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新年明けましておめでとうございます。随分更新が滞っていますが、久し振りに面白いネタが挙がってきたので一つ雑感を。お正月早々、納豆が各地で売り切れというニュースを小耳に挟んでいた。どうせみのもんたが「お嬢さん、納豆いいですよ~」なんて売り込んでいたんだろうかと思っていたが、よく調べてみると「発掘!あるある大事典II」で紹介されたということだった。まぁ、納豆自体は別に日頃から食されているものだし昨年春の白インゲン騒動のような健康被害は無いだろうと思っていたが、意外なところからボロが出てきた。番組の捏造である。週刊朝日の記者がすっぱ抜いたらしいが昨日の同番組は中止、関西テレビは社長以下が会見を開き番組内での紹介内容に捏造があったと謝罪した。内容としては納豆を食べるとDHEAが増え、ダイエットに効果的というものだったが、アメリカの教授のコメントや実際に納豆を食べ、中性脂肪値が改善したとかやせたという被験者を紹介したりしていた。週刊朝日の記者はわざわざアメリカの教授に電話をかけ、番組内でのコメントに関しては「そのようなことはいっていない」とコメント、また被験者の中性脂肪値に関しては採血すらしていないということをつかんだらしい。確かにここまでくると「やらせ」とか「捏造」とかいわれても仕方ないだろうと思う。納豆自体に罪はないのに、何ともお粗末なお話だ。昨今の健康ブーム?とやらにのっかっての番組だったのだろうが、深夜の怪しげなサプリメントを紹介するような番組ならともかく、いわゆる看板番組である。その影響の大きさは計り知れない。おそらくはこの番組を見て納豆を食べ出したり、食べる量を増やしたりした方も多いのではないだろうか?結局のところ、事実とは遙かに違う歪曲された内容が公共放送として公開された、ということである。番組作成を下請けに出したとかチェック体制が甘かったとか、そんなことはどうでも良くって、とりあえず視聴者の健康は二の次、視聴率さえ稼げればいいんだという放送局の姿勢がうかがえる。ただ、放送局側を一方的に責めていても何も始まらない。こうした歪曲は日常茶飯事に行われているからだ。先にも書いたが、深夜放送のサプリメント販売なんかで「やせた」とか「癌が治った(さすがに最近こんな誇張はないが)」なんていう内容はざらだ。画面の隅っこに「効果は個人により差があります」なんて言い訳みたいなテロップが入っているが、これも自衛のためなんだろう。結局は視聴者側が信じる・信じないの問題なのだ。深夜の番組なら「ちょっと眉唾かなぁ」と思えることでもゴールデンタイムの放送なら「きっとそうなんだろう」という思いこみが一番危険なのだ。ましてや自分の健康に被害が及ぶかもしれないことならなおさらだ。以前にもみのもんたの功罪について書いたことがあったように思うのだが、それと同じこと。「納豆がいい」「ココアがいい」「赤ワインがいい」「みかんが」「リンゴが」・・・結局、口にするのは視聴者だ。番組を信用するなとまではいわないが、盲目的に「右へならえ」的な発想はいい加減やめたほうがいい。これで死者でも出たら洒落にならない。自分の健康は自分で守る、そのためには積極的な情報収集をし、取捨選択していかなければならない。人の身体は千差万別、十人十色。誰一人として同じ身体ではないのだから、他人には良くても自分にあわないことが当たり前だと思えるくらいの余裕を持つことだ。様々な情報があふれてしまっている社会で求められるのは不要な情報を捨てる技術であり、それが自分の健康を守る手段だということも知っておいたほうがいいだろう。
2007.01.22
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先日、奈良で起こった「妊婦たらい回し事件」が報じられるようになって数日がたった。事件の詳細についてはまだわかっていないことも多いが、当事者近くの医療関係者などから漏れ伝える話を聞きまとめると、事の真相はマスコミが報道しているものとは幾分違っているようだ。このあたりの詳細についてはYosyan先生の「新小児科医のつぶやき」やphysician先生の「へなちょこ医者の日記(当直日誌兼絶望日誌)」医療関係者用の掲示板「m3.com Community(医師専用)」などでまとめられているので参考になさるのもいいかと思う。いずれにせよ、今回の事件は不幸な事例なのだが、小さな不幸が重なって起きた事件であることは想像に難くない。初産・深夜という時間帯・地域特性・脳出血と子癇との鑑別・病院との信頼関係…それぞれ単発であれば何とかクリアできたかもしれなかっただろうが、こうした些細な出来事が積もり積もると全国報道レベルの大事件となる。こうした事件はほとんどが「ああしておけば…」「こうしておけば…」という過去への反省だ。結果が前提として存在し、その結果を回避するためにはどうしておけばよかったのかを悔やむ事例が大半だ。事件が起こっている「渦中」の判断が正当だったか否かを問う声は意外に少ない。先日、SankeiWebの【主張】で「病院たらい回し 患者本位の基本忘れるな」という一文が掲載された。その文末で「患者を救うのが、病院や医師の義務である。患者中心の医療の基本を忘れているから患者をたらい回しにし、患者不在となる。もう一度、医療とは何かをしっかり、考えてほしい。」と結ばれるのだが、「たらい回し」と「患者中心の医療」が同列で論じられれているあたり、少し論点をはき違えているような気がする。確かに夜中にややこしい患者さんが来院するとなればあまり乗り気ではない。それは単に仕事をさぼりたいからではなく、自信がないからだ。「プロだからそれなりの自覚を持って仕事をしろ」といわれそうだが、やはり絶対的マンパワーの不足する当直時間帯は自分一人で乗り切れるという自信が湧いてこない。昨今の訴訟沙汰を見聞きしていればなおさらで、自分自身100%以上の力を出し切ったと思える症例でも結果が悪ければそれまでの努力はほぼゼロと算定される。仮に訴訟沙汰にでもなろうものならその勝敗がどうであっても精神的負担などは重くのしかかってくる。患者中心の医療と声高に叫ぶ人たちは、まずその考えを再認識するところから始めることをお勧めする。「患者中心」と「患者の権利」の対極には現場で働く医療者たちの生活もあるのだ。ちょっとした微熱で夜中に受診するようなコンビニ受診が蔓延するのもこうした「患者中心」の考え方が一方的に大きくなってきたことに起因しているのではないだろうか。疲弊は次第に医療者側へと圧縮され、耐えきれなくなった病院や医師たちが崩壊していく。こうした現実を直視してなお「患者中心」と叫び続けるのなら、一度医療者側の立場に立ってもらうよう切望する。「自分で対処しきれないと思ったときは、すぐに上級医師を呼ぶこと。それは恥でも何でもない。患者さんのことを真剣に考えているのなら面子にこだわってはいけない。それも立派なスキルだ」研修医時代の上司はこの言葉を口癖にしていた。血気盛んな研修医が暴走しなかったのはこうした上司の言葉があったからだと思う。オールマイティなど存在しない、だからみんなで力を合わせていこう、というメッセージだったのかもしれない。こうした力を合わせていけるような仕組みが構築されれば、今回のような不幸な事件も減少していくに違いない。人間の手ではどうしようもないことがある「医療」という現場だからこそ、後出しじゃんけんのような「ああすればよかった」という言葉は御法度だと思う。「患者中心の医療の基本を忘れている」という安易かつ、とってつけたような論評がなされている限りこの国の医療は闇の中を彷徨うことになるだろう。 人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.10.25
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臓器移植法違反で愛媛県警は宇和島市内の病院を10月1日朝から捜索しているとの報があった。臓器移植は様々な問題を抱えているのは事実だが、基本理念は臓器移植法第2条に定められているように任意提供であり、人道的精神に基づきかつ公平な機会が配慮されるべきとある。おそらくは氷山の一角だろうし、こうした金銭授受を伴う臓器移植は少なくないだろうと思われる。たしかに臓器移植でしか救えない命もあるだろう。しかし、こうした移植に金銭授受を伴っていけないのはなぜかを改めて考えてみる必要がある。まず、なぜ臓器を売ってはいけないのか。こうした議論は倫理や宗教の専門家たちが幾度となく繰り返しているのでそちらを参照していただければと思うのだが、僕個人の意見としては「歯止めがきかなくなる」の一点に尽きる。臓器を売ってもよいということになれば、おおっぴらにはならないとしてもあちこちで臓器提供者が続出するだろう。あるいは他人を殺めてまで臓器売買に荷担するものもいるかもしれない。以前、「売血」(実際には血液を「購入」している形だが)という行為が公然と行われていた時期があったが、その結果が現在の肝炎を蔓延させる原因の一端となったことは誰もが認めるところである。いずれにせよ、金銭の授受が伴うことで公平さや人道的な配慮が欠落することは当然だと思われる。そして、売ってもよいということは買ってもよいということだ。今回の事件では臓器を「購入」した人物と「仲介」した人物が逮捕されることとなったが、臓器を提供した側にも責められるべき点があるだろう。闇金の取り立ててではないが「腎臓一つぐらい売ってこいや~(`ε´メ)ρ」とあたかも臓器がお金に替わってしまうような状況ではどうしようもない。身体をお金に換える、お金で身体を買う、それは売買春と本質的には何も変わらない。今回の一件でどういった取引があったのかは今後の捜査を待たねばならないが、いずれにせよ安易な臓器売買は慎まなければいけない。また、移植を行った病院側の姿勢も問われるべきだろう。まさか患者が替え玉だったとは思いも付かないかもしれない。普通はそうだ。しかし、臓器移植という最高レベルの倫理と技術を必要とする現場である以上、本人確認はもちろんのこと、こうした金銭授受がないかどうかやドナーとレシピエントの関係を詳細に把握しておく義務があるはずだ。少なくともこうした移植を行うためには「摘出」と「移植」の2ステップを踏まねばならない。そのどちらが欠けても移植は成り立たないのだから、「知らなかった」とする今回の病院の会見は少々お粗末だったように思う。移植の問題は常に最高レベルの倫理観を要求される。安易に賛成や反対というのではなく、どうあるべきなのかを慎重に検討していく必要がある。おそらくは「白」「黒」という決着はつけられないだろう。グレーゾーンを渡り歩いていく問題だと思う。細かな規範を作っていくことによって今後の移植が成立していくだろうが、どの規範にも抜け道はある。そうしたルール違反が発覚した場合どのようなペナルティーが課せられるのか、そういったところまで踏み込んでいかなければならないのかもしれない。技術の急速な成長とは裏腹に、我々の倫理観はなかなか進化しない。この乖離が存在する以上、今後同様の事件が起こらないとは限らないのだ。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.10.02
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先日、北海道立羽幌病院で起こった「消極的安楽死」事件に動きがあった。旭川地検は8月3日付で担当医師を不起訴処分としたのだ。最近の話題なので覚えておられる方もあるかと思う。新聞記事はこちらを参照していただくとして、今回の事件はいったい何を語ろうとしているのか少し考えてみたい。旭川地検の起訴内容は殺人罪だった。つまり、人を一人殺めたと判断したのだ。しかし現実には多くの病院で末期状態の患者さんに装着されている呼吸器を外すことが行われており、仮に今回の事件で起訴された医師が有罪になれば雨後の竹の子のように続々と殺人容疑で起訴される医師が増えることも予想される。さて、病院という場所は相当な密室であるため実際に行われた治療内容などは本人や家族を含めごく限られた人間しか知ることがない。人間の「弱さ」を扱う場所であるが故、旧来より比較的プライバシーが守られてきた場所であろうかと思う。今回の事件を誰が通報したのかは定かではないが、病院が変死体として届け出をしたことをきっかけに捜査が進んでおり、当事者たちに近い筋からの報告なのだろう。つまり、今回の事件を快く思わなかった、あるいは正義感に燃え、疑問を感じた人間が身近にいたということになる。人の死を定義するのは難しい。難しいからこそ、安易に呼吸器を外してはいけないという理由もわかる。しかしまた逆に、安易に装着してはいけないということもこの事件は教えてくれる。自発呼吸が確認できないまま人工呼吸器を外すということは、呼吸停止を意味する。呼吸が止まればいずれ人間は心停止となり、世間一般でいう「死」を迎えることとなる。人工呼吸器を外すことの議論は深まる一方で、実は装着についての議論というのはあまり深まらない。人工呼吸器の装着の判断については現場の医師の裁量によるところが大きく、担当医が見込む「予後」と密接に関わってくる。予後不良と判断されるようなケース、たとえば末期癌の患者さんなどに人工呼吸器をつけることは正しいのだろうか? 逆に救命の見込みがある患者さんに人工呼吸器を着けない場合はどうだろうか? いずれにせよ人工呼吸器という装置はその場の呼吸機能をしのぐものであって恒久的呼吸を得ようとして行っている治療ではない。しかし現場では悠長に考える時間などはない。従って人工呼吸器を装着した結果、その先に待っている状況がどうなるのかを医師は瞬時に判断し対処せねばならない。原因不明の心肺停止状態で運ばれてきた患者さんがとりあえず心拍のみ再開したような場合は人工呼吸器を装着して時間を稼ぐことが重要になってくる。稼いだ時間で原因を究明し対処していくことが可能だからだ。しかし、その後の検査結果で回復不能と判断された場合はやっかいだ。呼吸器を着けなかったら原因がわからなかった、しかし原因は回復不能な病態だった…。「つけなければよかった」と思ったとしてももう後戻りはできない。医師の宿命は「積極的」救命とされているからだ。確かに、積極的に救命を続けていれば何も問題は起こらない。だから家族が何度訴えてもどうしても呼吸器を外してくれないからといって訴訟を起こしたという話は聞いたことがない。しかし、現実は違う。残された家族や治療に当たる医療者たち、そして物言えぬ本人の狭間でぶつけようのない嘆きや悲しみが行ったり来たりしているのだ。先の新聞記事では>同地検は複数の専門医らに意見を求め、「呼吸器を取り外さなくても余命は10数分程度だった可能性があり、取り外したことが死期を早めたとは断定できない」との結論になったが、「余命わずかと断定できる証拠もない」とし、「嫌疑なし」とはしなかった。とあるが、その通りだろうと思う。余命なんて誰にもわからない。後出しじゃんけんみたいな言い訳が通用しないからこそ慎重な議論がなされるべきだろうし、呼吸器装着に関しどう捉えていくのかも考えていかないといけない。グレーゾーンの真っ直中におかれているこうした医療問題を、あっさりと起訴してしまう昨今の風潮はどうだろうか。白黒をつけるのが検察や法律の仕事だとはおもうのだが、医療現場ではまだまだ多くの現実が白黒つけがたいことを物語っている。裁きの前にこうした現実をどう考えているのか、今回の立件に関与した人間は再考すべきだろうと思う。
2006.08.07
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ずいぶん久しぶりの更新になった。いろいろと理由はあるのだが、まず一番大きな理由は職場の変更だった。慣れない職場に順応するのが精一杯で、時間はあるのに書くための心の余裕がないというジレンマ。まだまだ順応するには時間がかかるだろうがこつこつやっていきたいと思っている。次に大きな理由は家庭だ。先日生まれた子供はすでに6ヶ月になり、泣くわわめくわで大変だ。特に夜中に泣かれると辛い。しかし誰もが通っていく道なのだからとここは一つ奮闘中。子育てを経験してみて思ったのは、嫁さんの努力が並大抵のものではないということだった。つきあって結婚して今までみたこともなかった「母性」が見えるようになったのが大きな理由だろうか。風呂へいれたり、遊び相手になることはできても、やはり母性の持つ優しさや寛大さにはかなわない。子供自身はそんなこともわからないのかもしれないが、肌身で感じていることだろう。まぁ、これほどまでに大変だと思っていてもそれほど苦にならないのは子供の笑顔があるからか。子育ての方もビギナーながら何とかがんばっていきたいと思っている最中だ。そして最後にATOKだ。「一太郎」や「花子」で一世を風靡したジャストシステムのインプットメソッド。僕は今までほとんどの文章をこのATOKで打ち込んできた。メールや日記は当然のことながら、ちょっとしたプレゼンや論文までまさに手足という感じで使ってきた。ATOKとMacが紙と鉛筆みたいな感じだったのだ。しかし今年に入ってからのMacはすべてIntel化されており、OSの根本部分から大きな変更がなされた。見た目はPPCのOSXであっても中身はまるで別。従ってシステムの内部に組み込まれるATOKは今までのものが使えないということになった。泣く泣くApple謹製の「ことえり」を使ってみたりしたものの、やはりしっくりこない。文節の変換など微妙に異なる点も多いしUIも違う。とてもじゃないが使う気になれなかった。また、ATOKとライバル視されるEGBridgeは早くからIntelMac対応し体験版も公開されたため早速使ってみた。なるほど、キー配列や変換の動作などはATOKとほとんど変わらない。しかし、変換される文章や候補などはATOKとは大きく違うものだった。なれればEGBridgeでも全然問題なさそうだったが、慣れようとする気も起こらずお蔵入り。IntelMac用のATOK発売を待つことにした。先日、やっとIntelMac用のATOKが正式に発売された。早速購入しインストール。特に不具合などなさそうになったのでやっと紙と鉛筆がそろった感じになった。なお、今回のATOKに関してはベータテストにも参加し、トラブル報告などを行った。そのおかげかベータテスターの名前がクレジットとして記載されるというおまけがついた(笑) そして、こうしただらだらとした文章を書くときこそ紙と鉛筆はなじみのものを使いたい。ストレスのない作成ができるからこそ次から次へと発想できるようになるのだ。職場や家庭やIMなど、日記から遠ざかるいろいろな悪条件が揃っていたがそれも改善されつつある。ぼちぼちとだけれどもまた更新を始めようかと思っている。ログを見ると更新もしていないこんなくだらないページでも200-300/日程度のカウンタが回っているので、きていただいた方にも失礼だろう。あまり過度の期待はしないでほしいが、思っていることを書き出せる、そうしたページを作っていきたいと思っている。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.07.21
