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フジモリのペルー召還をチリ最高裁が21日決定し、22日自宅近くから身柄の引渡しが実施に移されている途中だ。ただ、22日早朝、フジモリのチリ自宅近くからフジモリ氏を乗せたヘリコプターがペルー機が待つ空港に向けて飛び立った。彼には汚職、人権侵害など12もの容疑がある。フジモリもバカだね。日本にいたら身柄の引渡しをされることにならなければならなかったのに。この2年日本での立候補などで著しく株を下げた。これも元大統領を裁くというのはペルーが成長したことを思いたいけど、同じく汚職の疑惑のあったアラン・ガルシアを誰が裁くのか?ペルー司法当局に明確な証拠を示してフジモリを公平に裁けるのか?さてフジモリ氏ペルー到着を私は見届けることはできないけど(仕事でね)、今後の動きが楽しみ・・。
2007.09.22
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今日は踊りのクラスのはしごをした。午後6時30分からコンテンポラリーダンス。その後8時からサルサのワークショップに・・両方ともうちの近所・・。8月からマリネラ・ノルテーニャのクラスにも行っていなくって体が思い切りなまってきて、なんか太ももやウェストにブヨブヨ感がでてきてあせっていた。ちょうどコンテンポラリーダンスの教室開催のポスターを見て早速見学に・・。エアロビクスなんかは柔軟性を養わないけど、バレエ系の踊りは柔軟性も機敏性も養うし、コンテンポラリーダンスは頭のてっぺんからつま先まで、全身の筋肉の隅々まで使うのでいっぺんに気に入ってしまった。でも・・初体験・・。残念ながら今月は忙しいので授業一回毎にレッスン量を払うことにした。先生はニューヨークでダンスを習ったことがあるとか・・。経験者の動きを真似をする。でも複雑な動きはない。けっこう簡単についていけた・・。ただまだ機敏さにはかけているけど・・。でも次にいけるのは10日後・・。覚えたこと忘れちゃう~。そのあとはすぐにサルサのワークショップに・・。リマからやってきたペルー国内チャンピオン・・。意外に動きは簡単・・(所詮ペルーか・・)。ショーも・・う~ん、いまいち・・うまいとは思えなかった・・。リマからやってきたサルサのうまい人と踊ってもらう。クスコじゃろくなサルサは踊れないけど・・。今日は久しぶりに回ってしまいました。さて何回回ったことやら・・。途中、足に身が入ってることに気づいた。でもたぶんサルサが原因ではない。原因はコンテンポラリーダンスだ・・。ワークショップ後のサルサのパーティはまだまだ朝まで続くらしいけど、明日から仕事なので早々に退散。これから9日間休みなし・・。明後日はマチュピチュだけど・・。無事に歩けるだろうか・・。いい汗かいたけど、なんかちょっと不安・・。あ~、次はいつ踊りに行けるかな?
2007.09.11
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以前にも日記に出てきた岡山弁でガイドするペルー人、W。49歳。心理学も専攻していたということで、たまに心理コンサルタントもするらしい。クスコに17歳の息子がいる。日本に昨年生まれた息子(息子の母親がペルー滞在中の3ヶ月弱の間に仕込んだ)がいて、一応仕送りをしているらしく、送金方法で悩んでいたこともあるらしい。前に彼が自宅にガイド連中(なぜか女ばかり)を食事に招いたとき、私は最後まで残ってその息子の母親(彼女がクスコに滞在中に面識ができた)とWEBCAMを使用してのチャットをさせてもらったことがある。若いころからプレイボーイだったと嘯く。自分はモテルと思い込んでいるようで、そんな彼になびかない私が信じられないようだ・・。苦学生で、4つ星ホテルで働きながら国立大学で文化人類学を勉強していたが、その多忙の中でも複数の女性と付き合っていたというのが彼の自慢らしい・・。「昔ね、学生時代に恋人がいたんだけど、その女が実は俺の親友ともつきあっていたんだよ。親友と、おもわず、”お~、兄弟”って。ハハハ、」その元カノジョが開いたというサン・ブラス地区のバーに友達たちといった。古い町並みが残る一方で、外国人が多い地区、外人向けのおしゃれな店が多い。カノジョの店もインテリアが垢抜た感じで、外国人観光客も集まりそう・・に思えた。でも、集まっているのはメスティーソばかりのジモティーな連中。店のの雰囲気に似合わずワイノ(クスコ周辺の民謡)がかかっていた。紹介されたバーのオーナー、くだんの元カノジョは決して蓮っ葉な感じでなく、やや派手な感じだが仕事もできそうなしっかりとした女性とみうけられた。いかにもペルーの田舎~って言う感じのBGMをバックにみんなで飲んでいると、結構美形の青年が近づいてきた。年のころ、24,5歳ってとこかな。真面目そうで勉強とか仕事ができそうに見えた。「僕の母とつきあっていたときいたんですけど、何年ぐらい前につきあっていたんですか?」「う~ん、XXXX年ぐらいカナ?」「そうですか~」がっかりしたように立ち去る青年。彼が去り際に小声でつぶやいたのが聞こえた「No es……(・・じゃない。)」げぇ?じゃ、ないって・・。ひょっとして・・「No es …..MI PAPA (僕のパパ・・・じゃないって)こと?父親探しをしているの?残念ながらWには彼女の夫については聞けなかった。母親は息子に、昔Wとつきあっていたと言ったのだろうか?母親が親友同士ってわかってて二股かけられるような下半身の持ち主であることは知っていたのだろうか?真面目そうに見える母、健全に育ったように見える息子。しっかりとした絆で結ばれているように親子。でも、父親は?母子の絆が強いラテン社会。あっけらかんと複数の男性とつきあい、寝、気づいたら孕んでいて・・。さて父親は誰?そんなのなくっても母方の家族がしっかりとデキチャッタ子どもを支えていくんだ。当たり前の子として・・。これって、きっと氷山の一角なんだわ・・きっと。男女関係に限らず、この国親子関係も摩訶不思議に見えてきた。ラテンアメリカ家族と社会元気の源!ホルモンバランスを整える!『生マカ原末 カプセル』 90カプセル
2007.09.08
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ピスコ地震から一週間経ってから行った3つのコンサート。地震のことを語ったものと、語らなかったもの。コロンビアのグルーポ・ニチェとペルーのエバ・アイジョンはコンサート中で地震について語っていた。なにしろニーチェのコンサートは地震発生二日後に予定されていたのが死者を悼む日になってしまったために延期。地震に触れざるをえなかった。コロンビアも火山国、地震国なのでどうしても地震には触れざるをえない。黙祷が行われた。エバのコンサートもそう・・。ペルーの国民的歌手のコンサート。地震について触れざるをえない。ここでも黙祷があった。でも、キューバのダンデンのコンサートでは黙祷がなかった。で、どのコンサートが一番良かったか?なにしろ黙祷のあとなんかしんみりしてテンションが下がってしまう。沈黙のあとに再びノリノリになろうとしてもかなり無理がある。とくにサルサのようなハイテンポノ明るいジャンルは特にそう。グルーポ・ニーチェがやった黙祷はテンションを下がらせたと思う。結構長い時間していたし。どうしても触れざるをえない状況にあったのでしようがなかったけど、ニーチェのコンサートで間延びがしたのは事実。エバ・アイジョンのコンサートでの黙祷。ロマンティックなワルツのなかでの黙祷はテンポ的にもあんまり影響を及ぼさない。で、キューバン・サルサは・・黙祷もなく・・突っ走った。息もつかせず突っ走った。自分たちのスタイルを貫いた。キューバには地震はないのだろう・・。ハリケーンはあるけれど。地震の被害者を悼んでコンサートの流れを壊す必要性はない。3つのコンサートでどれが一番良かったか・・それはキューバのダン・デンだった。黙祷のあるなしに関係ないのかもしれないけど、コンサートの流れを維持したダン・デンがやはり最高に輝いていた。「闇の不安」から開放してくれる!100時間ろうそく(CL-100S)【防災用品・防災グッズ/ローソク】
2007.09.06
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7年前に初めて見たとき、「お嬢!!」と思わず声をかけそうになった。まだバックパッカー旅行中、チクラヨに立ち寄ったときにエバのコンサートのポスターを眼にし、遺跡見学をやめてコンサートに行くことになった。間近に見るエバの姿に美空ひばりの風格を見出したのだった。ペルーに来る衝動を与えた唄。8年前の日本で当時名も知らなかったアフロ・ペルアノの曲を求めていったラテン音楽専門店。オーナーが進めてくれたのがエバ・アイジョンのCDだった。“Esta es mi tierra”の歌声に「そうだ、ペルーに行こう!」あれから7年。エバのコンサートは2001年にボリビア、ラ・パスでのロス・カルカス(世界的に有名なフォルクローレグループでボリビアNo1)の結成30周年コンサートでのゲスト出演(カルカスのメンバーにアフロ風の腰回しを強要していた)、2002年クスコのFestival de cusco、昨年のリマでのマーク・アンソニーのコンサートの前座で見ただけだった。私の記憶に間違いがなければクスコでは5年ぶりのコンサートになる。ペルーには意外に無名なスサーナ・バカがアメリカに移住し、ラテン・グラミー賞をとって成功したのに負けじとエバもアメリカへ。ラテン・グラミーはまだノミネートどまりだ。でもペルー人にそんなことは関係ない。クリオジャ音楽、アフロペルアノといえばエバ。ペルーNo1の歌手はエバ・アイジョンなのだ。入場券は前の週の土曜日にパブでのライブでの踊りのコンテストで勝って入手した。会場はJardin de la Cervezaと並ぶコンサート会場体育館Coliseo cerrado (Casa de la juventud).でも、席は一番安いスタンド席。アリーナ席、舞台からは遠い。う~ん、下に降りたいわ・・同じ会場で行われたマリネラ・ノルテーニャのコンクールを思い出したりして。あのへんで踊って~、表彰台にのぼるまであそこで待って~、なんてしみじみ思い出していたりなんかして。よかったビデオカメラを持ってきて・・。ちゃんとアップも撮れる。前座はボリビアの無名女性フォルクローレグループ。興味なし・・。アフロペルアノで始まったエバ・アイジョンのコンサート。カホンはエバ・アイジョンの伴奏で必ず出てくる奏者。ボンゴ、カスタネット(カスタニュエラ)、コーラスはテレビの“Mediodia Criollo“でおなじみのパーカッショニスト。いつもニコニコとカホンやカスタニュエラやコンガを叩くので結構人気者。この人ね基本的にカホン一台だけだけど、ワルツやアフロのとき、出だしだけカホン2台になることがあった。コンガ奏者が出てきて、カホンを叩いて歌に入るころにはすぐにコンガに戻るということもしていた(イントロや間奏でカホンがアクセントをつけることがワルツや特にマリネラで多い)。ワルツの他、アフロ系のランドやプレゴンのリズムを貴重にした新曲も披露した。でも聴衆は聴きなれた曲を聴きたがっていた。“Mal Paso~!!”聴衆がエバのLos Kipus時代の名曲をリクエストする。ペルー一の歌手になっても、かつてのグループ時代の北部のワルツの名曲のイメージが強い。途中、ピスコ地震の被害者に対する黙祷が捧げられる。2分間の黙祷・・。でも現実には1分もかからなかったような。グルーポ・ニチェのコンサート時のときより短かったぞ。有名な曲になるとみんな声を合わせて合唱する。みんな私の後について歌ってね」といっておいて、曲が流れ出すと、彼女は黙ったままで、聴衆皆で大合唱。「誰が先に歌っていいって言ったの?」そのタイミングはさすが・・。途中、今回のクスコでの滞在について語り始める。「いつもは到着したらすぐコンサートで、終わったら“ハイ、サヨナラ”だったけど、今回はゆっくりとさせてもらっているの。あの豪華なモナステリオホテルに泊まらせてもらっているし、朝早く起こされて、汽車に名が時間も載せられて人ごみを抜けていったらね、そこには・・マチュピチュがあったのよ!」「でもね、クスコでがっかりしたことがあるの。ある日教会に行ってお祈りを捧げようとしたら、入場券買いました?“って。失礼しちゃうわね。これでカトリック教徒が一人減ったわよ」クスコをテーマにしたワルツの作曲をホセ・エスカハドリージョと企画中とか・・途中のアフロでコンガ奏者が出てきてサパテオ・クリオジョを見せた。エバはますます成長している。アメリカ在住でブルースとかサルサなんかも歌っているらしい。観客がなんというか未熟っていうか・・古いイメージばかり求めるんだよね。終盤はLos Kipus時代のワルツになるとがぜん盛り上がってきた。憧れの歌手のコンサートだったけど、箱が大きすぎて・・盛り上がりきれなかったね。そういう意味で観客、会場、コンサートの企画のバランスってすごく大事と思う。最後はアフロペルアノのフェステホで締めくくってコンサート終了。トンデーロやマリネラを歌わなかったことに多少不満が残る。さて、その後はかつての恋敵とセントロに・・私は再びDan denのいるレストランDon Antonioに行こうとすると彼女は自分の夫の演奏する別のレストランに行った。仕事でよく来るレストランにそうっと入る、まだ演奏中だった。ボーっと立ってみていると、コントロールの人に「入場料15ソーレス」って言われたけど、顔見知りのウェイターが「彼女、ここで働いていから」と通してくれた。「踊っていったら~」といってくれたけど、そのとたんにコンサートは終了になった。バッテリーがなくなったビデオカメラ。でも記念撮影したいDan Denと写真を撮りたい。同じメーカーのビデオカメラを持つ他人からバッテリーを借りて、バルベリータと撮影。そのあとは行きつけのパブに・・スナックバーのコーナーに行くと、今演奏していたばかりの黒人パーカッショニスト2人が!思わず、バーの人のデジカメを借りてメモリーカードだけ入れ替えて記念撮影。う~ん、私って運に恵まれている♪午前3時就寝、午前5時起床。そしてマチュピチュに向かったのだった。tycoon(タイクーン) 小型カホン CJ-18※お取り寄せ品です!♪フラメンコカスタネット CA-13PRO
2007.09.05
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高山病にならないか心配したくらいダンデンはテンション高かった。急遽決まったかコンサートの告知は前夜ニーチェのコンサートの前にチラシをもらって知った。フアン・カルロス・アルフォンソ・イ・ス・ダンデン(Juan Carlos Alfonso y su Dan Den)ねぇ~。なんでこのグループこんなに人気があるんだろう?Mi CuerpoにしろPor telefonoにしろ歌詞が幼稚だし~。チャランガ・アバネラとかロス・バンバンのようなティンバが入ったガンガン行くサウンドが好きな私にはシンプルなダンデンの曲は退屈・・。そのシンプルさ、わかりやすさがペルー人に受けているんだけど・・。でも行こうかしら・・。キューバだし・・。入場料15ソル?ペルーじゃ大人気のグループにしては安すぎない?50ソーレスだという噂もあったけど、電話で確認するとやっぱり15ソーレス。臭う・・・くさいぞ・・。以前新聞でキューバ・ペルー友好の家なるものがペルー全国各地にできているのだという。クスコでも近頃キューバ映画の上映会が開かれるようになった。このキューバ友好の家の主宰だ・・。新聞ではカストロ、チャベス(ベネズエラ大統領)、モラレス(ボリビア大統領)といった共産主義拡大の先鋒なのだといった論調だった。この安すぎる入場料にキューバ、ベネズエラ、ボリビア共産主義拡大包囲網の運動が見え隠れしてなんかいや~な気がした。キューバに旅行して、キューバの音楽のとりこになっても、キューバの政治には疑問を感じた私・・。カストロ信奉者にはなれなかった・・。さて、それはともかく・・。この週末は仕事がないし~、夜までのんびり読書をしながらすごそうとしていると・・会社から電話が・・明日の便の到着時間って・・。仕事?聞いてなかったわよ~~~!!でも、コンサートに行く意思は変わらない。深夜11時、家から徒歩で5分弱のアベニダ・エル・ソルのCaosへ行く。どちらかといえばロック系のディスコ。せっかくキューバのグループが演奏するにもかかわらず、普通のロック・ポップ、サルサがかかっている。キューバと言えばヘミングウェイも飲んだというモヒート。ドリンク・メニューにあったので頼もうとしたが・・できないって・・仕様がないので「自由なキューバというのはウソである。だってキューバには自由はないから(Cuba libre es una mentira, es que en cuba no existe la libertad)」なんてつぶやきながらキューバリブレを頼む。11時30分開始の予定が12時15分にコンサート開始。舞台奥の幕があげられると、そこにはRon Cartavioの文字が・・。カルタヴィオ12年 1929なんでペルーのラム酒が!キューバといえば、ハバナクラブでしょう?カルタビオはペルー北部、トルヒージョ近くのカルタビオの町で作られている・・。トゥルヒージョといえば・・踊りはマリネラ・ノルテーニャ・・。日本だったら普通キューバイベントと言えば
2007.08.30
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週末連続コンサート通い第一弾のグルポ・ニチェのコンサート。これが・・最低だった。2年前に「クスコ初!」と銘打ってコンサートが行われたが、それから3年連続やってきている。「新曲も出ないし、もう人気落ち目なのよ。だからクスコのような田舎に毎年通ってくるんだわ」あの会場の雰囲気。観客もだめなんだよね。前座の演奏のあと、司会(animador)が「みんな、サルサ好きかあ~」「Si~~!」うそ~~~!!サルサよりもチチャやテクノクンビアのほうが皆動いているのに~・ホントはサルサよりもクンビアやチチャがすきなんでしょう!思わず、突っ込みをいれてしまった・・。クスコを代表するコンサート・イベント会場、ハルディンデ・ラ・セルベッサ(jardin delacerveza ビアガーデン?)野外のこの会場はだいたいにおいて音楽を楽しむ場所ではない。Jardin de la Cervezaはビール会社の所有で、コンサートでビールをがんがん売りまくる。数年前まであった毎年行われていたFestival Internacional de cuscoなどもこの会場で行われていた。ビール会社の主催で・・かつては有名なアーティストがきていたようで、セリア・クルス、DLG、インディアなどもきたそう。5年前にこのfestivalに言ったことがある。サルサのジェリーリベラとエバ・アイジョンを目的に。日本にいたころからペルー人の友達にフェスティバルのうわさを聞いていたので楽しみにしていたけど、観客のほとんどにとって有名アーティストの歌はBGMでしかなく、ひたすら友達連中と飲んで騒ぎまくる有様を目の当たりにして大変失望したのを覚えている・。この会場は音楽を聴くところではなく、酔っ払う場所だ・・・。それでもまた来てしまった・・。それに会場が大きすぎてアーティストが見えにくい。コンサートの出だしはヒット曲のイントロのメドレー、”Una Aventura”とか”Cali Pachanguero”なども聞かれた。Una Aventuraはサルサにはまり、ラテン人生にのめりこむきっかけになった曲の一つでもある。10年前に大阪の帆船祭りでコロンビアの船でボランティアをしていたころのことを思い出し、一瞬しみじみとしかけた(過去日記参照)。・だが、コンサートの中身は新曲もなく、世界的に有名なグループが観客にこびているような雰囲気があった。歌っているときの振り付けなどは、相変わらずゆったりとターンをし、決して速くは動かない。そのゆったり感、落ち着きがベテランの貫禄~という感じがした。それは今回も健在。途中、今回のピスコ起き地震の被害者を悼む黙祷があった。このコンサートは本当は6日前に予定されていたが、思わぬ大地震発生と被害の拡大に、コンサート予定日が国中が喪に服する日に急遽きまり、延期となっていたのだ。グルーポ・ニチェの出身地、コロンビアは今回の大地震で真っ先に救援物資を送った国の一つ。ウリベ大統領が救援物資を載せた飛行機で一緒にやってきて連帯と支援を約束したりなんかもしている。過去2回のクスコでのコンサートでは常に大人の雰囲気を漂わせ、貫禄を見せていた。でも今回はまったく勢いがなかった。なんか疲れているような感じだった。途中、メンバーを引っ張り出して腰を回させたり、なにか芸当をさせたりし始めた。そんなのをニーチェがするのを見るのは初めてだった。下品な雰囲気が漂ってきた。まるで三流のテクノクンビアのグループのようだった。ニーチェも落ちぶれた。コロンビアの船でかかっていたグルーポ・ニーチェ。初めて聞いたあの日から10年が過ぎた。自分の人生を変えたニーチェはもうCDの中にしか存在しない。もう聞く価値がないと思った。もし来年クスコでコンサートがあっても・・たぶん、もう行かないだろう・・。ペルー最王手のビールメーカーのビール。お得な大瓶サイズでどうぞ。クリスタル CRISTAL (620ml...ラティエンディータ ~世界のお酒と食品をネットでお取り寄せ~
