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今年後半戦の課題は、「本当に贅沢な人生」をおくるための準備。何が贅沢で何が無駄な暮らしなのか?そして、「私」という本質をどういう風に導くか?「良質な生活」作りを目指して、一歩一歩前進です。進む速さはゆっくりだし、「私」改革にかかる時間もたくさん必要ですが、今が出発点ですから・・・・。私が目指す「良質な生活」は、お金をかけずに贅沢に暮らすこと。税金が驚くほど上がっていたり、物の値段が少しずつ上昇していたり・・・・。子供が成長してくるにつれ、お金もかかるようになってくるだろうし・・・・・。でも、その中でも「贅沢」に暮らしたい!「贅沢な暮らし」ではなく「贅沢」に暮らす。お金の有無は関係ないところの、贅沢。そういうものを目指して、日々の暮らしを立て直して行きたいと思っています。「経済至上主義」の落とし穴から抜け出せば、きっと地球にも自分にも家族にも、優しい生活が生まれるはず。そして、『何が一番大事か』を、掴みとる力が生まれるはず。これを子供が受け継いでくれたら、もうそれだけで最高!です。まずはニコニコ笑って過ごせるように、自分改革から始めましょ!「自分自身を知る」私達が過ごす毎日毎日、一瞬一瞬の連なり、それが人生を形作ります。良質な人生を生きるという事は、私達に与えられた時間を良質なものにするということです。無駄な時間を省き、それを良質な生活行為に当てることです。見栄からくる虚飾や、保身からくる卑屈な感情と共に過ごす時間を、磨かれた感性と共に美しく過ごす時間に変える事です。自分に与えられた時間が有限な事に、そろそろ気づかなくてはなりません。お金の無駄使いなら後で稼いで取り戻すこともできますが、無駄に使われた時間を取り戻すことは誰にも出来ません。無駄の源は他でもない、自分自身です。あなた自身のあり方です。自分自身を知る事によってはじめて、具体的な時間や費用の節約法を使いこなすことができます。つまり、自分が求める価値に対しては、贅沢に時間やお金やエネルギーをかけ、そうでない物に対してはできるだけ簡略化して行く事ができます。やみくもな節約や合理化が人生を豊かにしてくれるとは思えません。休養、くつろぎ、遊び、何もしない時間・・・・・それらは決して無駄ではありません。 (「もっと素敵な良質生活」 加藤ゑみこ 著 より)さぁ、まずは自分をシッカリ知る事。自分を知らないことにより、無駄使いする時間やエネルギー、費用、他人への迷惑を、極力省くようにしなくっちゃ。「何も知らない子供の時代」は、もうとっくの昔に終わっています。残された時間は、「大人」で過ごしたい。 良質な暮らし=素敵な大人の暮らし。明るく元気で、愛らしく健気な、可愛い大人でいるために、しっかり自分を見つめましょ。 さぁ、今日からスタートです。
2007.08.09
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夏の強化訓練で、「エリさん」に触発されて早朝起きをしています。 初めは一気に日の出前起きを目指したのですが中々体が言う事を聞いてくれず、それならばと、1日15分ずつ起きる時間を早めて行き、ようやく日の出前(5:00)には「おはよう!」を自分に言えるようになりました。家中誰も目覚めていない私だけの時間に、まずは寝室以外の部屋中の窓を開け放ち、ベランダに出て深呼吸。そして、水を一杯頂いて・・・。体と心に新鮮な空気と水をいっぱい送り込みます。そして、まずはお掃除からスタートです。体も軽く、足取りも軽く・・・・。今までと同じ家事なのに、湧き出るような高揚感の中でお勤めすると、心も体も家の中も、全てを磨き上げているような気になります。うん!これが生活即修行なんだ!と実感。いやいや、ここまで来るまでに、長い歳月がかかったなぁ。思い返せば、3年前の今頃、京都の大徳寺に行きました。大徳寺塔中大仙院を拝観し、その後お茶を一服いただきました。この日はたまたま尾関宗園住職とお話する機会を得て、その時直筆の書を購入させて頂きました。「今こそ出発点」人生とは毎日が訓練であるわたくし自身の訓練の場である失敗も出来る訓練の場である生きているを喜ぶ訓練の場である今この幸せを喜ぶこともなくいつどこで幸せになれるかこの喜びをもとに全力で進めようわたくし自身の将来は今この瞬間ここにある今ここで頑張らずにいつ頑張るというものです。購入したのは、三年前の夏。でも、この書は、ずっと机の引き出しに入ったままでした。この言葉に一目ぼれして買ったものの、この境地に自分を持っていく事が中々できず、ずっと目に触れない所にしまっていました。しかし今朝掃除をしていて、ようやくこの言葉が私の腑に落ちてきました。「あぁ、こういう事なんだ!!」と・・・・・。今日からは、この書もようやく日の目を見る事ができるようになりました。今年の後半のテーマをずっと考えて、「良質な生活」に決めました。良質な生活・・・・。良質・・・・。これは、品質(暮らし)が良いという事と、本質(私自身)が良いという事。一つ一つの生活行為の積み重ねである毎日の暮らしを、より美しくより良質に生きるために・・・・。ただむやみやたらに高価な物で溢れた無駄を積み重ねた暮らしではなく、清貧な贅沢をするために・・・・。今日からの積み重ねを喜びとするために・・・。そこかしこにワクワクがたくさん転がって、喜びさんと幸せさんが手招きしてくれているようです。訓練は体と心を鍛えるもの。厳しくって当たり前。簡単だったら力はつかない。今ここで頑張らずにいつ頑張る。
2007.08.07
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今年も八月になり、残すところ1/4となりました。何が出来て何が出来なかったか?新たに何をやろうと思うようになったか?等など、今年の後半に向けての見直しをしています。そうして、バタバタと過ごすこと一週間。台風や、夏祭り、花火大会など、夏の風物詩を楽しみたくて、子供と共に西へ東へと動き回っていました。なるべく、冷房使わないようにしようね。涼しく過ごす工夫をしようね。元気に遊べるように、楽しみを探そうね。そう思って過ごしているうちに、ついつい子供の体調を気にかける事を怠ってしまいました。昨日食べたパンの中に入っていたクルミに、アレルギーを起こしてしまいました。口に入れた瞬間から調子が悪くなったらしいのに、中々食が進まないのを、我儘だと叱りつけながら食べさせてしまいました。そして10分後、「お腹が痛い」と泣き喚く娘を見てみると、全身に蕁麻疹・・・・。いつもアレルギーが出るわけではないけれど、元々ナッツ類には弱い子でした。そして、蕁麻疹が出るのは、体調が悪い時。ついつい夏の課題が順調に進んだのをいい事に、自分のペースで走りすぎました。一番弱い所に無理が来るのにね。忘れていました。昨日の夕方と今日の朝病院行く道中で、自分のペースの見直しです。どんな時でも自分の歩くペースを保つことができるように、それが『マイペース』なんだ!と学生時代に教わりました。このペースを崩して自分のペース以上の中で動き回ると、必ず心身の異常をきたすと。だから、どんな時もまずは自分のペースを作る事が大事なんだと。でもこれには、『自分のペースを知り、それを守る事も大切』だけど、『弱者のペースを読みとりそれを気遣ってあげる事の大切さ』も隠されていました。それが出来てこそ、本当の大人であり、自立なのかもしれません。そして今朝ケロリと元気になった娘は、朝の原爆死没者慰霊式典やサイレンの音は何?としきりに聞いてきます。もちろん、サイレンと共に黙祷をし哀悼の誠を捧げたのですが、いざ「どうして?」と聞かれた時に、この小さい人にどう説明するか?答えに窮してしまいました。喧嘩や争い、戦争はイケない事。でもほんの六十数年前に起きた戦争で、多くの命が失われたこと。そして、その命の犠牲の上に今の平和があって、こうして家族で息災に暮らして行ける事。あなたの命は、かけがえのないものである事。そして、他人の命もそれぞれ同じようにかけがえのない命である事。だから、決して粗末にはしてほしくない事。思いつく限り、一生懸命言葉を尽くして話しました。3歳の彼女にはどのくらい理解できるかどうか分からないけれど、でも話し続ける事に意味があるはず。そして争いの悲惨さ、無意味さを、学び続ける事の大切さを、改めて感じました。学ばなければならない。一生・・・・・。そして、声にしなくてはならない。これまでの事、これからの事、しっかり考え、見つめて、学び、行動する。温故知新。さぁ、後半戦の課題の一つです。暮らしを良質なものにしていくために、今日も顔晴れ~~!私!大事な事を見失わない力。
2007.08.06
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子供を育てながら思うのは、こそだて=「孤育て」であり「個育て」であり「己育て」であるという事。「人はたった一人で裸で生まれてきて、裸で死ぬしかない。例え愛する我が子でも、「私」という者のいわゆる服飾にすぎない。私の胎を貸して生まれてきたとはいえ、決して同化する事はない。」という『弧』「例え何人の子を授かり、育てる事になろうとも、子供一人一人は「個」。誰かと比べられることも、比べることもしてはならない。『個』を認めそれを良い方へと導いてやる事の難しさは、我が子であるが故に中々難しいです。」「一人の人を導き育てるという以前に、まずは確固たる自分を確立する事の難しさ。子供を育てるというのではなく、『己』を必死に育てている過程を子供が見つめ、その後姿から何かを盗み取っていく。良い事も悪い事も・・・・。だから、いかに『己』を作っていくか?を日々模索しているし、自分で自分を育てなおしする事も多々です。」例え育児書を読んでいても、誰かを育てるためだけでなく、自分を育てるという目線からも得るべき事はたくさんある。こういう目線を持つ事ができた事に、感謝せずにはいられません。今読んでいる育児書は、「家族を育てる食卓」(室田洋子 聖徳大学教授)というものです。室田先生の専門領域は、発達心理学、臨床心理学です。もともと心理学に興味があり次に勉強したものの一つなので手に取った本なのですが、食卓のあり方、食育のありかたを心理学の切り口から捉えられています。食という生きるためには不可欠な行動を通して、子育てをするためにどう取り組むか?という方向からと、自分自身が育ってきた過程で不足していたものを補い、自分自身を育てなおすという方向の、2つの視点から考える事ができるように思います。自分の心を癒す為にも、解放する為にも、とても役立ってくれています。私の夢は、大きなテーブルに家族それぞれが自分が一番座りごこちの良い椅子を選んだ食卓を作る事。揃いの椅子ではなくて、テーブルという大きな一つの場所を囲んだ、それぞれが好きな椅子。一つのテーブルという場所に集う様々な個性の存在が家族のあり方を表しているようで、是非とも実現したい事です。先日新聞のコラムに「透き通る一瞬」という記事が載っていました。これは、和歌山県の護念寺の控え室の床の間にあった色紙に、料理研究家の方が書かれていた言葉だそうです。大根や人参など煮物をするとき、まだ硬いうちに調味料を入れても味が染みこみにくく、柔らかくなりすぎてからでは味が濃くなり、素材の持ち味を損ないます。大根や人参が透き通る一瞬の味付けをすれば、少しの調味料で美味しく出来る、という意味だそうです。子育て、教育、職場などなど、人生のあらゆる場で、人と時間と空間が織り成す芸術のように、「透き通る一瞬」を大切にしたいものです。と書かれていました。『透き通る一瞬』人生は何度もやり直しができる物だけど、できれば一番ベストのタイミングを逃さず、小さな力で大きな成果を出して行きたい。そのためには、「私」が、「子供が」、「家族が」、「大切な人が」、透き通る一瞬を見逃さないように、しっかりと見つめなくては!見つめる目を失わない!
2007.08.03
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九州には台風が近づいてきていて、風がどんどん強くなってきました。朝からベランダの大掃除。でもこういう事でもなければ、整理整頓をする気になれないかもしれません。「何事も無駄は無い」そう思いながら、台風の接近を恐々待つことにいたします。どうぞ、今回の台風で発生するであろう各地の被害が、くれぐれも小さく済みます様に。今日は午後から、子供の人形劇のワークショップがあるのだけれど、大丈夫かなぁ。行けるかなぁ・・・・?ちょっと心配しながらの時間を過ごしています。あんなにも楽しみにして、昨日はパンフレットを抱いて寝る位だったものね・・・・。うん!ここで私がへこたれていては、物事は進みません。一つ自分に喝を入れて、雲の切れ間から見える青空のように、清清しい気持ちに立て直さなければ!「愛されている」そう思えるだけで、心が強くなる。それは、子供が言う「ママ、だーいすき!」の一言で感じます。今日は朝から私が動揺しているのが子供心に分かるのか、まぁちゃんは「大好き」の大サービスをしてくれています。まぁちゃんの妹分である様々なぬいぐるみ達も、入れ替わり立ち変わり連れて来られては、「大好き」だと言うようにまぁちゃんから言われています。そういえば、ヘルスアートクリニックくまもとの院長である中原和彦先生の新聞のコラムにも「愛」の大切さを書かれたものがありました。『「愛され感」で心に安らぎと』自分を愛する心や感謝する気持ちが、健康への入り口を探すのにとても重要です。自分を愛し、感謝の気持ちを抱くには、「心の安らぎ」が前提だと思います。それでは、どうすれば心が安らぐのか?米国の精神科医ジャンボルスキーの「やすらぎ療法」(原題「愛が答え」)という本があります。そこには・・・・・。「どんな問いにも愛がその答えだ。どんな問題にも愛がその答えだ。どんな病気にも愛がその答えだ。どんな恐れにも愛がその答えだ。いつでも愛がその答えだ。なぜなら愛が全てだからだ。」と書かれています。愛を中心に考えると、興味深い事が見えてきます。多くの場合、病気の時は愛の失敗例が発見されます。そのため、人間関係における愛のトラブルを解決すると、病気が癒されていくことがあります。逆に、『自分は誰からも愛されていない』と孤独感を感じている人は、劣等感や嫉妬心から中々心に安らぎを見出せません。でも、例え自分を愛してくれる人は全くいないと思いこんで育った人でも、「愛され感」を持つことは出来ると思います。幼い頃に親に捨てられても、育つに従って周囲の人達から愛され今の自分があると気づいた人はたくさんいるのです。心に安らぎを得て、そうして自分を愛し、周囲に感謝する気持ちが湧き起こるのです。この世に生きて、人生の道を進んでいる以上、万人に愛され、受け容れられる事は叶わぬ夢だと思います。でも、例え一人でも愛してくれる人がいたからこそ、今の自分がここにいる。「愛」を信じられなかったときには、ジェットコースターのように次から次へと人生の大波が押し寄せてきて、何度も何度も「死」を感じる事があったけれど、「愛」を信じ、自分を愛す事ができるようになってからは、肉体的にも精神的にも自分がとても強くなった気がします。だって、私は私に恋してるんですもの!さて、今日も心を強く持ちましょう。強い自分をイメージして!私を楽しまなくっちゃ!
