Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年08月27日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」 第四講 1920年 3月23日 ドルナハ*1998.11.21.改訳 本講:本文・解説
第四講●解説 ■2 植物化に対抗するプロセス ■3 植物化の止揚 ■4 植物化プロセスの下部における活性化
●2 植物化に対抗するプロセス
2.炭素に酸素を対抗させ、炭酸に加工することで、植物化に対抗するプロセスを形成する必要性
 シュタイナーは人間を三分節化した存在としてとらえています。 1は神経・感覚存在としての人間、2は循環存在・律動的存在としての人間、3は新陳代謝存在としての人間です。そして、そうした三分節化した人間が、人間の外部の自然で起こっていることの陰画(ネガ)として関係づけれらているというのです。そのネガ・ポジ関係を認識することで、人間と人間外部の自然との関係性を理解する必要があるわけです。人間の外部にある自然のなかの植物界は、「炭素の集積に基づいた本質を持つ有機体、形成物」であり、人間も「下部の人間」において、その植物化のプロセスの端緒を持っているのですが、それが「上部」において、「酸素」によって、その植物化プロセスに対抗し、「炭酸」に加工しなければならないと述べられています。この上部と下部というのは、第2講で述べられていたように、生体組織の上部の活動である呼吸プロセスと生体組織の下部の活動である栄養分の摂取、消化のプロセスのことで、この両者は互いに働きかけ合っているのですが、それが「滞留器官」としての心臓において、互いの働きかけを妨げあうということでした。上部では、いわば酸素プロセスがあり、それが下部のいわば炭酸プロセスに対抗し、炭素を止揚しなければならないというのです。きょうは誰もがよく知っている事実から始めようと思います。この事実は自然科学的、医学的思考との関連ではまったく正当に評価されておりませんが、人間の人間外部の自然に対する関係を判断するための基礎を提供してくれるものなのです。これは、三つの部分から成る存在としての人間、すなわち、神経・感覚存在としての、循環存在、つまり律動的存在としての、そして新陳代謝存在としての人間は、新陳代謝存在であることによって、外部の自然、植物界において起こっていることに対する陰画(ネガ)として関係づけられているという事実です。次のような事実を魂の前に描き出していただきたいのです。つまり外部の自然において、さしあたりこの自然のうちの植物界だけを観察すると、植物相においては、いわば炭素を集積し、この炭素を全植物相の基盤とする傾向が認められます。私たちは植物に囲まれていることによって、炭素の集積に基づいた本質を持つ有機体、形成物に囲まれているわけです。忘れないでいただきたいのは、この形成の基礎を成しているものは人間の生体組織にも現れているのですが、人間の生体組織はその本質において、形成の過程でいわば発生期状態(Status nascendi)が進行していくうちに、この形成を止揚し、破壊して、代わりにその反対の形成を取り入れねばならないということです。このプロセスの端緒は、私たちの内部の、私が先日来下部の人間と呼んできたもののなかに見出されます。私たちは炭素を沈殿させて、いわば私たち自身の力から植物化のプロセスを始め、その後私たちの上部の組織に誘導されて、この植物化に抵抗しなければなりません。私たちは炭素に酸素を対抗させることで炭素を止揚し、炭素を炭酸に加工し、それによって私たちのなかに植物化に対抗するプロセスを形成していかなければならないのです。
●3 植物化の止揚
3.人間は植物化を止揚することで生きているが、その認識が生体組織と植物薬との関係を探求するためには必要である。