2007.08.29
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8月22日にマチュピチュ・ヒストリカル・サンクチュアリ(Santuario HistoricodeMachu Picchu)~内で起こった山火事(incendio forestal)は無事、25日に鎮火された。山火事の原因はまだ調査中。鉄道線路97キロメートル地点の川沿いから、104キロメートル地点付近の山の斜面上部まで250ヘクタールの植生がが焼失した。山火事後初めてマチュピチュへ行ったときに汽車の中から撮った写真。ウルバンバ側左岸の山肌が無残に焼け焦げている。マチュピチュ遺跡の周辺32592ヘクタールがヒストリカル・サンクチュアリーとして自然保護区になっていて、その範囲がそのまま世界自然・文化遺産になっている。自然保護区の面積はペルー国土の400分の一に相当するが、ペルーに生息する動植物の種の10分の一にが生息すると言う。その貴重な自然を守るために、自然保護区は焚き火が禁止されている。過去にも何度も山火事にあってきたヒストリカル・サンクチュアリー。このままでは世界遺産の貴重な植生のほとんどが二次林になってしまいかねない。法的には自然保護区としてのヒストリカル・サンクチュアリは農務省その下部の自然資源庁の管轄であるが、実際には自然資源庁とともに、文化庁、マチュピチュ区(区の範囲すべてがヒストリカル・サンクチュアリの範囲に相当する)が協同で管理、運営している。この鎮火にあたっては文化庁、自然資源庁、マチュピチュ区が協力し、パークレンジャー、軍隊、クスコの消防士が消火にあたった。観光客が必ず通るアグアスカリエンテスはマチュピチュ区のごく一部で、実際には名古屋市に相当する範囲内にあちらこちらに集落が点在するのだ。以前、文化庁職員のインタビューをしたとき遠隔地の集落の住民にラジオなどを通じて文化財の保護、自然の保護を呼びかけていると言っていた。しかし、こういった火事のあとにもかかわらず、マチュピチュからの帰途、汽車の中から家族、友達が集まってのフィエスタが野外で行われているのを目撃したが、その中で焚き火が行われているのがみられた。投げ消すサット119&家庭用天ぷら火災専用消化パック【送料無料スペシャル】
2007.08.28
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この週末はコンサート三昧だった。木曜日がコロンビアのサルサグループ、グルーポ・ニチェ、金曜日がキューバのサルサ、ダンデン、土曜日がペルーの美空ひばり、エバ・アイジョンのコンサートだった。ダンデンは日本ではあまり知られていないかもしれないけど、キューバ・サルサのなかではシンプルなサウンド(下手?)と、子どもっぽい歌詞がペルーでは大人気になっている。急に仕事が入ったりしたけど、私の夜遊びへの情熱、音楽への情熱は消えず、最終日のエバ・アイジョンのコンサートのあとはダン・デンとエバの追いかけを深夜に決行して、メンバーと写真を撮ることに成功。たったの2時間の睡眠で翌日はマチュピチュで行く羽目になった。眠気覚ましに当然、Red Bullを持って・・。Con Danden!コンサートの感想は後日・・。
2007.08.27
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ペルー、ガルシア大統領が本年度の経済成長率の見通しを7.9%から下方修正して7.6とした。今回のペルー地震の影響を受けてのものだ。先日、地震後初めて市場にアスパラガスを買いに行った。アスパラガスの産地と言えば、今回地震の影響を受けたイカ県。新聞でかんがい施設などが被害を受けたなどという報道を眼にしていたので、手に入るかどうか心配だったのだ。イカはブドウや綿。アスパラガスやアーティチョークなどの輸出向け農産物の産地でも有名。ワイン、ピスコなどのワイナリー、繊維工場、魚粉・魚油の工場などもある。。アスパラガス市場にあるのかな~。あっても値段が上がっていたり、一束の量が減っていたらどうしよう?クスコではアスパラガスは中華食材スタンドで売られている。。おばちゃ~ん、アスパラガスある?「あるわよ~」心配していたのよ。地震の影響でアスパラガスが入荷していなかったらって・・。束の大きさも変わっていないのでほっとした。地震のときには慎重にこうどうしなければならないけど、風評被害ということもあるように勝手に「XXは危ないに違いない」とか「XXは手に入らないだろう」なんて判断は控えないと。パッケージツアーのキャンセルが相次いでいる。ナスカの地上絵遊覧飛行が空路によるものまでキャンセルが行われているのだ。イカ市郊外の、砂丘で有名なワカチーナは自身で被害がなかったにもかかわらず、では観光客が来ないとぼやいていた。ラジオでアピールしていた。「みなさん地震の影響がないのできてくださ~い」重要な輸出産物と観光産業を抱えるイカ県。輸出が減り、海外からの観光客が減ることによって、経常収支にも影響が出てくる。税収の減少、経常収支の減少によって政府の財政に影響が出てきて、復興へかける支出が減ったり、公共事業の送れ、債務の支払いの遅延などにつながられては困る。無事に手に入ったアスパラガスを見ながら、イカは無事だ。ペルーは無事だ。勝手な推測は慎もうと言い聞かせるのだった。ペルーのお酒ピスコピスコサワーに!ソルディカ(750ml)
2007.08.25
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ペルー、ピスコ沖地震発生から一週間たった。「服とか、毛布とかあまっていたら寄付してね」と会社で言われたのが5日前、「服なんてあんまり持っていないし、毛布なんて自分用のがあるだけだし、寄贈できるほどもっているのは本だけなのよね・・・。」金銭の寄付は会社にして、それで食べ物が買われて救援物資となったけど、他に私ができることって・・。献血もできるかしら?でもどこで募っているの?それから3日後、なぜか仕事中に気づいた・・。私は寝袋を持っていたのだ・・・mont-bell(モンベル) U.L.スーパーストレッチ ダウンハガー#4 【スリーピングバッグ】【ギア】長いことトレッキングしていないので使っていない。友達に貸してばかりで当人はもう数年間使っていなかった。アドベンチャーなどを行うツアーオペレーターの多いクスコからはきっとテントや寝袋などの寄贈が可能だろう。【送料無料!】ベーシックで使いやすい!オルディナドームテント 6人用 (キャリーバック付) 外国人観光客が利用したり、寒く雨の多い山岳地帯で利用するには耐えなくなった古いテントでも暖かい砂漠ではまだ使用に耐えるかもしれない・・。そんなことを考えた翌日は仕事でマチュピチュに行っていたので寝袋の寄付に行くことができなかった。昨日メールチェックをしているときに気づいたクスコのガイド協会からのメール。“Convocatoria muy muy Urgente(非常に非常に緊急な招集)”という件名。さてはまたデモや集会の召集か?と思ったが、それは救援物資の寄付を募るメールだった。日付は8月20日。地震発生から5日後。どうして今頃?何が”非常に非常に緊急”なの!寄付を要求しているもののリストは以下のようだった。・ Techo y Albergue: Carpas, camas plegables, bolsas de dormir, etc.・ Ropa: Prendas de vestir livianas y de abrigo en buen estado o nuevas, frazadas, mantas.・Alimentos: Alimentos no perecibles (de larga caducidad y fácil cocción). Agua para beber.・ Herramientas: Linternas, pilas.・ Medicamentos: pastillas potabilizadoras de agua, botiquín de primeros auxilios.避難場:テント、折りたたみベッド、寝袋衣服;軽い衣服、状態のいい、もしくは新しい上着、毛布食物:腐らない食物 (賞味期限が長く、料理が簡単なもの),飲料水道具類: 懐中電灯、電池医薬品; 水浄化剤、救急箱内容はいかにもアドベンチャー系ツアーオペレータ&ガイド向け・・。水浄化剤って・・。昔、チョケキラオに行く途中でアプリマック川の水を錠剤で浄化したことがあるけど、砂漠の中でどこから汲んできた水を浄化するの?発生からもう一週間か・・・。寝袋を持っていこうかな?そしてちょうど一週間の今日お昼ごろ、ラジオを聴いていると、政府の救援発送情報が流れていた。毛布やテント食料がXX地区に何個送られた・・などという感じのものだった。すでに毛布が被災地に到着している。私の寝袋って必要かな?毛布のほうがたぶんありがたいかもしれない・・。これからガイド協会に持っていっても、寄付が集まって発送されて、到着にはもう少し時間がかかる。発生から10日以上経って寝袋が届いても使う人はいるのかな・・。被災者以外に渡っていしまったららどうしよう?もし寄贈のメールが地震発生直後に届いていれば、私だって寝袋を洗って、即座に寄付に行っていただろうに!今まで地震の際にどんな援助ができるかなんて考えたこともなかったものだから、地震発生時に寄贈の指針となる情報ってほんとに必要だと思った。それに必要とされる物資だって、刻々と変わってくるだろう。救援物資の寄付を続けていく上で欲しい情報。1.その時点で必要な救援物資と不要な物資の情報。2.救援物資募集の締切日・発送日、3.救援物資発送から被災地への到着までの時間。以上の情報が的確に提供されない限り、きっと無駄になってしまう物資がでてくるだろう。(ペルーに的確さを求めるのはどだい無理なことだろうけど・・)寝袋一個にいろいろなことを考えさせられた。
2007.08.23
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マチュピチュの一日あたりの入場者数が先日3000人を超えた・・。と、クスコの地元紙で報道されていた(正確な日付、入場者数は明記されていなかった)。「へぇ~。入場者数が増えてよかったじゃない!」っておっしゃるかもしれませんが、事はそう簡単にいかない・・。過剰な観光入場者は遺跡を傷めることになりかねない。後世に残すべき世界遺産であるとして、また利用可能な観光資源として今後も長年にわたって見学、利用し続けることが必要なのだ。過剰な入場者数は文化財保護の点だけでなく、観光資源の保護のためにもマイナスになりかねない。実際に2005年の文化庁のマチュピチュ・マスタープラン(基本計画)ではマチュピチュの入場者数一日当たり2500人までとされている。私も報道の真偽が気になって、8月13日の夕方にマチュピチュの入場口でその日の入場者数文化庁職員に訊ねると、2860人という答えが返ってきた。。マスタープランの入場者限度数を超えてしまっている。でも2500人だって十分多い。インカ時代(今から約500年前)にマチュピチュにどの程度の人口があったかというとだが、。クスコ大学の考古学者、マニュエル・チャベス・バジョンは1階建て 80戸 X4名 320名2階建て 40戸 X4名 160名その他の建物 16戸 X2名 = 32名と試算し、マチュピチュの人口を512名と計算した。アメリカの考古学者ジョン・ロウは住居を40戸とし、300人を収容できたと考えた。なかには定住者数を300人、インカ皇帝がマチュピチュを訪れたときには1000人まで人口が膨れ上がったとする意見もある。マチュピチュの人口ってそんなものだったの?おまけに最近の研究ではマチュピチュは第9代皇帝の御用邸であったと考えられている。NHKの番組は皇帝のエステート(estate=地所・農園)であったと表現し、クスコの冬の寒さを避けるために訪れていた場所としていた。これはたぶんジョン・ロウやリチャード・バーガーなどの説からとったのだるう。御用邸・別荘地、ようするにそこには定住者がそれほどいなかったことを示す。300~500人の人間がたまにしかマチュピチュに滞在しなかったことを考えれば毎日2500人を超えるという状況は収容人員を大幅にオーバーしているということになる。だったら、どうしたらいいんだろう?入場者数の制限をするべきか?入場料を上げる?文化庁は来年からのマチュピチュ入場料を60ドルにすることを提案している。地質学的にもろいこと指摘するペルー人地質学者は一週間に2日間休園日を設けることを提案した。しかし、休演日を設けると、他の日の入場者数が集中し、逆にマイナス効果でるのではないか?先週土曜日にディスコで3年ぶりに再会した友人。かつて観光学科の学生だった彼は大学院で観光を学ぶ傍ら、地方観光局にも勤めているのだという。そこで早速、彼にこの件に関して意見を求めた。「すべての入場者をガイドつきで見学させるようにするとかね・・・。でも、他にもいろんな策を今僕は考えていてね・・。これは遺跡内をどのように回るかって言うプランなんだけど。いずれ近いうちに関係者をあつめてのプレゼンテーションをするからね」ねぇ~。今、教えてよ~。「それはまだまだ極秘事項だからね。いずれ明らかになるから・・」周辺住民、観光業界の利益を阻害しない形で入場者数を2500人にとどめるにはどうしたらいいんだろう?もしよろしければみなさんの意見をお借りしたいと思います。マチュピチュおススメ本
2007.08.21
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サッカーのU-17ワールドカップが始まり、ペルーは初戦で韓国に1-0で勝った。そのゴールをあげたのがアロンソ・バザラル。ペルー代表を務めたファン・カルロス・バサラルの息子である。しかしこの子息。ゴールをあげたときに信じられないポーズをとった。高級紙“El comercio”8月18日のスポーツ版一面トップ。チチャ紙(大衆紙)によっては、そのまま一面トップになっている。目じりに両手をあてて引っ張る・・・ラテン系がアジア系人種に対してよく見せる侮蔑の仕草。アジア系に対する侮蔑としては「チーノ(chino女性形はchina)」という言葉もある。Chinoとはスペイン語で中国人を本来示すが、ときに東アジア系人種全般をさし、眼の細い人をさすこともある。後者の場合、ときに侮蔑の言葉としてときに友達同士の愛情表現として使われる。通りすがりの人に小声でチーナといわれた場合は明らかな侮蔑。チーナということばや目じりを引っ張る仕草に対し、何度も抗議したことがあるが、「ペルーでは普通に使われているから」「愛情表現だから・・」などとごまかされる。人権保護、人権教育が進んでいる先進国ではそれは差別表現だから、あなたがたも学びなさいというと、「お前はクレージーだ」「ここはペルーだ。ペルー人の勝手にさせろ」とくる。このあたりの感性・・・。ペルーは階級社会。人種間、地方間の差別はごくあたりまえにある。リマの人が地方出身者をセラーノ(cerrano山岳地帯の人)、チョロ(cholo先住民・白人の混血)と平気で侮蔑することがある。人権の点でまだまだペルーは遅れている。ただ国内だけでとどめておいたらよかったんだけど、まさか世界の舞台でやってくれるとはね。ちなみに前日の同紙のスポーツ版ではこのような写真も・・Say no to racism(人種差別にノーと言おう)韓国ではこの仕草をどう受け取ったんだろうか・・。反応なしですか?ペルーでは父親のインタビューも含めアロンソを特集しているけれど、このポーズに関しては誰もとがめていない。みなさんはどう思われます?こんなことされたら私だったら、頭突きをかましてやるよ・・。
2007.08.20
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朝、新聞を買う。一面に「行動を起こし、ペルー人同士が連帯するときが来た(Llego la hora de la accion y solidalidad entre peruanos)」の文字が・・。そして寄付金の振込み銀行口座が一面トップに掲載されている。もっとも被害の大きかったピスコの町の模様が掲載されていた。無残に倒壊した家々、棺、瓦礫の下の死体。病院兼死体置き場と化したピスコの中央広場。チンチャの刑務所が地震で崩壊し、囚人が逃げ出したペルー各地で救援物資の募集が行われている。クスコの地元テレビ局では救援物資寄贈の中継が行われている。テレビ局に救援物資を持って来た人をテレビで映し、場合によってはインタビューもするというもの。いいことをしているのをテレビで見せ付けるというのがラテン系の目立ちたがりの精神をくすぐるのだ。そして救援物資が増えるというわけ・・。午前中オフィスへ行った。イカの空港は無事でナスカの地上絵遊覧飛行は無事に行われているという。地震救援の寄付金を募っていた。恐ろしいことにそのリストには寄付者の名前と寄付金額がのっていた。A社長、40ドル、B、50ドルという具合に。みんな金持ちだねぇ~。手持ちがなかった私は午後に帰ってくると言ってオフィスをあとにする。家でニュースを聞く。チンチャやピスコで略奪(saqueo)が相次いでいる救援物資を積載した海軍ヘリが墜落したというニュースを訊いた。友達とチャット。今夜行われるはずのコロンビアのサルサバンド、グルーポ・ニーチェのコンサートが中止になったという。理由は「喪に服するため」ホントに?お金をかきあつめ、オフィスへ戻った。う~ん、今月は引っ越しで出費がかさんでいるし・・このくらいで許してもらおう。・。。、寄付金をオフィスの子に渡す。ドル紙幣で・・。「まあ、こんなに~!いい子ねぇ~。あんた」彼女が寄付金管理リストに私の名前と金額を記入する。それを改めて見て気づいた。50ドルと書かれていたのはペルーの通貨、ソルの間違いだったのだ。ペルーでは国の通貨ヌエボソル(略称 ソル)の他にアメリカドルが普通に流通してスーパーなどでも当たり前のように支払いに使われている。紛らわしいことにドルの略号はおなじみ$ヌエボソルの略号はS./似ているんだな、これが。しまった!社長についで2位の金額を寄付してしまった!慌てて取り消そうと思ったがとき既に遅し・・。その後、すぐオフィスではそれを持って、救援物資の購入に向かうのについて行った。「マグロの缶詰が食べやすいよな?」「缶きりなしであけられるのじゃないといけないわよ」日本のように乾パンとかカロリーメイトのような気の利いたのはここにはない・・。乾パンのような非常食がたとえ売っていたとしても、きっとひどく高い値段で売られて庶民には手に入らないだろう。卸売りの店でマグロの缶詰やビスケットを箱ごと買う。領収書にしっかりと社名と納税者番号を入れさせている。寄贈による減税でもあるんだろうか?それにしても塩味のクラッカーではなく甘いビスケットを積み込むあたりなんて・・。ミネラルウォーターのパックも山のように・・。ボトルや寄贈品の箱にしっかりと社名の入った紙が貼られていた・・。恥ずかしい・・。そのままテレビ局へ。トラック一台がとまっていて、すでに荷物が山積みになっていた。その山ズミニ成った荷台の上に学生とおぼしき若者が数人のっていた。「イカへぇ~!」寄贈の手伝いとボランティアに行くのだという・・。マジ?荷台に載って寒風に当たりながら旅するのはきつくないか?イカまで12時間以上の旅になるはず「私もイカに行きたいわ~」「そうねぇ~、私もチンチャ(イカ県最北端で黒人文化で有名な街)にモローチョ(morocho 色黒の人)探しに行こうかしら?」と冗談を飛ばし合っても、二人とも仕事でそれが実現できないのはわかっている。社からの積み下ろしの後会社の人がインタビューされていた。私も写るように引っ張り出されそうになったが当然断る。これって売名行為?あんまり愉快な話じゃないけど、なんだかいってクスコでは救援物資がたっぷり集まっているのは確かだ。寄付したお金がちゃんと物資になってテレビ局に届けられたところまでは確認した。救援物資が載せられたトラックの発車も眼にした。途中で略奪にあったり、ボランティアの学生やトラックの運ちゃんにくすねられませんように・・。イカについた物資が本当に困っている人の手に渡りますように・・。帰宅してテレビを見る。略奪が横行するピスコの町では空き巣を恐れて、救援物資を受け取りにならびに行くことができない人々がいる・・というニュースがあった。非常食にこんなのがあっても便利かな。ウィダーインゼリー 通常ケース特価!ウイダーinゼリー マルチビタミンイン 36個入り【送料無料!】専用アルミケース被災から48時間以内の想定される困難に対応災害時の単身者向け...さっぱり風味のヘルシーなツナ缶!カークランドシグニチャー まぐろの水煮 170gx8缶(1缶259円...