2007.08.02
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本を読む事。人とお話ししたり聞いたりする事。ブログを書く事。これら全て、外に向けて自分の感覚を開くことのような気がします。自分の心を解放して、感覚と開く。それにより、自分自身のアンテナの感度がどんどん上がって、いろいろな物にチューニングできるようになりました。空の色、風の音、植物の葉づれ、光や雲などなどから、言葉の裏にある人の思い、様々な情報からの取捨選択、そして、何よりも自分の魂の声、細胞のささやきまで・・・・・。全ては自分を解放する感覚を手に入れて、敏感に感じ取る事ができるようになりました。少しずつアンテナがバージョンアップしているのかもしれません。自分が変わって来ている事も、自分自身の心の動きから分かるようになったし、周囲の友人知人達が変わってきた事でも感じられます。そういえば8月の私の運勢は、今ある友人が人生後半の友となると書いてありました。残りの人生、お互いに伴走し、伴走されて進むためには、良き友を失いたくは無いもの。見限られないように、日々精進しなくっちゃ。この一ヶ月あまり、夏休みの自由研究よろしく読み進め実行して来た『ありのまま』も、そろそろ御終いになりました。ただ読むだけでなく、その後文章にするために更に読み深める。それを繰り返すようになってから、本を読むという事がどんなに大切なことかがようやく分かりました。字面をおって読破することが大切なのではなく、その奥に隠された何物かを引き出し自分の物にする事。それが一番大事なんだと思います。そういう思いを胸に携えて、本棚に積まれている本を再度この夏読んで行きたいと思います。まずは10年ですから。さて、『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)には・・・・・。「想像する」一人の人間の経験など、知れたものです。あとは、もう想像力の世界です。人に起こっている事、周りで起こっている事を、自分が体験したかのように想像できる能力。人間はそんな力を持った生き物です。そしてその想像力を働かせて、こんなふうにも、あんなふうにも、物事をいろいろな角度から見られないと、今の時代は生き難くなってしまっているのかもしれません。しかし現実には「あの世」が信じられなくなって、この世の現実だけがすべてという感覚ですから、自分の目に入ってくる目の前の事だけを、自分の見方で見る事しかできなくなっているのではないでしょうか?例えば誰かがテレビの取材者に腹を立て、暴言を吐いているところがテレビで映し出されても、前後の文脈を考える事無く、その瞬間にその人を判断してしまう。その裏側にある人の気持ちや零れ落ちてしまった事実に思いを馳せられない。そういう世界をみんなでこしられてしまっているのです。他人の事を、その数だけある現実を想像する。その力を最大限に働かせられると良いのですが。想像力をつける。これは、体力をつける事と同じ位大切な事。思いを馳せる事ができる人は、とっても魅力的です。涼やかな目を持ち、軽やかに思いを馳せる。そんな人になりたいものです。今日は、午前中太極拳のお稽古。細胞のささやきに心を傾けて、想像して、体を動かすことにいたしましょう。零れ落ちたものに思いを馳せる
2007.08.01
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お友達のエリさんから「スピリチュアル・デトックス」(中野裕弓著)という本を紹介していただいて、日夜そのデトックスを実践中です。その中のエクササイズで、「人生を俯瞰する」事が気に入って早速実行中です。「人生を俯瞰する」は、自分の人生の全体図を高い視点から見て、未来の自分をデザインする事です。方法は・・・・・・。1.ラッキーな数字である88(歳)まで、残りの人生があと何年あるか?を考える。2.残された年数を10年毎に区切り、ボックスに入れる。3.できたボックスの数だけ、可能性ができる。どんな事でも10年も打ち込めば、それなりの領域に到達できるはず。可能性が見えると、平凡だと思っていた自分の人生も、グッと面白くなるはず。俯瞰して未来の自分に希望をはせましょう。というものです。今までは、毎日の暮らしの「繰り返し」の嫌な面ばかりを見て、私自身が生きる意味や術などを見つけられず、生きがいって・・・・?とか天職って・・・・?と悩む日々でした。でもこの本に出会いそのデトックスを一つ一つ実践する事により、行きつ戻りつではありますが、「今の自分」の「今」をとことん生き抜く術が見えるようになりました。もちろん、この先自分は何物か?自分がどうなるのか?は、まだまだ捜し求める道の途中ではありますが・・・・。ただ、確実に違うこと。それは、生きる事を楽しめるようになったこと。これだけでも、私にとっては大きな成果。学ぶ楽しみも得られたしね。10年、3650日、ある面から見れば中々に長い歳月。でも違う面から見れば、一日はあっという間に過ぎ去り、その一日の3650回の積み重ね。どう捉えるかで、10年後の私は全く違うものになっているはず。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)にも、こう書かれています。「長い目で見る」しんどい時期というのは、楽しい時期よりも長く感じられるかもしれません。人生は、実際に苦しい、しんどい事の方が多いのではないでしょうか。しかし、例え苦しくても、それを今の自分の生きている道だと思えたら、続けて行けるでしょう。今の生活は自分としては満足できないけれども、何らかの意味がある、あるはずだと現状をなんとか受け容れる。そうして生きていれば、五年後十年後の自分は、多分今とは違う状況の違う人生を送っているかもしれない。ひとつ言えるのは、自分が生きている人生を、あまり短いスパンで考えすぎないほうが良い、ということですね。人生と言うのは、結局は常に過程、プロセスなのです。その時の状況が良くなくて、悪い結果がでたとしても、その経験があったからこそ、また何らかの新しい出会いも有り得る。人生の様々な局面を、そんな風に大きな所から見る事ができたなら、少し余裕も生まれるのではないでしょうか?そうそう!長い目で長い目で、あっという間に過ぎ去る1日の積み重ねを見ていく。10年後、私は何を見つけているか?20年後、30年後・・・・・・。歳を重ねるって、素敵な事。中身を充実させましょ!目の前の事にとらわれすぎない。
2007.07.31
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今日は、久しぶりに気温が30度くらいでおさまりそうです。体がホッと一息ついているような気がします。どこまで扇風機で過ごせるかな?とチャレンジ中。夏の我が家の朝は、昨晩エアコンの室外機から出てきた水をバケツに貯めておいて、ベランダに打ち水をすることから始まります。家中の窓を開け放しているので、これで少しは風が起きるような気がします。網戸や窓ガラスも、朝一番の家事で外から洗車ブラシを使って洗ってしまうので、入ってくる風もなんだか透明な気分です。夏の間は外側の窓、冬は結露防止で内側の窓を重点的に、ほぼ毎日拭きあげます。窓ガラスから見える空が、なんだかその日の私の心模様を顕にしているような気がするから。「できれば、晴れ渡る青空は曇りのない窓で見上げたい。」そう思うのです。そして、手も足も私の思い通りに動いてくれて、「こうしたい」と思う心のままに今日を始める事に、朝の清清しい空気を肺の奥底まで送りこみながら、感謝の心で一杯に満たされるのです。人の心は揺れ動くものですから、いつも同じ心持で過ごすことは難しいけれど、「そうしたい!と思うこと」が第一歩。心についても、『ありのまま』のなかで梶田真章貫主は次のように仰っていました。「心で呼吸する」心というものは、いつも揺れ動いています。自信の隣に高慢があり、謙虚の隣に卑下がある。では、高慢にならず自信を持って、卑下せず謙虚に生きるとはどういうことか?それは、「自分を見ていく」という事ではないでしょうか。良い事があっても、しんどいことがあっても、いずれにしても諸行無常。すべてはずっと続くわけではありません。そのつど打たれて学んで行く事で、少しずつバランスをとっていけるようになれたら良いですね。自分の中に閉じこもっていれば、見えるものも見えなくなります。自分を出来る限り解き放ち、周りと接していく。人と話をする。動植物と触れ合い、自然に遊ぶ。そうして人も物も、ありのままに受け容れる訓練をして、癖をつけていくのです。感情と理性を総動員して、深呼吸するように、ゆったりと受け容れ、心で対応していけるといいのではないでしょうか?自分で考えて何とかなる事とならない事。自分がどうにか出来る事と出来ない事。それをその時々で見極めていけるかどうかだと思います。その判断がつけば、いらいらするだけの時間をゆとりの時間に変える事もできるのです。いざとなると難しいかもしれませんが、少しでもその方向へと、自分の物の考え方、感じ方を近づけて行けたらいいのではないでしょうか?それができるようになれば、どんなに忙しくても、さほど追いまくられることもなくなるでしょう。これが、「心で呼吸する」という意味なのです。毎日の暮らしの中で、「心で呼吸する」事をお勉強する。この夏の課題です。大人になると、夏の研究課題は自分で見つけて、自分で挑む事ができる。押し付けられて、好きでもない勉強をしていた子供の頃に比べれば、こうやって自分で自分を学ばせ、成長を実感できる日々。もちろん、子供の時があったから今の幸せを実感できるのだけれど・・・・・。時計を戻すことが出来たらいつに戻りたい?という質問には、「今が最高!」と答えたい。秋風が吹く頃には、どんな私になっているかな?見るべきを見て、聞くべきを聴く
2007.07.30
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あることをきっかけに、「私」について深く深く考えた7月ももうすぐ終わりに近づいてきました。「私」って何なんだろう?「私」の存在する意味は何故?などなど、この一ヶ月「私」を追求する旅をしてきました。写経することで自分と向き合い、お経の意味を一つ一つ理解する事で心を見つめて、日々の暮らしで自分を客観的に見て、本を読み道を探る一ヶ月でした。先月の今頃、八方塞の箱の中に閉じ込められたような心境だったのが、夏の空と同じように青く澄みわたり始めました。秋は、きっと天空高く広がる心で迎えられるような気がします。何かのきっかけで、学び真似び成長することができる。いつからでも、やりなおしができる。あぁ、人間に生まれて良かったと感じます。人生凸凹道だけど、マラソンのように距離が決まっていてタイムを競うわけではありません。命のバトンはリレーするとはいえ、運動会の競争のではありません。しかも、私の命のバトンは子供に渡すだけでなく、たくさんのバトンをいろいろな形でいろいろな人が受け継いでいってくれる。そう思えるようになってから、生きることも、歳を重ねることも、随分楽に出来るようになりました。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)にも、「私」について書かれています。「わたし」にこだわらない存在しているものは、必ず変化して行きます。しかし、すべて自分の思う通りに変わってくれるわけではありません。そうわかっていても、願いどおりに事が進まないと苦しく、変わってほしくなことが変わると悲しいわけです。しかし、苦しみや悲しみがなければ、逆に楽しみや喜びも生まれないのです。般若心経に「色即是空 空即是色」という一節があります。色即是空(全ての物の存在は常に移り変わっていく。実体のない空である)空即是色(実体がないから空であるからこそ、事物は存在できる)つまり、昨日のままの私であったら、今日の私は存在しない。ずっと変わり続けているから、違うからこそ、その時々の「縁」によってこの世に存在できる。こう思えば、そんなに「わたし」にこだわらなくても生きていけるのではないですか?という意味です。子供も衣服も家も容姿も、命さえも、「わたし」は仮に預かっているだけ。人生の預かり期間が終わったら、返さなくてはならない。そうして、「わたし」という縁から自由になって、また新たなる宇宙の真理に取り込まれていくのです。「わたし」は「わたし」としてたまたま生きているけれど、実は仏様から命を預かっているだけで、連綿と続く命のある瞬間の仮の姿にすぎないのだと。現実逃避のように感じられるかもしれないけれど、実際にその通りなのです。だからあまり深刻に考えなくても、苦しい時を乗り切ったらまた違う「わたし」になっていけるのですから、「今のわたし」が全てだと思いつめなくてもいいではないですか?こだわって楽しいときは、こだわったら良いのです。でもこだわりすぎて苦しい時は、一度そこから離れてみたら楽になれるのではないですか?ということなのです。私って何物なんだろう?と考えるとき、基準は「今の私」と「過去の私」でした。どうして思い通りにならないんだろうと考えるとき、「今の苦しみ」と「今までの苦しみ」を元に悩んでいました。でも、死にかけた過去があっても死んだわけではない。あの時の苦しみはひどいものだったけど、あの時の私ではない。今日の私はあの時から少しずつ変化しているし、明日の私は今日の私ではない。劇的な脆変をして、さなぎが蝶に変わっているかもしれない。さぁ、次の瞬間にどんな私に出会えるのでしょう?「わたし」にこだわりすぎるな。
2007.07.27
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ありのままが一番素敵。そう、それは十分頭で分かってる。でも・・・・・。自分の全てを認めて、受け容れるって中々難しいことです。「こうなりたい、こうありたい 私の姿」を思い描いて日々精進しているけれど・・・・。それでも、何故こんな事しちゃったんだろう・・・・?何故こんな事口にしてしまったんだろう・・・?と、自分が嫌になってしまうような自分が、紛れもなくそこに存在していて・・・。『白の私』は、「こうありたい私」に向かって進む魂。でも、同居している『黒の私』は、「私の言動に自信が持てない私」。そして、白黒一緒に共存しているのが私自身・・・。大人なら、自分の言動に責任を持て!と良く言われるけれど、望みもしない方向に私を持っていく「私」がいて、困ってしまう・・・・。自分自身が意図した意味に私の言動を受け取られたのなら、望みもしない方向に進んで行こうともまだ割り切れるかもしれないけれど。大概、自分が言いたかった本来の意味や前後の言動は消去されて、あまり深く考えずに言ってしまった一言が一人歩きしだしたりして・・・・。ありのままの自分でいる事って、難しいと感じてしまいます。『ありのまま』(梶田 真章 法然院貫主 著)に、ありのままでいる事の意味を書かれていました。「ありのまま」佛教の阿弥陀様の立場からすると、いろいろな人間がいて当たり前です。自分の思い通りにならない自分がいるのだから、どんなふうになっても自分はおかしくない。ですから、極端な話、人殺しをした人と自分とは、違う種類の人間ではありません。罪を犯した人は、たまたまそういう縁が整ってしまっただけで、「私」も縁が整ったら誰かを殺すことがあるかもしれない。(もちろん罪に対する社会的責任はとらなくてはなりませんが)阿弥陀様の前では、善人も悪人もない。みな同じ人間で人間には一種類しかない。おぎゃあと生まれてから、ずっと悪人もいなければ、ずっと善人もいない。人はそれぞれの縁によって、こんな人になったりあんな人になったり、日々変わり続けている。明日に何をしでかすか分からない、あやふやな存在なのです。「自分らしさ」や「本当の自分」を見つけようと、一生懸命になる必要なないと思います。もちろん、自分の好きな事ややりたい事を考え、追求していけば良いのですが、もしそれが変わってしまっても何の珍しい事もないし、見つからなかったとしても焦る事もないのです。あなたがあなたとして生きているだけで、十分な個性なのですから。本当の自分なんて全部本当の自分だから嫌になるほど本当の自分だから嘘の一つもつきたくなるよ。 (詩人 深井ゆうじん 作)例え嫌なところがたくさんあっても、自分は自分で良いのです。かけがえのない一人なおですから。中々難しいけれど・・・。でも、私はこの世で誰とも比べられる事のない、私というかけがえのない命。日々変わり、揺れ続けるあやふやな存在。だからこそ、真理を追い求めたくなるのかもしれません。「悟り」は「吾の心」を見つめる事なのかもしれません。現実から眼をそらさず、自分自身のあり方をしっかりと見つめてみる。自分は取るに足らない存在なのだと心のそこから思えたら、そのとき初めて自分は「凡夫」(煩悩をかかえそこから自由になれない存在)だという自覚が生まれる。自分の力ではどうにもならないという「他力本願」の心が得られるのです。そして、他力本願で生きてみる。いつの日か必ず、ありのままの自分を可愛いと思えるようになる為に。「私」はかけがえのない一人
