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2ヶ月間の仕事が終わり、札幌に戻ってきました。久しぶりに仕事をし、またいつもの生活に戻って感じたのは、やっぱり私は仕事をしていた方が楽しいということ。今の生活はのんびりと時間的にも余裕があるけど、ついこの間まで、締め切り時間に追われながら、頭をフル回転させていた時と比べると、刺激がなさすぎるのです。この間読んだ佐藤正午さんのエッセイの中にこんな一節がありました。”朝目覚めた時に自分がやり遂げなければいけない仕事があると自覚できるのは幸せなことだ。朝起きるべき理由があること。(中略)そういう1日の連続で日々が過ぎていくなら、どんなに充実した人生が送れるだろう”これなのです。仕事をしていた2ヶ月、朝寝坊の私が、シャキーンと朝7時に目が覚めていたのは、まさにやり遂げるべき仕事があったからに違いありません。僕を仕事に送り出すのは、朝起きる理由にならんのかという夫の声が聞こえてきそうです。ごめん、ならんらしい。家事は嫌いじゃないのですが、私の場合、やる気の源になることはあまりなく、どちらかといえば、いかに効率化するか、つまり、いかに手を抜くかという方に思いが行きがちです。とはいえ一度は仕事を辞めるという選択をした私がこんなにも仕事が楽しかったというのも不思議な話です。で、考えてみると、今回の仕事、私にとっては理想的な仕事の条件を満たしていたのですよね。まず、テレワークで、与えられた仕事を期限内に終わらせさえすれば、あとは自由に時間を使えたこと。私にとって毎日決まった時間に職場に行き、決まった時間まで職場にいなければいけないって結構なプレッシャーなのですよ。そんなの社会人として当然のことだし、私だって、4年前仕事を辞めるまではそうやって日々通勤していたわけですが、内心、がっちり拘束されているようで苦しかった。特に病気になってからは、ステロイドの副作用で体調が安定しないことが多く、なおさらそのことが辛く感じられました。仕事の性質的にも、職場にいる時間の長さ=業績の多さではなかったので、裁量労働にしてくれればいいのにといつも思っていました。今回の仕事では、立てつつづけに作業の依頼があり夜遅くまでパソコンに向かっていた日もありましたが、仕事がなくチョコと一緒に半日ゴロゴロしていた日もありました。就業時間が、こんなふうに規則としてではなく、仕事内容で決まってくるのは合理的で精神衛生上よかったし、すごく性に合っていました。私に限らず、闘病しながらも仕事を続けたい、もしくは続けざるを得ないという方は多いと思いますが、こんなふうにある程度、働く時間や場所に融通が効くとぐっと仕事がしやすくなりますよね。チョコのそばで仕事ができるのもとても嬉しかったです。もう一つ、楽しく仕事ができた理由は、業務自体がだんぜん好みだったこと。今回、私がしていたのは日本語で書かれたレポートを英語に訳すこと、日本語と英語の対訳をチェックしてミスや訳抜けがないことを確認すること。もともと翻訳には興味があって、翻訳学校に通ったり、翻訳のバイトをしていたこともあったのですが、今回、改めてやっぱり翻訳って好きだなあと思いました。英語と日本語という全く異なる言語体系の言葉を一度、意味にまで分解して、組み立て直す作業はパズルのような楽しさがありますし、うまく訳せた時の爽快感は格別です。研究者としてずっと英語の論文を書いてきたことが結果として翻訳の勉強にもなっていたようで、昔、アルバイトしていた時より仕事は楽に感じました。実は一時期、実務分野の翻訳者として身を立てたいと思っていたこともあったのです。でも、その時にはすでに研究者への道を歩きはじめていたし、翻訳者としてフリーランスで仕事をしていく自信も勇気もなかったのですよね。そんな遠い日の夢も思い出しました。2ヶ月間でチョコも慣れない環境によく馴染んでくれました。というわけで、この2ヶ月の仕事は思いのほか仕事について色々考える良い機会になりました。私は、なぜか仕事はフルタイムの正規雇用がベストと信じていましたが、今の私には時間に自由のきく業務形態の方が合っているのかもしれません。また、20代からの人生のほとんどを研究に費やしてきた私に研究以外の何ができる?と思い込んでいましたが、これまでの経験を活かせることもあるのだと少し自信を取り戻すこともできました。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2024.04.23
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先月から、短期のお仕事をしています。仕事を辞めたのが2020年の夏なので、実に3年半ぶりのお仕事です。このブログでも何回か書いたのですが、私はもと理科系研究者で、20代でその道を志してから、ずっと研究中心の生活をしてきました。そんな人生のどこかで歯車が狂ってしまい、突然大きな病気をしたのが、8年前。その後も数年はどうにか仕事を続けましたが、繰り返す再発に疲れ果て、夫の転勤を機に仕事を辞めました。仕事を辞めたことに後悔はなかったし、業績やら締め切りやらのプレッシャーから解放された毎日は心身ともに楽でした。だけど、そんな気楽さとはうらはらに、心の奥底には、常に、私の人生これでいいのか、という漠然とした不全感がありました。この先の見えない時代に、稼がなくてもいいのかという不安もありました。研究者時代の私。今回、久しぶりに当時の写真を眺めました。そんなこんなで...最近、試しにもう一度、働いてみようかなと思い始め、周りにもそんな話をしていたところ、思わぬところから降ってきたのが今回の仕事でした。きっかけは年末の帰省で友人に会った時、何の気なしに「冬だけ暖かい関東に出稼ぎに来たいわ〜」と言ったこと。数日後、友人から、本当に仕事しない?と打診がありました。なんでも、友人の職場で急に病欠する人が出て、繁忙期なので、手伝いの人を探しているとのこと。短期の仕事でなかなか人が見つからなかったところに、私が出稼ぎしたいとか言っているのを聞いて、それもありかも、と思ったのだとか。自然相手の仕事はきつかったけど、私にとっては意義あるものでした。降ってわいた話にびっくりはしたものの、すぐに、やりたい!と思いました。その瞬間は、北海道の長い冬から合法的に(?)脱出できるのがうれしかったのが一番でしたが。聞けば、仕事内容は私の専門に近くて、期間は2ヶ月。職場は茨城だけど、最初の1ヶ月は札幌でテレワーク。その後は埼玉の実家に移り、週に1度、職場に通い、それ以外はやはりテレワークでいいとのこと。それなら多分できる…もちろん、不安はありました。仕事のブランクが長いけどお役に立てるかなとか、病気は大丈夫かなとか、1ヶ月も家を空けていいのかなとか。でも、よくよく考えて、やっぱりやりたかった。実際に仕事をしてみて、今でも自分はちゃんと働けるのか、仕事をした時に自分がどんな気持ちになるのか、知りたいと思いました。こんなことをしていた時もありました。その後、トントン拍子に話が進み、各所への調整も無事に終わり(札幌に残される夫とか)、2月中旬、私は無事に仕事を始めたのでした。