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最近、あちこちのブログで取り上げられることが多くなった「当面の医師確保対策(案)について」だが、卒業を前倒しにするだの、医学部の定員を増やすだの様々な議論が交わされている。また、かのmedtoolz先生はこうした意見の是非はともかく、「どれだけ大きな反響を作ったか」が重要であり、昨今の情報発信技術の進歩に言及されている。さてさて、ここからは僕の独り言。医者の数が多いか少ないか、そんなことは現場の人間にはわからないのが本音だ。確かに「もう少し医者がたくさんいればなぁ…」と思う場面は少なくない。しかし、毎年同じ程度の医籍登録者があり、引退する年限も決まっていない訳だから現状では決して医師数が減っているというわけではないだろう。厚生労働省でもこうした議論は当然のことながら尽くされているのだが、あくまでも切り口は狭く、本質にはたどり着けていない。統計的にみれば医師数は決して少なくないらしい。しかし、現場の感覚はとても医師数が多いとは思えない。このギャップはやはり仕事の内容が加味されていないことから生じているものだと思われる。楽な仕事であれば働く医師数はそれほど必要ないだろう。逆に厳しい仕事であれば今以上に医師数が必要となる。昨今医師不足が叫ばれている背景の一つにはこうした必要以上の激務があるのではないだろうか。医師数を増やすべきなのか、それとも仕事の負担を軽減すべきなのか、いずれにせよ今すぐに解決できる問題とはとても思えない。しかし一言いわせてもらうならば、医師数が不足しているから負担が増えた、ではなく「負担が増えたから医師数が不足した」という感が強い。特に小~中規模で展開する地方の公立病院などはろくなバックアップもないままに負担だけが増え、結果として医師数が減っていくという悪循環に陥っているように思える。救急の現場ではさらにそういった思いが強い。健康への関心が高くなり、テレビやインターネットで容易に種々雑多の情報を入手できる今、病院という場所は特殊なものではなく、いつでも気軽に出かけられる場所となった。さらに、異常とも思える医師への訴追なども一因としてあるのかもしれない。しかし、その結果必要のない受診者が増えたり、逆に必要な患者さんが受診できなかったりと弊害も起こっていることは事実だろう。「患者さんは素人」だからこちらとしても強くは言えない。でもちょっとした発熱や感冒症状だけで中規模以上の病院を受診しなければならない理由はない。せっかくこれほどまでに情報発信技術が進歩しているのなら、受診について改めて考えさせる情報がもっとあふれてもいいと思うのだ。単に数が多い・少ないといった算数的な議論ではなく、その背景にいったい何があるのかをちょっと立ち止まって考えるだけでもずいぶん変わるのではないかと思う。もし不必要な受診のために現場の医療者たちが悲鳴を上げているのなら、負担軽減だけで名実ともに医師数は充足することになると思うのだが…どうだろう?人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.05.17
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そんな事より1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。昨日、近所の衆院厚労委員会行ったんです。衆院厚労委員会。そしたらなんかお偉いさんがいっぱいで立ち見なんです。で、よく見たらなんか「長い目で見れば病気を減らすことができる」、とか書いてあるんです。もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らな、医療改革法案如きで普段来てない衆院厚労委員会に来てんじゃねーよ、ボケが。医療改革法案だよ、医療改革法案。なんか親子連れとかもいるし。一家4人で衆院厚労委員会か。おめでてーな。よーしパパ質問しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。お前らな、熱いお茶やるから帰れと。衆院厚労委員会ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。で、やっと座れたかと思ったら、民主党の郡和子議員が「厚労省の政策はいたずらに国民の不安をあおるものだ」、とか言ってるんです。そこでまたぶち切れですよ。あのな、「厚労省の政策はいたずらに国民の不安をあおるものだ」なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。得意げな顔して何が、「不安をあおるものだ」、だ。お前は本当に「いたずらに国民の不安をあおっている」と言いたいのかを問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、「いたずらに国民の不安をあおっている」と言いたいだけちゃうんかと。衆院厚労委員会通の俺から言わせてもらえば今、衆院厚労委員会通の間での最新流行はやっぱり、高血圧、これだね。肥満・高血圧・糖尿病。これが通の頼み方。高血圧ってのはARBをちょっと多めに。そん代わりCaブロッカーも味付け程度にかます。これ。で、それに肥満・糖尿病。これ最強。しかしこれを頼むと次から民主党の郡和子議員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。まあお前らド素人は、家で寝てなさいってこった。元ネタはこちらまぁ、どうでもいいことなんだけど。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.05.11
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ずいぶん長い間ご無沙汰していました。慣れない勤務で更新するほどの余力がなかったことが大きな原因ですが、新しい職場にも少しずつ慣れてきたのでボチボチ更新していこうかと思っています。メインマシンがMac miniからMacBook Proに変わり、秀逸なIMが使えなくなったこともやる気をそぐ一因です。ATOKは現時点ではintelMacに対応しておらず、また試用版で提供されるEGBridgeはなんか変換効率がいまいちです。標準IMの「ことえり」は賢くなったとはいえカスタマイズがほとんど不可という状況は変わらず。とりあえずまだ使えるEGBridge試用版を使っていますが、ストレスフルな状況は変わりません。長い間ATOKで染みついてしまった「慣れ」はなかなか抜けそうにありません。皆さんはいったいどんなIMを使っておられるんでしょうかねぇ? 「弘法筆を選ばず」とはいいますが、どんなIMでも同じように使えるわけではないでしょうから気になるところではあります。閑話休題新病院へ赴任して約1ヶ月。今日も朝から勤務。以前の公立病院なら5連休だったろうが、さすがにそうはいかないようだ。透析設備を持つ病院のため患者さんは休みなど関係なくやって来る。お互い、休日ぐらいゆっくりと…と思っていても身体はそれを待ってくれるわけではないからだ。基本的にはルーチンワークに終始するため顔ぶれも同じならすることも同じ。時間もほぼ同じで、違うことといえば季節によって移ろいゆく窓の外の景色くらいか。だから休日の勤務といっても救急のようにあたふたすることはなく、きわめてゆっくりとした、しかし終わりのない時間が流れているだけだ。生活に組み込まれた通院。もう、病院は家の一部と化している。基本的には「死ぬまで」通院を続けなければならない人たちばかりだ。だれも好んで透析を始めたわけではないだろうが、それにしてもほかの病気と違って先行きへの閉塞感は強い。治る見込みのない病気。しかしすぐに悪くなるわけでもない病気。何年か、何十年か…先行きの見えない病気。今まで持っていた病気への概念を根底から覆してしまうような状況が目の前にある。うちの病院へやってくる患者さんはもちろん、透析患者さんだけではない。肺炎や腹痛は今までと同様だし、しんどい病(笑)も少なくない。ただ、今まで診ることのなかった一種異様な雰囲気を持った患者さんたちが日常生活を送っていることに驚きを禁じえなかったのだ。急性期から慢性期まで。一生涯で経験する病気には多種多様なものがあることを再確認しつつ、これからも勉強していかないとなぁ、と思う。
2006.05.05
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職場を変わってすでに2週間が過ぎた。実際には最初の1週間はお休みをいただいていたので家で子供の面倒を見る毎日だったが、やはり仕事を始めるときというのは緊張する。おまけにネット環境も後手に回ってしまったので更新もずいぶん遅れた。これからはなるべく更新していきたいとは思うのだがどうなるだろうか?さて、先月まで数年勤めた病院はいわゆる「公的病院」だったが、今度の病院は違う。一族郎党で立ち上げた「私的病院」だ。したがって患者さんの満足度はもちろんだが、それ以上に利益を追求することが至上命題となる。病院がつぶれてしまっては患者さんを満足させられないどころか迷惑をかけてしまうからだ。当然、コストのかかるドクターの数は圧倒的に少ない。今まで放射線技師さんに任せきりだったCTなんかも全部自分で撮影しないといけない。循内のドクターにお願いしていた心エコーも自分で施行しないといけない。今までまったく経験したことのなかった仕事がそこには待っていた。さまざまな設備も最新のものからオンボロまでそろっているのも特徴だ。以前の病院ならおそらく「倉庫行き&二度と日の目を見ない」であろう内視鏡ですら現役で働いている。無駄を徹底的に省く、という意気込みが随所に感じられる。しかし決して清貧なわけではない。スタッフの給料は毎年きちんとベースアップしているようだし、新規の設備投資も行っている。そしてそれなりの黒字。以前の病院なら考えられなかった経営感覚が現実にある。事務長も敏腕だった。経営にはスタッフの参画が不可欠と考えているため主任以上のスタッフは全て経営会議に出席。コスト削減のアイデアや、環境改善、リスクマネジメント…あらゆるアイデアが会議の席上で発言され、議論されている。あまりのパワフルさに少々怖気づいてしまっている自分が情けないが、しばらくしたら慣れるのだろうか。幸い、周りのスタッフたちには恵まれたようなので肩肘張らずマイペースでやってみようと思う。取り敢えずいままでしたことも無かった検査や透析の勉強など一から始めなければならないことも多いが、今までの経験を生かしつつ病院や患者さんに貢献できれば、と思う。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.04.15
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先日、富山の病院で患者さんに装着されていた呼吸器を外し警察が捜査に乗り出したことが報じられた。今後の動向も注目されるが、この手の報道は雨後の竹の子のようにぞろぞろと出てくる。安楽死・尊厳死なのかそうでないのか、判断が非常に難しいだけに一概にいいものとも悪いものとも決めつけられない。今回の外科部長は少なくとも数人に対し呼吸器を外したということになっているが、報道はされなくとも同じような事件は表沙汰にならないだけであちこちで起こっているはずだ。森鴎外の代表作に「高瀬舟」がある。弟殺しの罪状で遠島を申しつけられる兄の話だ。死にきれない弟を介助してやったら死んでしまった、という話なのだが作者自身、この安楽死に対する深い洞察は描いていない。安楽死に対する考え方は今も昔も、洋の東西を問わずなかなか一定したものが得られていない。そして今回の事件で考えておかねばならないものがある。それは、今回の事件がなぜ警察の捜査の対象となったのか、ということだ。内部告発によるもの以外には考えられないが、こうしたことからも呼吸器を外すことにためらいを持っているスタッフがいるということはわかるはずだ。確かに、我々の使命は病気の平癒である。これが達成されるために様々な知識や技術を用いているのだから当然といえば当然だが、一方で平癒できなかった場合のことは余り多く語られない。それは医療の敗北であると信じられてきているからだ。しかし、実際にフタを開けてみれば圧倒的に平癒できない患者さんのほうが多い。そのなかでも特に問題となるのは死ぬのを待つだけの患者さん達だ。今回の7人はいずれも末期癌であったようだが、彼らはいずれも死ぬのを待つだけの存在であったのだろう。呼吸器が付いていることからも、一度は危篤であったものの呼吸器装着によってかろうじて生きながらえた、という感じがうかがえる。人工呼吸器の発達によって、今まで救えなかった患者さんが多く助かるようになった一方、死にたくても死にきれない患者さんが増えたという事実は見逃せない。テレビのドキュメンタリーなんかで出てくる呼吸器はほとんどが「生き抜くため」の呼吸器だ。末期癌で明日をも知れない命をかろうじて呼吸器で引き延ばしている患者さんや家族の苦悩は余り報道されない。治療はすべて平癒への一方通行だ。我々の行為はそのすべてが平癒にしか向けてはいけないことになっている。仮に、平癒できないのであれば緩やかに速度を落とすしか方法はない。間違っても逆走したり停止したりしてはいけない、これが医師の宿命らしい。平癒し得ない(このあたりの線引きは難しいのだが)患者さんに呼吸器を装着するということは、ブレーキのかからない治療になったことと同じだと思っている。そのブレーキのかからない治療であえてブレーキをかけた外科部長の心情はどのようなものであったのだろう。すでに50歳という年齢からも数多くの患者さんを看取ってきたに違いない。敗北や挫折感も相当味わってきているはずだ。にもかかわらず、今回の事件。マスメディアもセンセーショナルな取り上げ方をしているが、余り深い洞察は感じられない。人工呼吸器を外すことが本当に悪なのか、その基準も示されないまま事件は一人歩きしていく。市長は「100歳で亡くなっても、遺族の方は『もう少し長生きしてほしかった』と思うのが人間の本当の姿。患者さんが元気になることに最善を尽くす。これからもそういう病院でありたい」と目に涙を浮かべながら語った。ということらしいが、現場も見ないうちからこうした発言をするのもどうかと思う。天寿を全うして死ぬのではない。生きながら死に、死にながら生きるという複雑怪奇な現状をどのように理解しているのか、それを語って欲しかったと思う。いずれにせよ、しばらくはこの事件も報道され続けるだろう。しかし件の産婦人科医師逮捕の事件も下火になったのを見ても明らかなように、こうした話題はいずれまた風化する。事件を風化させてしまえば、また同じような事件が起こるだろう。メディアとしてきちんと報じた以上、今後の展開も責任を持って報道する義務があるのではないか。センセーショナルに書き上げて「はい、おしまい」ではなく、この事件の背後にある現状、そして我々一人一人が持っている死生観を見つめ直していくことが最重要課題なのだと思う。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.03.27
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去年の4月1日、エイプリルフールの日記で「失職」と題した一文を掲載したが今度の4月1日には本当に失職することとなった。まぁ、次の就職先は決まっているので「転職」という言葉の方が適切かもしれないが、何れにせよ僕はこの病院を去ることにした。理由はいくつもある。その中で最も大きな理由が「精神的負担が大きすぎる」と言うことだ。幸いにもまだ若い?のでタイトなスケジュールでやって来る当直などはまだ何とかしのげるほどの体力がある。しかし精神的な余力はほとんど残っていないという他ない。何度かこの日記でも取り上げているが僕は「一般内科」医だ。消化器を中心として活動してはいるけれども別に看板を掲げてやっているわけではない。循環器科や呼吸器科などと違い、あくまでも専門性は謳わず勤務してきた。今の病院にご厄介になったのはもう5年ほど前のことだ。当時は(今でもそうだが)駆け出しの内科医でまだまだ知識や技術も乏しくこれからさらに経験や勉強を積み重ねていかねばならなかった僕にとって、数百床もある巨大な病院は魅力的だった。スタッフドクターも40名超と大勢いたし、何よりも「総合医局」という環境がうれしかった。隣に机を並べているのは外科の先生だったり整形外科の先生だったり……人事異動でドクターが入れ替わるたびに席は少しずつ様変わりし、いろんな先生方と話をすることが多くなった。その筋は「プロ」であっても他のことになると素人同然という先生も多く、僕が消化器をしている都合からか食思不振や下痢など、いろんな相談が持ちかけられたりした。僕みたいなペーペーの医者にでも腰を低くして質問などされるとこっちが逆に恐縮してしまうシーンなども多かったし逆に、違うジャンルのことでもすぐに質問したり助言をいただける環境はすばらしいと感じていた。そんな病院だったから当時の僕にとってはとても魅力的に思えたのも当然のことだった。症例も多く、できてまだ3年程というハードのよさなども魅力的だった。ここで仕事をすればもっと自分の力を発揮できる、そう思っていた。しかし現実はそんなに甘くはなかった。多いと思えたスタッフも、いざ仕事をしてみると明らかに人員不足の感が否めなかった。特に内科はそう思えた。専門を謳っていないのだから「血を見る」「けがをしている」「小児」「産褥婦」以外はほとんど内科の仕事だった。最初から専門科がわかっていないのだから当然といえば当然のことだったが、明らかにキャパシティーを越えていた。当直に入っても「3日前からの咽頭痛」から出来立てほやほやの「CPA」や「死体」まで、とにかく何でも「診てくれ」の一点だけだった。院長や事務長なども「断らずできる限り診るように」との一点張り。救急を断ろうものならその件数や内用が詳細にカウント・チェックされ、呼び出しか掲示されるという始末。とても役所の仕事とは思えない程シビアだった。それでも内科のDr.はお人よしが多いのかぶつぶつ文句を言いながらも耐えてやってきていた。しかし人はいずれ疲弊する。一人去り、二人去り……。決定打は2年前の副院長の退職だった。お人よしの代名詞とまでいわれた副院長が「辛い」という一言を残して職場を去った。病院は後任を探したが結局見つからずじまい。副院長のポストは空席のまま、職務は続行された。運悪く大学医局も崩壊していた。移入教授の人事方針変更・凍結人事。さらには臨床研修制度義務化。もう、どう考えても「終了」している感じだった。どこを探しても医者がいない。病院に限らず大学でも、だ。今まではストックしてきた貴重な戦力を適宜ローテートさせるのが大学の役割だったが、その戦力すら確保できない状況ではどうしようもない。ローテート先の病院で欠員が出たとしてもそれを補充するだけの力はすでに大学には残っていなかった。仕方なく、欠員が出たままで職務を続行しなければならない。しかし、相変わらず受診者数は変わらない。むしろ着実に増えている。そして一人で処理できる患者さんの数は自分の限界を超えていく……。病院側はそれでも「断らずできる限り診るように」を連呼し続けた。医者には診療義務・応召義務もある。目の前で苦しんでいる人がいれば救いの手を差し伸べるのは当然だろう。しかし、そんな善意ややる気を無にするような輩(患者さんといあわずあえて輩と呼ばせてもらいたい)も大勢いるのは確かなのだ。検査を指定したり薬を指定したり、並ばなくてすむからとわざわざ夜間にやってきたり……。いつからの症状かと聞いてみたら2年前からだとか……。3日ほど前から39度近くの発熱で夜間に受診した患者さんに「今までどうしていましたか?」と訪ねてみると「今朝方までディズニーランドへ行っていました」とあっさり答えられる始末。いま、この患者さんに必要なものは医者や薬や病院ではなく「安静」なのではないだろうかと自問自答……。結局、その場限りの訳のわからない診療を続けることがいやになってやめることにした。どこに行っても同じなのかもしれないけれども。そして同じ釜の飯を食ってきた同僚の退職も結構堪えた。僕自身がこんなだから同僚が「退職する」と言い出したとき、止める言葉を持たなかった。辛い環境は十分わかる。わかっているからこそ彼自身の人生を自分の思うようにさせてやりたいと思えたのだ。結局、彼が退職したことで2人がかりで協力してやっていた検査や処置などは全くできなくなってしまっていた。今までできていたことができなくなる、それを肌身に感じた瞬間だった。いろんな理由があって今の職場を去ることにした。もうこの病院には4月以降一般内科はいない。地元のメディアでも小さく報じられたが、この先のことはどうなるかはわからない。一番迷惑しているのは患者さんだということは十分わかっている。しかし、僕自身が患者さんに潰されてしまうわけにはいかないのだ。上層部は相変わらず「残ったドクターで心を一つにして……」と精神論をぶちあげている。まぁ、わからないでもないけれども「じゃぁあんたが率先して当直してみたら?」と愚痴の一つもいいたくなる。「ある内科医の独り言」は愚痴中心の雑談系。これくらいはいっておかないと気が済まないが、いったところで何も変わらない。いるのは目の前の患者さん。真摯に対応していけるかどうかの一抹の不安は残るが、それでも仕事を続けなくちゃなぁ、と思う。医者をやっていて良かったと心から思える日が来ることを信じ、邁進していきたい。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.03.22
