでしまう結核菌が、人間の内部ではよく生存するということは、次のような事実を、それが正しく評価されればですが、端的に証明するものです。その事実とは、人間の内部に生じてくるこの光の変容の産物、すでにこのなかに結核菌の生命元素があるということ、すなわち、結核菌が内部で増えすぎるときは、この変化した光の状態になんらかの異常があるにちがいない、ということです。さらに皆さんはそこから出発して、結核の原因のなかには、人間のなかで、この変化させられた光、この光の変容に関して、本来起こるべきでない何かが起こっている、ということもあるにちがいない、何と言っても結核菌はいつも存在しているけれども、人間は通常、結核菌をたくさん取り込みすぎることはないのだから、という事実を理解されるでしょう。実際結核菌はいつもいるのです。ただ通常は十分な数ではないというだけで、人間が結核に屈服するとおびただしく増えるのです。この変容させられた太陽光の発達に関連した何らかの異常がない限り、ふつう結核菌がどこにでも見つかるというわけではないのです。さてまたもや、この分野の学位論文や私講師論文の大多数から次のようなことを引き出すのは、私がここで観点としてしか与えることのできないもののための経験的な素材は、このようなやりかたでのみ皆さんのところに集まってくるでしょうし、困難ではないでしょう。つまり、人間が結核菌に適した土壌となる場合に起こってくることというのは、人間が太陽光を十分取り入れることができないか、あるいはその人の生活習慣のために十分太陽光を得ていないために、その人のなかに入ってきた太陽光と、太陽光を変容させて加工することとの間の均衡がくずれ、その人はずっと自分のなかに備蓄していた変容させた光から、貯えを引き出さざるを得ないということです。皆さんにぜひとも考慮に入れておいていただきたいことは、人間はまさに人間であることによって、変容させた光を絶えず自らのうちに貯えて持っているということです。これは人間の生体組織にとって必要なのです。人間と外界の太陽光との間の相互プロセスが正しく実現されないと、このような影響下にあっては、ちょうど痩せていく場合に自分のために必要な脂肪が肉体から取り去られるように、変容された光が肉体から奪われるのです。そしてこういう場合人間は、上部を病ませるか、あるいは上部にとって必要なものを下部から引き出す、すなわち変容させた光を下部から取り出して下部を病ませるかというジレンマの前に立たされているわけです。このことからおわかりだと思いますが、人間はとりもなおさずその生体組織のために、外部から入ってきて変化させられた計量可能な実質を必要としているだけではなく、人間を正しく観察すれば指摘できることですが、人間のなかには、変容したかたちではあっても、計量できない実質、エーテル的な実質も存在しているのです。しかしこのことから看取していただきたいのは、このような原理を通じて、太陽光の治癒的な作用のための正しい見解を打ち立てる可能性をいかに生み出していくか、ということです。たとえば、一面においては、周囲の太陽光との相互プロセスが秩序を失っているのを再び秩序づけるために直接その人を太陽光にさらすことによって、あるいは他面においては、変容させられた光を取り出す時に不規則になっているものを調整するような実質に、その人を内的にさらすことによって、治療を行うことができます。このように変容させられた光を取り出すことは、薬から作用しうるものによって弱体化させられねばならないのです。ここで皆さんは人間の生体組織をのぞきこむことができます。ここで、世界全般を観察できる人にとって奇妙なことが起こってきます。そういう人はーーいささか外交的でない言い方をお許しください。しばらくすると私がお話することは一見反駁される可能性もあるにもかかわらず、これはそもそも共感も反感も無いという意味でまったく客観的なことなのです。顕微鏡で観察することすべてに対して、微小な世界の観察全般に対して、一種の激しい怒りをおぼえるのです。なぜなら、顕微鏡での観察はそもそも、生命と生命を妨げるものとを健全に把握する可能性に導くやいなや、むしろそこから逸脱させるものだからです。と申しますのも、健康であるにせよ病気であるにせよ人間において私たちに関わってくる真のプロセスはすべて、顕微鏡的なものにおけるよりも、巨視的なもののにおいてはるかによりよく研究できるからです。私たちはマクロコスモスのなかにこそ、こういう事柄を研究する機会を探さなければならないのです。皆さんに注意していただきたいことは、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分であるために、摂取と排泄との間に絶えず持続的な平衡状態を保っていることです。鳥は飛翔しながら排泄することができます。鳥は食べたものの残りを体内にとどめて蓄積するということはありません。鳥にはそうする機会がないのです。もし鳥が食べたものの残りを体内に蓄積したとしたら、それは即座に病気であり、鳥の体をだめにしてしまうでしょう。