最初はゆっくり。私が執筆のお手伝いする予定の報告書を読んだり、データを眺めたり。ブランクが長いので、どうかなと思っていましたが、そこは20代の頃から20年、時間も情熱も注ぎ込んできた仕事です。多少エンジンのかかりは悪いものの、頭も体も仕事の仕方はちゃんと覚えていてくれました。そして何より、懐かしかった。懐かしくて、楽しくて...ああ、私、ずっとここに帰りたかったのだ、と思いました。人見知りですが、なぜか同業者の人とは初対面でも緊張せずに話せました。2月末に体調を崩し、一瞬、やっぱり私は仕事ができる体じゃないのかと自信をなくしかけたこともありました。でも、なんとか持ち直し、今は予定通り実家に戻って仕事を続けています。3月に入ってからは、少し仕事が忙しくなりました。でも、その締め切りに向かって走っているうちにアドレナリンが出てくる感覚がまた懐かしくて…気づけば、仕事を辞めてから常に感じ続けていた、私はこんなことをしていていいのかという不全感や焦燥感は完全に消えていました。そして、ようやくわかりました。あのどうにも落ち着かない感覚は、自分には全力で取り組むべきものがない、何に向かって生きていけばいいのかわからない、ということだったようです。それがわかっただけでもこの仕事をお引き受けしたかいがあったというもの。契約終了まであと2週間と少し。終わった時、私はどんな気持ちになるのでしょうか。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2024.03.29
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前回の投稿で、予定ぎっちりのGWがストレスだったという話を書いたのですが、その後もいろいろ考え、はたと気づいてしまいました。それは今回にかぎったことではなく、どうやら私は「予定」というものが全般、苦手であることを。振り返ってみると、先に予定がある時って、たいていなんとなく憂鬱なんですよね。予定が近づいてくると、無意識に何度もそのことを考え他のことが手につかなくなりがち。たとえば、今月末はダンスのデモがあるのですが、すでに緊張していて、頭の中は不安でいっぱい。それがすむまで他に用事を入れる気になれません。そういうのって無駄に時間や精神を消耗するし、未来の予定に拘束されている感じがして苦痛です。チョコはお出かけが大好きで、バッグが出てくると大はしゃぎ。私が特に苦手な予定はこの二つ。1. 対人の予定2. 準備が大変な予定もともと人付き合いが苦手なので、人と会うのは気心の知れた友人以外はたいてい気が重い。友人の友人まで集まる大人数のバーベキューなどはその最たるもので、うっかり行くって返事をした日には当日雨が降ることを願ってしまうくらいです。事前の下調べや、準備が多い予定もハードルが高め。ダンスの競技会(メイクやらヘアセットやら)や山登り(忘れ物が命取りになる)はその代表格です。最近多いのは札幌に遊びにきてくれる人のおもてなしでこれも観光コースを決めたり、お店を予約したりと準備や調整が多く、毎回とても消耗します。でも、不思議なことに、そんな予定も、いざ行けばたいていは楽しくて、行かなきゃよかったと思うことはめったにありません。あくまで予定があることがプレッシャーなのです。この予定が苦手って一体どんな心理なの、と調べてみると、情報がザクザク、ヒットしました。別にそんなに珍しいことでもないのですね。世の中には同じことに悩んでいる人がたくさんいると知って安心しました。私がざっくり理解したところでは…そもそも人は、これから困難なことがあると思う時、実際にそれをやっているよりも強いストレスを感じるそう。で、一般的には楽しいと思われる予定でも、ある種のタイプの人(完璧主義やHSP, etc)にとってはプレッシャーのかかるタスク(=困難)になり、その結果、予定が辛くなるようです。なるほどなあ、と思いました。たしかに、私は常に気負いすぎの考えすぎ。たぶん、HSPでもあるのだと思います。前にこれって私のこと?と思ってテストしたことがあって、やっぱりそういう結果でした。じゃあ、そういう人はどうしたらいいのでしょう?やはりプレッシャーのかかりそうな予定は最初から断るのがいいのかなと思いました。行けば楽しくても、そこまで緊張して他のことに手が付かない状態で待つのは割りに合いません。子供の頃から内気だった私は今でもどこかで、それを直さねば、と思っていて、つい人からのお誘いは試練だと思って受けてしまうフシがあります。試練って…(笑)。もうこの年になったら、そういうのいらないですよね。これまでの人生で信頼できる友人も何人かできたし、どうにかここまで生きてこられた。もうそれで十分です。そろそろ、そんな試練からは足を洗いたい。あとは、周りの人にも、予定が立て込むことが苦手って公言しまうのも手かなと思いました。周りももう大人だし、そうだったんだ、とすんなり受け入れてくれそうな気がします。===============================この間、ソファにだらしなく横になって、チョコのお腹をナデナデしながら、韓国ドラマをみていたら、君はどこの王様なの?と夫に笑われました。本音をいえば、私はこんなふうに日がな1日家で過ごすのが何よりも好きなのです。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2023.06.13
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昨夜、母方の祖母が亡くなりました。100歳まであと1ヶ月でした。少し前からご飯が食べられくなり、そのうち意識がなくなって、昨夕、ついに祖母の心臓は100年続けた仕事を終えると決めたようです。悲しくはありません。心の準備はできていたし、祖母はその生を病や事故で中断されることなく、本来の寿命を静かに迎えることができたのだから。生きるって大変と常々思っている私としては100年もの長い人生をみごとに歩き抜いた祖母に拍手を送りたいような気分ですらあります。だけど、これでもう私にはこの世におばあちゃんと呼べる人が1人もいなくなった。そう思うとやっぱり泣けてきます。祖母は東京生まれの東京育ち。気持ちの強い人で、私は祖母が愚痴を言ったり、泣き言を言ったりする姿をついぞ見たことがありませんでした。ささいなことでくよくよしていたら、戦争を生き延び、物のない時代に4人の子供を育てることなどできなかったのでしょう。悪気はないのだけれど、なんでも自分の思いを通してしまう祖母はうちの母やお嫁さんたちには煙たい存在だったようです。でも、孫である私にとっては、頭の回転が早く好奇心旺盛な祖母は母よりも「話せる」人でした。私が高校1年生の時、当時すでに70歳前後だった祖父母と3人で叔父の住むスペインに行きました。向こうの空港で叔父が待っているものの、祖父母2人で飛行機に乗るのは心配なので一番年上の孫である私に白羽の矢が立ったわけです。ところが私は海外旅行どころか飛行機に乗るのもはじめて。