2007.07.26
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昨日の親子喧嘩、これまでに落ちた罠の数々、毎日暮らしていると気分が凹んでしまう事が多々あります。泣きたくなる事も、泣いた事も・・・。そんな凹んで落ち込んだ状態から、よいしょ!と次の一歩を踏み出せるのは、いつも回りの方々のお力添えがあってこそ。前から手を引き、背中を押して・・・。そうやって、座りこんで丸く小さく殻の中で泣く私を、殻の外に出し、立ち上がり、歩き始める事を思い出させて下さる。直接的な事、間接的な事、様々な方法でお導き頂ける。この世に使わされた天の方々なのでは?と思えるほどに、今の私に必要な事を用意して・・・。今までは、「自分でなんとかしなくては!」「大人なんだから、自力で何事も達成しなくては!」と肩肘張って生きてきました。私だけでなく、おそらくは「自力」は世の中の美徳とされてきたものだと思います。しかし、「他力」がどれほどまでに大切か?それにようやく気づきました。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)にも次のようにかかれています。「他力」の意味他力と自力は対をなす言葉ではありません。他力とは、「阿弥陀仏という外なる存在の力によって、この世ではない阿弥陀仏の世界である極楽浄土で悟らせてもらう」という事を意味します。佛教というのは、「悟り」に如何にしていたるか?という宗教です。その道筋はいろいろあって、この世においてなのかどこか違う世界で探すのか?などあれこれ細かく分かれています。法然さんと親鸞さんは、自分の意思だけで修行を積んでも悟りを得られるのはお釈迦様位で、普通の人間にはできないと考えました。私達は業縁(業=行ない、行為。私達の行ないは、自分の意思に拠るようでいて、実は縁により全て縛られている。他者や他の存在により拘束されている。)により縛られている。自分がしたいと思ってもできない事もあれば、やらないでおこうと決めてもやってしまうこともある。これが私達の当たり前の姿、あり方です。現実はしんどく、思い通りにはなりません。でもしんどいながらも自分なりに生きたら、どのように生きても、向こうで受け止めて下さる方がいらっしゃるから、安心してこの世で思う通りにやりなさい。これが、「他力本願」です。この世はそういう場所で、自分なりに生きるしかない。なる事はなるし、ならない事はならない。最後は阿弥陀仏に任せるしかないのです。そこまで徹底した他力となると、結果として本当に心が自由になって、前向きな気持ちで生きられる。どのように生きても、極楽浄土で阿弥陀様が迎えて下さるのですから。様々な事で苦しんで七転八倒して、それでも自分一人で何とかしなくてはと悶えていた時には、答えは中々探すことができませんでした。「私は私なりに生きるしかない。この世はなるようにしかならない。」そう思えた時に、素晴らしい仲間に出会い、その仲間を通して様々な教えを頂けるようになりました。それから一年余り。今でも凹んだりすることはしょっちゅうだけど、以前と違うのは救いの光が見える事。試練も、問題をとくヒントも、解等も、きっと「天」からのプレゼント。「他力」って、素晴らしい教えです。まずは「この世で生きる」ことが大事なのですから。
2007.07.25
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今日は、パズルのピースを無くして、癇癪を起こすまぁちゃんと、朝から大喧嘩。朝は、気分よく爽やかな笑顔で、今日の予定を次々とこなして行きたいのに、反抗期娘の声と泣き声に、こちらもだんだんイライラのボルテージが上がってきます。「無くしたんだったら、自分で探せば!」と思うのに、「探して!!」の一点張り。挙句の果てに、泣きつかれて眠ってしまいました。暑さと湿度、梅雨から一気に夏への変化に大人も体が付いていかずシンドイのですから、子供は言葉にはできない体調の変化にイライラ虫が騒ぎ立てているのかもしれません。こうやって、四六時中子供と共に暮らし、子供の存在を全身全霊で受け止める生活ができることは、とてもありがたく感謝しているのですが、時にやはりこちらも我慢の限度が切れてしまいます。昨日、自然体で人を癒す力を身につけようと学んだはずなのに、まだまだ堪忍袋が小さくて、我ながら情なくなってしまいます。どんなにいっても生身の人間ですから、ベストの状態を常に保ち続けるのはもちろん難しい事ではありますが、それにしても・・・・ね。笑顔でいる事、どんな状態の人も大らかに受け容れて癒す事、自分自身が安らぎを得る事・・・・。どれも全て、自分に余裕がなければ出来ないこと。手を清めた水を素晴らしい響きに変える水琴窟のように、どんな事が落ちてきてもそれを素晴らしい音色に変えられる様な心をイメージして、余裕のある心を育てなくっちゃ。こういう事を気づかせてくれた娘にも感謝して、水琴窟の心を持つ喜びを形にしなくてはなりません。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)にも、「喜ぶ」という節がありました。何か良い事があったら、素直に喜べるだけ喜びたいですね。それは人生の醍醐味ですから。そして、誰か他の人がそのように喜んでいたら、一緒になって喜んであげたいものです。一緒に喜ぶ事を「随喜」と言います。「随喜」は、仏教的には自分の善根功徳になるのです。もちろん簡単な事ではありません。例え見ている方が引いてしまうほど有頂天になって喜んでいる人がいても、それがそのときの素直な気持ちなのだからと、一緒に喜んであげられるというのは、心の余裕を持っていられたら、それだけで善行になるのです。そうだった。優しい顔をして微笑む和顔施を、数ヶ月前学んだはずでした。誰かに向かって微笑む事で、その人の心を温かくするお布施。それを忘れないようにと心に誓ったはずでした。まぁちゃんの目が覚めたら、優しい顔と優しい声で抱きしめることにいたしましょう。無くしてしまったパズルのピースが見つかり、傷ついた心の痛みが少しでも治まるように。心の余裕を誰かに向ける事が、大事なのです。
2007.07.24
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今日は朝からとっても良いお天気。青空が冴え渡り、夏の青を感じます。空気も爽やかで、気温は高くなりつつあるのですが、窓を開けてそれも一緒に感じたい気分。朝からご機嫌で家事を進めておりました。が・・・・、先ほどからマンションの窓の下の道路で工事が始まりました。我が家は全ての部屋がその道路に面して並んでいるため、逃げ場がありません。アスファルトを切る音。コンクリートの粉塵の味。とても窓を開けていられる状態ではなくなってしまいました。もちろん必要な工事ですし、音が嫌になっているのはこちらの都合だけど、ちょっと逃げ出してどこか静かなところで癒されたい気分です。先日見つけたカフェにでも行ってみようかな?なんて、思案中です。そういえば、「癒し」と「癒す」について、『ありのまま』にも書かれていました。「癒し」「癒される」最近よく使う言葉ですが、これは、「何かに癒してほしい」と自分の外側にある「何か」に求める言葉です。「癒す」「癒える」は昔からあった言葉ですが、「癒し」や「癒される」は最近使われるようになったものでしょう。満開の桜を眺めて、「癒された」とします。桜が咲いて、散って行くのは自然現象です。人間の作為が入らないところで循環している命の姿。この自然の流れ、いのちのいとなみに身を浸すと、自分もまた自然の一部だと思い起こせる。さらには、「私」の命も循環しているいのちの一つに過ぎず、実は桜の命と何ら変わりないのかもしれない、とまで立ち戻れる。そうして、自分の抱えている問題から少し離れられたら、結果として「癒える」のではないかと思うのです。だから、それは桜によって癒されたのではなく、自然に癒えたのです。それなのに、人間は自然とは別の世界を作って生きていると考えがちなので、「私」という人間界にいる存在が、外側の自然に癒されるのだと勘違いしてしまうのです。人に「癒される」と言う場合も、自然体で生きているような誰かに接することで、自分を別の角度から見る事ができて、結果として癒えるのだと思います。「私」に囚われすぎず、ただ「生きている」という原点を少しでも思い返せたとき、「癒える」という事が起こり得る。「縁起」では、「私」がいることは、まわりの存在が前提です。他者との関係があるから、「私」は「私」として存在できる。まず最初に、『絶対的な「私」ありき』ではないのです。自然体で生きることが出来る人になれたなら、きっと癒しを求めて出かけるのではなく、自分を「癒す」行動が出来るはず。別の角度から自分を見つめて、足りないものを補うことに喜びを覚えることが出来るはず。そうか、「癒し」ではなく「癒す」を求めて。一文字が違うだけで、全く違ったもの。今日からは、まず「癒す」。そのことを大事に考えて、自分をより自然体に育てて生きましょう。私を見る第三の目が開眼です。 自然の中で癒されたい。
2007.07.23
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よき友と巡り合いたい。私自身、いつもそう思います。良き仲間と過ごす時間は、とても楽しいもの。病院の待ち時間の15分は、果てしなく長く感じるのに、友達とおしゃべりして過ごす15分はあっという間に過ぎてしまいます。そして、その素敵な仲間と好きな事をして過ごすのは、至福の時。でも、良き友達ってどうやって作るのかしら?子供の童謡に、「友達100人できるかな?♪」というものがあるけれど、大きくなって振り返って見ると、100人幻想は果たしえない夢でした。そして、今良き友の数はそんなにたくさんはいません。だけど、気がねなく心の底まで打ち明ける事ができ、そしてお互いに付かず離れずの関係。困ったときは親身になって寄り添って、共に悩み共に考え、共に泣き、共に笑ってくれる心友達。そんな友が、距離の遠近に関わらず、傍にいてくれる幸せ。なんて素晴らしい事なんでしょう。こんなにも素晴らしいご縁を頂いた事に、心から感謝せずにはいられません。そして、今このように素敵な人間関係を築くための基礎を作ってくださった、今まで出会えた方々にも。子供がもっと大きくなって、自分の世界を築いていく時には、きっと『友達関係』で少なくとも一度はつまずく事になるでしょう。そのときに、私は何を道標として示すことができるか?よき友達に恵まれ、その恩恵に存分に与らせていただいているからこそ、その事を考えます。梶田真章 法然院貫主は、次のようにおっしゃっています。「友達を作る」人にはそれぞれ得手不得手がありますから、誰もが同じようにコミュニケーション能力に長けていたり、人付き合いに積極的なわけではありません。例え友達と呼べる人が少なかったとしても、それはそれで良いと思うのです。たくさんの人と通じ合わなければいけないということは決してないですから。肝心なのは、一対一で語り合える、自分が分からなくなったときに相談できる相手がいるかどうかだと思います。誰かときちんと向き合い、言葉をやりとりすることで、自分の考えも分かってくるところがありますから。もしも、ひとりもそういう相手がいなかったとしても、兄弟やカウンセラーの方など、自分の気持ちを吐き出せる人が身近にいるといいと思うのです。例えば、素晴らしい緑が広がって、風も穏やかで鳥が鳴き蝶が舞っている、なんて素晴らしい環境なんでしょう!友達との関係も同ように素敵なものです。でも、ずっとそこに佇んでいたいと思うような素敵な環境でも、不快な蛇や烏や蚊やハエなどが、全く存在しないということは有りえません。本当に気持ちの良い所というのは、自分に害を及ぼすような物がいたり、危険を孕んでいるものです。素晴らしい誰かと巡り合えて、楽しい時間を過ごせたとしても、時にその人の言動に傷つくこともあるかもしれない。それがこの社会で、人と関わって行く現実です。都合の良いところだけを享受して、つねに快適な状態というのは、あまりに無理があるのではないでしょうか?傷つくことを極端に恐れすぎなくても良いような気がするのですが。真の友達からは、確かに甘露の水ばかりでなく、時に苦い薬を頂くこともあります。でも、その薬は、良薬の場合が多いもの。それは、本音や建前が出来てきて、自分を良く見せたいと思うような気持ちが育ってくると、余計に有難い薬です。大人になったら、中々自分を叱ってくれるひとはいませんから。私を叱ってくれる人。それは、私にとってかけがえない人。老若男女を問わず、そういう方々を大切にする後姿を、子供にも見せたいものです。傷つくことを恐れない。
2007.07.21
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誰かに何かをしてあげたから、自分も何かをしてもらえる。「give&take」の精神。情けは人の為ならず。などなど、ついつい何事かの行動に見返りを求めがちになってしまう昨今。そして、その行動に対する十分な見返りが還ってこなかった場合は、不平不満になってしまう。自分が自らとった行動なのに、責任転嫁をしてしまいたくなる。人間の持つ嫌らしくおぞましい一面を、つい見せてしまう瞬間です。100円の価値の物を与えたとしたら、できれば100円の物は返していただきたい。もっと望めばちょっと位利子が付いていると、相手は良い人に見えてくる。反対に50円位にしか価値が無い物を返されたら、ちょっと敬遠してしまう。何も返ってこなかったら、極悪人のように感じてしまう。とっても浅ましい自分自身を見て、うんざりしてしまいます。私達の今の社会は、give&takeがあたりまえ。今までの私はそう思っていました。でも、本当は、give&take&takeを求めていたような気がします。この世に生を受け、今日の日まで命を永らえているということ自体、すでに十分に頂いていること。他の命に支えられ、生かしていただいているのですから。お返しに期待する心を後ろ手に隠して、にこやかに笑って何かをするのではなく、自分が頂いたものに対して、もう十二分に頂いたのですから、できることでお返ししましょうという気持ちを持つことが大事なのだと気づきました。生かしていただいている事への感謝を示す行為として、見返りを求めず周囲の存在に返していく。子育ては無償の愛だとよく言うけれど、子育てのみならず何事対しても「無償の愛」という心を持つことができたなら、私自身が脆変できるはず。目指すは、いも虫から蝶に脱皮する事。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主著)でも次のように述べられています。理想的な事を言うと、多くの人に「今、自分はこの事ができるので、させていただきます。したくてするだけです。」という精神が根付けば、世の中の揉め事は大分少なくなると思うのですが、現実にはそうはいきません。「見返り」を求めると、そこからどうしても忸怩たる思いや失望も生まれます。そういうしんどさから少しでも解放されたかったら、見返りを期待しない事につきるのです。それは、決して後ろ向きな姿勢ではありません。この社会にしっかりと根付いてしまった「give&take」の発想から自由になるのです。これからの時代、生きるという事は、物質的にも精神的にもますますしんどくなるような気がします。物質的には少し足りなくなっても、精神的にはいかに豊かに生きていけるか。そのためにはやはり、お布施の精神が大切でしょう。純粋に、何かして差し上げたいから、できることをできる相手にする。本当に、何でも良いのです。川の掃除でも、近所のお年寄りのお相手でも、花を育てることでも。そういう暮らし方、あり方こそが、心豊かな人生へと繋がって行くのではないでしょうか?今出来る事を、純粋な気持ちで、できる相手にする。それを子供に伝えていけたなら、きっとこれからますます厳しくなるであろう子供の将来も、物質的には足りない事があったとしても、精神的に豊かに生きていく道に喜びを見つける力が育つはず。子供を生んだ友人が、「こんな時代にこの世に送り出してごめんなさい」と謝った話を聞いて共に涙しました。でも、この世に送り出したからには、その責任がある。子供が何を心の杖として、この世を泳ぎ渡っていくか?その杖を、まず親が持つ努力をする。その後姿を見て、何かを感じ取ってくれれば良し。私の人生を教師とするか?反面教師とするか?いずれにしても、人生の先輩であるものの責任です。後悔に満ちた人生の終焉を向かえないために、今日から心の改造です。さぁ、顔を上げて!