2007.08.18
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「うん、俺大丈夫だよ、こっちはなんともなかったから・・」マチュピチュから帰ってきて、夕食後のホテルの公衆電話では列ができていた。ペルー地震から一日が過ぎ、被害の拡大を知った人たちが家族に無事を知らせたいらしい。「どうしても一言家族の声が訊きたくって・・」地震当夜は電話回線がパンク状態で電話がつながりにくかった・・。テレホンカードの使い方をお客様に教えてあげる。テレホンカードの売り上げが増えて売店のオバチャンはホクホクだろう・・。クスコ、マチュピチュのツアーを終え、翌日にはプーノへ行くことになっているグループ。明後日にはリマに戻り、その後はイカとナスカに行く予定になっている。イカ方面の被害拡大のために、ナスカの地上絵遊覧飛行はまだ未定だという。添乗員さんは深夜に日本のツアー会社から電話がかかってきて、寝ているお客様にツアー会社からお客様の緊急連絡先に被害状況の連絡をしていいか確認するように言われたらしい。その確認に一時間もかかったと添乗員。「寝不足ですよ」きっとお客様も同じに違いない。でも日本に帰ったら「俺あの地震のとき、ペルーにいてよ~・・」なんて自慢話をしていたりして・・。マチュピチュに行く汽車の中で今回の地震について話した。地震の多い国にもかかわらず、ペルーでは地震対策ができていないこと。地震にすぐ崩れる日干しレンガ。普通の焼きしめたレンガやコンクリートの家でもしっかりできていないものがある。かつて建設会社を経営するお客様を案内したときに、彼がクスコ市内の家々を見て「こんな建築によく許可を出したな~」言ったことを思い出した。日本では耐震建築をはじめ、災害の被害を極力最小限に抑える対策は立てられるけれど、ペルーはまだ貧しく、日々の暮らしをやりくりするのに精一杯の人々が多い。いつ来るかわからない災害に備える余裕なんてない。もし政府が耐震建築に対する法令を考えたら国民はどう反応するだろう。長期的にはそれが自分たちの安全に供すると考えられても、しっかりとした建築をする費用が準備できなくなるので、逆に法令に反対するかもしれない。自動車保険が強制加入になったときにはそれに反対するバス会社がしょっちゅう交通ストをしていたな。目の前の利益しか終えない国民性と経済の問題「日本で同様の規模の地震があったとしたら、被害は最小限に抑えられていたはずです」、死者が500人を超えけど、これが日本だったら死者は100人にも満たなかったに違いない。テレビで寄付や献血を呼びかけている・・。でも・・今後住宅が新しく建築されていくときには地震対策を考慮したものを作って欲しいと思うのだ。・
2007.08.17
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クスコの市内観光を終え、市内のホテル内にお客様を案内しているときに玄関上のシャンデリアが揺れていることに気づいた。何かしら?コレ?最初は上階で工事をしている振動が伝わって揺れているのかと思っていた。ホテルの中の宿泊客、レセプションの人が大騒ぎしている。「外に避難してください!」え?地震なの?ホテル前の緑地にお客様は避難。でも、揺れはわずかに感じる程度。外国人客は大騒ぎしている。揺れは収まったあとも、部屋に帰っていいか聞かれたりなんかして・・。たいしたゆれじゃないんだけど・・。「これって日本のニュースに出ますかね?」どうでしょうか・・。他の地域で大地震があってその影響がクスコまで来ているならニュースになるかもしれませんが・・。部屋に残っていた添乗員さんに電話をすると、「大したことがなかったですよ。外国人はびっくりしてましたけど・・。日本人は慣れっこですから」ディナーショーに出るまでの間、携帯電話をかけようとしてもまったくつながらない・・。地震関係の連絡で電話がかかりにくくるのってペルーでもあるんだろうか?仕事中の地震なんて初めての経験で対処の仕方がわからない。タクシーの運転手がリマで地震があったのだと教えてくれた。ラジオからカジャオで停電があったと聞こえてきた。両替商で見たテレビでようやく震源がペルー沖でマグニチュード7.9だということを知る。スペイン人観光客がびっくりしていた。でも両替商の人は・・「クスコでは地震は稀だからね。85年(正確には86年)に大きいのがあったきりだから・・」お客様と一緒にフォルクローレのディナーショーにいる最中に私の携帯がなった。「東京のXX社のものです・・。○○ツアーに関してお聞きしたいんですが・・。ペルーの地震の影響はクスコではどうですか?」「たいしたことありませんよ。みなさん少しびっくりしたようですが・・。鉄道も通常どおりでますよ」「物的被害はいかがですか?」「何も壊れていませんよ」「添乗員さんと連絡がとれないんですけど・・」どうやら添乗員さんに連絡をとりたいようだったのだが○○社が添乗員に渡す携帯はクスコではつながらないようなのだ・・。まったく・・帰宅後見たニュース・・。地震時にミラフローレスで大渋滞となっている映像。テレビに映って目立ちたい運転手が車から降りて「No pasa nada」と叫ぶ思わず苦笑、通常この言葉は「どうってことないよ!」の意味で使われるけど、文字通りにこれを訳すと「何も通らない」ということになる。「(地震が)大したことない!」と言う強がりと、「車が渋滞で通らない」という意味が二つか買っているようで面白かった。ニュースでは被害状況の報道の他、地震にどのように備えるかのレクチャーも行われている。アメリカ合衆国の地学サービス(USGS)によると午後6時40分の地震の震源はペルーピスコ沖西60キロメートル、深さ33キロメートルででマグニチュードは7.5。他に7時19分にチンチャ沖で、7時41分にはペルー内陸のワンカヨで、8時2分にはリマ南西でも地震があったという。震源近いイカ県では停電があり、建物などに大きな被害があったようだ。労働省は省の建物が被害を受けたため明日は仕事はしない。アラン・ガルシア大統領は安全のために小中学校の休校を宣言した。リマのホルヘ・チャベス国際空港は欠航が相次いでいる。El Comercio紙のWeb版によると午後11時現在の死者は48名、怪我をした人は350人。ちなみに地震に当たるスペイン語だが、小さな地震はtemblor,大きなのはterremotoというのだ。リマあたりの地震はterremotoだったけど、クスコではtemblorだったかな?被害状況ははっきりとはあくされていないけど、まあ大地震とはいえなさそう・・。今のところリマ、クスコ、プーノの観光にはまったく支障がないようだ。【防災用品/避難用品】非常持出袋セット避難セット(レディース21)
2007.08.16
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明日、引っ越しすることになった。いろいろムカツクことの多かったところをついに出て行くことに・・(日記に書かなかったポルターガイストのような信じられない現象(人間が原因だけど・・)が今までにあった)本当はアンデス世界では一年の始まりとも言われている(農業暦の始まりとも言われる)8月1日に引っ越したかったけど、仕事の都合、電話移転の手続きの都合で一日ずれこんでしまった。今朝、テレフォニカ社に電話・インターネット(設置は同時にするし、請求書も一緒に来る)とケーブルテレビの移転手続きに行った。番号待ちの札を受け取るときにケーブルテレビと電話・インターネットの移転の手続き・・」と言うと、一枚の番号札しかくれなかった・・。「電話と・・ケーブルテレビなんだけど・・、番号札二つとらなくっていいのかしら?」「これで二つのサービス一度にできるから・・」自分の番号がきて、「この窓口では、電話だけしか手続きできません・・・」はあ~?「明日から3日以内に移転工事が行われます。日にちは約束できませんが、時間の指定は承ります」電話の移転手続きが終わる。ケーブルテレビの手続きは・・「私のところ(PC)にはケーブルテレビの扱いのシステムはありません・・」窓口の人がご丁寧に番号札を取りに行って、私に手渡した。「この番号をお待ちください。」また待てと!だったら最初から番号札二つとるだろう!「二つの手続きが一度にできるって言われたんだから、当然、他の窓口でもいいから即座にケーブルテレビの手続きをするべきじゃないかしら・・」激怒!超ムカついたので当然クレームを入れてやった!ケーブルテレビの手続きが始まった。これも移転工事は3日以内で日にちは指定できないという。いつ以前のところは切断するの?「旧住所のケーブルテレビの切断は明日の午前中です。時間は約束できません」新しいところの接続は?「お約束できません。3日以内としか答えられません」とりあえず午前11時から12時と時間指定しておいた。激疲れ・・・3日間仕事が休みでよかった・・。そうじゃなきゃ大爆発していたところだった・・。夕方、引っ越し準備をしているとき私の携帯が鳴った。「アロ~。セニョール・レタマですか~?セニョール(Senor男性に対する敬称)?私のことを知らない人だ・・「電話とケーブルテレビの設置に来ているんですけど~。」へぇ?あなたどこにいるの?「XX(引っ越し先の名)ですよ~。今日は設置されないんですか~」午前11時って時間指定しているでしょ?それも明日からって訊いているんだから~「そうですかあ~?じゃあ、どうしましょう?」明日11時に来てちょうだい・・。また疲労感が・・・彼が悪いんじゃない・・。顧客の都合を無視した会社の体制が悪いんだ・・。何かの手続きの度に、解約してやる~!って心の中で怒鳴るけど、電話局はココだけだから・・。でもやっぱりケーブルテレビはやめてDirecTVに変えておくべきだったと後悔した・・。これでPCをしまいます。さて、再びケーブルテレビが見られて、インターネットに入れるのはいつになるのか・・[DVDソフト] 八月の狂詩曲 修復デジタルマスター版
2007.08.02
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明日、引っ越しすることになった。いろいろムカツクことの多かったところをついに出て行くことに・・(日記に書かなかったポルターガイストのような信じられない現象(人間が原因だけど・・)が今までにあった)本当はアンデス世界では一年の始まりとも言われている(農業暦の始まりとも言われる)8月1日に引っ越したかったけど、仕事の都合、電話移転の手続きの都合で一日ずれこんでしまった。今朝、テレフォニカ社に電話・インターネット(設置は同時にするし、請求書も一緒に来る)とケーブルテレビの移転手続きに行った。番号待ちの札を受け取るときにケーブルテレビと電話・インターネットの移転の手続き・・」と言うと、一枚の番号札しかくれなかった・・。「電話と・・ケーブルテレビなんだけど・・、番号札二つとらなくっていいのかしら?」「これで二つのサービス一度にできるから・・」自分の番号がきて、「この窓口では、電話だけしか手続きできません・・・」はあ~?「明日から3日以内に移転工事が行われます。日にちは約束できませんが、時間の指定は承ります」電話の移転手続きが終わる。ケーブルテレビの手続きは・・「私のところ(PC)にはケーブルテレビの扱いのシステムはありません・・」窓口の人がご丁寧に番号札を取りに行って、私に手渡した。「この番号をお待ちください。」また待てと!だったら最初から番号札二つとるだろう!「二つの手続きが一度にできるって言われたんだから、当然、他の窓口でもいいから即座にケーブルテレビの手続きをするべきじゃないかしら・・」激怒!超ムカついたので当然クレームを入れてやった!ケーブルテレビの手続きが始まった。これも移転工事は3日以内で日にちは指定できないという。いつ以前のところは切断するの?「旧住所のケーブルテレビの切断は明日の午前中です。時間は約束できません」新しいところの接続は?「お約束できません。3日以内としか答えられません」とりあえず午前11時から12時と時間指定しておいた。激疲れ・・・3日間仕事が休みでよかった・・。そうじゃなきゃ大爆発していたところだった・・。夕方、引っ越し準備をしているとき私の携帯が鳴った。「アロ~。セニョール・レタマですか~?セニョール(Senor男性に対する敬称)?私のことを知らない人だ・・「電話とケーブルテレビの設置に来ているんですけど~。」へぇ?あなたどこにいるの?「XX(引っ越し先の名)ですよ~。今日は設置されないんですか~」午前11時って時間指定しているでしょ?それも明日からって訊いているんだから~「そうですかあ~?じゃあ、どうしましょう?」明日11時に来てちょうだい・・。また疲労感が・・・彼が悪いんじゃない・・。顧客の都合を無視した会社の体制が悪いんだ・・。何かの手続きの度に、解約してやる~!って心の中で怒鳴るけど、電話局はココだけだから・・。でもやっぱりケーブルテレビはやめてDirecTVに変えておくべきだったと後悔した・・。これでPCをしまいます。さて、再びケーブルテレビが見られて、インターネットに入れるのはいつになるのか・・[DVDソフト] 八月の狂詩曲 修復デジタルマスター版
2007.08.02
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引越し先がきまった・・。引っ越すことを決意してから、引越しに持っていく荷物を少しでも減らそうと、食料品を除いて買い足すことを控えていた。シャンプーのボトルも切れると、仕事でとまったホテルからもらってきた小瓶とか小袋のをコツコツと使い続けている。石鹸だって同様・・。ところが新居が決まった一日経った今日、台所で食器洗いをしている最中に、右手にはめている。ゴム手袋の中がぬれ始めていることに気づいた・・。おやあ~?食器を洗い終えてから、蛇口からゴム手袋に水を注ぎ、手首のあたりをしめる。シューっと細く、鋭く水が飛び出した。よく見ると親指のところに小さな穴が開いていた。私は極度の敏感肌で、洗い物、洗濯をするときには必ずゴム手袋をはめる・・。しかし、何ヶ月かに一度、ゴム手袋に穴が開くのだ。それも・必ず右手に。一度、右手が破れたときに、左手をおいておいて、次にもし新しく買い換えた手袋の左手がやぶれたときには残った右手と前に残った左手を一緒に使おうと考えた。しかし、何年経っても左手から破れることはなかった。全品ポイント10倍 7/31(火)am9:59まで★ [ビニール手袋] ファミリー 【Mサイズ 中厚手】 ...利き腕のせいかな?洗い物なんて日常生活の中でも比較的左右バランスよく使っているはずなんだけど、スポンジを握っているせいかねぇ~。右手が磨り減りやすいのかな~。しようがない・・明日買いに行くか・・。引越しまであと4日なのに・・。荷物が増えてしまって悔しいなあ~セレブなゴム手袋はホンジュラス製?グローバブルズ グローブ(中厚手)ブラックギンガム リボン付き
2007.07.29
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昨日の日記はマリア・ロストロワスキーのインタビューに納得いかない部分がありながらも、ぜんぜん考えがまとまっていなかったけど、書かざるを得なかった。ペルー人の友達連中にあのインタビュー記事のアドレスを送っているけど、感想くれるかな?混血、白人、先住民にかぎらず、自分たち皆がチョロなんて言われたらペルー人自身が愕然とするだろう・・。ずっと自問していること・・いったいペルーって何なのだろう。アメリカやカナダのように移民の国とかたずけられたら事は簡単。アメリカやカナダで少数派として追いやられてしまった元々あの土地の主だった人々にはたいへん気の毒な話だが・・。ペルーでは人口の80%が混血も含め、先住民の血をひいている。ペルーだって移民は多い。そういえば移民、先住民に関して同じような思いを日記に書いていたな。もちろん、ペルーは白人、先住民以外にも黒人もいる。さらに混血が加わって、Mulato 白人・黒人Zambo 黒人・先住民間の混血歌手、スポーツ選手として黒人をテレビを眼にすることって多いよね。サッカーの前ペルー代表監督だってそう。音楽番組なんて黒人がいなかったらなんて寂しくなるんだろう。Novalima、スサーナ・バカ、エバ・アイジョンペルーの栄光をたたえる。”Asi es mi Peru”のリズムはアフロペルアノのサマクエッカを起源に持つトンデーロ。小中学校でよく群舞で踊られる。Estoy enamaorada de mi pais(私はわが国を愛しています)もやはりアフロペルアノのフェステホ。黒人の音楽や踊りもペルーの伝統だ・・。先住民の文化、白人の文化、黒人の文化、メスティソの文化、ムラートの文化・・そうだ・・忘れちゃいけない。政治的、経済的に台頭著しい日本人、中国人、韓国人などの流れを組む人々。アジア系と白人、アジア系と黒人、アジア系の先住民の混血はなんというのかしら?アジア系とか、眼の細い人をチーノって呼んでいるけどね。英語とかいろいろな国の言葉でアジア系と他人種の混血を同故障するのか知りたい・・。ロストウォルスキーが語ったほど、ペルーは簡単には理解できない。今日7月28日はペルーの独立記念日・・。テレビやラジオでも特集番組が組まれるけど、ペルーの栄光を歌う歌ってやっぱり、ワルツのような白人起源のリズム、トンデーロ、フェステホなどの黒人起源のリズムなんだね。アンデス伝統のケーナやサンポーニャとともにペルーの国の栄光が歌われるってあんまり聞いたことがない。マチュピチュが新世界の七不思議に選ばれたばかりなのに、また先住民やチョロの印象が薄くなってくる・・。人種のサラダボウルならそれでいいんだけど、サラダボウルとしてかたずけられないペルー。ペルーって何?毎年のように堂々巡りの質問を繰り返すのだ。ペルー人テナーのこの人は白人ということでいいのかしら?《送料無料》フアン・ディエゴ・フローレス(T)/ロッシーニ: 歌劇 マティルデ・ディ・シャブ...