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医師という職業は御承知の通り法律でその業務が定められている職業である。詳しくは医師法を参照していただくとして、今日は傷害行為について書いておきたい。病院にやってきて、一通りの診察が終わり諸検査をしたとしよう。診察ぐらいならまぁともかく、まずは服を脱ぐことから始めていただく。これは当然といえば当然なのだが、昨今若い女性の裸など見たこともない僕にとって(笑)服も脱がせない診察は妥当性を欠いてるよなぁ……と思いつつ聴診してみる。別にこちらは何も悪いことをしていないが、「脱いで」というと「何で脱がなきゃいけないんですか?」という押し問答みたいなものが昔は良くあったのだ。それ以来、面倒は避けて適当にあしらうようにしている。これで心雑音とか見逃したら訴訟なんだろうなぁ……という不安はぬぐえない。かといって無理に脱がせてもセクハラだなんだとかで訴訟なんだろうなぁ……という不安もぬぐいきれない。結局「脱がずに診てください」ということか。時々皮膚病変なんかを見つけることがあったりして、脱がないとわからないこともあるんだけれども放置している。無事に診察が済んで次は検査だ。中央処置室へ向かうあなたの足取りは重い。痛い採血が待っているからだ。ましてや採血担当が新人だったりしたらなおさらイヤだ。それでも何とか採血をすませてもらう。採血などの行為もどう見たって傷害行為だ。血管に針を刺すのと出刃包丁で胸を突き刺すのも本質的には何もかわりはしない。その後胸部写真を撮ったとしよう。痛くはないけれども一瞬被爆する。しかしごく低量であったとしても被爆には違いない。昔は放射線技師に白血病などが多かったという話も聞く。核兵器並みの破壊力はなくとも、少なからずあなたの体に影響を与えていることは間違いない。放射性物質をあちこちにばらまけば犯罪だろうが、病院という限られた空間ではこの放射線ですら犯罪には当たらない。結局、我々が行う医療行為というのは多少なりとも患者さんに侵襲を加えるものであることには違いない。こうした医療行為は傷害と紙一重のところで成立している。ここまでなら治療で、ここからは傷害という線引きはかなり難しい。先に挙げた医師法という後ろ盾があって初めて我々は人の体を切り刻み、放射能を浴びせ、麻薬を盛ることができるのだ。その医業行為そのものを揺るがしかねない事件が、さきの産婦人科医師逮捕の件だった。先日、ついに起訴されたことからも検察は徹底して犯罪と認定しようとしているらしい。ことの結末はどうであれ、病院で何の侵襲も受けないことなど不可能に近い。そもそも、病気やけがなどにすでに侵されているわけだから病気そのもののリスクと治療を受けるリスクを天秤にかけ続けなければならないだろう。前にも書いたと思うが、故意で患者さんを貶めようとする医者は皆無に等しい。できれば目の前の患者さんが良くなってくれることだけを願っているはずだ。それがもっとも双方にとって遺恨を残さない道だからだ。最近の風潮は非常に危険な匂いがする。医療行為を傷害と同レベルに考えてくれる人が少ないからだ。侵襲のない検査、侵襲のない手術……。以下に医学が発展しても100%の無侵襲はあり得ないだろう。もしそんな時代がくれば病院や医者などは不要になるはずだ。きれい事だけでは病気は治らない。治療する者・される者双方が痛みを分かち合い、汚い部分をさらけ出すことで初めて医療は成立するんじゃないだろうか。今回の一件で、これ以上医療が萎縮しないことを望むと同時に、医療を萎縮させない社会になって欲しいと切に願う。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.03.13
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「ありがとう」はオアシス運動*1でも用いられるぐらい普通の言葉だと思われるが、現在の社会ではそうした挨拶も含め自分の気持ちを素直に相手に伝えられなくなってきているような気がする。かくいう僕も挨拶が大好きというわけではない。ただ、小さい頃から両親は挨拶にはうるさかったので普通に挨拶する方だとは思う。おはようございます、こんにちは、こんばんは、おやすみなさい……。時間の移り変わりだけでも挨拶は変わる。職業柄、外来をこなす上でこうした挨拶は欠かすことができない。まぁ、僕がヤブだからリップサービスで稼がないと……という理由もあるのだが。そんな挨拶の中でもとりわけ嬉しいのが「ありがとう」だ。感謝の気持ちは人の心を安らかにしてくれる。自分の行為に対し相手が受容し、感謝してくれるという流れがはっきりと実感できる瞬間だ。「ありがとう」というのは恐らく「有り難し」から派生した言葉だと思われるが、最初は滅多にないことに対しての感謝の気持ちを表現したものだったはずだ。普段お目にかかれない食事や普通なら出会えないような人や物……。こうしたレアさが感謝の気持ちを加速させていたに違いない。しかし、今や「有り難い」シチュエーションは乏しくなった。食にありつけないなんてことは滅多にない。銀シャリとまでいわれた白米のオニギリも今やコンビニで普通に売っている。「有り難い」から「普段のもの」に変わってしまったのだ。いまやありがたさを実感できるのはプレミア付きのチケットやモノぐらいしかないのかもしれない。サービスに関しても同じことがいえる。「有り難い」サービスはたゆまぬ努力により身近になった一方で「普通のもの」に格下げされた。ほんの数十年前までは適切な医療など受けられる人はごく一部に限られていたはずだが、いまやそれは当たり前のことになった。そしてこの当たり前は姿形を変えつつ「権利」に置き換わってきている感じがするのは僕だけだろうか。適切な医療が受けられることはすばらしい。すべての人が等しく適切な医療を享受し、この世にはびこる疾病から逃れることができるのなら、これ以上の幸せはない。しかし、皆さんが適切な医療を享受できる背景には血や涙を流しながら働いている人間がいることを知って欲しいのだ。医師だけではない。看護師や技師さん達、その他大勢のスタッフがたゆまぬ努力によって適正な医療の供給に努めている。そうした努力をたたえる最大の合い言葉は「ありがとう」に他ならない。「ありがとう」というその一言で、あなたが医療に対しどういった感情を持っているのかがすぐにわかる。かつて日本は「言霊の幸ふ国」と詠まれたことからも、言葉の持つ力というのは大きい。我々にも反省すべき点は多いのだけれども、患者さんにも知ってもらいたい言葉の力。挨拶一つでも医療が変わることを信じたい。*1 「おはようございます・ありがとうございます・失礼します・すみません」と習った記憶があるが……。なかには「おはようございます・ありがとうございます・親切・すみません」となっている地域もあるようだ。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.03.03
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遅まきながら時事ネタでも。一昨年、福福島県の県立病院で腹式帝王切開術を受けた女性が死亡した。そして約1年ちょっとの期間を経て先日の2月18日、執刀医が業務上過失致死および医師法違反の疑いで逮捕された。この逮捕の一件については各地でかなりの反響が広がり、不当逮捕だということでカンパを呼びかける向きもあるようだ。残念ながら事実関係などは詳細に知りうる立場ではないので、あくまでも地方の一内科医としていわせてもらえれば「やりすぎ」の一言に尽きる。日本産婦人科学会および日本産婦人科医会も緊急声明を発表していることから衝撃的な逮捕であったことことは間違いない。そして残念ながら、この国では善意や努力というものがほとんど評価されなくなってしまっているらしい。彼の国には「良きサマリア人法」という法律がある。急病人が発生し、その場に居合わせたものが善意で応急処置をした場合、その結果は問わないという法律だ。それは善意を守る法律であり、努力を評価する法律でもある。 …… 一生懸命救命しようと努力した、しかし結果が伴わなかった。 ……しかしそれでもまだ、救命しようとした人を非難できるのだろうか。もちろん、その努力の内容にもよるだろう。しかし今回逮捕された先生は何の努力もせず看過していたわけではないはずだ。予期せぬ事態が起こったにもかかわらず、メスを放り投げて手術室から退散することもなく、最善を尽くしただけのことだ。癒着胎盤という非常にまれなケースかつ十分なスタッフや資材もない状況下で、最善を尽くしたであろうに逮捕という不幸な結果に終わってしまった。逮捕された以上、検察側から起訴を受け裁判になるだろうが、いったいどういった結果になるのだろうか。ご遺族の方々の心情も理解できないではないが、出産という一大事業において100%安全ということはあり得ない。100%安全を求めるのなら妊娠しなければ良かったということにもなりかねない。現在、日本の周産期死亡率は世界最低レベルを維持しているが、これは逮捕されてしまった先生のような偉大な先達が成し遂げた努力の結晶に他ならない。だからこそ今回の妊婦死亡の一件において、ご遺族以上に悔やんでいるのは逮捕された先生本人かもしれないのだ。医師が自分の無力を悔いるとき、それを刑事という法律を以て裁こうとするのなら医者は後悔すらできない人種となるだろう。そして患者さんとの溝は永遠に埋まらなくなってしまう。原因をどこに追求するのか、それが見えないままの逮捕劇。とりあえず執刀医や主治医をしょっ引けば何とかなるといった風潮では医療者側も報われない。善意や努力を無にするこうした流れは食い止められないのだろうか。追伸:尚、不幸にも逮捕された先生には臨月を迎えた妻がいたという。彼女が癒着胎盤で同じようなケースにならなかったとも限らないが、それでも人は子を産み、育てていく。人の命の重さを知っているからこそ、ご夫妻は子作りをされたのではないかとさえ思えてくる……。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.03.01
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久々の更新……。さて、皆さんは顕微鏡をのぞいたことがあるだろうか? 最近はあまりのぞかなくなったが学生時代の実習はもちろん、組織を切り出して固定し観察したり、細菌培養の直接鏡検なんかをしたりと、仕事を始めてからものぞく機会は決して少なくない。顕微鏡を扱う上での基本は、「弱拡」からだ。弱拡は恐らく「弱拡大」の略だと思われるが、とどのつまりは低倍率のことを指す。顕微鏡にはたいてい数個の接眼レンズが付いていて対物10倍程度から100倍程度を切り替えて試料を確認していく。たとえば骨髄穿刺なんかで悪性細胞を検索するとしよう。すでに骨髄全体が悪性細胞で占拠されていて、どこをとっても「悪性」と判断できる状況なら別に「強拡」で始めてもいいかもしれない。しかし、ほとんどの場合はそういったことにはならない。まず、弱拡でサンプル全体を大雑把に把握。そして中拡で範囲を絞り込み、ターゲットをロックオン。そして強拡でターゲットの顔を見に行く。強拡でターゲットを探すのはスナイパーライフルに付けたスコープだけでターゲットを探すことと同じくらい、効率が悪い。こうしたことは結局は絞り込みに他ならない。絞り込みはまず粗い目から始めなければいけない。最初から細かい目にしてしまうとつまってしまうからだ。泥水を濾過して飲料水を作るとき、最初から細かいフィルターにすればそのフィルターはあっという間にダメになってしまうだろう。せめて重力に任せて沈殿させた後、上澄みを濾過するだけでもずいぶん違ってくるはずだ。その目の粗いフィルターが一般内科だとすれば、目の細かいフィルターや強拡の対物レンズが専門家集団ということになろう。最近の患者さんの受診傾向は明らかに「専門家志向」だ。巷のマスメディアにジャンジャン登場する偉~い先生方達は何らかのスペシャリストであり、そのジャンルにおいては比類なき方達である。そうしたマスコミに煽動されているのかどうだか知らないけれども、のっけから専門家に診てほしいとやってくる患者さん達は後を絶たない。専門家たちにしても、その患者さんが『本当に』自分の専門の範疇であれば喜んでみてくれるだろうが、大半は専門外という双方がっくりした結果に終わっているような気がする。そして決め台詞。「これは私の専門ではありませんから、余所で診てもらってください」専門家に見放された絶望感、そしてその絶望感を抱えたままやってくる患者さん達。結局吹きだまりのようになってしまった行き場のない患者さん達は専門を標榜しない場所に居着いてしまう。患者さん全体の集合をUとするなら、専門家で診てくれる部分集合はA、そして専門外の補集合は?ということになろうか。そして補集合の患者さんを診るDr.もたまったものじゃない。なぜなら、こうしてやってきた患者さん達は再び専門家の元へ戻ることができないからだ。あらゆるジャンルの専門家を数多く擁すれば、一般内科に匹敵するのではないか、という考え方もあるだろう。しかし、現実的ではないし何よりも効率が悪い。ちょっとした病気を治すためにいったいいくつの専門家を受診すればいいのか……患者さんも途方に暮れてしまうはずだ。一般内科でさえ「総合診療科」と標榜する時代。専門家志向も度を過ぎているような気がしてならない。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.02.27
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うちの病院はただいま暴走&迷走中・・・orzあとは3面記事を賑わせることがないように祈るだけ。なかなか更新できませんが、時間ができれば逐一報告します(^^;; 紹介状や書類書きで一日がほとんど終わってしまってます・・・。
2006.02.18
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こりもせずに産婦人科ネタを。産婦人科や小児科医師の減少が報じられて久しい。少子化傾向というが、それでも産婦人科のDr.たちの働きぶりをみているととてもじゃないが、少子化傾向とは思えない。朝は6時過ぎに出勤。それでなくとも最低週2日、多いときには週4日も当直。超過勤務なんてあったものじゃない。病院の規則で決められている上限50時間/月なんて1週間もすればチャラだ(ちなみに数年前までは上限30時間/月)。こんなに過酷な労働を強いられている上に、訴訟率は決して低くない。産婦人科医師は医師数全体のおおよそ5%前後をしめるとみられているが、訴訟全体の割合からみれば12~3%程度という。整形外科にも匹敵する度合いだ。産婦人科の第一線で働くDr.はマゾヒストじゃないかと思えてくる。戦後まもなくまでは、栄養状況や衛生環境の悪さも手伝ってか出産の危険性は決して低くなかった。妊娠中の流産や出生後まもなくの死産まで、まさしく生と死が隣り合う状況が続いていた。そんな劣悪な状況を医学の力で何とかしたい、そう思い立ち上がったのが先達の産婦人科医たちだ。自らの持てる力を出産という限りなく自然に近い現象に注ぎ込む……。恐らく自然と対峙する冒険家の心境であっただろう。彼らの努力のおかげで出産は安全なものになった。もちろん100%ではないが、それでも栄養や衛生、定期健診などによる安全性の向上は十分に達成されている。しかし今、産婦人科医を苦しめるのは先達が築き上げた安全神話だ。出産は限りなく安全という神話が崩れるとき、悲しみや怒りの対象は出産そのものの自然現象ではない。いままで心を砕いてきた医師達だ。よかれと思ってしていたことが逆に人から恨まれる結果になる。これほど悲しいことはない。当然医師のモチベーションは下がる。一人抜け、二人抜け……医師の減少に伴い一人でみるべきお産は必然的に増える。そして先の重労働。訴訟率の上昇。どう見たって悪循環でしかない。医療の歴史は自然との対峙の歴史だ。どんなに医学が発展しようともこの地球上に存在する限り自然を克服することはできない。生まれくる命、そして死にゆく命。第一線で働く医療者達は限りある生命だからこそ、できる限りの範囲で尽力している。人事は尽くす。そして天命を待つ。こうした真摯な姿勢が周囲に受け入れられないとしたら、どれほど悲しいことだろう。逆に、結果はともかくこうした姿勢が評価されればどれほど嬉しいことだろう。産婦人科医が減少する一端には、こうした喜びが減ってきていることが底辺にあるようだ。あなたが当たり前と思っている出産は産婦人科医たちのたゆまぬ努力によって維持されている。これだけは忘れないでいてほしい。そして、一言ねぎらいの言葉をかけてあげてほしいのだ。感謝の気持ち、ただそれだけで明日も仕事をしようという気になるのだから……。※なお、全く私事ながら先日長男が無事生まれた。夜中にもかかわらず笑顔を絶やすことのなかった助産師さんやドクター達に、改めてお礼申し上げる次第である。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.02.01
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既報の通りだが、総務省が厚労省に対し「産婦人科」という名称を「女性診療科」に変更してほしいという要請が行われた。ソースはこちら。報道では 高校生の娘を持つ母親から総務省に、「体の具合が悪い娘を連れて行こうと思ったが、産婦人科には妊娠などのイメージがあり、抵抗感がある」という声が届いたのがきっかけ。総務省が医療機関に尋ねたところ「産婦人科という名はニーズに合わない」などの声が多かったという。ということらしいが、そんなに産婦人科という言葉はニーズに合わないのだろうか?現在、標榜可能な診療科目は「産科」「婦人科」「産婦人科」の3つだが、これが「女性診療科」という名称に変更されることによって受診機会が大きく増えるとも思われない。別に、名称変更に反対しているわけではない。ただ、先の母親の意見のように「産婦人科には妊娠などのイメージがあり、抵抗感がある」だけでは名称変更をせねばならないほどの理由にはならないように思うのだ。たとえばあなたが痔を煩ったとしよう。しかし、どこで診てもらうのか。消化器外科や消化器内科、胃腸科などが挙げられるだろうがやはりストレートに「肛門科」を掲げている医院にかかるほうがスムーズに事が運ぶように思う。逆に「痔核科」とか「アナルクリニック」なんて名前が出た日には変な風俗と間違われかねない(笑)女性診療科は確かに受診への抵抗が少なくなるだろう。しかし、女性診療科という名称によって逆に婦人科疾患を持つ患者さんの受診機会が損なわれてしまう可能性だってある。名称の変更なのか追加なのか、それによっても対応はまちまちだろうが変更ならば先に挙げたように受診機会を損なう人が出てくるだろうし、追加だとしても今までの「産婦人科」に併記するだけなのだから、やはり受診抵抗という意味ではあまり変わらないように思うのだ。やはり、名を取るより実を取るべきではないのだろうか。今回の一意見は今後も検討していくべき重要な問題だと思われるが、安易に名称変更に応じてしまうようでは、これから先ずっとこうした意見に振り回されっぱなしになるような気がしてならない。看板倒れにならないことを祈る。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.01.19
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もしこの世から、少なくとも日本各地にあるすべての病院がなくなったら平均寿命はどうなるのだろう。そんなことを考えたことがある。今の日本はきわめて恵まれている。少なくとも医療というものに接することができる機会はダントツだ。開発途上国の貧困層の人たちが医療に恵まれていない、という報道は繰り返し聞いているはずなのに我が身のこととはとても思えない。遠い国で「そんなこともあるんだなぁ、大変だなぁ」と思ったとしても自分がいかに恵まれているかを考える機会は少ない。瀕死の重病人ですら医療の恩恵にあずかれない場面がある一方、自宅で安静にしていれば平癒してしまうような病気ですら夜中に救急を受診する人々たち。何も、こうした人を悪くいっているつもりではない。ただ、マンパワーがなく受け入れが十分できない体制下ではまずこうした軽傷者は後回しにしてほしい、というのは確かだ。連続勤務30時間超の医師一人がみることのできる患者さんなんてたかがしれている。でも、患者さんにしてみれば目の前の医者がどんなに激務をこなしていようが、テレビの番をしていようが知ったことではない。患者さんが望んでいるのは病気の平癒なのだから、当然といえば当然か。さて、先ほどの話に。もし、病院が全滅し医師も全滅、適切な薬もないとなれば相当平均寿命が下がることが予想される。外科手術なんてできない。交通事故にあって骨盤骨折や内臓破裂になったとしても黙って手を合わせるしかない。心筋梗塞で倒れたとしても背中をさすってやることしかできない。そのうち口からピンクの泡を吹き出して息が止まったとしても何もできない。後は葬式の準備だけだ。慢性疾患もまた危機にさらされるだろう。高脂血症や軽い高血圧なんかはすぐに死ぬことはないにせよ、薬がなければほぼ確実に寿命を縮めるだろう。透析を受けている患者さんは数週間もしないうちに尿毒症で死ぬ。人生50年、といにしえの人たちは言った。今は80年ぐらいにはなっているはず。その30年の人生のために医療技術が進歩し、住みよい社会が編成されてきている。この30年の差はいったいなぜ存在するのかを改めて考えてみるのもおもしろいかもしれない。ちなみに世界でもっとも平均寿命が短い国はシエラレオネの34歳。僕なんかもう死んでいるらしい……orz人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.01.18
