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モーツァルトのオペラは不思議です。現在上演されているレパートリーオペラの中でも古い時代に生まれているのに、とてもモダン。《フィガロの結婚》や《コジ・ファン・トウッテ》はもちろんですが、古くさいジャンルとされる「オペラ・セリア」(神話や古代史などを題材にした伝統的なオペラ)でも、《イドメネオ》などは、普遍的なテーマである父と子の葛藤が鮮やかな音楽で描かれていて、ハッとさせられます。モーツァルト・オペラがモダンな演出でも受け入れられやすいのは、テーマと音楽の普遍性にあるように思うのです。 今月から、学習院さくらアカデミーのオンライン講座で、「モーツァルト 六大オペラの魅力」を開講します。取り上げる作品は、《イドメネオ》《後宮からの逃走》《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《コジ・ファン・トウッテ》《魔笛》。今回は作品の魅力に加え、時代背景(フランス革命前)にも焦点を当てたいと思います。映像ももちろん使用しますが、その際は演出にこだわってみたいと考えています。 講座の概要はこちらから。http://g-sakura-academy.jp/course/detail/2022/A/031/モーツアルト 6大オペラの魅力
May 7, 2022
今年早々に刊行されて「面白い!」と評判になっている、作曲家藤倉大さんの自伝、「どうしてこうなっちゃったか」を読みました。 確かに面白いです。語り口だけでもとても。これだけ「書ける」方はなかなかいない。自然に書いていても面白おかしくなってしまうのかも。才能ですね。 とはいえ、もちろん、なんと言っても中身が面白いわけで。 まず、現役の、それもまだまだ若い世代(40代)で、国際的に注目されている方の自伝というのがそもそも貴重です。その方が、これだけ「書ける」ということも含めて。この本で、そんな藤倉大さんの何がわかるか、というと、1 天才であるということ。 子供の頃、ピアノのお稽古をしていて、他人が描いた楽譜を弾くのがつまらなかった。必然性を感じなかった。自分で弾きたいように弾いたらピアノの先生から怒られた。それで自分で書いてみたら面白かった。曲を書きはじめたらどんどん音符が出てきた。それをピアノで弾いてみたら、いいじゃん!こんな音楽が弾きたかったんだよ! ということで、それを現在まで続けている。作曲最優先だから、教えることはほとんどしないし、コンクールの審査員もほとんど受けない。 才能は情熱の量である、とよく思うのですが、やはり天才というのはまず才能があって、それを情熱で生かすわけですね。当たり前なんでしょうけれど、そのことをこういうふうに自然に書ける方はなかなかいない。2 早くから外国に渡ったことがよかった。 藤倉さんは15歳でイギリスに渡り、現地の高校に入学。いらいイギリスが本拠です。 これは絶対によかったと思う。読んでいると、イギリスの学校はとにかく一芸に秀でていればいい。藤倉さんの場合、英語ができなくとも、音楽ができたからそれでOK。で、高校に入ると、その才能を活かして高校のPR?をするわけですね。何かの時に曲を書いたり演奏したり。そういうことで「この高校にはこんな生徒がいる」という宣伝になるし、優遇されるんです。 もちろん、これも才能があったから、なんですが、日本の学校に通っていたらとても無理。日本にいたらこれほど飛躍できなかったかも。 3 周囲にいる才能のある方達の描写が素晴らしい。 学生時代から作曲コンクールに応募し、また憧れの作曲家に作品をおくって認められたりしてキャリアを築いていった藤倉さん。彼の師や、憧れの作曲家たちも一流で、そういう方達の描写も抜群に面白い。あったこともないのに、作品を送ったらいろんなところに紹介してくれたエトヴェシュ。目をかけ、指導してくれたブーレーズ。そういう伝説の人たちがいかに頭がいいか(一を聞いて十を知ると言いますが、100、二百を知る方達なんでしょう)。魅力があるか。坂本龍一さんなんかも、超忙しいのに藤倉さんと会う時はいくらでも時間がある、というふうに振る舞うらしい。多分誰に対してもそうなんでしょう。すごいことです。4 「どうやって作曲家になるのか」がよくわかる。 などなど。 最高のそして絶妙の語り部が、なかなか知ることができない世界を教えてくれた一冊。ワクワクがいっぱいでした。「どうしてこうなっちゃったか」
April 12, 2022
上野で開催中の「東京・春・音楽祭」の目玉公演、ワーグナーの「ローエングリン」(演奏会形式)を鑑賞してきました(3月30日、東京文化会館大ホール) 「ローエングリン」は、ワーグナーのオペラのなかでもベッリーニの影響を1番感じるオペラ。ながーい旋律が典型です。長ーい旋律はワーグナーオペラによくありますが、本作の場合はとりわけ歌謡的。昨年、びわ湖ホールで「ローエングリン」を見た時にも感じました。今回のプログラムに、指揮のヤノフスキがそのことを書いていて、まさにまさに、でした。 今回、マエストロの言葉通りの演奏だったと思います。イタリア風のカンタービレ、オーケストラのあたたかさ、ライトモチーフがききとれること。すべて実現されていました。体温のワーグナー。そう感じたのはたぶん間違いではなかった、と。 ほんとにあたたかくリリカルな音楽で、オーケストラがとても繊細で美しく、ここちよいテンポで流れていく。ベッリーニ風の旋律を、オーケストラが歌います。ここが、歌は歌手にゆだねるこの時代のイタリアオペラと違うところですね。でもそのあたりがすごくわかりやすい演奏でした。強烈にもっていかれる、タイプの演奏ではないので、物足りない、これはワーグナーじゃない、と思う方もあるかもしれない。でも、間口が広くてとっつきやすい演奏のような気がします。第三幕のローエングリンの名乗りのシーンで、声を包み込むオーケストラのそれは美しかったこと! 白井圭さんがコンマスを務めるNHK交響楽団も、マエストロの音楽づくりに共鳴していて楽しそうでした。東京オペラシンガーズによる合唱も端正で美しい。 歌手陣も充実。テルラムントのエギルス・シルンズ、新国立劇場の「さまよえるオランダ人」に来られなかったぶんを埋め合わせてくれるような充実の歌唱。ぴしっとした発声と抜群の表現力、むらのない響き。相手役オルトルートを歌ったアンナ・マリア・キウリは元来がイタリアオペラのレパートリーで有名なドラマティック系のメゾで、昨年5月も新国立劇場で「ドン・カルロ」のエボリ公女を歌ったばかり。そのときは正直、本調子ではないのかと思ったりしたのですが、今回の方がずっとよかった。音域もあっていたのかもしれません。艶と色濃さのある声の魅力が十全に発揮されていました。歌手陣のなかで唯一、ラテン系の色合いなのも、異教の魔女という設定には相応しかったように思います。 エルザ役ヨハンニ・フォン・オオストラムは、しなやかでリリカルな声、やわらかな響きがお姫様にぴったり。第三幕の山場の二重唱では、追い詰められたエルザの不安がよく伝わりました。ローエングリン役ヴィンセント・ヴォルフシュタイナーは声は堂々と素晴らしく、甘さもあり、よく飛び、魅力的なのですが、ややあて歌いの傾向あり、フレーズが途切れがちでしたが、テクニックでカバーしていたのはさすがです。 ワーグナー的な声の饗宴、が楽しめたのは事実で、心地よい後味がのこりました。 会場には、ちょうど今日から始まる新国立劇場「ばらの騎士」で元帥夫人を歌うアンネッテ・ダッシュさんの姿も。ホワイエも活気があり、コロナ前の賑わいがかなり戻ってきたのも、嬉しい体験でした。
April 4, 2022
ヴェルディの「リゴレット」は、名作のわりに、作品が生きる上演が難しいオペラのような気がします。 一つの理由は、少なくとも一部のオペラファンには「暗い」と敬遠されがちなこと。ストーリーが救いようのない悲劇であり、音楽とドラマが連動しているためでしょうが、「辛くなってしまう」と言われたこともあります。「音楽はいいけど、話がね〜」という声を聞いたことも。 とはいえ、暗い話の割に、音楽は明るいんじゃないでしょうか。有名な「女心の歌」がいい例です。他にも、有名な「リゴレットの四重唱」にしろ、明るいといえば明るい。そういう意味では、話が暗い割に、暗い音楽ってほとんどないのです。話が暗くて音楽も暗い、と言ったら、ベルクの「ヴォツェック」なんて最たるもの。それに比べたら「リゴレット」は遥かに能天気?です。 もう一つ、「リゴレット」がもし息苦しさを感じさせるとしたら、緊張感に富んでいるところでしょうか。特に第2幕後半から第3幕にかけては一気呵成にドラマが進みます。巻き込まれてしまう。そして最後まで行ってみたらとんでもない悲劇なので、うわー、と思ってしまうのかもしれません。とはいえ、「リゴレット」はとてもヴェルディらしい作品です。屈折した、バリトンの主人公(ヴェルディのバリトン好みは有名です)。輝かしい旋律。ヴェルディ好みの父と娘の愛。コントラストに富んだドラマと人物。道化師リゴレットは愛に溢れた父(やや一方的ではありますが)と、人を笑わせるためにどぎついことも厭わない悪党の仮面の両方を見せなければなりません。女性的な「椿姫」はヴェルディの中では例外です。その「椿姫」がヴェルディオペラの中で一番人気なのは、ヴェルディアンとしては実はちょっと複雑な気持ちでもあるのです。 今回、幕間のインタビューで指揮のルスティオーニが、「ヴェルディは「リゴレット」が自分の作品の中で一番好きだと言っていた」と言っていたのを聞いて、ああそうだったと思い出したのですが、ヴェルディはたしか、「一番愛されるのは「椿姫」だろう」とも言っていたのです。さすがヴェルディ翁、自作のことをよくわかっていますね。要は、「リゴレット」という作品は、一部で思われているほど?暗くもないし、もっと音楽や「歌」として楽しめるオペラなのです。 先日、新国立劇場のシーズンラインナップ発表会があり、来年5月に「リゴレット」が新制作されることが発表されたのですが、その時大野和士芸術監督が「ベルカントシリーズの流れで「リゴレット」を取り上げる」と言っていました。つまり「リゴレット」は、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニらの「ベルカント」オペラの延長線上にあると。なるほど、と思ったのですが、「リゴレット」は暗くてドラマティックなオペラ、と思い込んでいると、「え、ベルカントオペラなの?」と不思議に思うかもしれません。でも、確かに、歌の魅力とベルカントのテクニックを備えたオペラでもあるのです。 今、METライブビューイングで上映されている「リゴレット」は、この作品のベルカント的な面とドラマティックな面の両方を堪能できる、極めて優れた上演です。歌手も指揮も、「ベルカント」的な面をよく弁えていますし、時代を1920年代のドイツに設定した演出も、人物の輪郭をよくよく掘り下げて、共感の持てるものにしています。 音楽的な功績の第一は、指揮のダニエレ・ルスティオーニにあると思います。マリオッティ、バッティストーニと共に、イタリア人若手指揮者「三羽烏」として日本でも注目されている俊英。すでにロイヤルオペラやMETの常連であり、フランスのリヨン歌劇場の首席指揮者を務めるなど大活躍です。幕間のインタビューにも登場してくれましたが、これがまたすごく良かった。ヴェルディはもう18作指揮しているとのことですが、自分にとって「オペラの父」であると。楽譜を見ていると「ヴェルディが夜中、部屋の中を歩き回りながら作曲している姿が思い浮かぶ」そうです(そう、ヴェルディはピアノもほとんど使わないで頭の中で作曲していたんですよ。彼の家に行くと書斎があって、その様子が想像できる)。重要なのは「パローラ・シェニカ palora scenica (「演劇的なセリフ」といった意味合い)」を発明したということ。そして「一つ一つの音に色がある」という話もあり、そこまで読めるというのはさすがだと思いました。そして前述の「「リゴレット」はヴェルディ最愛の作品。そんな傑作をMETで振れるのは幸せ」と。 それを聞いて、ルスティオーニの音楽づくりの理由も少しわかった気がしました。確かに一つ一つの音に色があり、表情がある。音楽が全体的に柔らかくしなやかで、色合いが豊かで(ヴェルディのシンプルな音楽から「色」を引き出すのは誰にでもできることではない。ヴェルディの音楽が「色彩的」だと思える指揮者はそんなにいないと思います)リズムは弾力に富み、劇的な場面でもピタッと「歌」につけている。要は、ベルカント的なのです。ルスティオーニはペーザロのロッシーニフェスティバルでも活躍していて、ベルカントオペラもよく知っている。さすがです。 歌手たちも、ベルカントの基礎があり、テクニックが高水準なので、がなったりあて歌いしたりということが一切なく、極めてレベルが高い。そしてやはり本作のベルカント的な、滑らかで自然な歌の美しさ、というものを、劇的なシーンであっても十二分に引き出してくれていたと思います。 前から評判になっていたジルダ役のローザ・フェオラは、イタリアで最も注目されるリリックソプラノの一人。コロラトゥーラなどの超絶技巧が得意なことでも知られます。しっとりとした深みのある音色、滑らかなレガート、澄んで情感豊かな高音。美しい弱音と凛とした響き。演劇的には、女性として自立しかかっているジルダの自負心と愛をはっきりと表現していました。 絶好調だったのは公爵役のピョートル・ベチャワ。インタビューでも語っていましたし、私も彼から直接聞いたことがありますが、そもそもMETデビューがこの役(2006年)。それから16年経って、役柄もかなりスピント系にシフトしてきて、今リリカルなこの役はどうかな?とちょっと思っていたのですが、予想はいい方に見事に外れました。やや厚みを増して豊かになった声は一方で軽快さもベルカントの技術も失わず(彼も随分ベルカントのレパートリーを歌いました)、明るさも輝かしさもあり、高音も豊かに張れて(「女心の歌」の最高音も!)まさに今この役、歌いざかりではないか!とまで思わせてくれました。大歌手ですね。素晴らしいの一言です。 フェオラとベチャワによる第1幕の愛の二重唱では、前半の最後でカデンツァがかなり長ーく歌われて(こんなに長いカデンツァを(映像とはいえ)舞台で聴いたのは初めて)まさにベルカントオペラの醍醐味を堪能できました。 ベチャワ、インタビューでは「この役を歌うのは楽しい」と語っており、本当に楽しんで歌っている様子がよくわかりました。マントヴア公爵って、悪人といえばそうなんですが、天然なので憎めないんです。本当に天然だと思う。同じプレイボーイでも、そこがドンジョヴァンニとは違うし、もっと弱いキャラのピンカートンとも違う。イタリアの、明るいドンジョヴァンニですね。 リゴレット役のクイン・ケルシーは、悩める善人のリゴレット。大袈裟になることなく、悩みと葛藤を歌と演技にのせていました。語りがうまいバリトンです。 特筆すべきはスパラフチーレ役のアンドレア・マストローニで、びろうどのようなソフトさと響きの良さを兼ね備え、特に低音の柔らかな鳴りは絶品。第1幕のリゴレットとの二重唱の最後の低音には、思わず拍手が飛んでいました。 バートレット・シャーの演出は、舞台を1920年代、ヴァイマール共和国時代のドイツに設定。ベルリン国立歌劇場との共同政策であることから思いついたらしいのですが、要はファシズム前夜の、専制政治の予感のある時代にしたかったということのよう。舞台はとても美しい。回転舞台を活用して大装置を作り、公爵の館やリゴレットの家やスパラフチーレの酒場を回転させて見せます。この装置を活用してドラマの間隙を見せることも度々あり、第2幕でジルダが公爵の寝室に入る前に夜着を着せられるところなども視覚化していました。うーん、よくわかる。 面白かったのは女性キャラクターがみんな活発で、自立していること。ジルダは「少女」から「女」へ脱皮する、自我を発揮する過程という位置づけで、父リゴレットに従順なだけではない女性です。マッダレーナもとても積極的。そして傑作だったのは、第1幕で公爵に口説かれるチェプラーノ伯爵夫人。なんと夫婦仲は最悪で、公爵に口説かれると嬉々とし、夫を拒むのです。最高!爆笑! そんなコミカルなシーンがあるおかげで、悲劇の色彩が強調されず、展開を楽しむことができました。 幕間のインタビューもとても充実し、新制作とあって演出家も、ゲルブ総裁との対談という形で登場。普段ライブビューイングではなかなかインタビューに出てくれない指揮者も、今回は前述のようによく話してくれ、主役3人も装置や衣装のデザイナーも出て、みんなして作品やら演出やらのことを語ってくれたので、作品のことや今回のコンセプトがとてもよくわかりました。bravi tutti!インタビュー見るだけでももう1回行きたいくらいです。 そういえばルスティオーニは、いっとき二期会の招聘で日本でプッチーニオペラを振ったりしていて、その頃はバッティストーニが二期会でヴェルディを振っていたのですが、今はバッティストーニは二期会でもっぱらプッチーニなので、今度はルスティオーニに日本でヴェルディを振ってほしいなあ。ルスティオーニが今のリヨンのポストを得たのも、「シモン・ボッカネグラ」の指揮が素晴らしかったからだと、彼の前のリヨンのシェフである大野和士さんが言ってました。二期会さんどうでしょう?あ、勿論新国立劇場でも。 それにしてもこのプロダクション、現地で見たかったな。 「リゴレット」、今週木曜日までですが、東劇では来月7日まで上演です。本気で、もう1回行きたいと目論んでいます。 METライブビューイング「リゴレット」
March 21, 2022
明日、命が終わっても悔いはない。 昨日、新国立劇場で「椿姫」の公演を聴きながら、ふとそう思いました。 なぜって、これほど美しい音楽にたくさん満たされてきた人生だから。 それがどれほど幸せなことだったか、その思いを噛みしめずにはいられなかったのです。 普段から、「いつ死んでも悔いはない」と思っていることは確かです。いえ、自分の人生が100点満点だと思っているわけじゃないし、これからやりたいこともたくさんあります。自分にとっての本当の夢を成就させるのはこれからだとも思っています。けれどもし、明日命が終わると言われても、受け入れることはできると思う。次の人生もあるし(と思ってます。輪廻転生)。たくさん幸せな思いをさせてもらえたから。そしてその大半は「音楽」がくれたものでした。音楽に出会えて本当に幸せです。 その思いが、「椿姫」を聴きながら、何度も胸をよぎったのです。 もちろん、ロシアのウクライナ侵攻という異常な事態が心にあったことは確かです。そして今回指揮をとったユルケヴィッチ氏はウクライナの出身。現在はモルドバの劇場でポストを持っているので、そちらに帰るようですが、どれほど辛い思いをなさっているかつい想像してしまいます。けれど「音楽」と共にある間は、それに没頭できる。「音楽」を、キャストの皆さんと、客席と、共有できる。これが奇跡でなくてなんでしょうか。 公演の水準はもちろん高かったです。主役の中村恵理さんは、本来の声は繊細でやや華奢、高音域に煌めきがあり、声だけとればベルカント的なヴィオレッタですが、プッチーニなどで培った劇的表現力が素晴らしい。そういう点では第2幕以降が見せ場。第3幕は圧巻でした。他の登場人物が背景に退いている演出(ブサール演出)なので、中村さんの一人舞台。「さようなら、過ぎた日よ」のアリアは絶唱でした。第2番ではまさに渾身の力を振り絞った歌唱。ヴィオレッタの絶望がひしひしと伝わり、目頭が熱くなりました。 (中村さんの繊細でキラキラした「声」自体の魅力が生きるのは、例えば「リゴレット」のジルダ役だと思うのですが、ご自身はこの役に興味を持たれていないようで、個人的には残念です) 収穫は2人の外国人キャスト。アルフレード役のイタリア人マッテオ・デソーレは甘く明るく豊かな、これぞリリックテノール!の声。声に余裕があり、まっすぐに飛ぶ響きは役柄にもぴったりです。キャリアを見ると、すでにヨーロッパ各地の劇場で歌っているよう。今回きてくれた事は僥倖です。 ジェルモン役のゲジム・ミシュケタもよく響く美声で、とても「人のいい」ジェルモン役を好演。キャラクターの描き方が明確で、公演の輪郭が明瞭になりました。「プロヴァンスの海と陸」では美声を堂々とひっぱり、客席を沸かせていました。 ユルケヴィッチの指揮も、「オペラ職人」として大変好感が持てるもの。極端な事はしませんが(例えば昨年秋にサントリーホールで「椿姫」を指揮したルイゾッティのように大胆にルバートをかけたりはしない)、スコアを知り尽くし、その場その場の情景を丁寧に伝えて、誰が何をしているか、どう感じているかを的確に描きます。第2幕で、ジェルモンが登場する場面の、威圧的な歩み。ヴィオレッタの手紙を受け取ったアルフレードの、不安にかき乱された震え。そして「手紙の場」のクラリネットの、切々と漂う悲しい音色…あの部分のクラリネットがこれほど表情豊かに聴こえたのは、初めてかもしれません。巧い!その場面で、アルフレードが後ろからヴィオレッタに近づいて彼女を抱く。恋人たちが共有した「しんとした時間」。「愛」を感じました。その演出も、指揮あってこそ。今、新国立劇場のSNSなどでこの場面の写真が流れていますが、今回の公演の白眉だったかもしれません。 ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、何度かオペラを見ているわけですが、昨日の「椿姫」ほど心に残る公演はありませんでした。マエストロがウクライナ人であることはもちろんですが、やはり作品も素晴らしいのだと思う。 カーテンコールは熱かった。温かかった。主役たちへの拍手。そしてマエストロへの拍手には、客席の「私たちはウクライナと共にある」という気持ちがこもっていたと思います。反応に感激し、涙を拭うマエストロの姿がありました。劇場の方の話によると、初日には、ウクライナカラーのポケットチーフをした方も何人も見えたそう。みなさん、思い思いに、気持ちを形にしているのですね。 会場には募金箱がありました。ちょっとわかりにくい場所で残念。もっと堂々と出していただいてもいいように思います。 公演は後三回あります。まだの方、ぜひお越しください。 新国立劇場「椿姫」
March 14, 2022
METライブビューイング、今シーズンの3作目は「シンデレラ」。フランスの作曲家マスネのオペラ「サンドリヨン(=フランス語でシンデレラ)」の、英語訳短縮ヴァージョンです。MET はファミリー向けに、年末年始などの「ホリデーシーズン」に、「魔笛」のような家族向けのオペラを短縮英語版にして上演しており、今回は「シンデレラ」が選ばれたというわけ。現地での収録は、今年の元日でした。 ME T版「シンデレラ」、よくできてます。マスネの「サンドリヨン」は2018年にMETで今回と同じロラン・ペリ演出のプロダクションで上演されており(確かMET初演)、とても良かったのですが、今回は舞台のおしゃれなテイストはそのままに、内容をぎゅっと圧縮し(上演時間は1時間半なので「サンドリヨン」のほぼ半分)、わかりやすくしていました。これなら誰でも楽しめます。 元々の「サンドリヨン」、ストーリーはもちろんペローの有名な童話が原作のメルヘンオペラですが、フランスオペラならではの特徴が満載のオペラでもあります。歌だけでなく、いろんな要素があるんですね。フランスオペラには欠かせないバレエ、スペクタクル、バロック時代からの伝統である「眠りの場」を思わせる幻想的な場面(サンドリヨン=シンデレラ、が森に迷い込み、幻想の中で王子と巡り逢う)などなど。バレエの部分での伴奏など、オーケストラ部分もとても充実しています。結果、ファンタスティックですが、長いという面はある。 同じ「シンデレラ」の原作による、ロッシーニの「チェネレントラ」というオペラがあるのですが、こちらはずいぶんテイストが違います。とにかく歌、歌、歌。「決めどころ」は全て歌。バレエはもちろんないし、魔法使いも出てこないし(イタリアオペラって、あんまり幽霊とか幻想とかないんですね)、ガラスの靴は、舞台で足を見せてはいけない、ので腕輪になっています。ロッシーニ作品とマスネ作品を見比べると、フランスオペラとイタリアオペラの違いがよくわかる。 あと、マスネ作品の特徴は、主役の二人(と、シンデレラのお父さんのパンドルフ)がメランコリックだということです。二人とも不幸。シンデレラは言わずもがなですが、「チャーミング」という名前の王子も、地位はありながら愛する人がいないために不幸、という設定。その不幸な二人が出会って幸せになる。胸キュンです。 今回の「シンデレラ」は、前に触れたようにフランスオペラの「METファミリー仕様」。「サンドリヨン」の脇筋的なところをほぼカットしました。その結果、夢の場や、サンドリヨンが家出するシーン、舞踏会から数ヶ月経って春が訪れるシーンなど、ファンタジックで美しいシーンのいくつかがカットされています。 展開もグッとスピーディになりました。王子がガラスの靴を持って訪れるのは、「サンドリヨン」だと舞踏会の数ヶ月後ですが、「シンデレラ」だと翌日。ストーリー的にはこちらの方がわかりやすい。でもキャラクターはしっかり描き分けられていて、感心しました。誰の編曲なのか知りたいのですが、、、。 ペリ演出の舞台は、とても素敵です。おしゃれです。フレンチテイストってこれ!?と頷きたくなります。後ろと左右の壁は、ペローの童話をイメージした「本」のページ。そこから次々と登場人物が出てくる。物語の中から人物が飛び出してくるように。 秀逸なのが衣装、特に舞踏会の場面の花嫁候補の女性たちの衣装です。ペリは衣装も自分でデザインするそうなのですが、まずカラーを赤に統一。赤と言ってもいろんなグラデーションがあるのですが。そして一人一人とても個性的なデザイン。鶏のようなドレスもあれば、ピエロのようなドレスもあれば、プリンセスのようなドレスもあるという具合。その女性たちが赤い絨毯の上を王子めがけて歩いて行くのは、ファッションショーのようです。 舞踏会の場面にはもちろんダンスもあり、そこでは同じ赤で、また別のテイストのドレスのダンサーたちも混じって軽快な踊りが繰り広げられます。そしてその高揚を鎮めるかのように、白いドレス姿のシンデレラが登場するのです。素晴らしく効果的な場面です。まさに運命の出会いが演出されています。 2018年の「サンドリヨン」の時は、主役の二人はベテランの部類に入るジョイス・ディドナートとアリス・クートで、それもとてもよかったのですが、今回は若い美女二人が主役。これはこれでぴたりときて、特にオペラ初心者にはうってつけだと思いました。 シンデレラ役のイザベル・レナードはMETの看板の一人の美人メッゾ、翳りのあるしなやかな美声はとても表情が豊か。王子役エミリー・ダンジェロは逸材!長身の美人、表情も豊か、そして声が素晴らしい。よく響き、コントロールも自在で、どの音域でもムラがありません。何より、心を打つ声です。これから大活躍するのではないでしょうか。特に「ばらの騎士」のオクタヴィアンなどはピッタリで、オファーが殺到しそうです(もうしているのかもしれませんが)。 この二人の魅力的なメッゾ(主役二人がメッゾというのも珍しい。バロックオペラでもないのに。。。)が、辛い時期を経て、出会い、恋に落ち、引き離され、そして最後に再会する。そのラストシーンはとても感動的で、思わずうるうるしてしまいました。 シンデレラのお父さんで、妻に尻に敷かれる伯爵を演じるロラン・ナウリや、怖い継母役のステファニー・ブライズは「サンドリヨン」と同じキャスティング。どちらもハマり役。情けなくて優しいお父さんと、図々しく尊大なお母さん、声も演技もどんぴしゃりでした。 指揮は演出のペリと同じフランス人のエマニュエル・ヴィヨーム。生き生きと弾けるサウンド、豊かな色彩感、流麗なメロディ、弾むリズム。生命力に満ちたマスネの音楽が、ピットからイキイキと溢れ出ていました。 今回は休憩がない上演なのですが、終演後に主役の二人がインタビューに登場し、会場にいる子どもたちからの質問を受けていました。「オペラの魅力は?」という質問に。「全てがあること。音楽も、お芝居も、美術も、全てが揃っているのがオペラ」だと。総合芸術。そして「皆で作り上げていくのは素晴らしい」とも。 こんな時だからこそ、無条件で心が明るくなるオペラも必要。そう思いました。時間が短いのも身体的に楽です。 「シンデレラ」、10日まで上映中です。 シンデレラ
