かごしま かくちゅう さく かめいなんめい
鹿児島客中の作
亀井南溟
た いえ しちく くうめい さん こかく ろう よ むご じょう
誰が家の糸竹か空明に散ず 孤客 楼に倚る夢後の情
こうげつ なんめい なみ おどろ あき たか いっぴゃくに とじょう
皎月 南溟 波 駭かず 秋は高し一百二の登城
詩文説明
どこの家で奏でているのか、琴や笛の音が月光に照らされて明るい夜空に広がっていく。いま、夢から覚め、孤独の旅人である自分が、旅館の欄干に持たれて、この調べを聞いていると、旅愁を掻き立てられ。見渡せば、月は皎々と照り渡って、南方の大海は波もなく穏やかである。この百二の都城を持つ鹿児島に、秋空は高く澄んでいる。

1、夢の中で琴や笛の音が聞こえていた
2、目が覚めて、どこの家で奏でているのだろうかと旅館の欄干に持たれながら聞いていたが、
見渡せば月が晧々と辺りを照らしていて秋空は高く澄んでいて大海も至って穏やかで郷愁
を掻き立てられた。
3、亀井南溟画像
作者 亀井南溟
(1743~1814)
寛保3年(1743)現福岡市西区姪浜の医師の家に生まれる。名は魯、南溟は号。14才の時から佐賀、下関、大阪に遊学。僧大潮元皓や医家永富独嘯庵に学び博多に帰った。朝鮮通信使一行が来た時、接待使の1人として参加、自作の漢詩を示したところ絶賛され評価を高めた。その後父と共に唐人町(中央区)に医院学塾を開業。36歳で儒医兼務として士分となる。後、藩校の学問所西甘棠館の初代館長となる。朱子学派藩校修猷館に対し荻生徂徠学派を教義とした。志賀島から「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土し、これを検証、後漢の光武帝が奴国王に授与したものと断定し猶一層名声を高めた。寛政10年(1798)唐人町の火災で甘棠館をはじめ亀井家の全てが焼失、甘棠館は再建されず喪失。文化11年(1814)又もや原因不明の出火により家と共に焼死享年72歳。
「漢委奴国王」・「委」は日本に対する古い呼び名。「奴」は福岡平野を中心とする当時の小国名。「漢」は当時の世界国家であった漢の皇帝は漢に帰属し軍事や功績があったり貢物を持ってきた国に金印を与えていた。
1、福岡市唐人町にあった西の学問所・甘館棠跡地
2、藩校・西学問所跡地に建てられている説明案内板
3、志賀島から出土した金の塊を後漢の光武帝が奴国王に授与した金印と断定し世間をうなら
せた。