2007.07.20
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自分の気持ちを上手に相手に伝える。それって、とっても難しいことです。「分かり会え無い事を分かる」ようにすることを昨日学んでからは、余計に言葉の使い方に難しさを覚えます。気持ちを伝えるために言葉を駆使しても、果たしてどれだけ想いが相手に伝わっているか?相手の一生懸命な話を聞いても、果たしてどれだけ相手の気持ちを理解しているか?それでも、やっぱりこの世の中では言葉で心を伝える大切さを感じます。「言わなくても分かってくれるだろう」なんて、ありえないことなのですから。言葉にしないと思っている事は絶対に伝わらない。以心伝心なんて、同じような環境で同じように育ち、同じように物を考えているとい前提に立ってこそ、初めて可能になるものだと思うのです。だから、思いの全てを伝える事は絶対に無理だけど、それでも少しでも伝えることができたならと思い、言葉を使う。多種多様な考え方や情報が溢れている現代においては、言葉の役割はますます大きくなって来ているように感じるのです。言葉はどうやって使えば良いのか?そのことを『ありのまま』(梶田真章著)では次のように書かれていました。言葉でコミュニケーションをとろうとするとき、見知らぬ人とは、最初からそうすんなりとはいかないことがあります。あまり親しく無いうちは、言葉や態度を額面どおり受け取ってしまいがち。でも、それはかなり限られた理解となるかもしれません。相手がちょっと不愉快な発言をした時、そこは深呼吸の一つもして心を落ち着け、その言葉を発するまでに相手は朝起きてから今までにどんなことがあったのか?と想像をめぐらせてみる。あれこれと相手の事を想像できて初めて、相手の言葉を受け止め、されに受け容れて行こうという気持ちも生まれるのではないでしょうか?そんな事は、自分に余裕が無いとなかなか出来ませんが、言葉をそのまま受け取ると誤解が生まれがちです。思わず口を滑らせてしまったり、言いすぎてしまう事はだれにでもあるのですから、そう言う失言にいつまでも囚われすぎないほうが良いかもしれません。まずは言葉にする。それから、言葉の背景にも目を向けて見る。それぞれがちょっとしたゆとりを持つことにより、人と人の気持ちというのは、随分多く伝え合っていけるようになるはずです。よほど朝からイライラとして誰かに当たりたい心境で無い限り、通常は誰も、喧嘩して一日を過ごすことを願う人はいないはずです。それでもちょっとした言葉のボタンのかけ違いによって、心の波紋が大きくなって、傷つき傷つけてしまう。それは、やはり自分に余裕が無い時に発する言葉にありがちな事。子供に対しても、家族に対しても、友人に対しても・・・・。自分以外の他者と向き合うときは、常に余裕を持っていたいもの。『平常心』この言葉を見失わないようにしなくっちゃ。何と言っても口は災いの元ですからね。そして、さらに失いたくないのは想像力。行間を読む。言葉の裏に隠されている真実を探る。相手の心境を考える。これは全て想像力があってこそ出来る事。訓練しなくては廃れてしまいます。心のゆとりを持って、言葉と想像力をつかう。
2007.07.19
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今日は朝からお天気です。こちらは、しばらくお天気に恵まれそうです。折角付いているのだから、「自分の頭と体を使って、自分で出来る事は自分でやってみよう!」を夏のテーマに掲げています。お天気に恵まれる今週に出来る事・・・・。それは、お洗濯でしょう!ということで、今まではクリーニングに出していた夫のスーツ類、お布団類のお洗濯に挑む事にしました。お洗濯の本や、先輩方の智慧、ネットでの情報を駆使して、まずは、昨日スーツ一着と敷布団一枚をお洗濯。水温や洗剤の量、洗い方、ブラシのかけ方やアイロンの使い方等など、いろいろとポイントがあり、まずは頭を使います。その後、お風呂場にて体を使ってお洗濯。うん!意外といけるかも!終わった後はちょっとした運動並みの疲労感でしたが、全てが機械任せでやる仕事より充実感が得られます。(自己満足の世界ですが。)四月後半から抱えている人間関係の問題も、雨で家に閉じこもっていた時は、その問題が原因となって私自身が腐ってしまいそうでしたが、お天気になって青空を眺め、問題に囚われる間がないほどに頭と体を使っていると、問題そのものが気化して抜けて行ってしまうような気がします。今の私には、とっても必要な真章さんのお言葉がありました。『ありのまま』 (梶田真章 法然院貫主 著)より「分かりあう」自分の意思ですら、縁によって変わるのですから、ましてや他人の意思と合わせていくのはとても難しいことです。その中でなんとか折り合いをつけながら暮らしているわけですが、どうしても合わせられない、ということも出てきます。同じ物を見ても聞いても、感じ方は人それぞれ違うのですから。佛教ではそれを「唯心」と言って、すべての存在は心の現れだとしています。つまり、「私」が見ている世界と、他人が見ている世界は本当は違っているのだと。同じ世界を見ていると思っているのは、錯覚に過ぎません。そう思い込み過ぎると、なぜ「私」が見ている通りにあなたは見ないんだと衝突します。事実は一つでも、それぞれにとっての現実はその数だけあるのだから、現実は一つではない。それぞれの立場から、現実は全て異なって見えるのです。分かり合えない、と言う事は前提なのです。分かり合えないのが当たり前だから、何とか分かりあって行こうと歩み寄るほうが、うまく行きやすいのです。それが親子や友達などの近しい相手であっても同じ事です。分かりあえるはずと強く思ってしまうと、しんどくなってしまうかもしれません。自分以外の誰かに自分の現実を押し付けようとしても、結局衝突にしかならない。それがこの社会のあり方です。一人一人が考えている事は違います。わかっているようで案外そのことを忘れてしまいます。そうすると、うまく行っているときはよくても、自分の思いと違うところに物事が動いて行った時、その現実が受け容れられなくなります。人というのは、他人は分からない。そしてその分からないということを分からない存在なのです。あなたと私の考えている事は違うけど、同じ人間なのだから分かりあえる事もあるでしょう、ぐらいの姿勢でちょうど良いのかもしれません。なんとか相手を分かろう!いや、きっと分かりあえるときが来るはず!そう信じて、この数ヶ月を過ごしてきました。そして、いつまでたっても分かり合えない事に苦しんできました。数ヶ月、自分自身を振り返り、相手との関係を振り返り、自分自身の存在意義を見失う程になったりました。その間多くの方々から、力をいただき、泣かせていただき、笑顔をいただき、支えていただき、歩むべき道を指し示していただきました。そして、その集大成のようにこの本に出会い、この節に出会いました。人は人の事が分からない。そのことを分からない存在。犬や猫とも分かりあえると思う瞬間がある位だから、同じ人間同士わかり合える事もあるかもしれません。あ~!気持ちがとっても楽になりました。さ~て!今日もお洗濯で心の垢を洗い流しましょう!「わかりあえない」ことから出発です!
2007.07.18
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七月の三連休は、台風や地震などに襲われ、改めて自然を考える日(海の日)になりました。災害に合われた方々には、一日も早い復旧をお祈りいたします。しかし、自然の力の前には、人力なんて小さいもの。もっともっと謙虚になりなさいと、神様からのお達しかもしれません。毎回何か事が起きるたびに、災害用持ち出し袋を作らなきゃとか、非難路のチェックをしなくっちゃなんて思うのに、喉もと過ぎればなんとやら・・・・。備え有れば憂いなしをすぐに忘れてしまいます。これも自然に謙虚であれば、忘れてしまうなんてことはないはず。我が家はたまたま今回災害に合うことはなかったけれど、これは誰の身に起きてもおかしくないこと。私ができる事は何か?そう自分に問いかけて、行動して見る事にいたしましょう。そういえば、真章さんも仰っていました。『ありのまま』(梶田 真章 法然院貫主 著)より「縁有らばこそ」他の命との関わり合いの中で、まさに「私」は生かされ、生きているのです。「私」の人生を送る中で、「私」の意思はほんの一部しか過ぎません。明日法然院に行こうと思っても、朝起きたら雨で行きたくなくなった、ということもあるでしょう。「行きたい」という意思を成り立たせる条件が整って初めて、実際に「行く」となるわけです。条件が整うことは当たり前ではありません。縁というのは偶然もたらされているものだと思うかも知れませんが、縁は必然なのです。運命論などとは違い、全てあらかじめ決められているのではなく、その時々の関係性のおいて決まっていくものなのです。「理解できないものなどは存在しない」と片付けてしまうのは簡単です。しかし、現実には納得できない、あるいは予想もつかない不可思議な事が起こります。それをつきつめていくと、私達の智慧の及ばない『何か』がある、と考えたほうがつじつまが合う。その『何か』こそを縁起というのですね。全てを理解する必要などないし、また出来るわけでもないのです。縁あればこそ、今ここに生かされ、生きている。そして、誕生自体がすでに不可思議な事。何かのタイミングがたったひとつ違っただけでも、もう私は存在しない。そして誕生した私は、他者とのご縁の中で生かされ生きている。智慧の及ばない何かの大いなる力に守られ、突き動かされ、人生の大海を私という小船に乗って航海している。泥舟に乗った裸の王様にならないために・・・・。この夏は、何の課題を与えられているのでしょう?心の声をしっかり聞いて、第三の目を見開いて、理解し得ない真理の淵を覗いて見る事にいたしましょう。私は、生かされ、生きている。
2007.07.17
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九州地方は、台風接近もしくは上陸が予測されるため、天候も不安定でどんよりとした感じです。しかし、今日は朝から自分に渇をいれるべく、友の会にてお勉強。http://www.fujinnotomo.co.jp/お洗濯の仕方、糊付けの仕方、そしておもてなしのテーブルコーディネート、アイスティの美味しい入れ方等など、ちょっと見る目ややり方を変えるだけで、暮らしの質がアップするコツの講座でした。家事なんて、自分のやり方や方法でも十分やっていけると思っていましたが、それこそ十人十色。その家ごとに素晴らしき智慧が隠されています。その智慧をおすそ分け願って、私の暮らしの変革を試みています。きっと、これもご縁。そして、ここで出会う方々ともご縁。素直に教えを受け、それを実行して自分の物にし、また誰かに授ける。受け継いだ智慧に自分の経験をプラスして、誰かにプレゼントして行く。こうやって智慧のバトンをリレーする事で、将来御縁を得るであろう方の暮らし、生きかた、考え方にも、少しでも良き波紋を広げることができるならよいなぁと思い、日々励んでいます。「まずは、素直な心から」これは、いつもお友達と話すこと。どんなに良い事でも話しでも、素直に受け止め、受け容れる心がなければ、自分の中をただ素通りしていくだけ。まず素直に聞いてみて、必要なければ捨てれば良いだけのこと。でも長い人生、今必要ないと思っても、いずれ特効薬になるときが来るかもしれないし、自分には生かされなくても大切な人を守る力になるかも知れない。この世の中、決して無駄なものは無いと思うのです。まずは受け取り、心の引き出しへ。そういう余裕を持ちたいものです。さて、ご縁についての真章さんのお話の続きです。『ありのまま』(梶原真章 法然院貫主 著) より「見る」という事について、考えて見ます。目があるだけでは、「見る」事はできない。そこに見る対象があるから見えるのです。全ての物は「現象」なのです。単にその時々の物事としてあるのであって、変わらずあり続ける絶対的な「実体」などありません。「こと」は「もの」によって起こり、「もの」は「こと」によってつくられます。ですから「私」を存在させているのも「私」ではありません。無数の命の重なりが、「私」の命として現れているのです。「私」の存在を決めていくのは、まわりとの関係でしかありません。「縁起」とは、この世をつかさどるものであり、「私」が生きている間、また生まれる前も死んだ後も、変わらず有り続けている世界のあり方である。それを「真理」とも呼ぶのです。「私」という実体はどこにもない。ご先祖様からの命の重なりがあってこそ、今の私の命が存在する。私を生かすために命を差し出してくれた動植物の命の重なりがあってこそ、今の私の命が存在する。私と言う実体の無い物をこの世に存在させるためにも、いかに周りとのよきご縁を紡ぎ、結び、織り成していくか?真理の末端に触れさせていただいた幸せを感じ、今日も大風に心が揺らぐ事の無いように、しっかりと舵をとって、人生の海をわたる事にいたしましょう。「私」は生かされ、生きている。
2007.07.13
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自分自身の心を、『開かれた存在』にするように心がけるようになってから、良い出会いがたくさんありました。出会いは人だけに限らず、食べ物、日常生活品、本やテレビなどからの情報、自分自身の考え方や生活パターン、思考の癖まで、ありとあらゆる物や領域に渡ります。時にはその出会いの急流に身を任せ、時にはゆったりとたゆたうように楽しんで、様々な所からやってくる流れ星のような出会いを、逃す事無く掴み捕る。最近はそのことが楽しくてなりません。そういえば、今までの人生を振り返っても、こういう状態の時に出会った友人や知人とは、長く共に成長し合っているし、物事や情報などは今の私を構築する部品のようになっていると感じます。もちろん、人の一生は常に同じ状態で続くわけではありませんから、自分自身のコンディションが良いときもあれば悪いときもある。相手が人であれば、それは相手にも当てはまる事。でも、今のような良い状態の時に出会った友人は、例え音信不通の時があっても、会えばまたいつでも同じような志を思い出すことができます。必要以上にお互いの領域には踏み込まず、かといって相手の心にすっと助け舟を出してくれるよな存在。いってみれば四六時中一緒にいたいというような蜜月の恋人のような関係ではなく、相手の心を労わりあい、必要以上に相手の生活に進入する無く、着かず離れずでも心が通い合う大人の人間関係が、御縁を長続きさせる秘訣なのかもしれません。『ありのまま』(梶原 真章 法然院貫主 著)にも、ご縁について書かれている節がありました。「縁あればこそ」ご縁がある、ご縁が無い。普段の暮らしの中で良く使う言葉。この「縁」、正確には「縁起」こそが、佛教のもっとも大切な教えなのです。「縁起」とは、全ての物が関わり合っているありようのことです。人も動物も植物も、全ての存在は原因と条件という「因縁」が整うことによってあり、何物を他の命と関係なく、それだけで存在する事はできません。個々の命は、お互いに支えあい、あるいは傷つけ合いながらも、他の命があってこそ、初めて「自分」となるのです。本当にそうです。今の私自身が存在するのも、多くの方や物や事とのご縁起があってこそ。楽しい事、嬉しい事、苦しい事、嫌な事、生まれてからこの方乗り越えてきた全ての事があったからこそ、今の私がある。そして、私は『今の私』が好き。次の瞬間も、明日も、一年後も、ずっと私が好きでいられるように、私は私に恋するんでした。そして、次の瞬間も、明日も、一年後も、ずっと私の周りに存在する物事の全てを好きでいるために、感性を研ぎ澄ませていきたいなぁ。それから、いつまでも失いたくない、この素晴らしいご縁起をいただいた方々からも、見放されること無いように、心を開放して、『晴れ渡る五月の青空』のような、爽やかな人であり続けたいと願うのです。私は、「生かされ」、「生きている」のですから。