March 8, 2022
今回は、アントネッロという団体の、ヘンデル「ジューリオ・チェーザレ」の感想を書きたいと思います。 「アントネッロ」は、リコーダーと指揮の濱田芳通さんが主催する団体で、とても独創性の高いステージで知られます。昨年の暮れも、アドリブも豊かで劇的なヘンデル「メサイア」が話題になりました。 今回の「ジューリオ・チェーザレ」は、ヘンデルの一番人気のオペラ。タイトルロールはあのローマ将軍シーザーで、オペラの主軸はシーザーとクレオパトラが出会って結ばれるまでです。 と言っても、バロックオペラというのは、色んな意味ではちゃめちゃです。 ストーリーが史実とずれているのは当然だし(まあバロックオペラだけではありませんが)、音楽も、歌も楽器も即興に任せられる部分が大きいので、とても自由。とはいえ、当時の「ルール」を知らないと、「即興」することはできません。あくまで、当時の演奏習慣(即興や装飾を含めて)や楽器のことなどいろいろな知識がないと、ふさわしい「遊び」はできない。とても高度なはちゃめちゃなのです。 そして何より、うまい歌手、うまい奏者が揃わないと、面白くありません。 今回の「ジューリオ・チェーザレ」、とてもユニークで、でも筋が通って、遊び心満載で、とことんオリジナルな公演でした。アントネッロでしかできない「チェーザレ」であり、歌手も楽器奏者も十分実力があり、つまりはどこに出しても恥ずかしくない公演だったと思います。ヨーロッパでやっても受けるのではないでしょうか。 濱田さんのスタンスは、このオペラは「最高のコミックオペラ」。確かに。バロックオペラというのはそういうところがあるのですが、バロックオペラの最高傑作の一つである「ジューリオ」には、それを突き詰めた部分があるかもしれません。シリアスとコメディは表裏、紙一重。そうやってみると、それぞれの人物の幅がとても豊かになります。みな、表裏がある。例えば侍女や軍人といった使用人たちは、主君に不満タラタラだったりするわけです。 でも、多分、そんな人間的な演出は、このオペラに向いている。バロックオペラって、多分とても猥雑なものだったから。劇場も社交場だったし、観客も遊びに来ていたわけですから。そして本当に劇場自体が猥雑な場所だったと思う。 アントネッロ版「チェーザレ」(演出は中村敬一氏)は、その辺をユーモラスに切り取ります。このオペラは3幕なのですが、今回はそれを2幕構成にし(ですので、カットはかなりあります。全曲やると4時間超ですから仕方のないところ)、1幕の終わりに、三人の使用人たちの寸劇を置いて、本音を吐かせる場面を作りました。酒を飲みながら不満タラタラ、そして、オペラ初演当時のイングランドの様子やヘンデル自身のことも含めて、状況を笑い飛ばす。抱腹絶倒とはこのことです。 また、ヘンデルに扮したダンサー(聖和笙さん)が、序曲をはじめ要の部分で登場し、ヘンデルの本意?を時々伝えていたのも面白かった。他のキャストはローマ風の衣装なのに、彼だけかつらとバロック衣装。踊るのはバロックの宮廷舞踏風ダンス。視覚的にもスパイスです。 キャストも目を見張る充実。歌に演技に、伸びやかに個性を発揮していました。日本人にはコメディは難しいのでは、と思っていたのですが、演出と音楽の力もあるのでしょうか。 まず光っていたのが、実質的な主役であるクレオパトラ役の中山美紀さん。この役はアリアも名曲が目白押しで、いろいろな表情が求められるのですが、音楽が求めるまま、時に愛らしく、時に大胆に奔放に、チャーミングに歌い演じて客席を魅了していました。まろやかな声、高音域の美しさは特筆ものです。 流石の貫禄、は侍女ニレーノ役の弥勒忠史さん。声は通りの良さも含めて圧倒的。演技も舞台を支配してしまう力があります。もっと聴きたい、というのは贅沢な悩みでしょうか。 抜群のスター性を感じたのは、アキッラ役黒田ゆう(すみません変換できません)貴さん。話題の新人バリトン、スターバリトン黒田博さんの息子さんでもあります。何より舞台映えがする(長身のイケメン)。そして表情が豊か。客席からはっきり見える表情の豊かさ。天性のものでしょうか。すごい武器ですね。声も張りのある美声で、これからどんどん人気が出てくることでしょう(兵庫芸文の「メリー・ウィドー」ダニロも良かった)。 トロメーオ役中嶋俊晴さんもスモーキーでまろやかな美声、悪役の演技も堂にいったもの。コルネーリア役田中展子さんには品格と女性らしい魅力があり、セスト役小沼俊太郎さんも若々しくフレッシュな声が役柄にピタリ。チェーザレ役坂下忠弘さんはノーブルな英雄でした。クーリオ役松井永太郎さんも安定の美声。 一つ不満だったのは、チェーザレやセストはカウンターテナーかメゾゾプラノで聴きたかったな、ということ。声域的には問題がないのでしょうが、これらの役がバリトンやテノールだと、役柄の非日常性が薄れてしまう気がしました。わたし自身がそういう配役で聴き慣れているせいかもしれませんが。 アントネッロの音楽は、グルーヴが効いて刺激的。ノリノリです。ロックかジャズか、本当に新しくて新鮮。飛び入りのパーカッションもアドリブ満載で、それこそ一歩間違えれば悪ふざけですが、バロックオペラは多分それでいい。だからこそ、今復活して、いろんな演奏や演出が試みられ、それを受け入れる幅があるのだと思うのです。ヘンデルだって、普通の?演出なんてほとんど見たことがありません。けれど、はまっている率は高い。それが、幅があると思う理由です。 大道具としては、舞台前面に数段設けられた階段と、背後、パイプオルガンを中心に映し出された映像が主役。映像はとても効果的でしたし、最初や最後などにハノーヴァー朝(ヘンデルが仕えたゲオルク1世=ジョージ1世の家)の紋章が投影されたのも面白く見ました。 ここでしか見られないオペラ。それを成功させた意義は、とても大きいと思います。それもまた、アントネッロのこれまでの蓄積と、バロックオペラの近年の復活の延長線上にあるものですが、びわ湖の「パルジファル」同様、この舞台が日本で実現したことは快挙です。
March 7, 2022
マニアックな話題ばかりで恐縮ですが、先週、今週と、日本のオペラ界にとって注目すべき公演が続いています。 決して有名どころとはいえず、日本での上演も多いとはいえない作品、けれど「名作」と言えるオペラで、全て日本人キャストを配し、レベルの高い、おそらく欧米の良い劇場の公演に決して見劣りしない公演が相次いでいるのです。 藤沢市民オペラの「ナブッコ」のことは前回書きましたが、今回はびわ湖ホールの「パルジファル」、そして次回は、アント ネッロという団体の「ジューリオ・チェーザレ」について書きたいと思います。 まずはびわ湖の「パルジファル」から。大津市のびわ湖ホールは、大中小3つのホールを擁する関西屈指の劇場です。京都から電車で10分、大津駅からはちょっと距離がありますが、湖畔にあるため眺望が素晴らしい。ホールの湖側には湖に沿ったプロムナードがあり、コンサートの前後や休憩時間に散歩もできます。何より、大ホールと中ホールの湖側はガラス張りで、湖の絶景が堪能できるというわけ。このように自然に溶け込んだ立地のホールは、世界でも数少ないのではないでしょうか。名ソプラノの故ミレッラ・フレーニが、ボローニャ歌劇場の来日公演でこのホールに客演した時、母国イタリアに持って帰りたいと言ったのは有名な話です。 大ホールには、関西初の「四面舞台」があり、つまり舞台が座席並みに広い。オペラが上演できることを目的にしたからなのですが、1998年の開館以来、オペラはびわ湖ホールの看板です。その中でも大掛かりなのが「プロデュースオペラ」で、初代芸術監督の故若杉弘先生時代は、ヴェルディのオペラの日本初演を9作行いました。2007年に沼尻竜典氏が2代目の芸術監督になってからは、同じく「プロデュースオペラ」でいろいろな演目を取り上げてきましたが、ここ10年近くはワーグナーの大作オペラを連続上演。「ニーベルングの指環」四部作も完遂しました。その最後の演目である「神々の黄昏」は、コロナ禍でイベント中止令が出た時、まさに公演直前。最終的に無観客上演でストリーミング配信し、大きな話題になったのは記憶に新しいところです。その功績で「菊池寛賞」まで受賞してしまいました。沼尻マエストロは、「無観客上演でストリーミングをしたということに対してで、公演の出来じゃないんですよ」とおっしゃいますが、(取材のため現地で拝見することができましたが)いえいえ、公演の出来栄えも立派なものだったと思います。 今年は、今月の3、6日と二回にわたって、ワーグナーの最後のオペラである「パルジファル」を上演。「キリスト教と芸術」がからむテーマもなかなか難解ですし、音楽も、寄せては返す波のように延々と続いて、メリハリがないといえばないので、正直、テーマ、音楽とも「分かりやすい」とは言い難い。音楽は、ワーグナーに疎くても、身を委ねていれば「心地よい」ものではありますが、「タンホイザー」のような分かりやすい作品より、上演しづらいことは確かでしょう。 びわ湖ホールにとっても、「パルジファル」は冒険だったと思います。けれど今回も、近年のワーグナー上演同様、とても聴きごたえのある舞台でした。コロナ禍以降、リスクを避けることもあってセミステージ上演になってしまい、また合唱団がマスクをつけるなどマイナス要素を強いられていますが、それでも見る価値、聴く価値のある舞台を創り出していることは掛け値なしに素晴らしいと思います。 何より目を見張ったのは、オール日本人キャストで「パルジファル」が十二分に堪能できる、ということでした。これが一時代前なら、日本人にワーグナーなんて無理、という声もあったはず(今でもあるようですが)。 けれどびわ湖ホールの貴重なところは、(若杉先生時代もそうだったのですが)、基本的にオール日本人キャストであるということです。(ワーグナーの大作に、外国人が1人とか入ることはありますが)。そしてこれはカンパニー上演でなく、劇場主催の公演の強みですが、カンパニーの縛りなくキャスティングができるということ。びわ湖では、沼尻マエストロがこだわってキャスティングをしている。その中で歌手の方達が経験を積んで、また近年日本でもワーグナー上演は増えていますから、それも経験して、着実に前進してきたのだと思います。それを痛感した「パルジファル」の公演でした。 今回のキャストでまず光ったのは、クンドリ役の田崎尚美さん。新国立劇場「さまよえるオランダ人」でも好演したばかりですが、本当に日本人離れした、厚みと輝きのある声の持ち主。クンドリという正体不明の女性の魔性も滲み出るようで、ドイツ語の発語も自然に聞こえました。容貌も日本人離れしています。 タイトルロールのパルジファルは、びわ湖のヒーロー、福井敬さん。やはり「うまさ」が光ります。ちょっと当てて歌っているようなところもあるのですが、技術でカバーできるので不自然に感じない。何より、ヒロイックな表現は「無垢の英雄」パルジファルにぴったりです。 超熱演は、要の役グルネマンツの斉木健詞さん。輝かしいバスの声と彫りの深い表現。内面的な役ですが、特に第3幕の、パルジファルとの再会以降の敬虔さと使命感に満ちた部分は素晴らしかった。アムフォルタス役の青山貴さんも、罪に苦しむ難しい役どころに全霊をささげていたと思います。 悪役クリングゾルの友清崇さんには悪役らしい華があり、アムフォルタスの父、ティトウレルの妻屋秀和さんは短い出番にもかかわらず抜群の存在感。ティトウレルの身勝手な「悪」の面が見えてしまうのは、「黄昏」の悪役ハーゲンでの熱演を思い出させました。小さな役といえば、「聖杯の騎士」というちょい役に、スターテノールの西村悟さんが出ていてびっくり。贅沢です。 沼尻マエストロ指揮する京都市交響楽団は、「銀の音楽」をなめらかに繊細に奏でました。「パルジファル」は、いわゆるライトモティフが「リング」などに比べるとずっと少なく、その分主要なテーマが繰り返されて、ある意味非常にサブリミナル効果的な(麻薬的。。。)な音楽だと思うのですが、このような自然な流れだと、くどさが和らいで聴きやすい。 演出は伊香修吾さん。オーケストラを中央に、ソリストは前面、合唱は背後の階段状の高台に配置。背後からオーケストラの中に向かって通路が延びます。肝は舞台後方に投影された映像で、森や飛ぶ鳥、光といった自然の情景と音楽との一体感が光っていました。最後の最後で茂みがひらけて光が差す部分では、「パルジファル」が「癒し」の音楽かもしれない(本当にそうかどうかは軽々とは判断できないですが)、という気分になることができました。 繰り返しですが、兎にも角にも「パルジファル」という難しいオペラを、キリスト教国でもなければワーグナー演奏の歴史が長いわけでもない日本で、日本人キャストで、十二分な水準で上演できたことは素晴らしいこと。これも、びわ湖でのワーグナー演奏の継続がものを言っていることは間違いありません。 継続は力なり。言い古された言葉ですが、真実です。
March 7, 2022
藤沢市民オペラが上演した、ヴェルディの「ナブッコ」を観劇してきました。 2020年に上演される予定だったものが、コロナ禍で延期されていた公演です。「ナブッコ」はヴェルディの3作目のオペラで、最初の成功作であると同時に、名声を決定的にした重要なオペラです。初期ヴェルディの多くの作品に共通する特徴として合唱が重要で、市民オペラである以上市民の方々の合唱団なので、やはりなかなか上演に踏み切れなかったのですね。このたび実現が叶い、キャストの方々をはじめ、関係者の皆さまのお喜びはどれほどかとお察しします。 本当に素晴らしい上演でしたから、ご苦労は実ったのではないでしょうか。 「ナブッコ」というオペラ、ヴェルディ作品の中ではかなり人気が高く、特にイタリアでは、「第二の国歌」と言われる有名な合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」があることもあり、良く上演されるオペラですが、なかなか難しい(いつもいい上演になるとは限らない)部分のある作品です。旧約聖書の、アッシリアの暴君王ネブカドネザルがユダヤ人を連行した「バビロン虜囚」のエピソードに基づいた、聖書物語+オペラというオラトリオ風な作品なので、ストーリーはやや「場面」重視で整合性に欠け、展開は時に唐突。演出するのがなかなか難しいのです。あってないような演出、いや、正直なところ何もしていない(ように思える)演出も珍しくありません。「行け、我が想いよ」が囚われのユダヤ人の合唱なので、時代を現代に近づけて、この合唱をナチに迫害されたユダヤ人の合唱にしてみたりとか。これから、ナチの代わりにプーチンが登場する演出が出てきそうですが。。。音楽も、若きヴェルディの勢いある才能が漲る作品ながら非常にシンプルなので、演奏次第では野暮になりかねません。また、パワフル(なように感じられる)でまっすぐな分、強い声で歌われるとかっこいい(と感じられる)ので、強い声の歌手が起用されることが多い作品です。けれど「ナブッコ」が初演された1842年という時代は、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニと来ている「ベルカント」の余韻がまだ残っている時代。「ナブッコ」の主役たち、特にアビガイッレという悪役ヒロインにはベルカント的な装飾歌唱が求められており、力でグイグイ押すタイプの歌手だと、装飾歌唱が本当に当て歌いになってしまって美しくない。それより何より、装飾歌唱がきちんと歌えていなかったりする。初演でアビガイッレを歌ったジュゼッピーナ・ストレッポーニはベルカント的な美質を持った歌手だと伝えられており、ヴェルディが彼女の声を全く無視して書いたとは思えないので(もっとも、調子を崩していた彼女にはこの役は合わなかったようですが)、力で歌い切るより、ややソフトな声であってもベルカント的な面をきちんと歌える歌手の方が合っているのではないか、と前々から思っていました。 そういう歌手が全くいないわけではないのですが、全てのキャストをそういうタイプで揃えるのが難しそう、というのが、イタリアを中心に「ナブッコ」を何度も見てきた感想です。1、二人はベルカント的なタイプの歌手が一人、あるいは二人三人いても、全部がそう、というケースにはなかなかお目にかかれない。考えてみれば今はロッシーニ・ルネッサンスの結果ベルカント歌手は豊作で、揃えられないことはないと思うのですが。。。オーケストラも、ただキレがよく力強いリズムを強調してぐいぐい押すだけではつまらない。もっと歌って!もっと繊細に!と言いたくなる演奏が時々あります。「ナブッコ」はまだまだベルカントなのですから。とはいえ、「ナブッコ」のオーケストラに関しては、指揮者次第でかなり素晴らしい演奏に遭遇できます。今やベルカント中心に大活躍のリッカルド・フリッツァを初めてきいて震え上がったのもジェノヴァの「ナブッコ」でしたし(2004年)、ミケーレ・マリオッティを初めてきいて吹っ飛んだ(失礼!)のもパルマの「ナブッコ」でした(伝説の名演らしい。2010年)。マリオッティは2013年にボローニャで聴いた「ナブッコ」も素晴らしかった。彼らの演奏に共通するのは(もちろん個性は違いますが)、歌心、繊細さ、思い切りの良さなどなどでしょうか。マリオッティが振った「序曲」なんか、地の底から湧き上がってくるような勢いと、軽やかさが同居した絶妙の音楽でした。ちなみにあのバッティストーニの日本デビューが二期会の「ナブッコ」で、これまたみんな吹っ飛んで語り草になったのは、ご存知の方もあるでしょう。話がそれました。藤沢市民オペラは、1973年に遡る市民オペラの老舗。日本は市民オペラ、区民オペラのレベルが高いのですが、藤沢はその象徴と言ってもいいでしょう。2018年から、日本を代表するオペラ指揮者として期待され、特にイタリアオペラに強い園田隆一郎さんが、音楽監督を務めています。園田さんは「ロッシーニの神様」アルベルト・ゼッダの薫陶も受け、ロッシーニやベルカントにも強い指揮者として知られています。その園田さんが「ナブッコ」を振る。期待しないではいられません。果たして、期待以上の演奏でした。とにかく方向性が明らかで、スタイルが徹底していた。それが、ヴェルディの音楽をきちんと読み込んだ結果だったのは、いうまでもありません。ヴェルディ、特に初期のヴェルディのオペラは、繰り返しですがシンプルで強い音楽だという印象があります。それは決して間違いではないのですが、楽譜にはデュナーミクが細かく指定されていて、特に弱音が多いのです。単に勢いのいい音楽なのではなくて、繊細な表情のある、人間味のある音楽なのです。園田マエストロは、そこをきちんと押さえていました。ていねいで細やかな音楽作り、特に弱音の(弱音の多さは、客席にいたら気付いたはず)表情の豊かさ。なめらかなレガートとふくよかなフレージング。シンプルな音楽の行間に潜む歌心と細やかなドラマ。そういうものをきちんと再現し、伝えてくれていたのです。特にオペラの(おそらく)本当の主題である父と娘の葛藤の部分は、とても美しかった。初期ヴェルディは粗野でも荒削りでもない。ロッシーニの影響(アンサンブルフィナーレなど)もきちんと見せながら、その中から立ち上がる、これぞ初期ヴェルディと言えるユニゾンの音楽の面白さも伝えてくれる。イタリアでも是非この路線でやってほしい、そう思える、一貫した美学のある音楽でした。藤沢市民交響楽団も、マエストロの指示によくついて行っていたと思います。特に、これもヴェルディの魅力と言える低弦の充実ぶりは際立っていました。藤沢市合唱連盟の合唱も美しく劇的な響きで健闘していましたが、マスクでの歌唱だったのが(致し方ないとはいえ)残念でした。歌手陣は充実の一言。主役から脇役まで隙がなく、名前のある人が揃って豪華(オーデションをやって選ばれたのですが、日本を代表する面々ばかりなのです)。しかも、いわゆる大声歌唱で吠える方が全くおらず、かなりベルカント的な方向性で統一されているという、理想的な布陣でした。イタリアでなく日本でこれが実現されたことに、大きな驚きと喜びを覚えないではいられません。園田マエストロの解釈も大いに影響しているのではないかと思います。本当に指揮者って重要!タイトルロールの須藤慎吾さん、美しく表情豊かなバリトンの声、豊かな響き、よくコントロールされた弱音。今回の演出(出色。後述)では、ナブッコは初めから狂っている設定なのですが、「いっちゃっている」演技力も抜群です。最後に正気に近づいた王も、堂々たるものでした。アビガイッレ中村真紀さん。初めて聴かせていただきましたが、とても柔らかくシルクのような手触りのある声。それほど強さはないのですが、個人的にはこれでもいいというかかなり好みです。アビガイッレは決して猛々しい女性ではなく、傷ついた弱い女性なのですから。。。技術的な傷は皆無ではなかったですが、装飾歌唱は高いレベルでこなしていらして好感が持てました。最後の死のシーンも熱演で、客席からは啜り泣きの声も。アビガイッレの死のシーンで啜り泣く声を聞いたなんて初めてです。これも演出の勝利。フェネーナ中島郁子さんは、素晴らしくコントロールされた彫りの深い声で、落ち着いた大人の女性フェネーナに忘れがたい輪郭を与え、イズマエーレ役清水徹太郎さんは素晴らしくリリカルで甘く、よく通りながらスタイル感のある声で、これまた忘れがたいイズマエーレを造形。決して大役とはいえないイズマエーレがここまで印象的だった「ナブッコ」の舞台は初めてです。ベルの祭司長杉尾真吾さんの若々しく張りのあるスタイリッシュなバスも聞き応え満点で、アンナ役谷明美さんも美しく表情のある声で存在感たっぷり、アブダッロ役平尾啓さんも好演。ザッカーリア役のジョン・ハオさんは声が飛ぶまでにちょっと時間がかかりましたが、エンジンがかかってからは格調と威厳のあるバスで、キーロールとも言えるこの役に存在感を与えていました。このキャスティング、脇役まで本当に第一線で活躍している方々ばかりなのです。どこへ出しても恥ずかしくない、と言いたくなるレベル。 そして今回の上演を類稀なる舞台へと押し上げたのが、岩田達宗さんの演出です。 上に書いたように、「ナブッコ」の演出というのはおざなり(に見える)ものが多い。ほぼ突っ立っているだけ、というプロダクションも少なくありません。 岩田さんはまさに行間からドラマを立ち上げました。これほど動きの多い「ナブッコ」の舞台は見たことがありません。登場人物は台本通りに、おざなりに唐突に登場するのではなくて、必然があってその場にいます。ナブッコは最初から狂人で、突然狂ったわけではありません。だからこそ、娘の命の危機に直面して正気を取り戻す成り行きに説得力が出てくるのです。フェネーナは終幕になって突然、処刑台に向かう姿を現すのではなく、第3幕からすでに皆と引き裂かれて牢獄へ連れ去られます。だから最後に処刑台へ向かう場面もつながるのです。みな、必要な時は舞台にいて、自分の歌がない場面でも演技をしている。最後は正気に返ったナブッコをはじめ、対立していた一同が同じ方向を見るのです。後悔し、不幸で、死を選んだけれどおそらく救われるアビガイッレとともに。それは感動的な場面でした。対立から融和へ。 実は、最後の合唱「偉大なるエホバ」は、「ナブッコ」初演の時にアンコールされた合唱です。初演の時に「行け、我が想いよ」がアンコールされて熱狂を巻き起こした、という有名な伝説はフィクション。(それをここに書いている余裕はありませんが、ご興味のある方は拙著『ヴェルディ』(平凡社新書)をご参照いただければ幸いです)。で、確かに、「偉大なるエホバ」は感動的な曲だ!と今回思い知らされたのでした。ロシアのウクライナ侵攻という野蛮な行為が行われてしまったこの時にこの「ナブッコ」が上演されたことは、ほとんど奇跡です。コロナによる延期は、天啓だったのかも知れません。「ナブッコ」は人類の原点。演出の岩田さんは、プログラムにそう書かれています。なぜか知りたい方は、ぜひ公演にお運びください。今週の週末も公演があります。藤沢市民オペラ「ナブッコ」
February 28, 2022
ポストコロナの新シーズンで、意欲的な新基軸を次々と打ち出しているNYのメトロポリタンオペラ。 シーズンオープニングを飾り、先日日本でも上映されたブランチャードの「Fire shut up in my bones」も感動的な作品でしたが、31歳の作曲家マシュー・オーコインが2020年に発表し、今回MET初演が実現した「エウリディーチェ」も、奥の深い、衝撃的な作品でした。 タイトルが示す通り、作品の下敷きはギリシャ神話の「オルフェウス」。楽人オルフェウスが、結婚の日に死んでしまった新妻エウリディーチェを取り戻しに地獄へ行き、地獄の神々を音楽で説得して妻を取り戻すものの、地上へ出るまで妻を振り返ってはいけないという命に背いて振り返ってしまい、妻を喪う物語です。 「音楽の力」を暗示する内容のため、オペラのごく初期から、繰り返し作曲されてきた作品としても有名です。当初は宮廷オペラでしたが、19世紀にはオッフェンバックがオペレッタ「天国と地獄(地獄のオルフェ)」として、神話をパロディ化。ラブラブのはずが夫婦はすでに倦怠期で、オルフェウスは妻が死んで喜んだものの、「世論」に背中を押されて地獄へ行くなど、当時の世相を皮肉ったものとして大人気を博しました。 そして今回、21世紀の「オルフェウス」オペラが誕生したわけですが、これがとても新鮮で、考えさせられ、刺激的な作品だったのです。 タイトルを「エウリディーチェ」にしたことからもわかるように、本作の主人公は妻のエウリディーチェです。彼女はオペラの中で成長?し、自己発見に至るのです。これまでの「オルフェウス」オペラでは、成長したりする主人公はオルフェウス。エウリディーチェにはほとんどなんの役割も与えられていません。オルフェウスを引き立てる?だけです。ここでは死んで冥界に行き、亡くなった父と再会したことで、エウリディーチェはオルフェウスの真の姿(エゴイスティックな芸術家)に気づき、父との時間の大切さに目覚めて、いざ夫が迎えにきて、地上に出る途中で彼が振り向いたら、ここを千度と冥界に戻ってしまうのです。 「オルフェウス」像もなかなか強烈です。彼の、芸術家としてのエゴが徹底的に描かれるのです。彼が愛しているのは音楽だけ。それを通した自分だけ。エウリディーチェは、実は眼中になかったりする。これ、男性にも、芸術家にも、相当に厳しい内容なのでは? そんな複雑なオルフェウスを表現するために、オーコインは卓抜はアイデアを思いつきました。一役を二人が演じる。実際の?オルフェウスはバリトンが歌うのですが、彼の中に渦巻く「音楽」の象徴のような役割として、第二のオルフェウス(カウンターテナー)が常に付き纏います。背中には天使のように羽が生えている、というあんばいです。この役を演じたオルリンスキーというカウンターテナー、ブレイクダンスの名手でもあり、美形!タレント性抜群でした。 地獄ではゾンビのような石像が活躍し、冥界の王ハデスはベルカントテノール。浮世離れした設定は、「あの世」にぴったり。 そんな不気味な環境で、死んだ父と出会ったエウリディーチェは、父への愛に目覚めてしまう。 最後はそれも満たされることなく、主役たちはそれぞれが大きな「喪失」を経験します。作品が書かれたのはコロナ前ですが、コロナを経て「喪失」は全人類共通のテーマになりました。 もしそれを承知の上でMETが本作を上演したとしたら、さすがの慧眼です、ピーター・ゲルブ総裁。 音楽はミニマルミュージックなど基本的にはモダンですが、あちこちにオペラの歴史を研究した形跡が。ベルカントオペラの影響はかなり強く、オペラらしい音楽の弧を「聴く」楽しみも味合わせてくれます。 原作は、オペラ以前に成立していた戯曲だとのことで、その原作を書いた女性劇作家サラ・ルールがオペラの台本も手がけました。女性だからこそ、の視点というのはあるでしょう。 演出も有名な女流演出家のメアリー・ジマーマン。ダイナミックでアイディアに溢れた装置は、METの「ルチア」などでお馴染みですが、今回も音楽と一体化して展開が速く、カラフルでダイナミック。「次に何が起こるのか?」と聴衆の興味を繋いでいく演出だったように感じます。 歌手ではまず、タイトルロールのエリン・モーリーが素晴らしい。透明な質感のあるしなやかな声、鈴を鳴らすような美しい音色、ムラのない響きと自在な超絶技巧。演技も説得力があり、引きつけられます。父親役ネイサン・バーグの渋いバリトン、ハデス役バリー・バンクスの痛快な高音、オルフフェオ役ジョシュア・ホプキンスの「危ない人」的な声と演技、皆どんぴしゃりの配役でした。 ライブビューイングの司会に、しばらく前までメトロポリタンオペラのスターとして一世を風靡し、この司会役でも大活躍したルネ・フレミングが復活し、さすがの頭の良さで、キャストインタビューの時にいい質問を連発していたのが嬉しかった。 「エウリディーチェ」、24日まで。東劇のみ3日まで。新生MET、本当にやってくれます。 Metライブビューイング