私たちが人間である限り、物質的な人間である限り、私たちは、いわば今日的な見解に沿って言うならば鳥よりも進化したわけですが、もっと正確な言いかたができるとすれば、鳥よりも下に降りてきたと言えるのです。鳥は実際のところ、腸菌群落に対して激しい戦いを展開する必要はありません。高等動物や人間には必要なこの腸菌群落が鳥の体内には全く無いのですから。けれども私たちの、より高位に置かれた活動と申しますか、例えば先ほどお話しましたエーテル的なものを変化させる活動、光を変化させて変容に導く活動、こういう活動に関しましては、私たちは鳥と同じ位置に立っているのです。私たちは物質的な膀胱と物質的な大腸を有していますが、これらの器官に関わる私たちのエーテル体に関しては、私たちは鳥なのです。実際こういう器官は宇宙において動的に存在してはいないのです。そこでは私たちも光を受け取って直接これを加工し、排泄物としてまた排出するということに頼っているのです。ここに支障が起こると、この支障に対応する器官がないために、私たちは健康を損なうことなしに難なくこの支障に耐えるということはでません。ですから、この小さな脳を備えた鳥というものを観察する際に明確にしておかなければならないことは、鳥は、私たちのより精妙な生体組織のマクロコスモスにおける写像であるということです。したがって人間というものを、鳥よりも下に降った粗雑な組織に写し取られた、より精妙な組織ということに関連して研究しようとすれば、皆さんはまさにマクロコスモス的に鳥の世界の出来事を研究しなければならないのです。ただここで申し上げておきたいことは、これは括弧付きで述べるのが望ましいことかましれませんが、人間が物質的組織において鳥類に比較して有している特性を、そのエーテル的組織においても持っているとしたら、実際人間の生活は悲しむべきものになるでしょう。なぜならエーテル的組織は物質的組織のようには外界から遮断されることができないからです。そうなると変容させた光を貯蔵する時には、それを感じとる臭覚器官がもし存在するなら、人間の共同生活はかなり悲惨な状態になるでしょう。もっとも先ほど申しましたとおり、これは括弧付きで述べるべきことです。私たちが羊を死後解剖して、その内部の匂いをかいだときに経験するのと同じことが起こってくるわけです。一方、エーテル体的なものに関しては、実際のところ私たちが人間としてお互い向き合っているやりかたは、たとえば腐肉を食する鳥でさえそれを解剖する際に不快な匂いを発散しませんが、この全く不快でない匂い、もちろんすべては比較的、相対的にそう言えるだけですがそれにに比較されます。この不快ではないというのは、私たちがとりわけ反芻動物、ようやく反芻動物への素質を持ち始めた、たとえば馬のような動物でも、馬は正確には反芻動物ではありませんが、その組織において反芻動物への素質が見られるのですから同様にして、これを解剖する時に発散される匂いに比較してそう言えるのですが、この不快ではない匂いに比較されるのです。つまり重要なことは、外部の植物相と動物相に起こっていることと、人間の生体組織のなかの腸内の動物相と植物相において起こっていて克服されねばならないこととの対応を調べていくことなのです。そして何らかの薬と器官との関係を確定しようとすると、私たちは、きょう展開してまいりました一般的な特徴付けから、明日以降の講演での個別的な特徴付けへと進んでいかなければなりません。けれども、私たちが一面においては、植物化の出現に対抗する戦いを循環プロセスのなかに見出すことによって、人間内部の、つまり腸内の動物相及び植物相の克服へと進んで行かなければならないように、皆さんはここから出発して本来の神経・感覚人間へと進んで行くわけです。この神経・感覚人間は、人間の生活全体にとって、通常考えられているよりもずっと重要なのです。科学というものがこのような抽象に高められたために、次のようなことを適切な方法で考慮する可能性はまったく失われてしまいました。つまり、この神経・感覚人間を通じてたとえば光と光に結びついた熱とがそもそも入り込んでくるわけですが、この神経・感覚人間は内的な生活と密接に関係しています。なぜなら光とともに入り込んでくる計測できないものは、諸器官において変容させられねばならず、そしてこの計測できないものは、計測できる領域に存在しているものと同様、器官を形成するものだからですが、こういうことを考慮する可能性は失われてしまったのです。神経・感覚人間が人間の組織化にとって特別な意味を持っていることは、まったく考慮に入れられておりません。しかし、私たちが下部人間のなかにより深く下降していく場合は、腸内植物相を形成する力から、腸内動物相を形成する力へと下降していくのですが、他方、人間の上部へと昇っていく場合は、私たちは内部の植物相が克服される領域から、人間の絶えざる鉱物化、いわば人間の硬化が克服されねばならない領域へと上昇するのです。皆さんはここで、いわば外的に、頭部の骨化が他の部分より顕著であるということから見ても、人間は上へ向かって進化するほど、その器官を通じてまさに鉱物的になる傾向が強まるということを研究することができます。