2007.07.28
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観光客はペルーに何を求めてやってくるのだろう?リマのカテドラル?アレキパのサンタ・カタリナ修道院?ヨーロッパの二番煎じを見に来る奴なんているのか?マチュピチュ、ナスカの地上絵といった古代のアンデス文化、チチカカ湖の浮島のような先住民の文化を求めてやってくるのだ。でも、1532年、現代の観光客を魅了してやまないアンデスの文化を背負ったインカ皇帝アタワルパはスペイン人たちによって捕らえられ、翌年処刑されてしまう。「アンデスの文化を恥ずかしいものとして感じるように我々は教育されている」白人の優位性を植えつけられてしまったペルー人。歴史家マリア・ロストウォロフスキー(Maria Rostworowskiのインタビューがリマの高級紙El Comercio紙(7月22日)に載っていた。「ペルー人は自分たちがチョロ(cholo)であることを自覚しなければならない。」ペルーはチョロ、アンデスの先住民と白人の混血をさす。「すべての人種はみんな混血である」「我々(ペルー人)は混血の国民であるが、どうじにそれを認めようとしない国民でもある」「私はポーランド系のチョラです(Soy chola polaca)」」(チョラ(chola)とはチョロ(cholo)の女性形)マリア・ロストワルスキーはポーランド人を父に山岳地域出身のペルー人を母に、ペルーリマ市のバランコ地区に1915年に生まれる。少女期をヨーロッパで過ごし、学校に行くよりも、家庭教師について教育をうけていったようだ。専門の歴史学はペルーに戻ってから国立サン・マルコス大学の聴講生として学び始め、後に歴史家に。その後インカを中心に古代アンデスに関する著書を数々発表。彼女の、”Historia de Tahuantinsuyu(タワンティンスーユの歴史)邦訳 インカ国家の形成と崩壊)”は観光ガイドのバイブル。考古学専攻の学生も彼女の著作で勉強するという・・。彼女に先住民の血が混じっているかどうかは定かではないが、山岳地帯出身のペルー人を母にもっている彼女が血統的にチョラである可能性はあるけど、それ以上に「アンデス文化の擁護者」を自称する彼女がアンデス文化の影響を大きく受けている点でチョラと呼べるのかもしれない。彼女はペルー人の歴史意識、愛国心について発言する「ペルーでは人々は文化財を尊重しない」ヨーロッパで育った(といっても1920~30年代だが)彼女はいう「ヨーロッパでは国の文化財は大変貴重なもので、その歴史も同様に貴重なのよ・ヨーロッパでは人々は愛国者です。ペルー人はそうじゃない。に中・上流階級のペルー人にとっての栄光はマイアミにコンドミニアムを持つことなの」父の母国に滞在中にポーランド人の叔父から「品質がたとえ劣っていようと自国のものを買うように・・」と教えられた彼女。今はペルーのものを買うようにと人々に訴える。かつて彼女がアンデスの文化の研究を始めたころ(1930年代)、「”まあ、インディオを研究しているの?””アンデス世界って何?”と嫌悪の表情で言われたものよ」。考古学の研究が始まったばかりの20世紀初頭のペルーはアンデスの古代文化の偉大さはまだ明らかになっていなかった。今現在だって、マチュピチュの凄さはみんななんとなくわかっていても、アンデスの人々やその混血の人に対して共感を持っているとは限らない。白い人たちにとって、アンデスの山岳地帯はマイアミよりも遠いところなのだろう・・。エリートは国民に見本を見せなければならない。特にEl Comercioはリマの高級紙、地方でも販売されているが、読者層のほとんどはリマの、それもある程度経済的余裕がある人たち・・。彼女の発言はリマのハイクラスの白人たちに向けられたのだろう。アンデスの山岳地帯の文化に関心を持たない。アンデスの山岳地帯は違う世界のこと(マイアミより遠い?)と思っている人たちに、ハイクラスとしての、エリートとしての責任を問うているのだ・・。ペルー人は世界に誇れるアンデスの古代文明を引き継いでいる、白人だってその偉大な歴史を受け継いでいるのだ。ペルー社会はヨーロッパの文化のアンデスの文化の融合の上にあるのだ。「チリ人はチョロじゃないの。チョロなのは私たちだけなの。」蔑称になりがちだった言葉が今、誇らし気に響いてきた。彼女の発言に納得できない部分もあるが、ペルー国民意識統合の鍵を見出してくれたようなき気がする。著者のインカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベガはペルー最初のチョロって?ピスコはクレオールそれともチョロ?
2007.07.27
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ペルーやボリビアでよく使われる言葉、チョロ(Cholo)。アンデスの先住民と白人の混血をさす。日本ではよく誤解されていて、“先住民系”と紹介されているケースが多いが、実勢には混血である。スペイン王立アカデミーのDiccionario de la lengua Espanolaによると Am.1.Mestizo de Sangre europea e indigena. ラ米1.ヨーロッパと先住民の混血。2.Dicho de un indio : que adopta los usos occidentals.(インディオの言い回し。西洋の様式を取り入れること)(訳がおかしいと思われる方訂正お願いします)“チョロ“の愛称(蔑称?)で呼ばれた(呼ばせた?)ペルーの前大統領、アレハンドロ・トレド・マンリケ。彼は日本では先住民系とよく紹介されているが、チョロの名が示すように、混血。彼の苗字はスペイン系。彼が就任時にインカ帝国のパチャクテク皇帝にあやかろうとしていたとき、私は逆に彼の姓から1569年にペルー副王に着任して、ビルカバンバにいた最後の皇帝トパク・アマルを捕らえて処刑した上、植民地支配の基礎を築いた、フランシスコ・デ・トレドを想像してしまった・・。チョロ・・。現実には血は混じっているけど、肉体的特徴の他、文化的な背景にアンデスの山岳文化の影響が強い・・と私個人はイメージしている。ときによっては山出身の田舎者に対する蔑称としても使われる。逆に愛称として使われることもある。教育を受けた先住民をcholoというなんていう意見もある。アンデス的な文化や民族性を強調している人をさすこともある。前大統領のトレドはチョロと自分を呼ばせていたけど、スタンフォードで博士号をとって、ベルギー人を妻に持っているし、アメリカナイズされているし、その振る舞いからするときっとチョロという自覚はないんだろうな・・(でもペルーのハイクラスの白人から見るとチョロらしい)。現実にはペルーでは人種わけで誰が先住民で・・混血で・・なんて厳密には分けにくい。CIAのWorld Factbookによるとアメリカ先住民 45%, メスティーソ (アメリカ先住民と白人の混血)37%, 白人 15%, 黒人・日本人・中国人・その他 3% 別にDNA検査をしたわけじゃなくって民族わけは自己申告らしい。チョロの定義も実際には王立アカデミーの辞書がいうほど単純ではない。私もこの言葉を100パーセント理解しているわけではないし、たぶんペルー人の中にもこの言葉の使用に関して混乱があるはず。1570年代、フランスシスコ・トレドの到来とともにペルーの歴史の分断が始まり、歴史認識の混乱が始まっていく。マジョリティの先住民とチョロをマイノリティの白人が支配する中になっていったのだ。つづく・・Diccionario de la lengua espanola. Formato popularペルー理解におススメの本。でもチョロの定義に納得いかないところあり
2007.07.26
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朝起きて(正午過ぎだけど)ブログに入ると、8万アクセスを超えていました。80000件目を踏まれたのは残念ながら楽天の方ではなかったのですが、79998件目をゆうちゃん5702さんが踏んでくださいました。ありがとうございます!さて、この週末、土曜日は午前中にコンテンポラリー(Danza contemporanea)のクラスに行き、午後は読書とアパート訪問(結果は相変わらずX)。夕刻にはアメリカの考古学者、ブライアン・バウアー(Brian Bauer )の講演会に行ってきた。80年代からクスコ周辺でこつこつと研究してきた人物で、彼の研究のおかげでインカ拡大以前のクスコ周辺の国家の発達がかなりわかってきた。ただ受講料が20ソーレス(約770円)と高かったわりには内容は薄く、講演時間30分が質疑応答20分と短かったので受講料払い損~っていう感じだった。おまけにすっかり英語から遠ざかっている私には理解できない部分もところどころあったし・・。最後に”If you want to know more”として、ちゃっかり自著のスペイン語訳が12月に出ることを宣伝していた。でも英語のはもうすでにもっているもんね。で、その本Ancient Cuzco: Heartland of the Inca にしっかりサインをしてもらって・・。自慢したいのでサインを写真にとってみなさんにご披露しようと思ったんですが、その本をある英語のガイドがコピーとりたいからって、貸してしまっていたのだった・・。お人よし・・。アマゾンで買うか、12月にスペイン語版が出るのを待つかどっちかにしろよ~。夜は本を貸してやったガイドとディスコにでも行くつもりだったんだけど、社長秘書(社長令嬢でもある)から電話があって彼女の家の飲み会に・・。断りにくいのよね・・。集まりが悪いのか、インターネットに入っているときとか、シャワーを浴びている最中ももしつこく電話がかかってきて・・・・シブシブ、行く羽目に・・。社長令嬢であり、銀行マンの夫を持つ、彼女のマンションはおしゃれでありました。家具なんかはリマから取り寄せとか・・。女4人だけの集まりで・・飲んで話をして・・なんだか周りの家族の話とか・・。将来の計画の話とか・・祭りの話とか・・私はひたすら聞き役だった。かなり男前のご主人がバーテンダーになってカクテルをつくってくれたけど、おハイソそうに見える彼女も酔っ払えば・・ただのバカ女・・。私も普段飲まないけど、気がつけばもうろうとしてきて、靴紐を結ぶのもままならない状況になっていた。早朝4時過ぎまで飲んで、騒いで・・帰宅して・・。起床してたのは正午・・。ブランチは近所のセビチェ屋に。サングラス忘れて、日差しがきついわ~。週末にしか海産物が入ってこないクスコ・・。二日酔いと疲労回復には魚介類とレモンたっぷりのセビッチェとチルカノ(魚介でダシをとった簡単なスープ)が最適・・。で、せっかくの日曜日なのでにクリオジャ音楽の番組を見て、踊りの研究をして・・。これから読書です・・。
2007.07.23
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ホントは書きたくなかったこの話題。ストは終了して(levantarse)、観光業界はホッとしているけどね・・。現在のガルシア政権が公立小中学校の教員に対して能力試験を科し(1月に実施済み)、つねに啓発をつづけることを義務付けたのだ。また新しく専門学校の教職課程の入学試験にも一定点数以上を要求している。教員たちの不満があふれてきた。そして公立校教員課程法(la ley de la carrera publica magisterial)が成立。この法律の問題の一つは・・”教員に能力試験を科し、2回続けて合格しなかった場合は、研修を義務付け、それでも試験に合格しなれば、退職させる。ただし、補助教員の道は残す”コレに対して、ペルー教組は、雇用が不安定になる、組合活動を消滅させるものとして抗議、無期限ストライキ(huelga indefinida)を開始。デモ行進が頻発することになった。いくつかのツアーがプーノ、アレキパ方面での道路封鎖で日程の変更を余儀なくされ、また新たにやってこようと言うツアーもキャンセルになっているという・・。我が家から見えた教員デモこの教職員組合のストが他のセクターにも影響し、7月11日、ペルー南部ではゼネラルストライキにまで発展した。クスコでのスト当日、仕事の予定がなかった私も空港からそれほど遠くないところ(それでも3KMある!)に住んでいるということで空港迎えと市内観光を急遽頼まれた。公共の陸上運輸機関はストップ。タクシーですら、投石を恐れて営業をしない(午後からは一部タクシー営業がある)。車のない7月28日通。歩くしか方法がないタクシーがないので、徒歩で40分かけて空港に到着した。市内旅行も普段より少し遅い時間にはじめることになり(クスコのストはいつも午後に平静になる)、ホテル-コリカンチャ間も歩いていくことになった。教員組合のデモでペルー全国で死傷者が出始め、組合指導者の中にも逮捕者が出てきた。政府は公立校教員課程法の有益性をテレビCMで流し始めた。パッケージツアーのキャンセルが相次いでいると言う報道が耳に入ってきた。クスコにとって観光は重要な産業、観光客が減れば、ホテル、レストランに食料を供給する市場の販売も減る。タクシーの収入も減る・・。さまざまなところに直接、間接的に影響が出てくるのだ。プーノ、アレキパ方面での道路封鎖の影響も深刻だった。一部の物資の到着が遅れてきたのだ。鶏肉卸販売店の前での立ち話を小耳にはさんだ・・「道がなくってね。肉が入ってこないんだよ。商売あがったりだ・・」観光だけではない・・すべてのセクターに影響が及び始めてる。ストのために自分たちの生徒の親の収入が減って、経済的に困っているということを先生方は理解できないのか!そして19日午前、自宅アパートの部屋から外の風景を見ると、東の方向から煙が上がっているのが見えた。火事?ちょうど空港方面、サン・パウロじゃないけど航空機事故でもあったのだろうか?でもまったく爆発音はきかなかったし・・。引越し先求め、アパートの見学に行くため、タクシーに乗る。空港に近づいていくと、多くの住民が避難するかのように空港とは反対側に歩いていった。タクシー運転手に訊く「Sutep(ペルー教職員組合)が草に火をつけたんだよ!」その日見学したアパートのテラスからはちょうど空港内が見えた。滑走路を消防車が走っていた。ただもう消火は終わったようで、スター・ペルー機は離陸をすべく、ブリッジから離れようとしていた。アエロ・コンドルはまだ動こうとしていなかった。そのアパートのオーナーが訝しがった。「どうして、先生連中が空港への道路封鎖をするの?」「クスコにとって、観光は重要な産業なの。観光客がつかなかったら経済全体に大きな影響がでるの」同じ時間帯にクスコに入っているはずのラン・ペルーの飛行機の姿はまったくなかった(キャンセルになった)。そのアパートはあきらめて空港へ向かうとおりにあるアパートを見にいこうとしたが、警戒する警官によって通行止めになっていた。火は消し止められたあとも、あたりには煙が残っていて眼がチカチカし、鼻がむずむずしてきた。後で耳にした報道で教職員組合クスコ支部の過激グループが空港内に自家製爆弾を投げ、敷地内の草に火がついたのだという。テレビ局の通信員の一人がカメラを取り上げられた上、殴る、蹴るの暴行を受け、入院したという。野蛮人め!お前らのせいで、クスコのイメージが悪くなるんだ。道路封鎖で物資や観光客の流れが滞って、自分の生徒の親たちの生活に影響が出るのがわからないのか!放火、暴行、器物損壊・・。ストの権利には入らない。明らかな犯罪だ・・こういう暴力的な人間に子どもたちを導く資格はない・「人を傷つけないようにしましょう」なんて言うことができるのか!今まで子どもたちを教えてきたのか!その夜になってもデモ行進を続ける教職員が叫ぶ。「今日は空港!明日はマチュピチュ!」マチュピチュを占拠しようという脅しだ・・。自分たちの雇用が心配だからといって、他人に迷惑をかけていいのか?!その夜、私はガイド組合から暴力行為に対する集会の召集のメールを受け取った。一方、教員組合は翌日に政府との話し合いを控えながらも一方的にストの解除を発表した。放火を最後っ屁のような感じがした。観光業界は21日夜、教職員組合のストが業界に甚大な悪影響を及ぼしているとして、アルマス広場で「破壊行為に反対する集会」を行い、ろうそくに火を点し、静かに教職員組合に抗議する態度を示した。私の怒りとはうらはらにストが明けたと言うことで人の集まりはそうでもなかった。集会が終わっても私の心は晴れなかった。とりあえず社会に平穏がもどった。子どもたちも学校に戻ることになる。しかしこの暴力的な教師たちはクビになることもなく、ずっと子どもたちを教育しつづけるのだ・・。ペルーの将来が少々不安になってきた。二十四の瞳 デジタルリマスター2007(DVD) ◆20%OFF!