2007.07.12
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毎日雨が凄いです。今日は外出先から帰ってきたら、駐車場に入ったとたん本降りの雨。東南アジアのスコールかと思うような降り方です。九州地方は、水不足から一転してちょくちょく警報が発令されるような雨の降り方です。お団子状の雲がたくさん連なっているそうなので、まだまだ雨は続きそうです。週間天気予報もマークは皆無です。赤い色といえば、降水量が100ミリを越えたとかの、危険!の赤。同じ赤い色なのに、マークだと嬉しくて、危険マークだと嫌な感じ。でも梅雨が明けて暑い日が続くと、きっとマークもうらめしくなってくるはず。寒いときには暖かい季節を恋しく思い、暑くなれば早く過ぎてくれと祈る。人の心はなんて勝手なんでしょう。今日のお友達の集まりでは、自分勝手な人が多いという話がありました。何でもが簡単に手に入る時代になって、大人がわざわざ苦労して人との輪を作って何かを得ようとか、子供の思いで作りのために幼稚園や学校などでの行事のお世話係りを引き受けようとする方が減って来ているようです。わざわざそんな面倒な思いをするくらいなら、幼稚園や学校の行事なんかに参加させなくても良いと言われる方が多いそうです。自分と家族の暮らしを守る事はもちろん大切なことだけど、社会に生きて人との交わりの中から得られる何かを味わえないのは、もったいないなぁと思います。人によって得手不得手があるのは確かだけど、何も出来無いと言うことは無いと思います。自分ができる何かで社会参加していくだけで、きっと世界観が随分変わってくると思うんだけどなぁ。さて、『丁寧に暮らす』を考える章も、終盤になってきました。今日は、「水をいただく」(ありのまま 梶原真章 法然院貫主)を考えてみました。雨の音を聞きながら、水をいただく幸せに思いを馳せる。ちょっと浪漫を感じませんか?水は全ての命の源です。「私」を構成している水も、「あなた」を構成している水も、花を咲かせている水も、全て同じ物。見た目は違っていても、同じ水という物質に支えられているわけです。全ての命を等しく生かしてくれる物として、佛教でも水を大切にしてきました。水を仏様にお供えするのは、ひとつの感謝の気持ちでもあるのです。確かに、『今こうして洗剤を使ったり、公害で汚されたりしている水も、いつかは自分の身に還ってくるもの。』です。自分が使うトイレの水も、いずれは自分の口から入る飲み水に還ってくる。そう思えば、むやみに汚したり無駄に使ったりする事ができなくなりました。法然院には湧き水があります。(中略)水をわざわざ汲みに行き、いただいてくるという行為は、感謝を示す大切なものです。蛇口をひねればいくらでも出てくるのでは、お水をいただける事が当たり前になってしまって、感謝の念は持ちにくいのではないでしょうか?子供が水遊びをするようになって、水の大切さを感じてほしくて水のタンクを買いました。夕食の片付けが終わった後このタンクに10リットルの水を貯めて、翌日の食器洗いに使います。一日三食分の食器や調理器具をいかに10リットルの水で洗うか?毎回頭を使います。そうやって水を大切に使っている事を、一緒に食事の後片付けをする娘に、肌で感じてほしかったのです。また洗濯も、手洗いできる分は娘と一緒に入浴中にお洗濯。ここでもどうやったら無駄なくお水を利用して、洗濯物を綺麗に洗えるか?を二人で実験です。水は、「私」を「あなた」を、そして万物を通り抜け、ぐるぐると循環している。暮らしは便利になりましたが、その一方で感謝の念はいっそう抱きにくくなった気がします。どんなに価値基準や考え方、生活のレベルが異なっても、万物を通り抜け、循環する水という存在は、この地球に生きている物には同じ物。たまたま水の国、稲穂の国である日本に生を受けたからといって、『湯水のように使う』という事はもう出来ないのではないかと思うのです。私がやる事は、ほんの小さな事。でも、水の無い国から比べたら、それでも贅沢な使い方。私の常識、私の家庭の常識、私の国の常識・・・・・。そんな狭い常識に凝り固まって、感謝の念や人の情けを忘れないためにも、やはり外の世界に出て行って、視野を広く持つ人になりたいと思うのです。さぁ、お目目を開いて、お耳を澄まして、種智の海をたゆたう事にいたしましょ!晴れたら、きっと芽がたくさん!
2007.07.10
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毎日豪雨続きです。皆様の所は、おかわりないでしょうか?どんよりとした雲の下に暮らしていると、カラッと爽やかな青空が恋しくなってしまいます。九州は、南部が13日北部が18日位に梅雨明けするようです。あと10日あまり、お家の中しかできない遊びで、子供を繋いでおく事ができるか?が、もっぱらの私の課題です。私自身は、お習字、裁縫、手紙、読書などなど、雨の日の楽しみはたくさんあるのですが、娘はじっとしていられない人のため、それらにはあまり魅力を感じないようです。読み聞かせは大好きですが、何十冊も絵本を読む側になると、こちらが少々バテてしまいます。水遊びが大好きなので午前中は3時間位遊んでいましたが、さすがに飽きた模様。さて、次は何に誘導するか?お絵書きでもさせるかなぁ。それとも、レインコート着せて雨降りツアーに行くか・・・・。通気性が良くて水を通さない素材で、カラフルな色、視野も広い作りで、お手ごろ価格の子供用レインコートどっかに売っていないかしら?と、子供をぬらさないためにずぶぬれになって散歩するたびに思います。雨と一緒に心もずぶぬれになりそうなので、いつもの本から脱出の手伝いをしていただくことにしましょう。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)より「いただきます」と声に出し、手を合わせる。それはふと一瞬立ち止まり、今から目の前の物をいただくのだと、自分の気持ちを切り替えるための一つの仕掛けだと思います。前回の食べる(いのちをいただく)ということを考えた時、食べ物を餌として食するのではなく食事として感謝して頂くためには、今までの日常の雑多な時間の延長ではなく、一瞬にして気持ちを切り替えて食卓に座りたいと思います。緊張した時の深呼吸。寝る前のストレッチ。リラクッスする時のBGM。自分の気持ちを今までの心境から変えたい時、私は自分に何らかのスイッチを入れます。「いただきます」も同じ事。これから命をいただくという意味を自覚する。そのために大切にされてきた祈りなのではないでしょうか?「いただきます」という言葉は、自分の耳に聞こえるように、ちゃんと声を出したほうがいいですね。聞く事で気持ちは強くなりますから。人前では、声に出したり、手を合わせたりはしにくい場合もあるでしょうが、やはり何らかの身体的な形をとらないと、意識されていかないものです。形にする事によって、感謝の気持ちが観念にとどまらず、体と一体になって身についていく。ですから、「心の中で言う」のでは、あまり意味がありません。かたちはおろそかには出来ないのです。もちろん食事以外にも、「生きている」事自体が、全て感謝の対象です。そして、「何かするべき事がある」事自体も。その行動全てに自分なりの感謝の念を表したい。ただ一つ、ルールは声に出すこと。「声に出し、気持ちを切り替える」こと。さぁ、食事の後片付け。いかに手早く無駄なくできるかな?「上手にやってみよう!」と声を出して、気持ちを切り替える事からはじめましょ。ほら、やる気がでてきたぞ!!
2007.07.09
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ここ最近ちょっと順調に道を進んでいたのですが、昨日は久々に罠にはまってしまいました。人にとってはたいした事無い事なのかもしれないけれど、私にとっては私自身の存在意義、生きる姿勢を問われるような罠でした。ある人には「一切関わるな」と言われ、別の人には「コミュニケーション不足から発生した問題だ」と問い詰められ・・・・。正直どうやってこの問題に収集をつけてよいのか?昨日はずっとこの悩みの嵐の中で困惑しきっておりました。手当たり次第自分で解決方法と思われるものを引っ張り出しては、静かなる湖のイメージトレーニングをして心を落ち着かせ、またわらわらと悩みが膨れ上がってきてはそれを収めの繰り返し。でも、そんな中でもお腹は空くし、子供はおやつ~!ごはん~!と要求するし・・・・。こうやって、お腹が空いて何かを食べようと思う欲があるうちは、まだ良いのかも!なんて思って自分を慰めたりして・・・・。でも、『食べる』ってなんなんだろうなぁ?たいていの動物は、何かの命を奪うことでしか自分の命を繋ぐことができない存在。以前、「何故人を殺してはいけないの?」という質問を子供からされたとき、親は何と答えますか?というインタビュー番組を見たけれど、中々上手に返答できる人がいなかったことを思い出しました。何故、殺してはいけないのか?命は尊いものなのは、人も他の動物も植物も同じ事。何故人間だけが尊くて、その他の物は殺されても文句が言えない存在なのか?そんなに人間は偉いのか?うーん、悩みのスパイラル状態に入っているときは、些細な事も突き詰めて行きたくなってしまう私の悪い癖。そして、本来悩んでいたことに倦み飽きて来たというサイン。真章さん!教えてください!という思いで開いた本に、「食べる」という節がありました。『食べる いのちをいただくということ』(梶原 真章 法然院貫主)元々人は、その日生きるために、自ら作ったり捕ったりして、命を頂いているという実感を持って暮らしていました。その中で、「足るを知る」という智慧を自然と磨いてきたのだと思われます。佛教の「不殺生戒」という教えは、「殺さない」というものです。しかし、飲まず喰わずでは生きる事はできません。「必要以上に殺さない」を自覚して、命を頂くことを最低限に留める生きかたが一番大事なのです。肉も魚も野菜も、全て命をいただいているのです。お寺では、食事を作るということも修行の一つです。慈しみ育てた物を自ら収穫して調理する。しかし、それを全て自分だけで頂くわけではありません。米粒でも何でも、最初に少しとり分けておいて、仏様にお供えします。そうして、目に見えない誰かが、つまり仏様が来られても、食べていただけるようにしておく。自分一人で頂くのではない。家族だけが頂くのではない。少しでも誰かに差し上げる事で、逆に「頂戴して暮らしている」「生かされている」という気持ちを抱きやすくなります。家族のための料理だと、時としてルーティンワークとなって「丁寧」を忘れてしまいます。調理法、盛り付け、雰囲気作り等など、ついつい「まぁいいか!」で流されてしまう私。でも、他所でおもてなしを受けたときに感じる心地よさを、私は家族に与える事ができていたかしら?一杯のお水にも、お客様にお出しするときは気を使うはず。そして、できるだけのおもてなしをするはず。目に見えない誰かをおもてなしする気持ちを忘れずに、買い物から後片付けにいたるまで過ごす事ができたなら、それを食べる家族にもおもてなしの心地よさが伝わるはずです。きっと「毎日の繰り返し」の中から、「何故命は尊いのか?」「何故人を殺してはいけないのか?」という答えを、我が子は感覚でもって感じてくれるのではないか?これが、今回のスパイラルからたどり着いた私の答え。何事も、まずはやってみましょ!間違っていたら、そのとき軌道修正すれば良い事。動くことが肝心です。
2007.07.06
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丁寧に暮らすと心に決めてから、衝動買いが無くなりました。目の前にあるこれは、本当に今必要なのか?本当に必要ならば、今安いからという理由で飛びつくのではなく、同じ種類のもっと質の良い物を、お金を貯めてから買ったほうが良いのではないか?自分の身の周りを、妥協せずに気に入って買ったものに囲まれて、日々を快適に過ごしたい。物に対しても、丁寧に目をかけて暮らしたいと願うようになった事も一因かもしれません。どんなものでもお金さえ出せば買える時代に、私なりのstoryがある物のみを選んで、私の家に存在させる。それを繰り返すうちに、私というフィルターを通して集まった物達は、静かなる音楽を奏で始めてくれるような気がするのです。さて、『丁寧に暮らす』の二日目。『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主著)より何故掃除をするのか?家が汚れるから。お客様が来るから。好きだから。乱雑なのが嫌だから。 などなど理由は様々にあると思います。何故掃除をするのか?と問われたときに、毎日掃除をする係りの私としては、「散らかっているから。」「私の仕事だから」と答えていました。いくら楽しんで!楽しんで!と思っても、掃除する端から散らかす人がいる現状。ルーティンワークを楽しめない時もありました。朝掃除して、夜には・・・・。その状態にうんざり。でもね、真章さんは、『掃除をしてきれいにする事事態にさほどの意味は無い』とおっしゃっています。ちなみにこの法然院には、庫裏に入った正面に「一掃除、二勤行とや 落ち葉掃く」と書かれているそうです。このお寺の伝統は、一に掃除、二に勤行、三に学問と、何よりも掃除を大切にされているそうです。では、掃除の何に意味があるのか?答えは、『繰り返すという過程』なのだそうです。これは、すなわち日常の象徴。掃除も洗濯も食事の支度も、同じ事を繰り返す日常の積み重ねで、人生が作られていく。もちろん、やりたくない日も、気が重い日も、体調が悪い日もあるけれど、繰り返しの中の達成感を日々味わえるという事は、ある意味有難いし、幸せな事では無いでしょうか?そう思えると、重い腰も上がるのかもしれません。好きな事をするのは、毎日でも楽しめる。嫌な事も、心の持ち様で好きな事に変えられる。それは前にも日記に書いた通り、いろいろな手を駆使してやっていた事。でもそれは、家事の成果に重点を置き、美味しい物を食べよう!とか、綺麗になった!とかを楽しむ事でした。だから、その成果が上がらなかった時は、どんなに一生懸命頑張ったって、期待が大きかった分、一気に気力が萎えてしまうような脱力感に襲われていたのです。だけど、『繰り返す』ことを学ぶために生きて、暮らしている。そう発想を転換できれば、毎日の繰り返しをいかに楽しむか?に重点を置いて生きていけます。その繰り返しを最大限に楽しむために、身の回りの小さな家事グッズ一つにも心を配って手に入れたい。『私の魂が入った暮らし』を、今日も丁寧に繰り返して行きたいのです。さぁて、何から手をつけるか?いざ!真剣勝負だ~~!