February 21, 2022
楽しみにしていた、「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」の「ドン・ジョヴァンニ」に行ってきました。バリトン歌手の宮本益光さんが主催し、ピアノ伴奏で、モーツァルトのオペラ全曲の演奏にチャレンジしている団体です。オペラ上演と言っても、全曲のエッセンスを取り出したハイライト版を、ナレーションつきで上演するので、肩は凝らない。それでいて「演出」は、(装置こそシンプルですが)たっぷり施されていて、宮本さんの世界観が浮かび上がります。 今回の「ドン・ジョヴァンニ」の印象を一言でいえば「愛と死の迷路」。装置?らしい装置は天井から下がるリボンだけで、このリボンは登場人物たちにもまとわりついて関係性を暗示します。縛られたり、むすびつけられたり、断ち切られたり。最後の最後で、その関係性の中心にいたのはドン・ジョヴァンニであり、登場人物は皆、ジョヴァンニとのそれぞれの関係性を生きていることがわかる仕掛けです。その中で誰もが迷う。迷っていないのは(リボンには纏わりつかれますが)、ドン・ジョヴァンニだけです。宮本演出にはつきもののダンサーが、微妙な感情や立場を視覚化します。「ドン・ジョヴァンニのセレナード」1曲のために、マンドリン奏者の青山涼さんを招いたのは究極の贅沢でした。ピアノは石野真穂さん。 宮本ドン・ジョヴァンニは唯一無二の域。宮本さん、この役や、「金閣寺」の溝口のようなデモーニッシュな役では「取り憑かれた」「いっちゃっている」人物になりきります。よく響くキャラクタリスティックな声もピッタリ。引き摺り込まれます。 文屋小百合さんの華麗で悲劇的でそれでいて喜劇的なエルヴィーラ、針生美智子さんの生真面目でこれも悲劇的なドンナ・アンナ、若々しくこれもまじめな近藤圭さんのマゼット、チャーミングで清冽な色気のある三井清夏さんのツェルリーナ、コメディ役者!の味わい豊かな原田圭さんのレポレッロ、堂々と品格のある伊藤純さんの騎士長など、キャストも多士済々。ドン・オッターヴィオが日本を代表するテノールの一人望月哲也さんで、しかも(ハイライト版ということもあり)普通なら2曲のアリアが1曲しかなかったのですが、そのアリアの場面では望月さんを舞台上から「日本を代表するテノール」と紹介して、ショーのようにしてしまうなど憎い配慮も。オッターヴィオって、歌はいいけど役はイマイチですもんねえ。確かに望月さんには勿体無いかもしれません。 長谷川初範さんのナレーションがまたいいのです。宮本ワールドの解釈を、けれん味たっぷりに卓抜に、時にユーモアを交えながら。ナレーションがあるのでハイライトでも話が通るし、楽しく、わかりやすいステージになる。 最後の最後で、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニが客席から登場して全員を結びつけます。「全てを回しているのはこの俺だ」というファルスタッフのセリフが聞こえてきそうでしたが、このセリフ、ドン・ジョヴァンニにもピッタリだと思いました。ただ彼自身は口には出さないでしょうけど。出したら野暮ですもの。笑。モーツァルト・シンガーズ・ジャパン ホームページはこちら。モーツアルトシンガーズジャパン
February 19, 2022
80代の現役名エッセイスト、関容子先生の最新作「銀座で逢ったひと」。 関先生は雑誌記者からエッセイストに転身され、主に文学者や俳優の聞き書きエッセイで、エッセイストクラブ賞、講談社エッセイ賞、読売文学賞など数々の賞を受賞された名手です。最新刊は、「銀座百点」に連載されたエッセイ「銀座で逢ったひと」をまとめたもの。文士から歌舞伎役者、俳優、落語家、画家、音楽家まで(音楽家は岩城裕之さんと五十嵐喜芳さん)37名の著名人との交流が、南伸坊さんの雰囲気のある似顔絵と共に紹介されています。直接お話ししたことがないので、あくまでご本からの印象ですが、関先生はとてもチャーミングな方のようです。知的で好奇心に富んでいて、「人」への興味が深く、温かい。(でなければ交友録で本はできないし、丸谷才一から中村勘三郎、池部良から古今亭志ん朝まで、錚々たるメンバーが心を開くはずがありません。究極の「聞き上手」なんだと思います。人を上手に慕う方なんですね。爪の垢を煎じたい。そして、「人」からたくさん学ばれる。丸谷才一さんからは、「文章はテクニックの問題ではなく、生き方の姿勢」ということを、井上ひさしさんからは、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書く」ことを学ばれたという。全くその通りで、これにはただただ頷いてしまいました。 この本の大きな魅力は、人と人との交流の手触りでしょう。相手の雰囲気、空気感、その人との間に紡がれた時間を、滑らかですが「はっ」とさせる文章で綴ります。その背景がまた華やか。文壇バー、帝国ホテルでの出版パーティ…まさに、古き良き時代。 最近読んだあるベストセラー作家の作家指南の本に、「長者番付の上位には、一滴もお飲まない作家が大勢いる」「文壇バーは、出版社のお金で飲みたい作家の行く場所」「出版パーティは、自費出版するお偉いさんのもの」とあって、確かにそうだよな〜とこれも頷いていたところ。正直、そういう時代になりつつあるので、この御本を読んで、「文士」の時代の空気を思い出したのでした。 関先生の聞き上手の出発点は、51歳の若さで亡くなられてしまったお兄様との関係にあるようです。小さい頃、お兄様が、夜寝る前に色々な話を聞かせてくれて、それがとても楽しく、お兄様にとっても妹の反応が良くて張り合いがあったよう。「思えばこれはインタビューの極意で、興味を示して話し手を励ますこと、感謝と敬愛を惜しまず話すこと。そうすればもっと素敵な話が聞ける、ということを、私はここで学んだのかも知れなかった」。 素晴らしい。 関先生は、このお兄様のことを一度きちんと書きたい、と思っていらしたそうなのです。それをこの本で「ようやく果たすことができました」。 お兄様、あちら側で、さぞお喜びのことでしょうね。 本の詳細はこちら。 銀座で逢ったひと
February 19, 2022
オペラは時代の鏡。 そう、言い続けています。「椿姫」(あの時代のパリの独特な風俗と自然主義)だって「蝶々夫人」(ジャポニスム)だって、あの時代だからこそ生まれた作品。同時に、音楽の素晴らしさとテーマに潜む普遍性ゆえに、定着し、定番となった作品です。 今、METライブビューイングで上映されている、テレンス・ブランチャードのオペラ「Fire shut up in my bones」は、まさに今だからこそ生まれた、「時代の鏡」たるオペラの代表格となりえる作品、だと思いました。 本作、そしてこの上演が「時代の鏡」である理由はたくさんあります。作品それ自体ももちろんそうですし(詳しくは後述)、上演自体も、です。そもそも本作は2019年にセントルイスオペラで世界初演され、METでは2023年に上演予定でした。それが、コロナ禍でMETが1年半の閉鎖を強いられている間に、総裁のゲルブ氏らが、METの方針転換を模索。定番の演目をスター歌手を揃えて豪華に、という、オーソドックスなMETの上演形態に手を入れ、新作を増やし、名作は異稿(例えば「ドン・カルロス」のフランス語5幕版など)や短縮版の上演など、一捻りきかせたものを積極的に取り入れることにしたのです。結果、「Fire」の上演が繰り上がり、METが再開した2021ー22シーズンのオープニング演目になったというわけ。ブランチャードは黒人作曲家でもあるので、このところのBLMの影響もあるのでしょう。まあそれ以前に、映画音楽の大家であり、有名なジャズトランペッターだというだけで十分に新基軸なのですが。 そのブランチャード、開演前のインタビューに登場して、「オペラを書かないかと言われた時はびっくりした」とエピソードを披露。でも両親はオペラ好きで、父親はアマチュアのオペラ歌手だったそう。本作はブランチャードの2作目のオペラだそうです。 本作がMETに選ばれたのは、テーマの今日性もあるのでしょう。原作は、NYタイムスで活躍する黒人人気コラムニストの自伝で、幼い頃年上の従兄から受けた性暴力のトラウマを克服する物語。出演者は全員黒人です。底辺の黒人社会を描いた点では、「ポーギーとベス」に通じます。とてもアメリカ的。一方で、性暴力や自分探しといったテーマはとても今日的。そして最終的には、母子の「愛」という普遍的なテーマが現れるのです。まさに、今のアメリカだから生まれた作品といえましょう。 ブランチャードの音楽はとても心地の良いもの。美しい、持って帰れるメロディもあるし(ヴェルディもプッチーニもモーツァルトもワーグナーも「持って帰れるメロディ」を作れる作曲家でした)、ジャズやゴスペルもたっぷり盛り込まれて、オペラ風のメロディと溶け合います。ピットから湧いてくるジャズのメロディがたまらない。主人公が弱さを克服しようと?黒人の社交クラブ(体育会みたいなところですね)に入るシーンでは、特有のダンス音楽が大盤振る舞いされる。多種多様で聞き飽きません。まさに七色の音楽。アメリカだからこそ生まれた音楽。 ケイシー・レモンズの台本も、よくできていると思います。基本は歌語りですが、繰り返しを多用するミュージカルやオペラのナンバー風の歌の部分もある。現在大学生である主人公が、少年時代を回顧するスタイルですが、彼に寄り添い、心を代弁する「運命」や「孤独」といった寓意的人物も登場します(恋人役のグレタと合わせて、エンジェル・ブルーが一人三役)。そのような形で、彼の心の葛藤を表現するのです。主人公の1番の葛藤は、少年時代に母から愛されなかった(と感じていた)ことで、当時の母の状況(ろくでもない亭主に苦労し、五人の子供を育てるのでいっぱい)を考えれば致し方のないことなのですが、それが最後の最後に満たされることで、主人公は汚れた記憶から訣別できる仕掛けになっています。憎いですね。 アメリカの現在の黒人社会や、南部の保守的な感覚(いわゆる昔ながらの「オトコ」社会。インテリの主人公には、それは生きにくい社会でしょう)も描写されていて、「ポーギーとベス」の時代から続いているものと、変わったもの、両方を感じることができました。主人公は大学に入って、勉学でもスポーツでも実力を発揮し、優秀だと認められている。それは「ポーギーとベス」の時代にはなかったことなのではないかと思います。 歌手陣も熱演でレベル高し。とりわけ、主人公の母ビリーを歌ったラトニア・ムーアは、これ以上ないほど適役。彼女は(録音ですが)「アイーダ」や、ライブビューイングで「マーニー」なども聴きましたが、オペラの歌唱としては、どうしてもスタイル感が足りない。ゴスペルなど、元々の基礎が影響してしまうのかと感じていました。それが今回はドンピシャリ(本人もインタビューで語っていましたが)。ダメ男に振り回されてもたくましく生きる情の濃い女性を、自由に生き生きと歌っていました。 一人3役のエンジェル・ブルーは声も姿も美しく、まさに主人公のエンジェル。主人公チャールズ役のバリトン、ウィル・リバーマンも明るくよく通る声、深い表現力で惹きつけます。 カーテンコールでひときわ拍手が多かったのが、チャールズの子供時代を演じたウォルター・ラッセル3世。ミュージカルスターとしてすでに活躍中とのことで、孤独感に苛まれる少年の造形には天性のものを感じました。 カーテンコールの熱狂は凄まじく、アメリカ人が、今のアメリカだからこそ創られたオペラの誕生を目撃した興奮が伝わってきました。オペラの定番になる可能性が十二分にある、心を打つ作品だと思います。上映は2月3日まで。迷っている方もそうでない方も、ぜひ。一見の価値のある作品です。Met ライブビューイング 「Fire shut up in my bones」
January 31, 2022
劇場の規模も公演の水準も、世界屈指の歌劇場の一つであるニューヨークのメトロポリタン歌劇場の名物企画、「METライブビューイング」。 そのシーズンの最新の公演を、ネット中継で同時に、あるいは数週間遅れくらいて映画館で上映する形態です。 今でこそこのような形態はかなりポピュラーになりましたが、当初は冒険でしたし、何より新鮮でした。オペラ映像といえばDVDが一般的な時代で(今でもDVDはありますが)、DVD化されるものはどんなに早くても数ヶ月前の公演。「METライブビューイング」のようにほぼ同時進行、というケースは初めてだったからです。 2006年の配信開始以来、毎年のように配信する国や映画館の数が増え、オペラの新しい楽しみ方としてすっかり定着しました。 が、2020年春以来のコロナ禍で、メトロポリタン歌劇場も1年半にわたって閉館。ライブビューイングも休止を強いられました。 昨年9月、ようやく歌劇場が再開し、「ライブビューイング」もこの1月から配信が開始されました。休館している間に、メトロポリタン歌劇場はかなり公演の内容を見直し、新鮮なラインナップで再出発しています。 どこが変わったのか。 これまでメトロポリタン歌劇場といえば、人気演目にスター歌手、伝統的な美しい舞台という、よくいえば王道的な、悪く?いえば保守的な公演が売りでした。けれど、いつまでもそれでは先細りです。芸術にはやはり新作が必要だし、ボーダーレス、ジェンダーフリー、そしてミネアポリスでのジョージ・フロイド死亡事件に端を発した反人種差別デモなど、激変する世界に合わせた価値観も必要。そのような観点から、新作(ME T初演)を増やし、また名作のオリジナル版や、家族で親しめる英語短縮版など、さまざまな工夫を凝らしました。その結果、今シーズンのライブビューイング10作のうち3作がMET初演、2作が有名作のレアなヴァージョン、1作が短縮英語版という、バラエティに富んだラインナップが誕生したのです。 先日、ライブビューイング第1作として上映された、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」をみてきました。16世紀末〜17世紀初めの、ロシアの動乱時代に実在した皇帝ボリスを主人公にした歴史大作です。 原作はプーシキンの劇詩。ムソルグスキーはこの作品に惚れ込み、自ら台本も書きました。 今回上映されたのは、普段はあまり上演されない「オリジナル版」。これははじめに作曲され、「帝室歌劇場」に提出されましたが、劇場から突き返され、上演が叶わなかったものです。女性の役柄が極端に少ないなど、オペラとして異例すぎたらしい。ムソルグスキーは友人たちの意見を聞いて手を加え、3年かけて改訂版を準備しました。初演に漕ぎ着けられたのは改訂版で、現在でも改訂版の方が上演の機会が多くなっています。メトロポリタン歌劇場でも、前回(2010−11シーズン)上演されたのは改訂版でした。今回は、上演の機会がまれな、お蔵入りになったオリジナル版が上演(上映)されたのです。 とても面白かった。個人的には、オリジナル版の方がドラマが凝縮されていると感じました。上演時間も、改訂版の3時間余に比べて、オリジナル版は2時間ちょっと、その分密度が濃くなっています。 物語は、幼い王子を暗殺して帝位についたボリスが良心の呵責に苛まれ、また殺された王子になりかわった「偽王子」が出現し、モスクワに攻め上るに及んで、狂死してしまうというもの。改訂版は、偽王子の軍勢がモスクワに攻め上るところまでを追いますが、オリジナル版はボリスの死で終わります。改訂版はより歴史大河ドラマの色が濃く、オリジナル版は心理劇。罪の意識に苛まれて死に至るのは、シェイクスピアの、そしてそれに基づいたヴェルディのオペラ「マクベス」に似ています。ムソルグスキーもヴェルディも、自分が殺した王や忠臣や王子の亡霊に怯える権力者の不安や慄きを、鋭い音楽で表現しました。一方、「ボリス」の改訂版では、「ロシアの民衆」の愚かさがより細かく、ダイナミックに描かれています。こちらは、サンクトペテルブルクで初演されて大きな反響を呼んだ、ヴェルディの「運命の力」に近い。歴史大河ドラマです。ムソルグススキーは「ロシアのヴェルディ」のようだと思うことがありますが、今回、その思いを再確認しました。 メトロポリタン歌劇場の美点の一つは、どの演目にもその作品に向いたレベルの高いキャストが配されることですが、今回も例外ではありませんでした。 まずは主役ボリスを歌ったドイツの名バス、ルネ・パーペ。ボリス役はバスの至高の役柄の一つで、パーペも重要なレパートリーにしていますが、罪を犯したボリスの内面の弱さ、怯え、苦しみの克明な表現は、現役バスの中でも屈指ではないでしょうか。良心の呵責に、「偽王子」出現の恐怖(そんなはずはないと思いつつ、本当に生きていたかもしれない???という恐怖)。子供たちを残して死ななければならない無念さ。深く陰影に富んだ声と凄絶なまでの表現力で複雑な感情を伝えきる力量は、見事としか言いようがありません。 他のキャストも充実。ボリスの罪を書き留めている老僧ピーメンに、ドイツのこれも名バス、アイン・アンガー。格調のある美声は、正義感に富んだ老僧にピタリ。一癖も二癖もある貴族シュイスキーを演じたテノール、マキシム・パステルの妖怪ぶりもお見事。「偽王子」を名乗る若い僧グリゴリー役のデヴィット・パット・フィリップは、やや小心な等身大の小悪党を肌で感じさせてくれる巧演でした。 スティーヴン・ワズワースの演出は、権力の象徴である玉座を舞台の中心におき、「神の意志」の体現である聖愚者に重要な役割を持たせます。ボリスが心に抱く罪の意識を、聖愚者が外から指摘し、明確にするのです。 各人に与えられた演技が細かいのも、ワズワース演出の特徴。前半で重要な役割を演じる民衆たちの合唱も、一人一人の演技、表情が豊かです。政治に振り回される人々の慟哭や強かさや諦めといったさまざまな感情が、雄弁な演技を通じて視覚化されていたと思います。ロシア語オペラということもあり、日本では、ロシアの歌劇場の来日公演以外はなかなか上演の機会に恵まれない「ボリス」。映画館での鑑賞は、カメラワークを通して作品の細部がわかることも利点です。今回は特に、前回のライブビューイングで体験した改訂版と見比べられた点でも、発見が多く、感動的な体験となりました。残念ながら明日までなのですが、上映の情報を以下に貼り付けます。もしお時間があれば、ぜひ。 METライブビューイング「ボリス・ゴドウノフ」
January 26, 2022
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 早速ですが、新年の講演会のお知らせです。 所属している日本ヴェルディ協会では、指揮者の沼尻竜典さんをお招きして、新春講演会を行います。 ご存知の方も多いと思いますが、沼尻さんは日本を代表する指揮者のお一人で、近年は特にオペラでのご活躍が際立つマエストロ。2007年に、びわ湖ホールの芸術監督を初代の若杉弘さんから受け継ぎ、オペラ公演を中心に、ホールの知名度を高めてきました。 特に、「びわ湖ホールプロデュースオペラ」において、ワーグナーのメジャーなオペラを次々と上演。関西におけるワーグナー上演のメッカとなり、最近はチケットも即日完売になる人気ぶり。「ニーベルングの指環」も大人気を博しましたが、2020年3月、「指環」の最後を飾る「神々の黄昏」がコロナ禍で上演中止に追い込まれた際に、急遽無観客上演&ストリーミング配信になり、世界的な話題になったのは記憶に新しいところです(この公演で菊池寛賞を受賞)。 とはいえ、沼尻マエストロの活躍はワーグナーだけではなく、ツェムリンスキーの「こびと」のようなマイナーな作品、名作ながら上演の少ない「ドン・パスクワーレ」から、「椿姫」「ボエーム」のような超メジャー作品まで指揮。関西、そして日本のオペラ界を常に活気づけてきました。 今回はその沼尻マエストロをお招きし、びわ湖ホールで上演されてきたオペラ公演について、裏話も含めてお話を伺います。対面のみで配信はありませんが、その分、濃密なお話が聞けるかもしれません。お話の合間には得意のピアノも披露していただく予定です。沼尻竜典講演会
January 13, 2022
2021年も、あと2時間足らず。コロナに翻弄されつつ、仕事もそれなりにこなし、プライベートの荒波ともなんとか付き合ってきた1年でした。 今日は今年最後のコンサート、ミューザ川崎のジルベスターコンサートにお邪魔してきました。 注目の若手三人をソリストに迎えての協奏曲コンサート。牛田智大さん(ピアノ)、吉村妃鞠さん(ヴァイオリン)、佐藤晴真さん(チェロ)の3名です。指揮は秋山和慶マエストロ、オケは東京交響楽団。完売御礼、大入り袋が出ていました。ミューザでは初めて遭遇した大入り袋(よく出ているみたいですが、、、汗)、なんだか大晦日に得した気分です。 丁寧に音楽を作り込み、表現の幅を際立たせる牛田さん、内面から沸々と湧き上がる「音楽」を形にする、巫女のような才能に溢れた吉村さん(10歳!)、繊細さと高度なテクニック、歌心と鮮やかな高音域の表現力を持つ佐藤さん、それぞれの個性を堪能しました。 聴きながら、いくら大晦日とはいえ、10−20歳ちょっとという若さのアーティストたちの協奏曲コンサートがこれほど盛況だったことに、今年のクラシック音楽界の一面を見る思いでした。 一つは、世代交代。日本人が2位と4位を得たショパンコンクールが好例ですし、今年前半だとエリザベート王妃国際コンクールでも、日本人アーティストが大活躍。若手アーティストの存在感が、かつてなく高まった1年だと感じています。 そしてアーティストのあり方も、様変わりしました。 これもショパンコンクールが好例ですが、特定の先生について、地道に努力を重ねる、というパターンが薄れ、「かていん」こと角野隼斗さんに代表されるような、発信力で自分の力を高めていくタイプが増えたこと。2位に入賞した反田恭平さんもそうでしょう。先生の言うことを聞くのではなく、自分の意思、自分が何をしたいか、どうなりたいかを考え、自己プロデュースする。そういうアーティストが目立ってきたし、これからは主流になっていくでしょう、その背景には、コロナ禍で、自分で発信できるアーティストがぐっと有利になったという事情もあると思います。 反田さんに関していえば、彼の考え方と実行力には圧倒されました。 5年ほど前ですが、イタリアのトリノで、反田さんとバッティストーニがラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を録音したセッションの取材に行ったことがあり、反田さんにもインタビューさせていただきました。 その時も、とても頭のいい、ビジョンのある方、そして人間力がある方だなあ、ということは感じたのですが、ピアノは割と華奢な感じがした。いっぱいいっぱい、だと感じる部分がなきにしもあらずでした。 それが、今回、ショパンコンクールの映像を見ていてまず驚いたのは、体格がしっかりして貫禄がついていたこと。5年前はかなり痩せ形で、体型も華奢だったのです。 コンクール後、あるテレビ番組に出られていたのを偶然見かけたのですが、驚いたことに、華奢な体だと音も細くなること、ある程度体格がないとしっかりした音が出ないことに気づき、体重を増やしたと。確か20キロくらい(うろ覚えですみません)。その結果、がっしりした音が出るようになったという。確かに、5年前よりはるかに充実した音を出していらっしゃると思います。 華奢な体格だと華奢な音しか出ない。それに気づくのもすごいですが、そこから体格を変えてしまうところが何倍もすごい。2、3キロ増やすのとは訳が違うのですから。。。 そして、ショパンコンクールでいい成績を取るために、ワルシャワに留学し、そのための先生につき、徹底してショパンを学んだ。言うは易く、行うは難し、の世界です。 とはいえ、まずは「想い」がある。そしてそれを実現するためにリアルな計画を立て、実行する。誰にでもできることではもちろんありません。けれど、全ての出発点としての「想い」は大事。反田さんの話を聞きながら、それを痛感しました。 想うこと。それは自立の第一歩です。私たち凡人でも、「想う」ことはできる。「想い」の中で、人は自由です。反田さんのように全てを実現できなくとも、その一部でも実現できれば、それはこれからの人生の力になります。そして繰り返しですが、そのスタートラインは「想う」ことなのです。だから、普段何を考えているかはとても大事。 頭ではわかっていても、凡人ゆえに、そして内向きな性格なので、気がついてみるとつまらないことでクヨクヨしたり堂々巡りしていることがよくあります。そういう傾向だけでも改められたら、人生は格段に広がりそう。そう思えた出来事でした。 この拙文をご覧くださっている皆様に、来る年が、豊かで、実り多く、幸せに満ちた年になりますように。 今年も本当にありがとうございました。
December 31, 2021