うちの親だって不安だっただろうに、それでも行くと決めたらなんとしても行くのが祖母なのです。結局、祖父母と私はうまくこの旅をやりおおせ、おおいに味をしめた私たちは2年後にもう一度、3人でスペインに行きました。2回のスペイン旅行は私のその後の人生に大きく影響して、今でも私はあの時に私をスペインに導いてくれた祖母にとても感謝しているのです。そんな剛の人がまったく違った一面を見せたことが一度だけあります。あれは夫をはじめて祖母の家に連れて行った時のこと。夫を紹介すると、祖母はそれまで座っていた座布団を素早くはずし、畳の上できっちりと正座し直して、「よろしくお願いいたします」と指をついて頭を下げたのです。そういう作法があることは知っていましたが、実際見たのははじめてでしたので、これには度肝を抜かれました。だけど、とてもとても嬉しかった。祖母は私が選んだ人を、おそらく祖母にとっての最上の礼儀でもって遇してくれた。それは何よりの祝福でした。甘ったるい言葉など使わない祖母の、いい人じゃないの、しっかりやりなさいというはなむけの言葉に思えました。===============================時節柄、お葬式は母と叔父たちの4人だけですませることにしたそうです。母は忙しいらしくその後連絡がありません。祖母の容態が思わしくなくなってから、頻繁にやりとりをしていた、いとこたちからも今日はぱたりと連絡が途絶えています。ここ数日、騒がしかったのが急に静かになりました。私もまだ祖母の話を誰ともする気がしなくて、今日はこうしてひとり祖母と過ごした時間を思い出しています。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も
2022.08.29
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理想の家についてあれこれ思いを巡らすのが好きです。私が建築の本を眺めていると、夫はたいてい面倒くさそうな顔をします。建築家の堀部さんの作る周囲の景観に溶け込むような家がとても好きです。有元葉子さんの徹底した美意識に貫かれた家も憧れ。どうやら私の「いいなあ」というつぶやきが、夫には「今だにうちは賃貸暮らしか」という不満に聞こえるようです。でも、これはとんでもない誤解で、数年後には違う土地で暮らしている可能性のある今、私だって賃貸はごく当然の選択だと思っているし、そもそも本当に家が必要だと思ったら、私は夫を押し切ってでも買っている。そうじゃなくって、私の「いいなあ」は私がどんな家が好きで、何を居心地がいいと感じるか、という「物差し」を自分の中で育てる作業なのです。だって、もし家を買うとなったら、たぶんその時は突然やって来るんだと思うのですが、そういう「物差し」がなければ決断のしようがないでしょう?これまで住んだ10軒の家から得た現実的な物差しには、たとえば、近くにワンコと散歩できる公園があるといい、間取りは細かく仕切られずゆったりと、家事動線がよく考えられてスムーズなのがいい、などなどがありますが、一方で、実現可能性はさておき、の物差しもあります。つまりは、あこがれです。それが堀部さんの作る家だったりするわけですが、もう一つずっと憧れているのが海の見える家。新婚旅行で泊まったシチリア島のホテルはこじんまりしたお手頃価格のホテルでしたが、最上階のテラスから海が一望できました。ここで海を眺めながら食べる朝食は最高で、15年経った今も強く心に残っています。もちろんこれはリゾートホテルだからこそのドラマチックな仕掛けではありますが、それ以来、「海の見える家」は私の中でダントツ一位のあこがれになりました。神様に欲しい家をあげるよって言われたら、私は迷わず、海の見える家って答える。そんなあこがれの「海の見える家」に、先日、ひょんなことから出会ってしまいました。ここはシチリアか?正確には「家」ではなく「カフェ」です。1日3組限定の隠れ家のようなお店に入り、この景色を見た瞬間、息がとまりました。私があんなに恋焦がれていた海の景色がある...暑い日でしたが、海からの風が気持ちよかったです。あまりの素晴らしさに、失礼とは思いつつ、どんな経緯でここにカフェを開くことになったのかオーナー夫妻を質問攻めしてしまいました。それによると、ここはもともと民家が打ち捨てられていた場所だったそう。それを買い取って、自分たちでゴミを運び出し、樹を伐採し、庭を作り、家だけは大工さんに建ててもらったそうですが、それもやはり気に入らず、ずいぶん手を入れたとか。そうして20年....ようやく今の形になったという話でした。左手に海が見えます。飽くなき情熱とエネルギーが生み出した絶景の家。もともとオーナー夫妻は東京で複数の飲食店の経営などをしていたそうなので、こういう感性もスキルもお持ちだったのだと思います。並大抵のことでできることではありません。でも、北海道にいるとそれに似た話を聞くことも結構多いのです。家庭菜園の手入れを手伝ってと言われて行ったら、原野を自分で切り拓いた広大な農園だったとか、古い民家を買ってセカンドハウスにしちゃったとか。ここはまだそういう夢が叶う場所なのかもしれません。この日、私の心の中で何かがコトりと動きました。海の見える小さなお家。私にもできるだろうか?叶うか叶わないかはわからない。だけど、この夢を心の中で温め続けていこう。海の見える土地を意識して訪れるようになって2年。こんなふうに憧れが形になって目の前にあらわれることもあるのですから。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2022.08.17
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オリンピックもいよいよ終盤ですね。私はオリンピック、めちゃめちゃ観る派です期間中は毎朝、その日の競技日程をチェック、しかるべき時間にはTVの前にスタンバイしています。LIVEで楽しめるのは専業主婦の特権ですね。ご、ごめん、チョコ。オリンピックもあと少しだからね。冬季種目の中でも好きなものの一つがカーリング。初めてちゃんと観たのはソチ五輪だったと思います。1試合、約2時間と長丁場ですが、氷上のチェスとも言われるゲームの魅力に夢中になりました。選手たちの喜怒哀楽を長い時間ながめているうちに、一人一人の選手にものすごく親しみがわいてくるのも魅力の一つ。今回は前回大会ですっかりおなじみになったロコソラーレの出場で、「さっちゃん、ナイスショット〜!!」と、まるで親戚の女の子を応援するような気持ちで応援していました。昨日の試合は惜しくも破れましたが、準決勝進出。これからまだ2試合、彼女たちを観られると決まりうれしくてたまりません。チョコの冷ややかな視線にも負けません。それにしても、今回は波乱のオリンピックでしたね。昨日の女子フィギュア、力強い演技で銅メダルを手にした坂本選手、前回の雪辱を果たした樋口選手,それぞれに本当にお見事でした。でも、その陰で、ミスを連発し、泣き崩れていたワリエワ選手が気になります。だって、15歳ですよ?ドーピングの真偽など私にはわかりませんが、どちらにしたって、そんなのは周りの大人の責任でしょう。大人の都合で振り回されて、傷ついて...痛ましくてなりません。スーツで違反となった高梨選手の件もそうですが、選手の仕事は全力で戦うこと、それを全うさせるのが運営の仕事です。競技の出来以外のことで選手をあんなに泣かせないでほしい!!はいはい。ちょっと待っててね。今宵はいよいよカーリング女子準決勝とフィギュアのペア&ダンスです。同じ時間帯、金スマでは浅田舞ちゃんの社交ダンスをやるんだった。さて、どれを観て、どれを録画すべきか...最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2022.02.18