2007.07.04
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今読みながら日々実践している本は、「ありのまま」(梶田 真章 法然院貫主 著)という本です。『ありのまま』という、まさに今の私の課題にぴったりの題に惹かれ、購入しました。本のイメージも真っ白の装丁で、こういう心でありたいと思うような作り。『ありのまま』って、文字にすればたったの5文字。尊い事も分かっている。そうありたいとも願っている。でも、具体的には・・・・・?そう思っていた私を、暮らしの中から導いてくれそうな本です。そして「ここに書いてある各章を、一つずつ私の物にしていったら、いつかは私もありのままに、肩の力を抜いて、生きることが出来そうな気がする。」そう思わせてくれる本です。今日はまず第一章 第一節から実践してみました。「おはようございます(一日の始まりを意識する) 」今日は、朝起きてまず「おはようございます」ときちんと挨拶が出来ましたか?挨拶が出来た。→ ☆ 挨拶が出来て、相手にも返してもらえた。 → ☆☆ 挨拶を誰にでも気持ち良くできた。→ ☆☆☆ これは、娘の挨拶の『お励み表』の項目です。ただ挨拶するだけなら☆。相手から返してもらう(大きな声で相手にちゃんと言える)と☆☆。見返りを期待せず誰にでも気持ち良く挨拶できる(自分の心に挨拶をすると書いてあります)と☆☆☆。さてだんだん成長してくると、子供のように朝から元気に大きな声で、気持ち良い挨拶が出来なくなってくるような気がします。それは、照れだとか、体調だとか・・・・、いろいろな事が作用するとは思いますが・・・・。真章さんは、まず朝はちゃんと早くから起きることが大事だと仰っています。日が昇ったら起きだし、日のある間に活動し、日が暮れると眠る。お日様と共に生きるという古来からの生きかた。もちろん今はそんな事はなかなか出来ない暮らしではありますが、出来るだけ早く起きて朝の時間に自分と向き合い、今日はどんな一日が待っているのかと思いを巡らす。その日と出会うために、まず窓を開けてみる。そして、空気、天気、音、風、匂いなどなど五感で朝を感じてみると、昨日とは違う今日を迎えた事に気づくことができるでしょう。毎日毎日が同じ物の繰り返しではなく、今日という二度とこない新たな一日を新たな気持ちで生きて行こうとする活力が湧いてくるのではないでしょうか?「おはようございます」は、そんな日々の営みの中で自然に出てくる言葉です。家族や周囲の方々だけでなく、草木や大地、お日様など、全てのもの対して「動き出していますね。」という思いを込めて声をかける挨拶です。『一日の始まりと一日の終わりを、意識する時間を暮らしの中に持つ。』たったそれだけの事で、今まで何気なく過ごしてきた一日が、特別の一日になりそうです。二度とは来ない今日を、どうやって楽しむか?朝起きて空や雲やお日様に挨拶をした後、かけがえの無い私のためにその日の気分の『目覚めの一杯』を準備しながら、じっくり考えて見る。朝ほんの30分、昨日より早く起きるだけで実行可能です。誰もいないお気に入りの場所で、私だけの時間を過ごす30分間。ちょっと素敵でしょ?さて、明日は何を飲もうかな?準備しておかなくっちゃ!
2007.07.03
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もう7月ですね。あっという間に今年も半年が過ぎました。娘はこの半年の間に、「トイレトレーニングの成功」「文字や数字の読み書き」などなど目に見えて成長しているのが分かります。さてさて、では私は・・・・?うーん、中々大人の成長は目に見えてきません。でもね、先週の水曜日からずーっと、いろいろな方からのお誘いを頂いたり、我が家にお出で頂いたりと、楽しい時間が目白押しでした。もし私が、自分の殻に閉じこもって、自分の事しか考えられず、独りよがりの理論を振りかざし、我儘のし放題の人であったなら、誰からも相手にされる事は無いはず。そう考えたら、目に見えなくともきっと前に進んでいるはず。いつも人が集まって、笑い転げている日々のうちに、きっと何かを見つけているはずです。さて、前回の長寿法。さらに続きがありました。健康の扉(ヘルスアートクリニックくまもと院長 中原 和彦)より「長生きのための運動」人間の老化は何で起こるか?抗加齢医学会では、酸化ストレス(いわゆる錆)の程度で決まると言われているそうです。皮をむいたりんごが酸化して黄色く変色するように、人の体も錆つくことにより老化し、肉体の死にいたるそうです。では、運動と錆についての関係は・・・・?軽い運動ではほとんど体は錆つきませんが、激しい運動になると錆が多くなる事は証明されています。紫外線を浴びる時間が長いほど錆つくことも分かっているので、戸外で激しいスポーツをする場合は、十分注意が必要です。抗加齢医学会の発表によると、運動を全くしない人は長生きし難く、ついで激しい運動をする人も長生きし難く、もっとも長生きするのは軽い運動を継続してしている人なのだそうです。健康長寿のためにも、出来る範囲内でまずは簡単な運動から始める事をお奨めします。 軽い運動が大事と学び、6月から太極拳を始めています。軽いストレッチから柔軟体操、太極拳まで、しめて1時間半週一回のレッスンですが、何と言っても自宅でも空いた時間にできるのがよい所。背中の筋肉を伸ばして~!とか、肩をほぐして~!とか、足の筋肉を鍛えて~!等など、ここで教わったストレッチを、ちょっとずつやっています。意外と汗だくになるので、体もほぐれて、ストレス解消!ストレッチ用のCDを買って、音楽も楽しめるしで、一石で何羽もの鳥を捕まえた気分です。今までは、日常生活の中を「暮らしの仕事時間」「プライベートの時間」「子供との時間」の三本の柱で営んできたのですが、6月からはプライベートが「動の時間」「静の時間」に分かれました。こうやって少しずつ生活の時間分けをすることで、随分暮らしにメリハリができてきて、生きた暮らしを実感できるようになりました。自分も育てるもの、家も育てるもの、暮らしも育てるもの・・・。楽しんで、楽しんで、楽しんで、満喫したいものです。私にも出来るエコ「毎日一個はゴミを拾って、そんな自分を褒め称えよう!」うん、これならできるかな?
2007.07.02
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今日もとっても暑いお天気でした。でも暑さにも負けず、お友達と親子総勢8名で、バイキングのイタリアンレストランでランチタイム。三人寄ればなんとやらで、いっぱい食べて、思いっきりおしゃべりして、たくさん笑って、心から共感して・・・・。とっても良い人間関係作りをしてきたので、心もすっきり!笑顔もすっきり!私達のグループはこうして毎月一度、『蝸牛の会』と称して仲の良い友人達が集まって良い時を過ごしているのです。『一歩一歩ゆっくりと、でも確実に前に進んで行こうね。』『一緒にゆっくり進んで行こうね。』との思いで会の名前をつけました。グループのメンバーが持っている特技を生かしての小さな講習会や、地域の文化活動に参加しての学びの会。時には今日のような愚痴の会等など。ちょっとした事なのですが、私にとってはとても楽しい時間です。魔女魔女学校が私個人の自己啓発のための学校だとしたら、蝸牛の会はくじけそうになる心をそっと支えてくれるような所謂オープンスクール。以前、「お金を失うのは人生の一部を失う事。友を失うのは人生の大部分を失い、希望を失うのは人生の全てを失う」という言葉をブログに書きましたが、まさにそうだと実感できる時です。ここには友も集い、希望に溢れた言葉も耳にできる。そして、ちょっぴり愚痴もこぼせる時間。リフレッシュがいかに大切かを、実感できる時でもあります。健康長寿こうして良い時を過ごすという有難さを、改めて感じることができるようになったのも、「ヘルスアートクリニックくまもとの中原和彦院長」の新聞のコラムのお陰です。そこで、今日はそのコラムの「健康長寿」(健康で長生きすること)について。健康長寿のためには、3つの努力目標が必要だそうです。一つ目 食べ物と排泄二つ目 運動と休息三つ目 心と魂まずは、食べ物から。健康長寿の県といえば、沖縄県。沖縄は、1995年WHOの事務総長を迎えて「世界健康長寿宣言」を行なったそうです。では、沖縄の食べ物はどうなのか?それは・・・・。壱 塩分摂取量が少ない。弐 豆腐や味噌類が多い。参 余分な油分を抜いた豚肉などの良質な高たんぱくを多く摂取している。四 緑黄色野菜や魚介類の摂取が多い。五 モズクなどの海藻類やゴーヤーなどの野菜類の摂取が多い。六 ビタミンや繊維質に富んだイモ類をよく食べる。といった特色がありました。そして、最後にこれだけは守って欲しい事。『腹六分で食べ過ぎないこと。食べすぎは早く死に、腹六分は長く生きる』あちゃー、今日は食べ過ぎちゃった・・・・。それでは晩御飯から摂生します。楽しい楽しい魔女魔女学校と、最高の蝸牛の会を元気に続けて行くためにも、自分の体を労わる方法を見つけなくてね。私に出来るエコ その2「買い物の時は、『このままで良いです』と買い物袋を断り、嵐のように立ち去ろう」明日の買い物で挑戦で~す。
2007.06.28
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今日は、お気に入りのパン屋さんまで娘と二人お散歩がてら買い物に行きました。そこは、国産小麦、天然酵母、無添加と、材料にも作り方にもこだわったパン屋さんです。お昼に食べるパンを選んでレジまで行くと、傍らにおもしろそうなフリーペーパーを発見。早速頂いてきました。その新聞は、『笑い楽しみながら、30秒で世界を変えちゃう新聞』(豪快な号外号)http://www.teamgogo.net/です。地球温暖化を、『2007年の今から始めれば、変えられる』という特集で作られています。その表紙の、『まずは、半径3メートルを変えてみよう。そこから世界が変わっていく』というコピーに惹かれました。半径3メートル、直径6メートル。かける家族の人数3名分。直径18メートルの円の中に、我が家はすっぽり入ってしまいます。(正確に言うと、円の方が大きいです。)つまり、我が家+我が家の周辺一回り程度の広さを、まずは変えてみる。我が家の持ち物、外の環境などなど・・・・。ちょっとずつ自分を変えてみることからやってみたら、何かが変わってくるかもしれない。この新聞にも書いてありますが、よく何かあったら口にする「しょうがない・・・。」妙に悟った大人の言葉のような気がしていましたが、漢字で書くと「笑がない」。「笑がない」ってあきらめていたら、笑いの無い世の中になってしまう。でも、「やってみま笑!」って笑い楽しみながら動いたら、必ず笑いが溢れる世の中になる。「やってみま笑」の波紋を広げて、まずは半径3メートルを変える事からはじめま笑!でもねぇ、何から変えたら良いの?まずは自分の一歩からと分かってはいても、地球に優しいと知っていても、水筒2本(私とチビ用)、お箸2膳、持ち歩くのが辛いときもあるんだよね・・・・。こんな事してほんとに変わるのかしら?最近そう思っていた私の心に、神様からのお届け便だったのかもしれません。で、紙面に『30秒で世界を変える30の方法』が書かれています。基本は、我慢、忍耐!必要なしで楽しみながらやる事。ネイティブアメリカンのように、「何かを決めるときは、7代先の事を考えて決める」(自分達が生きる今だけでなく、ずっと先の未来の子供達の事を考えて、行動を起こす)をやってみるだけでも、消費大国、経済優先主義の世界で生きてきた私にとっては大きな変化。そうだよね、苦しみから何かを生み出すのではなく、楽しみながら長くなが~く続けて行く事が大事。30の方法を読んで、水筒を持つことも、お箸を持参することも、ちょっと楽しみに思えるようになりました。「すいとー」って、博多弁で「好いとー」。つまり「I LOVE YOU」。未来の子供に「好いとー」。我が子に「好いとー」。私に「好いとー」。そう思って持つだけで、ただのお茶でもスペシャルドリンク。なんたって、「愛情」入りです。まずは今日から、ルーティンワークではなく、ちょっと頭を使った家事をやってみようっと。えへへ、ちょっとおりこうさんになった気分です。30の方法 1近くで作られた食べ物を食べると、CO2を減らせて環境にいい!