何年かぶりで、伊豆高原の「やすらぎの里」の一週間コースに行ってきました。 「やすらぎの里」は、ソフトな断食や食養生、温泉とマッサージ、ヨガなどのリラクセーションを体験できる滞在型施設。一週間コースが基本なのですが、ここ数年は特に一週間時間を取るのなかなか難しい上に、いろいろな事情があって、一週間コースは諦め、週末の1泊滞在で我慢していました。 今回、数ヶ月前にたまたま先週の一週間コースが空いているのを見つけ(人気施設なので数ヶ月前の予約は必須)、いくつか予定を調整すれば可能だとわかったので、えいやっ!と思って、予約してしまいました。いろいろ気掛かりなコンサートもあったのですが、私にとって体調管理は人生の中でかなり優先順位が高いのです。元気で健康でなければ何もできません。仕事だけじゃない。機嫌良くしているのだって難しいですよね。 結論は、やっぱり行ってよかった、につきます。 心身が整ってリラックスできたら、普段気にしては滅入っていることから解放されました。素直に自己肯定できるというか。これでいいんだ、と思えた。 私が仕事をしているクラシック音楽周りの世界は、狭くてニッチな世界ですが、活躍されている方たちはやはり優秀です。ついつい、皆さんのご活躍と比較して自分の力不足を痛感して落ち込んだり、逆に、了見が狭くて恐縮ですが、なぜ?と思うこともある。 そういうことから解放されました。(娑婆に戻ったらまた違うかもしれませんが)。これでいい、と思えたのは、心身に余裕ができたからかもしれません。 そして「やすらぎの里」全体にも、そういう「気」があるんだと思います。ゲストをそのまま、あるがままに受け入れてくれる心地よさ。 それは、代表の大沢剛先生がそういう方だからなんだろうな、と思います。 「やすらぎの里」に初めて伺ったのは西暦2000年(当時は小淵沢にあり、「フォルス」と言いました)。20年以上のお付き合いです。2000年は初めての単著「今夜はオペラ!」を出し、ツアーの仕事も始め、各種カルチャーセンターも始まり、自分にとっては大きなターニングポイントになった年でした。先日、たまたま履歴書を書く機会があり、「業績書」も作ることになって、改めて著書を数えたら単著は十七冊ありました。共著、翻訳も入れれば二十冊を超えます。中には、今振り返るとうーむ、と思うものもありますが、兎にも角にも積み重ねてきた。この間、紙の本は厳しい時代になりましたが、そして十七冊出してきた割りにはこの体たらくはなんなのかと思わないでもありませんが、とにかく走ってきたことは無駄ではなかったのかも、と思えました。そしてそのターニングポイントの年に「やすらぎの里」に出会えたことは、ご縁だったなと感じています。 今回、大沢先生とスタッフの方々に、いつもにも増して本当にきめ細かく対応していただいて、ただただ感謝しています。 思い通りにならないこともありますが、受け入れて、前を向いて歩いてゆきます。 大沢先生、スタッフの皆さま、ありがとうございました。 やすらぎの里 ホームページはこちら。 やすらぎの里
December 20, 2021
今日、今年後半、早稲田大学エクステンションセンターでシリーズでやってきた対面講座が終わりました。 テーマは「バッハ 声楽作品の魅力」。カンタータから受難曲、「クリスマス・オラトリオ」まで、バッハの声楽作品の代表作についてお話し致しました。 やっぱりバッハは深く、強い音楽だと改めて感じています。だから、心を支えられますね。 今年最後の対面講座(オンライン併用)も、「バッハ」がテーマです。 「櫻田亮さんと語る バッハ 受難曲の魅力」@朝日カルチャーセンター新宿。 6月に実施して大変好評をいただいた講座の続編です。 この講座では、バッハの二大受難曲、「ヨハネ」と「マタイ」の「違い」に注目し、聖書の同じ記述の部分を(例えばイエスの死)、二つの受難曲がどう表現しているか、を探っています。 今回は、イエスの捕縛に至る部分が、2つの受難曲でどう描かれているか、テクストと音楽の両方から見ていきたいと思います。 もちろん、櫻田さんの美声も堪能していただけます。教室受講とオンラインのハイブリッド講座なので、ご都合のつく方でお申し込みいただければ幸いです。 1年の締めくくりは、やっぱりバッハ! 詳細はこちらから。 櫻田亮さんと語る バッハ 受難曲の魅力 パート2
December 11, 2021
新国立劇場「蝶々夫人」。栗山民也演出の8回目の上演。ロールデビューの中村恵理さんが評判になっています。新国の主催公演でロールデビューなんて、さすが世界の中村ですね。新国の研修所出身というのも大きいですね。 ひたむきな蝶々さん。正直、リリカルで繊細な中村さんの声にはぎりぎりの役。技術的なレベルがとても高いので、最初から最後まで実に見事に!歌い切っていらっしゃいますが、「中村恵理の声だ!」と感じるまでには行かない。そこが、「声的にはぎりぎり」と思う所以です。これが例えばスザンナだったら違うだろうな、と思うわけです。 ただ中村さんの素晴らしいところは、さまざまな面でそれを補っているところ(クレバーな方ですね)。演技であったり、所作であったり(着物の首筋から見える表情まで神経が行き届いている)。何より、中村さんの役柄への情熱、ひたむきさがありありと感じられる。それが、蝶々さんという役柄のひたむきさと重なり、感動を生み出している、と個人的には感じました。 ピンカートン村上公太さん、スズキ但馬由香さんは尻上がりに良くなった感じです。 個人的な歌手陣のベストは、ゴロー役糸賀修平さん。リリカルでキャラクターのある声、よく通るし、演劇的だし、すごく印象的で、耳に残った声でした。糸賀さんの声をもっと聴きたかった。シャープレスに外国人歌手がキャスティングされていましたが、うーん、日本人歌手でも良かったのではないでしょうか。 下野竜也さんの指揮は見通しがよく分かり易い。甘々プッチーニを期待される方にはちょっと物足りないかもしれないけれど、個人的には(ベタベタが苦手なこともあり)聴きやすいです。 プログラムが極めて充実。新国の「蝶々夫人」プログラムの中でも最高レベル。小畑恒夫先生の作品解説、プッチーニがワグネリアンであること、いかにワーグナーの手法を自分なりに消化したかがよくわかって実に勉強になりました。彼がワグネリアンだということは触れられることが少ないと思うのですが、「蝶々夫人」や「トスカ」の解説に「ライトモティフ」は必須ですよ。それらを「モザイクのように処理している」という小畑先生のご指摘は頷かされました。小畑先生のエッセイ「蝶々夫人に取り入れられた日本の旋律」でも同じような指摘が興味深い。 オペラの台本に関する興味深い著書「オペラは脚本から」を出された辻昌宏さんは、題材が「蝶々夫人」に決まるまでの紆余曲折を。話題の「マリー・アントワネット」をはじめいろんな題材を探っているのですね。 そして長崎の「出島」の研究などをなさっているという赤瀬浩さんの「長崎のマッチングシステム」についてのエッセイもとても面白かった。出島の時代から、長崎には駐留オランダ人と「現地妻」の風習があった。あのシーボルトも現地妻を迎え、子供まで儲けている。シーボルト帰国後に彼女は別の男性と再婚。だから蝶々さんの時代も、長崎ではそういうことはごく一般的。それはそうですね。 実際に長崎の現地妻体験を小説にした、ロティの「お菊さん」についても詳しく紹介されていました。そして「蝶々さん」は実在しない人物、ということも。 そう、蝶々さんは、プッチーニの空想の世界の、理想の女性なんだと思います。おっかない奥さんや、「コリンナ」とかいう愛人に騒がれて頭を抱えていた彼の逃避先が、夢の国日本の理想の女性。だからあそこまで丁寧に心理を書いたんじゃないかなあ。 あと、「蝶々さん」が原作群と違うのは、とてもイタリア的、宗教的ということですね。ヒロインが改宗してしまうというのは原作群にはありませんし、それが元で親戚と絶縁なんてのももちろんありません。その点もとても、日本的というよりイタリア的だと思います。 宣伝で恐縮ですが、「蝶々夫人」ができるまでのいわゆるジャポニスムとの関係については、拙著でつらつら書きましたので、ご一読いただけると嬉しいです。重要な原作群の一つである「お菊さん」についても。これ、主人公はピンカートン並みに共感できないですが、日本の描写はところどころとても腑に落ちます。朝方に聞こえてくる日本の「音」の描写なんて、まさに「蝶々夫人」の夜明けの音楽にインスピレーションを与えていると思う。オペラで楽しむヨーロッパ史
December 8, 2021
今月、新国立劇場で、ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が初日を迎えました。 オペラファンにとっては待望の初日。ご存知の方も多いように、昨年7月に予定されていたプレミエがコロナのため流れ、この夏に東京文化会館で予定されていた上演も同様の理由で中止に。いわば「三度目の正直」であり、オペラファンがドキドキハラハラしながら待っていた開幕でした。 イェンス=ダニエル・ヘルツォークの演出によるプロダクションは、ザルツブルクの復活祭音楽祭と、ドレスデンのザクセン州立歌劇場、そして東京文化会館との共同制作。共同制作と言っても、新国立劇場では今までできているプロダクションを借りてくることが多かったのですが、今回は最初から4つの劇場が組んで新作をプロデュースする計画で、これはこれで快挙でしたし、発表された時は大いに話題になったものです。 ザルツブルクとドレスデンでは、コロナになるギリギリのタイミングで既に上演されており、日本では今回の上演が初演となりました。 ちなみに新国立劇場での「マイスタージンガー」は2005年以来、つまり16年ぶり。大作であることに加えて、ソリストの多さ(特に男性15人!に対して女性2人というバランスの悪さ)もあるのかもしれません。 2回の休憩を挟んで6時間の長丁場でしたが、演出に心を奪われ、音楽の心地よさに浸ったあっという間の6時間でした。 まず、演出がとてもよかった。 ヘルツォークのアイデアは、まず舞台をニュルンベルクの街から、「劇場」へと移すこと。劇場のモデルは、共同制作の一角であるドレスデンのザクセン州立歌劇場、通称ゼンパーオパーです(舞台の左右には、ゼンパーオパーの白と金で彩られたボックス席が設えられています)。ワーグナファンならご存じのように、かつて彼が指揮者を務めた劇場でもある(当時は宮廷劇場)。個人的には、コロナまえはほぼ毎年のように行っていて、ドイツで一番好きな劇場なので、とても嬉しかったというのもあります。好きな理由は、適度な大きさ(1300席)、素晴らしい音響と美しい劇場空間、そしてプログラムの多彩さでした。通ううちに広報担当の方とも親しくなり、オフィスにも出入りさせていただいたりしたので、その時のことを思い出してとても懐かしくなりました。そして同時に、劇場は街だ、とも思えたのです。劇場には、一つの「街」と言っていいくらいさまざまな空間があるのだ、と。舞台はもちろん上演空間であり、「ハレの場」ですが(最後の祝祭は劇場の舞台で、「劇中劇」の趣向で行われます)、オーディションの場でもある(ヴァルターはオーディションを受ける新人)。道具部屋はヴァルターとエーファの隠れ場所になるし、支配人や関係者のオフィスは職人の仕事部屋になり得ます。ザックスの靴工房も、舞台用の靴を何百足も揃えている劇場になら、あっても不思議ではありません。洗面台やシャワー付きの楽屋は住まい。もちろんパーティ=レセプションの空間もある。劇場にはなんでもある!懐かしいゼンパーオパーの色々な部屋を眺めながら、そのことに思い至ったのは、この演出が成功している証拠でしょう。 時代はほぼ現代で、ザックスは演出家でもあり、劇場の支配人でもあるらしい。マイスタージンガーたちは劇場のパトロン的な存在です。だからヴァルターのオーディションにも参加するのですね。 最後の大詰めは痛快でした。ザックスが歌っている間、合唱団は一旦退場し、古めかしい時代衣装をまとって登場。つまりマイスタージンガーたちの世界が古臭いものであることを視覚的に示すのです。それに対するエーファとヴァルターの反応が痛快。ヴァルターは「マイスタージンガー」の証拠としてポートレートを贈呈されるのですが、エーファはそれを破り捨て、2人は手に手をとって出ていきます。眞子さんみたいですね。 まあ、父親が娘を「景品」にする、なんて筋書きですから、このくらい痛快だとスカッとします。 大野和士さん指揮の都響は美しい音楽を細やかにゆったりと奏で、歌手たちに寄り添います。外国からも4人の歌手が参加。全体的に高水準でしたが、傑出していたのは外国勢ではベックメッサー役のアドリアン・エレート、日本人ではダーフィット役の伊藤達人。エレートはこの役のスペシャリストで、どの劇場でも引っ張りだこですが、インテリで小心なベックメッサーが本当に板についています。とはいえ、エレートは役を自分のものにしてしまえる人で、以前新国立劇場の「ウェルテル」で敵役のアルベールを歌った時も、普通の人なのだけれども愛ゆえに酷薄になってしまうアルベールを、身近に感じさせてくれました。それができるのは技術的なレベルが高くで安心して聴いていられる、というのが大きいのです。 伊藤達人さんは新国立劇場の研修所の出身。甘く柔らかい声は豊穣で、高音域に広がりがあってまろやか。客席にもよく通ります。技術的にも全く危なげなく、演技も、人が良くてちょっとそそっかしい憎めないダーフィットに成り切っていました。これからがとても楽しみ。いずれ伊藤さんのヴァルターを聴いてみたいものです。 トーマス・ヨハネス・マイヤーのザックスも、ノーブルで安定感抜群でした。 今回、公演前の解説会つきの鑑賞会という形で鑑賞しましたが、参加メンバーの一人が、初ワーグナーだったのですが、「オペラじゃないみたい」だと言っていたのが印象的でした。考えてみたらその方とは、これまで「椿姫」「トロヴァトーレ」「トスカ」のようなイタリアオペラの名作をご一緒することが多かった。それに比べたら、ところどころに音楽的ハイライトはあるものの、大半が対話や独白で歌語りのようなスタイルの「マイスタージンガー」は限りなく演劇に近い。こちらにとってはワーグナーも「オペラ」だという先入観があるのですが、もちろんワーグナーは伝統的な「オペラ」から脱したわけだし、その形式を「オペラじゃないみたい」と表現するのは、すごーく得心がいったのでした。
November 30, 2021
1年ばかり前に結成された「DOTオペラ」というグループの、3回目の公演「アイーダ」にお邪魔してきました。文化庁のコロナ禍における芸術支援事業の後援を受けて、急遽実施が決定したようですが、とてもクオリティの高い公演でした。オーケストラなどは小編成ながら、会場のミューザ川崎のステージを生かし切った演出であり、音楽的にも質が高く、大変見事だったと思います。 ちなみに「DOTオペラ」というのは、結成メンバーであるソプラノの百々あずささん、コレペティトゥールの小埜寺美樹さん、メゾソプラノの鳥木弥生さんの頭文字を取った名称のようです。 成功の第一の要因は、ホールの空間を生かし切った演出(ダンサーでもある山口将太郎さん)です。 ミューザはいわゆるワインヤード型のホールで、舞台を囲んで客席があり、ちょっと円形劇場のような趣があるのですが、今回の演出では、オーケストラを中央に置き、そのぐるりに半円形の階段を設け、この階段と舞台前方の空間が、演技空間として使われていました。この半円形の階段が、まさに円形劇場のように機能し、客席も円形劇場の残り半分を構成して、観客もドラマに参加しているような気分を味わえたのです。「アイーダ」は元々動きの少ないオペラで、古典的と言えばそうなのですが、作品のそのよう性格が今回の舞台にマッチしていました。ミューザの大オルガンにさまざまな色を使って有効に活用した照明(稲葉直人さん)も効果的でしたし、衣装(どなたの担当かわからず)もセンスがありました。例えばラダメスの軍人風の衣装はベースは明るいグレーですが、エジプトのために働いているときは赤いマントが加わり、最終幕で牢屋にいるときはグレー一色になります。それ以外のキャストの衣装もそれぞれのキャラクターにマッチした古典的なもので、衣装からも全体のトーンが統一されていました。 さらにダンサーが加わったのが大正解。男性3人、女性2人のダンサーが、本来のバレエ場面のみでなく活躍し、人数の少なさを不利だと感じさせない活躍ぶりを見せていました(振り付けも山口さん)。まさに総合芸術ですね。 歌手も階段を上り降りして演技をし、歩き方なども颯爽として、山口さんの指導がかなりあったのか?と思わせられる身のこなしでした。 音楽も充実。ソリストの方々も揃っていて穴がありません。中でもうまいと唸らされたのは、ラダメス役の村上敏明さん。どの音域もムラがなくスムーズで、高音も豊かに響き、時に凛々しく時に悩めるラダメスの造形も共感できます。新国立劇場のジークムントでも頑張っていらしたし、充実の時を迎えているのではないでしょうか。中でもこの役は今の村上さんに合っているように感じました。 アムネリス役鳥木弥生さんは、整った美貌がまずこの役にぴったり。陰影のある声は安定し、色気もあり、劇的な迫力にも不足はありません。ランフィス役伊藤貴之さんも豊麗な美声、明るめの色合いはイタリアオペラに向いています(9月の藤原歌劇団「清教徒」ジョルジョ役も良かった)。歌い盛りですね。アモナズロ役高橋洋介さんも演劇的な美声で、これからがおおいに期待できそうです。エジプト王役松中哲平さんも将来性あり、巫女役やまもとかよさんも威厳のある美声。 アイーダ役百々あずささんは、「声」の魅力という点では今回のキャストの中でピカイチかもしれません。高音域の輝かしさ、豊かな響きと声量は圧倒的です。ただ、技術的な不安定さが散見されたのと、高音域に比べて他の音域が響かないのが気になりました。 「アイーダ凱旋オーケストラ」と名付けられた今回のためのオーケストラは、金管をカットするなど小編成ながら、その分を小埜寺さんのピアノが補ってうまくまとまっていました。小編成で金管なしの柔らかめの音響は、「アイーダ」というオペラの室内オペラ的な面にぴったり。佐藤光さんの指揮も歌あり、躍動感ありで好演。東響コーラスの有志で構成されたという合唱coro trionfoはP席に配され、高い位置からの歌は豊かに響き、劇的な場面での彩も十二分。やはり「アイーダ」は合唱の役割が大きいですね。 というわけで大満足の公演。何より「アイーダ」というオペラの可能性を見せてくれたことを高く評価したい。しばらく前に座間で見た、「オペラ・ノヴェッラ」の「椿姫」と言い、いろんなところでいろんなカンパニーやグループが、意欲的なオペラを制作しています。 文化庁の後援があるとはいえ、これで五千円はコストパフォーマンス良好ではないでしょうか。開演が平日夜の17時半というのもあるかもしれませんが、空席が多くて残念でした。
November 17, 2021
コロナ禍で、まだまだ自由とは言えない海外への渡航。 この期間、オンラインツアーを試み、二度にわたって「バッハへの旅」のオンラインツアーを行ってきましたが、この度、初めてのイタリア!オンラインツアーを行うことになりました。 指揮者、アンドレア・バッティストーニが、彼の故郷ヴェローナを案内するスペシャルなツアーです。 バッティストーニは、北イタリアのヴェローナ出身。「ロメオとジュリエット」の舞台になった世界遺産の古都であり、古代ローマ帝国時代の闘技場アレーナで開催される、夏のオペラ祭でも有名な素敵な街です。 彼はここで生まれ育ち、アレーナや、屋内劇場であるフィラルモニコ劇場でオペラに接し、また自ら指揮をとってきました。 今回のツアーでは、バッティストーニがヴェローナのお気に入りの場所や、劇場を案内するほか、旧市街にあるお気に入りのレストランでヴェローナの名物料理を紹介したり、あのダンテ・アリギエーリの子孫が経営する郊外のワイナリーで、オーナーとともにワイナリーを案内します。 今来日中のバッティストーニからのメッセージももらいますし、東フィルさんとの演奏動画もお楽しみいただけます。 また、彼の盟友で、東フィルの首席クラリネット奏者のアレッサンドロ・ベヴェラリもヴェローナ出身。彼も日本から参加して、ヴェローナの魅力を語ってくれることになりました。 そして、内容は明らかにできないのですが、あとで送られる特典映像もあります。これはなかなかすごいです。ぜひご期待ください。 イタリアのオンラインツアーは初めてで、現地との交渉に時間がかかり、リリースがギリギリになってしまいましたが、これは絶対お楽しみいただけると思います。 ワインなどお土産付きのコースも、色々ご用意しました。 ライブは10月28日午後。その後10日間の見逃し配信がありますので、当日ご都合がつかなくても大丈夫です。 日本に居ながらにして、ヴェローナの空気をたっぷり味わってくださいますよう。 詳細はこちらから。 ヴェローナ オンラインツアー
October 17, 2021
「オペラ史上初の「泣けるオペラ」 「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」のキャッチを、そうつけることがしばしばあります。拙著「ヴェルディ」(平凡社新書)には全オペラ作品の簡単な解説がありますが、そこでもこの作品にこのキャッチをつけました。 そう書くと、いやいや、と反発される方も多いでしょう。「ノルマ」で泣ける方もいるだろうし、「フィデリオ」で泣けると言った方もいました。いや、ヘンデルでだって泣けるかもしれません。「私を泣かせてください」のアリアの美しさに涙するかもしれない。私だって、例えば「フィガロの結婚」の赦しのシーンでは涙することがよくあります。 けれど、あえて「椿姫」にこのキャッチをつけるのは、それまでのオペラにくらべて、やはりドラマと音楽の一体化が半端ではないからです。「リゴレット」もそうですが、「リゴレット」は劇的振幅が激しい分、泣く余裕?がないかもしれない。やはり「椿姫」は泣けます。いや 、ヴェルディは決して泣かせようと思っているわけではないと思うのですが(プッチーニとちがって)、ドラマがそうできているのですから。 そう、ドラマ。9日に聴くことができたサントリーホールのホールオペラ「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」は、やはりこの作品こそ「オペラ史上初の泣けるオペラ」だ、と確信させてくれた名演でした。 最大の功労者は、指揮のニコラ・ルイゾッティです。1961年イタリア生まれの生粋のオペラ指揮者。日本では、2010年前後、東響の首席客演指揮者をつとめたり(現在のノット、その前のスダーンの前ですね)、サントリーホールのホールオペラで、モーツァルト=ダポンテ三部作をフォルテピアノを弾いて指揮したりとひと頃随分活躍し、好感度満点のルックスもあって「ルイ様」などと呼ばれてずいぶん人気がありました。久しぶりの来日、得意のイタリアオペラで、期待はしていましたが(オケはかつての仲間の東響)。 最初の音から違いました。。あ、イタリアの音だ!と思った。艶やかで滑らかで輝きがあって絹のようで、最初から歌っている。オケがずっと歌っている。 もちろんそれだけでは、「泣ける」オペラにはなりません。ルイゾッティの指揮が傑出していたのは、全ての音がドラマを語っていたことです。それこそが、ヴェルディの意図していたことであり、この作品が「泣けるオペラ」である所以なのです。 「椿姫」のスコアはシンプルといえばシンプルです。だから、誰でも振れる、みたいに考える人もいなくもない。でも、ただ楽譜通りに振っただけでは、ルイゾッティのように雄弁にはならないのです。もちろん楽譜を丁寧に追うだけでも形にはなるでしょう。音符はシンプルとはいえ、実はデュナーミクはとても細かいし、スラーやスタッカートの指示も同様です。けれど、それだけでは十分ではない。思い切りも必要。例えば1小節ごとにデュナーミクが変わっているような部分では、思いきり!変えなければならないし、これは楽譜にはないことですが、場面によっては大胆にテンポを揺らす(ルバートをかける)ことも「あり」なのです(それは今回、ルイゾッティが証明してくれました)。ただそれもこれも、ドラマを読み、音楽に投影されているそれを再現することが大前提なのですが。 ルイゾッティの指揮が優れていたのは、それを完璧にやり遂げていたことです。ヴィオレッタの涙も、ジェルモンの老獪さも、アルフレードの直情も、全て理解して、許される範囲の「手入れ」をして、一つ一つの音を丁寧に丁寧に鳴らし、楽譜を雄弁にしていたのです。 泣きました。第二幕の後半。第三幕の恋人たちの再会以降。心に突き刺さるヴィオレッタの愛。天地よこの愛を見届けろ。そんな気分でした。そして何より、本当に音色が美しい。東響もジョナサン・ノットの時とは別のオーケストラのような滑らかな音色。オケもうまいのです。「目を瞑って音に集中する」誘惑に勝てないことが何度かありました。オペラでは久方ぶりの体験です。 歌手たちも揃っていました。 いちばんは、主役ヴィオレッタを歌ったズザンナ・マルコヴァ。柔らかな澄んだ声で、繊細な表現力があり、コロラトゥーラが細やかで水晶のように美しい。弱音が抜群!「椿姫」は弱音勝負のオペラですから、大事です。なんとイタリア人指揮者で、2年前の二期会公演で「椿姫」を指揮したサグリパンティの奥様だとか。ソプラノだということは知っていましたが、これほどの名手だったのですね。上背も高く、顔立ちも整って見栄えがします。各国からヴィオレッタ役のオファーがあるとのことですが、納得でした。 アルフレード役フランチェスコ・デムーロ。お馴染みのイタリアンテノール。パリをはじめ大劇場でこの役を数え切れないほど歌っているベテランです。明るく甘い声、所々泣きが入るのは好みが分かれますが、安心して聴けます。 ジェルモン役アルトゥール・ルチンスキー。2017年新国立劇場「ルチア」エンリーコ役でブレイク。この人も高い技術を持ったうまい歌い手です。ブレスが長い!レガートが綺麗。声もよく通り、堂々のジェルモンでした。 田口道子さんの演出は、オーケストラの後方に舞台を設け、P席も階段舞台として使用。特に1幕や二幕2場のパーティのシーンでは、この階段舞台が大変効果的でした。セットは最小限でしたが、衣装も美しく、見応えのある舞台に仕上がっていました。
October 11, 2021
