いつ だい むらた せいふう
逸 題
村田清風
なん さいわい せい う にちいき う わす なか ぞうじ いちちゅうせい
何の幸 か 生を稟けて日域に生まる、 忘るる勿れ造次も一 忠誠。
こうべ めぐ きんこ しんゆう おお たけのうち ときむね りん しへい
頭を回らせば今古 親友 多し、 武内 時宗 林子平。
詩文説明
有り難いことに人と生れてしかも日本人である。よって、つかの間も忘れてはならぬことは、天朝に対する忠誠である。思い巡らせば、我らが古きより同胞には、まことに尊敬すべき人が多かった。三韓を征伐した武内宿禰、蒙古を撃退した北条時宗、敢然として国防を説いた林子平などがそれである。

● 武内宿禰
武内宿禰は景行天皇(第12代、政務天皇第13代、仲哀天皇第14代、応神天皇第15代、仁徳天皇第16代に仕え懐妊していた神宮皇后と共に朝鮮半島に出兵し神功皇后を多いに助けたという。帰国後は皇后の子を我が子のように可愛がり、養父のように尽くしたという伝説の人。年齢も295歳だったといわれます。
(私も或る歴史小説を読んだ時、時代が変わっても同じ名前が出てきまして間違いだろうと一笑しましたが考えてみると、歌舞伎世界のように代々名を継いでいったのではないでしょうか)。

1、武内宿禰画像。 2、福岡市東区の香椎・武内神社
3、福岡市名島には神功皇后が三韓征伐に行った時の船に使用した帆柱の化石があります。その説明板。

1、博多に蒙古襲来図。 2、蒙古軍を防ぐ為に作られた今に残る 今
津の元寇防塁 3、福岡市祖原元寇戦跡碑。
● 北条時宗
アジアからヨーロッパまでも征服していったモンゴル帝国のチンギスハンの孫のフビライは野望に燃えて日本の九州博多に2回も攻め寄せてきた。これに対抗して敢然と立ち向かったのが北条時宗(相模太郎)で、元軍の上陸を防ぐ為に博多海岸に幾つもの防塁を築き敢然と戦った。暴風雨も起り元軍は壊滅した。
● 林子平
江戸中世期の経世家、父は旧幕臣、兄が仙台藩子となったので仙台に移り以来度々藩に経済・教育政策を進言。長崎に3度遊学、蘭学者と交友海外事情に通じ特にロシアの脅威に備え蝦夷地の開拓を行う必要性を説いた・「海国兵談」により幕府に忌禁固。著書「三国通覧図説」などある。

1、村田清風画像。 2、山口県長門・村田氏清風生家「三隅山荘」萩藩萩3、城の桜 4、村田清風が通った藩校明倫館跡(現在明倫小学校)では優秀な成績で学費免除となった。
作者 ● 村田清風
天明3年(1783)長州国大津郡三角村沢江長州藩士村田光賢の長男として生まれる。名は順之、清風。号は松斎、梅堂。藩校明倫館では成績優秀、明倫館書物方となる。藩主毛利敬親のもとで藩の財政再建に取り組み財政を立て直していった。教育にも力を注ぎ、学問所 「三隅山荘」 を建設、明倫館の拡大も行い「海防糸口」など多くの著作も記した。享年73歳、病没。