《櫻井ジャーナル》

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2013.04.23
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 麻生太郎副総理をはじめ、168名の国会議員が4月23日に靖国神社を参拝、安倍晋三首相は「真榊」を奉納したという。議員の内訳を政党別に見ると、自民党132名、民主党5名、日本維新の会25名、みんなの党3名、生活の党1名、無所属2名。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」なる集まりのメンバーだという。この参拝に中国や韓国は反発し、韓国の尹炳世外相は訪日を取りやめた。

 中国や韓国が反発する理由は靖国神社の歴史にある。明治(睦仁)天皇の「安国の聖旨」に基づき、「東京招魂社」が創建されたのが1869年。現在の名称へ変更になったのは1879年のことだ。神社に祭られているのは、「明治王朝」を樹立した戊辰戦争で功があったとされる人びと、あるいはその後の戦争で死亡した軍人や軍属であり、琉球処分から台湾への派兵、朝鮮半島や中国への侵略を象徴する存在だと日本の周辺国では一般に見なされている。

 連合国が何を日本の侵略行為と見ているかは、カイロ宣言で触れられている。中国、アメリカ、イギリスの首脳、つまり蒋介石、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルが定めたカイロ宣言には、「千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ満洲、台湾及膨湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」と書かれている。

 蛇足ながらつけ加えると、この宣言についてポツダム宣言は「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と明記している。ポツダム宣言を受け入れた以上、日本はカイロ宣言も受け入れなければならず、本州、北海道、九州、四国以外の領土は連合国が決めるということだ。

 そして、1946年1月に出された連合軍最高司令部訓令によると、その小島とは「対馬諸島、北緯三〇度以北の琉球諸島等を含む約一千の島」で、「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹等を除く」とされている。

 日本の支配層がこうした宣言を無視するかのような発言を繰り返すのは、1945年4月にアメリカ支配層の方針が反ファシストから反コミュニストへ大きく変化したことによるのだろう。ヤルタ会談やカイロ宣言を主導したルーズベルトが執務中に急死したことが最大の原因だ。

 1941年1月からルーズベルト政権の副大統領を務めていたのはヘンリー・ウォーレスだが、この人物はニューディール派で、反ファシスト。民主党の「保守派」からは嫌われていた。そこで1944年の大統領選挙で副大統領候補は反コミュニストのハリー・トルーマンへ交替になる。ウォーレスはルーズベルトが急死する3カ月前に商務長官へ「左遷」され、そのポストも1946年9月に追われた。

 ルーズベルトの死によってウォール街がホワイトハウスで再び主導権を握る。その象徴的な人物がジョン・フォスター・ダレス。アメリカで権力構造に変化が生じた影響は日本にも及び、日本が降服した後、1923年から1932年までの日米関係に戻す作業が始まる。その中心にいたのがジョン・フォスター・ダレスと昭和(裕仁)天皇。

 1923年とは、関東大震災が起こった年。日本は復興資金の調達をJPモルガンに頼り、それを切っ掛けにして、この巨大金融機関の影響下に入った。ダレスはウォール街の弁護士、つまり代理人。JPモルガンなどが日本へ投入した資金を回収する必要があり、そのため、戦争中から「過度の破壊」には反対していたようだ。

 ダレスと天皇、ふたりの下にはウォール街の大物が顔を揃えるジャパン・ロビーが存在し、その実務部隊が「ACJ(アメリカ対日協議会)」。この団体の中心にいたのは、元駐日大使でジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの親戚、ジョセフ・グルーだ。

 ダレスたちは「天皇制官僚システム」の存続を願った。その象徴が靖国神社。GHQ/SCAPの内部では靖国神社の焼却を主張する将校が多数派だったのだが、これに反対の意見をダグラス・マッカーサーに述べたのがふたりのカトリック聖職者。つまり、上智大学で学長を務めていたブルーノ・ビッテル(ビッター)とメリノール宣教会のパトリック・バーン。ちなみに、麻生はカトリックの信者だという。

 ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だと言われているが、スペルマンは筋金入りの反コミュニストでCIAとつながり、アメリカが秘密工作に使う資金についても詳しく知る立場にあった。

 その後、イタリアや東ヨーロッパで実施された秘密工作の資金源は「ナチ・ゴールド(大戦中、ナチが略奪した金塊)」だと言われているが、送金などを請け負っていたのはバチカン銀行だった。

 1952年のアメリカ大統領選挙でドワイト・アイゼンハワーが当選するが、副大統領は39歳のリチャード・ニクソン。この人選は、ニクソンが「闇資金」を動かしていたからだと言われているが、その資金は日本で作られていたとする情報がある。

 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」という。その際、戦争中に日本軍が大陸で略奪した財宝を原資とする秘密資金の運用について話し合われたと言われている。その会談に出席していた第3の男がビッター。

 会談の2カ月後、ビッターは霊友会の闇ドル事件で逮捕される。同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だった。この件の金額は大きくないが、その背後では巨額の闇ドルが動いていた。この件に絡んで押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、捜査は打ち切りになっている。





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最終更新日  2013.04.24 12:26:02


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