日々始まり

日々始まり

2009年12月11日
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 心の栄養というと、私の場合は、旅行や音楽鑑賞や演奏などですね。
感動は作曲家や演奏家の意識が自分の心に反射して起きること、魂を磨くとはそういうことかと。
演奏は全くの初心者ですが。この場合の充実感は、エネルギーの解放ですね。
その道を目指すのであれば、作曲家の意識を正確に写し取る技術と心は必要なのでしょうね。
のだめカンタービレの再放送を見ていて思いました。。


コノハナサクヤ姫
【よろしくお願いいたします。武道、茶道などは型が重視されます。心があってこそ型があります。
問答も神の心や宇宙人の心を自身の心に映し出すことだと思います。
作法は心であり、大切だと思いますが、それに拘れば心が消え、
外に自分を見ることになるようです。
そうすると問答もできません。型とはどのようなものなのでしょうか。】

ほほ、型に拘り続ければ、自由はなくなる、堅苦しいということよの。
自由とはどのような型にも合わせられるということじゃ。
心の姿が型になって現れるということよの、
それ故、日本人は着物から食事に至るまで、全てを型として守ってきたのじゃ。
道が礼に始まり礼に終わるのもそうじゃ、自身の心を相手に見せるということよの、
それは自身の心を相手の型に見ることに他ならぬということじゃ。
型が互いの心が留まる場所になるということよの、その場所で心を通い合わせるということじゃ。

【礼節には得も知れぬ緊張感と清涼感があります、心の姿を態度で現すということだと思います。】

礼とは刀じゃ、自身の心に立ち向かう刀ということよの。
切っ先は自身だということよの。そして身を清めるということじゃ。
刀に写るのは自身の真の姿だということじゃ。

ほほ、形に拘らずとも心は伝わるものじゃ、
態度がよくとも、心はそうでもないことも伝わるということよの。
心を隠すことはできぬということじゃ。
型とは移ろう人の心を留めておくためのもの、型に心が宿るということじゃ。
道中において型は、その心を持っていく台座ということよの、
それに乗って心が運ばれていくということじゃ。
礼で終わるには、道中、心が運ばれることが必要じゃ。
そうして日本人の心は今まで運ばれてきたということよの。
運ばれた心はそなたたち自身の心だということじゃ。

【八百万の神々という万物に神が宿るという日本の意識が型になっているのでしょうか。】

水が静まれば鏡となり万物を映し出すよの、映し出すものを選んだりはせぬ、
それが神であろうと何であろうと、水は拘ることはないということじゃ。
型に拘らぬというのは、水と同じだということよの。
心が静まれば、それに映る姿は何であろうが、拘らずともよいということじゃ。
水は光を反射させるだけよの、心も自身の意識を反射させるだけじゃ。
それ故、万物には神は宿らぬ、自身の心が宿るということよの。
人は自身の真の姿を万物に見て取っていたということよの、その意識が型だということじゃ。

【ありがとうございます。】






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Last updated  2009年12月11日 13時02分04秒


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