2007.06.26
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先日に続いて、ストレスとの共存法。上手にストレスと共存できれば、仲良く暮らすことが出来るのではないか?「負けない!打ち勝つ!」と思うのではなく、距離をとって上手に付き合うことができれば、後になって今日の日を振り返ったときに、意外と良い思い出になっているのかもしれません。過去を振り返って見た時に、くすくすっと笑ってくすぐったい様な感覚で思い出せるのは、一生懸命問題に取り組んで乗り越えた自分の姿。そんな『経験という財産』をたくさん持っていれば、次に押し寄せてくるストレスの波も、上手に乗りこなしていけるはず。ストレスの大波小波で、サーフィンをしている気分です。では、昨日のREAL SIMPLE誌の記事から、お友達になる方法の続きを・・・・。明治大学諸富教授によると、無理にポジティブに考えないことが必要なのだそうです。巷に溢れるポジティブシンキングの本を読むと、その時は「クヨクヨしない」だとか「スッキリする」だとかの気持ちになれるでしょう。でも、その気持ちは中々長続きさせることができません。続けられなかったという事実が新たなストレスの素になります。ポジティブになればいいのを頭が分かっていても、気持ちがついていかない事もあるでしょう。ストレスによっては、ネガティブになっていると感じても無理に明るくなる必要はありません。ストレスに関する記事を読むのは、ストレスを何とかしたいと思う、正義感が強く、真面目な人ではないか思います。「世の中は、あいまいなものなんだ。白黒はっきりさせ、きれいさっぱり解決しようと思わないことが大事」と述べられています。ぎくっ!確かに、真面目で正義感強いって言われます。でも、それがストレスを作るもとだったなんて・・・・。「あいまいな世界、混沌とした世界」を認めないと、自分も周りも苦しくなるのかもしれませんね。まずは、愛する私を楽にするためにも、考え方の癖をちょっと修正してみたいと思います。同じなやむにも、上手な悩み方があるそうです。精神保健福祉士の佐藤恵美さんは、次のように述べられています・・・・。前向きに悩むための提案。悩みの禁じ手三か条。壱 やみくもに自分を責める弐 情報不足参 堂々巡りの思考をするまずは決して自分を責めないこと。そして、間違った情報に振り回されないこと。最後に堂々巡りを止めるには、一つの見方だけに固執してネガティブな感情に支配されないこと。以上三つがだいじなのだそうです。ネガティブにならない=ポジティブではありません。まずは感情に支配されないことが大事です。ストレスや悩みの真っ只中にあるときには、「物事の捉え方は無数にある」という事を知って置くだけでも、随分気持ちが違うもの。そして上手に悩むには、気晴らしする事が大切です。煮詰まって視野が狭くなったら、頭を占領している事を一旦棚に上げて、全く別の事をして見る。これは、問題を見なかったことや隠してしまうのではなく、一時的に棚に上げるというのがポイントです。問題から一旦離れて、再度向き合ったとき、ニュートラルな視点からフレッシュな頭で取り組むことが出来るからです。 上手に悩めば、自分を苦しめているストレスの元である「問題」が、自分を高める「課題」になってきます。こうやって、ストレスと上手に暮らしていけるようになったら、きっとあんなに悩んでいた苦しみは、自然にすんなり解決しているのかもしれません。だって、このストレスは私を成長させてくれようとする、天からの恵みなのかもしれないのですから。課題を終えたときには、私は階段を一歩登っているはず。さぁ、お天気も良いし、今日も波乗りしてみましょう。おかげさまで元気です。
2007.06.25
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毎日の暮らしを恙無く過ごしているだけで、夜になると意外とストレスが溜まっているのを感じます。『姿勢が悪いと肉体的ストレスになります。』そうです!以前ブログにも書いたように、肺に思いっきり酸素を供給するためにも、まずは姿勢から・・・。ということで、ジメジメ気分に対抗する意味も込めて、今月から太極拳を始めました。週一回のお稽古と、自宅で出来る簡単なストレッチをやるだけで、肩こりを初め腰痛、関節痛が少しずつ軽減しているような気がします。筋肉をつける事で、骨格も矯正されて来ているのかもしれません。細胞規模から気持ち良い状態を創り出すためにも、日々の鍛錬が必要ですね。では、精神的ストレスはどうやって解消して行くか?これについては、昨日買った「REAL SIMPLE 8月号」に良い対処法を見つけました。この記事によると・・・・。『明治大学 諸富 祥彦教授によると、「ストレスがあるということは、前向きに生きようとしている証拠」なのだそうです。ストレスが無いとどんなに良いかと思いますが、「ストレスの完治を目指すのは敗北」なのだそうです。「ストレスの一因は、理想を目指す完ぺき主義と、それが出来ない現実とのギャップにあります。その差を払拭しようとするのは、無理のある話です。」』確かに理想を現実にする事ができないギャップに苦しむ事は、大きなストレスとなります。「こうなりたい。」とか「あれを実現したい。」など、たくさんの夢を持てば持つほど、それを現実の物に出来なかったときのギャップには苦しみました。何せ座右の銘は「夢を見て、夢を追い、夢を喰う」ですから、大きな物も小さな物も数え切れないほどの夢を見ましたし、今も見ています。実現したものもあれば、実現したけれどこんなはずではなかったと思うもの、全く実現しなかったものなど私の中に眠る夢達は、様々なものに形を変えて行きました。そして今までなら、理想と現実のギャップの溝に落ち込み、中々這い上がってくることができなかったはず。でも魔女魔女学校に入学して、自分に課したいろいろな課題にチャレンジして来た中から、少しずつ学んできたことがあります。それは、実は現実と理想のギャップの溝は、そんなに深くは無いという事。越えられないと思っているのは自分だけなのかもしれません。理想を違う角度から見て見ると、もう越えてしまっているかもしれません。楽観的なのかもしれないけれど、なんだかそんな風に思えるようになってきたのです。さて、上述の諸富教授の記事によると・・・・。『ストレス対処の第一歩は、『自分の感情がそこにあることを認める事』なのだそうです。自分がイライラしていると感じたら、その存在を認め、声をかけるのです。(口に出す必要はありませんが・・・。)「私のイライラさん、こんにちは!あなたがそこにいるのを、私は知っていますよ。」などと。ここでのポイントは二つ。一つ目は、自分の感情に名前をつける事。これは、自分と感情を分離し距離をとるためです。二つ目は、「知っていますよ」と認める事。ネガティブな感情は、抑えようとすると逆に大きくなり、結果としてその感情に振り回されます。その感情の存在を認め、距離を置き、眺めるようにしましょう。』そうかぁ。確かに名前をつけて別の物とすると、自分の肉体も精神も感情も、自分の中の別の自分として見る事ができるようになります。私自身、別働隊のAちゃんBちゃん。魂のアラレちゃん。肉体の力ちゃんなど等々・・・。いろいろと名前を付けて呼んでいるのですが、心の中で(時に声に出しているときもあります・・・。)話しかけるときは、やはり別人の気持ちで客観的に見ています。そして、ちょうど今タイムリーにBGMにかかっているのは、climb Ev'ry Mountain。全ての山(困難や苦労)を越えて行きなさいと歌っています。命名しよう!今日から君は「感情の山ちゃん」だ!さぁ、共存共栄の第一歩。他の子達もよろしく頼むよ。「そこに山があるから、登る」んだもんね。
2007.06.22
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梅雨に入ってからと言うもの雲が厚くたれ込めて、どんよりとした気分になります。窓から見える抜けるような青空が少々恋しくなって来ているところですが・・・・。雨も必要、晴れも必要、雷様も必要な物。この自然界あるものは、一つとして不要な物は無いのですから、もっと大らかな気持ちで受け止めなければなりませんね。「雨はね、お花が喉が渇いたって神様にお願いして、お茶をもらっているんだよ。」という怪獣まぁちゃんの言葉に、ついつい「洗濯物が~」とか「お布団干せない」などの我儘を反省・・・・。長雨の日でも、二人でできる楽しみを見つけなければと思っています。またまた「背負うた子に教えられ・・・・」です。例えそれが物言わぬ雨だろうと、草花だろうと、感性の違う人だろうと、まずは相手の心に共感すると言う事の大切さは、頭ではわかっていたはずなのに、まだまだ心から理解していなかったことが判明・・・・。訓練の道は長いですねぇ。そういえば、先日新聞で見つけた心療内科医の海原純子医師のコラムにも、共感について書かれていました。コラムには、共感する力が大切だと書かれています。 『人生は常に選択の連続で、その選択は自分でするもの。そして、人生には成功もあれば、失敗や挫折もある。もちろん、失敗という結果も自分で引き受けるのが大人だけれど・・・・。家族や友人ならば、その失敗や挫折を共に「大変だね。」と分け合って欲しいというのは贅沢なのであろうか?自分で選んだのだから苦しむのも悩むのも一人ですれば?というのは悲しすぎる。誰かのせいにしている訳ではなく、頑張っている上で、失敗や挫折の痛みに苦しんでいるのである。だけど、実際には「自分が選んだ道なのだから」とお説教して、共感するのを忘れている家族が多すぎる。体を壊した人には、「大変ですね。お大事に。」と共感できるはず。でも、心の痛みも体の痛みも同じもの。心に傷を負う人にも、共感する心を持って欲しい。』というような内容でした。傷ついた時、頑張らなきゃ!とか、自分のせいでしょ!とよく言われました。もちろん、自分が蒔いた種を今刈り取っているという事は、重々承知しています。でもね、そこにほんの少しでも共感して、「その痛み、チョットの間変わりに持って上げましょ!」と言ってくれる人がいたならば、悩みや挫折の山をもう少し早く、もう少し楽に登ることができるかもしれません。相手の痛みに共感できる心を持ち、その痛みを共に背負える人でありたいと思います。そのためにも、『大らかで動じない優しい心』と『痛んだ人を背負ってでも共に道を進めるだけの強さ』を持つ訓練をする必要を感じます。まずは、子供の純な心に共感する事。素直な心で物事を見る事。ここらあたりからはじめてみることにいたしましょう。あなたのお陰で生かされています。
2007.06.21
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毎日を大切に暮らすと言う事は、真剣に暮らす事に向き合う分心に大波小波が発生します。その波を時になだめ、時にすかし、時に格闘しながら生きるという事。自分に与えられたどんな仕事でも、どんな役目でも、さらっと流して適当に過ごせば、こんなにも苦しんだり悩んだりすることはなにのかもしれません。でもね、生きているという事は真剣勝負。真剣に向き合えば向き合うだけ、発生する波は多くなるような気がしますが、反対に生きる喜びも大きく得られる。適当に生きて適当に死ぬか?真剣に生きて真剣に死ぬか?どちらを選ぶも私の自由。さてさて、今の私はいかがでしょう・・・・?もちろん張り詰めたピアノ線では、必ず切れる日が来てしまう。緩やかに自分に遊びを持って、しなやかな樹木でありたいものです。昨日テレビで長寿企業の話があっていましたが、創業1400年の建築会社は木造の寺社建築の専門家集団。コンクリートは100年持つと言うけれど、木造建築は何百年も持つ。それは樹木にしなやかさがあるからだそうです。私もそんなしなやかさを身につけたいと思っています。まぁ、まだまだ全てに訓練生バッジが外れないのですが・・・・。その企業が代々培ってきた企業理念に、『本業以外に手を染めない。』『身の丈にあった仕事をする』と言うものがありました。これは会社だけでなく個人にも言える事。『今自分のなすべき仕事は?』『今の私自身の身の丈は?』これを知った上で自分自身を羽ばたかせたり、抑えたり・・・・。そうしながら私を成長させていく。まだまだ芽が出ないかもしれないけれど、双葉かもしれないけれど・・・・。土を知り、種を知り、水を知り、それを駆使しなければ何も実らないものね。今日は、ちょっとイライラした卑しい自分に渇を入れる言葉を書いてみました。久我高照尼の書の中にあったものです。『迷えるものよ父を怨むな 兄を怨むな妻を責めるな 子を罵るな他人を裁く眼を転じて 己が心を見つめよ世の怨み 身の悲しみも 失せにけり妙の祈りに照らされて』嫌な事や辛い事があると、ついつい人のせいにしたくなrます。そして、その相手を怨み、ののしりたくなります。だって、自分がいちばん可愛いんだもの。それは当たり前の感情です。だけどね、これでは絶対に問題は解決しないのです。 もしも問題を解決したければ・・・・・。他人を批判し裁く目を、自分自身の言動や心に向け、もう一度見つめなおして見る。そうすると、自分自身の真実の姿が見えてきます。そうすると、世間様を怨む気持ちも、くよくよ悲しむ事も無くなって、そこから初めて私自身の実りの多い人生の道が見えてくる。そうそう!そうなんだよね!と分かっていても、ついつい日々の暮らしの大波子波に流されてしまう私・・・・。今の私は、実り多い人生の道を進む事を切望しているはず!ほらほら、幸せの原点に戻らなくっちゃ!たまには駄目な日もあるよね。
2007.06.19
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先日より練習している、傾聴法。まず聴くことの難しさを感じます。まず聴くという事は、空の自分で無ければ出来ないこと。「私の考えは、○○。」「私は、○○だと思う。」「○○したら・・・。」などなど、自分の中に一瞬たりともその気持ちが芽生えてしまうと、つい口にしてしまいたくなります。でもまずは、相手の心を見せていただくこと。私に今与えれているレッスン課題は、笑顔で聴くこと。「空」の心をのっとろうとする自我と格闘中です。格闘する私を支えるべく、部屋の中に増えた言霊は・・・・。「言葉で喋る人には、耳で聞け。心で喋る人には、心で聞け。」(小笠原日凰尼)常に相手の立場、置かれている状況を忘れず、測り、想像しながら、耳を傾け、話をしなさいという意味です。これは、自分に置き変えて見ると誰でもすぐ分かる事。私自身が聞く状態に無い時に、どんな良い話をされたとしても、どんなに夢中になって話されたとしても、私の耳はチクワ状態。心には何も残らないでしょう。反対に、今まさにこの言葉を求めていた!という時に、心がキャッチできるような言葉で、荒地にまかれた水のように染みいる話をされたら、私の心に刻み込まれる話として受け止められる。心を澄んだ状態にして、相手が何を求めているのか?を感じるためにも、相手の心の声をキャッチして、そこから本当に求めている言葉を想像する。そして、そこから湧き出る清水のように言葉を発っせられたら・・・・。きっと、相手は手にすくって口にしたくなるはず。そしてその言葉の水は、相手の心の奥深くにまで染みとおるはず。「空」の状態で相手の心を受け止め、美味しい言霊を湧き出せる感性。そのためにも、心の鏡を美しく磨き続けたいものです。毎日毎日が、「行」。明日はどんな楽しい「行」が見つかるかしら?あなたと一緒がいちばん楽しい。
2007.06.18