この鉱物的になるということ、これは人間の生体組織全体にとって大きな意味をもっています。と申しますのも、よろしいでしょうか、これは繰り返し留意されねばならないことなのですが、私は公開講演においても指摘してきたのですが、人間を三つの部分、すなわち、頭、胴体、四肢という三つの部分に分けるとき、これらの三つの部分が並列的にあって、外的空間的な境界を有していると考えていただいては困るのです。質的に区分するとすれば、人間というものは当然まったくもって頭人間です。頭であるものは人間全体に拡がっていて、その主要な部分が頭にあるというだけです。他の部分、つまり循環と、四肢及び新陳代謝についても同じで、これらも常に人間全体に拡がっています。このため、当然のことながら、頭ないし頭部人間にとって存在しなければならないものが、素質としては人間全体のなかに存在しているのですが、この人間全体における鉱物的になっていく素質は克服されねばならないのです。今日の人間が、まだ遺伝的な霊視能力から導き出されていた古代の著作をひもといても、もはや何も理解できない分野というのは、まさしくここにあるのです。なぜなら結局のところ、パラケルススの言う塩プロセスについて読んでも(☆3)、今日ほんのわずかの人しか何かまっとうなことを読みとることはできないからです。ところでこの塩プロセスというのは、私がちょうど今特徴をお話ししている領域にあたり、硫黄プロセスというのがその前にお話しした領域にあたります。
原注3 パラケルスス「オープス パラミールム」
記:「オープス・パラミールム」(Opus Paramirum)は、16世紀のスイス出身の錬金術師であり医師でもあったパラケルスス(本名:テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム)の著作の一つです。この作品は、彼の医学や錬金術に関する理論をまとめたもので、特に病気の原因や治療法についての新しい視点を提供しています。パラケルススは、従来の四体液説に反対し、病気の原因を化学的な不均衡に求めました。彼は、硫黄、水銀、塩の三原質が人体の健康に重要であると考え、これらのバランスが崩れることで病気が発生すると主張、今じゃ非常に危うい説となります。よく話題にされるナポレオン・ボナパルトの脳内発見された水銀から推察された水銀他殺説やヒ素中毒説も、真相は養生訓の実践だったのかもしれません。
参考画像;Napoléon Bonaparte Died



 さて重要なことは、人間は自らのうちに、鉱物化しようとする傾向を有しているということです。ちょうど、動物相・植物相プロセスの基礎を成しているものがいわば独立的になり得るのと同様に、人間全体にとってこの鉱物化の傾向も独立性を持つ可能性があるのです。この鉱物化の傾向に対して、どのように対抗して働きかけねばならないのでしょうか。これに対抗する働きかけは、この鉱物化傾向を粉砕し、いわばそのなかに絶えずくさびを打ち込む以外にはありません。そしてこの領域こそ、皆さんが血清療法から植物療法を経て鉱物療法へと移行して踏み込んでいくところなのです。何しろ鉱物療法なしでやっていくわけにはいきません。なぜなら、皆さんが、鉱物化していく傾向、普遍的に硬化していく傾向に対する人間の戦いにおいて、支えられねばならないものすべてを支えるための拠り所を得られるのは、鉱物と、人間のなかで自ら鉱物になろうとするものとの関係においてのみだからです。その際皆さんは、鉱物を単にその外的な状態のままで人間の生体組織に取り入れる方法でやっていくことはできません。ここで、何らかの形でのホメオパシー原理を示すもの、つまり、外的な鉱物界の活動性に対置されるような力が、ほかならぬ鉱物界から探り出されねばならないことを示すもの、そういうものが登場してくるのです。これはよく指摘されてきたことで、実際正しいのですが、治癒作用のある泉のわずかなミネラル成分に注目しさえすれば、この泉ではめざましいホメオパシープロセスが起こっているのがわかります。このプロセスは、私たちが通常見ている外的な諸力から鉱物の連関を解放する瞬間に、まったく別の諸力、つまりまさしくホメオパシーを行うことによってしか特別に解き放たれない別の諸力が本当に現れてくることを示しています。けれどのこのことは、申しましたように、別の章で述べようと思います。それでもなお、きょう皆さんがたにお話ししておきたいことは、次のようなことなのです。皆さんが実際に、特に比較的若いかたがたに私は切にお勧めしたいのですが、腸組織全体の形態変化、言うなれば、一面においては魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化、とりわけ両生類、爬虫類と腸組織との関係はきわめて興味深いも。他面においては、哺乳類そして人間にまで至る変化について、比較研究されてみれば、次のようなことに気づかれるでしょう、つまり、器官の特殊な形態変化が起こり、たとえば盲腸ができてくるのです。