ウクライナでアメリカ/NATO軍はロシア軍の敗北した。そこで、 いかにすれば投了せずに戦闘を止められるかと頭を捻っている 。アメリカでは有力メディアを利用し、ロシアがアメリカと停戦交渉しているかのように宣伝しているが、その理由もそこにあると考えらえている。
しかし、この宣伝にも大きな問題がある。ロシアが停戦に応じる意思をなくしているのだ。裏でロシアとアメリカが交渉している事実もないと見られている。
ところが、2月24日にロシア軍は機先を制し、ミサイルでドンバス周辺に集結していたウクライナ軍部隊を壊滅させ、航空基地、レーダー施設、あるいは生物兵器の研究開発施設も破壊した。これでウクライナ軍の敗北は決定的だった。
ロシアのウラジミル・プーチン大統領はその直前、2月21日にドンバスの独立を承認した。その際、ウクライナに対し、クリミアとセバストポリがロシア領だと認め、NATO加盟を断念し、非武装化(攻撃的な軍事施設や兵器を持たない)して中立を宣言、さらに「非ナチ化」も求めていた。
ロシアとウクライナはイスラエルの首相だったナフタリ・ベネットを仲介役として停戦交渉を開始、双方とも妥協して停戦は実現しそうだった。ベネットは2022年3月5日にモスクワへ飛び、プーチンと数時間にわたって話し合い、ゼレンスキーを殺害しないという約束をとりつける。その足でベネットはドイツへ向かい、シュルツと会うのだが、その3月5日、ウクライナの治安機関SBUがキエフの路上でゼレンスキー政権の交渉チームに加わっていたデニス・キリーエフを射殺している。現在のSBUはCIAの下部機関だ。
停戦交渉はトルコ政府の仲介でも行われた。アフリカ各国のリーダーで構成される代表団がロシアのサンクトペテルブルクを訪問、ウラジミル・プーチン大統領と6月17日に会談しているが、その際、 プーチン大統領は「ウクライナの永世中立性と安全保障に関する条約」と題する草案を示している 。その文書にはウクライナ代表団の署名があった。つまりウクライナ政府も停戦に合意していたのだ。
4月9日になると、イギリスのボリス・ジョンソン首相はキエフへ乗り込んでロシアとの停戦交渉を止めるように命令し、4月30日にはアメリカのナンシー・ペロシ下院議長が下院議員団を率いてウクライナを訪問し、ゼレンスキー大統領に対し、ウクライナへの「支援継続」を誓う。戦争の継続を求めたのだ。
停戦交渉を完全に壊したのはブチャでの虐殺問題。西側ではロシア軍が住民を殺したと宣伝したが、すぐ、その主張に対する疑問が噴出し始めた。
その問題が浮上する前、ロシア軍は停戦交渉の中でウクライナ政府と約束した通り、キエフ周辺から撤退を始めていた。3月30日にはブチャから撤退を完了、31日にはブチャのアナトリー・フェドルク市長がフェイスブックで喜びを伝えているが、虐殺の話は出ていない。ロシア軍が撤退した後、現地へ入ったウクライナの親衛隊が住民を虐殺したと考えられている。この後、ロシア政府はアメリカ/NATOと話し合いで問題を解決できないと腹を括ったようで、9月21日に部分的動員を発表している。配下の有力メディアにウクライナ/アメリカ/NATOの「判定勝ち」を宣言させ、ウクライナから脱出しようと考えているかもしれないが、そうした状況ではない。
ジョー・バイデン政権を追い詰めているウクライナでの内戦を始めたのはバラク・オバマ政権である。オバマ政権の副大統領がバイデンだった。
オバマ政権は2013年11月、キエフにあるユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)で「カーニバル」的な反政府イベントを開始して人を集める。年明け後にはステパン・バンデラを信奉するネオ・ナチが前面に出てきて、2月に入るとそのメンバーはチェーン、ナイフ、棍棒を手に石や火炎瓶を投げ、 トラクターやトラックを持ち出してくる。ピストルやライフルを撃っている 様子を撮影した映像がインターネット上に流れた。
ユーロマイダンでは2月中旬から無差別の狙撃が始まり、抗議活動の参加者も警官隊も狙われる。西側ではこの狙撃はビクトル・ヤヌコビッチ政権が実行したと宣伝されたが、 2月25日にキエフ入りして事態を調べたエストニアのウルマス・パエト外相は逆のことを報告 している。バイデン政権を後ろ盾とするネオ・ナチが周辺国の兵士の協力を得て実行したというのだ。
ヤヌコビッチ政権は2月22日に倒され、大統領は国外へ脱出したが、有権者の7割以上がヤヌコビッチを支持していたウクライナの東部や南部では反クーデターの機運が高まり、クーデターから間もない3月16日にはクリミアでロシアへの加盟の是非を問う住民投票が実施された。投票率は80%を超え、95%以上が賛成する。
ドネツクとルガンスクでも5月11日に住民投票が実施された。ドネツクは自治を、またルガンスクは独立の是非が問われたのだが、ドネツクでは89%が自治に賛成(投票率75%)、ルガンスクでは96%が独立に賛成(投票率75%)している。この結果を受けて両地域の住民はロシア政府の支援を求めたが、ロシアのウラジミル・プーチン政権は動かない。
