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中川五郎氏が自分のHPに『高田渡さんを送る会を終えて』と題してエッセイを書いていますので転載させてもらいます。 高田渡さんを送る会を終えて 2005年04月29日(金) 昨日4月28日は、小金井市公会堂での高田渡さんを送る会「自転車にのって ~ありがとう、渡~」。午後1時から8時半までの7時間半、定員800人ほどの会場に1400人近い人たちが来てくださった。みんな渡さんのこと、渡さんの歌が大好きで、彼に「ありがとう」、「さようなら」を伝えたい人たちばかりだった。「みんなで渡さんのことを思い、語り合い、渡さんに感謝を捧げ、渡さんの歌、渡さんへの歌を歌い、渡さんのために語りかけたり、演奏をしたりして、渡さんに別れを告げる場にしたい」と、八人の発起人たちは考え、ぼくは「渡さんや彼の歌を愛したみんなが集まって、ありがとうの気持ちを伝える7時間。渡さんと一緒に歌って来たたくさんの人たちが歌います。渡さんにお別れのお酒、お別れの一輪のお花を手向けたい人には、それを置ける場所もあります。渡さんの歌を歌って、みんなで渡さんに、ありがとうを!!」という呼びかけの文章を書いた。ところが最初手違いがあって、「追悼コンサート」と告知されてしまい(後ですぐに「送る会」と訂正されたが)、「コンサートなら何を見せてくれるのか?」といった反応もあり、ぼくと同じく発起人の一人となった佐藤GWAN博さんは、「コンサートではないのです。参加者みんなが高田渡の思い出を持ち寄り、お別れをする会にしたいのです。隣の人に『渡さんを知ったのはいつ?』と話しかけたり、『渡さんにこんなことを言われた』などと自由に話し合ったり出来る集まりにしたいのです。そういう時間をなるべく作りましょう。もちろんステージ上で歌う人もいますけれど、一緒に歌ったり好きにしてもらっていいのです。みんな参加者なのですから。ひとりでひっそり泣いている人がいたら、そっとしておいてあげたり出来る会にしたいのです。渡ならそうしてあげるでしょうから。渡が生きていたらニヤッと笑ってくれるような、そんな送る会にしたいと思っています」と、発起人みんなの気持ちを丁寧に代弁してくれた。 参加費の1000円も、コンサートの入場料ではなく、会場費やさまざまな経費など、あくまでも必要な経費を捻出するための最小限のお金で、呼びかけに応じて歌いに来てくれた人たちにも、そのスタッフにも全員一律に払ってもらい、当日は出演者の楽屋も作らず、特別扱いはしたりしないということで意見の一致を見ていた(当日になって、こんな簡単なことを徹底するのが、実は至難の業だということに気づかされたのだが……)。 果たして発起人のこんな思いが来てくださったみんなにきちんと伝わり、それをちゃんと実現できただろうかと、少し不安にもなるが、来てくださった人たち一人一人の悲しくも嬉しそうな顔、みんな大きな声で渡さんの歌を歌ってくれている姿を見て、思いどおりの「送る会」になったのではないかと考えている。とにかく会を催すことに関してはまったく慣れていない発起人たちのこと、打ち合わせと称して、いせやや笹の葉、のろやハバナ・ムーンで会っては、つい飲むほうに力が入ってしまったりしていたが、当日何とか会を終えることができたのは、そんな発起人たちを支え、リードし、重要な仕事をすべて引き受けてくださった、P.A.や照明、舞台やアルタミラ・ピクチャーズの人たち、そして志願して手伝いに来てくださったスタッフたちの力に負うところがほんとうに大きかった。スズキコージさんがライブ・ペインティングをすると前日にいきなり連絡していろんな材料を用意してもらったり(無理をしてでもやってもらってよかった。コージさんはベニヤ板三枚の大きさの渡さんの素晴らしい絵を描いてくれた)、当日の演奏でも、いきなりいろんなリクエストをしたりして、ほんとうにスタッフ泣かせのイベントとなってしまったが、みんな文句ひとつ言わず、とても頑張ってくれ、最良の仕事をしてくれた。みなさん、ほんとうにありがとう。 渡さんと繋がりのあるたくさんの歌い手たちが来てくれて、歌ってくれた。渡さんと繋がりのあるいろんな人たちが来てくれて、マイクの前で喋ってくれた。渡さんの息子の漣くんも喋ってくれた。誰が来てくれたと、ここではいちいち書かないが、来た人たちみんなが、それぞれ自分たちのやり方で、渡さんへの思い、「ありがとう」や「さようなら」を伝えてくれた。「送る会」は、八時半に終り、それから三々五々、吉祥寺ののろに集まって、二次会というか打ち上げのようなものが(どちらも「送る会」にはふさわしくないけど、それだけみんながまだまだ渡さんのことを共有していたかったのだと思う)、午前二時半頃まであった。そこで隣に座った鈴木慶一さんが、「最後はウディ・ガスリーの追悼コンサートみたいだったね」と、ぼくにぽつりと言ってくれた。 1967年にこの世を去ったウディ・ガスリーの追悼コンサートが、ピート・シーガーたちが発起人となって、1968年にニューヨークのカーネギー・ホールで、1970年にはロサンジェルスのハリウッド・ボウルで行なわれ、そのコンサートは当時二枚のLPアルバムとしてリリースされたのだ。そのアルバムをぼくは渡さんと一緒によく耳を傾けていたことを思い出した。慶一さんに言われるまで、そんなことはあまり考えなかったのだが、「そうか、渡ってウディ・ガスリーみたいになったんだなあ」と、初めて思ってしまった。釧路から武蔵野の自宅に戻って来た渡さんの最後の寝顔を見た時、「ギリシアの哲学者みたいだ」とぼくは思ったのだが、そういえばあの顔は歌と人と共に生きたウディ・ガスリーと同じ魂を共有している素敵な顔でもあった。