 人間は「下部」において植物化でもある炭酸プロセスを持っているのですが、それが「上部」における酸素プロセスによって止揚されなければならないということでした。それは外的な自然のプロセスに対抗するプロセスであって、そうすることで、人間は生きているわけです。そして、そのことを認識することが、病気にかかっている生体組織に対して、「植物薬」がどういう働きをするのかということを理解するためには必要になります。この外的自然を止揚するという視点はとても重要な観点で、人間は自然存在であると同時に、それに対抗する存在でもあるのだということを認識しておかないと、「自然にしていればそれでいいのだ」というような自然礼讃のような安易な視点に陥ってしまうことになるわけです。いたるところでこの外的な自然とは反対のプロセスに注意していただきたいのです。と申しますのも、このことに注意していただければ、皆さんは真実の人間をますます根本的に理解されるようになるからです。人間の重さを計っても、物理学的な研究方法にのっとった他の研究に対しては象徴的にこういう言いかたができます。人間の「一」そのものを理解することはできないのですが、次のようなことを考慮すれば、人間のメカニズムについてすぐさま何らかのことは理解できるのです。つまり、脳の重量は良く知られているように平均千三百グラムあるけれども、この重量で頭蓋の下半分の面が圧迫されることはない、なぜなら脳の自前の重量で圧迫されたなら、繊細な血管が拡がっている部分はすべて押しつぶされてしまうからといったことです。脳が自らの土台を圧迫している重さはせいぜい二十グラムです。これは、脳が脳水のなかに浮かんでいるという事実のために、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従って浮力を得ており、その結果脳の重量の大部分は作用せず、浮力によって止揚されているからです。ここにおいて重さが克服され、私たちが自らの生体組織の重量のなかではなく、重量の破棄のなかに、物理的な重量とは反対の力のなかに生きているということは、人間のその他のプロセスの場合も同様なのです。実際のところ私たちは自然現象(Physis)が私たちとともに作り出すものではなく、自然現象から止揚されたもののなかで生きているのです。さらに私たちは実際のところ、外的自然のなかにも存在していて、植物界においてその最終部分を体験するプロセスとして知覚されるようなプロセスのなかで生きているのでもなく、私たちは植物化を止揚することによって生きているのです。このことは、私たちが病気にかかっている人間の生体組織と植物薬との間に橋を架けようとすれば、当然本質的に問題となってくることです。
●4 植物化プロセスの下部における活性化
4.人間の上部と下部の相互関係において、上部の下部に対する反作用が少なすぎるため、植物化プロセスが下部において活性化する可能性
 羊を解剖すると、その腸内には、「腸菌群落」のためひどい腐敗臭がするのですが、鳥類の場合には、そうした腐敗臭はありません。その差異に注目することが重要な視点を示唆してくれます。鳥類の場合、膀胱と大腸がきわめて未発達であって、排泄物を蓄積したり、生体内にとどめたりしておいてから排泄するとかいうことはなされません。摂取と排泄との間に常に平衡状態が保たれているのです。こういうことは、いわばちょっとした短編小説風に叙述できるかもしれません。世界のすばらしい植物相(Flora)として私たちを取り囲んでいるものすべてに眼差しを向けると、私たちは当然のことながら歓びを、とても大きな歓びを感じると言えるのではないでしょうか。けれども、羊を解剖して、その解剖の直後に別の植物相(Flora)を目にするときはそうではありません。この(羊の体内の)別の植物相は、その発生原因という点でも、外部の植物相の発生原因と決定的に類似しているのですが、羊を死後に解剖して、この羊の内部のまったき腐敗臭がこちらに漂ってくるのを感じるとき、この腸内の植物相、すなわち腸菌群落(Darmflora)に対して私たちは歓びを感じるどころではありません。けれども、このことにこそ特に注目する必要があるのです。なぜならば、人間の外部の自然においては植物相を軌道にのせる原因であっても、それは人間においては克服されねばならず、腸内の腸菌群落が発生させられてはならないことは明白だからです。ここにはきわめて広範な研究領域が拡がっており、比較的お若い、勉学中の医学生の皆さんにお勧めしたいのですが、学位請求論文のためにこの領域から多くを役立てられるとよいのではないかと思います。とりわけさまざまな動物の形態、哺乳動物を経て人間にいたる形態における、腸形成の比較研究という領域からは得るところが多いと思います。