「蝶々夫人」そして「西部の娘」に続くプッチーニのオペラ「つばめ」は、あまり上演の機会に恵まれないオペラです。ストーリーに起伏が少ないからでしょうか。 物語の背景にあるのは、19世紀パリの名物?だった「お針子」と、彼女たちに群がった男性たちの風俗です。フランス革命後、ブルジョワが他人に服を縫わせるようになり(それまでは自分で作っていた)「お針子」の需要が増大。地方の貧しい若い女性が大量にパリに流れ込み、お針子その他の手仕事に従事しますが、貧しさから男性に囲われたり、娼婦になる女性も多かったようです。灰色の服を着ていたため灰色gris からくる「グリゼット」と呼ばれていた彼女たちは、夜の盛り場に出入りして男性との出会いを待ち、時に踊り子になったりして、花の都パリで、男性を惹きつける代名詞でもありました。「ラ・ボエーム」のミミがお針子なのは有名ですし、「椿姫」のヴィオレッタも出自は同じです。ヴィオレッタはお針子の出世頭なのです。オペラだけでなく絵画にも、グリゼットが登場する作品はルノワールからマネ、ロートレックまで山のようにあります。 とはいえ、その手の女性は、少なくともある程度の階層以上の男性にとって、「結婚」の対象ではあり得ませんでした。結婚は家同士の話だし、まともな結婚ができるような「いいところのお嬢さん」は、一人で外など出歩きません。グリゼットはあくまで遊びの対象でした。 一方、世紀末あたりから、グリゼットのような階層出身で、社会で活躍する女性も出てきます。貧しい出自で、盛り場に出入りし、男性の庇護を受けながら自分のキャリアを築く。ココ・シャネルはその好例です。 「つばめ」は、お針子から大富豪の愛人になった女性が、ヴィオレッタのように「真実の恋」を夢見、昔の恋を思い出してお針子の姿になってダンスホールに行き、若者と恋に落ちてパトロンの元をさりますが、相手が真剣に結婚を言い出すに及んで、自分にはその資格はないと、恋人と別れる物語です。高級娼婦のいっときの冒険と言いますか。やはり、ヴィオレッタではないけれど、過去は消せないのです。 この甘く儚い物語に、プッチーニはゴージャスでモダンな音楽をつけました。社交的なワルツのリズム、イギリスのコメディを想起させる賑やかな音楽、プッチーニならではのリリカルで甘い音楽、そして映画音楽の先がけのような繊細な雰囲気。主役カップル以外にも、小間使いと詩人という第二のカップルが登場し、コミカルな彩を添えます。 びわ湖ホールで行われた「つばめ」は、びわ湖ホール声楽アンサンブルが主体になる「オペラへの招待」のシリーズ。会場となった中ホールの親密な空間に、「つばめ」のようなインティメートな作品はよく合います。 伊香修吾さんによる演出は、物語の設定を台本の「第二帝政」から20世紀初め、つまり作品成立の時代に移し、レトロな映画のようなセピア色の舞台を作り上げていました。物語は全て紗幕の向こうで進行し、それだけでも夢のような感触。映像が多用され、シンプルな舞台を補います。とりわけ、ダンスホールで恋におちる2人が、自転車でパリの街を走ってデートする設定は秀逸。「ローマの休日」ならぬ「パリの休日」ですね。原中治美さんによる、人物の心の陰影を投影した照明も効果的でしたし、第一幕のサロンの場面では、アールデコ調の美しい衣装も花を添えていました。 歌手は声楽アンサンブルの若手中心ですが、話題は国際的に活躍する中村恵理さんがヒロインのマグダを演じることでした。「つばめ」は典型的なプリマドンナオペラで、マグダは出ずっぱりで負担が大きい役ですが、万全の技術に支えられ、プッチーニ作品にはやや華奢めな声をうまくコントロールして、愛に揺れる女性の心を時にしっとりと、時に劇的に歌い上げていました。 相手役ルッジェーロの谷口耕平さんは、リリカルでしなやかな声、柔らかなレガートが魅力。全日出演!で負担も大きいと思いますが、健闘していたと思います。 個人的に惹かれたのは、プルニエ役の宮城朝陽さん。若々しい声と洒脱な表現力で、ちょっとシニカルな詩人の生き生きした人物像を造形。特に最後の幕で、マグダが恋人と別れることを予言したシーンでは、すベてわかっていてドラマを回しているのはプルニエか!と気づかせてくれました。熊谷綾乃さん演じるリゼットもチャーミングで、「スーブレット」の伝統を感じさせる好演でした。 オーケストラは園田隆一郎さん指揮の大阪交響楽団。音楽の輪郭がはっきりして、主役2人による抒情的な場面と、第二のカップルによるコミカルで人間的な場面の描き分けが新鮮でした。特に第二のカップルが活躍する場面の音楽には、モーツァルトを思わせる端正さとユーモアが漂い、マグダに集約されがちな本作の別の魅力を見せてくれました。 「つばめ」、見逃した方には、本日11日、最終日の公演のインターネット配信があります。ぜひ。 「つばめ」配信詳細
October 11, 2021
ようやく緊急事態宣言が明け、新国立劇場の新シーズンもスタート。コロナに翻弄された日々が、少しずつおさまろうとしています。 新国も2020年の春は公演がいくつも中止に追い込まれましたが、昨シーズンはなんとか完走。この夏、共同制作の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、文化会館での上演が中止になったのは痛恨でしたが、来月幕を開ける新国での上演は、なんとか完遂できるよう願っています。 さて、シーズンのオープニング演目は、ロッシーニの「チェネレントラ」(新制作)。新国立劇場がこれまであまり上演してこず、大野監督が力を入れるレパートリーの一つであるベルカントものです。「チェネレントラ」はロッシーニではメジャーな作品なのに、新国では1回しかやっていません。2009年に、確かバイエルン州立歌劇場(間違っていたらすみません)からポネルの名演出を借りたのですが、演出もエクセレントなら、キャストもシラクーザ(聴き手を幸福にするシラクーザの声は王子様にぴったり)、カサロヴァ、カンディアなど揃いも揃って大名演でした。友人たちのグループと行きましたが、みんな大喜びっだったのを覚えています。 みんな大喜び。それは、今回もそうでした。今回は、自己プロデュースの解説会つき鑑賞会で、50名の方が参加してくださいましたが、みなさん本当に大喜び!お願いしたアンケートでも、「公演」については全員が「大変満足」でした。オペラが初めての方もいましたから、素晴らしいことです。 さて、12年ぶりの新国立劇場「チェネレントラ」、「どこを切ってもヴィヴィッドがほとばしる」公演だったというのが正直な感想です。音楽も、演出も。 まず演出。今や日本のイタリアオペラ演出のトップランナーとして大活躍の粟國淳さんの演出は、舞台を20世紀、イタリア映画黄金時代のローマの撮影所「チネチッタ」に設定。オペラでは 王子の家庭教師のアリドーロが映画監督になり、新作映画「チェネレントラ」の主役を探す王子は映画王の息子でプロデューサー。全体は「チェネレントラ」を撮影する中で進むという趣向です。粟國さんも、彼の親友だというセット、衣装デザイナーのチャンマルーギさんも「ローマっ子」。だからなのでしょう、チネチッタの描写が細部まで生き生きとしている。「劇中劇」として撮影中の「チェネレントラ」の背後で、いろんな映画の撮影が進行するのですが、その風景が本当にこのお2人の人生に馴染みのものだったのだな、と感じます。演技も細かく、何よりヴィヴィッドで、ロッシーニの音楽によくあっているのです。イタリアの誇る芸術、オペラの延長線上にイタリア映画の黄金時代があることを実感しました。映画への愛、オペラへの愛、ロッシーニへの愛、の相乗作用ですね。セットや衣装の色彩感もヴィヴィッドで、音楽によくあっていました。 歌手も粒揃い。何よりお見事だったのは、チェネレントラを歌った脇園彩さん。日本が生んだ世界的ロッシーニ・メッゾの実力を見せつけました。情感と深みのある声がよく通り、ロッシーニを歌う肝であるアジリタも完璧で、何よりまろやかなのです。アジリタの着地が美しい。無理がない(ように聞こえる)。すごい技術です。 演技も、自立し、自ら幸福を引き寄せる女性チェネレントラ(本名はアンジェリーナ)にふさわしい、溌剌として前向きで、でも女性的な部分も忘れない。この役に理想的ですね。 王子役ルネ・バルベラさんは、新国立劇場「セヴィリアの理髪師」で好演。その時も脇園さんとの共演でした。張りのある明るい声、余裕のある高音、これも明るく邪気のない演技。聴かせどころの第二幕のアリアでは、なんと後半をアンコール(bis)。久しぶりのイタリアオペラでのアンコールに、ほぼ満席の新国、沸きました。記憶にある新国でのアンコールは、1998年?のシラクーザ「セヴィリアの理髪師」の大アリアのアンコールが圧倒的でしたが、あれ以来の感動かも。(その間にも、確か「リゴレット」でマルセロ・アルバレスが「女心の歌」をbisしたかもしれません) 芸達者!を見せつけたのが、マニフィーコ男爵、意地悪な義父を演じた大ベテランのアレッサンドロ・コルベッリさん。心技一体、というのでしょうか、一挙一動がその場の男爵の心境ありようを表して、非現実的なキャラクターがとても現実的に感じられるのです。69歳!という年齢なのに、声もまだまだ若々しく、技巧も健在で、本当に魅せられました。 従者ダンディーニ役の上江隼人さんは、彼の武器であるベルカントの技術を活かし、柔軟でしなやかな歌唱。適性あります。アリドーロ役のイタリアのバス、ガブリエーレ・サゴーナさんはスタイリッシュな歌唱。赤いマフラーが、フェデリコ・フェリーニのようでした。クロリンダ役高橋薫子さん、ティーズべ役齋藤純子さんも健闘。どこにも「穴」のないキャスティングでした。現時点での国際水準の公演だと思います。三澤洋史氏指揮する新国立劇合唱団もピタリと揃って軽快でした。 指揮の城谷正博さんは、来日できなくなったマウリツィオ・ベニーニのピンチヒッター。城谷さんといえばワグネリアンで有名で、3月の「ワルキューレ」を1日振った時は大名演。とはいえ、新国でずっと音楽アシスタントを務められていたので、経験豊富です。 その経験が生きたのだと思います。終始インテンポで、安全運転ながら、艶やかで美しい弦の音色、軽やかな木管、生き生きした生命力などは間違いなくロッシーニの「色」でした。大健闘ではないでしょうか。 とはいえ痛感するのは、日本にイタリアオペラの指揮者が少なすぎる、ということ。この方面で活躍中の園田隆一郎さんはびわ湖ホールで「つばめ」に出演中。この間藤原歌劇団で「清教徒」を振られた柴田真郁さんもいますが、それ以外は私も不勉強もあり、なかなか名前が思いつきません。「オペラハウスで働いていれば、イタリアオペラなんかいやでも経験して振れるようになる」という意見もあり、それはそうかもしれませんが(現実に城谷さんがそうなわけですが)でもそれって、イタリアオペラを、例えばワーグナーの余技みたいに考えてないですか?それは違うだろう、と思うのですよ。今回来られなかったベニーニはベルカントのスペシャリストだし(聞きたかった)、2021年1月の新国「フィガロ」をキャンセルしたピドもそう。彼らがワーグナーを振るのは想像できないし、振らなくていいです。それから例えばミケーレ・マリオッティとか、リッカルド・フリッツァなどもなんといってもイタリアオペラの指揮者なわけで、別にワーグナーは求められていないでしょう(本人が振りたいかどうかは別として)。そういう指揮者が日本にもっといてもいい。 新国では、指揮者は外国から招聘することが多いわけですが、これまではイタリアオペラに、必ずしも適切な人ばかり呼んだわけではありませんでした。フリッツァやリッツィやルイージやパルンボが来たこともあったけれど、そしてイタリア人ではないけれどそれは素晴らしい「椿姫」を指揮してくれたイヴ=アベルもいましたが、「え、なんでこの人がイタリアオペラ?」という外国人指揮者も時々いた。そういう人を呼ぶなら、日本人の指揮者にチャンスをあげてほしい。心からそう思います。 「チェネレントラ」、公演は(今日を入れて)あと4回。ぜひ、お運びください。アフターコロナに向けて、幸せな気持ちにしてくれます。 新国立劇場「チェネレントラ」追記 新国立劇場でのアンコールは、2009年「チェネレントラ」のシラグーザでもあったそうです。失念していて失礼いたしました。追記2 通奏低音、今回はチェンバロでとても遊んでました(「ゴルトベルク変奏曲」が出てきたり。。。)遊ぶのはいいのですが、一部でご指摘があったように、やはりフォルテピアノの方がしっくりきますね。
October 6, 2021
本日は全国共同制作オペラ、團伊玖磨「夕鶴」の記者会見へ。民話「鶴の恩返し」を下敷きにした、日本語オペラの中でも屈指の人気を誇る名作で、個人的にも大好きです。團伊玖磨の没後20年記念というのも、今回の制作のきっかけのよう。国際的に活躍する演出家(小説家でもある)の岡田利規さんが、オペラを初めて演出するというのが1番の話題です。 確かに、面白いお話が聞けました。 まず岡田さんが口を開き、「演劇の上演というのは「現在」行われているもの。「現在」を観客に届けたい」ということから、時代設定は抽象的。「今の観客に、『夕鶴』のポテンシャルを突きつける」。 岡田氏が考える「夕鶴」とは、イノセントな「つう」が、資本主義に絡め取られていく「与ひょう」に、それでいいのか?と問いかけていく物語。「つう」は、「資本主義」を乗り越えた時点にいる、とのことでした。観客には、「与ひょう」を自分のことのように感じて欲しい、資本主義の原理的な部分を体現しているから、とのこと。 劇中に登場する子供たちも重要で、今回は一種の劇中劇のようにし、子供たちは劇の中で純粋な子供たちを生き、同時に、観客として大人の愚かさを見守る、二重の役割が与えられるとのことです。 「オペラは、音楽が語るもの。本来は演出の必要がない。何をやるのか、それを見つけるのが楽しい」と語っていたのも印象的でした。だから、最近の演出家がよくやる、台本や音楽を変えることは全く考えなかったそうです(ブラボー)。 今回、全国で3回の公演があり、指揮は辻博之さんと鈴木優人さんが分担。この「全国共同制作オペラ」にずっと関わってきた辻さんが、10月30日の東京公演を指揮します。 その辻さん曰く、「夕鶴」は「心理描写に優れ、登場人物4人は社会の縮図のよう。新しい演出にも対応できる作品」。頷きました。 鈴木さんは、「夕鶴」には小さな頃から親しんでいて、美しい一方「居心地が悪い」作品だと思っていたそう。けれど結婚し、子供を持った今では、別の気持ちでこの作品を見られる、と語っていました。 歌手の方たちからも、それぞれ興味深い発言がありました。 タイトルロールのつうを歌う小林沙羅さんは初役ですが、ずっと念願の役だったそう。玉三郎の「つう」の美しさに感動した経験もあり、またいろんな名歌手が歌う「つう」を見てきたと言います。今、母になり、ちょうど第二子を出産して、色々見える景色が変わった。その経験も生きるかもしれない。。。とのこと。今回のチャレンジでは、これまでの自分にとっての「つう」のイメージがリセットされそうで、それはそれでこれまでの経験も無駄ではなかったと思っているそうです。新しい「つう」像が見られそうです。 与ひょう役与儀巧さんは、「与ひょうはキーパーソン」。今回の現場では「ディスカッションをして解釈を深めていく」のが面白いと語り、悪役惣どの三戸大久さんは、「やりたかった役。中から出てくるキャラ」だと発言。それぞれの方にそれぞれの想いがあり、とても面白く聞きました。 ダンス、振り付けの岡本優さんからは、「この作品のつかみどころのないところを担いたい」という発言があり、これも期待できそうです。 出演者の発言終了後の質問も活発で、参加したプレス関係者の興味を惹いた会見だったことが証明されました。1番の興味は、やはり岡田演出ですね。 「夕鶴」は永遠の名作オペラの一つ。その普遍的なところを見せてくれそうな今回の公演、とても楽しみです。 公演情報はこちら。来年早々に刈谷、熊本公演があります。 全国共同制作オペラ「夕鶴」公演情報
September 28, 2021
秋、本番。あちこちで、秋学期の講座も始まりました。 学習院さくらアカデミーでは、コロナ禍のためオンライン講座が続いていますが、《ニーベルングの指環》を取り上げた春に続き、秋もワーグナーのオペラを取り上げます。 春に取り上げた《指環》と、初期の3作、そして、来年2月の冬学期の鑑賞講座(オペラ観劇とセットになった講座)で取り上げる《さまよえるオランダ人》を除いた5作が、今回のテーマです。 つまり、《タンホイザー》《ローエングリン》《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《パルシファル》の5作。 日程は10月2、16、30、11月6、20です。 どれも重量級ですが、ステイホームの長いこの時期に、おうちでじっくり鑑賞するにはうってつけです。 《タンホイザー》については先般二期会の公演がありましたので、観劇した方は改めて反芻していただけるかもしれませんし、11月6日に取り上げる予定の《マイスタージンガー》は、ちょうど11、12月に新国立劇場で公演がありますので、その予習としてご聴講いただければと思います。 詳細はこちらからご覧ください。 学習院さくらアカデミー ワーグナーの名作オペラ
September 25, 2021
コロナ禍以来、講座はレクチャーコンサートの類を除いてほとんどオンラインになっていましたが、この秋から、一部で定期的な対面講座を再開することになりました。 早稲田大学エクステンションセンターで開講される「バッハ 声楽作品の魅力」です。 こちらではこれまで、オンライン講座を持たせていただいていましたが、対面講座を希望するお声もあり、この秋は対面で行わせていただくことになりました。 今月25日開講、土曜日の午前中で、合計6回の講座です。 声楽作品の概略をお話しする講座ですので、カンタータ、受難曲、ミサ曲、オラトリオといったジャンルの代表作品を取り上げて、動画やスライドを交えながら、その魅力をお話しします。 日程などの詳細はこちらでご覧ください。 早稲田大学エクステンションセンター バッハ 声楽作品の魅力
September 14, 2021
この週末は、二期会、藤原という二大オペラカンパニーが、それぞれの個性を発揮した公演で勝負しています。 宮本亜門演出の二期会「魔笛」の感想は前に呟きましたが、昨日は藤原歌劇団の「清教徒」に行ってきました。ベッリーニの名作。ベッリーニの最後のオペラでもあり、彼の最高傑作とする人も少なくありませんが、日本では滅多に上演されません。まあ、「ノルマ」だって本当に滅多に上演されない。ベッリーニ、なんで日本ではこれほどマイナーなのでしょうか???不思議だなあ。歌手がいない? そんなことはないでしょう!と思った、昨日の公演でした。歌手の水準が高く、指揮もよく、演出もいわゆる伝統的な、歌を邪魔しない美しい演出。「これぞイタリア・オペラ」ですね。とても藤原歌劇団らしい公演でした。演出も指揮もとんがった二期会「魔笛」とは好対照です。繰り返しですが、カンパニーがそれぞれの個性を出してくれるのは、聴衆としては願ったり叶ったりです。 今回のお目当ては、ヒロインのエルヴィーラを歌った佐藤美枝子さん。日本人として初めてチャイコフスキー国際コンクールの声楽部門で優勝して以来、20年以上第一線で活躍しているベルカントものを得意とするソプラノです。昨年ですが、このプロダクションの記者会見があったときに、学生時代に藤原歌劇団の「清教徒」を見た。それに感動して、いつか自分も、藤原歌劇団の舞台で「清教徒」を歌うと決心した、とおっしゃっていて、それは絶対聴かねば!と思っていたのです。 その佐藤さんのエルヴィーラ、やっぱり聴きごたえありました。透明感もありながら、表情がぎっしり詰まった声。高音も美しく響き、テクニックも堅実ですが、フレージングがとても美しい。ベッリーニならではの長い旋律が生きます。あんな小柄な体格のどこに溜まっているのか?と思わせられるように湧き出してくる「声」。そして、表現力。大ベテランなのに(大ベテランだからこそ、でしょうか)、純真な娘の心の揺れが客席に伝わる。精進されていることを感じる円熟の歌唱でした。 相手役澤崎一了さんは、最近メキメキと頭角を現している藤原のホープ。甘い声、豊かな響き、明るい音色、たっぷりした声量と、テノールに求められるものの多くを備えている逸材です。「清教徒」のアルトゥーロ役は高音が頻出する至難のパートですが、その点でもかなり健闘していらしたのではないでしょうか。これからのご活躍が楽しみです。 個人的に印象に残ったのは、リッカルド役の岡昭宏さん。これまでも何度か聴いているのですが、今回は大きな役だったので聴きどころがたくさんあり、とても良かった。スタイリッシュなバリトンで、ベルカントものに向いていると感じました。あまり声量のあるタイプではないようですが、ベッリーニあたりだとこれくらいでいいですし、声はきちんと通るので不足は感じません。 他のキャストも好水準で、イタリアオペラを聴いた満足感を味わうことができました。 柴田真郁さんの指揮もとても良かった。柔らかく軽快で、弾力があって、音が綺麗で表情が繊細で、まさにベルカントにぴったり。ベッリーニの流麗な旋律が綺麗に浮き上がります。ご本人はヴェリズモがお好き、と漏れ聞いたのですが、いやいやベルカントもぜひ振っていただきたい。東フィルの力もあるのでしょうが、絶妙のコンビでした。 松本重孝さんの演出はいわゆる伝統的な演出で、柱や城壁をモチーフに、台本と同時代の雰囲気を出したもの。上演のコンセプトからいえば、これでいいのだと思います。「清教徒」は内容的にはかなり過激な?ところもあるオペラなので、上演が増えれば演出に工夫があってもいいでしょうが、現在のようにほとんど上演されない状況だと難しいでしょう。 ところで佐藤美枝子さん、来月10日に朝日カルチャーセンターにお越しくださり、「清教徒」の「狂乱の場」をその場で歌ってくださいます!もちろんトークも。今回聴く方も聴かない方も、ぜひお越しください!ハイブリッド講座なのでご自宅でも受講できます!佐藤美枝子さん講座
September 11, 2021
昨日は二期会「魔笛」の初日にお邪魔しました。 2015年に初演されて大好評、大盛況だった宮本亜門演出の再演です。人気演目だけあって、緊急事態宣言中にしてはよく入っていました。 (もうあちこちで書かれていることなので今更ですが)宮本演出は、現代のサラリーマン一家がゲームの世界に入り込み、成長を遂げてハッピーエンド、というストーリー。リストラされて帰ってきたお父さんがやけのやん八になり、奥さんは怒って出て行こうとする。お父さんはそこでブラウン管の向こうに飛び込んで物語が始まります。ゲームの世界ではお父さんはタミーノ、お母さんはパミーナ、子供たちは3人の童子、同居しているお父さんは弁者になりかわります。 いろんな対立がテンポよく、ビジュアル的にも楽しく描かれているのも宮本演出の特徴。ザラストロとその仲間は頭でっかちなので脳みそを模した帽子を被り、夜の女王と侍女たちは肉体派なので胸を強調したフィギュアの衣装。わかりやすい。最後にザラストロと夜の女王が仲直り?するのもいいですね。パパゲーノはチャップリン風の道化になっています。終始プロジェクションマッピングが使われ、転換がスピーディで飽きさせません。 宮本さんや、最近METで活躍しているバートレット・シャーのように、ミュージカルでの実績がある演出家は、展開をスピーディにして飽きさせないコツを掴んでいるように思いますが、どうでしょうか。シャーの「セヴィリアの理髪師」なんて、ベルカントオペラとは思えないスピード感がありました。 音楽的には、初日だということもあるのでしょう、第1幕は不安定な部分も散見されましたが、第二幕はかなり改善されました。夜の女王役安井陽子さん、パミーナ役嘉目真木子さん、ともに第二幕のアリアで本領発揮。モノスタトス役高橋淳さん、悲哀感とユーモアある演技、堂々とした美声の歌でbravo。とっても人間的なモノスタトス。タミーノ役金山京介さんもリリカルな美声と真面目さを前に出した演技で好演。ザラストロ役妻屋秀和さんは包容力と人間味。そうですね、宮本演出では皆人間味たっぷりです。悪人はいません。モーツァルトの望んだ世界かもしれません。 指揮は若手女流指揮者のギエドレ・シュレキエーテさん。ある方が今ヨーロッパで注目されていると書かれていたのですが、いわゆるピリオド風の、ヴィヴラートをおさえ、薄手でドライで透明感のある演奏。急速なテンポ。第1幕ではしばしば走りすぎていたような。確かに、今時の受けるタイプの一つのパターンなのでしょう。かなり器楽的なので、もうすこし「歌」が欲しいですね。オーケストラは読響。 一つ注文。これは「タンホイザー」の時にも感じたのですが、ドイツ語の発声をなんとかしてほしい。「魔笛」はジングシュピールなのですから、セリフは日本語でいいんじゃないでしょうか。リンツ州立歌劇場との共同制作だからドイツ語のままなのかもしれませんが、二期会では実相寺演出初めこれまでたびたび日本語でやってますから、出来ない相談ではないと思います。
September 9, 2021
この日曜日、演出家の古川寛泰さんが主催する「オペラ・ノヴェッラ」の公演「椿姫」に伺いました。 これが、とても充実した、中身のある公演で、感服しています。色々な意味で、意義のある公演でした。 まずこの「椿姫」の公演が、「座間市市制50周年」記念事業に一環として行われており、主催が「座間市スポーツ・文化財団」だというのが一つの発見でした。「オペラ・ノヴェッラ」の主催者である古川さんも座間の住民であり、つまりこの団体は、かなり座間市の「市民オペラ」に近い、と言えるような気がします。合唱団「ハーモニーホール座間 オペラ合唱ワークショップ」も、公募の合唱団でしょう。かなり市民参加型。日本の場合、イタリアやドイツのように地方に「劇場」があるわけではないのですが、一方でそのような役割を市民オペラが果たしていたりする(例えば藤沢)。結構、そんな形に近い。 何より、公演の内容がよかったことは、座間市の目のつけどころ?の勝利でしょう。 まず貴重だったのは、クリティカルエディションによる「ノーカット版」の上演だったこと。 これ、なかなかないことなんです。ですから、普段使われる慣習版では聞こえてこない音がたくさん聞こえてきてワクワクするのはとても楽しい経験でした。第三幕の二重唱もちょっと長かったし。得した気分なんですね。そのことも、プログラムに書いていただいたらよかったのですが。 演奏も演出も、もちろんクオリティの高いものでした。 主役の歌手の方々はオーディションで選ばれたようですが、まず主役の田中絵里加さん。2011年からイタリア在住とのことで、お名前も知らなかったのですが、非常にレベルの高い歌唱力。クリスタルでリリカルな音色、澄んだ響き、中音域から高音までむらのない発声、安定した技術。イタリア語もとても綺麗で、とにかく「歌える」方でした。もう少し表現力が出てくると、観客を「打ちのめす」レベルにまで行けるのでは。技術と歌唱力だけで言えば、例えば新国立劇場でこの役を歌っている外国人歌手にも劣らないと思います。そのような意味では、田中さんの「歌唱力」を示せた第一幕が一番よかったかもしれません。 男性陣も、アルフレードに宮里直樹さん、ジェルモンに今井俊輔さんと、第一線で活躍中の歌い盛りばかりの豪華版。お2人はついこの間も二期会「ファルスタッフ」で好演したばかり。宮里さんは持ち前の美声だけでも魅力なのですが、声をコントロールする力がついてきて、演技力が充実してきた感があります。第二幕第2場の大詰めの迫力は感動ものでした。 今井さんは、3人の中では一番、声を的確に飛ばせる力がある歌い手。ここ、というところで客席にうまく飛ばせる。もちろん、元々の声量と深い美声があってのことですが。演技もスタイリッシュで、加えて幅があります。ジェルモンの心境の変化が刻一刻と伝わる演技でした。 というわけで、主役3人が揃って立派で(有名カンパニーでもなかなかない)、脇役にも例えばグランヴィルで最近赤丸急上昇のバス、加藤宏隆さんがいたりと、贅沢な布陣。合唱も過不足なく、加えて瀬山智博さんの指揮も雄弁で、間のとり方もうまいし、デュナーミクも丁寧。何より人物の心に沿った音楽になっていたのです。 古川さんの演出も、シンプルすぎずゴタゴタしすぎず、ドレープ(第一幕)やデスク(第二幕第一場)やベッド(第三幕)といった大道具小道具をうまく組み合わせて雰囲気を出し、歌手にもきちんと演技をさせて、こちらも満足のゆく出来栄えでした。照明も大変効果的に使われていました。 いや本当に、国内でこれだけ満足度の高い「椿姫」には、そうそう出会えるものではありません。 数年前の三河市民オペラ「トロヴァトーレ」に続いて、「市民オペラ」(的な存在)の力を、思い知らされた公演でした。 プログラムにヴェルディ研究者の小畑恒夫先生のエッセイがあり、「椿姫」は社会批判でも恋愛劇でもない、最後にヴィオレッタが自分は神に迎えられるのかと苦悩して祈る「宗教劇」だと書かれていたのにはなるほど、目から鱗でした。
September 7, 2021