2007.07.22
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フジモリは公立小中学校の建物たくさん作った。しかし、教員の給料はあがらず不満が残った。トレドは教員の給料を上げた。でも教員のレベル、教育のレベルは上がらなかった。ガルシアは教員のレベルアップを掲げ、能力試験を科した。だが教員は自分がクビになるのではと心配になり、ストライキを始めた。どうか・・ペルーの公立小中学校の教育レベルが上がり、この国がもっと豊かになりますように・・。つづく・・【送料無料選択可!】GTO ドラマスペシャル / TVドラマ
2007.07.21
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最近、アンデス特有の動植物の日本名を調べることに凝っている。マチュピチュの花とか鳥とか聖なる谷の樹木とか・・動植物専門のガイドブックに載っている学名を引いてきてね。使用するのはインターネット。なにしろ西和辞典を調べても、そのスペイン語で動植物の名前すらでてこないことがある。現地語のケチュア語で名前がついているケースが多いのでスペイン語で調べることに無理が結構あるのだ。正直、歴史は好きだけど、動植物はどうも苦手・・区別すらつきにくいことがあるのだ。生物学専攻だったわけじゃないし、動植物にはもともと関心がないし・・。何科か・・ってわかったらいいけど、これがわかんない。そういうときに使うのがインターネットのサーチエンジン。(今更って言わないで~(苦笑))数年前にまず調べたのが、コレ。日本でもよく十穀米なんかに入っているキヌア。アミノ酸バランスがよく、ミネラル分も豊富と言う穀物(Wikipediaによる穀物の定義も一読の価値)の一種。私もご飯に混ぜて炊いている。パンケーキの種にキヌア粉末を混ぜていたこともある。ペルー産 キヌア(キノア)粒 300g学名Chenopodium Quinoa を検索エンジンで調べると・・。Chenopodiaceae科の植物だという。これもよく理解できないので日本語の検索エンジンにたよる。答えはアカザ科(Chenopodiaceae)。キヌアはその中でもアカザ属に入る。キヌアのことをペルーでは“アワ”と紹介する人がいるけど、アワはイネ科、エノコロクサ属なのでぜんぜんちがうのだ。ちなみにアカザ科の植物としておなじみのものに意外なことにホウレンソウ(スペイン語ではespinaca)がある。「え~、ぜんぜんちがうやん!」っていうかもしれないけど、実はそうらしいんだね。アワよりもホウレンソウのほうが近いなんて・・。クスコでフォルクローレのショーで有名なレストランのウェイターはキヌアを必ず”アッワ”って呼んでいる。ペルー人が日本のマイナーな雑穀、粟を知っている可能性は低いので、たぶん教えたのは日本人。いったい誰だよ!そんな罪深い人間は~。私がいくら「アワじゃないの!」って言ってもきかないんだから~キヌアに似ているも健康食品にキウィチャという穀物がある。穀物として使う以外にもペルーにはキウィチャポップというポップコーンのキウィチャ版みたいなのもあるし、Kiwigenと言うミロみたいな健康ドリンクパウダーもある。キヌアより小粒で、よくペルー人の中には「キウィチャはキヌアの小さいの!」なんてのたまっているのもいる・・。いる・・。これも大間違い・・。信じちゃいけない。さて、これも学名を調べると、Amaranthus caudatus Linnaeusとある。も日本語検索エンジンで、そのままアマランサスとでてきた。【ポイント5倍】創健社 有機栽培アマランサス粒 200gアマランサスはヒユ科ヒユ属の植物。キヌアとは少し違うんだな。ヒユ科の植物にはケイトウとかセンンイチコウのような花もある。このアマランサス(キウィチャ)蛋白質,脂質,繊維,鉄,カルシウム,リン,カリュウムなどの成分値が高い。また,穀物に不足がちの必須アミノ酸も多く含まれている。動植物の学名をひいても正確に日本語名がでてこないときもあるけれど、なるべく近い名前、属名までは調べることにしている。キヌアがホウレンソウの仲間、キウィチャがヒユ科の植物なんて、10年前のペルーでは絶対に調べられなかったろう・・。だから今だにキヌアを”アワ”って言っているんだ。日本にいたって図書館へ行って、植物辞典の類をしらべて・・なんてどれだけの時間がかかったことだろう・・。索引の細かい字をたどっている途中できっと挫折していたにちがいない。インターネットに感謝・・。動植物名を調べながらインターネットの威力に今更ながら恐れ入ったのだった。そして今日も一日一件をノルマに、動植物学名から日本語名を調べるのを続けている。(もちろん図書館じゃないと手に入らない情報があることもわかっているけれどもね)
2007.07.20
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ついに引越しを決意し、新居探しをはじめた。”ついに・・”というのも今のアパートに引越したその翌日から新居の気に食わない点が続出していたからだ・・。なにしろ今のアパートに決めるときから問題がすでにあった。選り好みをしていて旧居を引き払う期日が迫っていたため、なくなく今のところを選ばざるをえなかったのだ。不動産広告で見ても最後までまったく無視していた地区だったのに・・。キッチンが狭すぎる・・。水圧が弱い・・。ゴミ処理屋がはす向かいに、裏に3件チキン屋があって、煙がひどい・・etc。それでもなんとか好きになろうと努力し、なんとか一年の契約を満了したいと思った。保証金ももったいないし・・。家探しや引越しにはエネルギーが必要だし・・。あれからわずか5ヶ月強・・。断水問題にうんざりしだしていたところに、電気シャワーの交換費用をめぐり家主ともめて、売り言葉に買い言葉で出て行くことを告げた・・。まあ、いい機会だ・・。一応来月10日に引き払うことになるけれど・・、月末まで休みが結構あるので、今月中にはできれば引っ越したい・・。本の引越しクスコでは新聞の広告欄(clasificados)以外にも、求人・不動産情報紙が毎週、月曜日と木曜日に出る。早速月曜日には10件電話をかけ、5軒おとずれたがどれも思ったものではなかった・・。一応、予算は200ドル以内・・。よく広告に「preferencia ejecutivos, extranjeros(エグゼクティブ、外国人望む)」っていうのがあるけど、こういうのは高いし、家主が一年以内の短期契約を望んでいるのだ・・。私は最低一年はいるつもりだからね・・。一階は泥棒に入られる可能性が高いので絶対にだめ・・。過去に経験があり、トラウマになっている。間取りはリビング、キッチン、寝室が2つ、トイレ、シャワーが条件。月曜日にアパートを探しはじめてから大きな問題にぶつかった・・。どこのアパートも洗濯機を置く場所がないのだ・・。結構よさそうなところを見つけたのだが、2軒で洗濯機を置く場所を相談したら「キッチンに排水ホースを引っ掛けたら~」との答えが返ってきた・・。(韓国製洗濯機の排水ホースは床の穴ではなく洗面台にひっかけるのだ→参考日記)いやだよ・・そんなの・・。そういえば以前、友達のワンルームのアパートで、シャワー・トイレルーム入り口近く、ベッドのすぐ横に洗濯機が置いてあるのを見たことがある。「水はどこからひくの?」と訊くと、「バケツで汲んできて入れる」クスコではまだまだ洗濯は手洗いが多くて、アパートには入居者共同の洗濯場がある。過去にいたアパートでもそういうところがあったけど、私は共同洗濯場がいやでシャワールームで洗濯(手洗い)をしていたころがある。その後、今年2月まで住んでいたところでは、アパート内に洗濯場兼干し場があって、そこに洗濯機が置けた。ちなみに3LDKで家賃180ドル。今のところは2つあるトイレのうちの一つを洗濯場として使っている。これも新築の3LDKで家賃160ドル。一人暮らしの私にはそう大きなアパートはいらないけど、洗濯場、キッチン、リビングを望むと、最低3LDKにならざるを得ない。家賃は150ドルは絶対にする。でも自分の望みどおりの環境を手に入れるためならしようがないか・・。ああ、それからアパートに水タンクが据え付けられているにこしたことはない。今住んでいる地区は、元々断水がしょっちゅうあるところだったらしい・。できれば周りに水評判を聞いてみて、断水がない地区に住めれば・・と思う。でもそんな望みを200ドル以内でかなえられるのだろうか・・。明日は木曜日(ペルー時間)、求人・不動産情報紙の発売日。朝一番に情報紙と新聞を買い漁って、電話を掛け捲り、午前11時にはアパート訪問を始めるつもり・・。果たして、思い通りのアパートはみつかるだろうか?
2007.07.19
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今からちょうど24日前、クスコの市民パレード(desfile civico)の当日、パレードを控え慌しく昼食を準備している最中にキッチンでこけ、手を火がついているコンロにおいてしまった。ちょうど火が当たっている金具の上。今まで、油がとんだり,熱湯がかかったり、フライパンのへりに触ったり・・はあったけど、火の中にまともに・・っていうのは経験したことがなかった。すぐに水で冷やしたが、さすがに水ぶくれになっていた。医者に行こうか・・とも思ったが、市民パレードを控えている私はそれができなかった。そこで思いついたのがティートゥリーのエッセンシャル・オイル(aceite escencial)。普通私はやけどのときにはラベンダー(lavanda)を使うのだが、これを切らしていた・・そこで思い出したのが、ティートゥリー(arbol de te, tea tree)だった。やけどに関する効果はよくおぼえていなかったけど、傷を治す効果とか、殺菌効果があるのを覚えていた。それにラベンダー同様薄めないでそのまま肌につけることができるのだ(肌が敏感な方は要注意)。やけどで水ぶくれになっているところに小さなボトルからそのまま直接オイルを垂らす。触るのも怖かったので綿棒とかコットンなんかはつかえなかった。そのまま衣装に替えてタクシーに飛び乗ってパレードへ。パレード後に医者に行けばよかったんだろうけど、パレードでクスコ中が浮かれているときにろくな診療が受けられないと確信していたので行かなかった。ちなみにこのティートゥリー。ピアスの穴を空けたときも殺菌と傷口を治す効果を期待して毎晩シャワー後に欠かさずたらしていた。穴をあけて10日でピアスを取り替えたけど、化膿することもなくきれいにピアスのつけかえができた。翌日からずっと仕事で、また医者に行けなくなったけど、とりあえずやけどをした場所にティートゥリーを毎日つけ続けた。ついでに傷口からあふれたオイルをピアス穴に持っていった。おかげでピアス穴あけ、17日後のマリネラのコンクールも無事にピアス交換ができた。ただ右手にもったハンカチを高々と掲げてポーズをとるのが特徴のマリネラ・ノルテーニャ。残念ながら手首のやけど傷が妙にリストカットあとのように見えなくもなかったので、予定していた半袖の衣装をやめて前回のコンクールと同じ長袖にしてせざるをえなくなってしまった。(←写真を撮った人に現像をお願い中)ちなみにティートゥリーには殺菌、傷口を治す効果以外にも、防虫、水虫、虫され、吹き出物、風邪、フケにも、肩こり、筋肉痛いいとか・・。24日後のやけどあとの写真・・(多少ピンボケでグロテスクに見えるけど実物はもっとすっきりしている)火の上に手がのっかったときにはどうなるかと思ったけど、まわりが何も指摘しないくらい無事に治癒中なのだ。その後、ラベンダーのエッセンシャルオイルを買ったけど、寝るときに枕に垂らす以外の使用は幸いにもまだ今のところ行っていないな。
2007.07.18
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クスコで新しいコンクールの声が聞こえ始めた5月・・焦ってきた。出るか、出まいか・・。2月のコンクール後、生徒でトルヒージョのコンクールで好成績を挙げた兄妹が新しくアカデミーを興し(失業した母親が仕掛けたのだ)、上級クラスの大半が引き抜いていった。私は元のアカデミーにに残ったが、新しく中級から上級に上がった子達に合わせて練習の質が落ちざるをえなかった・・。上級クラスと初級クラスだけが移ったジムは狭く、床がすべりやすいため、上体をそらすことすらままならない。こんな状態でコンクールに出られるのか?一方でようやくマリネラ・ノルテーニャの踊りを理解し始めた自分に気づき始めた。マリネラを踊るのがすごく楽しくなった。メガネなしの生活以降、なにかが自分のなかで変わり始めていた。自分を表現したい・・。アカデミーでの練習の質は落ちていたが、腹筋、背筋、ダンベル、バレエなどのエクササイズを自宅で続け、基礎体力をつけることは怠らなかった。クスコには全国レベルの実力を持つ先生を除くと22歳以上の男性でマリネラを踊る人はいない。先生にアレキパからパートナーを探してくれないかと頼んでおいた。コンクール前一週間のうち、5日間は仕事。うち3日はホテルの宿泊。せっかくリマから全国的に評価の高い先生が来ているのに、レッスンを受けることもできない。コンクールまで一週間を切ってもまだパートナーは見つからなかった。それでも希望は捨てず、ホテルに宿泊中もミネラルウォーターのボトルをダンベル代わりにエクササイズし、衣装の重さを計算に入れてボトルを両手にもちながらステップの練習をした。マチュピチュで一泊し、太陽の門にのぼって足が疲れ、ディナーショーに付き添ったあと、午後10時30分からのレッスンに行った。当然体はくたくた、足はフラフラ、ろくな練習にならなかった。でもコンクールに出るんだという気持ちは変わらなかった。プーノで一泊後、クスコに帰宅、コンクール2日前の金曜日、早朝7時のレッスンへ行った。その夜、クスコの先生から電話が入った。翌朝午前4時にアレキパからパートナーになる男性がバスでつくと言う。慌ててホテルを予約。4時着というものの、一時間以上待った。実際ついたのは5時過ぎ。コンクール前日だ。その日は銀行に行くなどバタバタし、髪を染めるなどしてバタバタして一日は過ぎていく。夜になり、体育館に出場申し込みに行ったあと、夜10時、ようやくレッスン開始。全国的に振り付けに関しては評価の高い先生。しかし、コンクール当日の朝も含め、わずか2時間しかパートナーとの練習ができない。遠くからペルーではシンガー・ソング・ライターとして評価の高いジャン・マルコの野外コンサートの音が聞こえていた。練習のために行けなかった・・。グロリア・エステファンが歌ってヒットした”Hoy”が聞こえてきた。クスコの周辺で撮影されたビデオクリップを思い出す。【Aポイント+メール便送料無料】グロリア・エステファン Gloria Estefan / Amor Y Suerte: Exi...”Hoy”収録のCD。ほんとはジャン・マルコが歌っているのがサイコーだけどレコーディングはされていない。それでも集中して振り付けをものにしなければならない。振り付けの65パーセントが終わったところでその日はタイムアップ。アレキパからきたダンサーがレッスンに入る。その横で振り付けを何度も反復しているうちに12時近くになり、先生から、「明日の8時から練習だろう。休みなさい」と言われ、退散。一夜明け、コンクール当日。8時から練習。とりあえず振り付けをしてもらったけど、よく反復できないうちに練習終了。私は髪のアレンジとメークに出かけなければならなかった。衣装を持って髪飾りを持って、友達の美容師のところへ。アイラインの引き方がまずかったのか、なぜか左右の眼の大きさが違って見え、メイクをやり直す。開会の時間が近づいている・・。ピアスを忘れたことに気づき、自宅に取りに戻らなければならなかった。一人暮らしの悲しさ・・。まだ不慣れなコンクールに家族に支えられないで参加する孤独を思わず感じる。衣装のスカートを自分で持って、体育館に入った。幼児の部がもうすでに始まっていた。ろくな練習はできなかった・・。でも楽しんで踊ろう!なにか吹っ切れた気持ちで不安感はまったくなかった。
2007.07.14
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停電で予約録画が不安視されていたNHKスペシャルの“マチュピチュ天空の城”。電気が回復して少しだけ録画されていたのがわかった・・。再生された番組・・懐かしい伊武雅刀のナレーションにうっとりしたのも束の間・・。どうもナレーションで語られている内容が事実や定説とは違うことに私は居心地の悪さを感じ始めた。そのおかしなところの指摘をさせていただくと・・1.アメリカの考古学者ハイラム・ビンガム ・・ビンガムは歴史学者であり、考古学を勉強したことも教えたこともない。ハーバード大学やエール大学で南米の歴史や政治を教えいていた。(アメリカ議会の略歴Wikipedia)。National Geographic Adventure Classicsのハイラム・ビンガム 著インカ・ランド(Inca land)の前書き(Introduction)では“Bingham was not a trained archaeologistビンガムは考古学を学んでいなかった”“Bingham was an explorer, not an archaeologistビンガムは探検家であって、考古学者でなかった”…と考古学者として研鑽を積んだ人物であることを繰り返し否定している。2.トレオン(Torreon通称 太陽の神殿)下の洞窟(通称 王家の墓←これも間違っているけど)を・・「インカ皇帝パチャクテクの墓とされる・・」したナレーション見たんですか?あんた・・。 パチャクテクのミイラはポロ・デ・オンデガルドによって1559年にトコカチ(クスコ市内の現サン・ブラス地区)の雷の神殿から発見されたとスペイン人(アコスタ、コボ等)年代記作者は記している。ちなみにこの洞窟(誤称 王家の墓)から、ビンガムの研究グループは遺体を発見していない・・。う~~ん、少し見ただけでもツメの甘さが見られるな・・。数ある番組制作の中の一番組ととらえるとこのレベルでもしようがないのかな・・って。まあ、NHKの番組ってみんな信じがちだから・・。「え~、ココってパチャクテクの墓でしょう!」なんて主張されたらたまったものではない・・。ああ、ガイド泣かせ・・。パチャクテクの墓・・のところでDVD録画は途切れた・・。停電がそこで始まったのだろう・・。でも私には・・「もう見なくってもいいわよ」と言わんばかりのタイミングで終わっていたのだった。ちなみに私のお勧めのインカ本はこれね・・誤報・虚報の戦後史
2007.07.12
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今朝8時過ぎに起きたら、DVDデッキの時計が止まっていた。ペルー時間7時(日本時間9時)からのNHKスペシャル、”マチュピチュ天空への道”を見るために録画予約をしていたけど、果たしてちゃんと録れたのだろうか・・しばらく電気が回復するのを待っていたが、その気配はない・・。朝食を作りながら様子を見る。20分、30分と待っていたが、電気はつかない。前夜は午後9時に水が出なくなっていて、シャワーを浴びることはできなかった・・。うちのシャワーはいわゆる電気シャワー(ducha electrica)。シャワーの口のところで電力で水を温めるシステム。これが電気シャワー停電では使用できない。フツーの日曜日ならあきらめてもいいけど、今日は仕事・・。朝食を食べ終えたあとたまりかねて電力会社に電話する。すぐに電話に出た係員が即座に答えた。「午前7時から午後1時まで、電気工事のためXX地区では電気を供給できません」そんな知らせをまったく聞いていない・・。いつもこういう知らせはテレビCMで入るようだ。日本のように各戸に停電のお知らせのビラが入ることはない。テレビでのお知らせの問題・・。私はあんまりクスコの放送局の番組は見ないのだ。たま~に朝のニュースを見ていると”XX地区の断水”、”○○地区の停電”なんていう知らせを眼にすることがあるけれど、不思議と自分が住む地区での水道工事、電気工事の知らせに気づくことはなく、事が起こってから慌てるのだ・・。「ねえ、たぶんテレビで停電の知らせしていたんだろうけど、私、クスコのチャンネルあんまり見ないのよ。ジャーナリズムのレベルが低いでしょう・・。そういう人にはぜんぜん停電のお知らせが伝わらないの?忙しくてテレビを見られない人もいるし・・。どうして各戸にビラをくばらないのかしら・・」答えは・・「今後その後意見を検討させていただきます・・」たぶん、その検討は実現されることはないだろう・・。1階に住む家主のところに行く。電気がないんだけど・・「この地区みんながそうなの」家主の母親が答えた。リビングではローソクが点されていた。なにが原因かしら・・「知らないわよ!そんなこと」今、電力会社に電話したんだけど、電気工事で午前7時~午後1時まで電力工事で停電ですって。それに関する知らせ、なかったかしら・・。「ないわよ!そんなの!」仕様がないのでガスコンロでお湯を沸かして殺菌効果のあるティートゥリーのエッセンシャルオイルをたらし、そこに浸したタオルで体を拭く。ティートゥリー 100ml 【生活の木 アロマ エッセンシャルオイル】シャワーも浴びられず、さっぱりとはしない気分で空港に降りていく。ティートゥリーで吹いても体臭は消せない。ああ、あのNHKスペシャルどうなっていたんだろう・・。銅の力でキレイな水に!お肌と髪にやさしいシャワーで快適バスタイムシャワー用浄水器さわやか...