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チョコと暮らし始めて一年半。犬と一緒にいると、毎日、笑ったり、心配したり、夫と2人暮らしの時とは比べものにならないくらい大きく感情が揺れ動きます。その拍子に、心の奥底にしまいこんでいた記憶のフタがふとゆるむ瞬間があります。たとえば、料理をしている私のそばに来たがるチョコに「あぶないからこっちに来ちゃダメだよ」って言う時。子供がいたらこんな感じなのかなって、甘いような切ないような気持ちになります。そして思い出すのです。30代の後半から4年ほど続けた不妊治療のこと。子供を切に望んでいた時のこと。キッチンに入りたいけど我慢するチョコ当時、私は仕事をしながら都内のクリニックまで治療に通っていました。顕微受精に定評があったそのクリニックはいつもとても混んでいました。内診室にはカーテンで仕切られた診察台がずらっと並び、つぎつぎに患者が横になり、診察を受けます。医師も患者もお互いを個人として認識することはありません。体外受精のための採卵は無麻酔。細い針を使うのでひどく痛むわけではありませんが、手術室の前で並んで採卵を待つ間、私の手はいつも冷たい汗をかいていました。動かないように看護婦さんに抑えられ、手術台の上で卵巣に針を差し込まれる瞬間、私の子供はこの痛みと恐怖の中で生を受けるのかと、体以上に心が痛みました。採卵後は止血のために大量のガーゼを押し込まれます。これが採卵以上に痛くて、歯を食いしばって我慢しました。数日して無事に受精卵ができたら、それを子宮に移植します。手術台に寝た患者はモニター上の超音波映像を見ているよう促されます。これは、着床の瞬間を患者に見せて、このきわめて人工的なプロセスに喜びを添える、せめてもの配慮だったのだと思います。でも、私はそれを見て喜びを感じたことは一度もなかった。むしろどことなく滑稽だと思っていました。すべてが本来の妊娠のプロセスとはかけ離れていて、冷たくて、怖くて、痛かった。でも、当時は、子供が欲しくて必死だったから、できるだけ心を動かさないように、淡々とこのプロセスをこなしていました。この程度のこと乗り切れなければ子供は授かれない、これは子供を授かるための試練なのだと言い聞かせて。パパと仲良しチョコ本当に精神的にしんどかったのは、受精卵の移植後です。受精卵のはじめの成長は卵の質で決まるそうですが、自分のお腹の中の受精卵があると知っていれば、どうしたって、うまく育ってくれるかは自分にかかっているような気がしてしまいます。だから、体はあたためたほうがいいかなとか、血行をよくするために適度に運動しようとか、常に受精卵を意識しながら過ごすことになります。「お願い、育って」と祈りながら。そんなふうに何週間かを過ごすと、妊娠のごく初期とはいえ、お母さんになったような気がするのですよね。流れたと知った日は、まっすぐに職場に戻ることができませんでした。病院の近くの公園で少し泣いて、時にはフルーツパーラーで大きなパフェを注文して、それでもダメな時は会社に休みの連絡を入れて、家に帰って1人でぼんやりしていました。結局、私の受精卵は赤ちゃんに育つことはなく、一番長く妊娠が継続した受精卵が流れた後、私は治療をやめました。6年前の夏でした。パパのマッサージを受けるチョコやるだけのことをやったから後悔はないでしょ?知人に不妊治療をやめたと告げるとそう言われました。そんなわけあるはずない!!私はどんなに頑張っても赤ちゃんができないことが悔しくってたまらなかったし、子供がいない人生を受け入れることもできなかった。今でも覚えていますが、不妊治療をやめた年の年末、声帯を摘出した、つんくさんが紅白歌合戦に出場しました。声を失ったつんくさんを救ったのは、お子さんたちの存在だったという感動のナレーションが流れた時、腹の底から怒りと悲しみがこみ上げてきました。じゃあさ、子供のいない人は辛い時どうしたらいいの?歌を生業にする人が声を失うことがどれほどのことか、理解はしていました。けれども、その時の私には、その手放しの家族礼賛が胸につき刺さりました。子供はすばらしい。子育ては喜びだ。それは間違いない。でも、そのあまりにも正しい真理は時に子供のいない人間を打ちのめします。編み物を始めるとかならずそばに来て眠るチョコでは、その状態からどう立ち直ったかといいますと、私の場合、結局、強制終了でした。ほどなくして、大病を患い、病気を治すことで手一杯になってしまったのです。でも、今思えば、これが良かったのかな、と思います。長く仕事を休んで、自分のペースで静かに暮らしているうちに心と体が回復していきました。子供は授かりものであって、こればかりは努力ではどうにもならないのだ、ということが少しずつ心に染み込んできました。今でも心の奥底には痛みやかなしみが沈んでいて、時に胸がチクリと痛むことはあります。この先もおりおりに子供がいないことをさみしく思うことがあるでしょう。だけど、私たちのもとには赤ちゃんのかわりに、ふわふわの毛皮を着た小さなチワワがやってきました。そして、私たちに命を育む喜びを教えてくれました。休日の朝、チョコを挟んで、川の字で二度寝する時、私たちは間違いなく家族だと感じます。歯磨きいや〜んのチョコつんくさんの紅白出場から6年。そろそろ心の荷を一つおろしたくて、迷いつつもあの頃のことを書いてみました。===============================もし不妊治療に関する記述を不快に感じられた方がいたら大変申し訳ありません。私は子供を授かれなかったので、不妊治療が心の痛みとして残ってしまったのですが、子供を授かっていれば一つの思い出となっていたでしょうし、そうでなくても治療はして良かったと思っています。現在、新生児の10数人に1人が体外受精で生まれるそうです。いまや不妊治療は子供を願う人にとって大きな希望です。2022年からは保険適用もされます。それでも、不妊治療が女性にとって心身ともに辛い治療であることには変わりありません。この治療が広く知られ、理解されることを切に願っています。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.12.27