コロナ感染の拡大で、オペラ公演も続々中止に追い込まれている昨今。 昨日、7日の土曜日は、本当は東京文化会館での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に行くはずだったのですが中止になり、急遽「バッハコレギウムジャパン」の定期にお邪魔しました。 もともとすごく気になっていたコンサートで、本当は5月の予定だったのですが、コロナ禍で昨日に日程変更になり、結果「マイスター」とぶつかってしまい泣く泣く諦めていたので、これはこれで嬉しいことでした。(とはいえ、どうしても聴きたい内容だったので、7日がNGとわかった時点で8日の神戸定期に行くことに決めており、その予定は変えることなく、今神戸に向かう新幹線でこれを書いています)。 今回の定期、プログラムが本当に魅力的で。タイトルは「ケーテンの愛」。今年、2021年が、バッハが2番目の妻、アンナ・マクダレーナ・バッハ(以下AMB)と結婚して300周年、ということに因んだ内容だったのです。2人はケーテンで結婚したので、ケーテン時代の器楽曲(ブランデンブルクの5番、管弦楽組曲の4番)とか、結婚式のために書かれたかもしれないカンタータ120aとか(AMBは歌手だったので、それもあっての選曲)、そして、バッハが彼女のために編纂した、有名な「アンナ・マグイダレーナ・バッハの音楽帳」からのアリアなどなど。結果的に、声楽も器楽も網羅し、特に声楽はカンタータから歌曲まで(歌曲はドイツでは結構演奏されるのですが、日本では滅多に上演されない)、とてもヴァラエティに富んだプログラムになりました。バッハの魅力ぎっしり!これを聴けば、バッハの概観がわかる、と言っても言い過ぎではないかもしれません。 おまけに指揮の鈴木雅明先生のMCがついて、楽曲解説もたっぷり。「音楽帳」に収録されたアリアの類が、後にシェメッリが編纂した「シェメッリ歌曲集」にも収録され、結果的に「ドイツリート」の源流の一つになった話など、日本ではなかなか聞けません。「音楽帳」や「シェメッリ歌曲集」は、ドイツではバッハにちなんで演奏される機会も少なくなく、それこそケーテンのバッハ音楽祭などで何度も聞きました。コープマンのチェンバロとバス歌手のメルテンスによる「シェメッリ」のコンサートなど、ああ、これこそドイツリートの源流だ、と思った記憶があります。 「シェメッリ」と「音楽帳」の両方に収められ、今回演奏された「ジョヴァンニーニのアリア」「あなたが傍にいてくださるなら」は、ドイツではおそらくかなりポピュラーな曲で、バッハツアーでいつも訪れる、アイゼナッハのバッハハウスでのサロンコンサートの定番。ドイツの「家庭音楽」の類なんですね。けれど日本ではほとんど知られていない。今回初めて聴いた方も多かったのでは。「あなたが」はバッハの作品ではないのですが、バッハ一家で親しみ、演奏していた作品であることは確かなので、これこそバッハ一家の「家庭音楽」だったのです。このような機会、本当に貴重です。 管弦楽組曲」第4番で華やかに始まり、「音楽帳」からのアリア(ソプラノの松井亜希さんの透明感あふれる美声がぴったり)やコラールを経て、1パート一人の「ブランデンブルク協奏曲 第5番」(雅明先生のチェンバロが久しぶりに聴けて嬉しい。第1楽章のカデンツァや第3楽章でかなり即興が混じり、自在闊達でした)で前半が終了。後半は、カンタータ120番aのみの構成でしたが、なんとアンコールに、このカンタータの第1曲めが後に転用されて生まれた、「ロ短調ミサ曲」の「Et expecto 」が登場!大大好きな「ロ短調」が、それもパロディの元になった曲と聴けるなんて、感激!「こんな時期だからこそ、音楽の喜びを」との雅明先生の言葉の通り、バッハの「歓び」に溢れたフィナーレとなりました。感謝です。 120番aでは、ご存知甘美にして品格ある美声の櫻田亮さんと、人材豊富な日本人カウンターテノールの中でも、ヴォリュームと美しい響きで傑出している青木洋也さんの二重唱アリアが聴けたのも収穫でした。 プログラムに、AMBとバッハにまつわるエッセイを寄稿させていただきました。実はAMBとはお誕生日が同じで、勝手に親近感を抱いてます。。。肖像の一枚も残っていなくて、どんな女性だったのかという手がかりがとても少ないAMB、唯一、彼女を偲ぶよすがかもしれない、遺品と見られる指貫と留金もご紹介しました。コンサートにお越しでプログラムを購入された方、ご覧いただければ幸いです。
August 8, 2021
コロナ感染拡大で、海外旅行はもとより、国内での移動も難しくなってしまいました。 そんな折だから、というわけでもありませんが、昨年暮れに実施して好評をいただきました、「バッハへの旅」オンラインツアーの第2弾を行うことになりました。 日時は8月16日、14時半〜。ギリギリのお知らせで申し訳ありませんが、オンデマンド配信が10日間ありますので、ご都合の良い時にご覧いただけます。 今回のテーマは「バッハとライプツィヒ」。バッハが後半生を過ごしたライプツィヒにスポットを当て、町の現在の紹介、バッハの活動や遺品、作品の紹介、そして「ライプツィヒ・バッハ音楽祭」のハイライト動画(現地でのコンサート動画)をお楽しみいただきます。 そして今回、特別ゲストとして、世界的なバッハ演奏家、鈴木雅明先生をお迎えすることになりました! 雅明先生は、バッハ演奏の第一線で活躍してきたのはもちろん、バッハ音楽祭にも西暦2000年以来何度も招かれ、バッハの音楽の啓蒙に貢献した演奏家や研究者に贈られる「バッハメダル」を、日ヨーロッパ人として初めて受章された方です。これ以上のゲストは考えられないのではないでしょうか。 また、ライプツィヒ周辺の歴史的オルガンのご紹介も入れますが、そのパートでは、雅明先生が実際にドイツの歴史的オルガンを演奏した動画もお楽しみいただきます。 なかなか海外への渡航が叶わない今、ご自宅にいながら、バッハの街と音楽をたっぷり味わっていただければ幸いです。 詳細、お申し込みはこちらから。 バッハへの旅 オンラインツアー 第2弾
August 6, 2021
兵庫県立芸術文化センターの看板、佐渡裕プロデュースオペラ。 昨年は残念ながら中止に追い込まれましたが、今年は無事「メリー・ウィドー」が上演されました。 最高に楽しい舞台でした。広渡勲氏の演出による、伝説の2008年制作の舞台をブラッシュアップ。「改訂版新制作」と謳っただけあって、当初予定の2時間45分という上演時間を大幅に上回る3時間半近くの長丁場になったのですが、その大きな理由は、全曲終了後に「第三部」とでもいうべきアンコール?を延々とやったからです。 これが、広渡氏のサービス精神満載の一大ハイライトになっていました。バレエから合唱からコント?からフレンチ・カンカンまで、出演アーティストが一斉に再登場して「ビス」状態。最後は「ヴィリアの歌」で華麗に締め括り、客席は大喜びでした。カーテンコールでのお辞儀の仕方も、一斉に左、右、を向いてお辞儀する、レビューショー状態です。ほんと、タカラヅカみたい。 この「メリー・ウィドー」は、「プロデュースオペラ」の中でも最大のヒット演目となった作品。評判は聞いていましたが、なるほど、ここでしか作れないプロダクションだと思いました。歌のないニエグシュ役に関西お笑いの大御所、桂文枝さんを起用してコントをたくさん混ぜたり(指揮者の佐渡さんとのやりとりも!)、宝塚出身の香寿たつきさんや鳥居かほりさんが出演し、芸文のテーマソングとでもいうべき「すみれの花咲く頃」を歌ったり。関西圏のお笑いやショー文化がたっぷり楽しめる。これは、ここならではの芸当でしょう。冒頭から、オーケストラピットに照明が当たり、指揮者がこちらを向くと、なんと文枝師匠なのですから。(もちろんその後、師匠は舞台に上がるのですが)。 台本は大幅に改訂。三幕が、二幕構成(と言っていいと思う)のように仕立て直されており、曲順もかなり入れ替わっていました。台本は演出の広渡先生が書かれたそうで、広渡版「メリー」ですね。 一番面白かったのは、有名な「女、女、女」の男声アンサンブルの後に、女声アンサンブルで、同じ音楽による「男、男、男」が加わっていたこと。いやほんと、同じ内容で女性側の曲も「あったらいいのに」と思っていたのです。これは受けます。NBSで長年、オペラやバレエの公演に関わり、今日のように「第三部」的なアンコールが振る舞われる「ガラ」を演出してきた広渡氏、お客さんの心理をよくわかっています。 第一幕の舞台はピアノ(手前が鍵盤になっている)に見立てられ、黒白が基調でアール・ヌーヴォ風の衣装。第二幕はパリの夜景を背景にしたカラフルでエキゾチックな「ポンテヴェドロ」風のパーティに、ハンナ邸での擬似「マキシム」のレビューと、それぞれ「華やかさ」が全開でした。やっぱり美しいものは楽しい。そして、ヴィヴィッドで元気の出る美しさなのです。以前、「コロナ禍の今だからこそ、この舞台でウサを吹き飛ばしてほしい」と劇場の方が仰っていたのは納得です。 (プログラムに鹿島茂先生のエッセイがあり、実際の「マキシム」がどんな場所だったか(キックバックを払って高級娼婦を入れていた)、ハンナ邸での「擬似マキシム」がどうして意味があるのか(実際の「マキシム」にはなかったフレンチカンカンができる)などがよくわかり、面白かった。こういうのが読みたいのです) キャストはベテランから若手まで、注目どころ、有名どころが揃っていました。1番の目玉は、主役カップルに抜擢されたお二人、ハンナ役の高野百合絵さんとダニロ役黒田ゆう(すみません、字が出ません)貴さん。お二人とも押し出し満点、とくに高野さんはやはりハンナ役を得意としたルネ・フレミングを感じさせる華があります。地声がよく響いて座りがいいのもポイント。女優の才能がある。歌は清冽な高音域が魅力、これからの充実に期待したいです。黒田さんは芸大在学中より色々な賞を受賞している注目株。スタイリッシュな美声は大きな将来性を感じさせます。長身細身で舞台映えもし、目の表情の豊かさは特筆ものでした。ちなみにお父様は二期会のスターバリトンの黒田博さん。東京ではお父様が「ファルスタッフ」で主役を歌っている最中。父子でコメディオペラの大役を演じています。 大ベテランの折江忠道さんのツェータ男爵は至芸。ヴァランシェンヌ役高橋維さんはチャーミングな存在感。カミーユ役小堀勇介さんは、舞台に立てる喜びを明るく発散しつつ、甘く豊かな美声、柔軟なフレージングで耳を奪いました。さすが日本を代表するロッシーニテノールです。 他のキャストも、森雅史さん、泉良平さん、押見朋子さん、小貫岩夫さん、志村文彦さん、大沼徹さんら日本オペラ界を背負っている方々が勢揃い。コロナだから、これだけのメンバーが集まった面もあるかも???みなさん、(オペラの舞台上演が厳しい中で)ステージに立つ喜びに溢れていました。これもまた、コロナ禍のささやかなプラス面かもしれません。
July 20, 2021
先日の金曜日、大黒屋オペラの公演「ファルスタッフ」に伺ってきました。 これがとても良い公演でした。「ファルスタッフ」という作品についてあれこれ考えさせられ、発見がありました。ということは、いい公演だった、ということだと思います。 空間がプラスに働いたこともあります。立川にある「たましんrisuruホール」の「小ホール」というのは、今回のセッティングだと百人ちょっとくらい?の席数で(客席の前方に空きを作ってオーケストラを入れていましたので、本来はもう少し席数があるでしょう)、贅沢といえば贅沢。そして、舞台上の細かい演技がよく伝わる。これが作品の本質にとってプラスだと感じました。 ヴェルディはこの作品を、「ヴェルディ劇場」と名付けられた故郷ブッセートの300席の劇場でやりたかったようですが、その気持ちがわかる、と思わせる公演だったのです。別にスカラ座のような大劇場が悪いとは言いませんが、小劇場の方がこのオペラの良さ、細やかさはよく伝わります。 上演のキーポイントは、舘亜里沙さんの演出。作品の本質を分かっているのだと感じさせられる、インテリジェントで、きめ細かい演出でした。 「ファルスタッフ」というオペラは、それまでのヴェルディオペラとはある意味全然違い、歌うところが極端に少ない会話劇で、展開がスピーディ。とても演劇的です。で、この作品に馴染んでいないと、結構ついていけない部分が出てきてしまう。割と細かいエピソードが多いので、あれはなんだったのか?と考えていると、どんどん過ぎていってしまって疑問が取り残されてしまう。それが、弱点といえばそうかもしれない。説明してもらわないとわからない部分が多いオペラかもしれない、と思っています(同じ会話劇でも、「ラ・ボエーム」なら説明がなくてもわかるのですが。。)。「ファルスタッフ」はシェイクスピア劇だから、「夏の夜の夢」みたいな森と妖精なんて要素も出てきてしまうし。日本人はそのような要素にはふだん馴染みがないから、唐突な感じがしてしまうし、戸惑ってしまう。 舘演出の長所の一つは、そういう説明が欲しい部分を、演技で補っていたところです。だから、話の流れがすっと頭に入る。笑いをとるべきところで笑える。今回、結構クスクス笑えましたから。この作品の場合、それができるかできないかで楽しめるかどうかがかなり変わってきてしまいます。やはり演出は重要です。 例えば、父親のフォードが娘のナンネッタに、医師のカイウスとの結婚を強要するところ。これも、普通は会話のなかで展開するくらいなのですが、二幕の終わりでカイウスがナンネッタにプロポーズするなど、次の幕で登場するこの要素を先駆けて視覚化していました。そういう部分が結構多いのです。親切ですよね。 人物一人一人のキャラ付けも明確でしたが、特にクイックリー夫人のキャラ付けは面白かった。ファルスタッフにアリーチェからの恋文を渡すシーンでは、ファルスタッフに自ら色仕掛けで迫り、第三幕では、最終幕の妖精の森の老婆を先取りして、宿屋の主人の代わりにファルスタッフにワインを渡す。変幻自在、演技の幅が広く、かなりのキーパーソンになっていました。 ファルスタッフは、相当に豪快なキャラクター。最後の森のシーンでは、道化の帽子を被って登場。「ファルスタッフ(フオールスタッフ)は、シェイクスピアが創造した最大の道化」という河合祥一郎先生の言葉が思い出されました。 大道具は、舞台の中央に置かれたベッドが中心。基本はファルスタッフのねぐらですが、時に椅子になりテーブルになって、いろんな場面で活躍します。道具はそれにプラスアルファ、という感じ。 「イマドキ」への配慮もあり、居酒屋の場面には「新型コロナウィルス感染症対策」しております、という看板が出され、消毒用アルコール噴霧液も活躍していました。 最後のフーガでは、字幕を出すボードに、ヴェルディの年表ー主に代表作ーが若い順に登場。1901年の死まで紹介されており、ちょっとジーンとしました。 「大黒屋オペラ」を主催する中橋健太郎左衛門氏が指揮するオーケストラも(プログラムに紹介がないのでどういうメンバーがわからないのですが)、本作の室内劇的な感じをちゃんと出していたように感じました。 飯田裕之さんのファルスタッフは堂々とした美声を押し出して聴かせ、ほとんど「プリモ・ウォーモ・オペラ」と化していましたが、もう少し周囲とのバランスがあっても良かったかもしれません。フォード役月野進さんをはじめ他のキャストも芸達者な方が多かったですが、女性歌手(みんなスタイルが良くて美人!!!)では、特にナンネッタを歌った和田奈美さんに将来性を感じました。 オペラはやっぱり、生に接してなんぼだなあ、と痛感した一夜でした。
July 4, 2021
イタリアのテノール、ヴィットーリオ・グリゴーロのリサイタルに行ってきました。 イタリアのテノールの中では、いまフランチェスコ・メーリと並んで最も活躍している歌手でしょう。実力派のメーリ、スター性のグリゴーロ、という感じでしょうか(あ、グリゴーロに実力がないと言っているわけではありません。舞台での華、という意味です) グリゴーロはしばしば、パヴァロッティに例えられるようです。幼い頃からパヴァロッティが憧れで、子供の頃「トスカ」で共演し、指導を受けたこともあるという。 確かに、「スター性」のあるイタリア人テノール、という点では共通します。とはいえ、個性は全然違う。それは「時代」のせいもあります。パヴァロッティの魅力はなんと言っても「声」。太陽のような声、人を幸せにする声。恰幅の良さも、おおらかさの象徴のようで、だから棒立ちで歌っていても全然構わない、むしろパヴァロッティらしい。 一方グリゴーロは徹底して「演じ」ます。スタイルもいいし(テノールには珍しい長身)、動きも敏捷、身体的能力が高い。そして客席を巻き込む。客席の反応を絶えず意識し、盛り立て、客席と一体化する。サービス精神のかたまりです。ポップスも歌っていた経験のせいもあると感じました。あのパフォーマンスは、クラシックのものではないなあと。 今回の来日前に、オンラインで記者会見があり、いくつか質問させてもらったのですが、以前、サントリーホールでのリサイタルの時に、1曲1曲「演じて」歌っていて、それがすごく印象的だったので、そのようなことを質問したら、「リサイタルにパフォーマンスを持ち込んだのは自分が最初だと思う」というようなことを言っていました。グリゴーロ劇場。自分も十二分すぎるくらい意識して、武器にし、個性にしている。そこはパヴァロッティとは全然違います。そしてそれは、演じる時代でもある今のオペラ界の反映だとも思います。 今回のグリゴーロ劇場はまた特別でした。何しろパンデミック以来、初めて有観客の舞台に立ったというのですから。 とにかく舞台に立つのが嬉しい。歌えるのが嬉しい。お客さんが目の前にいるのが嬉しい。ジェスチャーにも歌にも、客席とのコミュニケーションにも、その喜びが全開でした。私のお隣にいたマダム二人組、「かわいい!」を連発、コンサート中で50回は言っていたかも。 プログラムはオペラアリア一色。前半はイタリア、後半はフランスものが中心でした。ベルカント(「愛の妙薬」)に始まり、ヴェルディ、そしてプッチーニ。「ボエーム」の「冷たい手よ」では、譜めくりの女性の手にそっと触れ、「リゴレット」の「女心の歌」では、陽気で快活で憎めない公爵を、開放的な演技で演出する。「トロヴァトーレ」の「見よ、恐ろしい炎」では、歌い掛ける素振りを繰り返したり。「ロミオとジュリエット」の「太陽よ、昇れ」では、P席をバルコニーに見立てて走り寄る。「ホフマン物語」の「クラインザックの歌」では、酔っ払いの詩人になりきってフラつく。惹きつけます。 声はリリカルで伸びやか、柔軟性もあり、甘さも備えた、魅力的なテノールらしい声。技術的にも安定感があるのは、ドニゼッティのようなベルカントもかなり歌い込んできたこともあるのかもしれません。 けれど、個人的に彼のレパートリーで魅力を感じるのはフランスものです。イタリアものなら、正直、メーリもいるし、他にもテノールはいる、といえば、います。けれど、グリゴーロのフランスものの繊細な表情、甘く滴るような表現、豊かな弱音、柔らかな語感はとてもいい。ラテン系の明るい響きも、もちろんプラスに働きます(カウフマンの暗目の響きとは違う。良し悪しではなく個性ですが、フランスものはいろんな歌手が歌うから、ラテン系とゲルマン系では雰囲気が違いますよね)。これはパヴァロッティとは全然違う個性です。以前、METでダムラウと共演した「マノン」は素晴らしかったし、やはりダムラウと共演した「ロミオとジュリエット」はライブビューイングで見ましたが、最高でした。恋するロミオになりきって、舞台を走り回っていた。 フランスものが得意な理由について、「子供の頃、フランス人が通う学校に通っていた」ことが良かった、と記者会見で言っていて、そうだったのだ、と思いました。あの言葉の美しさは、一朝一夕にできるものではないでしょうから。 で、今回も、「マノン」の「夢の歌」が、個人的には絶品だったのでした。 プログラムの終演は9時過ぎ。さあこれから第三部(アンコール)が始まるかと思ったら、本人から、お礼の言葉と一緒に、「9時で終わらなければならないから」とお詫びの言葉が。わあ、残念と思ったら「でも1曲だけ」とのことで、「カルメン」のアリアか、ナポリ民謡か、客席の意見を聞いてどちらかを歌うと。「カルメン」はロールデビューを控えて練習していたというので、そちらに拍手し、それは切ない「花の歌」を聴くことができました。これで終わりだ、と思い込み、色々立て込んで気が急いていたので帰ってしまいましたが、なんとさらに「椿姫」の「乾杯の歌」を歌ったという。残念無念!グリゴーロの「椿姫」は、2009年に彼を初めてオランジュ音楽祭で聴いた時の演目で、その甘くスマートな声に感動した、初聴きの役だったのです。さすが、グリゴーロ劇場。 グリゴーロ劇場、まだしばらく日本で続きます。大阪、福岡、東京。最終日は7月3日。 グリゴーロ チケット情報
June 24, 2021
櫻田亮さんといえば、日本を代表するテノールのお一人。特にバロック音楽の分野で世界的に評価され、ジョルディ・サヴァールの《ロ短調ミサ曲》のツアーでソリストに起用されるなど、実力は折り紙付きです。 最近は、バッハ・コレギウム・ジャパンの受難曲コンサートでエヴァンゲリストとしてたびたび登場し、絶賛を浴びています。甘く端正な声、言葉の美しさも味方するくっきりした響き、バロック音楽のアフェクトを弁えた、格調のある劇的表現は、世界トップクラスのエヴァンゲリストと言えるのではないでしょうか。 来月7日、朝日カルチャーセンターに櫻田さんをお迎えし、バッハの二大受難曲の魅力を語り合う講座を開講します。もちろん実演付き。アリアもですが、聖書の同じ記述の部分の表現が、《ヨハネ》と《マタイ》でどう違うか、もお見せしたいな、と考えています。 イタリア滞在が長かった櫻田さんは、なんとスカラ座でも《マタイ》を歌われたそう。その辺りのお話も、ぜひ伺ってみたいところです。 詳細、お申し込みはこちらから。教室受講とオンライン受講が選べるハイブリッド講座です。 櫻田亮さんと語る バッハ受難曲の魅力
May 12, 2021
新型コロナのパンデミックはなかなか収束が見えず、緊急事態宣言が継続される事態となってしまいましたが、一部のコンサートなどは明日から再開されるようですね。 一刻も早くワクチンが行き渡り、事態の行先が見えるよう願っています。 私の所属している「日本ヴェルディ協会」では、この状況下で、オンライン講演会などを開催して参りましたが、今月の26日に、プロデューサーの広渡勲氏を講師にお招きし、オンライン講演会を行うことになりました。 広渡勲氏は、「日本舞台芸術振興会」で外国の歌劇場の来日公演を長く担当し、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ベルリン・ドイツ・オペラなどの数々の名舞台を実現した名プロデューサーです。お仕事の有能ぶりに加え、クライバー、バレンボイム、メータなど世界一流のアーティストと家族同然の信頼関係を築かれた人間力も有名です。 先日、このブログでも、ご新著「マエストロ、ようこそ」をご紹介させていただきました。 今回は、広渡先生のご自宅に伺い、公演時の映像や写なども拝見しつつ、ミラノ・スカラ座の来日公演のお話を中心に、舞台裏の苦労話からアーティストたちのエピソードまで、当事者しかご存知ないお話をたくさん披露していただく予定です。 詳細、お申し込みはこちらから。ヴェルディ協会の会員は無料、一般の方は千円でご視聴いただけます。直前のご案内で恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。 広渡勲オンライン講演会
May 11, 2021
昨年に続き、自粛のGWとなってしまいましたが、いかがお過ごしですか? コンサート、イベントはほとんど流れてしまいましたが、新緑に癒されています。 こんな時で恐縮ですが、6月の対面講座のご案内です。 「フェニーチェ劇場友の会」が主催し、「日比谷図書文化館」で開催されている「日比谷オペラ塾」は、いつもあっという間に埋まってしまう人気の講座ですが、今回は特別編として、二回のみの講座を開講することになりました。 テーマは「名作オペラで知る歴史」。二回にわたり、ナポレオンの対イタリア戦争を背景にした「トスカ」、ドイツ統一の時代に理想のドイツを追い求めてドイツ近世史を扱った「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を取り上げます。 大きな会場ですが、人数を絞り、感染症対策も万全にして行う予定です。 詳しくはこちらからご覧いただけます。 日比谷オペラ塾「名作オペラで知る歴史」 どうぞよろしくお願いいたします。
May 2, 2021
春から、カルチャーセンター各所でオンライン講座が始まります。withコロナはまだしばらく続きそうなので、「オペラ史」とか「ワーグナー」とか「バッハ」とか、ガッツリ系?のテーマが並びました。おうち時間の長い今だから、じっくりオペラ&音楽、いかがですか? 朝日カルチャーセンター新宿では、「1年で学ぶオペラ史」が始まります。 この際腰を据えてじっくり、オペラ史のおさらいはいかがでしょうか。 毎回、時代順に、オペラの代表的な作曲家とその作曲家の代表作を取り上げます。 3ヶ月が1クールで、4クール12ヶ月で完了。モンテヴェルディからベルクまで行く予定です。一回ごと、三回ごとなど単発の受講ももちろん可能です。 詳しくはこちらから。 朝日カルチャーオンライン 1年で学ぶオペラ史 学習院大学さくらアカデミーでは、ワーグナー「ニーベルングの指環」講座が始まります。 ワーグナーの専門の先生のようにはいきませんが、私なりにわかりやすく、「指環」の面白さをお伝えできればと思っています。 学習院さくらアカデミー「ニーベルングの指環」講座 そして早稲田大学のエクステンションセンターでは、「バッハ 器楽作品の魅力」をお話します。昨秋、「バッハ 三大宗教曲超入門」が好評で、またバッハを、というリクエストにお応えしての講座です。 早稲田大学エクステンションセンター バッハ 器楽作品の魅力 ぜひ、ご参加をご検討いただけるとうれししいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
March 30, 2021