それに対し、オバマ政権は動いた。ジョン・ブレナンCIA長官が4月12日にキエフを極秘訪問、22日には副大統領を務めていたジョー・バイデンもキエフを訪れた。バイデンの訪問に会わせるようにしてキエフのクーデター政権は黒海に面した港湾都市オデッサでの工作を話し合っている。そして5月2日、オデッサでクーデターに反対していた住民が虐殺された。
虐殺は5月2日午前8時に「サッカー・ファン」を乗せた列車が到着したところから始まる。赤いテープを腕に巻いた一団がその「ファン」を広場へ誘導するのだが、そこではネオ・ナチのクーデターに対する抗議活動が行われていた。
広場にいた反クーデター派の住民は労働組合会館の中へ誘導されている。危険なので避難するようにと言われたようだが、実際は殺戮の現場を隠すことが目的だったと推測する人もいる。
その後、外から建物の中へ火炎瓶が投げ込まれて火事になる様子は撮影され、インターネット上に流れた。建物へ向かって銃撃する人物も撮られているが、その中にはパルビーから防弾チョッキを受け取った人物も含まれている。
建物の中は火の海になる。焼き殺された人は少なくないが、地下室で殴り殺されたり射殺された人もいた。その際、屋上へ出るためのドアはロックされていたとする情報もある。会館の中で48名が殺され、約200名が負傷したと伝えられたが、現地の人の話では多くの人びとが地下室で惨殺され、犠牲者の数は120名から130名に達するという。虐殺の詳しい調査をキエフのクーデター政権が拒否しているので、事件の詳細は今でも明確でない。その後、オデッサはネオ・ナチに占領された。
オデッサの虐殺から1週間後の5月9日、クーデター政権は戦車部隊をドンバスへ突入させた。この日はソ連がドイツに勝ったことを祝う記念日で、ドンバスの住民も街に出て祝っていた。その際、住民が素手で戦車に立ち向かう様子が撮影されている。そしてドンバスで内戦が始まるのだ。
しかし、クーデター後、軍や治安機関から約7割の兵士や隊員が離脱し、その一部はドンバスの反クーデター軍に合流したと言われている。そのため、当初は反クーデター軍が戦力的に上回っていた。
そこでクーデター体制は内務省にネオ・ナチを中心とする親衛隊を組織、傭兵を集め、年少者に対する軍事訓練を始めた。並行して要塞線も作り始めている。その時間稼ぎに使われたのがミンスク合意だ。
合意が成立した当時から西側では「時間稼ぎに過ぎない」と指摘する人がいたが、この合意で仲介役を務めたドイツの アンゲラ・メルケル(当時の首相)は昨年12月7日、ツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認めている 。その直後に フランソワ・オランド(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語ってい る。
ミンスク合意はクーデター政権の戦力を増強するための時間稼ぎにすぎない。8年かけてクーデター体制の戦力を強化したのだ。アメリカだけでなくドイツやフランスも話し合いで問題を解決する意思はなかったのである。
こうしたアメリカの対ロシア戦略は1991年12月にソ連が消滅した後に作成された。国務省や国防総省を掌握しているネオコンはソ連が消滅した後、アメリカが「唯一の超大国」になったと認識、世界は自分たちの考えだけで動かせる時代に入ったと信じて侵略戦争を本格化させていく。
当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュだが、この好戦的な動きはリチャード・チェイニー国防長官の下にいたポール・ウォルフォウィッツ国防次官。この人物を中心にして、DPG(国防計画指針)という形で侵略計画は作成された。「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。
このドクトリンによると、彼らは旧ソ連圏を制圧するだけでなく、ドイツや日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に組み入れ、新たなライバルの出現を防ぐと謳っている。
実際に日本がアメリカの戦争マシーンに組み込まれたのは1995年のことだ。この年の2月、国防次官補だったジョセイフ・ナイは「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が主張されている。
そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)るという事件が引き起こされた。地下鉄サリン事件の10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃されている。
さらに、8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。日本政府に対する恫喝だった可能性がある。