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新年があけてすでに2週間以上が経った。この2週間、仕事に追われていたといえば嘘になるが、まぁ、精神的にはずいぶん追いつめられた。上司の開業、同僚の退職。いま、ウチの病院では民族大移動よろしく医師の離散が続いている。田舎の病院だからすぐには影響ないと思っていたものの、実際にフタを開けてみればすぐそこに危機が迫ってきていた。ウチの医局なんてものはすでに数年前から全く機能しなくなった。補充される人員もなく、ただひたすらに仕事をこなすだけの日々。人事などは凍結されて久しく、よどんだ空気だけが周囲を覆っている。病院という場所は、一人じゃ何もできない。もちろん一人でできる仕事もあるが、できない仕事のほうが圧倒的に多い。そこに要求されるのはただ一つ、「頭数」だ。「人は城 人は石垣 人は堀」武田節の一節だが、人があってこその軍隊であることは今も昔も変わらない。どんなに設備の優れた病院であろうが、人がいなければ何もできない。そんな事情も知らず、外来には新患があふれかえっている。CTがあるから・MRIがあるから・採血結果がすぐに出るから・何となく安心だから……そんな理由で患者さんはやってくるが、実際のところ緊急に採血結果が必要な人は少ない。CT/MRIもしかり。ウチの病院では医者はもちろんのこと、看護師や放射線技師などの技術職も次々に辞職していっている。残り続けるのは事務職ぐらいのものだ。頭数は減り、患者さんは増える。一人にかけられる時間なんてどんどん少なくなっている。見落としも多くなっているはずだ。現在のところ、こうした悪循環に立ち向かう術は見つからない。いったい何がこの病院をダメにしてしまっているのか。病院の「顔」ともいうべき外来が機能不全に陥る理由はどこにあるのか。今年もこんなブルーな幕開け。自分一人の力ではどうにもならないことはわかっている。何とかしたいが何ともできない。そして根本的な解決策を見いだすこともできないまま、次の就職先を探すことになりそうだ……。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2006.01.16
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今年ももう残りわずかになってきた。時間が過ぎ、年が変わる。毎年のようにやってくる「新年」だが、入院したまま年を越す患者さんも少なくはない。そして仕事は続く。医者となって駆けだしていた頃、休みなんてどうでも良かった。給料もとりあえず食べていけさえすれば何とかなった。最悪、家賃が払えなくて追い出されたとしても病院には住めそうな場所がわんさとある。何が楽しみかといえば、仕事と酒だった。教科書で覚えた知識が「生きた」知識となって実践され、目の前の患者さんが劇的に良くなり退院していく。まるで奇跡じゃないかと思えるような患者さんを何度も目の当たりにした。そしてその後の酒。時間があればチビチビとやっていた。救急部をローテーションしているときはオンオフがはっきりしていたから、酒も飲みやすかった。時には仲間と語り合い、患者さんと飲みに出かけたこともあった。しかし、ここ数年そうした爆発力は僕の中ではすっかり影を潜めてしまっている。それはいったいなぜなのか。いろいろ思いを巡らせてみるが、イマイチはっきりしない。ただ、一つ確実にいえることは「奇跡が奇跡でなくなってきた」ということだけだ。駆け出しの頃の奇跡は本当の「奇跡」だった。種も仕掛けもない、患者さんとお医者さんとの本当の意味での一体感がそうした奇跡を生んでいたように思う。しかし「奇跡」は続かない。仮に続いたとしても奇跡は奇跡ではなく、当たり前のように感じられるようになってしまった。それは、手品の種明かしを知っている人間が手品をみて「次はこうなる」と思う瞬間と似たようなものだ。何が出てくるかわからない、ワクワクするような感じは減り、冷めた眼で先読みしてしまう自分が少し恨めしく感じられるようになった。一方で予測というのは結構大事なポイントだ。予測のつく病気なら、先回りすればいい。そして病害を少しでも減らすことができるようになる。これは数を診て覚えていくしかない。しかし、予測がつくためにあきらめも早くなってしまう。「もうダメなんだろうなぁ」そう思った瞬間、医療は終わる。最終到着地の見える医療ほどつまらぬものはない。患者さんはあきらめていないかもしれない。いや、あきらめていないんだろう。でもその声は僕には届かない。最善は尽くしたはずだと自分を言い聞かせる。しかしその最善とやらは何も定義されていない。本当に最善だったのか、自省する時間すら惜しいほど巷には患者さんがあふれかえっている。まだまだ燃え尽きるわけにはいかない。しかし、時々くすぶってしまうのもまた事実だ。この先いったい何をすべきなのか、患者さんにとっての最善の医療とは、そして自分にとっての最善の医療とは何か……。こうした問題が何一つ解明されることもないまま、年は過ぎてゆく。病院で年を越す患者さん達も、さぞかし悔しいことだろう。できることならば皆が皆、家族そろってのお正月を迎えられれば良かったものを……。ふがいない主治医のおかげで病院で年を越す羽目になってしまっている。そうした患者さん達のことが気になりつつも、今日も納会。患者さん達のことは当直医に任せて、今日はしこたまイキますか……。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2005.12.28
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来年度の診療報酬が減額されることが決まった。すでにマスコミ各紙で報道もされたし「まぁ安くなるならいいんじゃないの」ぐらいの捉え方しかされていないからか、あまり問題にはなっていないようだ。診療報酬というのは、公的保険を使って検査や投薬・手術などを受ける際に必要な金額のことだ。我々が行う医療行為はすべて「1点=10円」の点数が付けられており、その点数に対し患者さんから直接頂く一部負担金(貴重な現金収入だ)と加入先の保険組合から頂く補助分とが支払われる。本当はもっと複雑な支払い体系が存在するのだが、おおざっぱにいえば上記のような方法でお金は流れている。「人の不幸な事態なんだからお金を取るなんてけしからん」という意見もあるようだ。確かにそうだろう。だいたい人の不幸で飯を食っているなんていうのは病院と葬儀屋とお寺やお墓関係くらいのもので、不幸が発生しなければどうしようもない。消防や警察なんかも不幸の処理に当たることが多いが、彼らは一定の給与体系に組み込まれている公務員な訳で、火事や救急や事件にいくら出動しようが若干の手当は付くものの給与自体はそれほど変わらないはずだ。しかし、動的な要素のある病院は別だ。患者さんが多ければ多いほど収入は上がるし、逆に少なければ収入は下がる。下手をすれば倒産という事態にもなりかねない。公的保険により医療行為にはすべて点数が付けられているわけだが、これは全国どこの病院でも同じ。どんなに田舎の診療所だろうが、大都会の最先端医療であろうが保険収載されているものは皆同じ値段となっている。従って、同じ医療行為をしている以上その収益にはほとんど差がつかず「数」で勝負せねばならない場面が多い。必死になって患者さんを確保している病院もあれば、もうどうでも良くなってしまったような病院まで様々な病院があるが、一生懸命努力した結果、根本の診療報酬が減額されてしまえばどうしようもない。3%の減額が決まれば減額分の3%を何とかして利益を上げなければならないのだ。患者さんの数を増やす病院もあるだろう。やや高額な医療に切り替える病院も出てくるだろう。職員削減も当然だ。一番給料が高いと思われる医者の数を減らす病院も出てくるかもしれない。いずれにせよ、患者さんにはあまり利益がない。患者さんが増えれば待ち時間が増える。高額な医療に切り替えられれば負担が増える。スタッフが減ればサービスの低下が懸念される。確かに、公的保険はすでに沈没寸前の大型船のようなものだ。そして近い将来、必ず沈没するだろう。どうすればこの問題を回避できるのか、残念ながら結論は出ていない。ただ、今回の診療報酬切り下げが増大する医療費にブレーキをかける目的であるとするならば、あまりいい回避方法ではないように思われる。それよりはむしろ、「患者さんをいかに減らすか」を主眼にした計画をくんでみてはどうだろうか。「頭が痛いのでMRIを撮ってほしい」と引き下がらない患者さん「2週間くらい前から感冒症状で……」と夜中に来る患者さん「しんどいので」とためらいもなく救急車を呼び、搬送されてきたとたんスタスタと歩いてくる患者さん医療費の内訳はあまり知らないが、こうした「もったいないよなぁ」と思いつつ診察している患者さんにも相当額の保険が使用されているはずだ。かかりつけ医の必要性が叫ばれて久しいが、残念ながら患者さん達に浸透しているとはとても言い難い。あまりにも複雑になってしまった医療圏・増大する患者さん・ミスなどなくて当たり前の100%の医療……こうした諸問題をさらに面倒にしているのがこうした診療報酬だ。もうこの国の医療情勢はどうにもならなくなっているようだ。それでも日は昇り、患者さんは来る。医療者側も患者さん側も双方納得できる医療が実現可能なものかどうか、この診療報酬改訂は大きな鍵を握っているような気がする。人気blogランキングへ←クリックしていただけると励みになるかもしれません(^^;;http://ranking-blog.net/dr/rl_out.cgi?id=dr011&url=http://ranking-blog.net/dr/html/index.html
2005.12.22
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少し前の話題で恐縮だが、健診などで用いられるバリウム製剤によって過去50年間に少なくとも4名が死亡していたという記事が報道された。この報道によると年間1750万人が使用しているらしいのだが、単純に見積もっても死亡例4例/1750万×50年として約2億分の1程度の確率となるようだ。もちろん、重複例などもあるだろうし年間使用数も増えたり減ったりであてにはできないが、相当低い確率であることは確かなようだ。住民健診や会社での健診として普通に行われている胃透視などによって死亡例があるというのは一般の方の目から見ればどうなのだろうか?こうした報道がなされるたびに僕は少々嘆いてしまう。我々のしている医療行為は、可能性の大小も含めればほぼすべてに何らかの健康被害が及ぶものばかりだ。しかし、ごくまれな被害から十分想定される被害までその範囲は幅広く、そうした可能性を詳細に提示しながら医療行為を行うことは少ない。胃透視などを受ける方には「非常にまれですが死亡に至る場合があります」などとアナウンスされているのだろうか? 中にはこうした文言を過剰に受け止めて検診を受けなかった結果、原疾患の進行によって命を落とす危険性が高まる可能性だってある。我々医療行為を行う側にも安全性・危険性の認識を行い、患者さんに対して必要に応じ提示していく義務がある。しかし、100%という安全性や危険性の保障はどこにもない。病院に来て検査や治療を受けること自体がすでにリスキーなわけで、その点を患者さんは納得しておく必要性がある。イチャモンになるかもしれないが『病院へ来る途中交通事故に遭った。これは病院が再診の指示を出していたからであり、不要な再診指示さえなければ交通事故には遭わなかった』という笑えない話が身近であった。下手をすれば訴訟沙汰にもなりかねない事案だったが、周囲の努力により回避されたようだ。「日本人は平和ぼけ」といわれているが、昨今の医療に関する報道をみるとどうも過剰な反応をしすぎているように思う。危険性の認識は医療サイドだけではなく、その行為を受ける患者さん自身にも必要となってくる。リスクマネジメントといえばついつい関係者だけの話で終わってしまいがちだが、危険性をはらんでいるという問題をいかに患者さんに伝えていくか、にもあるような気がしている。インフォームド・コンセント、なんて知ったかぶった横文字など使わず、双方納得できるような医療が実現される日は来るのだろうか。微力ながら努力していきたい。
2005.12.15
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学生が医者になって研修を始めるとき、そこには十人十色の研修がある。少なくとも僕が医者になった頃はそうだった。最近は厚生労働省により臨床研修制度が制度化されたこともあり、以前ほどのバラエティーはなくなってきているようだが……。医者が自らの意志で働き出すとき、そのスタイルを決定しているのは初期研修であることは疑う余地がないだろう。最初は上司の働く姿を見よう見まねでこなしていた仕事も、年数がたてばまるでコピーされたかのような同じ動作にかわっていく。その頃には若干のアレンジが加わっているかもしれない。そしてまた同じように後輩へと研修が受け継がれていく。技術というのは結局実体験してみなければわからない。教科書に書かれていることが決して正しいことばかりでないというのは働き出せばすぐにわかってくる。頭で理解せねばならないのは当然だが、それでもまず最初に動き出してみないと何もできない。研修期間というのは見習いみたいなものだ。教科書片手にやってみてだめなら上司からのチェックが入り、修正する。その繰り返し。しかし若気の至りか働ける喜びか、自分でぶつかる壁がわからないからどんどん前へ進んでいける。だから頼もしい。研修が義務化されて来年で3年目を迎えようとするが、研修は受ける研修医自身だけではなくそれを支えるスタッフドクターによるところも大きいと思う。厚生労働省は立派なお題目を抱えて、各項目に対し研修目標が達成できたかどうかをチェックする一覧を作成している。医師として知っておかねばならない知識、できなければならない手技などが網羅されているが、それを実体験として教えてくれるのは患者さんやスタッフドクターら現場の人達だ。先にも書いたように医師の診療スタイルは上司から学ぶところが大きい。「学ぶ」という言葉は、「マ(真)から出たマネブ(擬)の転」そして「マコト(誠)をナラフの義」から生じたとされるが現場ではとにかく上司を真似てみるしかない。患者さんに研修医と思われないように胸を張って堂々と説明せねばならなかったり(内心はどんなにヒヤヒヤであったとしても)、手技に関してもお手本に沿う形で真似していかなければならなかったり、とにかく上司が手本なのだ。だから上司は親身になって研修医を育てねばならない。後輩の育成に携わっていく上での人格と見識を備えていなければならない。しかしそんな基本的なことがなかなか理解されていない。まぁ、僕自身そんな人格や見識には乏しいのであまり大きなことはいえないのだけれども。研修指定病院というのは一定の規模や設備などが審査の対象で、スタッフドクターの人格なんか項目にも入っていない。いいスタッフドクターは口コミでしか教えてもらえないものなのだ。いい上司に巡り会えるかどうかは運みたいなものだ。いくら立派な上司でもウマが合わなかったりすれば何も教えてもらえないだろう。逆に頼りない上司でも盛り場での遊び方くらいなら教えてくれるかもしれない。それがきっかけで患者さんとの絆が深まる場合だってある。研修というのは(たとえは悪いが)人馬一体。お互いのギアがかみ合ってこそのものだ。上司や患者さんとのギアをうまくかみ合わせていくことが上達への近道であることには違いない。様々な種類のギアを持っているかどうかでその後の医師としての人生は大きく変わるに違いない。まず隗より始めよ、という。僕自身もそろそろ手本を示していかねばならないようだ。
2005.12.08
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病院というのは場所や建物そのもののハード面と、そこに働くスタッフたちソフト面の二面を総称して指すことが多い。「あそこの病院は云々……」という噂話はこの総称された病院を指しているものと考えられる。ハード面から見た病院は一種の器でしかない。そしてソフト面から見たスタッフたちが「具」のようなものだ。いくらうまい刺身でも盛りつけや器が悪ければその価値は下がってしまう。逆に、たとえ人間国宝が作った立派な器に盛られていたとしても、新鮮でない刺身などおいしいと思えるはずもない。こうして器と中身が一致してこそ初めておいしい刺身になるわけだが、バランスがとれている病院やとれていない病院などその種類は様々だ。まぁ、器に当たるハード面はなかなか変えがたいということもあるが、具材にあたるソフト面は入れ替わり立ち替わりしているのは既知の通りだ。スタッフの「おいしさ」というのはそれこそ十人十色であり、一定の評価も難しいのだが、新しい具材を入れてみようかというときには特技や実績・資格・風評などで判断するしかない。刺身でいえば魚の種類や産地などがそれにあたるだろう。病院としては一定のおいしさを保つために様々な努力をする。新しい機械を導入したり、病院を塗り替えたり立て替えたり。そして、雇用するスタッフにもそれに見合ったレベルを要求している。雇う側の判断も今以上にレベルを下げず、より高次なことができるスタッフを探すに決まっている。そして運良く新規採用となったスタッフはまずそのレベルをおおざっぱに把握しなければいけない。前任者ができていたことができなければそれだけで落伍者のレッテルを貼られる可能性が高い。逆に、前任者がなしえなかったことを容易に実行できるならばそれは賞賛され株も上がる。誰だっていい目にあいたい。そのためには努力して高次のレベルをこなすようになるか、逆に自分よりも低いレベルを探すしかない。着任したばかりの後任者というのはそうしたレベルをできるだけ素早く認知し、自分の生きていく場所を探す行為に終始する。そうすることで一定のレベルを継承し、自分の存在を認めてもらえるようになるからだ。そのためには自分のレベルも把握しなければいけない。日頃何気なく行っている自分の仕事も、客観的に見れば一体どの程度のレベルなのかを把握するのは難しい。第三者的視点というのはそうそう簡単に習得できるものではないが、自分に要求される仕事のうち何ができて何ができないのかをまず箇条書きにしてみるのがいいだろう。そうした内容を読み返すうちに自分の長所短所を把握できるようになり、今後どういった方向性を持って仕事をすればいいかが見えてくるはずだ。僕自身、未だに何も把握できていないのだが、人に誇れる「これこそは」という一芸を身につけるべく精進せねばならないと反省する毎日だ。
2005.11.21