コロナ禍で、多くの公演が中止、内容の変更を強いられています。一方で、やむない変更が、プラスに転じた公演も少なくありません。新国立劇場の「ワルキューレ」は、その好例となる充実した公演でした。 コロナ禍による外国人の入国制限に端を発し、多くの変更を強いられた「ワルキューレ」。が、それがほぼプラスに働いたように思います。立役者は大野和士マエストロ。演奏はもちろん、キャスティングから版の選択に至るまで、大正解、と言っていいでしょう。オペラ指揮者、オペラ監督としての大野マエストロの実力を思い知りました。それに支えられた、演奏も含めて大いなる一体感のある公演でした。 まず、入国制限のために来られなかった外国人キャストの代役として起用された日本人キャストが適材適所。公演直前に発表され、話題になった、ジークムント役を二人で歌い分けるという選択も、実際に聴いてみて頷けました。第一幕を担当した村上敏明さん、明るい声とリリカルな響きは確かにロマンティックなジークムントに相応しく、第二幕を担当した秋谷直之さんも、確かにロブストなパワーは悲劇の英雄に相応しいのですが、どちらかが両方の幕を歌うより、1幕ずつに専念していただいたほうが音楽的に充実する、という大野さんの考えには全く同感です。これは、聴いてみなければわからなかった。百聞は一聴にしかず、です。 他のキャストで変更なしは、世界の(バイロイトの常連)藤村実穂子さん(フリッカ役)だけでしたが、繰り返しですがピンチヒッターのメンバーは概して適材適所。外国人キャストは、1月に関西で行われたワーグナー関連のコンサートで来日し、そのままこの「ワルキューレ」のために引き止められた(!!それもすごい)というヴォータン役のクプファー=ラディツキー氏だけでしたが、やはり存在感は圧倒的で、舞台を引き締めていました。声の豊かさに加えて演技力が素晴らしい。登場時の高揚から絶望、憂鬱、ブリュンヒルデへの怒りと愛まで、多彩な感情を肌で感じさせてくれました。 ブリュンヒルデ役の池田香織さんは、昨春のびわ湖ホール「神々の黄昏」での見事なブリュンヒルデが記憶に新しかったので期待していましたが、その期待を裏切らない秀演。あの小柄な体のどこからこんなパワーが出てくるのか、と思わせられる、よく飛ぶ密度の濃い声を武器に、世間知らずのお嬢さんから、ジークムントの苦しみや愛に共感し、父に楯突く勇気を得て、最後は父の愛に応える「成長する」ブリュンヒルデを見事に演じ切りました。ジークリンデ役小林厚子さんは、明るめの響きとリリカルな表情豊かな声で、愛に溢れるジークリンデを熱演。第三幕で、お腹の子供のために生きる覚悟を決めた時のブリュンヒルデとのやりとりには、生でなければ味わえない奇跡的な迫力がありました。フンディング役長谷川顕さんも、無骨な「敵役」を好演。実は長谷川さん、先日の二期会「タンホイザー」の時はちょっと不安定で気にかかっていたのですが、今回は好調。で、思ったのですが、やはり「チーム大野」の一体感は大きいのではないかと。「タンホイザー」は、指揮と合唱が引っ張っていて、それはそれで聴き応えがあったのですが、こういう「一体感」には到達していなかったのですね。 BCJの「マタイ」のように、コロナ禍で日本人キャストを起用して、プラスに働いた公演はいくつもありますが、今回の新国立劇場の「ワルキューレ」もその一つであることは確実です その牽引役大野さんのワーグナーは3度目ですが(前二回は新国の「トリスタン」、Metの「オランダ人」)、今回が一番良かった(オケは東響)。特に第一幕は神がかっているのではないかと思えました。基本的にインテンポで、過剰にテンポを揺らしたり表情をつけすぎたりせず、メリハリをつけ、リリカルな部分は綺麗に「歌う」。「歌」と劇的瞬間に満ちたワーグナー。聴いていて快い。 さらに今回、イレギュラーな選択が正解だったのは、ピットの「密」を避けるためにオーケストラの規模を削減した「アッバス版」の使用です。これが、全体のバランス、見通しをよくしたという点でプラスに働いたのです。日本人の歌手にとっても、フル編成より正直楽だったと思う。日本人は外国人歌手よりパワーが劣るなどというつもりは毛頭ありませんが、それは、今回のプロダクションの初演時に出たグールドだテオリンだに比べればガタイは小さいですから、フル編成だと彼らに敵わない部分はあると思う。この選択も、繰り返しですが大野さんの決断です。 いろんな意味で「画期的」と言っていい公演だったと感じました。マイナスと思われた状況をプラスに転じる。これも、舞台の醍醐味です。 新国立劇場、昨年前半、5演目がキャンセルに追い込まれましたが、新シーズンからは「とにかく公演を続ける」(大野さん)覚悟で、販売席数削減を強いられて経済的に厳しい中、本当にいい公演を続けています。藤倉大さんの「アルマゲドンの夢」は、新国がヨーロッパの第一線のオペラハウスと肩を並べた画期的な公演でしたし、外国人キャストが揃った「こうもり」も素晴らしかったし、「スカラ座のカヴァラドッシ」、メーリが最高だった「トスカ」も良かったし、もう感謝しかありません。やはり大野さんが今、新国のオペラ監督をやってくれていることは本当に大きい。 最終日はワーグナーのスペシャリストとして知られる城谷正博さんが指揮を執るそうで、急遽いくことにしました。楽しみです。 チケットは、最終日のみ少し残っているそうです。何しろ席数半分の900しか売れないかので。。。多くの方に聴いていただきたいですが、そこはどうにも残念です。 公演情報はこちら。 新国立劇場「ワルキューレ」
March 15, 2021
見た知人友人が口を揃えて「よかった!」と言っている映画、「すばらしき世界」を見てきました。 よかった。いえ、よかった、と言う言葉では全然足りません。すごい映画です。(監督の)西川美和ってすごい。 今の日本の生きづらさ、「人間」と「社会」の関係、家族、人の暖かさと繋がり、いろんなテーマが幾重にも重なっている。短編小説ができるような内容が、次から次へと出てくるのです。ここも小説になる!ここも小説になる!そういうシーンの連続。そういう意味では贅沢な映画です。 以下ネタバレあり、それでよろしければ?ご覧ください。 主人公は服役を終えてできたばかりの元ヤクザ。前科10犯、最後は殺人。けれど、彼の方にも言い分がある。あちらが難癖をつけて襲ってきたからやり返しただけ、ということです。そして、今度ばかりは娑婆で働きたいと思っている。ただし心臓に持病があって、何かあると結構命に関わりそう(最高血圧230!とかになったりするような病気です)。 生い立ちは不幸です。私生児として生まれ、施設に預けられ、芸者だった母親は彼が4歳の時を最後に顔を出さない。グレてヤクザになり、用心棒として働き、それでもようやくパートナーに巡り合ってスナックを構えて結婚したのに、すぐ殺人を犯してしまった。刑務所でもしょっちゅうもめて、刑期が延びた。懲罰房も長い。すぐカッとなるたちなんですね。理不尽だと思い込んだことは許せない。それが、彼が、普通の社会で生きていく上の1番の障害になるわけです。 刑務所を出た彼は、弁護士さんを頼って、生活保護を受けながら仕事を探し始めます。すごく真面目なんです。生活保護を受けることをとてもとても心苦しいと思っている。けれど世間には、生活保護っていうと冷たい目で見る人間も少なくない。それにも苦しむわけです。(でも、こう言う人が立ち直るために生活保護を使うのはありでしょう。一部の日本人の生活保護バッシングは異常だと思う) トラブルを起こしたり、ヤクザに舞い戻りそうになりながら、主人公は1歩1歩前進していきます。そんな彼の真摯さに打たれ、周囲も次第に協力していく。生活保護を申請した窓口のケースワーカーは、最初はすぐカッカする彼に手を焼いたものの、仕事探しに親身に協力していきますし、弁護士の先生は、かつて得意だった運転の腕を生かして、失効した免許を取り戻し、いずれ運転手にと言う彼の夢のために、費用を貸します。彼を万引き犯と間違えたスーパーの店主は、かつて自分もチンピラだった過去を彼に重ね合わせて、更生を応援するのです。不器用な彼の真摯さが、周囲に伝わる。「すばらしき世界」が出現します。 そして彼は、老人介護施設でのパートの仕事を得ます。ボロアパートでのささやかなお祝い。みんなからの就職祝いの自転車のプレゼント。一方で、介護施設でも職員間のいじめはある。障害者で仕事ができない同僚をいじめる職員たち。これまでの彼なら割って入って喧嘩を売ったけど、お世話になった人たちのことを思って自重する。と、心臓発作。心と行動を抑えると、心臓が音をあげるのです。因果関係はあるのかないのか。 そのいじめられていた職員が、嵐の中でコスモスを摘んでいた。嵐で散る前に、摘んでおいたのです。主人公はコスモスを受け取り、帰宅の途に。途中、主人公に、元妻からランチの誘いの電話がかかります。再婚した夫との娘も連れていく、と。元妻はわかっているんです。「あなたのような人は、社会では生きづらい」と。ふわっとした気持ちで帰宅。けれど元妻との再会は叶わなかった。。。 最後は、やめておきますね。ぜひ、見てください。 物語の語り手的な役割で、彼の人生をテレビ番組にしようとした小説家志望の若者が登場します。「こんないい材料はない」と若者を焚き付ける女性の辣腕プロデューサー(長澤まさみが役にピッタリ!)。でも結局、若者は主人公をテレビに出すのを思い切り、プロデューサーと縁を切り、「あなたのことを書きます」と宣言する。「だから、戻らないでください。ヤクザに戻らないでください」と、一緒に入った風呂で、傷だらけの彼の背中を流しながら頼むのです。涙ぐみながら。 そのシーンは、若者と主人公が、主人公の母親の手がかりを得ようと、かつて主人公が預けられていた施設を訪ね、母親のことはわからないながら、当時そこで働いていたという老婆と、ささやかな心の交流をもった後でのことでした。老婆は当時、その施設でオルガンを弾いていた、子供たちがそれに合わせて歌ったという。それを聞いた主人公の口から、自然に当時歌っていた歌が漏れてきた。老婆もそれに合わせて歌う。。。 さらに主人公は、そこにいた子供たちのサッカーに混じって走り回る。楽しそうに。けれど最後は地べたに崩折れ、泣き伏してしまうのです。 ここだって、小説になります。繰り返しですが、そういうシーンの連続なのです。 ヤクザに舞い戻ろうとして、思いとどまったシーンも秀逸です。親分のおかみさんは、彼に言うのです。「もう戻ってこないで。誰も好きでヤクザなんかやっていない。もうヤクザで食える時代じゃない。娑婆は生きづらい。でも空は広いって言うじゃないか」 何度も涙腺決壊。この世界は生きづらい、でも生きる価値はある。きっと。それだけでも、すばらしき世界、かもしれません。 映画を見てから、原作(正確には「原案」となっていますが)になった、佐木隆三の「身分帳」という小説をKindleで購入して読みました。かなり雰囲気は違いますが(佐木作品は時代も戦後すぐから始まるので、戦災孤児とか大勢いた時代です)、軸は一緒です。佐木氏はこの主人公に出会って、彼の生存中に小説「身分帳」を書くのですが、映画の中では、作家志望の青年が、佐木氏の役割を担っていました。 あちこちで言い尽くされていることですが、主人公を演じる役所広司さんの演技も「すばらしい」の一言です。 すばらしき世界
March 13, 2021
4年をかけて上演してきたワーグナー「ニーベルングの指環」完結編の「神々の黄昏」が、県知事と国からの要請で中止に追い込まれ、無観客配信となった伝説の「神々の黄昏」から1年。 今年のびわ湖ホール、プロデュースオペラの「ローエングリン」、セミステージ形式ですが無事に行われ、大成功を収めました。初日の簡単な感想です。 ほぼ満席の客席の熱気も印象的でしたが(待ってました、という感じ)、ホワイエで会ったホールのスタッフの方々が、顔を上気させ、「素晴らしいでしょう!」と誇らしげに口を揃えるのがそれ以上に印象的でした。細心の注意を払って準備してきた自信と、結果が出ていることへの高揚感が伺えました。 セミステージ形式(演出は粟國淳さん)といっても、舞台の左右に白い円柱を3本ずつならべ、舞台の奥にスクリーンを出してその場その場に関連した映像(よくある抽象的なものでなく、わかりやすい)を出すのは、視覚的には十分満足できるもの。オーケストラは舞台上で、オケの手前にいくつか段差が設けられ、歌手はその上を行き来して演技します。合唱は舞台奥のスクリーン手前。マスクをつけての合唱はやりにくかったと思いますが、健闘していました。 音楽的にもとても満足度の高い舞台でした。びわ湖ホール芸術監督として数々のワーグナー公演を成功させてきた沼尻竜典マエストロ指揮する京都市交響楽団は、これまでのコラボレーションの総決算を思わせる一体感。音楽は滔々と流れ、雄弁で、ツボを押さえて美しい。何より、ワーグナーの「長さ」を全く感じさせないのがお見事です(ロングヴァージョンなのに)。「ローエングリン」はおそらくワーグナーのオペラ(一般に彼の正当な?作品とみなされる「オランダ人」以降で)の中で、おそらくもっともグランドオペラ風の作品ですが、その華麗さ、美しさ、明暗の対比を十全に表現していたと思います。音楽に潜む「聖」と「俗」とのコントラストが明確に打ち出されていました。第三幕で、エルザとローエングリンの迫真の対決場面が終わった瞬間での絶望に満ちた余韻には、息を飲みました。 ソリストも高水準。みなさん流石に「巧い」ので、多少の傷があってもそれを感じさせない技を身につけています。タイトルロールの福井敬さんの、甘くロブストな声をホールに響き渡らせる入魂の演唱、テルラムントの小森輝彦さんの、立体感のあるドイツ語の発声に支えられた複雑な心理表現が生きた悪役ぶり、オルトルートの谷口睦美さんの、彼女の才能である役柄が憑依するおぞましき悪女ぶり、伝令役大西宇宙さんの、若々しくみずみずしいよく響く美声、国王ハインリヒ役妻屋秀和さんの、よく通る高音域とみなぎる威厳。みなさんそれぞれの持ち味を十二分に発揮していました。 個人的なMVPは、エルザ役の森谷真理さん。頼りない、自分のないエルザ、よるべのないエルザを好演。いわゆる「ワーグナーソプラノ」を想像すると多少華奢な声ですが、儚いエルザの役作りには相応しかったように感じます。だからこそ、エルザに共感できましたから。これが太い声だったら、こうは行かなかったかもしれません。しかも急の代役(もちろんロールデビュー)で、1ヶ月足らずの準備期間しかなかったそうですから、驚くべき完成度です。やはり、すごい歌い手ですね。 女性二人の「明暗」「善悪」がはっきりしているこのオペラ(例えば「タンホイザー」の二人の女性よりコントラストがあるのでは)、当日の女性二人は本当に役柄にふさわしく、第二幕で繰り広げられた森谷さんと谷口さんの対決は、当日の白眉でした。(またワグネリアンに怒られそうですが、このお二人でアイーダVSアムネリスとか、エリザベッタVSエボリとかをぜひ聴いてみたいものです) 客席の静かな、でも熱のこもった、そして「待っていました」という熱狂、ホワイエの賑わい(バーが営業していて感動。。。)。あれから1年、多少イレギュラーであっても公演が戻り、成功を収めたことに、心からの拍手を捧げたいと思います。
March 7, 2021
大変貴重な一冊。知る人ぞ知る名プロデューサー、広渡勲さんの回顧録です。 広渡勲さんは、東宝を経てNBS(旧JAS)で、海外のオペラハウスやバレエの公演を数多く手がけられ、スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリンドイツオペラ、ウィーン国立歌劇場など、伝説になった来日公演の裏方として奮闘なさり、質の高い公演を実現した立役者となった、伝説の名プロデューサー。その仕事ぶりと気配りで、クライバー、バレンボイムをはじめ著名なアーティストの絶大なる信頼を受けたことでも有名です。クライバー、バレンボイム、メータなどは家族同然、バレンボイム、メータとは「三兄弟」の仲だそう。 この本を読んでいると、なるほどなあ、という場面が何度も出てきます。素早く仕事をこなし、満遍なく気配りする。仕事においても人間関係においても、とにかく「機転がきく」のです。演目や演出の交渉といった公の部分から、来日公演中に主役キャストの一人が浮いていると折を見て食事に誘うような、目に見えない部分での細やかな気配りまで、それはすごいのです。 最晩年、体調が芳しくないカール・ベームを、ファンにもみくちゃにされないようこっそり楽屋口から出したら、本人がファンに囲まれたくて機嫌が悪くなったので、その次の公演の時にはファンの「エキストラ」!を楽屋口に十人揃えた!とか。公演中に揉めていた演出家と歌手を、最後の最後の打ち上げパーティで一緒に鏡割りをさせて仲直りさせたとか。。。。そんなエピソードを読むと、つくづくその気配りの素晴らしさに感じいってしまいます。この人となら一緒に仕事がしたい、と思うアーティストが続出するのは当然でしょう。 気配りの広渡さんと、本物へのこだわりと眼力が凄まじかったというNBSのトップ、故佐々木忠次さんの組み合わせで、NBSは80−90年代にかけて、伝説的な来日オペラ公演の数々を実現させることができました。新国立劇場もなかったし、日本も上向きだったし、ある意味いろんなタイミングが重なって、クライバーの「オテロ」や「ばらの騎士」、フリードリヒ演出の「リング」日本初演など、語り草がいくつも生まれました。 もう、そういう時代ではありません。「人」もいなければ「お金」も回らない。また海外の歌劇場にしても、当時のような、自分たちの名誉をかけて日本公演を、という気概は感じられない(日本に持ってくるのは現地でのBキャスト、ということが珍しくありません)。ビジネスライクになった、というようなことを広渡さんもこの本の中で呟いておられます。 広渡さん、「スピーディSpeedy」というニックネームをお持ちで、そのことは前から存じていたのですが、その由来も本書にありました。スカラ座の総裁一行を京都に案内していた時、立ち止まって話してばかりいるので、「歩きながら話してください」と頼んだところ、機智があってすばしこい人気キャラ、「スピーディ・ゴンザレス」みたいだ、と言われ、それがニックネームになったのだそう。なるほど。 広渡さんと海外出張に行かれたある方から伺ったのですが、ウィーンに行ってもベルリンに行っても、劇場に行くと「スピーディがきた!」と大騒ぎになったそう。(当時全盛期だった)「カサロヴァが、私のところにきてちょうだい、って言ったり、ベルリンではルネ・コロが、「スピーディがきているなら僕が空港まで送っていく」と言い出したりするんですよ」。で、「とにかく仕事が早いんです。数歩歩く間にいくつかのことをしている。僕の何倍ものことをしてるんです。「スピーディ」って呼ばれている理由がわかりました」 このお話、とても印象的だったのですが、この本を読むと、よくわかります。 名プロデューサーと伝説の公演、日本のクラシック音楽受容史の重要な1ページですね。中身の濃い本で、特にオペラ好きにはたまらない、ワクワクドキドキの一冊です。 もし「クライバーって誰?」という読者も意識するのだったら、構成はもう少し考えたほうがよかったかもしれません。最初から延々とクライバーとのエピソードが出てくるより、広渡さんの経歴や当時のクラシック、オペラ、バレエ界の状況から始める手もあったかもしれません。本の詳細はこちらから。マエストロ、ようこそ
March 7, 2021
本日(3月2日)、新国立劇場、オペラ公演のシーズンラインナップが発表になりました。記者会見に参加してきましたが、大変素晴らしいラインナップだと感じています。何より、「国立のオペラ劇場に求められるもの」がそろってきた、という印象です。 ラインナップはこちらから。 新国立劇場 オペラ 新シーズンラインナップ 何が素晴らしいかというと、まず演目のバランスです。 1998年に誕生して20数年。新国立劇場のこれまでのラインナップは、必ずしもバランスのとれたものとは言えませんでした。同じ作品(その中には比較的マイナーなものも)が繰り返し新制作されることが目立つ一方で(「指環」二回、「アラべラ」二回、「ナブッコ」二回など)、レパートリーがなかなか増えない。19世紀ドイツ、イタリア中心で、昨今流行りのベルカントやバロック、国立のオペラハウスならあるべきロシアものやフランスものが極端に少ない。20数年経ってベッリーニが1曲もなく、ロシアオペラの金字塔である「ボリス・ゴドウノフ」もまだ。(後者2点は今回も「まだ」でしたが、「ボリス」に関しては予定があるようです)20世紀ものも少ない。何より、持っているプロダクションが少ない(らしい。大野さんが繰り返しおっしゃってます)。 2018年に指揮者の大野和士さんがオペラ部門の監督に就任されて以来、そんな状況は変わりつつあります。「国立のオペラハウス」としての目配りが、格段に違ってきたと感じるのです。ようやく、という感じですが、とても嬉しい。(これまでの芸術監督だと、故若杉弘さんの監督時代はかなりバランスが取れていたと思います。若杉さんも大野さんも、海外のいい劇場でポストを持たれた経験が物を言っていると感じます)。 大野さんはかねがね、「ベルカント、フランスもの、20世紀、同時代もの、バロック、ロシアもの」といったレパートリーが少ない、増やすべきだ、と唱えておられましたし、実際、これまでのシーズンもその路線は明確でした。また日本人作品、特に新作委嘱にも力を注がれ、昨秋の藤倉大氏の新作オペラ「アルマゲドンの夢」は、作品、上演レベルともに素晴らしい公演でした。ようやく、新国立劇場が、ヨーロッパの第一線の劇場と同等になったと感じたものです。 今回のラインナップ、個人的には「きたきた!」と小躍りしたい気分です。これまでほんとに僅かだったベルカントで幕を開け、これもほんとに僅かだったフランスものでシーズンを閉じるのですから。しかも2作とも、指折りの名作です。これまでも上演はありましたが、一回限りだったり中劇場だったり。そういうレベルの作品ではなくて、常にレパートリーにあるべき作品なのです。しかもキャストも素晴らしい。 シーズンの開幕は、ロッシーニの「チェネレントラ」。ロッシーニの大傑作。「人をホロリとさせる」(大野さん)近代人、ロッシーニの面目躍如の作品。そして指揮者がすごい。今、ベルカントをふらせたら当代屈指のマウリツィオ・ベニーニです。日本にはそんなにきていませんが、Met ライブビューイングのベルカントものでもおなじみ(いつも名演!)。私もモンテカルロの「スティッフェーリオ」、マドリードの「海賊」(ベッリーニ)などでその名技に揺さぶられてきました。歌手も、日本が生んだロッシーニスターの脇園彩さん、昨年の「セビリアの理髪師」の名演が記憶に新しいルネ・バルベラ、 ベテランのアレッサンドロ・コルベッリなど贅沢です。 そしてクロージングを飾るのは、ドビュッシーの、そしてオペラ史上の大傑作、「ペレアスとメリザンド」。オペラハウスにはなくてはならない作品です。大野さんが指揮し、エクサンプロヴァンス音楽祭で絶賛されたというケイテイ・ミッチェルの演出(こういうのは、大野さんでなければ実現できないでしょう)、歌手には大ベテランのロラン・ナウリ、注目のベルナール・リヒターなど。ああ、待ち遠しい。 「ペレアス」の前に上演される、グルック「オルフェオとエウリディーチェ」も注目です。大野さんによれば、今回のラインナップはこの作品から始まったそう。グルックは18世紀の「オペラ改革者」、言葉と音楽の融合を試みた作曲家として知られますが、その影響は同時代よりむしろ19世紀に強く、ワーグナーも大いに影響を受けた。そしてそのワーグナーの克服から始まったのがドビュッシー。。。というように、ストーリーのあるラインナップなのでした。 そしてこの演目、バロックに強く、マルチタレントとして注目の鈴木優人さんの指揮、ダンスの天才、勅使河原三郎さんの演出。グルックはバレエも重要ですし、才人二人のコラボから何が生まれるか、注目です。 もう一つの新制作は、今年中止になり、延期された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。時期が変わったのにもかかわらず、当初予定のキャストが揃ったとのことで、大野さん、嬉しそうでした。新制作は以上4つです。 再演は定番ものばかりで、残念ながらロシアものだ、日本人作品だ、と言ったものは見当たらないのですが、今回は、昨年の前半にコロナで中止に追い込まれたもの(「マイスタージンガー」など)の調整という面もあり、当初の計画がかなり混乱してしまっているということ。致し方のないことと思います。それでも、「キタキタ」というワクワクは120%味わえた気分です。 再演6演目、「蝶々夫人」「さまよえるオランダ人」「愛の妙薬」「魔笛」「椿姫」「ばらの騎士」は、目玉のキャストという点では不足はありません。 「蝶々夫人」は、実力派の国際的ソプラノ、中村恵理さんのタイトルロールに、注目のテノール、ガンチの顔合わせが目を引きますし、「オランダ人」はなんと、巨匠ジェームズ・コンロンのタクト。大野さんが口説いたようです。オランダ人役のシリンスも楽しみです。「愛の妙薬」は、ちょっと前の「ドン・ジョヴァンニ」で客席を熱狂させたベルカントテノール、フランシスコ・ガテルの再登場。イタリアの注目新鋭、フランチェスコ・ランツィロッタの指揮も嬉しい(彼のベルカントものは素晴らしいです)。ドゥルカマーラにこれもベテランのデ・カンディア。ほんと、いいです。 「椿姫」は、世界のヴィオレッタ、アニタ・ハルティヒに注目でしょう。ウィーンをはじめ各地でヴィオレッタを歌っている名花です。「ばらの騎士」は、ウィーンでをこの作品を得意にしているウィーンっ子、サッシャ・ゲッツェルの指揮に加え、なんとドイツの大ソプラノ、アンネッテ・ダッシュが元帥夫人!大変楽しみです。 「魔笛」はオール日本人キャスト。(以前も「魔笛」はこういうことがありました。日本人キャストでやりやすい作品でしょう)いいと思います。鈴木准、砂川涼子ら日本を代表する名手たちが登場します。 日本人キャストについて、大野さん、このコロナ禍で日本人が多く新国立劇場の舞台に立つようになり、改めてその能力の高さに気づいたとか。日本人は「譜読み、ソルフェージュ能力がとても高い」のだそうです。そして「層が厚くなっている」。これからも、積極的な起用が期待できそうです。 かつて(まだ新国立劇場ができる前に)日本のオペラシーンを牽引した海外のオペラハウスの引っ越し公演も、これからはなかなか難しい時代になりそう。新国立劇場が、日本のオペラ界を牽引してゆく存在であるべきなのは明らかです。そのような観点からも、大野さんのバランス感覚や人脈は貴重です。新国立劇場がリードし、可能な限り全方位に展開して、それ以外のカンパニーや劇場が独自の色を出していく。これからの日本のオペラ界は、そうなってゆくと思うし、そうなるべきだと考えています。
March 3, 2021