2007.07.09
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2007年7月7日。ポルトガルのリスボン(Lisboa)で新・世界の七不思議(las Siete Nuevas Maravillas del Mundo)が発表された。ペルー時間午後4時(日本時間午前6時)からの発表セレモニー。リスボン、リマ、クスコ、マチュピチュ、4元テレビ中継を自宅で見た。ホセ・カレーラスやジェニファー・ロペスの歌のあと、最終21候補地が読み上げられたとき一段と大きな声援が上がった。そして、その新・世界の七不思議の発表。発表順に記すと・・万里の長城(中国)ぺトラ(ヨルダン)救世のキリスト像(ブラジル)マチュピチュ(ペルー)チチェ・イッツア(メキシコ)コロシアム(イタリア)タージ・マハル (インド)La Gran Muralla (China) el monumento de Petra (Jordania), el Cristo Redentor de (Brasil) la pirámide de Chichén Itzá (México) el Coliseo Romano (Italia) el Taj Mahal (India)4番目にマチュピチュが読み上げられ、認定証を受け取りにペルーの観光副大臣とともに舞台に表れた登場した民族衣装の謎の人物・・。権威の象徴の杖(vara)を持ち、集落の首長(Varayoc 杖を持った人(ケチュア語とスペイン語の混合))の格好・・。マチュピチュ区の区長、エドガー・ミランダ。村にレストランやホテルのオーナーでもある。普段はこんな格好はしていないよ・・。これじゃ、まるで山奥からつれてこられた田舎者にしか見えない!マチュピチュ入場記念証には彼の直筆サインが入っている。クスコの情景の中継があったけど、アルマス広場に行きゃよかった。テレビに映るために・・。(市民パレードのときにテレビに映っていたのに懲りていないのか!)7つの発表が終わったあと、なんと新自然7不思議の選考が明日より始まると発表された!中継を見終わったあと、アルマス広場に行く。まだ祝っている人がいて、広場にだされた舞台ではコンサートも・・。クスコ県知事、クスコの旅行会社協会の会長の挨拶が行われた。オフィスに行くと、みんなこの話題で盛り上がっていた。「4番目にマチュピチュのなが呼ばれたときには思わず泣いちゃったよ~」「ペルーの人口2700万人よ。でも世界で4番目。メキシコとかインドとかの人口を考えたら凄いわよ~」「マチュピチュとシエンシアノ(クスコのサッカーチーム)はペルー統合の象徴だよね」なんでサッカーの話がでてくるのかよくわからないけど、みんな興奮してたね。そしてマリネラ・ノルテーニャのクラスに行く。「Feliz dia! おめでとう」といってもみんなキョトンといしている。「マチュピチュよ、マチュピチュ」「え~~、勝ったの(ha Ganado)?」クスコ中が盛り上がっていると思ったら、実は無関心な人もいた・・・。さて、みなさんは今回の七不思議・・どのような感想をもたれます?NHK#DVD#古代遺跡ミステリー#アメリカ・アジア編#チチェン・イツァー,ナスカの地上絵,イース...
2007.07.08
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マリネラのコンクールといえば毎年一月にペルー北部のトルヒージョで開かれるリベルタド・クラブ(Club Libertad)主催のがもっとも権威が高い。全国のダンサーは日夜この大会を目指して練習しているのだ。でもペルー全国で一年を通じて毎月、いやほぼ毎週のようにどこかしらで小さいコンクールが行われているのだ・・。マリネラのアカデミー主催とか、市役所、区役所主催とか、ライオンズクラブのような団体とか文化団体主催とか・・。大会では年齢別に試合が行われる。幼児の部(Pre-Infantes) 6歳以下児童の部(Infantes) 7歳、8歳子どもの部(Infantiles)9歳から12歳ジュニアの部(Juniors)13歳から16歳青年の部(Juveniles)17歳から20歳大人の部(Adultos)21歳から34歳シニアの部(Seniors)35歳から49歳マスターの部(Mayores)50歳以上このうち、大人の部、シニアの部、マスターの部に関しては小さな大会では大人の部として行われることが多い。さらに一つの大会中、過去に大会優勝経験のない参加者の出場する新人戦(noveles)と全国大会(nacionales)のようにレベルが分けられる。参加者が少ないことが予想される場合、新人戦では大人の部と青年の部が合同で行われる。試合は一度に4人もしくは3人のペアがバスケットコートを4等分もしくは3等分にしたスペースで踊る。音楽は通常、“すべてのマリネラの曲”がアトランダムでかけられるため、どの曲がくるかはまったくわからない(決勝に関しては3曲程度事前に発表され、そのうちの一曲がかけられる)。もともとマリネラのリズム自体はペルーアフロ起源のサマクエッカが元になっている。マリネラは大きく分けてリマのリメーニャ(limen~a)、北部のノルテーニャ(norten~a)、山岳部のセラーナ(Cerrana)。しかし、その華やかさ、技術の高さ、運動量、あらゆる点でマリネラ・ノルテーニャはペルー各地のマリネラの中でもっとも難しいものである。ペルー北部の舞踊ではあるが、近年クスコでも盛んになってきた。私が所属しているのはもうすでに3年連続コンクールを主催しているアカデミー。常に一緒に踊っていたペアが教えていた。彼らはトゥルヒージョの大会に何度も出場していた・・。門下からは今年一月のトルヒージョの大会で決勝に進出したものが二人いる。クスコの観光客向けのショーが見られるレストランで踊る二人の姿を見て、彼らのアカデミーに入ることを決意して2年。ようやく衣装を揃え、今年2月のクスコでのコンクールへの初出場をめざした。しかしコンクールの日に仕事をいれないでくれと一ヶ月以上前から会社に頼んでおいたにもかかわらず仕事が入ってしまう。それ以降も「出たい!なんとか他のガイドに変えてくれないかな?」と頼み続けたが「ダメ!代えられない」大会目指しての練習を続けながらも悶々とする毎日が続く。同じアカデミーの生徒、その父兄から聞かれる。「Retamaは出るんでしょ?パートナーは?」う~~ん、その前に仕事を変わってくれるガイドを探さないと・・。リマから個人レッスンに来た先生がパートナーを紹介してくれるという。そしてコンクールまで10日をきったある日。その先生の言葉・・。「これが最初のコンクールになるけど、君はまだまだアレキパとかリマのコンクールに出ることになるんだからね」眼が覚めた・・。迷いは消えた・・。絶対に私は出るんだ・・。そしてコンクールまで一週間を切った。パートナーが決まった。マチュピチュ帰りに会社に翌日着くことになる彼の航空券を購入に行った。そしてパートナーがクスコに到着したあとで会社に泣きついた。「お願い!どうしても出場したいんです!今回が出られなかったら、もう一生コンクールに出る勇気はでないかもしれない。でも、今回出場できたら、まだ次も、その次もチャンスが訪れるから。私はお金を稼ぐためにペルーに来たんじゃない・・。何かを学ぶために来たんです!」泣きつく私に代わりのガイドを自分で探すことを条件に会社はシブシブ承知した。会社の命令は「優勝すること」。なんとか代わりのガイドを見つけたが、ガイド資格のない子だったので入場料、ローカルガイド代計70ドルは自分が負担することになった。豪華な衣装・・。しかし、これが以上に重くドレスの裾も5重のフリルがついていて、つかむのも一苦労。ラテラル(lateral マリネラの基本的な動き、弧を描くように体をそらしながら移動する)もスピードが出ない。ターンをするとスカートに引っ張られてしまう。そしてコンクール当日。マリネラの曲はほぼ同じメロディを二回繰り返すのだが、その一番目のフィニッシュで右腕を振り上げてポーズをとるときに手がパートナーにあたってハンカチを落としてしまう。本来、それは男が拾って女性に渡すべきものなのに基本的なマリネラのマナーがわかっていない私は自分でそれを拾ってしまった。結果は一回戦敗退。あとで見たビデオぜんぜんスピードが出ていない自分の下手さに目を覆いたくなった。ドレスの裾がぜんぜん肩の高さまであがっていなかった。悔しさ90パーセント。満足度10パーセント。とにかく新たな一歩を踏み出したのだ。それから一ヶ月、私生活の問題、マリネラのアカデミーの新たな分裂問題を乗り越え、いつ訪れるともわからない次のコンクールを目指してドレスの重みに負けないように上半身を鍛えるべくダンベルを購入することになった。チャイコフスキー・コンクール神話の終焉コンクールでお会いしましょう
2007.07.07
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私は若白髪である。ペルーに来てしばらくしてからからではじめ、最近特に目立ってきた・・。なぜかペルーでは、白髪持ちの私に対しよく「あなた怒りっぽいでしょ・・」っていわれる。そう、たしかにムカつくことがこちらでは多い。「ペルー人のいい加減さのために怒っていなきゃいけないのよ」笑いながら返していたが・・いまいち白髪と怒りっぽいのの因果関係がわからなかった・・。そのうち周囲からは「染めたら?」といわれることが増えてきた。「ヘアマニキュア(Manicureをなぜかマニクールと発音する)ならそんなに髪が傷まないわよ・・」日本にいたときはひどいアレルギーだった。ペルーにきてからましになったけど、できるだけ化学物質を体にはつけたくない。メガネがなくなった私にさらに周囲のイメージチェンジに対するアドバイスが増える・・。「髪のイメージで若くも見えるし、年をとっても見えるんだからね」そういわれても・・。童顔の私には似つかわしくない白髪。それよりもマリネラ・ノルテーニャのコンクールには白髪交じりの髪では出たくない。ヘナなら刺激がつよくなさそうだからとクスコで探したけど見つからない。髪を染めたい・・。そうこうするうちにコンクールの前日は来た。月末で銀行に行ったり、なんだかんだと用事がたまっていて美容院を選ぶことなく(Centro comercial内の美容院で毛染めを決行した。カラーリング剤も選ぶ余裕はなかった・・。液剤をつけ終わってからシャワーキャップをかぶって待つこと45分。シャワーカップを剥されたが、白髪の部分が染まっていないところがあるといわれ、白髪の部分を何度も液剤を塗りなおしていた。「しようがないのよ。フツー白髪の部分は染まりにくいの」白髪があるから染めているんでしょ。白髪が染まらなかったら意味ないでしょ!その後ようやく液剤を流すことになった。しかし・・ここのシャンプー台はフツーの洗面所。温水がでるシャワーがあるわけでなく、汲み置いたお湯を洗面器でかけて髪を洗うのだった・・。クスコに来たばかりのころにそういったシャワー台があることを知って以来、髪を切りにいくときには自宅でシャワーをしてから出かけることになっていた。もちろん、それなりの値段のいい美容院ではシャワーのついているシャンプー台が当然ある。しまった・・ケチるんじゃなかった。1時間で終わると言われた毛染め・・。結局終わったのは2時間後。できあがりも妙に赤っぽくなって不満が残ったけど、コンクール出場申し込みと練習が待っているのでクレームをつける暇はなかった。翌朝、コンクール当日の早朝練習に向かう前にシャワーを浴びたときには髪から赤みがかった水が流れ落ちた。コンクールも無事終えた翌日、鏡の中の自分は以前とは少し変化をしていたような気がした。空港で・・「あら、見違えたわ~。髪そめたの?」なんだかうれしい。でもシャンプーの時にはまだまだすすぎ水が赤みがかっている。アレルギーがいつ出るか・・。今後、髪がどんどん傷んでくるのも考えられる。新たな染毛方法とか白髪防止、ヘアケアをもう少し調べなくっては・・。
2007.07.06
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”Vota por Machu Picchu”(マチュピチュに投票して!)街のあちらこちらから聞こえてくる世界の新七不思議の選定への投票が大詰めを迎えた。マチュピチュが候補になっているペルーでもあちらこちらで投票を呼びかけるキャンペーンをしている。マチュピチュでは文化庁自ら投票を呼びかけるキャンペーンを数ヶ月前から展開していた。マチュピチュ村の文化庁事務所では・・投票用のインターネットブースを準備。途中経過も張り出されていた。最終21候補のうち、上位10位と下位10位が発表されていた。正確な順位は定かではないがマチュピチュは上位10位以内に入っている。真偽は定かでないが、なんでもダントツの一位は万里の長城だという噂・・ペルーの人口2700万人、中国12億人・・。国民みんなが投票したとしたらとてもじゃないがかなわない・・・ペルーゆかりのインターネットサイトでも”Vota por Machu Picchu”キャンペーンが見られるようになった締め切り間近の6月からはテレビでも投票を呼びかけるCMが行われはじめた。この世界七不思議投票キャンペーンはペルーだけではないようでチチェン・イッツアが候補になっているメキシコのチャンネルでもチチェンイッツアへの投票を呼びかけるCMをやっていた。そしてマチュピチュ遺跡・・7月6日の投票締め切りまで一ヶ月を切った6月中旬、マチュピチュ遺跡入り口に大きなテントが登場した・・。何コレ?「ちょっと~、ツアーグループまとめるのに邪魔なんですけど~~」ガイド連中の愚痴がこぼれる。中身は・・。電話会社主催の投票ブース。さて肝心の私・・先週には文化庁事務所でマチュピチュに投票した。7つ候補を選べるのだが、マチュピチュのライバルになりそうもない、上位10位以内に入っていないのをまずクリックする・・。さて、7つ選んで・・。しかし、投票のクリックをしようとした瞬間・・。「あんた、マチュピチュにクリックするの忘れていない?」あ~~、肝心のが!文化庁職員チェックが厳しい・・。7月6日の締め切りまでもう時間がない・・再び投票して・・・果たして結果や如何に・・7月7日、リスボンで・・すべてが明らかになる・・。
2007.07.05
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昨年の11月に、初めてピアスをあけた日という日記を書いたけど、実はそのピアス穴が最初で最後にはならなかったのだ。最初のピアスは12月にマリネラ用のピアスをつけてかえて、発表会で踊ったあと、ピアスをはずしたあとそのまんまになってしまっていたのだ。そのあとコンクールでピアスをつけようと思ったら、すでに穴が閉じていた・・。あわててコンクールまで一週間をきったところであけた・・。コンクールではマリネラ用の目立つピアスを借りてつけたけど、それを返すと、そのまま穴あけ用のピアスをつけなおさないでいた。この穴がまた・・。ふさがって・・。5月に行ったペルー北部のモンセフで金メッキのピアスを買った。いかにもマリネラ用・・。表はかっこよく見えるけど、裏は・・こう・・。いいんです・・。薄くないと踊ってて重いし・・。あんまりよく見ないでね。あくまでも遠めに見てかっこよいのがいいの!でも、使用する機会が・・。7月1日のクスコでのマリネラのコンクールが近づいてきた6月中旬。3回目のピアス穴を開けざるおえなくなった。すでに持っている穴あけ用ピアスをジュエリーショップに持っていてあけてもらった。そのわずか10日後。ついにマリネラ・ピアスのデビューがきただ。市民パレード。前2回は、自分でピアスをつけることはできなかった。しかし、今回は・・自宅でとりあえず新しいピアスを自分でつけることができた。そしてつけなおし・・。パレード後にコンクールへ向けての個人レッスンのスケジュールの調整に生徒・父兄の集会。ここで誰かに頼もう。でも、とりあえず自分で・・。うむむむ・・・。痛ッ。あら、すんなりととれたわ・・。そして穴あけ用のピアスをはめる。誰かに助けてもらうことを期待していたのだけれど、先生の話に聞き入っているみんなは助けてくれない。えい、は、ピアス本体はいったぞ。じゃ、後ろのふた。コレも手探りでなんとか入った。ではもう一つ、あああああ!ピアスの後ろふたが手から転げ落ちた。どこ、どこ?血眼になっている私に周りがようやく助けてくれた。でも、結局発見したのは私。もう一つも・・プチ・・・。やった~~成長した!ひとりでできるもん!ピアス生活にようやく自信がついてきた・・。そして多忙な中、まりならピアス使用の本番は刻々とちかづいてきたのだった・・。オリエンタルすかし柄ピアスメタルに金メッキピアス
2007.07.02
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5日間の仕事を終え、プーノから6時間かけてバスでクスコのバス・ターミナルについたのが午後9時。ターミナル入り口で車中ずっと話をしていた在クスコのブルガリア人と別れを告げ、線路を横切って家への近道を向かう。私はバスにお手洗いがついていても、バスのクラスによってはトイレが汚いのでどうしても使えないことがあるのだ。件のブルガリア人が何度も車中でトイレに行っているのをみて、「あなた勇敢ね。私どうしてもこのお手洗い使えないのよ~」なんて言ってしまった。帰宅して、ほっとしてトイレに入って手を洗おうとしたら・・。出ない・・水が・・・。滴の一つも出ない・・。最近では日常になっているこの光景、3日に一度は夜に水圧が下がってシャワーを浴びることができなかったり、一週間に一回はまったく水が出なかったり・・アパートに貯水タンクがついていないのが問題なのだ・・。ペルーはどこでも水の供給に問題があって、断水、水圧の低下がしょっちゅうあるので、屋根の上に巨大な貯水タンクをつけているところが結構ある・・。クスコに住み始めて7年目、3回アパートを変わったけど、今までこんなにひどい水問題は経験していなかった。たま~に・・あるだけだった。でも今のアパートはもう最悪~っていうくらい、水がでない・・。4ヶ月が過ぎたけど、いつも引っ越してやる~って思っている。プーノへ行くのに、帽子を忘れたので、何度も塗りなおしていた日焼け止めが厚塗りになっていたのでそれをどうしても洗いたい・・。しかし、ウェット・ティッシュを切らしていた・・。夕食は近くのチーファ(ペルー風中華料理)レストランへ行く・・。途中でミネラルウォーターを買って帰ってから紅茶やハーブティを飲んだ。腹筋やバレエなどのエクササイズをしたかったけど、あまりにも疲れていたし、明日早朝のマリネラの個人レッスンのためにやめておくことにした。洗面器に残っていた2日前のシャワーをためおいていた水とミネラルウォーターで顔を洗う。11時ごろにマリネラ・ノルテーニャの曲をかけてスリープタイマーをセットして、床につこうとしようとしたそのとき・・・、あたりが真っ暗に・・停電・・。もう寝るからいいんだけど・・。カーテンを開けて、窓の外を見ると、空港方面まで真っ暗、でも市の北側の山の斜面や町の中心方面を見ると灯りが点っている。部分停電か・・。5年ほど前までしょっちゅう停電があったけど、最近なくなったな・・なんて2,3日前に思っていたら、このざま・・。停電は2,3分で回復・・。またラジカセを付け直し、スリープタイマーにしてまた床についたのだった・・。汗をながしていないのでなんだか気持ち悪いくて、寝つきが悪かった。そして朝の6時30分にシャワーを浴び、そのままマリネラのクラスへ・・。慌しい朝・・。仕事のある朝にもこんなことがあるのはザラなのだ・・。停電はなんの問題もないけど、水の問題・・。我慢ならない!もう~~~引っ越してやる~~~~こんなの必要?75リットル大容量のシャワー付ウォータータンク!収納&運搬Colemanキャリアータンクウィズシャ...