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先日から「タミフルを服用した少年らが異常行動死を遂げた」というニュースが報じられている。今年は鳥インフルエンザH5N1の変異株が大流行するかも知れないという報道もあり、これからの寒いシーズンも相まって市民の関心も高いものと思われる。タミフルはすでに一般名になってしまったようだが、実際は商品名であり正式名を「リン酸オセルタミビル」という。日本では中外/ロシュが販売しているので、この両社はウハウハだろう(笑) なんせ宣伝しなくても勝手に報道してくれるのだから。一方、グラクソが販売するリレンザは吸入薬ということもあったためか知名度もイマイチだ。さて「くしゃみ3回ルル3錠」と同じような感覚で「インフルエンザにタミフル」という一種の約束処方が成立してしまったわけだが、先に挙げたように異常行動による死者が報じられたことによってこうした処方は減少するのだろうか。タミフルやリレンザが市場に出始めた2001年当時、その効果は絶大なものがあった。40度近い発熱でウンウン唸っている患者さんが、こうしたクスリを飲み始めてからグングン良くなり、翌日にはすっかり元気になってしまったという例など数え上げればきりがない。副作用も食思不振・嘔吐・下痢など消化器症状がメインということだったし、また頻度も少なく「作用>副作用」の関係が成立していた。それから数年、インフルエンザが流行するたびにタミフルは名を上げ、一般外来を受診する患者さんですら銘柄を指定するようになった。「良く効くらしい」「飲めばインフルエンザにかかりにくくなるらしい」など噂に尾ひれがついて大きくなったためだろう。また、安易に処方した医療側の責任もある。インフルエンザであることが確認できればタミフルを処方できるが、中には十分な検査もされぬまま処方される例があったりするなど不適切な処方も多かったようだ。いずれにせよタミフルの処方数は年を追うごとに増え続け、今年は国家をあげて備蓄する方向で対策が進むなどしている。しかし、こうした一連の行動は少し常軌を逸脱している気がするのは僕だけだろうか。確かに我々の目的は病気の殲滅だ。しかし、世界中で生産されているタミフルの大半を日本が消費していることなどご存じだろうか? 日本人ってそんなにインフルエンザにかかりやすいのだろうか? 消費量一つを取ってみても日本は非常に恵まれた国家であることがおわかりいただけるだろう。これだけの消費量があるのなら、日本はインフルエンザで死ぬ人が少ないのかといえばそうでもない。インフルエンザから二次感染症を引き起こし敗血症となり死亡する人だっているのだから、タミフルの消費と生存率との関係は一概に比例するとはいえないだろう。2004年度には全世界の消費量の6-7割を消費したとされる日本。全世界の人口を60億としたって、日本はその5%にあたる1億2000万人しかいない。その5%の国家が6-7割のタミフルを消費し、さらに今年は国家備蓄まで始めるのだからその消費がさらに加速することは容易に想像できる。タミフルがない他の国ではインフルエンザでバタバタと死んでいく状況があるのならともかく、日本だけが生き残った……というシナリオは見えてこない。本当にタミフルが処方される必要があるのかどうか、単なる副作用的なリスクを考えるだけではなく、もう少しグローバルな視点から見てもいいんじゃないだろうか。インフルエンザに「勝つ」というのはどういうことなのかを改めて考えてみたいと思う。自戒を込めて。……でもやっぱり処方しちゃうんだろうなぁ……orz
2005.11.16
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はったりをかましてみる。はったり 大辞林 第二版 (三省堂)より 1 わずかなことを大げさに言ったり、ありもしない物事をあるように見せたりして他人を圧倒しようとすること。また、そういう言動。「―をきかせる」「―を言う」「―屋」2 おどして金品を強奪すること。「喧嘩仕掛けて物取るを―というて/浄瑠璃・双蝶蝶」日常診療で結構使い勝手があるのが「はったり」だ。英語で言えばブラフにあたるだろう。患者さんにもよるが、とりあえず誇大気味に話しておくと後々の診療がスムーズになることも多い。もちろんはったりをきかせすぎて失敗することもあるだろう。しかし、患者さんの不安を取り除く最初の行為は「はったり」に違いない。たとえば吐血による出血性ショックで運ばれてきた患者さんがいたとしよう。血圧も触診でsBP 40mmHgしかない。意識も朦朧としている。着衣も血まみれだ。それでも、こんな患者さんに対し最初にいう言葉は「○○さん、もうだいじょうぶですよ~、病院へ着きましたからね~」だ。この言葉がおかしいことは誰だって分かる。あと10分もすれば心肺停止になる可能性があるのに何が「大丈夫」なのだろうかと疑問はつきない。しかしこのはったりこそが患者さんへの精一杯の励ましであることは想像に難くない。(ちなみにうちのク-ルな外科医はこうした患者さんが運ばれてくると「もうダメだな」とあっさり言い切ってしまう。これまた一種のはったりなのかも知れない)臨床の現場において、このはったりをきかすことができるか否かが初級者と中級者を分けているような気がする。手も動く、頭も働く……しかし患者さんを励ますまでには頭が回らない、そうした研修医を自分自身も経験したし、上級になってからも何人も見てきた。外科医なら何も言わずに手だけ動けばいいのかも知れない。しかし内科はそうはいかない。ムンテラ(ムント・テラピーの略称らしいが)という言葉があるように口先がなんぼの世界だ。口八丁・手八丁という言葉は内科のための言葉ではないかとさえ思える。もちろん、はったりだけで病気は治らない。どんなに励ましてみても目の前で起こっている現実はそう簡単に好転しない。しかし、はったりが必要な場面というのは少なからず確実に存在する。はったりは「嘘」ではない。たしかに患者さんにしてみれば嘘であったと感じるかも知れないが、ベテランドクターははったりを嘘と感じさせないテクニックを持っている。それは言葉では表現しがたく、現場の雰囲気でつかみ取っていくしかない。研修中の先生たちは是非、はったりをきかせたり、なだめたり、すかしたりしているドクターの言葉を色々と学んでおいた方がいい。ドクターの人柄が分かる貴重な瞬間だし、患者さんの満足度がどれくらいかも分かる重要な場面だからだ。
2005.11.14
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一般内科なんて言葉は悪いが症状のゴミ箱みたいなものだ。とにかくいろんな症状の患者さんがやってくる。専門化できない以上、頭痛や腹痛はもとより肩こりや腰痛、さらには健康相談までその種類は数え切れない。大学病院での研修時、外来でさせられていたことの代表が「問診」だ。問診とは読んで字の如く、アンケート方式で現在までの経過をまとめていくことを指す。基本的には5W1H方式で事足りる。Who/What/Why/Where/When/How……。WhoとかWhereとかWhyなんてのはまぁ使用頻度は少ないが、とりあえず押さえておかねばならない項目がある。まずは主訴。これがなければ始まらない。何の訴えがあってやってきたのかを明確にしない以上、診察に進めないからだ。しかしこの最初にして最大の山場が主訴にあるのは間違いない。問診票には「今日はどうされましたか?」なんて優しい口調で書いてあるが、それこそ思ったままのことを枠にあふれんばかりの勢いで書く患者さんもいれば、全く何も書かない患者さんまでその種類は多岐にわたる。内容もしかり。そして主訴というのは奥が深い。頭痛でやってきたとしても、よくある感冒症状のものなのか、二日酔いなのか、それとも出血や腫瘍などの頭蓋内病変なのか……。さらには血管炎や肩こり、偏頭痛なども候補に挙がってくるだろう。症状はよく似ていても原因がまるで違うわけだから、とりあえず憶測してみないことには始まらない。そこで役に立つのが現病歴だ。おもにその症状にまつわる個人史を語ってもらうわけだが、これも主訴と同じく表現方法は千差万別だ。さっきからなのか、数日前からなのか、それとも何ヶ月以上も前からなのか。これだけでもある程度疾患を絞り込むことができる。単に発症した時期だけではなく、症状の程度や内容などを詳細に語ってくれればさらに絞り込んでいける。頭痛に関していえば、拍動性があるのかないのか・視野や視覚に変化はないか・突然殴られたような痛みなのか・経験したことがあるのかないのか・朝だけか・一日中か・聴覚に変化はなかったか……そうした診断のきっかけを作ってくれるのがまさしく主訴であり現病歴なのだ。だからこそ研修医の時は問診をおろそかにしてはいけないと上司からずいぶん厳しくいわれた記憶がある。内科を受診する上で「問診」こそが最初にして最大、かつ最後の山場といっても問題はないだろう。最終的には主訴が解決すればいいのだから……。確かに問診はめんどくさい。一般病院に勤務するようになってからは受付事務のお姉さん方が問診を取ってくれるのだが、やはり素人。どうみても内科じゃないだろうなぁと思えるような患者さんや、患者さんのたっての希望で内科を受診したりする患者さんなど、やはりゴミ箱的な印象は捨てきれない。めんどくさいし、症状もよく分からないから内科へ。この印象がある限り、一般内科は主訴のゴミ箱だ。しかし、ゴミもきちんと分別できれば宝の山。ジェネラリストとしてのスキルアップにはこのゴミの分別・回収・再利用こそが求められている。そんな「何でも診られるお医者さん」を目指してお宝探しにワクワクしていた時代は幸せだったなぁ……orz
2005.11.10
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久々に吉野家コピペを思い出したので連日の会議疲れでほとほと参ってしまった憂さ晴らしに一つ作ってみた(笑)ジェネレータはこちらそんな事より1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。昨日、病院の講義室行ったんです。講義室。そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。で、よく見たらなんか電話帳ぐらいの厚さのマニュアルがずらっと置いてあるんです。もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らな、会議如きで普段来てない講義室に来てんじゃねーよ、ボケが。会議だよ、会議。なんか親子連れとかもいるし。一家4人で講義室か。おめでてーな。よーし、パパ機能評価でVer.5取っちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。お前らな、その分厚いマニュアルやるからさっさと帰れと。講義室ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。上座にぶんどる上層部奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、患者様が、とか言ってるんです。そこでまたぶち切れですよ。あのな、患者様なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。得意げな顔して何が、患者様が、だ。お前は本当に患者様と言いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、患者様って言いたいだけちゃうんかと。講義室通の俺から言わせてもらえば今、講義室通の間での最新流行はやっぱり、その場しのぎ、これだね。適当・その場しのぎ・no EBM。これが通の頼み方。その場しのぎってのはその場を何とかやり過ごせる。そん代わり再現性がない。これ。で、それに適当・no EBM。これ最強。しかしこれを頼むと次から上司にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。まあお前らド素人は、病院理念でも丸覚えってこった。ちょっとスッキリした……気もする……orz
2005.11.09
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朝夕はすっかり寒くなった。紅葉はそれほど進んでいるわけではないけれども体調を崩す人はずいぶん増えた。それに伴い外来も急性期疾患の人が増えてきたように思う。皆さんも体調管理には十分なご配慮を。閑話休題。最近、ウチの病院が柄にもなく機能評価Ver.5を受けるという。機能評価とは『財団法人日本医療機能評価機構』が行っている審査制度のことだ。詳細はそちらのページを参照していただくとして、手っ取り早くいえば病院の格付けに当たる。まぁ病院業界のミシュラン、といったところか。なかなか表には出てこない病院の組織構造や理念などといったことから、医療機器や医薬品などの配置までおおよそ考えられるすべての項目にわたり何段階かの評価がなされ、その総合評価によって認定が許可される。スタッフの教育はもちろんだが、近年では個人情報保護法が制定されたこともあり患者さんのプライバシーにわたる微々たる部分にまでチェックが入る。Ver.5はもっとも最近制定された評価段階で認定されれば最高の評価となる。三つ星とか五つ星、そんな感じだ。で、ウチは数年前にVer3の認定を受けている。来年その認定期間が切れるのでさらに上の評価をねらおう、という機運となったようだ。院長を始め事務長や看護師はもちろん、会計担当や警備担当までほぼすべての職種に誰かしら代表が存在し、部門別リーダーとなっている。こうしたリーダーたちを集めた会議(リーダーだけでもその規模は数十人だ)が先日行われた。僕はなぜか病棟診療に関する担当を仰せつかったので、その会議に出席したのだが正直勘弁してくれといった感じだ。その理由はマンパワーの少なさだ。事務職や看護師などは十分な数が配置されているのに、内科の医者といったらその少なさは院内でもダントツだ。タダでさえ日常業務に追われているのにこれ以上一体何をしろというのか小一時間ほど問いつめてみたい(笑)機能評価の項目一覧が書かれた冊子だけでも職業別電話帳2~3冊分はゆうにあると思われ、こんなモノいちいち検討していたらいくつからだがあっても足りない。そしてメリット。会議に出席した別のDr.から「これだけ多大な犠牲を払ってまで評価を受ける理由は何ですか?」と事務長らに問いただした。すると「正直申し上げまして我々には何のメリットもありません。ただ、患者様(←様付けはいい加減やめてほしいのだが)の権利やプライバシーが叫ばれている現在、必要なものだと考えております。また、すでに決まったことですので関係者各位には是非協力を……云々」といった返事だった。「すでに決まったことですので」というあたり、いかにも事務系役人といった感じの返答でますます納得がいかなくなった。あらかじめ断っておくが、僕は評価自体を否定しているわけではない。評価自体は結構なことだと思う。患者さんへの病院内情を知らしめるいい機会であり、それだけの価値も十分にあるだろう。しかし、評価を受審するに当たってスタッフに様々なしわ寄せがやって来るというのはいかがなものだろう。それこそがまさしく患者さんへのマイナス面とはならないのだろうか?背伸びするような機能評価受審はやめておいた方がいいように思う。できる範囲でやって一体何が悪いのだろう。いい評価がついたからといって、患者さんには何のメリットもない。あるとすれば多少の安心感ぐらいだ。先の発言にもあったが、そういった評価だけをありがたがる人たちが病院の運命を左右しているなんて僕には信じられないのだ。評価は自然についてくる。Ver.5の評価に値するような病院になったときこそ胸を張って受審すればいい。本末転倒な上層部を見て、ボチボチこの病院を辞めなたほうがいいかなぁ……と思い始めている。
2005.11.02
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人生は一度きりだ。道の幅や曲がり方、分岐の仕方は人それぞれだろうけど一方通行であることには変わりない。中学生の時、担任の先生がよく言っていた言葉がある。「人生には節目がいくつかある。その節目をうまくとらえよ」と。夕焼けニャンニャン観たさにクラブをさぼるヤツまでいた、そんな時代にこんな難しい言葉を言われてもなぁ……。当時はそう思っていた。しかしそれからすでに20年近くが過ぎ、親に仕送りをするようになってしまったこの歳になるとその「節目」とやらが何となく見えるようになってきた。こればかりは過去を振り返らなければわからない。もちろん高校や大学進学、誰と付き合うかなど自分に選択する余地は確かにあった。しかし節目というのはいざ自分の目の前に現れてもなかなか見えにくいものだ。みんな同じようにもがき苦しみ、その節目をとらえながら一方通行の人生を歩んできている。中学生当時、ワンダーフォーゲル部で山登りに明け暮れていたころは医者になるなんて全く思っていなかった。職業意識なんていうものはないに等しかった。高校生当時もそういったことはほとんど考えていなかった。生物が好きだったから医者も面白いかなぁ、とちらりと思ったりしてみたが演劇部で台本の読み合わせをしたり、登山部で夏山の縦走をしたりと、相変わらず課外活動中心で職業意識などはなく、ましてや節目なんて見えるはずもなかった。いろんないきさつがあって医師になり、地方の病院を転々としながら今の病院に勤めている今の自分を振り返ってみても、必然性などは感じられない。ほとんどすべてが偶然の集まりといってもいいだろう。強固な意志を持たずダラダラとその場を適当にしのぎながらやってきたので、他人に教えるノウハウなどあろうはずもない。できればこっちが教えてほしいくらいだ。医者になるというのは何も特別なことではない。神様でもなければ仏様でもない。ちょっとした医学的な専門知識や倫理性を有するただの人だ。それ以上でも以下でもない。少なくとも僕はそうだ。しかし、高校進学・大学進学・医局入局・地方病院巡業などはすべてが節目であることには違いない。仮に僕が理科の先生になっていたとしても、あるいは趣味が高じて自動車整備工になったとしても、それらはすべて節目といえるのだろう。「節目を『うまく』とらえよ」といった先生の真意はまだまだ分からないが、節目というのが何となく見えてきただけでも生きてきて良かったと思える瞬間なのかも知れない。
2005.10.24
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先日のネタと雑感にもちらりと書いた続き。東大が600万円(16回分だそうだ)でおおよそ考え得るがん検診を行ってくれるサービスが始まるらしい。高いのか安いのか一概にはいえないと思うのだが、東大病院の教授も「一部の裕福な人に特定のサービスを提供することへの批判は覚悟している」とコメントしていることから、平均年収の人からみれば「高い」ということなのだろう。さて、この検診はいろんな問題をはらんでいる。まず検診という制度だ。当たり前だけれどもこれは治療ではない。あくまでも病気などに罹患していないかが検診の目的なのだから、検診を受ける人というのは「自分は(多少不安はあるかもしれないが)健康だ」と思っている人に限られる。すなわち、(自称)健康な人を医学的側面から見て病気か否かを判断する制度だといってもいいだろう。当然、かかる費用も疾病の治療に使われるべき健康保険の対象にはならない。裏を返せば病院側に値段設定の裁量権がある。次にその精度だ。検診というのはどこの病院でも同じレベルだと思ってはいけない。当然ピンからキリまであるわけで、価格不相応な場合や値段の割にかなりよさげな検診センターなどその種類は多岐にわたる。結局、サービス以上に精度をいかに高くするかが検診の中核となるわけで東大ブランドの検診もPETなどを導入しその精度を上げようとしているようだ。そしてブランド。今回の検診を会員制度にしたリゾートトラスト社も「機器の精度だけでなく、検診当日に東大の医師が結果を説明するなど、きめ細かいサービスが特徴」だという。東大病院が「東大」というブランドを検診に打ち立てる以上、そこには絶大な信頼が求められている。そんなに機能的でもなさそうなヴィトンやグッチの鞄がン十万円もするなんて僕にすれば信じられないことだが、それでも売れているのはブランドに対する信頼があるからだろう。それと同様に「東大」ブランドの検診も位置づけられるのではなかろうか。地方の大学病院で600万円検診を打ち出してみたところで信頼も何もあったものじゃないだろうし、ましてや地方の小病院が同じようなことをしても東大にはとうてい及ばない。今回の東大ブランド検診は#(自称)健康な人#経済的富裕層の人を対象に#精度の高さ#東大病院医師の説明付きと結論づけられるだろうか。(自称)健康な人というのは意外にやっかいなものだが、東大というブランドにはひれ伏してしまうのかも知れない。ウチで同じような検診をやってみたところで「保険もきかない健康診断でどうして俺がガンになってるんだ」と騒ぎ立てられるのは目に見えている(笑)ところで今回の東大ブランド検診、満期を迎えぬまま死んだ場合はどうなる?