コロナ禍だからこそ、普段感じないことを感じる。そんな経験は少なくないですよね。 コンサートでも、そんなことがいろいろあるのですが、先週の金土に聴いたコンサートは、「この時期だからこそ」を一際痛感したコンサートでした。 「世界クラス」の実力とはこれだった、これを忘れていた、という思い。 加えて、アーティストの方も、舞台になかなか立てないからこそ全力投球してくる、その熱い思い。それを受け止める喜び。 世界クラスの音楽がふんだんに提供されていたコロナ前の日々がいかに贅沢だったか、思い出されることしきりでした。 12日金曜日の夜は、大手町よみうりホールで、寺神戸亮&曽根麻矢子&レ・ボレアードによるバッハとヴィヴァルディのコンサート。バッハのチェンバロ協奏曲とヴィヴァルディの「四季」の組み合わせです。 このコンサート、目に止まった時、これは聴きたいとまず思ったのは、曽根麻矢子さんのチェンバロ。昨年インタビューさせていただいた時に愛器のご紹介があり、音量が大きくて華やかでコンサートホールでも映える楽器だと伺って、生で聴きたいなあと思っていたのでした。 それに、バッハのチェンバロ協奏曲って、生で聴く機会は意外と少ない。有名曲なんですけどね。「ピアノ協奏曲」としてオーケストラコンサートでやることもあるのですが、やっぱり違う、と思ってしまいます。「チェンバロ協奏曲ってバッハしかない」(寺神戸、曽根)。そうなんです。オーボエやヴァイオリンやらの協奏曲はたくさんあるのに。やっぱりチェンバロで聴きたい。 予想通り、とても魅力的な演奏でした。ゴージャスでダイナミックなソロにも魅了されましたが(ニ短調=第一番協奏曲のカデンツァは圧巻)、何より「バロック時代の協奏曲」の醍醐味を味わえました。 今回、プログラム冊子がなく、寺神戸さんや曽根さんのちょっとした解説を挟みながらの進行だったのですが、寺神戸さん曰く、「バロックの協奏曲というのは、今回のような小編成(今回は各パート一人)で、ソロとのやりとり、競い合いconcertareが醍醐味」。確かに。そこが古典派以降の協奏曲と違うところです。 そういうのを、一流の演奏家で聴く機会って、日本ではあまりないように思います。フライブルクバロックオーケストラやベルリン古楽アカデミーなどがきたとき、またはBCJで「ブランデンブルク協奏曲」がいいところでしょうか。 しかし当日の圧巻は後半の「四季」でした。寺神戸亮さんが世界クラスのヴァイオリニストだということを、改めて思い知りました。実は、日本ではあまり彼のソロを聴いていないのです。BCJのコンマスとか、北とぴあ音楽祭でのオペラの指揮とか(その中でソロを披露されることはありますが)ばかりで。この前に寺神戸さんのヴァイオリンソロを聴いたのはいつだったか?と記憶をたどっていたら、ずいぶん前のライプツィヒのバッハフェスティバルだったり。 寺神戸さん、今回のコンサートのためだけに来日したそう。来日前後の3回のPCR検査、来日してからの14日間隔離を経ての本番、嬉しそうでした。集中力も違ったのではないでしょうか。そして、音楽の愉悦も。 「四季」は、春夏秋冬、各曲の前に、おそらくヴィヴァルディによるソネットがついていることでも有名ですが、寺神戸さん、各曲の演奏前にソネットを朗読。それがハマりました。春の喜び。夏の炎暑の気だるさ。秋の酒宴(酔ったバッカスの足取りをまねた演技入り!)。冬の冷たさと透明感。それを自在に表現する。細やかに移り変わる音色と完璧な技巧。オケメンバーとの掛け合い。巧みなリード。全てが第一線。世界クラスとはこのことです。今、なかなか触れられない世界がここにある。心の扉が開いた思いで聴いていました。ライプツィヒのバッハフェスティバルではこんなのを毎日のように聴いていた。それも朝から晩まで。あれがいかにすごいことであったか、恵まれたことであったかと痛感した2時間余でした。 入場制限をかけての開催で、当日券もわずかしか出ず、でも後方の方はほとんど空席。仕方ないとはいえ、やはり勿体なかった一夜でした。 13日の土曜日に東京文化会館の小ホールで行われたテノールのフランチェスコ・メーリのリサイタルについては、多くの方がネットにあげていらっしゃるので、もう言い尽くされた感がありますが、同じく世界クラス、を痛感しました。そして、本国で舞台に立てない状況にあるメーリの喜びも。 メーリ、先月の新国での「トスカ」の好演があり、本人も客席も盛り上がっていたことは確かです。今月に入ってから数カ所でリサイタルツアーを行い、これが今回の来日最後のコンサート。アンコールはなんと10曲!披露されました(次の準備があったために、全部聞けずに退席してしまったのは、返すがえすも残念無念でした)。彼のリサイタルは、これまで日本だと「東京プロムジカ」という主催者が何度も開催していて、その時ももちろんよかったのですが、やはり今回は熱の入り方が違いました。そしてメーリの成熟も感じました。 メーリの美点は、なんといっても発声の美しさ。フォームの美しさ。イタリア語がすっと耳に届く。自然に、どこの声域も無理なくむらなく聴こえること。これは、ベルカントを十二分にこなして(ロッシーニのセリアなど難曲も)土台ができていることも大きいと思う(今のレパートリーからはちょっと意外に感じられる方もいるかもしれませんが、2008年のロッシーニ音楽祭来日公演の「マホメット2世」でパオロをやっていたのがメーリで、ヒロインを歌っていたのがマリーナ・レベカです。2人とも今や大スターになりました)。他のスター・テノールで、ここまでベルカントを歌い込んでから大舞台に出てきた人は少ない(グレゴリー・クンデなどはいますが)。それが端正さ、格調高さに繋がっている。さらに美しく滑らかなレガート。そして、以前より充実してきたのは響きと声量、自在なフレージングです。そしてちょっとした、あるいは故意にたっぷり取る「間」の効果的なこと! 前半は歌曲、後半はオペラアリアという定番のプログラムでしたが、歌曲も絵画的で、1曲1曲が絵になっていました。そして、繰り返しですが、イタリア語が耳に残る、その心地よさ。 アリアでは、「ルイザ・ミラー」の「穏やかな夜」に、やっぱりメーリのヴェルディはいい、と思いました。彼が、ムーティに鍛えられ、ムーティと一緒にヴェルディのスコアを読み込んだ(メーリからききました)テノールであることは記憶されるべきです。アンコールの最後は「椿姫」のアリアだったそうで、聴けなくてつくづく残念でした。 個人的に「これ全曲聴きたい」と思ったのは、マスネ「マノン」のアリア「夢の歌」でした。彼のフランスものは聴いたことがないので、聴いてみたい。新国で「マノン」はまだやっていない(はず)ので、メーリでやってくれないかなあ。マノン役が誰か、が問題ですが。 で、こんな妄想が次々と湧いてくるわけです。「マノン」はグリゴーロ&ダムラウをメトで聴いたなとか、メーリ、ザルツブルクで「アイーダ」だったけど新国の「アイーダ」に出てくれないかな、とか、ベチャワのフランス物も良かったな、とか、メトではフローレス&ディドナートの「湖上の美人」も良かったなとか。あれも良かったこれも良かったというのが、次々に溢れ出てきてしまう。コロナ禍で、鍵をかけていた扉が開いてしまった、そんな感覚。それもこれも、「世界基準」って、これこれ、これだった!という体験をさせてくれているメーリが目の前で歌っているからなのです。 ピアノ伴奏は、予定されていた奏者が来日できず、浅野菜生子さんになりましたが、浅野さんとメーリはこれまでプロムジカのコンサートで何度も共演していますから、息はぴったり。かえってよかったかもしれません。
February 19, 2021
ここ1ヶ月ほどで、モーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」を3回見ています。先月は藤原歌劇団、一昨日は、「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」によるハイライト上演(ピアノ伴奏)、そして昨日は新国立劇場「フィガロの結婚」。ちょっとした「フィガロ」ラッシュです。 貴重であると同時に、いろいろ考えさせられる体験でした。 3つのうちで最も際立っていたのは、「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」による上演。見終わって「オペラ万歳!」という気分になりましたから。そして、これからのオペラ上演のあり方の、大きな可能性を感じられたからです。 「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」は、人気バリトン歌手宮本益光さんが率いるグループ。モーツアルトの名作オペラを、宮本さんがアレンジしたハイライト版で上演します。セミステージのような形式ですが、演技はふんだん。何より、内容を噛み砕いて、とにかくわかりやすく、楽しめるものにしているところが素晴らしい。 このグループ、これまでもこのような形式でモーツァルトオペラを上演しているのですが、私が見たのは昨秋、「魔法の笛」というタイトルで上演した「魔笛」です。その時は指揮者のキハラ良尚さんの、五島文化賞受賞後の活躍の成果発表という面もあり、東響メンバーによるオーケストラが入ったのですが、今回はピアノ伴奏でした(山口佳代さん。でも十分で、不足はありません)。 「魔法の笛」の感想ブログ 「まほうのふえ」感想 このグループの公演の何が素晴らしいって、第一に宮本さんの構成です。ナレーションで物語の軸を説明する(語り手は長谷川初範さん)っていうのがまず大成功。「フィガロの結婚」って、音楽はともかく物語は結構入り組んだオペラで、セリフだけではストーリーがちゃんと追いきれません。さらりとした会話だけでは、ゴタゴタした物語の伏線を説明しきれない。貴族階級の恋愛遊戯=ロココの世界だから、ややこしいのは仕方ないのですが、でもわかりにくい。物語が二転三転する第2幕フィナーレなんて、ほんとに訳がわからなくなってしまいます。 今回のヴァージョンは、そういう部分を、ナレーションでうまく説明していました。この形式だと、物語がすっと頭に入る。音楽と舞台に集中できます。 一番感心したのは、伯爵がケルビーノに出した軍隊行きの辞令に「ハンコがなかった」ことを、第2幕のケルビーノのアリエッタ「恋とはどんなものかしら」の場面で、ナレーターが説明したことです。この「ハンコのない辞令」、アリエッタのあとでちらっと触れられるだけなのに、幕のフィナーレで物語の鍵になります。よほど注意していないとききのがしてしまう。それを、事前に然るべき場所で説明しておくのは正解だ、と思いました。 それから、これもとても重要なポイントですが、伯爵を偽の恋文で誘き出してとっちめるという物語の大筋の部分、最初は小姓のケルビーノをスザンナに変装させようとして、見つかって失敗し、伯爵夫人が変装する展開になるのですが、夫人が変装するという話も、第3幕の最初の伯爵夫人とスザンナのさりげない会話で仄めかされるだけなので、最初はなかなか気付きません。見ているうちにわかるのですが。。。が、その部分も、ナレーションであらかじめ説明することで、いつの間に変装する人間がケルビーノから伯爵夫人に変わったのか?と思い悩まずにすみます。 また、スザンナが伯爵に宛てた偽の恋文をめぐる「ピン」の逸話もわかりにくい。第3幕のフィナーレで、スザンナが伯爵に逢引きの場所を伝える手紙を渡した際、ピンで留めるのですが、そのピンを、伯爵が返事の代わりにスザンナに渡さなければならない設定だと、ナレーションで説明してくれたのもありがたかった。ピンを渡すこと=返事だとは、不覚にしてわかっていませんでした。。。続く第4幕の冒頭で、バルバリーナが伯爵から預かったピンを無くしたとアリアを歌うのですが、その伏線をこれだけ説明しておいてもらえると、バルバリーナの切羽詰まった曲調も理解できます。 とにかく、そういう工夫がいっぱいあるのです。 「フィガロの結婚」って、実は初心者には勧めにくい作品だと感じることがよくあります。予習会などしてビデオを見ていると、安らかにお休みになるケースが多かったり。。。それは音楽が美しいのに加えて、話がわからなくなってしまうというのもあると思うのです。こういう上演なら、断然おすすめできます。 それは別としても、このような上演形態は、これから必要とされていくと思うのです。オペラは、何しろ長い。「フィガロ」だって休憩を入れれば下手すれば4時間です。このヴァージョンですと、正味2時間くらい。それで、音楽のエッセンスは十分味わえる。 音楽は、アリアは1人1曲くらいに抑えて、アンサンブルを重視。第2幕の長大なフィナーレも全部やりました。第4幕のフィナーレも。この頃「フィガロ」の講座をやるとき、長さに身構えて第2幕フィナーレなどはほとんどやらないのですが、うーん、やっぱりあったほうがいいかな、そんなことも考えながら見ていました。 演出もとても気が利いていました。ダンサーを入れてその場の状況を暗示するのは「魔法の笛」でもやっていて、成功していると思いましたが、今回もその手法を踏襲。男女2人のダンサーが、歌手たちと絡みながらその場を盛り上げます。舞台の大道具は数本の棒で、部屋の輪郭などを暗示するのに活用されていました(ちょっと、ピーター・ブルックの演出した「ドン・ジョヴァンニ」を思い出しました)。 そして歌手のみなさん、バンバン演技をします。ダンスもします。所狭しと駆け回る。突っ立って歌うオペラはますます過去の遺物になりそうです。 貫禄の宮本伯爵、可憐機敏な鵜木絵里スザンナ、美声に加えてユーモラスな演技も抜群の加耒徹フィガロ、堂々とした美声に伸びやかな演技のケルビーノ中島郁子(このところ絶好調!)、これまた貫禄の澤畑恵美伯爵夫人などなど、歌手も粒揃いでした。 一方、今月幕を開けた新国立劇場のプロダクションは、2003年以来上演され続けているホモキ演出の7回目の再演。革命前の、それまでの規律が崩壊していく時代の空気を幾何学的に表現した舞台〜空間が崩壊していく〜の魅力は健在。人間がそれまで頼ってきた指針を失ってよるべなくなる危機の時代を、鮮やかに視覚化しています。今回はディスタンスを意識して、合唱団の配置を大幅に変えたり、演技も所々変えていて、苦労が偲ばれました。 フィガロ役は1月の「トスカ」でスカルピアを歌ったダリオ・ソラーリで、スカルピアを聴いた時にフィガロの方が向いているかも?と思ったのですが、果たしてその通りでした。リリカルでしなやかな声、ユーモラスな演技、イケメンで背も高くて舞台映えがします。伯爵役ヴィート・プリアンテも色好みの伯爵を好演。こちらもイケメンで、バブリーな雑誌「レオン」(古いですね)に出てくるイタリア男みたいでした(ナポリ生まれ!)。 期待のケルビーノ、脇園彩は演技も声もスケールが一段上。ちょっとした眼差しの雄弁さがたまりません(レパートリーではないんでしょうが、「ばらの騎士」のオクタヴィアンが見たくなります)。バルトロ役妻屋秀和の人間味溢れる声と表現力もさすが。妻屋さんはユーモラスな役の方が演技力が生きる気がします。スザンナ役臼木あいの、軽やかで澄んだ鈴を転がすような声もコケティッシュでした。 沼尻マエストロ指揮の東響が紡ぐ音楽は流麗でロマンティック。あのクルレンツィスとは対極にあります。これはこれで「あり」。モーツァルトの懐の深さですね。 とはいえ、全体的に、今ひとつ緩いな、と思ったことは確かです。新型コロナの影響でキャストやオーケストラが変わったり、リハーサルの時間が制限されたこともあるのでしょう。 先月の9日には、藤原歌劇団の「フィガロの結婚」をテアトロジーリオショウワで観劇しました。マルコ・ガンディーニのプロダクションの再演。いわゆる伝統的演出で、セピア色を基調にした柔らかな色合い、適度な大きさの舞台を有効に使ったシンプルな大道具、ベッドのヘッドボードや雰囲気のあるデスクといった小道具、ディスタンスも多少意識した躍動感ある演技などが印象的。キャストの中では、スザンナ役中井奈穂のフレッシュでチャーミングな声と演技に惹かれました。 あと、フェイスシールドをつけての公演でしたが(藤原は昨夏の「カルメン」からそうですね)、これ、歌い手によってかなり差が出るような気がしてちょっと気の毒なのと、フェイスシールド自体の効果はあまりないという実験結果が出ているようなので、再考してもいいのではないでしょうか。 そしてこの時、上演時間の「長さ」を痛感しました。緊急事態宣言が出たばかだったので、換気を意識したためもあるのでしょうが、休憩が2回入ったため、合計4時間。 今はともかく、アフターコロナの時代がきたときに、平日の午後に4時間をそれに費やせる人たちを対象にした出し物がやっていけるのか。。。。 その点でも、「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」の公演のあり方に大いに可能性を感じた、今回の「フィガロ」ラッシュでした。
February 12, 2021
最近話題の音楽書からもう一冊。 発売即重版。クラシック音楽界きってのエッセイストとしても名高い、オーボエ奏者、指揮者の茂木大輔さんの新刊「交響録 N響で出会った名指揮者たち」(音楽之友社)。 およそ30年におよぶN響時代に出会った数々の指揮者の肖像は、それだけで日本の演奏史の1ページ。演奏も態度も威厳そのもののカリスマ指揮者サヴァリッシュから、明快で無駄がなく、迷いがなく、高速で直進する、21世紀のIT時代が生んだ新しいタイプの指揮者パーヴォ・ヤルヴィへ。LP時代(それよりは新しいけれど)の指揮者からネット配信時代の指揮者へ。音楽界も時代とリンクしていることがよくわかります。国際的な活躍をしている指揮者は皆それぞれ個性的なのでしょうが、著者の観察眼と知性、ユーモアのセンスで極上の、時に抱腹絶倒、時にニヤリとさせられる読み物になっています。そして、「指揮者って何をしているの?」という素朴な疑問にも、これ以上ない答えをくれているのです。 ちなみに、「終わって欲しくない」と思った演奏会は、スクロヴァチェフスキとプレヴィンだったそうです。 もうこれは、何箇所かご紹介して、唸ったり、腹を抱えたりしていただくことにしましょう。 小澤征爾。 「とにかくものすごく指揮がうまくて、ため息が出るほどだった。全ての合図、動きには音楽としての意味があり、見ているだけでどうすればいいのかが本当によく理解できた。。。 その演奏の精密、絢爛、迫真は、全く体験したこともない高い水準だったことも疑いがない。」うーん、見てみたい。 チョン・ミョンフン (世界で一番好きな指揮者だそうです) 「練習場に出てきただけで自信、余裕にあふれたその態度というのは頼もしく、セクシーでもある。「仕事だ、仕方ない、また音楽でもやるか」と言わんばかりの、ちょっと音楽嫌いそうな感じは、朝イチのオケの気持ちと完全にシンクロしていて、それだけで心を捉えられる。。。。 。。。ある瞬間から、急に両肘が前に張られて心臓あたりを両手で持ち上げるような独特の気合が入って、音も「ぐぐぐ!!!」と変わる。。。。 。。。。もう、楽譜などというものは遠い昔のどこかで消えてしまって、全ての音は世界に初めからあったのだ、というような作品との一体感。。。。」 目に浮かぶリハ風景。そして「作品との一体感」の奇跡は、チョンマエストロの場合、東フィルとのマーラー5番で体験しました。。。。深海を漂っているようでした。 ネルロ・サンティ (抱腹絶倒ナンバーワン!!!) 「よく歩けるな!と思える縦横前後に大きなお身体に、国家元首の如き貫禄ある笑顔が乗っている。指揮台に上がると「ボンジョルノ!」と大きなよく通る声でおっしゃるのだが、この瞬間に、高輪練習場を出た外はすぐアドリア海で、真っ青な海、白いテーブルクロスのかかった古城レストランからトマトとニンニクをを煮込む匂いがしているのではないかと思えるほどに、全てがイタリアになってしまうのであった。同じイタリア人でもファビオ・ルイージ氏やジャンナンドレア・ノセダ氏、、、のような若い世代の場合は、もう少し国際的で、練習も滑らかなる英語、良き時代のサンティ師匠はほとんどがイタリア語で、「バ ベーネ ファッチャーモ シンフォニー クワットロ プリモ テンポ ダカーポ!」と高らかにお告げになる。。。。 。。。さらに笑えるのは、これになぜか時々英語やドイツ語が交じることであって、そこかで「国際的指揮者」の片鱗が顔を出すのだが(失礼)、一番すごいのは、「こう思うんですが」と言う時の、「アイデンケ」。英語のIとドイツ語のdenke が同居している。。。」 すごいですね、これ、お分かりですよね?ドイツ語なら Ich denke 英語なら I think が同居しているわけです。たまりません。爆 茂木さん、サンティ師匠と共演した「アイーダ」や「シモン・ボッカネグラ」(演奏会形式)は楽しかった、と回想しています。 ヴェルディ生誕200年2013年の「シモン」、よくやってくれました。素晴らしかった。ヴェルディ好きにはたまらないオペラなのに、日本ではなかなかやってくれないので。。。 最後を締めくくるクリストフ・エッシェンバッハと著者のエピソードも感動的です。24歳の若い頃、バンベルク響で共演したとのことですが、そのマエストロと、著者の退職の直前にN響で共演できた。その演奏は「音楽愛のある」、「ここまで心のこもった指揮者というのは長いN響体験の中でもほとんどなかったのでは」というものだったそう。 そのエッシェンバッハ氏は、著者に、一流指揮者とたくさんの曲を演奏したい、という夢を抱かせてくれた、「自分に初めてはっきりとした人生の夢を見せてくれた指揮者の一人」でした。「時々、全部が夢で、それが醒めたら24歳のフリーに戻っていて、またオーディションに行かなくてはならないのではないか?と思うことがある。 そうじゃない。全部、本当のことだったのだ」。 いいなあ、人生。 本書で、著者が「古楽に目覚めるきっかけ」になったと書いているブリュッヘンのベートーヴェン。死蔵していた「第9」を引っ張り出して聴きました。確かに超名演! 本の詳細はこちらから。 茂木大輔 「交響録 N響で出会った名指揮者たち」
February 7, 2021
これは、とてもいい本です。 「つながりと流れがよくわかる」というタイトルは、本物です。 「西洋音楽史」に限らないですが、「なんとか史」の本というのは、ともすれば史実(?)と有名人(の業績?)の羅列になりがち。そこに年号(いらないよ年号!)でも挟まろうものなら、もうお手上げ。紙に書いた記号の連続みたいなものです。この手の「教科書」を使わされて、歴史嫌いになった人も多いことでしょう。 「西洋音楽史」もかつてはそうでした。大昔ですが、某音楽大学で、「西洋音楽史」の講義をかなり長い間持っていたことがありましたが、そのころは東京書籍から出ていた「西洋音楽の歴史」を教科書にしてました。それは当時としてはかなりわかりやすい、と思って使っていたのですが、それでも学生からは「難しい」と言われた。まして、私が大学時代に受けていた「音楽史」の相棒は、コルネーダーやグラウトの「西洋音楽史」でした。いえ、勉強になる、いい本ですよ。でも翻訳物というだけで限界はあるのです。元々の文章だって相当硬いですからね。やはり自分の言葉で書かないと。グラウトは必読ですが、その前にもっと読みやすい「教科書」が必要です。 で、その後、日本人研究者の方による「音楽史」の本が続々出てきました。以前ここにも投稿した岡田暁生先生や久保田慶一先生などはお一人で書き下ろしているし、複数の著者による「西洋音楽史」もずいぶん出てきました。岡田先生の本は読み物としても大変面白く、おすすめですが、やはりお一人で書かれているいい点と、偏りという、まあ欠点と言えば欠点もあるわけで。複数の著者による本は、各人の得意なところが発揮され、視点も含めて、広がり、ヴァラエティがあるという利点があります。 この本も、その一つではあるのですが、どちらかというと主要著者の岸本宏子先生の御本、という色が濃い。それが、プラスに作用しているのです。 まず表紙のイラストに描かれている音楽家がびっくりです。表表紙がモンテヴェルディ!とベートーヴェン。裏表紙がジョスカン・デプレ!!!とモーツァルトです。モンテヴェルディはまだしも、ジョスカンですよジョスカン。ジョスカンの曲聴いたことある方手をあげて!なんて呟きたくなります。 狙いは明らかですね。「音楽史」は、まあ岡田先生の本にもありましたが、どうしてもルネッサンス以前と20世紀以降が弱い。それはいわゆるクラシック音楽のレパートリーが19世紀中心だからなんですが、これ、例えば美術史と比べるとすごく困るんです。だってルネッサンス美術(ジョスカンの時代)ってすごく豊かではないですか。それに引き換え、ルネッサンス音楽に親しんでいる、というか、そもそもルネッサンス音楽と言われて、イメージできる人ってどれくらいいるんでしょうか?難問です。 この本は、その点も含め、「流れ」を見事に解き明かしてくれます。まず、ヨーロッパ文化の土台となっている古代ギリシャ、古代ローマからの遺産について。現在のヨーロッパ世界は、古代ギリシャからは「学問、芸術」を、古代ローマ帝国からは「キリスト教」を受け継いだ。そして、ヨーロッパの3つの宗教の解説(ユダヤ、キリスト、イスラム)。そしていよいよ本編が始まるわけですが、全体を3つに区切り、「バロックまで」がまず長い。約240ページの中で、ここまでで150ページです。区切りの最初は中世〜ルネッサンスで「神の音楽」、区切りの二つ目はバロック〜古典派で、「神の音楽から人の音楽へ」。そして19世紀以降はひとまとめにして「西洋音楽のたわわな実り、そして」となるわけです。19世紀以降が短い?そうですよね。でもね、時間的な長さからいったら、結構これが正解かもしれない、と思うわけです。だって「西洋音楽の始まり」は、本書によると、カール大帝が神聖ローマ皇帝に即位した800年なのですから。「西洋の音楽は、バッハより何百年もさかのぼる歴史を持っている」(「ごあいさつ」より)。だから表紙がモンテヴェルディでありジョスカンなんでしょう。 「中世、ルネサンス」の章を担当し、巻頭言にあたる「ごあいさつ」、序章、そして「終わりの始まり」と題された終章を担当した岸本先生は、「西洋音楽は1960年台代から「終わり」に差し掛かっている」と総括します。理由は、神聖ローマ皇帝の子孫が絶滅し、カトリック教会が変容して「神聖ローマ帝国と教会」という二頭立てが完全に消滅したことと、テクノロジーによる世界の変容です。興味深い。(そう、今は転換期かもしれない、ということは、コロナ禍でも思いました。) 本書を貫いているのは「西洋音楽の基盤となる社会、文化的な要素」を理解することの重要性です。それがわかって、初めて「流れ」が見えてくるからです。そういう構想の原点は、岸本先生ご自身が学生時代に「音楽史」の授業で、「ストーリーが見いだせない」ことに悩んだことのようです。岸本先生、歴史好きだったそうですから、なおさらでしょう。 この本は、岸本先生が大学で実践してらしたことの集大成、のようです(ご講義を聞いていないので確かなことはいえませんが)。他の著者の先生方の文章も読みやすく、知識を得られる点でも過不足ありません。 本書は岸本先生が、初めて編集者のご主人と作られたご本だそうですが、ご主人は途上で旅立たれ、そして岸本先生も、本が書店に並ぶ前に逝かれたそうです。遺言ですね。でも、遺言が残せるって、お幸せなことだな、見事なことだな、と感じました。 クラシック音楽好きな方に限らず、ヨーロッパ文化に関心のある方、ご一読をお勧めします。 つながりと流れがよくわかる 西洋音楽の歴史
February 5, 2021
「タンホイザー」は、ワーグナーのオペラの中でも、比較的とっつきやすい作品ではないでしょうか。官能の愛と純粋な愛の間で迷う詩人の姿に、共感を覚えるひとも少なくないようです。「序曲」や、第二幕の歌合戦の場での「大行進曲」など、わかりやすいメロディも散りばめられていますし、クライマックスの高揚感はさすが!ワーグナーです。 今月、東京二期会が、その「タンホイザー」を上演します。プロダクションは、以前、新国立劇場の「ニーベルングの指環」で大成功を収めた(「トーキョー・リング」と呼ばれました)、キース・ウォーナーの演出。指揮に、ワーグナーを得意とするドイツの名匠、セバスティアン・ヴァイグレという豪華版。ヴァイグレは現在読響の音楽監督で、11月から来日中ですが、この「タンホイザー」は来られなくなった別の指揮者のピンチヒッター。ですが、代わって、かえってよかったかも?という人選です。おまけにオーケストラも手兵の読響で、このコンビ、「第9」をはじめ、先月先々月と共演を重ねて息もぴったりなのです。音楽を聴くだけでも、とても楽しみです。 その「タンホイザー」公演に先立ち、オンラインでレクチャーを行うことになりました。 まず私が作品解説をさせていただき、続いて、メインキャストのお一人(ヴェーヌス役)で、現在、ワーグナーソプラノとしてノリに乗っている池田香織さんをお迎えして、対談(インタビュー)形式で、作品やワーグナーの魅力を語っていただきます。トークにも定評がある池田さん、歌手のお立場からの興味深いお話にご期待ください。 講座の詳細はこちらから。 朝カルオンライン「タンホイザー」講座 二期会「タンホイザー」公演の詳細はこちらです。 二期会「タンホイザー」
February 2, 2021
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