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今週の月曜日、コロナのワクチン接種に行ってきました。基礎疾患のある私は、一般の65歳以下の方より少し早めの接種です。接種は自宅近くの集団接種の会場を選びました。会場では1日2500人の接種が行われているとあって、接種までのプロセスはとてもシステマティック。受付を終えたら、まずは看護師さんによる問診票のチェック。体調や既往症、服用している薬について聞かれます。看護師さんはざっと40名以上いたような...おかげで滞りなく進みますが、こんなにたくさんの看護師さんを集めて、現場は大丈夫なのだろうかとちょっと心配になります。その後、個室のブースでお医者さんによる問診を受け、ちくっと左上腕に接種して終了です。受付からここまで約10分。接種はあっけないほど簡単にすみ、一仕事終えた私は意気揚々と家に帰ったのでした。と、ここで終わっていたらよかったのですが...あれ、体がとっても重い?いつもとは違うだるさと筋肉痛のような痛みを全身に感じたのは翌日の朝のことでした。実は私、持病の治療のため免疫抑制剤を飲んでいて、主治医から「ワクチン接種しても免疫はつかないかも」と言われていました。だったら、免疫反応である副反応も起きないかもね、とタカをくくっていたのです。もともと始終だるかったし、肩こり・腰痛は日常茶飯事なので、それがちょっとひどいのだろうと特に気にもかけず、久々にチョコをお風呂に入れ、ああ、大量に出たバスタオルを洗濯しなくちゃ、乾いたらブラッシングしなくちゃ、そういえばWiMaxの乗り換え手続きも早くしなくっちゃ、とバタバタしていたところ...突然、ヒューンと電池が切れたように動けなくなりました。さすがにおかしいと熱を測ったら37.5度...あらら。ここでようやく副反応と気づきます。そういえば前の夜から珍しく食欲がなかったもんなあ。数日前、夫が買ってきてくれたスイカばかり食べていました。その後も熱は上がりつづけ、夕方には38度を超えて、体はますますだるく、ますます痛く。どうしよう...ちょうど夫は出張中です。頼れるはチョコだけ(笑)。「副反応」でググると、長くても3日もすれば落ち着くので様子を見てくださいとのこと。ならば様子を見るしかあるまい。こういう時、わんちゃんは本当にかわいそうですね。そして、一夜明けた今朝。目が覚めて、慎重に体の感覚に意識をめぐらせます。どこも痛くない。軽い。熱もない。副反応は始まった時と同じように急速に収束しました。副反応がいつまでづつくのかも不安だったのですが、なにより不安だったのは、それで体に負担がかかり、持病が再発することでした。ああ、良かった。でも、今日は1日のんびりして様子をみようと思います。===============================油断していただけに、この副反応には本当にびっくりさせられました。1回目でこれだけの副反応が出ると、より大きな反応があるという2回目はいったいどうなるのでしょう?ちょっと怖いです。とりあえず、次回は接種後3日は予定を入れず、熱が出ても食べられるものを用意して備えようと思います。私のように1回目でも大きな副反応が出るケースもあるようです。これから接種のみなさん、どうぞご参考まで。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.07.14
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物を手放し、ミニマルな暮らしをはじめると、人生までもが変わる、という話をよく聞きます。たとえば、自分らしく生きられるようになるとか、軽やかに生きられるようになるとか、満ち足りた生活を送れるとか。いつの日か私にもそんな精神的に充足した日が訪れるはずと思いながら、物を減らし続けて5年...一向にその気配が見られません。大きな玄関収納のおかげもあり、玄関もがら〜んです。もちろん物が減ったことで、暮らしは楽になりました。掃除や物の管理の手間が減ったし、使わないのにスペースだけは取っていた物もなくなりました。制服化とはいえないまでも好きな服、似合う服のパターンがわかってきて、「着る服がない!!」とクローゼットの前で絶望することも今はありません。だけど、相変わらず私は毎日何かに焦っていて、常に心がざわざわして、何もしないのに疲れてしまう。特に心がざわつく時は、目を凝らして家の中の不用品を探し始めます。捨てなければ、もっと捨てなければ、と思いながら。書いていて、自分でもちょっと危うい感じがします(笑)。たぶん捨てたいのはもう物ではないのでしょう。本当に捨てたいのは私の中の何か。たとえば、堂々と私はこう思うと言えない自分。かならず失敗した時の言い訳を用意する自分。自分の軸がなくすぐに人に流される自分。嫌なことを後回しにしてそんな自分にうんざりすること。だけどこういうのって捨てようにも捨て方がわからない。捨てるのには痛みをともなうし、時間もかかります。だから、そんな自分に気づいた時、代わりに私は物を捨てようとするのだろうと思います。実態ある物は心の中の物よりもはるかに捨てやすいから。===============================人生を変えることができた人は、きっと物を捨てると同時に心の中の不用品も手放せた人なのだと思います。でも、物と心の不用品の手放しって、普通はどんなふうに進行していくのでしょう?物を手放す時に、同時にその物を保有するに至った思いも手放し、少しづつ心も軽くなるのでしょうか?あるいは、物が少なくなり、風通しがよくなると、自然に心の不用品も手放したくなるのでしょうか?そのあたり今の私にはよくわかりません。少なくとも今わかるのは、もうこれ以上、目からビームを放って家の中の不用品を探してももう前には進めないということ。それでも、捨てたいという衝動があるのなら、怖くても、面倒でも、痛くても、次のステージに進まなければいけないのだということ。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.04.08
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しばらく前に、城ノ石ゆかりさんの「未処理の感情に気づけば問題の8割が解決する」という本を読んでいてなるほど、と思ったことがあります。それは、自分軸で生きていない時、人は無意識に次の3つの役割を演じてしまうというもの。1. 被害者2. 加害者3. 傍観者「被害者」は自分の不幸を自分以外の誰かや何かのせいします。責任は自分になく、自分をこんな目にあわせた相手にあると相手を加害者に仕立て上げます。「加害者」は「私のせいで」「私がこういったから」など常に自分を責めている人。一見、謙虚ですが、実は「私、私」と自分のことばかり考えています。自分に価値がないと感じている人に多く、こうすることで自分の価値を確認しているのだそう。「傍観者」は「ほら言っただろう」とか「だからあいつはダメなんだ」とか自分を棚に上げて人を批判する人。批評家でいれば自分の人生を生きなくていいから気楽です。チョコはいつだって自分軸。好きなものは真っ先に食べる。