2005.10.22
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オオカミ少年というイソップ寓話がある。正しくは「羊飼いと狼」だったと記憶するが、一般にはいざというときに信用してもらえない嘘つきの話だ。日常の診療においては嘘をつかない日などない。患者さんの病状説明なんかは嘘で固めてしまった人もいるくらいだ。また同様に嘘をつかれない日もない。患者さんの口にする病状などは婉曲な表現になればなるほど嘘をついていることが多い。「何ともないです」などが代表的だろうか。本当に何ともなかったら病院には来ないのだし、入院する必要もない。多くの場合こうした嘘のつきあいというのはお互いにそれとなく吸収しあって、大事に至ることはそれほど多くない。しかし、大事に至ってしまう嘘だって確かにある。それが病院で嘘を重ねる代表、「アラーム」だ。入院している患者さんの中には様々なモニタをつけなければならない人たちが多くいる。心電図であったり、オキシメーターであったり、観血的動脈圧測定であったり……そのほかにも患者さんの周りにある様々な機械は必ずといっていいほどアラームを内蔵している。呼吸器や輸液ポンプなんかが代表的だろう。こうした機械が発するアラームは「嘘」が大半を占めるといっていい。そして本当の「アラーム=危機的状況」はそれほど滅多に起こらない。こうした嘘が呼んだ悲劇が先日の事件だった。この記事の内容では外来患者対応のためアラームに気づかなかったということだが、理由はどうであれ気づかれないアラームなど意味がない。そしてアラームに気づいたとしても重要度が理解できなければ意味がない。一般の方はあまりご存じないだろうけれども人工呼吸器は頻繁にアラームを鳴らす代表的な機械だ。これはもちろん、生命維持装置としての重要な役割を果たしているからであって「少しの異常も見逃さず、すぐにアラームを鳴らす」という大前提があるからである。異常が起こればそれはすなわち死につながる可能性が高く、人工呼吸器の中の小人さんたちも手抜きをするわけにはいかない。24時間必死に働いているのだ。たぶん。しかし実際ににふたを開けてみると、喀痰による気道内圧の異常や人工呼吸器とタイミングが合わないバッキングなど重要には違いないのだが、かといって呼吸器が外れたなんていう重大な異常ではないことが大半だ。アラームを受ける側の人間も最初のうちのアラームには敏感に反応し、その都度病室を訪れ容態を確認し、適切に対処をしているはずなのだが次第にそうした感覚は鈍くなり、アラームが鳴っていても「またいつものアラームか」と過ごしてしまうシーンがある。今回の場合も危機的状況に慣れてしまった、というのが最大の原因なのだろう。だからといって24時間フルでアラームに対して耳を澄ませ続けるわけにもいかない。本当に重要な情報は何なのかという、フィルターの閾値を機械と人間との両方でバランスよく調整していくことが大事なのだけれどもなかなかうまくいかない。危機的ランク別にアラームが違う音色で鳴ったりするというのもいいかもしれないが、結局慣れてしまうんだろうなぁ。避難訓練もたまにするからいいのであって、毎日していたらダレてしまうんだろう。今そこにある異常をどうやって的確に判断するのか、今後も検討され続ける課題としておきたい。
2005.10.17
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少々古いネタで恐縮だが、読売新聞が10月7日に報道した「治療巡るトラブル、7割強が実際に医療ミス」という記事。内容はこうだ。治療巡るトラブル、7割強が実際に医療ミス 治療結果の説明を納得できないとする患者側と医療機関の間でトラブルになったケースのうち、7割以上で、実際に医師や看護師による医療ミスと鑑定されたことが、ベテラン医師らでつくる「医療事故調査会」(代表世話人=森功・医療法人医真会理事長)のまとめで分かった。 同会は、裁判で証拠保全されたカルテの鑑定などを行った経験のある医師らが1995年に結成し、現在の会員は41人。様々な医療裁判で鑑定を手がけている。今年3月までの10年間で、1081件の鑑定を依頼され、うち733件の結果がまとまった。 鑑定結果によると、医療ミスが原因と判断されたケースは73・9%にあたる542件に上り、うち6割超の335件で患者が死亡していた。大動脈解離の患者を神経痛と誤診し手遅れとなったり、16年間執刀したことのない医師が心臓バイパス手術を行い失敗するなどの事例が報告されている。 また、733件のうち724件で、診断や手技を誤るなど、医師の知識不足、技術不足がみられた。患者や家族に治療方針を説明して同意を得る「インフォームド・コンセント」の不足など、意思疎通の問題が指摘される事例も237件あり、明らかに医療ミスとはいえない場合でも、ほとんどのケースで病院側に何らかの落ち度があることが分かった。……はいはい、もういい加減にしてほしいです。7割が医療ミスだとするならば、この数字を見て我々にいったいどうしろというのだろうか。この記事では大動脈解離を神経痛と誤診した事例が挙げられているが、解離の診断はかなり難しいのは周知の事実だ。昨年、父は大動脈解離で死んだ。でも最初の診断は不安定狭心症だった。父も母も一安心していたが結局その後の診断で緊急手術が必要となり、後は泥沼化してしまうといった結果から見れば最悪の道筋をたどった。確かに「こうした検査をしておいてくれたらなぁ」と思うことはあるのだが、別に主治医を責めるつもりもない。我々がいかに力を尽くしても及ぶことのできない診断や治療というのは現に存在することを知っているからだ。医療にミスはつきものだが、それを肯定するつもりはない。しかしこうした記事を公表する以上、何を目的としているのかは明らかにしておかなければならないはずだ。7割が医療ミス、ということを患者さんに知ってもらいたいのか。だとすれば、病院にかかることはきわめて危険であるから、病気や怪我にならないよう努力してほしい。病気や怪我にならなければ病院を受診する機会は確実に減るし、その分ミスされる可能性も少なくなる。7割が医療ミス、ということを医療者側に伝えたいのか。だとすれば我々は襟を正しつつ、少しでも大動脈解離の疑いがあれば全例に造影CTを行っていかなければならない。造影剤アレルギーがあろうが腎不全であろうが、とにかく造影しましょうということになる。でも、造影剤禁忌だったけれども診断のため造影しました、ではまた同じように「危険を承知で造影剤を使った」とかいわれて訴えられるんだろうな……orz。なんにせよ、最後までもめた症例を検討しているんだから7割ぐらいはミスなんだろう。でも残りの3割はどうだったのかとふと考える。単なる患者さんの言いがかりだったのか、コミュニケーション不足だったのか、それとももっと他の原因だったのか……。昨今のマスコミ発表は医療者側に厳しい。当たり前といえば当たり前なのだが、単に揚げ足をとっているとしか思えないような記事も多い。それが患者さんを疑心暗鬼にさせる一助となっているのなら、そうした点も反省してもらいたいと思う。とにもかくにも、マスコミでいわれているほど医者は怠慢ではないということだ。一部のドクターにはそうした人もいるかもしれないが、ほとんどの医者は人畜無害のはず。それはわかっておいてほしい。
2005.10.15
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診療報酬がマイナス改訂する方向で提言されているようだ。バブル崩壊後2年ごとの改訂で徐々に診療報酬が下がってきた経緯があり、今度の改訂もおそらくマイナス改訂になることはほぼ間違いないものと思われる。我々医療者側からすれば「売り物」の値段を下げろということなので、かなり厳しい状況だが保険制度上致し方ない面もありなかなか難しい立場におかれている。試算によると1%の診療報酬は700億円相当だという。700億円といえば阪神が優勝したことで見込まれる経済効果であり、さきの総選挙で必要となった費用にほぼ等しく、どれぐらいの規模なのかリーマン医者には見当もつかないが、かなりの金額だということは何となくつかめる。こうした診療報酬のほとんどは高齢者に使われていることは周知の事実だが、そのなかでも検査や投薬といった費用が大半を占める。我々にはこうした医療費が高いのか安いのか、それを知る術すらほとんど与えられていないわけだから仕方ないにしても、じゃぁ一体いくらだったら納得できるのかという金額も提示できない。たとえば風邪で病院を受診し診察や検査を受け、クスリが処方されて¥3000だったとしよう。しかし、これが高いのか安いのか患者さんはもちろん我々医療者もよく分からない。風邪ならいくらで納得できるのか、癌なら一体いくら出せばいいのか……そんなことなどお構いなしで診療報酬はどんどん改訂されていく。そりゃ、理想は「タダ」なんだろうけどもタダほど高いモノはないというから、どこかでしっぺ返しが来るのは間違いない。そして、自分だけはしっぺ返しを受けないでおこうとする魂胆も露呈しているからやりきれない。国民皆保険制度というきわめて希有な体制下、病院にかかるという金銭感覚がお互いにマヒしてしまっているようだ。患者さんからは「高い」「いらない検査をされた」「医者と相性が悪いので別の病院へかかってみた」など様々な不満があるようだ。確かに自分の処方内容や検査内容を見ていても無駄と思える部分は多いと反省することしきり。鋭い洞察力で極力検査や投薬を排することができればいいが、名実ともにスマートな診療は難しい。しかし、僕らからすれば主治医を自由に選べたり、どこの病院にかかってもクスリの値段などが同じであったり、紹介状も持たずに別の病院へ勝手に受診できる医療制度など日本は贅沢すぎるぐらい患者さんを優遇する制度を持つ国家だと思う。いずれ、そうした優遇制度も破綻する。国家が積み上げてきた累積債務はもうカウントできないくらいに膨らんでいて、自転車操業の状態だ。その負担分をあくせく働く国民の税金でまかないその場を何とかやり過ごしている。医療とカネにまつわる問題など掃いて捨てるほどある。医は仁術なんていう尊い言葉は政府からしてみればどうでもいい内容で、結局、医は算術という俗世の言葉がまかり通ってしまう。人の不幸で飯を食っている立場の僕からすると医療費マイナス改訂は「是」であり「非」でもある。因果な商売だなぁと少しばかり恨みつつ、今後どうなっていくのか結論を見守りたい。
2005.10.11
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10月は下半期の始まる月に当たるため、大異動とまではいかなくとも小異動が行われることがある。そこそこの規模の病院へ行ったことのある方なら当然ご存じだろうが、勤めの医者というのは派遣社員にも似た勤務形態のため人事部(=医局)から異動命令が下れば従わざるを得ない。だから4月や10月は外来担当医が変わったりして患者さんは少々不安になるようだ。そりゃそうだろう。見かけたことのある医者であっても自分の病気のことなど知っているわけじゃなし、そんな医者にこれから世話になるなんて考えただけでも不安になるのは当然だ。さて、そうした不安な患者さんなどお構いなく外来の主治医はどんどん変わる。長年にわたり通っている患者さんであればあるほど主治医の交代も多いわけで「この10年で6人の主治医に診てもらった」なんて患者さんも結構あったりする。一方、交代するDr.も不安で仕方がない。診たこともない患者さんを明日から山のようにみていかねばならないなんて考えただけでもぞっとする。地方の中核病院で普通に外来をしていればおおよそ300人ぐらいのカスタマー(=患者さん)がつくと思うが、そうした患者さんのヒストリーや病態などをいちいち後任に説明していられるほど医者は暇じゃぁない。そこで、とりあえずの病名や簡単な経過を中間サマリーとしてカルテに記載し後任に託していくのだ。しかし、そのサマリーのできによっては患者さんの命を左右してしまうわけだからサマリーを書く方も受け取る方も気が抜けない。サマリーを書き出した頃は何とかがんばって事細かにまとめ上げていった外来主治医も、転出直前になれば山のように仕事が重なってくるからサマリーなんかはどんどん手抜きになってくる。しまいには「どくちる君、よろしく。」とだけ書き放たれいったいどういった患者さんなのかほとんど分からないまま診療を始めることになる。こうした時期、こんな患者さんが外来にあふれかえる。患者さんの病気を理解するのに予習が必要なのは分かっているけれども、とてもそこまで時間が回らない。いったいなぜこの病院に通院しているか分からない患者さんさえいるくらいだから、きちんと理解しようと思ったら毎週のように通ってもらっても1~2ヶ月はかかるだろう。おまけに内科の扱う疾患範囲は広い。頭が痛くても脳外科の受診前に内科だ。腰が痛くても整形外科の受診前に内科だ。当たり前のことだけれども専門性を謳わない、つまり外来の「顔」であるべき一般内科がすでに機能しなくなってきているように感じる。ただでさえあふれかえる外来に、意味の分からない申し送り、そして疑心暗鬼の患者さん。いつものことだけれどもこの時期は凹まされる。そして秋が深まっていく……。
2005.10.05
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暑さ寒さも彼岸まで、というがこの時期は体調を壊しやすくなる人が多い。特に感冒様症状が多いのだが、下手をすると入院してしばらく様子を見なくてはならない人もあり、気が抜けない。というわけで、今担当している入院患者さんは以前に比べかなり多くなった。農繁期も一段落し、気のゆるみもあるのか新たに病気になったり、慢性疾患の患者さんも「じゃぁボチボチ入院しようかのぉ」なんて感じだ。まぁ、割合からすれば急性期疾患が多いので最初をうまく乗り切れば比較的早期に退院してくれるのだが、退院したと思ったらすぐに次の人が入院してきたりでなかなか心休まるときもない。急性期疾患の人はどうしても「一見さん」が多いわけで、名前と顔が一致しない人も多い。電話なんかで「○○さんが39度くらいの熱が出てるんですが……」といわれてもそんな人いたっけ?みたいな調子である。患者さんには申し訳ないなぁと思いつつとりあえずその場をやり過ごす。他のドクターはどうだか知らないが、やはりこうした急性期における名前が覚えられない時期は病名を併記してもらえるとありがたい。たとえばさっきの電話なら「急性喉頭蓋炎で入院された○○さんですが……」なんかだともう少しその人の状況がつかみやすくなる。最初の頃はどうしても「人」を診るより「病気」を診ているのでこうした方がわかりやすいのだ。時間がたって慢性化してきたりすると患者さんの人柄なんかもつかめてくるし、病気もおおむね安定してくるので病気よりも人を診ている感じなんだけれども、最初の頃は人柄をつかむまで至らない、というのが実情だ。そりゃ初診で来院した40度近い発熱でウンウン唸っている人がどういった人柄なのかは分かるはずもないんだけれども……。とにもかくにも急性期疾患というのは慢性疾患とは違う側面を持ったものであることには違いない。そのギャップをどうやって埋めていけるのか、こればっかりは数をこなすしかないのかなぁ、と思いつつ今日も仕事に励んでみる。
2005.09.22
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このシーズン、学会なんやかやで忙しくなかなか更新できず。残念!ど~でもいいようなネタでも更新しますかねぇ……切腹!……ブームは過ぎ去ったのか波田陽区……orz
2005.09.21