この領域においては、きわめて重要なことがまだ数多く研究されないままなので、非常に実り豊かな分野が成立するでしょう。とりわけ、羊を解剖すると、その腸菌群落のためにひどい腐敗臭が発散されるのに、鳥類の場合は腐肉を食する鳥の場合でも腐敗臭はなく、解剖しても比較的心地よいとさえ言える匂いを発するのはなぜなのか、一度その隠れた事情を探究してみていただきたいのです。こういう事柄においては、まだ非常に多くのことが今日まで十分学問的に研究されておりません。この領域における腸の形態の研究についてはなおさらです。ちょっと考えてみて下さい。鳥類全体が、哺乳類との、そして人類との本質的な差異を示しているのです。鳥類の場合、例えばパリの医師メチュニコフ(☆2)のような唯物論的な医師たちは、まさにこういう事柄について最大の思い違いをしてきたわけですが、膀胱と大腸は、きわめて未発達なのです。鳥類が走禽類となるところでようやく、大腸の形態、および膀胱の形態におけるある種の膨隆(Ausbuchtungen)が見い出されます。こうして私たちに重要な事実が示されるのです。つまり、鳥においては、排泄物を蓄積したり、一定期間生体組織内にとどめたりしてからその排泄物を随意に排出するなどということはなく、摂取と排泄との間に持続的な平衡状態が成立しているということです。
原注2 Elias Metschnikoff/1845-1905 オデッサ大学で動物学教授、後にパリのパスツール研究所副所長。 病気になるのは、「菌」によってであるということがいわれますが、それはあくまでも「ひとつの指標」にすぎないのだということを認識する必要があります。そうではなくて、「菌」の土壌になっているあり方の観察こそが、病気の原因を究明するのは不可欠なことなのです。人間身体の上部と下部を構成する腸内、そして人間の生体組織全般に現れてくる植物相、さらには私たちがこれから見ていくように動物相のなかに、病気であることの原因のようなものを見るとしたら、それは表面的な見方でしょう。実際これはもう恐るべきことなのですが、今日病理学の文献を調べてみると各章ごとに新たに、この病気にはこの菌が、あの病気にはあの菌が発見された云々にぶつかるのです。これらはすべて、人間の生体組織の腸内植物学、腸内動物学にとっては非常に興味深い事実なのですが、病気にとっては、せいぜいひとつの指標という以上の意味を持ってはおりません。つまり何らかの病気の型が根底にあると、人間の生体組織においては、何らかの興味深い微小な動物あるいは微小な植物の形状がこの基盤のうえに発達する機会が提供されるけれども、そうでない場合はそれ以上のことは何もないと言える限りにおいての、指標にすぎないのです。この微小な動物相および植物相の発達が実際の病気に関与している程度は非常に低く、せいぜい間接的に関わっているだけです。と申しますのも、おわかりでしょうか。この今日の医学の内部で展開されている論理は、きわめて奇妙なものだからです。考えてもみて下さい、皆さんが、良く飼育されて見事な雌牛がたくさんいる土地を発見するとします。皆さんはそのとき、これらの雌牛がどうにかして飛び込んできたから、この土地が雌牛に感染されたから、私がここに見ているものはすべて見ての通りなのだ、などとおっしゃるでしょうか。たぶんそのようなことはほとんどお考えにならないでしょう。そうではなくて、この土地に勤勉な人たちがいるのはなぜか、何らかの動物の飼育に適した土壌がそこにあるのはなぜかを探究せざるをえないでしょう。要するに、皆さんはおそらく、良く飼育された雌牛がそこにいるということの原因となりうるすべてのことを、思考の拠り所とされることでしょう。けれども、ここで起こっていることは、この土地が、良く飼育された雌牛がやってくることによって感染されたからそうなったのだ、と言おうなどとはまさかお考えにならないでしょう。しかし、今日の医学が微生物その他に関して展開している論理はそうではないのです。この興味深い生きものが実在しているということから見て取れるのは、そこに肥沃な土壌があるという以上のことではなく、この土壌の観察こそ当然留意されてしかるべきものなのです。ただ、たとえば、この地方には良く飼育された雌牛がいる、これを何頭か譲ってやろう、そうしたらもっと勤勉になろうと奮起するひともいるだろうと言うとき、間接的にあれこれのことが起こる可能性はあります。