===============================自分自身を振り返ってみると、けっこうどれもやっています。仕事をしていた時はだんぜん「加害者」でした。病気で休むことが多かったので「私がもう少し早く結果を出していれば」とか「周りに負担をかけている」とかいつも思っていました。でも、今考えれば、これは明らかに気負いすぎ。絶好調であっても私の仕事の能力なんて知れたもの。周りの人は私が思うほどには私に期待していなかったと思います(笑)。城ノ石さんのいうとおり、こう考えることで自分の価値を確認していたのかもしれません。「被害者」にはあまりなっていないと思いましたが、これも自分の感情をモニターしていると結構あります。たとえば、私のある友人は何か興味を引くものがあるとLineで大量のメッセージと写真を送ってきます。対象は趣味だったり、仕事相手の素敵男子だったり。千本ノックのように打ち込まれるメッセージに適当に返事をするのですが、これがなぜか時々モヤモヤ。要は、たまには私の話も聞いてよ、同じくらい私が自分の話をしたら、あなたは聞いてくれるの、と子供のようにひがんでいるわけです。この本を読んで初めて、私は人間関係において、ストレートに自分の気持ちを伝えられず、ひがむことがあると気づきました。ちなみに、城ノ石さんによれば、こういう時は自分も同じことをしてみるのも手だそう。もやもやするのは、自分はしてはいけないと思って我慢していることを人がしているからなので、それを自分に許してあげれば楽になれるのだとか。なるほど。チョコは欲しいものは欲しいという女。実はこんなことを書こうと思ったのは、今朝、夫が出がけに放った一言にひっかかってしまったためです。「家にいると病原菌あつかいされるから僕は行ってくるよ」昨日、体調が悪くて仕事を休んだ夫を、念のため、コロナ対策マニュアルに従って扱った結果がこの一言。スネてるよ...たしかに、私は神経質になっていました。でも、こんな時期だし、用心するに越したことはない。しかも上げ膳据え膳で、一つしかないベッドで寝てたのだし...それにしても、二晩床で寝て、甲斐甲斐しく世話をした私にその一言?夫はこうやってするりと被害者になるのが得意です。いやもう。ひがんだり、すねたりって、するほうもされるほうも大変。シンプルにしたいことをし、言いたいことを言う、少しずつそんなふうに変わっていきたいとあらためて思った朝でした。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.03.02
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今日は前の職場の人とオンラインミーティングでした。退職してからも、プロジェクトの残務処理をしているため、今でも時々、打ち合わせをします。普段だらだらしているくせに、打ち合わせでは、不思議と仕事モードに切り替わります。これまで身につけたものはそう簡単にはなくならない、自分を少し誇らしく感じる瞬間です。==========================私が最後に参加していたこのプロジェクトのチームは、私史上最高のチームでした。チーム内では、仕事につきものの人間関係のゴタゴタがなく、懐の広いチームリーダーのもと、それぞれがのびのびと働いていました。メンバーの年が近く、気楽さもありました。仕事関係の飲み会は苦手な私ですが、このプロジェクトのイベントは喜んで参加していました。退職時にプロジェクトのメンバーからもらったスギの器。仕事にちなんだものです。人生には振り返ってみると、きらきらと輝いている瞬間というのがあります。部活が終わり、仲間と並んで歩いた夏の日とか、光に満ちた教会で結婚式をあげた真冬の朝とか。時間や人、その時の気温や空の色。たくさんの偶然が重なって生まれる美しい時間。だから、どんなに願っても二度とは取り戻せない。このプロジェクトもきっとそう。5年後、10年後、きっと私はこの時のことをまぶしく振り返る。私の最後の仕事がこのプロジェクトで本当に良かった。この不思議な形の木はナンヨウスギ。プロジェクトのメンバーの出張土産です。モニター越しに打ち合わせしていると、北海道に引越したのも、仕事を辞めたのも全部、夢だったような気がしてきます。明日からまたいつものように仕事に行くような...でも、それはやはり選ばなかった人生への未練というもの。これからもメンバーとはつきあいがあるでしょう。だけど、それは同じ方向を向いて働いていた時の関係とはやっぱり違う。もう私があの場所に戻ることはありません。私がそれを選んだのです。さあ、だからもう、年度末までにはこの仕事をきっぱり片付けよう。そして次の人生に向かって歩き出そう。ほんと、これが進まないんだ(涙)。チョコのせいだ。チョコが可愛いすぎて仕事に集中できない。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.01.12
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昨日、夫と一緒にクロスカントリースキーの講習会に参加しました。青空のもとのクロカンはとても気持ち良くて、この冬の楽しみになりそうな予感がしました。でも、今日はそれではなく、その時に感じた夫婦の関係のことを書きたいと思います。こんな景色の中をスキーで歩きました。気持ち良くないわけがない。実はこの講習会、2日間の予定でしたが、私は初日の内容でいっぱいいっぱいだったので2日目はキャンセルすることにしました。「努力・根性」教信者の夫は、そういうのをよしとしませんが、レジャーに根性は無用と、私はささっと自分の分のキャンセル手続きをしました。おかげで、今日は昨日できなかった家事をし、チョコと遊び、午後からはカフェですごして充実した時を過ごすことができました。ん? それがどうした? そんなの当たり前でしょ?って思う方も多いですよね、きっと。夫婦だって、興味も違えば、体力も違う。いつも一緒に行動しなければいけないわけじゃない。「私、疲れたからパス」ですむ話。そうですよね。だけど、私は今までなかなかその「私はパス」が言い出せませんでした。=====================私たち夫婦は同業者で、同じプロジェクトで仕事をすることもあったので、そういうシチュエーションが多々ありました。たとえば、よりよいデータをとるために、もう1回出張して、調査するかどうかという話が出る。夫はそういう時は間違いなく出張するタイプ。できることは全部したいマキシマリストです。私は今のデータでそこそこの結果を出せるなら、わざわざ出張したくない、効率重視派。最近は、競技ダンスを一緒にやっているため、そこでも同じようなことが起きます。たとえば、次の競技会に出るかどうか、今週もう1回練習をするかどうか。夫は基本、出られる試合には出たいし、練習は1回でも多く、1時間でも長くしたい。私はそれほど体力がないし、持病もあるので、無理して頑張りたくない。で、こういう議論になった時にどちらに分があるかと言ったら、やはり「努力する」ほう。「努力する」って日本では美徳でしたよね。