日々始まり

日々始まり

2017年12月16日
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コノハナサクヤ姫


【宜しくお願いします。現実は意識、精神から創られると言いますね。人の学びとして、例えば、愛情を知る、命を知る、知恵を得るなど色々あります。学んだ事が結果とすれば、現実は学びのテーマを軸に創られていくとなります。現実がうまくいかないから精神世界に逃げるとなれば本末転倒ですが、精神を高めても、現実もうまく回るとは限らないのは、学びのテーマはそこにはないと言うことでしょうか。】


ほほほ、魂の世界の通りに、現実は叶えられていくのじゃ。
一人と二人、幾人との違いは、魂に住まわせておる他の魂との絆よの。


己の思いは、どこまでも広がっていくものじゃ。
限りない身勝手な思いは妄想の類いよの。
そこに創造などないであろう、魂の世界に閉じ込められ、くるくる回るだけじゃ。


絆があれば、思いは、絆を通して他の者にも伝わっていくのじゃ。
妄想を越えて、思いは魂に響きあうのじゃ。
研がれていない魂では、響かぬであろう、学びとは、研ぐことよの。


響きあえば、相手の理念、精神とも響きあう。
真理を知る相手であれば、その真理が己の魂に移ってくるのじゃ。


絆があったとしても淀んだ魂の相手であれば、己も淀む。
まあ、魂の同化というかコピーというか、類は友を呼ぶということよの。


悦びも、悲しみも、響きあうゆえ、学びになるのじゃ。
響かぬのであれば、相手が今、悲しんでおることさえ分からぬ。


悲しみを共にすれば、己も悲しいであろう。
つまり一つ、また悲しみを知ったことになるのじゃ。


己の学びは、繋がる相手の学びよの。
絆を深めようともせず、相手に求めるだけでは、現実は空回りするだけじゃ。


現実はあくまでも人と人の関係よの。
己だけの世界でいくら精神を高めようとも、何も動きはせぬ。


相手の気持ちを理解しようとすること、精神の世界に限ったことではないであろう。
むしろ現実そのものじゃ。それすら忘れておるのであれば、何も言えぬよの。
テーマなど高尚なことを言わずとも、ありのままの暮らしそのものが学びじゃ。


そなたのように現実を超えた精神に浸かっておるものは、その道を究めていけばよい。
が、それとて現実に落とし込むことをせぬのであれば、妄想と大きく違いはないであろう。
落とし穴は、そこにあろう。いつでも現実を見据えておることよの。


【ありがとうございます。】





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Last updated  2017年12月16日 14時25分16秒


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