2007.06.30
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参加したよ!6年ぶりに・・。学生時代のcachimbaのときに一回だけパレードしたことがある。普通、午前10時30分ごろ、市長、知事のスピーチのあと重要な公共機関からのパレードが始まる。メインストリートと中央広場でパレードなので交通は渋滞する・・。バスが入らないためこ観光客は高山病に耐えながら歩かざるおえない。いろいろな団体、企業、専門学校(大学、小・中学校は別の日に行われる)が与えられた番号順にパレードをしていく。最初のうちは整然としているが、これが時間が経つにつれ、夜になると、だんだんと混乱を極めてくる。学生時代にパレードしたときには4時に集合して、結局パレードが始まったのは8時だった。その間、大通りにすし詰め状態で押し合いへし合いしながらまっていて、なかにはビールを飲みながら待っていたり、また飲んだビールのビンをそのまま捨ていることもあって、転がったビール瓶に足をとられそうにあり身の危険を感じたのをおぼえている。以降、「二度と市民パレードには参加しない!」と誓い、6月23日を“クスコでもっとも醜い日”となづけた。そして今回はマリネラを踊りながらのパレード。ブラス・バンドにあわせてソル通りからアルマス広場へ。踊り終わったあとには記念撮影。ちなみに普通のパレードはポンチョに帽子なのだが、父兄はこんな格好でパレードしていたな。そして夜は更け、パレードを終えた人々はアルマス広場の隣のレゴシホ広場に抜け、そこで街頭の酒宴となる。なにしろ道端での酒宴なので、ゴミは道に、小便もその場でっていうことになり、悪臭が漂ってくる世界遺産ですよ~。そこ。でも、市役所も警察も取り締まらない。条例で立小便禁止なんてやってくれないかしら。市役所ワキの歩道。このパレードは深夜0時まで続く、酒宴はさらに・・しかし翌朝のインティライミにはゴミの山は消え去り、チリ一つない状態になり、昨夜の混沌がウソのような状態になるのだ。
2007.06.24
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カハマルカに行く途中によったチクラヨ。目的は二つ。ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスの墓参りとマリネラ関係のものの購入。トゥルヒージョからパン・アメリカンハイウェイをバスで3時間半。チクラヨに到着。ターミナルから乗ったタクシー運転手にルイス・アベラルド・ヌニェスについて訊いた。わざと父方の姓をぬかしたのだ。「あ~、知っているよ。ホントの名はルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェス。フェレニャフェ出身でね。え?彼について調べているの。今日土曜日だよ~。図書館も閉まっているし~」残念・・。彼についての情報を得るチャンスを逃した。昼食後、タクシーコレクティーボ(乗り合いタクシー)に乗ってまずモンセフへ。そこでマリネラ・ノルテーニャ用の腰帯(faja)と金メッキのピアス(aretes)を買う。そのあとチクラヨに戻り、新たに街の反対側から出るフェレニャフェ行き乗り合いバスに飛び乗る。目的は一つ。広場に面した市役所。土曜日なのにあいていた。何かの集会らしい。玄関にいた人ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスについてたずねる。「あ、ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスね~!妹のアマンダがxx通に住んでいるよ」彼の名を冠した通りがあるって訊いたんですが?「通りねぇ~。運河のところに彼にささげられた絵があるけど・・。1時間半でこの集会が終わるけど、そのあとアマンダの家に連れて行ってあげられるよ」まだ下調べが済んでいない中での家族へのインタビューは無理があるし、その夜のカハマルカ行きのバスチケットは買ってある。時間がない。墓参りが精一杯だ。大通りをまっすぐ墓へ向かう。運河にかかる橋にはそのランバイェケ周辺に8世紀から14世紀にかけて栄えたシカン文化をかたどったアーチがあった。 橋をわたるとその脇の通りに面した塀に彼にささげられた絵があった。運河には彼の作”Chisco silbador”の歌詞が・・この歌はフェレニャフェの第二の市歌(himno)といわれる。♪No hay tierra como ferrenafe no,no, no, No hay tierra como ferrenafe・・(フェレニャフェほどいい土地はない)♪題名にあるChiscoとは、フェレニャフェ周辺によく見られるクロヒゲマネシツグミのこと。彼の肖像画墓地の入り口についたはいいが、墓地のどの場所にあるかがわからない。思案する私に墓地の守衛がたずねた。「何かお探しで」あの、ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスの墓なんですが、「ご案内しますよ」入り口をメインの道を抜けると礼拝堂のすぐワキの墓につれていかれた。「こちらです。それでは失礼」ペルーの田舎町にはめずらしいスマートさで守衛は立ち去った。表面には詩が彼の母もともに葬られたと言う。墓の写真をとったあと、いったん墓の外の花屋へいった。残念ながら花瓶が手に入らない。買った花をそのまま墓にささげた。もう3年もの間両親の墓にも行っていないのに・・。墓地を出るときに先ほどの守衛に会釈した。チクラヨに向かうバスの中で再びこの地に戻ってくる予感がした。仏事・お供え・命日・お彼岸【送料無料】【即日発送】北海道・九州・沖縄便は別途超速代400円お...
2007.06.23
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国民新党が元ペルー大統領、フジモリ氏に参院選の出馬要請をした。国民新党としては話題性が欲しいんだろうけどね・・・。疑問だらけ・・フジモリ氏は数々の容疑がかかって最高裁から自宅軟禁を命じられた人間であり、また一国の元首でもあった人物。どうして日本の議員の候補にしたてあげようというのか?まずフジモリは12の嫌疑で自宅軟禁となっている。盗聴、特別舞台・軍隊を使っての市民、学生、教授の傷害・殺人、状態のよくない航空機やトラクターの購入による、国家に対する裏切り(現大統領も前政権時代にやっている)、政敵の誘拐・傷害議員への贈賄、違法な家宅捜査による公権乱用その他公金流用、Etc。。その内容の真偽はともかくとしてペルーに生まれ育ち、日本滞在はわずか5年のフジモリに日本の何がわかるのか?またもし、日本で立候補することになれば、フジモリのペルー政界復帰は難しくなる。ペルーでは身柄引き渡しをを免れるための策だ、なんていっているけどフジモリ支持者にとってもこれは、日本での出馬要請は両刃の剣だと思う。実際、フジモリの弟、サンティアゴは「出馬要請を受けないように忠告したい」としているし、マルタ・チャベスは「ペルーでの政治生命を閉ざす」として出馬に否定的。出馬が現実になることはまずないと思うけど、こんなことを思いつく亀井静香って国際的常識がまったくかけていると思う。永田町ビッグバンの仕掛人亀井静香ペルー人の友達に同説明したらいいのか・・。「あの人、馬鹿なんです・・。相手にしないほうがいいから」ってしか言えない・・・。バカ発言丸投げ丼もし過去に複数の国で、国政、地方行政レベルの議員、首長になった例があったらどなたか教えてください。
2007.06.22
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わたしがルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスに興味を持ち出したのはちょうど一年前、ペルーのお昼のクリオジャ音楽番組“Mediodia Criolla”を見ていたときだった。2005年12月に亡くなったときの特集番組の再放送だった。その番組は、今から5年ほど前に一時帰国したドン ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスを称えた一般公開番組を再編集したものだった。”Sacachispas”や”Que Viva Chiclayo”などマリネラ・ノルテーニャの踊りもあった。司会のセシリア・バラッサがルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスと強調していたのが印象的だった。その中でチラッと移った彼の息子の姿。ダウン症候群らしい容貌。その姿に6年前の大阪でのサルサ・パーティを思い出した。その日は確か、ペルー独立記念日のパーティだったように思う。当時私にはまだなじみのなかったクリオジャ音楽の演奏をしていたグループがあった。マリネラ・ノルテーニャ、アフロ・ペルアノの踊りもあった。ふ~ん。それまで見たことのない激しく、美しい踊りに魅入られてしまった。その中で印象的だったのが演奏の中でスプーンを叩く(ペルーのアフロ音楽ではスプーンもパーカッションとして使うことがある)青年。精神薄弱児っぽい姿であったが、演奏後はサルサも踊っていた。ペルー人の友達に訊いた。「ねぇ、どこからこのグループ来たの?」「名古屋からだよ」その話はそれで終わったが、私は次第にペルーの海岸地帯の音楽や踊りにのめりこんでいってしまった。そして5年後。ペルーで観光ガイドの資格をとってから初めて出席したチクラヨでの観光ガイド全国会議。チクラヨはペルー北部のランバイェケ県の県庁所在地。しかしその近郊を故郷にもつルイス・アベラルド・タカハシのことはまだ知らなかった。その中でランバイェケの代表団が“Que Viva Chiclyao”を合唱した。Que viva el departamentode Lambayeque,con su capital Chiclayo,Monsefú y Reque.・・Chiclayano soy,a mucha honra, señoresChiclayano soy,y bailo la marinera!Y no de cualquier manera.Que viva Chiclayo,tierra generosa!Cualquiera se goza,mamita, con poca cosa.(ビバ、ランバイェケ県首都、チクラヨ、モンセフとレケの街私はチクラヨ人光栄に思いますよ、みなさん私はチクラヨ人マリネラを踊ります簡単なもんじゃない私はチクラヨ人やさしい土地誰だって楽しめるお姉さん、たいしたことはないけれど)友情の首都(Capital de amistad)、自分の故郷を誇りにするチクラヨの人々の姿が私の記憶に刻まれた。しかし、まだその曲が日本人を父にもつ作曲家の作であることは知らなかった。そして件のテレビ番組がすべてを結び合わせた。インターネットを通じ、ルイス・アベラルドのことを調べ始める。日本で小牧市に在住し、、ペーニャ(音楽のグループ)も持っていたという。“名古屋から来た”といった友人の言葉とは方面的に合致する。あのとき見た精神薄弱児の青年はルイス・アベラルドの息子だったのだと確信した。なにか運命的なものを感じずにはいられなかった。今、ペルーにいて、クリオジャ音楽やマリネラノルテーニャにのめりこむ自分を導いてきたものの一つを見つけた。ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」・第6番「田園」
2007.06.21
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島田泉氏の発掘で有名になったシカン王の墓で有名な町、ペルー北部ランバイェケ県、フェレニャフェ・・。2年前にはここの国立シカン博物館を訪れたが、今回の目的は違うところにあった。フェレニャフェ出身の日系人作曲家、故ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェス。1927年11月22日、福島県出身の父、高橋作蔵, カハマルカ出身の母タルシラ・ヌニェス・デルガドの間に生まれる。リマに移住後、作詞・作曲家として活躍、Mal Paso、Sacachispas、Que Viva Chiclayoなど名曲を作り、全国の人々に今も愛唱される。だが、彼はあまり父方の姓を名乗ることはなく、ルイス・アベラルド・ヌニェスという名で全国に名を馳せる。(死後発売されたハイメ・クアドラによるワルツ・リミックス集“Peruvian Waltz Chillout Cholo Soy”にMal Paso のイタリア語訳の歌が収録されているが、作者は”Luis Aberaldo Nunez”となっている)1996年に日本に移住、ペルー音楽の普及に尽力した(映像はココ)。2005年12月、日本で亡くなる。 翌年1月、その遺骸は故郷のフェレニャフェに戻った。ランバイェケ県ではセニョール・デ・シパン顕彰を贈り、遺骸の空港からの移送、埋葬に盛大なメモリアル・セレモニーが行われた。ランバイェケ県知事の贈った言葉「ルイス・アベラルドは死んだわけではなく、彼を慕う人々の中でも生き続けている。ランバイェケ県にとってルイス・アベラルドはアイデンティティと同意語なのだ」つづく・・
2007.06.16
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高級綿といわれるピマ綿のパジャマ。リマの繊維問屋街ガマラでを買った。リマに行くときはバッグは空で行って、服は現地調達。今回はカハマルカでのガイド全国会議に行く途中、リマには一日しかいなかったが、いつも着ているパジャマがかなりよれよれになってきたのでパジャマを買い換えることを最初から決めていた・・。ピマ綿は超長綿という高級綿。超長綿とは、平均繊維長が35mmを超える綿で艶やかな光沢あり、さらに吸湿性に優れ、肌触りが良いというのが特徴。代表的な超長綿としてエジプトのギザ綿、ペルーのピマ綿、アメリカのスーピマ綿、西インド諸島の海島綿などがある・・・のだそう・・。このピマ綿(algodon pima)。最近ペルーでは売り出し中。クスコでは観光客のお土産向きの高いのしかないけど、前回リマに行ったときにはガマラで安いのが売っていると聞いて、下着を購入した。肌触りはたしかによかったけど、デザインがいまいちだったな。でも履き心地は○。今回はパジャマを買った。たったの32ソル(約1200円)。クスコじゃ普通の綿のパジャマでもそれ以上の値段がすることがある。パジャマ専門店で出されたSサイズのピマ綿パジャマはまるで囚人服のような横じま。こんな感じ・・おまけに下のほうはゴムではなくで紐で結ぶんだけど、糸穴がしっかり外側向き。ださいけど、どっちみち寝るときだけ着るんだし~、着心地さえよければ・・と思い買った。さっそくカハマルカで着た。肌触りのよさに感激!クスコに帰ってからも手持ちのよれよれのパジャマと洗い換えしながら着ている。ある日のペルー人の友達とリマでのショッピングについて話をした。「ガマラでピマ綿のパジャマを買ったのよ」「でもペルーで売られているのはよくないでしょう?生地とか、縫製とか・・みんな輸出されるから。アメリカあたりで買ったほうがよっぽどいいよ」「あら、生地は肌触りがいいし、悪くないわよ。でもデザインは悪いな~。縫製もわるそう・・」そう・・縫製はたしかに悪かった。ちょうどその会話のあった夜、とこにつく前にベッドの上で自慢のパジャマに着替えているとき見つけてしまったのだ・・。股繰りの縫い目ににすでにちいさな穴があることを・・。やっぱり・・、ね。でも私はくじけないで着ている・・。どっちみち寝るときだけだし・・。肌心地さえよければって・・。繕いもしていない。ちなみに・・下着のほうは・・まだやぶけずにもっている・・。高級スーピマ綿にスクワラン加工とセラミドをプラスしたソフトタッチW保湿フクスケ【スクワラン...
2007.06.15
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世界クラブチームランキングが6月1日に発表された。これは国際サッカー歴史統計連盟International Federation of Football History & Statistics によるもので、全月末までの一年間の国内外の対戦成績によって順位を計算される。ちなみに1位はセビージャ、2位はチェルシー。さて、ペルーのチームはクスコのシエンシアノ(Cienciano de Cusco)が75位、今期国内リーグ前期日程優勝のサン・マルティン・デ・ポーレスが119位、ボログネシデ・タクナ147位。あれ、首都リマの名門チームはどこに行ったのかしら???スポルティング・クリスタル165位ウニベリシタリオが184位、アリアンサ・リマが214位で、このペルー最強のチームのユニフォームはどこ?実は楽天では売っていないよう。買い付けの人、リマのスポーツ店とか、マスコミとかの言うこと鵜呑みにしているんじゃない?っていう感じ。ペルーの首都だから、ペルー全体を公平に報道しているとは限らない。マスコミだってペルー全国の3分の一の人口を抱えるリマの人々の好きなチームをひいきしたいのはわかるけど。(過去の日記参照)、世界的なレベルでいうとね・・田舎チームのクスコのシエンシアノのほうがずっと上なわけ。外国人観光客が着ているペルーのクラブチームのユニフォームのレプリカと言えば、断然シエンシアノのユニフォームが多い。なにしろ赤いユニフォームの胸にマチュピチュのシルエットが入っているんだ~。でも日本でシエンシアノのユニフォームを入手するのは困難なよう・・。ちなみ1991年から2006年までの通算ランキングも出ていて、やはりクスコのシエンシアノがペルーでは最上位の97位、スポルティング・クリスタルは123位、ペルーのクラシコ、ウニベルシタリオは139位、アリアンサ・リマは167位だった。(ちなみに1位はバルセロナ)リマのチームってぜんぜん駄目・・・。ちょっと驚いたけどね、この結果、シエンシアノの台頭っていったら、2001年の国内リーグ後期日程優勝と、2002年コパ・リベルタドーレス決勝トーナメント進出に始まるんだもの。他のペルーのチームと比べると濃い~7年間だったね。本当のペルー最強チームクスコのシエンシアノのユニフォームが日本で入手できるようになりますように・・。楽天さ~ん、どうですか~!!!