特に高度成長期を支えた世代とその世代の親に育てられた私たち世代にとっては。それに、万が一、結果が悪かった時に、もう1回調査していたら、練習に行っていたら、最善は尽くしたからしょうがないって言える。だから、こういうことで議論する時、夫は正々堂々と正論を述べられる。その夫を前に、私は完全にディフェンスで、言い訳がましくなる。シンプルに「私はパス」と言えないのです。うらやましいわ、ママ。それでもチョコは世界一かわいいもの。でも、ここ数ヶ月、自分と向き合うワークをしていて気づきました。結局、夫に私の理を納得してもらおうとあれこれ言い訳するのは、パスした結果おきるかもしれない不都合の責任をとりたくないってこと。不都合が起きた時に、だから言ったじゃん、と責められるのが嫌なのです。だから、夫に私の言い分を認めて欲しい。でも、パスしたいなら、本当はただそうすればいいのです。もし不都合がおきたらその時は素直に判断ミスを認めればいい。それだけのこと。夫には夫の、私には私の価値基準がある。どちらかの価値基準に無理に合わせるのではなく、時には勇気を持って2人の間に境界線を引く必要がある。=====================たかがスキー講習をキャンセルしたくらいで、話が大きくなりました(笑)。でも、私にとっては大きな気づきと大きな一歩でしたので、書いてみました。一番身近で、ずっと一緒にいたい人だから、夫婦の関係は何年経っても、面倒であっても、時々、丁寧に見直して、手入れしなければいけないように思います。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.01.11
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しばらく前、看護師をしていた方と話す機会がありました。持病があることを話すと、その方は、「自己免疫疾患の人は感情を抑え込む人が多い気がする」と言いました。病気とメンタルなことを安易に結びつけるのはあまり好きではありません。でも、その時はその言葉がすとんと腑に落ちました。思い当たるふしがあったから。=====================5年前、緊急入院し、病状がひと段落した頃のことです。朝、目覚めて病院のベッドにいることを思い出した時、「ああ、私、今日も仕事に行かなくていいんだ」そんな言葉がポロリと口から出ました。今日だけじゃない。明日も明後日も仕事に行かなくていい、そう思ったら涙が出るほどうれしかった。驚きました。自分がそんなにまで休みたかったこと、その時まで全く気付いていなかったのです。たしかに、仕事は忙しく体もきつかった。プライベートでも辛いことが重なった時期でした。だけど、仕事なんてそんなものって思っていました。疲れやすいことはわかっていたのです。家事を終えるとそのままソファで寝てしまう日が続き、夫はそんな私を「おばあちゃんみたい」と嫌がっていました。本当はそこで立ち止まって自分の心と体の声に耳を傾ければよかったのです。けれど、私はそんな自分が不甲斐なく、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張れるとアクセルを踏み続けることを選んだのです。そして限界を超え、病気という形の強制終了。体が私に代わって緊急ブレーキをかけたんだと病室の白い壁を見ながら思いました。チョコが安心して寝ている姿をみると幸せな気持ちになります。仕事に復帰したのはその半年後のこと。たまっていた疲れはすっかり抜けていました。復帰後は仕事の仕方を変え、残業は極力せず、友人との時間や趣味を楽しむようになり、私の人生はすっかり変わったと思いました。再発しやすい病気と言われていましたが、大丈夫、私はこのまま逃げ切れる、と信じました。が、その願いも虚しく、2年後に再発。さらに1年後に再々発。そして去年のちょうど今日、3度目の再発...再発までの間隔はどんどん短くなり、自己免疫疾患の救世主ステロイドが効かなくなってきます。そして、緊急事態宣言の最中、ダメ押しのように4度目の再発。私はついに白旗をあげました。それまでぐずぐずと迷っていたのですが、仕事を辞め、夫の待つ北海道に行くことを決意したのです。=====================北海道に来てからも、実はずっと再発におびえ息をひそめるように暮らしてきました。どうすれば再発させないですむのだろう、と毎日考えながら。看護師さんの話を聞いてからは、自分なりに病気と心の関係について勉強してみました。そして、日本ではあまり注目されないですが、心と自己免疫疾患に関係には科学的にもエビデンスがあることを知りました。私が仕事に対して複雑で根の深い感情を持っていることにも気づきました。いえ、本当のことを言えば、ずっと前からうすうす気づいてはいたような気がします。ただ、そのフタを開けるのが怖かっただけ。でも、このままでは前に進めません。無理に歩き出したとしてもきっとまた同じこと繰り返すでしょう。だから、決めました。今年は仕事と自分の関係に向き合います。何をどこから手をつけたらいいかよくわかりません。うまくいくかもわかりません。だけど、このまま息をひそめて生きていても仕方がないと思うのです。だから、まずは一歩踏み出してみたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2021.01.07
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ブログを書き始めて、約2ヶ月が経ちました。2日に1回くらい更新していたようで、意外と書けたな、とうれしいです。ブログを始めたきっかけは、短い期間に次々に人生の転機が訪れ、心があふれそうになっていたことでした。ブログを1000日書けば人生が変わると聞いたことがあります。人生は変わらないまでも、あふれそうな心にあるものを言葉にしていけば、少しは楽に息ができるようになるのではと思ったのです。いつも机の上で私のブログ書きを見守っている友人の青森土産。================================でも、書き始めてすぐに、自分の気持ちを文章にするのは、とても難しいことに気付きました。自分にとって大切なことほど、自分の気持ちの核心に近づくことができず、言葉の上だけで帳尻を合わせ、本当の気持ちが置いてけぼりになってしまいます。思えば私は子供の頃から自分の気持ちを人に伝えるのが苦手でした。自分の正直な気持ちを人に話し、それを否定されたり、つまらないと言われたりすることが怖かったのだと思います。子供の頃から人前で泣くこともできませんでした。社会人になってからも人前で泣く人をたまに見かけますが、泣くなんて無防備なこと公の場でできる人は、きっと周りの人への信頼があるんだろうなあ、とむしろ感心してしまいます。でも、長いことそんなふうに自分の気持ちを放ったらかしにしているうちに、本当の気持ちが自分でもよくわからなくなっていたようです。たとえば、6月に辞めた仕事は、私の20代から30代の初めのほとんどの時間とエネルギーをかけて手に入れた仕事でした。