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日頃病院に行って色々とオーダーする検査。仮にあなたが病院へ行ったとして採血やエコー・胸部写真や心電図、挙げ句の果てにはCTやMRIまでいろんな検査をされるとしたらどうだろうか?内科へやってくる患者さんというのは必然的に症状が中心になる。外傷と違い目で見て分かる病気だけではないからで、その分不安は増大する。だるい・頭痛がする・足がむくんでいる・肩がこる・指先がしびれる・物覚えがひどくなったような気がする……。こうした自覚症状(我々は一般的に主訴と呼ぶ)は患者さんにとっては自らのQOLを著しく低下させる原因には違いない。しかし、目で見て分かる頭痛なんてないのだから他人から見ると同情こそできるもののよく分からない、というのが本音だろう。さて、こうした主訴を持った患者さんが外来にやってきたとき我々がすべきことは色々とある。最終目標は主訴の消失だが、まずは何が原因か調べていかないといけない。当然のことながら詳細な問診や理学所見は欠かせない。そしてさらに先ほどの検査群を追加して病気(主訴)の原因を探っていくというのが一般的な流れだろうと思う。そうして行われる検査自体にも色々な質がある。それが「感度」と「特異度」だ。定義はなかなか難しいのだが、簡単に言うと感 度:病気である場合に検査が陽性と出る確率特異度:病気でない場合に検査が陰性と出る確率となる。ほとんどの人は「感度」は理解できるようだが特異度はなかなか理解できないらしい。すべての検査には感度と特異度があり、もっとも望ましいのは感度・特異度ともに100%の検査だ。実際にはこんな検査はあり得ないが、もしこの検査が実在したとすれば陽性→病気確定!陰性→病気じゃない、確定!ということになる。実際にはそれぞれの検査が併せ持つ感度・特異度を組み合わせてより確実に診断していくわけだが、どうしても感度が優先されるようだ。確かに感度が高いと病気を拾い上げる率は高くなるが、その分病気じゃない人でも陽性と判定してしまう場合が増える。これを疑陽性と呼ぶのだが、疑陽性のためにさらなる検査を行う必要が出てくるため、どうしても検査は膨大なものになってくる。たとえばCEAという検査項目がある。CEAとは癌胎児性抗原とも呼ばれる腫瘍マーカーの一つだ。消化器系の癌に比較的特異性が高いといわれるが、早期癌の診断には役に立たないことも分かっている。CEAは胃癌や大腸癌だけではなく、肺癌や膵臓癌・乳癌・甲状腺髄様癌・卵巣癌・子宮癌……と様々な腫瘍で高値になる場合が知られており、CEAが高いからといって胃癌だとはいえないのだ。仮にこのCEAが少しだけ高い患者さんがいたらどうするか。この後に続けて行うべき検査はいったい何なのかを考えていかねばならない。内視鏡やCT、婦人科的検索、エコー等々……しかし結局色々調べても何もなかったというのは意外に多い。少なくとも検査完了時点では何もなさそうなので次回3ヶ月後、のように経過観察することが多くなる。患者さんは不安だろう。CEAは腫瘍マーカーと聞いているがこのまま3ヶ月も放っておいて大丈夫なのだろうか、と。実際のところそれは誰にも分からない。かといって毎日採血や検査をするわけにはいかない。適度なインターバルを持って再検査してみないと分からないことなど日常茶飯事なのだ。高感度な検査が増えた現在、それを肯定したり否定したりするためにさらなる検査が必要だということが分かってもらえただろうか。こうした検査を確認するための検査は今後も続くだろうが、結局その検査結果を最終的に判断するのは人間だ。だとすると、最も優れた感度と特異度を持つ検査は『人間』なのかもしれない。
2005.09.08
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医原性疾患は医原病ともいわれ、読んで字の如く医療側が作り出す病気である。必要に応じやむを得ない症状からあってはならない症状までその数は計り知れないほど多いが、いずれにせよ『病院に行かなければそうはならなかった』類の病気には違いない。先日も一人の医原性疾患の患者さんを診る機会があった。自分自身への戒めとして記しておきたい。患者さんは80歳近い男性。近所の開業医から著明な貧血を指摘され紹介となった。その開業医では高血圧・高脂血症などのフォローをされていたらしい。実際そういった薬も処方されていて、まぁどこにでもいそうな患者さんだった。診察してみるとやや小太りの体型であるものの顔面蒼白、車いすからベッドへの移動も困難なほどに体力は消耗していた。眼瞼結膜は真っ白け。どう見ても血色素であるHb値が5mg/dLはなさそうだ。すぐにルートキープし、輸血の手配。出血なのか血液疾患なのかそれともほかの疾患なのかはわからなかったが、とにかくこの低空飛行状態を改善しなければいけない。外来での腹部エコーはっと……問題なし。CBC(全血球計算)は……ありゃりゃRBC(赤血球数) 179万、Hb 3.9mg/dL。先月の採血ではHb 12.2mg/dLもあったようだから単純に考えればここ1ヵ月間で血液が1/3になったっていうことか。どっかからの出血かなぁ……。順次返ってくる採血の結果を確認しながら入院の手配やなんやかやを済ませていく。一般的に急速に進行する貧血というのは出血性の疾患である場合が多い。ほとんどが消化管原発だが本人に「黒い便なんか出ていませんでしたか?」と尋ねてみても「あったかも知れないけどくみ取り式だからよく分からんねぇ」とハァハァされながら言われる始末。吐血症状はないので激しい出血ではないのかも知れない。まずは内視鏡が必要だな、と思いつつ入院準備。残念なことに彼の血液型のMAP(濃厚赤血球)は在庫がなく隣町から赤十字の車がサイレンを鳴らしながら運んできてくれた。40分後MAPが到着し、すぐに輸血。輸血が始まったところで内視鏡室へ運ぶ。その前にもう一度採血結果を確認してみると色々と結果が返却されていた。軽い腎障害や肝障害・高血糖……それにもまして驚いたのがPT値を始めとした凝固能の異常だった。血液というのは固まらなければならない場合と固まらなくても良い場合がある。血管を流れている最中は固まってはいけないし、出血しているなら固まって止血しなければならない。正常人の場合はこうした凝固機能は適切にコントロールされていて、きちんとした機能を果たしている。しかし彼の場合は明らかな出血傾向だった。何らかの機転で凝固が障害されていることが窺われた。高齢でもあり血液疾患や敗血症なども考えておかねばならない。しかしいずれにせどこかで出血が起こっているようだ。止血処置できるものなら何とかして止血しておくべきだろう。普通ならきちんと止まる小さな出血が生命をも脅かしつつある恐怖を感じながら僕は内視鏡室へと向かった。止血準備を看護師さんたちにお願いしながら内視鏡を操作していくと胃内はかなりの血液であふれていた。びらん性の胃炎が多発しておりそこからの出血だった。一点から出血する場合と違い、あちこちでにじむような出血をしているためピンポイントでの治療ができない。普段なら軽い出血性胃炎程度であっただろうが、凝固障害により泉のようににじみ出してくる血液をみながら凝固剤を散布しつつ内視鏡を終えた。輸血も始まっており、バイタルも特に問題はない程度にまで回復、やっと我に返って落ち着きながら今回の事態を整理する余裕ができたため家族から事情を説明していただくことにした。すると、かなり多種類の薬を内服していることが判明。肺梗塞の既往があり、紹介元とは別の医院でワーファリンを投与されているとのことだった。さらに別の整形外科にもかかっており鎮痛剤であるNSAIDを一日3回定期的に処方されていて『鎮痛剤による胃炎+抗凝固剤による出血傾向』という、あってはならない医原性疾患と結論づけることができた。後に取り寄せてもらった検査結果では凝固能を示すINR値が徐々に上昇してきていることが判明、さらに整形外科ではこうした内服薬の既往を確認せず結構派手に鎮痛剤を処方していたらしい。絶食でもあり薬はすでに中止しているので、とりあえず凝固因子の補充やビタミンKなどの投与を行い止血を確認するまでは厳重なコントロールが必要と考えられた。幸い数日で貧血は治まり、胃内からの出血も認めなくなったため徐々に内服薬を再開、鎮痛剤も胃に優しいものに変更したりプロスタグランジン系の防御因子増強薬を処方したりするなどして何とか退院にまでこぎ着けた。今回の原因は内服薬によるものと考えられたわけだが、いずれも治療のためには必要な薬であったことは間違いない。血栓ができやすいからワーファリンを、あちこち痛むから鎮痛剤を……。よかれと思って処方した薬であっても時に牙をむき、生命さえ脅かす存在になるという教訓だった。せっかくそこそこの頻度で採血しINR値まで測定しているのに出血傾向の増強に気づかなかった主治医、そして出血傾向があるにもかかわらず胃粘膜を荒らしてしまう薬を処方し続けた整形外科医。こうした不備な点が重なり合うことで事態はより悪化していく。もちろん、彼らだけを責めることはできまい。もしかすると僕自身、こうした医原性疾患を毎日のように作っているのかも知れないからだ。医原性疾患は我々医療者のタブーである。防ぎ得る医原性疾患は極力避けて通らなければならない。しかし複雑に絡み合う疾患を治療していく過程では偶発的なものも含め医原性疾患はなくならないだろう。だから我々はそうした異常に気づく努力をすべきなのだ。自分が良かれと思って行っている医療行為が目の前の患者さんにどのような影響を及ぼすことになっているのか、それに気づくことのできるアンテナを常に張り続けられる医師でありたいと今回の一件を通じて改めた学んだような気がする。
2005.09.05
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日常の診療でもっともうれしい対価は高い給料でもなく、長い休暇でもない。受診した患者さんの感謝の気持ちだ。それは言葉であったり、笑顔であったり、時には手紙やはがきで綴られることもある。僕が医者を志した理由というのはずいぶん昔の日記にも書いたのだけれども、あまりおおっぴらに自慢できるようなものではなく、人の体に対する興味だとか(当時はバイオテクノロジーが隆盛していた)自分を満足させてくれる、そういった理由だったように思う。だから給料がいいとか悪いとかそんなことは全く考えてもいなかったし、実際に仕事を始めるまで気づくことさえなかった。修業年限は6年もの長期であったはずなのに医療現場で繰り広げられる実際の感動や醜聞などはほとんど見聞することなく、国試合格後はそのまま実戦へ配備されるといった感じだった。実際に働きだしてみると、医者の仕事はとてつもなく多岐にわたることがわかった。特に下っ端のDr.であればあるほど雑用を数多くこなさなければならず大変だということも身をもって知った。その代わり上級になればなるほど責任は常に重くのしかかることも何となくわかるようになった。特に大学では「こんなの医者の仕事じゃない」と思われるような仕事も数多くあったが、今振り返ってみるとそれは精神力や忍耐力を鍛える上で役に立っているのかも知れない。単にマゾっ気があるだけなのかも知れないが。いずれにせよ、信じられないスピードと広がりを見せる仕事の中に身を置くことになってからは医者という不思議な職業を改めて感じることとなった。と、同時に絶え間なくやってくる患者さんに対する考え方もずいぶん変わった。いままでは自分が医療を受ける側であったのに、ある日突然医療を提供する側になったわけだから当然といえば当然なのだが、そこにはいくら表現しようとしても表現しきれないものがある。僕はかつて(今でもそうなのだが)小児喘息を煩い約10年以上つらい日々を送った。季節の変わり目は必ずといっていいほど発作が出現した。発作は夜半が多く教科書通りだということは医学生になってから知ることとなった。発作が起こると母はうろたえ、父は嘆き、家族全員が思い雰囲気に包まれた。幼い僕自身でさえも自分が悪いことをしているような気がして両親に申し訳なかった。夏の暑い日、発作が起こりあまりの辛さに早退したとき、炎天下の誰も通らないような細い通学路を這って家まで帰ったことなど忘れようとしても忘れられない。また、夜中に発作が起こった時、たまたま薬が切れてしまって母がかかりつけの先生に電話したとき、その先生がわざわざ診療所にまでやってこられてイヤな顔一つせず薬を処方されたときのこともまた忘れられない思い出だ。自分が医療を受ける側で当たり前だった、こうした時期から医療を提供する側となった現在、いったい自分は何のために働いているのだろうと自問自答することがある。現実的に突き進めば理想は低くなり、理想を目指せば現実問題としてたちいかなくなってしまう……そうした矛盾をどのように解決していけばいいのか残念ながら僕にはわからない。ただ、僕にわかることはこの矛盾を感じなければ前には進めない、ということだけだ。『社会的・身体的弱者』とされる患者さんたちが多く集うこの病院には大なり小なり矛盾など掃いて捨てるほどある。しかしうまく立ち回っていない現実があるからこそ、その現実をいかに改善し自分の糧にしていくか僕自身の度量が問われているような気もするのだ。そして、いくら矛盾が渦巻いていようとも患者さんの笑顔に勝るものはない。彼らが良かったと思えるその気持ちこそが我々に力を与え、この矛盾を解決できる大きな原動力ではないかと思うのだ。
2005.08.29
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あふれんばかりの問題別に病院での出来事に限ったことではないが、この世には多くの問題点が山積みされている。無事に解決に向かうものもあれば、迷宮入りといったものもある。たとえ無事に解決しても新たな問題は次から次へと出てくることは必定で、我々はそうした問題と向かい合うことになる。その問題は急務なのかそうした問題を解決するとき、まず把握しておくことは「急ぐ」のかそうでないのかだ。与えられた時間は1分なのか1時間なのか、それとも1ヶ月や1年なのか時間の単位は問題にもよるだろうが、その問題解決に必要とするおおよその時間を見極め把握しなければならない。事態の悪化をさけるそして「とりあえず」この問題をなんとかせねばならないときは現状をおおざっぱでも良いから把握し、これ以上悪化させないよう努めなければならない。こうした状況をどれだけ早く掌握できるかが今後の鍵となっていく。精度を犠牲にする従って、時間がないときの状況把握はそれほど精度は求められない。問題解決策をダーツの板にたとえるならど真ん中でなくてもいいから、とにかく的に当てることを目的にする。外さなければそれなりの手応えがあるはずだ。その手応えを感じ取っていくなかで徐々に、しかし急ぎつつ精度を上げ本質に近づくよう努力する。猶予がある場合は前者の場合と違い問題解決までにある程度の猶予が与えられている場合、まず行うことは問題のスクリーニングだ。多少時間がかかっても必要と思われる範囲でできるだけ広く浅く状態を把握する。感度を上げて拾い上げるのが目的だから特異度は多少下がってもいい。ノイズを拾っても後で分析する時間は十分にあるはずだからだ。情報集積と分析こうして集められた情報を集積し分析していく。最初のうちは情報にあふれてしまうかも知れないが、分析していく中で情報が持つそれぞれの価値や因果関係が徐々にわかってくる。解決への道のりそして分析された情報を元にウェイトを持たせ情報の価値に重みをつける。一番大事な情報は何か、後回しでも良い情報は何か……。順番を決めていくことで平面に散らばっていた解決策は一つの線をなし、道が造られる。一人だけでは処理できる解決策も限られたものになるから、こうして線形を成していくことで解決を図っていくようにする。従って、こうした情報や解決策は精度を上げておかないと大変なことになる。順番が大事なシーケンシャル・ソリューションなのだから、解決策が前後してしまってはどうしようもない。多くの問題は複雑な構造をしているしかし、我々の身の回りに山積する諸問題は実際のところ非常に複雑な構造をしている。急ぐべき部分やそうでない部分、重要性の軽重などが渾然一体となり、解決の道筋も決められない場合が往々にして存在する。シンプルな解決方法だけでは処理しきれないのだ。従って自分が直面している状況を把握し、二者を併用しながら問題解決を図るのが最適解だろう。今すべきことは何かを考えつつ問題を分割し、それに応じて適切な解決策を見いだしていかねばならない。問題を俯瞰できるか結局、どんな問題にせよそれを構成する部分に分けていくためには俯瞰能力が必要になってくる。視野が狭かったり目の前のことで精一杯という状況では、対峙する問題の大きささえわからなくなってしまう。一般に『要領がよい』といわれている人は問題解決に要する技術や知識は『要領が悪い』人とそれほど変わらなくても、ほとんどが優れた俯瞰能力を持っている。臨機応変に対処してみるフランスの哲学者、デカルトはその著書である方法序説(Discours de la m?thode)で『困難は分割せよ*』と説いた。直面する問題は大小様々であろうが、自分の処理できる大きさにまで分割するにもまた能力が必要とされる。問題を俯瞰し、分割し、解決への糸道を探っていく中でもそれぞれ得手不得手があるだろう。そうした得手不得手を見極めながらも手持ちの札は多い方がいい。問題に応じどれだけ臨機応変に対処できるか、最近よく言われている危機管理能力などもこうした力の試しどころなのだと思う。*原文はフランス語で書かれているが、あいにく読めず。英語訳はhttp://www.gutenberg.org/etext/59で参照可能。谷川多佳子の訳では「わたしが検討する難問の1つ1つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」とされており原文もそういったニュアンスで書かれている。
2005.08.25