2007.06.09
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6月7日の今日はカトリックの暦ではコルプス・クリスティだった。ペルー全国この日はフツーの日だけど、クスコではこの日は祝日。普通のコルプス・クリスティはキリストの体を現す聖体顕示台を崇めるのだけど、クスコのコルプスは15体の聖人・聖母像がパレードすることで有名。これはスペイン人とカトリックがアンデスに入ってくる以前、インカの時代に祭りのときに皇帝・皇族のミイラ(胎児の形をしていた)を担いでパレードした影響が残っているとか・・。植民地時代には聖人・聖母像の衣装の中にミイラを隠していたなんていう話もある。そうして司教のミサやキリストの体よりもクスコの各地区から集まった聖人・聖母像が重要に・・。このコルプス・クリスティで必ず食べられるのがチリ・ウチュという料理。チリウチュという言葉はケチュア語の チリ=冷たい ウチュ=辛い という言葉からなる。 一皿にたくさんの食べ物が少しずつのっていて、中身はクイ(モルモット)鶏肉、 チーズ、 炒りトウモロコシ 海藻(コチャユーヨ) ソーセージ トルティージャ 魚卵 からなる。 クスコではコルプスの他、何かお祝い事があるとこれが出されるのだ。毎年9月30日のガイドの日のパーティでもこの料理が出るな・・。この料理、コルプスの前日のEntrada de Corpus(エントラーダ・デ・コルプス),コルプス当日、8日目のOctavaオクターバ(以前ブログに書いたのでこちらを参考に)には街のあちこちで売られるが、一番盛り上がるのがココ。サン・フランシスコ広場。昨年まではサピ通りで売られていたけど、今年からは場所が変わった。実は今年は会社でもチリウチュをご馳走になったのだが、にもかかわらずチリウチャーダのチケットをマリネラの先生に押し付けられてしまい、2日続けて食べることに。こんなチケットはチリウチュの販売を確実にするために発行することがあるのだ。一皿10ソルはクスコ全市共通。どこに行っても一緒。前日、会社で、「時々食べるのはいいけど、連続して食べるのはつらいわよねぇ~」なんて話をしていたけど、仕様がない・・。行くしかない。チケットを持って、お昼ご飯代わりに食べに行った。このサン・フランシスコ広場のチリウチュスタンドは勝手に出せるわけではなく、ちゃんと市役所のフェスティバル事業局(EMUFEC)に申請をしたものだけが出せるのだ。場所だって、ちゃんと市役所から指定されたところに出さなければならない。チリウチャーダのチケットに書かれた場所が見つかるか不安だったけど、ちょうど通り抜けた通りのすぐ正面にあった。なかには偶然友達が・・狭苦しい。間口1.5メートル奥行き4~5メートルくらいのスペースかな~。同じような店が100以上集まっているのだ・・。なかなかテーブルのところに通れないのだ。隣の店とくっついたような状態で、出入りが大変だった。2日連続のチリウチュはきつい。結構脂分が多く、みんな冷たいまま出されるため消化に悪く、今から5年前には胃痛を起こした。たぶん疝痛(Colico)だったのだろう。チリウチュスタンドではビールとかコーラしか売っていないけど、できればチリウチュを食べた後には暖かい紅茶かハーブティを飲んで脂肪分を溶かして、消化を助けなければならない。今年は食後、速攻で家に帰り、アニスティを飲んだ。2日連続で脂肪分たっぷりの食事をとってしまった。今日はエクササイズをして寝なければ・・そういえば明日はPollada(ポジャーダ、チキンバーベキューパーティ)のチケットを押し付けられている。肉付けの毎日にうんざりしてきた・・。あっさりしたのが食べたい・・
2007.06.08
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国外に輸出される・・ってカハマルカのコーヒーのこと。ペルーのコーヒーの中でもカハマルカは有機栽培のが輸出されていることで有名。そんなことで観光ガイドの全国会議に出席しガイドたちも期待していたようだ・・・しかし・・「信じられない!朝食でネスカフェのインスタントコーヒーが出てくるんだもの・・がっかり」カハマルカに夜行バスで着いた初日、コンチネンタル・ブレックファストのはずだったがコーヒーはインスタント・・私はせめて・・こういうスタイルを期待していたがそれすらかなわなかったのだ・・。以降、私はホテルで朝食はとらないようにした。会議提携料金で宿泊していたが、朝食付きと朝食抜きが選べ、予約のとき朝食抜きプランを選んでおいたのだ・・よかった・・。翌日からはジューススタンドへ・・スペシャルジュース2杯(フルーツやにんじん、牛乳などたっぷり入っているので頼むとたいてい2杯になる)の朝食にすることに・・。でも会議出席者用のディスコもあってそのフィエスタのあとは・・ジュースプラスコーヒーでもやっぱり・・ネスカフェ・・。たまには、こんな、タマル(ウミータともいう)も食べた。カハマルカで唯一おいしいと思った食べ物。とうもろこしの蒸しパン。なかには鶏肉とブラックオリーブのみが入っていた。ついでに唐辛子ソースもすこし頼んだ。さて会議も終わり、リマ行きの夜行バスに乗る前にあわてておみやげ物を物色。カハマルカは乳製品で有名だけど、チーズは傷みそうなので・マンハルブランコ(ブラマンジェ。牛乳を煮詰めた甘いクリーム)とかとうもろこしベースのお菓子を買うことにした。お土産を見に入った乳製品専門店で見かけたのが袋に入ったカハマルカのコーヒー。ちゃんと挽かれている。たったの3ソーレス。自分用にこれを買ってバスに乗った。なんか変な匂いがする・・自分のリュックから・・なんだろう・・。変なものは入っていたっけ?リマについてから確認した悪臭の主はコーヒーだった。翌日クスコの我が家に帰宅し、飲んでペルー様式でコーヒーを入れる・・これが、激マズ!ついでに粉末の豆乳を入れるとさらにまずく・・無添加豆乳パウダーカハマルカの名物のコーヒーはカハマルカには残らないのだ・・。すべて輸出用。ちなみに私の買ったのは250グラムが3ソルっていうから100円強。まずくってもしようがない?発展途上国の生活ってそんなもんなんですよ。といいながらもまずいのを我慢して今日も飲んでいるのだった・・。誰かまずいコーヒーのおいしい飲み方教えてください。海外でしか手に入らないのか?カハマルカのおいしいコーヒーペルー パンパス デル インカ1Kg約120杯分【送料無料】 信州の自家焙煎コーヒー工房こだわ...
2007.06.07
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ペルーではスペイン資本のテレフォニカ社が電話、インターネット、ケーブルテレビを扱っている・・。ほとんど独占状態・・。他にもケーブルテレビや電話の会社はあるが、地方によっては一社しか入っていないケースがあり、他に変えたくっても選択の余地がないのが現状。電話とインターネットの料金は一つの請求書に合計金額が出てくる。この電話の請求書かなり問題があり、以前から支払期日前日とか当日とかぎりぎりに届くことがあって、期日までに電話代を支払うことになれてしまった。(電話を切られたことはないが、請求書にはわずかだが延滞料金20センティモ(約7円)はかかっている)。この件に関してもやはり抗議したことがある電話請求書の発行はいつ?「8日です。で、各戸への発送は13日から始まって・・支払期日は?20日です」一週間の間にそんなん仕事が続いているときに行けるわけないやん!ペルーではまだまだ公共料金の銀行自動引き落としが一般的になっていない・・。電気代、市の清掃費、水道代を徴収する代理店(よく薬局があつかっている)というのが市内各地にある。しかし、この代理店では支払期日を過ぎると扱ってもらえないのだ。おまけに日本のコンビニのように深夜までとか24時間営業というわけではない。「請求書が届かなくっても電話番号をおっしゃれば当社の窓口で払えますよ。」物事の論点をごまかすなよ。どうしてぎりぎりに支払い期間が短いんだよ。請求書が期日ぎりりぎりに届くんだよ。「それに銀行の自動引き落としもできますよ」ちなみに電話代やケーブルテレビは銀行口座からの自動支払いもできるのだが、電話局が手続きするのでなく、銀行に加入者自らが行って手続きしなければ行けないのだ。ペルーの銀行・・ならぶぞ・・。手続きも長いぞ~。それに、手数料もかかる。そんな面倒なことやってまで自動支払いをしている人がいったいこの国にどれだけいるのか?この会社に来るたびにけんか腰になる・引越しで電話を移転したとき、いきなり電話料金が上がっていてびっくりしたことがある。問い合わせに行くと、電話移転工事代が入っているのだという・・。移転の手続きにきたときには係りの人はそんな話をしていなかった・・。移転料金のことを何にも言わなかったので必要はないはずなんですけど・・。喧々諤々の議論の末、移転料金は払わずに済んだ。ちなみに受付番号をもらってからこの問題が解決するまで2時間もかかっていた。80ソーレスも浮いたのはよかった。移転料金免除を勝ち取ると急に悲しくなってきた・・。ねぇ、こんな苦情なんてみんなしたいと思っているのよ。請求書の未着の件とか・・。でもね、苦情を申し立てようとしても応対に時間がかかる、解決に時間がかかるとか・・。きっと忙しくって泣き寝入りしている人もいると思うのよ。お姉さんも納得しながら「それもそうですね・・」サービス天国の日本からペルーに移り住んで6年半。いまだにこの国サービスの悪さが受け入れらず、毎日ストレスをため続けるのだった。最近ケーブルテレビも衛星で配信するようになりました。【送料無料】東芝 BS・110度CSデジタルハイビジョンアンテナ 取付け金具キット付き [BCA-452K]...
2007.06.06
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ケーブルテレビのNHKが入っていないことに6月2日になってからきづいた。クスコではNHKは82チャンネルだったにだが、その82チャンネルに58チャンネルであったはずのBBCが入っていたのだ・・。別に私は日本のチャンネルに固執する人間ではない・・。この番組を見たい・・っていうのがなかったので最初はフツーにBBCを見ていて異変にしばらく気づかなかった・・。受信料請求書と一緒に番組情報雑誌が加入各戸に届けられるのだが、番組情報雑誌がない限り、チャンネル表がわからず、自力でNHKを探す他ない。請求書や雑誌は前月の末日までに届かなければならないがそれが、まだ届いていないことに気づいた。この請求書や番組雑誌、今のところに引っ越してから届かなかったり、届いても1週間経ってからだったりいろいろ。番組表雑誌が届かないときは自分でケーブルテレビを営業する電話会社にとりに行く。ただ過去にチャンネル変更が何度もあった。ひどいのは前回。突然、NHKが消え、どのチャンネルをかけても出てこない。その前まで番組がはいっていなかったチャンネル番号に移ってしまったのでチャンネルをプログラムしなおさない限り映らなかったのだ。自動的にケーブルの電波を検出してチャンネルをセットするオート・プログラムにまかせてチャンネルをさがした。今回も面倒なので同じようにして探す。見つかったNHKは今回は86チャンネル。ちなみに中国電視台は84チャンネルとこっちのほうが番号が若くなった。これも中国の台頭と日本の凋落を象徴しているのか?無事にNHKを発見したあと電話会社に行く。通常土曜日は13時30分まで営業している。社に入ったのが12時45分。しかし、相談ブースがしまっていて電気も消されている。対応しているのはCATVのおねえさんと、料金支払い窓口だけ・・。いったいどうしたの・・。「今日は社内研修で相談・申し込み窓口は休み・・・」社内研修って一斉にやるの?誰も対応しないの?電話・ケーブルテレビ・インターネットといろんなサービスを提供する会社。もし加入申し込みとか移転申し込みとか苦情とかある場合はどう対応するのだろう。「今日の営業は1時までだからね・・」しばらく並んだあと、ケーブルテレビのお姉さんは応対してくれた「一応当月の2日までに雑誌、請求書が届かなければ電話番号XX番に連絡をください。6月2日・・今日ですね・・今日届かなければ電話してください」だいたい番組表は月初から月末までなんだから、前月末日まで届かなければ行けないでしょう?それに・・チャンネル大幅に変わったのよ。それ把握するのに必要でしょ。情報誌・・。幸いにもケーブルテレビのおねえさんは親切にも届いていない情報雑誌をくれた。残念ながらコンピュータシステムが動いていないため、受信料の請求書は受け取れなかった。一応苦情も入れておいた。請求書や雑誌が届くのが遅くれたり、届かなかったりがあまりにも多すぎると。電話会社を出ようとすると、すでに入り口はしまっていた。通常午後1時30分までなのでそうと信じてやってきてお客さんは対応してもらえなかった。訊くと営業時間の一時変更の知らせは、2,3日前に社の入り口に貼っておいたのだという。ペルー人たちはこういうときも素直に帰っていくのが信じられなかった。一番怒っていたのは、無事に対応してもらえた私。こんな悪いサービスを受け入れるから、電話会社のサービスが向上しないで利用者が苦しむことになるのだ・・。あ~、DirecTVに変更しようかしら・・。そんなことを検討しながら社をあとにした・・。つづく・・Symblue 20型ワイド地上デジタルハイビジョン液晶テレビ/ホワイト (DY-LC201SD-SJW)
2007.06.04
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またクスコでデモですよ・・サッカーのFIFAの裁定をめぐって・・国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は27日、標高2500メートル以上の高地での国際試合を禁止する方針を明らかにした。以来、ペルー国内では議論沸騰・・この決定に対してペルーではバランキージャのように気温が40度にもなるようなところで試合をするのは健康に悪くないのか?リマのように湿度が100%近いところで試合をするのは・・?私なんか2002年のワールド杯の日本の蒸し暑いコンディションも相当ひどいと思ったけどね。私なんか標高3300メートルのクスコに普通に生活にしているから今回の決定は信じられない。南米各国の現状を把握していない。ボリビア、エクアドル、コロンビアの首都は2500メートルを超えるところにあるのだもの、そこで国際試合の予選ができないとなったら大問題。いったいボリビアのどこで予選をしろっていうんですか?ボリビア事実上の首都ラ・パスも憲法上の首都スークレ、コチャバンバといった主要都市が2500メートルを超えるところにある。ペルーだては2010年のワールド杯予選を標高3300メートルのクスコのスタジアムで行う見込みだったので・・あらあら・・って感じ。ボリビア大統領エボちゃんは標高5000メートルを超えるところで自らサッカーの試合に参加し、高地でも試合ができることをアピールした。ペルーの大統領アラン・ガルシアは「今回の決定はヨーロッパ中心主義、世界はもっと不均質で多様なのだ」と発言した。たまにはアランも言うこというよ~。Alan Presidente!ちょうど6月1日、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルーの山岳15地域の選手たちによるスポーツ大会、汎アンデスユースゲーム開催の調印が行われたマチュピチュでは大団幕がかかげられた。「Blatter no temas, la altura no mata(ブラッター、恐れるな。高地は殺さないぞ)」←超ダサイ訳ですみません。そう、汎アンデスゲームでは標高3300メートルを超えるクスコや3800メートルを超えるプーノでも試合が行われるのだ。同日、クスコでもサッカーファンたちがサン・フランシスコ広場からアルマス広場に向けてFIFAの決定に対する抗議のデモを行った。クスコはペルー最強のチームシエンシアノを抱えているが、今回のFIFAの決定は代表チームの試合に関しての禁止であって、クラブチームの試合に関しては明言していない。クラブチームの試合はOkなのでまだまだリベルタドーレス杯やスダメリカーナ杯はクスコで行われる可能性はある。最近ではクスコでのクラブチームの試合に関しては高山病になる前に試合をするっていうのが流行のようで、ボカ・ジュニオールが試合当日にクスコに到着後、そのまま試合に向かっていた。ペルー国内リーグでも同様の傾向あり・・。いずれにせよ、各国の現状をちゃんと把握していない今回のFIFAの決定、早急に廃止してもらいたいもの・・。
2007.06.03
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今日6月1日、観光ガイド業法の施行を要求してのデモ行進がペルーの主要都市の中央広場(Plaza de armas)で行われた。観光ガイド業法は2年前の5月に議会を通過し、成立しているのだ。しかし、この法律(Ley No.)28529号は公布後。観察期間の2ヶ月を過ぎたあとも施行されないまま2年が過ぎてしまった。どうやら公布後、旅行会社関係が施行を妨害したらしい・・。で、先だってのカハマルカでの観光ガイド全国会議でこれが問題になり、法律施行を求めての全国一斉の集会を行うことが決定されたのだ。クスコでもデモ(Manifestacion)があり、私も参加することになった。参加しなければ60ソーレスの罰金。うわ~い、デモ行進なんて生まれてこの方初めてのこと。私ときたら9時30分集合のところを10時15分に到着・・。すでに大勢のガイドや観光を学ぶ学生が集まっていた。 さてデモ行進(Marcha)開始。語呂のいいアジが飛ばされる。El guia es professional, no es provisional(ガイドは専門職、暫定的なものじゃない)アジテーターはこんな感じ。すごい勢い。ガイド法施行をしない観光通商省に抗議するために10分間の沈黙。看板も広場の道に置いてね。でも一方でガイドの中には援助資金集めのポジャーダ(Pollada寄付集め目的のチキンバーベキューパーティ)のチケットを売り歩いているのがいたり、遅れてきて、沈黙中にもかかわらず「よ~、retama!」なんて大声で挨拶をしてきた同窓生もいたり・・。まったく統率がとれていなかった。さすがに10分もの沈黙にはがまんしきれなかったのか会長自ら8分で終了を宣言・・。さて行進の再開。。ガイド法施行をしようとしない観光通商省の副大臣に対する抗議とか、某旅行社に対する批判とか、「XXに死を!」なんてアジとか・・結構過激・・。いろんなアジについていこうとするけど、私はなんかうまくついていけない・・。 看板持ちながらもニコヤカに・・ほとんど同窓会気分のやつも・・。「写真とってくれよ~」と言う言葉に対し、強引にガイド法施行を要求する言葉の入った看板を持たせて記念撮影・・平和だ・・。こうして2時間近くに及ぶアルマス広場を占拠してのデモは無事終了。先頭を切って行進した友達は、明日の新聞が楽しみだそう・・果たしてこのデモ行進はガイド法の施行につながっていくのだろうか?旅行ビジネスの本質
2007.06.01
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