これはむろん付随して起こりうることです。準備の行き届いた土壌が菌によって刺激され、土壌自体も何らかの病気のプロセスに陥ってしまうということは当然起こりうるのです。けれども実際のところ、この菌という生物の観察は、本来の病気というものの観察とはほとんど関係がないのです。健全な論理の養成ということに留意されているならば、このように他ならぬ公認された科学から発して健全な思考の荒廃を招くようなことはそもそも起こり得ないはずなのですが。人間の「上部」の反作用が少なすぎるために、「下部」における植物化プロセスが止揚されず、それが「下部」にいて活性化する可能性に目を向けなければなりません。「腸菌群落(*腸内植物相)」が活性化してしまうということです。考慮すべきことは、先日来その特徴をお話ししてきました人間における上部と下部のある種の関係が誘因となって、上部と下部との正しい相互関係が成立しない可能性もある、ということです。その結果、上部の人間の反作用が少なすぎることにより、植物化していく傾向を阻止されるべき植物プロセスと申しますか、そういう植物化プロセスを阻止することのできない力が、下部の人間において活性化する可能性があるのです。そうすると腸菌群落(腸内植物相)がおびただしくはびこる機会も与えられ、そしてこの腸菌群落は、まさに人間の下半身がしかるべきやりかたで働いていないということを示すものとなります。「下部」におけるプロセスが正常に起こることができない場合、そのプロセスは、「上部」へと押し戻されてしまうことになります。つまり、「上半身で起こりうることの多くは、下半身から押し戻されたプロセスに他ならない」というのです。現代の医学では、ある臓器での疾患に対しては、その臓器そのものを治療するという視点が基本なのではないでしょうか。肺の疾患はその担当の科があり、泌尿器や胃腸の疾患にはその担当の科があるように。
*ここでシュタイナーが提示している視点では、病気の「原因」へのアプローチによって、人間の臓器などを機械のようにとらえて、それぞれの故障を直すような視点が問題にされなければならないことを示唆しています。
 この講の最初に、現代医学が個々の症状への治療ということが一見して有効なようにみえても、それは病気の本質を明らかにすることなのではないということが述べられていましたが、そうしたあり方は機械としての臓器の故障を修理するような発想でしかないということです。もちろん、とりあえずは、現在故障している臓器を修理することは有効かもしれないのですが、それは今なぜそういう病気になっているのかを明らかにし、それを治療するという視点でないのは確かです。人間においては、下部の水準に従って起こるべき活動が下部で起こることができない場合は、せき止められて押し戻されるという特殊な事態が起こります。つまり、下半身において、この下半身に組織されている特定のプロセスが起こることができない場合、これらのプロセスは、押し戻されるのです。こういう言い方は素人臭いと思われるかたもおられるかもしれませんが、これは今日通用している病理学に少なからず見出される表現よりは科学的なのです。人間の下部において規定通りに起こるべきこれらのプロセスが上部へと押し戻されるわけですが、肺における排出や、肋膜その他のように上へ向かって置かれた部分における排出についても、その原因は、それが人間の下半身の正常あるいは異常な排泄プロセスといかに関連しているかを調べることによって追求されねばなりません。生体のこういうプロセスが下半身を通じて上半身に向かって押し戻されることを正確に見ていくことがきわめて重要です。上半身で起こりうることの多くは、下半身から押し戻されたプロセスに他ならないのです。上部人間と下部人間との間に正しい関係が成り立たないと、これらのプロセスは押し戻されるのです。
参照画像:alchemy



   第四講●解説 ■2・3・4 了

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最終更新日  2024年08月27日 06時25分14秒
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