そんな仕事をなぜ辞めたのか、後悔はないのか、これからどうするのか、仕事への思いは複雑すぎて、どこから手をつけたらいいのか皆目見当がつきません。それから、40代の初めまでしていた不妊治療。今回もダメだった、とわかるたびに、私はいつも傷つきました。落ち込むのではなく、傷つくのです。あなたには妊娠させてあげないよ、と運命に意地悪されているような気がして。ついこの間も、その時の傷が痛みました。自分ではもう精算したつもりだったのでまだ癒えていないのか、と驚きました。その時も、ブログにそれを書いてみようと思ったのですが、やはりうまく言葉にできませんでした。下書きフォルダには、こうして書きかけたまま放り出した記事がいっぱいです。================================でも、私はもうこういうものをすべて片付け、前に進みたいのだと思います。だからこそ、仕事を辞めて北海道で新しい生活を始めようと一大決心をし、そして、おそるおそるブログを書き始めてみたのではないかな。これからはもう少し、丁寧に自分の気持ちに向き合って、ブログを書いていきたいなと思います。遅くまでパソコンに向かっている私を今日もチョコが迎えにきました。チョコの記事ならすいすい書けるのにね。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2020.10.28
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先日、ひとつ、小さな選択をしました。自分でもどちらががいいかよくわかりませんでした。それでも、相手の強くすすめる選択肢はどうしても気が進まず、もう片方を選びました。そう告げた時、相手は気を害したようでしたが、数日経った今、私の選択は正解だったと心から思っています。洋梨の食べどきを決めるのもなかなかむずかしい(笑)================================これまでの人生で、大きなもの、小さなものさまざまな選択をしてきました。選ぶのが難しいのは、2つの選択肢の間で気持ちが49:51くらいの時。もうひとつは、理性は「やるべき」と言っているのに、心は「やりたくない」時。他人や社会に照らして「〜べき」なことをやりたくないという理由で断るのって、なんだかとても悪いことのような気がしませんか?たとえば、出張を依頼されたけど、スケジュール的にも体力的にもきつく本当は断りたい、というような時。私は、そんな時、大体行きたくないって叫んでいる心を、これはあなたにとっていい機会だから、とか大丈夫あなたならできる、とか言って、理性で力づくで抑えつけます。だけど、時々、どうしてもそれができない時があります。「〜すべき」と強く思っているのにどうしても自分の心を従わせられない。後で振り返ると、そういう時は、必ず心のほうが正しい選択をしているのです。今回のケースもそう。10年前に仕事を辞めた時もそう。今の夫と会う前に、別の人と結婚を考えた時もそう。さらに振り返ると、これまで理性で心をねじ伏せた決断の中には、間違いだったと思うものも結構あります。たとえば、もう動けない、もう頑張れないと心も体も悲鳴をあげていたのに、働き続けることを選び、結局、倒れてしまった時。もしかしたら本能はいつでもちゃんと正解を知っているのかもしれません。問題はその小さな声を聞き取れるか、聞き取れないか。聞き取ったうえで、理性とどう折り合いをつけるか。決断の古典的なやり方として、よく左側にプラスのこと、右側にマイナスのことを並べてみましょう、って言いますよね。何かの本に書いてありましたが、実際にこれで決断できることって少ないんだそうです。結局、理性で考えられることだけを比較しているだけだから。大事な決断であるほど、自分自身まるごとのところでしなければいけない、そうです。================================今回のは、間違った選択をしたところで、たいした影響はないことでした。だけど、あらためて思いました。心が理性に従えない時はきっと何かそれなりの理由があるのです。そういう時はもっと心の声に耳を傾けてみよう、と。単に億劫がって「やりたくない」と思っているだけの時も、私の心はたぶんそれをわかっている。だから、自分の心の声をもっと信じてみようと。最後まで読んでいただきありがとうございます。↓応援クリック、励みになります。にほんブログ村↓よろしければ読者登録も!!
2020.09.30
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札幌は地下鉄もバスもたくさん走っていて、どこに行くのも便利な街ですが、私は歩いて30分くらいのところなら、たいてい歩きます。のんびり歩きながら、北国ながらの煙突のある家やガイドブックには載っていない小さなお店、古い路地などを眺めていると、私だけの札幌マップができていくような気がします。こちらはガイドブックには必ずのっているカフェの森彦さん。時にはおいしいコーヒーで一休み。=============================今日もいつものように、家から30分の病院まで歩いて行くことにしました。病院までの道には、中島公園という大きな公園があって、路面電車の走る商店街もあって、絶好の散歩道です。あたたかい雨が降ったりやんだりしているのも散歩日和です。病院が終わり、お花屋さんをのぞいたり、ケーキ屋さんでカヌレを買ったり少し寄り道して、自宅近くの豊平川に差し掛かった時のこと。雨脚がさあっと強くなりました。橋からふと川原を見下ろすと、チョコの散歩の時にたまに会う、スピッツのユキムラくんが散歩しています。その後ろには、この間、チョコがご挨拶したボストンテリア&パグのコンビが走っています。まだ、夕方の散歩の時間には早いけれど、雨の様子を見ながら早めの散歩に出たのでしょう。雨の中を歩く知り合いの姿を見ながら、手を振ったら気付くかな、と迷っているうちに、突然、ああ、ここが私の住む街なのだ、という思いが込み上げてきました。9年間住んだ街を離れ、札幌に引越して3ヶ月、これまでさみしいと思ったことはありませんでした。今は、LINEだって、ZOOMだってありますし、どうしても友人や両親に会いたければ飛行機で数時間です。それでも、毎日の暮らしの中には、小さな違和感はあって、スーパーに並んでいる魚が鮭とタラばかりだとか、すれ違う人と人との距離の取り方が違うとか、妙に道路が広いとか、札幌の街と私の間にはいつでもフィルターが一枚ありました。そのフィルターがこの瞬間、すっと抜かれたような気がしたのです。顔にあたる雨がとてもあたたかく感じられました。=============================家には愛しいチョコと、長い出張から帰ってきた夫が待っています。さあ、早く家に帰ろう。そして、カヌレでお茶にしよう。最後までおつきあいいただきありがとうございました。↓応援のポチッをいただけますと励みになります。にほんブログ村
2020.09.18
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