すなわち人間の場合には後に盲腸となるものが現れ、下等な哺乳動物の場合や、鳥類の組織から何かが落ちて盲腸の原基が現れてくる場合には、魚には全く存在していない大腸から、魚の場合大腸については語ることし得ずですが、いわゆるより完全な秩序による上昇を通じて大腸が、さらには複数の盲腸、人間の場合はひとつの盲腸であるものがあらわれてくるのです。他の動物のなかには複数の盲腸を持つ種類もいるのです。こういう発生のしかた全体のなかに皆さんは独特の相互関係を見出されることでしょう。本来こういう相互関係こそ比較研究が非常に厳密に指摘せねばならないことなのです。皆さんは単に外面的に、ご存じの通り実際しょっちゅうこう問われるのですが、いったい何のために、人間の盲腸のようなこういう外に向かって閉じたものが存在しているのかと問うことができます。こういう事柄について問われることはしばしばあるのです。このような問いを投げかけるとき、通常は次のようなことに注目されることはありません。つまり、実際のところ人間は二元性(Dualitaet)として自己を開示しているということ、したがって、一方つまり下部において形成されているものは、常に上部で形成されているものの平行器官(das Parallelorgan)であり、この平行器官、いわば対極が、下部において発達することができないとしたら、上部において何らかの器官が発生できないということ、こういうことに注目されてはいないのです。そして、動物の系列において前脳が形態を取れば取るほど、人間の場合これを後に発達させるのですが、それだけいっそう腸は、まさに食べたものの残りを蓄積する方向へと形成されるのです。腸形成と脳形成の間には密接な関係があり、動物の進化系列において大腸、盲腸が現れてこなかったら、結局は物質的本性として思考する人間というものも発生できないでしょう、なぜなら、人間が脳すなわち思考器官を持つのは、腸器官の負担、まったくもって腸器官のおかげだからです。腸器官は脳器官の忠実な裏面なのです。皆さんが一方において思考のために物質的活動を免除されるためには、他方において皆さんの器官に、形成された大腸と形成された膀胱による負担のきっかけとなっているものを担わせなければならないのです。このように、人間の物質的世界に現れているまさに最高の霊的ー魂的活動は、脳の完全な形成と結びついているのと同時に、その一部である腸の形成とも結びついているのです。これはきわめて重要な関係であり、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかけるものです。さて、ここで皆さんは、たとえいくぶん逆説的に聞こえるにしても、人間にはなぜ盲腸があるのかと問いかけ、人間が相応なしかたで思考することができるためにあるのだと答えることができるのです。なぜなら、盲腸において形成されているものは、人間の脳のなかに、それに対置されるものを持つからです。一方にあるものはすべて、他方にあるものに対応しているのです。これは新しい種類の認識方法で再び獲得されねばならないことです。むろん私たちは、いまだ遺伝的な霊視力に立脚していた古代の医師たちを、今日そのまま模倣することはできません。それでは得るところはほとんどないからです。それでもこういう事柄を再び獲得しなくてはならないのです。こういう事柄の獲得にとってまさに最初の障壁になっているのが、このような関連をそもそも探究しない純粋に唯物論的な医学教育です。今日の自然科学と医学にとって、脳はまったくもってひとつの内蔵であり、下腹部にあるものもひとつの内蔵です。ここでは、陽電気と陰電気はまったく同じもので、両方とも電気だと言う場合と同じ誤謬が犯されているということに、人々はまったく気づいておりません。陽電気と陰電気の間には、互いに均衡を求める緊張が生じているのとまったく同じように、人間においても上部と下部の間に絶えず緊張が存在しているからこそ、この誤謬に気づくことは、いっそう重要なのです。医学の分野において優先的に探究されるべきことは、本来、この緊張の制御という点にあるのです。この緊張は、きょうはこのことを暗示しておきまして、以後の考察でさらに詳しく述べていきますが、二つの器官に集中する力のなかに、つまり、松果腺といわゆる粘液腺のなかに現れています。松果腺においては、上部の力であるすべての力が現れており、下部の力である粘液腺の力、脳下垂体(Hypophysis cerebri)の力に対して緊張関係を成しているのです。ここには真の緊張関係が成立しています。この緊張関係に関して人間の状態全体から見解を打ち立てるならば、さらなる治療プロセスのための非常に良い基本原理が得られるのですが。これについては明日もう少しお話ししようと思います。皆さんのご質問にはすべて入っていくつもりです。けれどもすでに申しましたように、そのための基礎を作り上げなければならないのです。

   (第四講本講:1-2了 本文 了)





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最終更新日  2024年08月25日 06時46分06秒
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