「送る会」で、発起人たちは、歌いに来てくれる人たちの調整役として、時間に空きができた時に歌えばいいと、4時から6時くらいの間で歌うことになっていた。ところが思っていた以上にたくさんの人たちが駆けつけてくれて、時間の空きができず、結局いちばん最後にばたばたと歌うことになってしまった。ぼくはルー・リードの曲に歌詞をつけた「ビッグ・スカイ」を渡さんのために歌い、その前に27日の毎日新聞夕刊に掲載されたぼくの追悼文を朗読させてもらった。その文章にぼくは今の渡さんへの思いを込めた。その夕刊はもう入手できなくなっているので、最後にその一文を再録させてもらうことにする。高田渡を悼む 自分の人生の伴走者。しょっちゅう会っていなくても、話をしなくても、この人だけはいつも自分のそばを一緒に走ってくれていると思える存在。それが親友というものではないだろうか。人生にそんな同志、伴侶がいるのは、とてもしあわせなことだ。 ぼくの場合、それは高田渡だった。その人がいなくなってしまうという、あってはならないことが起こってしまった。 知り合ったのは1960年代後半、どちらもまだ高校生。当時日本で広がり始めたアメリカのフォーク・ソングが二人とも大好きで、会えばウディ・ガスリーやピート・シーガー、ボブ・ディランなど、フォークの先達の話を熱心に語り合った。 それぞれ自分の曲を作ったり、歌ったりしていて、渡は日本や外国の詩にアメリカのフォークのメロディを結びつけることで、独自のスタイルを築き上げていった。 自分のものではない添田唖蝉坊の演歌の詞と自分のものではないカーター・ファミリーの曲が結びついた「虱の旅」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。金子光晴の詩とミシシッピ・ジョン・ハートの曲が結びついた「69」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。シェフチェンコの詩とレッドベリーの曲が結びついた「くつが一足あったなら」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。 まるで違う二つのものを結びつけて、まったく新しい自分の歌を作り出す。高田渡には歌の錬金術師のようなところがあった。 そんな唯一無二の日本のフォークを次々と作り出しながら、高田渡は小さなお店から大きなホールまで、みんなに呼ばれるまま、40年近く、日本中を歌い回り続けた。 生真面目で、頑固で、照れ屋で、純情だった。だからみんな高田渡を愛した。欺瞞や作為、見せかけが大嫌いで、力あるものに寄り添い、威張る人間を許さなかった。だからみんな高田渡を愛した。 とんでもなく酒を飲むようになり、いろんな人たちにさんざん迷惑をかけた。だからみんな高田渡を愛した。人なつこくて、優しくて、寂しがりやで、人のことばかり思いやる大きな心を持っていた。だからみんな高田渡を愛した。 その渡が4月4日に公演先の釧路で倒れ、16日に還らぬ人となった。葬式なんかするなと渡は言っていたが、18日に近しい者だけで告別ミサをすることになった。場所は渡がいつも飲みに行っていた吉祥寺のいせやのそばの教会。誰にも知らせなかったのに、300人以上もの人たちが集まった。 そのミサで、今はミュージシャンとして大活躍している渡の息子の漣くんが、「とんでもない親父だった。年が経って、いいところばかり語られて、高田渡が美化されないことを願う」と、とても素敵なスピーチをした。余計なことかもしれないが、そんな心配はないとぼくは思う。 人と人生と歌を愛し、そのまっすぐさゆえみんなにさんざん迷惑をかけた渡の生き方は、これ以上はないと言えるほど美しいものだったのだから。 僕は送る会には行けなかったのですが、中川五郎氏の文章から雰囲気が伝わってきます。ありがとう渡・・・。
2005.05.05
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オーストラリア戦・・・ベストを尽くして欲しいですね日本代表の明るい表情に期待が持てます。それにしても・・・凄い選手もいるのですね・・・彼のプレーにも注目です。23日も楽しみです。
2006.06.12
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今日は高田渡氏の命日。 2005年4月3日、北海道白糠町でのライブ後に倒れ、釧路市内の病院に入院。 二週間後の16日午前1時22分、入院先の病院で心不全により死去した。 56歳没。
2020.04.16
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12月30日、今年も残すところ2日いよいよ押し迫ってきました。といっても、特にやっておくことは無し・・・カミさんが退職したので、おせちもカミさんに任せることにしました。今朝は冷え込んで、散歩コースの畑は霜で真っ白でした。
2017.12.30
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曇ってはいますが風もなく、穏やかな年の瀬の伊豆です。サクラとの散歩の後、片づけで出てきた大量のプラスチックごみを出してきました。いやぁ~朝から良く歩いた^0^;今年も残すところ3日・・・いよいよ押し迫ってきました。今年の『唄旅』を振り返って・・・12本目と13本目はダブルヘッダーで打ち上げ・・・。12月16日(土)地元修善寺『琴茶庵』と土肥温泉『Crazy Spot 31』賢朗さんを迎えてのライブでした。
2017.12.29
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