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病院へやってくる患者さんは当然何らかの病気や怪我を有している。しかし勤務医をしている以上、最後までその患者さんと付き合いきるという事例は外来では滅多にお目にかかれない。もちろん、感冒や一時的な怪我などならその患者さんが治ったことを確認することもできるが、これから先、一生付き合っていかなければならないような病気を診るとき、治る・治らないにせよ最後まで診続けることは不可能に近い。従って勤務医がその患者さんの治療を終えるときは以下の三つしかない。1.患者さんが来なくなった2.自分が転勤・異動することになった3.患者さんが亡くなった患者さんが来なくなったというのは結構多い。これは医者と患者の相性や、病院との相性などもあるだろうが、それ以外にも自己判断で良くなったと勘違いしていたり、とか、怪しげな新興宗教へかっさらわれていったとか、患者さん自身が突然転居したとか……憶測の域を出ないのだけれども、様々な理由が存在していることは間違いない。こうした場合は残念ながら追跡がほとんど不可能なので放置するしかないが、奥歯に物が挟まったような何ともいえない後味の悪さを覚える。次に自分が転勤することになっただが、それなりに大きな病院へ通院したことがある人なら誰でもお目にかかったことがあるだろう。医局や病院の方針により微妙に異なるけれども4月と10月は人事異動が多く、外来勤務や病棟担当医の変更など病院の玄関に貼り付けてあるような担当表が塗り替えられるのは、病院の風物詩といった感さえ受ける。転勤も自分で転職や開業してしまう先生もいれば、医局から異動を命じられ渋々転勤したり、逆にやっと転勤させてくれたかという安堵の面持ちで転勤したり……いずれにせよ「病院」に通っている患者さんにしてみれば主治医がいなくなってしまうわけだから大変だ。ただ、医者の立場からいわせてもらうと後続のDr.を指名できる訳なので先に挙げた理由よりはまだ安心できる感がある。最後の患者さんが亡くなってしまった場合だが、このケースがもっとも心に重くのしかかる。自分の選んだ治療は間違いがなかったのか、最善は尽くせたのか、本当に抗いがたい病気であったのか……そうした自問自答を繰り返すことになる。いくら自問自答してみても答えは決して出ることはない。なぜなら、いくら答えを求めてみても当の本人がこの世に存在しない以上、検証することが不可能だからだ。過去の反省を現在・未来に生かすことはできたとしても、その患者さんが再び生き返ってくるわけではない。そういった意味でも後戻りできない治療の終焉というのは先の二者に比べとてつもなく重く響く。治療が終わらない医療なんて医療ではないのかもしれない。しかしそれでも目の前に病気がある以上、何とかして抗ってみる努力はしてみたいとも思う。自分がこれから先どのような病気や患者さんと向き合うのかは何もわからないが、仕事を続けることでしかこうした問題を考えられないのならば、その仕事が僕の宿命ということか……。徳川家康が遺訓とした『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、まくること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり』を思い出し、しばし感慨にふけってみる。
2005.08.22
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ご存じの通り僕はリーマン医者だ。個人で就職したわけではなく医局からの『派遣』という形で仕事をさせてもらっている。でも雇用されるに当たって雇用契約なんて結んだ記憶もなく、給料や保険なんかは今勤めている病院のものだ。このあたり、一般の派遣会社とは少し様相が違うのかもしれない。まぁ、何はともあれ今の給与体系はほかの職員の方々と同じくリーマン制だ。多少の残業手当や宿直手当なんかが付くけれども患者さんをたくさん診ようが朝から高校野球を見ていようが給料は同じだ。そんなことがあるので、真剣になって働く医者ほどモチベーションは低くならざるを得ない。稼ぎの面からすればどう見たって病院という会社に貢献しているはずなのに、給料はテレビの番をしているドクターと変わらないのであれば、もうイヤだということになりかねない。しかし、田舎の公立病院はそうしたことなどお構いなしだ。能率を上げよう、なんてスローガンはそのほかのもに比べれば優先順位は低い。能率なんてどうだっていい、親方日の丸なんだぜ……そしてあるのは現在の利権を保持し、保身することだけだ。旧態依然の病院はいずれ滅びる。しかし公立病院はおいそれと潰していくわけにはいかない。地域住民の健康を守る砦として機能する以上、砦を瓦解させてしまってはならないという命題が常に課せられているからだ。だから役人根性丸出しの事務方は砦を変えようなんてことはしない。そんな大がかりな工事は自分の次の代に任せたい、だって面倒なんだもん、ということらしい。そこで年度末の道路工事のようにどうでもいい場所を掘り返してみては埋めていくという、うわべだけの小改変を続けていく。とりあえず見た目がきれいなので、患者さんの数が激減したりすることはないが、砦の芯となる部分はすでに腐り始めているので、これから先どれだけの耐久性があるのかは予想もつかない。そうした面倒なことはすべて先送りだ。病院という特殊な立場上、利益のみを追求するわけにはいかないのは当然だ。しかし、全く利益を追求しなくなると考えることをやめてしまう。考えなくても一定の利益があるから、赤字が出てもお上が何とかしてくれるから……。だが、最近の傾向はそうではなくなってきている。公立の病院が平気で統廃合されていく冬の時代だ。それでもウチの病院はのんきなものだ。まさか自分たちの身にそうした不幸ごとが襲いかかるなんて思ってもいないらしい。このあたり、自覚症状のない糖尿病の患者さんと同じような印象だ。すべては対岸の火事、自分には関係ないといって憚らない。まぁ、こんなところでぼやいても仕方ないのだろうけれども、この世から病気がなくならない以上、病院のあり方は今後確実に変わっていくはずだ。いまはまだ過渡期でこれからのビジョンはなかなか確立しにくいが、どう転ぶにせよ患者さん一辺倒の病院では成り立っていかないようになる。医療供給側も受給側も双方が満足いくバランスのとれた病院しか残っていくまい。公立病院だからこそ純粋な利益は追求しなくてもいい。しかし能率は追求せねばならないし、追求してほしいのだ。ウチの病院の事務方には能率改善を基本方針に据えていただきたいものだがどうなることやら……orz。
2005.08.15
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もう飽きた。
2005.08.12
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病人以外も来る場所には違いないが、基本的に病院に来るのは病人、という相場は今も昔も変わらない。そんな病気やけがで弱っている弱者とされる患者さんたちは長患いになればなるほど自分の境遇を呪い始める。『どうしてこんな病気に……』『どうして私だけが……』残念だけれども何も答えられない。患者さんはもちろん、目の前の主治医だってわからないのだ。ただわかっていることは一つ。生まれた以上、軽重の差こそあれ人は必ず病気となり山を越え、谷を越えても最後には死んでいくということだ。確かに病気のメカニズムに関してはかなりのところまでわかっているものもある。しかし、その病気が実際に発現するかどうかまではわかっていないのが現状だ。先に挙げた『どうしてこんな病気に……』なんて嘆きには【え~っとですねぇ、「混合性結合組織病」とは抗U1RNP抗体が認められ、臨床症状としては……(中略)……というわけなので混合性結合組織病はいくつかの膠原病が重複してあらわれる重複症候群の中の一つです】とその場だけにわかの知識で繕うことはできるだろう。もしかすると患者さんも納得してくれるかもしれない。しかし、いくら病理や疫学などを解説してもらっても『なぜあなたが病気になったのか』という答えにはならない。アルコール性肝硬変など原因がはっきりしているものがあるにせよ、同じように飲んでいても病気にならない人だっているわけで、その差は神のみぞ知る領域に達してしまう。我々ホモ・サピエンスも動物である以上、病気になるのは確かなことだ。今も昔もそれは変わらない。しかし文明が発達し最新の知見をもって病気と対峙するとき、時に病気は我々から遠くかけ離れた存在になってしまう。『病気』は人と切り離して考えられるものではない。罹患した人を含めた『状態』のようなものだ。解き明かすことのできない生命の神秘がそれを如実に物語っている。おそらく、今後も『なぜ病気になるのか』という命題の答えは見つけられないだろう。人が人である限り無理なような気がする。それが解明されるのはきっと客観的に『生命とは何か』が完全に解明されたときにしか訪れないはずだからだ……。
2005.08.11
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『どくちるくん、嘆いてばかりじゃ大きくなれないよ。』とは研修医の時にお世話になった上司の言葉だ。別名『嘆きのどくちる』とまで言わしめた僕の嘆き、というかボヤキは表面上は変わったかもしれないが根本的なところでは何も変わっていない。SRQ-Dで24点と診断され『鬱を疑う』レベルらしいので、本質的には嘆く傾向にあるのかもしれない。嘆きや悲嘆は人間がふつうに持っている感情の一種だ。社会生活を営む上で決して薦められたり褒められたりする行為ではないが、それでも人は嘆き悲しみ、伝えられない思いやかなえられない思いを自分なりの形で表現しようとする。特に仕事をしてからはそれが顕著になった。うまくいかない患者さんの治療、外来にくれば文句だけを言って帰る患者さん、レセプトで決して折れることのない事務方との折衝……。そんなことだけを考えるとまるで自分が悲劇のヒロインにでもなってしまったかの錯覚を受ける。しかし、現実はそうでもない。ふつうにご飯も食べられるし、特に体調が思わしいわけでもない。たまに酒を飲んでくだを巻くけどそれも『想定の範囲』だろう。だからこそ上司は『嘆いていても始まらない』といったのだろう。嘆くことによって状況は何ら変化しない。自ら行動を起こし、環境を変えなければ何も改善されないのだ、と。しかし、それでも僕は嘆く。まるで嘆くことが原動力かのように。ぶつぶつ文句を言って、はた迷惑だろうけど、そうした文句がでるだけの元気がまだあるということか。このあたりはあゆみ先生にでも診察してもらわないとダメかも(^^;;まぁ、嘆いてばかりでもいられないのは確かなので一発気晴らしにぱ~っと……でも帰ってきたら疲れるんだよなぁ。明日の外来が……ブツブツ……。
2005.08.10
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普段はあまり意識しない政治の話なのでこちらに書いてみました(^^;;http://d.hatena.ne.jp/doctorhs/20050809
2005.08.09
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先日に引き続き、今日も医学ネタではないので申し訳ない。今日はAppleから日本版のiTunesMusicStoreが開始された。そのネタでも、と思ったがどうせみんながレビューするだろうからとりあえずマウスのネタでも。先日、Appleから見た目1ボタン・実際は4ボタンのMightyMouseが発表された。まぁそんなに驚くほどのものでもないのだけれども、Lisa以来長い間1ボタンマウスにこだわっていたApple社の方向転換としては歴史に名を刻むほどの出来事だと思われる。さて、そんなMightyMouseを早速注文し到着したので簡単なプレビューを。外箱外観ありふれた外箱だがしゃれている。品番シールMA086J/Aが品番。ドライバディスクなどのローカライズの差だろうか。内容物マウス本体以外には簡単な説明書とドライバCDのみ。これもいつものこと。マウス外観今までの1ボタン光学マウスとの差は上面にあるスクロールボールのみのように思われる。ちなみに隣のマウスはMS社のBluetoothマウス。エルゴデザインの極みで無線であることから長い間使っているが、電池重量のためか少々重い。マウス裏面裏面は今までのマウス同様光学式。赤いLEDが点灯する。マウス側面マウス側面には左右対称のボタンがあるものの、クリック感は全くない。左右動時に押し込んで初めて機能するボタン。マウス上面灰色のボール様のボタンだがIBMのThinkPadについていそうなトラックポイントに似ている。回転などはせずしないような印象だが(つまり回転感がない)、動かすとスクロールホイールが回転しているかのような小さな音が出る。環境設定パネル1MightyMouseが接続されていないときは通常の設定画面になる環境設定パネル2MightyMouseを接続すると設定画面は自動的に切り替わる以上、とりあえずの印象。使いやすさは慣れないせいもあるが70点くらい。見た目がさらにネズミに近づいた感じがする。ちなみに今までMacでは実現しにくかった横スクロールが実装されている。また、FireFoxなどでは横スクロール動作でページの「前・後」を切り替えていくことができる。右クリックと左クリックは基本的に一つの機械式ボタンで制御されているようだ。そこに左右一対の静電容量センサーがあるためこのセンサーとの組み合わせで判断している印象を受けた。サイドのボタンはクリック感に乏しく、押すには少し力が必要な感じを受けた。いずれにせよApple社が公式にマルチボタンマウスを採用した事で、今後のデバイスにも色々な影響が出ることだろう。※なお、このMightyMouseはWindowsXP/2000でも使用可能。ただし専用ドライバがなく汎用ドライバで対処するため、横スクロールなどの恩恵は受けられない(ような気がする)。左右クリック、センタークリック、上下スクロールは可能のようだ。
2005.08.04
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今日は医学ネタとは関係ない話なのであしからず。先日、「ネタと雑感」にもちらりと書いたのだが自宅でメインに使っていたiMacG5が昇天した。昇天直前まで快調に動いていたので何事かと思った。何となく画面がおかしいことに気づいてから昇天するまであっと言う間だった。現在は電源は入るものの画面はノイズ混じりの灰色のまま、アップルロゴすら表示されない有様だ。Apple JapanのDisscussion Boardsなどを参考にしてみると同様の症状を来している方が結構な数いることが判明。6月に修理依頼したまま1ヶ月以上も放置プレイ状態となっていて、現在も何も改善されていない。どうやらロジックボード上のコンデンサが逝ってしまっているらしいというので、早速チェックしてみた次第。簡単ながら現在までの経過を記しておきたい。6月15日頃この頃から画面上にちらちらとノイズが入るようになった。最初はさほど気にもしていなかったので、写真などは撮っていないがGPU(NVIDIA GeForce FX 5200 Ultra)を酷使する3Dゲームなどを起動すると必ずフリーズするようになったため、最初はソフトウェアの調子が悪いのかと思い、HDD上のデータを待避した上で0フォーマットしOSやアプリを再インストールしてみた。6月21日クリーンインストールなど何度やっても同じ症状のため、AHTを起動。最近のマシンには標準でついてくる純正のハードウェアチェッカーだ。RAMを1GB積んでいるからか、なかなかチェックが終わらないが最終診断は「ビデオRAMに異常がある」とのお告げだった。このときの写真が以下のような感じ。起動途中AHT起動中システムエラーAHT全景VRAMエラー報告6月22日こりゃどうしようもない、ということでAppleへ修理依頼。DiscussionBoardで同様の症状が出ているユーザーがいることを知っていたので比較的話はスムーズに流れたが「部品調達のめどが立たず、約1ヶ月ほどお待ちいただきたい」とのこと。Excelなど大画面の威力がふんだんに発揮される統計などで活躍していただけに、仕事にも(若干)影響が出ることになる。……以下、放置プレイ……7月24日約1ヶ月経つもののAppleからは何の音沙汰もないまま。遅れているのなら遅れているで進捗状況ぐらい連絡してもらいたいものだが、それすらもない。仕方がないのでちょっと時間を見つけて裏蓋を開けて基盤を確認してみた。どうやらウチの愛機もコンデンサが逝ってしまっているようだ。はっきりとわかるもので4つ。いずれも防爆弁が盛り上がっており、中から黄土色の電解液がにじみ出していた。長い間通電していないので固化しているが、ケース底部にも電解液が付着していた。それが以下の写真。ダクト上部付近ダクト左側ダクト左側(Alt.take)電源上部コイル付近電源コネクタ付近電源コネクタ付近(Alt.take)他にもGPUとおぼしきチップに付着しているべき熱伝導シートなどが一部めくれあがっており、相当の発熱があったのではないかと推測される。銅製ヒートシンク上部GPU?随所で「コンデンサが悪いのでは」という論調が目立つが、よほどの高熱でも加わらない限りコンデンサの防爆弁が盛り上がってしまうとは考えにくい。コンデンサ自体の不良というよりは、排熱機構に問題がある基盤設計上のミスではないかと考えている。相当熱かっただろうが、愛機は昇天直前でもファンが全開になることはなかった。G5(PPC 970)の発熱問題はあちこちで議論されるが、最近発表された省電力型G5は別としてもこのチップはどうやらケースに相当余裕のあるマシンにしか組み込めないと思われる。いずれにせよ早くAppleから何らかの連絡をいただきたいものだ。こうしている間にも保証期間は過ぎてゆく。保証期間の延長なども考えてほしい。設計に大きな変更がないのなら同じ問題の再発も考えられるので、可能なかぎり新品と交換してほしいのだけれど……。
2005.07.25
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