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人間関係を良くする方法を、昨日に引き続き中原先生のお話から・・・・。『人間関係を良くするためには、まず笑顔の研究。第一印象を良くしましょう!』次に行なうのは・・・・・?さて、なんでしょう?それは、聞く練習をすることなのだそうです。最後は、話し方の練習。この順番でやる事が、人生を上手に生きるためのコツなのだそうです。では、聞き上手になるためのポイントは・・・?お目目は二つ・・・、お口は一つ、お耳は二つ・・・・。これはうちのマァちゃんが書く、人間のお顔。人物像としてはとってもデフォルメされたものですが・・・・。実はここに傾聴法のポイントが隠されていることが分かりました。お目目が二つという事は、二つの目で相手を良く見みなさいということ。お口が一つという事は、吾も吾もとおしゃべりすることを慎みなさいということ。お耳が二つという事は、自分が口で言う事の二倍は耳で聞きなさいということ。胎児が持っている五感は、聴覚と触覚。確かに我が子も、私が妊娠中に好んで聴いていたCDを出産後かけたとき、とても落ち着いた様子で聞いていました。そして、臨終の際まで残る能力もまた聴覚だそうです。つまりこの世に命を頂いてから、死にいたる瞬間まで、確実に残っている五感が聴覚。人生の中で聴覚は、それだけ大切は感覚なのだそうです。では、この大切な「聴く」という行為は、どのようにしたら良いのか?傾聴法から見て見ると・・・・・。中原先生は次のように述べられています。『一段階目「うなずいて聴く」二段階目「相手の言葉を鸚鵡返しで聴く」三段階目「相手の言葉の言葉の中の、『感情の部分』を特に鸚鵡返しして聴く」四段階目「相手の中の言葉には無い、言外の思いを察知して聴く」五段階目「相手の話が長いときは、時々確認のためにそれをまとめて伺ってみる」』段階を追う毎にだんだんと難しくなってきますが、それも聞き上手になるための練習です。まずは簡単なところから課題にして、少しずつステップアップするうちに、きっと私も聞き上手になれるはず。心を傾けて、人の話を上手に聴くことが出来るようになったら、人間関係も更にスムーズに楽しめるはずです。うーん、おしゃべり大好きな私には、聴く事ってとっても努力がいることだけど、先生がおっしゃるように、『言うより聞け、聞くより聴け』を心に刻んで、今日もちょっとだけ課題に取り組んでみましょう。さぁ、今日はどんなお話が聴けるかな?あなたの心に癒されます。
2007.06.16
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自分の気にいった言葉やお友達から頂いた言葉やカードなどを、いつも目につく場所に飾っておくのが私の最近のお気に入り。自分の好きな言葉、自分を鼓舞してくれる言葉は、自分でカードで書いて、台所やベッドの脇などにピンで刺しております。絵の入ったカード、お友達からの絵手紙や絵葉書等は、額に入れて部屋のあちこちに・・・・。家にいる事の多い私は、家中どこにいても降り注ぐ言葉の雨に、自分を鼓舞され、励まされ、慰められ、愛されます。言葉に宿った魂達が、私の心を支えていてくれるのかもしれません。その中で私のドレッサー兼事務机の鏡の前に置いているカードには、「笑った顔がいちばん素敵」という言葉と共に、大笑いしている三毛猫の絵が書いてあります。この机には、家庭内の事務処理をするときや、写経などの趣味に挑むときも使いますし、女性の嗜みもありますので、一日に何回かは座ることになります。そして、そのたびに鏡の前に飾ってあるカードを目にする事になります。そうすると・・・・・。どんなにイライラしていても、気に喰わないことがあっても、鏡の前でつい笑顔の練習をしてしまうのです。偉大なる言葉の魔術。誰が見ているわけでも、誰かに言われているわけでも無いのに、ついつい鏡の中の私に対して、笑顔の練習をしてしまう。お陰で、ちょっとは「笑顔」を上手にできるようになったようです。ヘルスアートクリニック熊本の院長である中原和彦先生の随筆に、「触れ合い上手は笑顔から」という物があります。その中で、「お金を失うのは人生の一部を失うこと。友を失うのは人生の大部分を失い、希望を失うのは人生の全てを失う」という言葉を紹介されています。「お金」は天下の回り物ですから、気持ちの良いお金を上手に使うことができれば、きっとまた回ってくるはずです。回遊魚と同じで一旦は自分の手を離れるかもしれませんが、自分が清くあるならば、きっと清いお金がまた回遊して来てくれるはず。「希望」は、人それぞれに心に持つものですから、持ち方失い方については人それぞれかもしれません。しかし、どうせ持つなら、「希望」の方はワクワクとして、決して離れたくない!それどころか仲間を連れて増やしたい!と思ってくれるような持ち方をしたいもの。では、「友」を失わないためにはどうするか?大往生の条件の一つに、「愛され惜しまれながら旅立つ」というものがあります。生涯「友」を失う事無く、相手から愛されるための人間関係はどうあれば良いのか?その事について中原先生は、相手に与える好印象をどう作るか?が大切だと仰っています。では、好印象を与え、良い触れ合いをするにはどうすれば良いか?その第一番目は、「笑顔」にあるそうです。これは、好印象の約80%が顔の表情であり、笑顔であるからです。つまり、相手と良き触れ合いを持ち、好印象を与えるためには、良い笑顔が出来れば80%は完成したも同然なのです。人生の大部分を決定するかも知れず、大往生の条件を満足にするかもしれない、その大一歩である笑顔は、毎日鏡の前に向かって研究するに値する事です。その上、笑うことは医学的にも笑い療法と言うものがあるくらい、免疫力を高め、がん予防などに役立ち、痛みなどのネガティブなものを和らげる効果があるそうです。まず笑顔、それから笑い。声を出して笑うことで、さらに呼吸法にも生かされ、笑いと呼吸法の併用療法になり、効果的な健康法となるそうです。「一日一生」(一日を一生と思って過ごすと、毎日が人生が充実しますよという意味)と言う言葉に加えて、「一笑」。「一日一生、一笑」人生が更に楽しくなる事請け合いです。さぁ、今日も笑顔の練習を!意外と難しいですよ。あなたの心が届きました。
2007.06.15
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娘と共に毎日24時間濃密な時間を過ごしていると、ふと私が今消えてしまったらこの子はどうするだろう?という気分になるときがあります。叔母は、1歳の時に父親を亡くしました。父親の記憶と言えば、写真の中にいる人。戦死とは言え、その後の母親の苦労を身近に見てきた身としては、何故還ってこなかったのか?という恨みに似た思いが強いそうです。そして、兄弟や親戚などから聞いて作る断片的な父親像。自分がいるという事は、紛れもなく父親がいたという事なのだけれど、それが実感できないときがあると言います。その姉にあたる母は、ちょうど3歳の時に父親を亡くしています。抱いてもらった記憶。なんだか優しかった事。両親が仲良くしていたことなどの記憶しかないそうです。ただ、事あるごとに母親から「お父様が見ていらっしゃる!」とか、「お父様が喜んでいらっしゃる!」とか言われてきたので、亡くなったとは頭では理解していても、なんとなく傍にいるような気がしていたそうです。伯父達は、小学生。父親代わりにならなくてはという思いが強くあったとのこと。立派な父親のようにならなくてはと思い、生きてきたそうです。一番上の伯母は、今で言う中学生。父親に対する気持ち、思い出はもうしっかりと胸に焼きついていて、さらにどんどんと美化されていく。失ってしまった喪失感は相当なものだったと思われます。 さて、我が家の娘は現在3歳4ヶ月。もし今私の命の灯が消えてしまったとしたら、この子の中には私の記憶として何が残るのでしょうか?今は母親べったりで、「お母さん、大好き!」「お母さん、笑ってる?」と纏わりついて来るこの子も、きっと目の前からいなくなってしまえば、記憶は忘却のかなたに消えてしまうのかもしれません。子供が生まれるのと前後して大好きな祖母が亡くなった時、きっと祖母の事は片時たりとも忘れる事は無いだろうと思っていました。しかし現実には、4年近くたってその顔をはっきりと思い出せなくなっている自分がいます。大人になってさえこうなのですもの。思い出の時間が少ない小さな人の中には、よほど鮮明な記憶でなければ、消え去ってしまったとしても無理のないことです。「もし私に何かあっても、ずっと覚えていて欲しい。」今まではそう思っていました。そして、その思いに縛られて、きちんと育てなくては!ちゃんと導かなくては!と躍起になっていました。でもこれは私のエゴ。「ずっと覚えておいてくれるような何かの種を、この子に渡しておきたい」ようやくそう思えるようになりました。そしてその中の一つでも、この子が生きていくのに迷った時に、道標となるようなものに育って欲しい。もしかしたら何一つ育つものが無いかもしれないし、種すら蒔いてもらえないかもしれないけれど、それでも私は私の思いを渡し続けたい。願わくば、「ちょこまかとよく体が動き、いつも笑っている大らかな人だった」という印象を残すこと。そのためにも、「今日」の修行があるのかもしれません。もしかしたら、明日はもう棺おけの中かもしれないのですもの。今日のこの瞬間を、楽しむ事に必死になって生きる私を、もっともっと大きく育てなくてはなりませんね。何しろ種を作らなくてはならないのですから。まずは後悔しない今日を目指すこと。例え地球上にどれだけたくさんの人がいようとも、私の人生のおいては、私にしか実現出来ない事。なんて、価値のある事なのでしょう!さぁ、今日は何から手をつけるか?あなたも一緒に、ワクワクしましょ!
2007.06.12
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我が家は、夫が出勤した後から帰宅するまで、何かしらの音楽が家中に満ちています。午前中は、子供向けの「お歌のCD」子供と一緒に童謡を歌って、踊って、ミュージカルさながらに家事をこなしております。歌を歌う(合唱までにはいたりません)事は、腹筋や顔の筋肉のトレーニング、呼吸など体に良い事がたくさんなので、二人で思いっきり遊んでおります。まさに二人の世界ですね。そして、昼食時間は軽妙なボサノバ。外遊びの時間を挟んで、帰宅後はリラックスタイム。夜に向けて体も心も落ち着いた状態に持って行きたいので、クラッシックや癒し系の音楽をかけているのです。部屋のカーテンの四隅には鈴を取り付けて、風の吹くたびに鈴の音が響くようにしたり・・・・。ウインドウチャイムを取り付けて、そこかしこで軽やかなメロディが鳴るようにしたり・・・・。大好きな音たちに四六時中囲まれて過ごす暮らし。家中いたるところに音が満ち溢れています。こう書くとなんだかうるさくてしょうがないような気がしますが・・・・。好きな音に囲まれているせいか、実際に暮らしてみて感じるのは、「音の中の静寂」。もちろん、午前中のお歌の時間には望めませんが・・・・。森の中で鶯やカッコウ、水のせせらぎの音を聞くことによって、さらにその静寂を感じるようなそんな気分です。嫌なもの、悪いものを、音の精霊達が祓ってくれているようです。音霊というけれど、そういう「気」が満ちてくるのかもしれません。子供の頃は自分自身に無限の可能性を感じていたし、大きくなっていろいろなものに束縛されるようになっても、自分自身が何物かになれるはずという思いから解き放たれずにいました。天職は何なのか?これで終わって良いのか?自分を縛るものが目の前にたくさんあるように感じられては、そこから逃れられない自分に嫌気がさし、そして逃れられないことの言い訳を考える。叶えられなかった夢がたくさんあるようで、あせり、絶望感に襲われる・・・・。自分で自分を苦しめていたのです。でもね、生まれ変わって脱皮したからでしょうか?その思いも一緒に脱ぎ捨てられたように思えます。私の立つ後ろには、今までの人生の中で紡いできた糸がたくさん出来上がっています。一秒前も、今現在も、もう紡がれた糸。そして私の目の前には、無限の可能性を秘めた多くの細い糸が、紡がれて太い一本の糸になる事を待ち望みつつ夢見ています。七色に輝く美しい細い糸。その糸が見せる様々な夢の形。私は私の見る小さな小さな夢達を、毎日毎日叶えては一本の糸に紡いでいく。きっと邪な心で紡いだら、糸は真っ黒に変化してしまうかもしれません。虹色の糸を紡ぎ、美しい虹色の人生のタペストリーを織るために。音の中の静寂に浸って、糸を紡ぐという大事な大事な時を今過ごしている。この過程がなければ、絶対に布を織る事はできない。そんな大事な美しくも優しい時間を過ごしながら、明日見る夢の種智を蒔いているのです。先日亡くなられた羽田健太郎さんが、「音楽は人生の楽しみを倍にして、苦しみを半分にしてくれる」とおっしゃっていましたが、本当にそう感じます。良い音に浸るように暮らしたい。そう思う毎日です。さぁ、明日はどの曲をかけましょうか?あなたが大好き!
2007.06.11
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新しい事にチャレンジして、自分が一つ人生の扉を開いたような新鮮な気持ちです。生まれ変わるってこういう事なんだと、この歳になって改めて実感。お友達の絵里さんも仰るように、私は私の人生に恋焦がれている事がやっと分かりました。きっと夫への感情なんかよりも数倍、いや数十倍、私は私の人生に恋している。私の人生はまだまだ成長の途中で、天職を見つける事も、生きる命題を見つけ出すこともできずに、ウロウロ、おろおろと頼りないのだけれど、それでも私は好きで好きでたまらないのです。成長した暁には、どんな人生になるのかな?どんな命題をこなしているのかしら?どんな天職を手にしているのかしら?そういう風に想像するだけで、とっても楽しくなるのです。「Ms. my life」のために、この本読んでみようかしら?「Ms. my life」と飲むお茶は、コーヒーそれとも紅茶?ちょっと煎れ方にも拘ってみようっと。この趣味は、きっと「Ms. my life」も気に入ってくれるはず。もしかしたら彼女が追い求めている命題に近いかな?それとも天職になるのかも!こうやって恋する「Ms. my life」に何か一つをする度に、ワクワクドキドキ。自然とテンションも上がってきてしまいます。なんだか良く分からないけれど、自然にいつもHAPPY!周りからも、「楽しそうね!」「嬉しそうね!」「いつもニコニコしてるね!」の評。いいこと。いいこと。『私は、「私」を私する。』この人生のプロデューサーは、他でもない私。主演女優兼監督兼プロデューサー兼etc。まぁまぁ、たくさん仕事があること!やりがいは、生きがいは、実はこの人生を全うするという事だけでも、ありあまる程の事かもしれません。楽しみは、あちこちに探しに行くものではなく、今こうして生きていることだけでも大きな楽しみ。そう思えるようになった瞬間から、まるで私が磁石にでもなったように、次から次へと幸せや楽しみが引きつけられて宅配されてくるみたい。今日は、お友達が手作りのスカートを持って来てくれました。大好きな綿麻混素材の、肌触りの良い物。デザインも色も、肌触りも、とっても良くって幸せです。今度は私がそのお返しの幸せの種を蒔かなくてはなりませんね。さぁ、何から手をつけようかな?楽しい、楽しい、あぁ楽しい!
2007.06.08
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いろいろと思うところがあって、昨日の祖母の言葉を機に、ブログネームもブログのタイトルも一新しました。ブログのタイトルは、毎日毎日日々の繰り返しの中で、今日最初に出す心の一歩を決して踏み出し間違いしないように。ブログネームの「佑啓」は、自分の本名に近い名前になりました。この文字には、助けて教え導くという意味があります。(佑は助ける。啓は知識を開くの意。)ここ数ヶ月、ある事がきっかけで自分自身の質の問いかけをずっと続けてきました。いろいろと自分なりに方法を見つけては、あっちを試しこっちを試し・・・・。けれどもその問題から自分が抜け出すぞ!という強い意思を持たないがために、結局はまた同じ所に戻ってきてしまい、堂々巡りのスパイラルに陥っていました。しかしどんな問題でも、その問題から自分が積極的に抜け出すという強い意思を持たねば、決して解決の糸口は見つからないという事にやっと気付くことができました。もしかしたら人も蚕のように、心を何度も何度も脱皮して成長していくのかもしれません。少しでも良い生糸を生み出すためにも、毎日の自分の成長の変化を楽しまなくてはなりませんね。こうやって罠に陥る度に、少しずつ少しずつ高みに登っていっている事を実感できれば、それで良し!です。罠に落ちたかいがあると言うものです。青山俊薫尼のおっしゃるとおり、「真理は一つ、切り口の違いで争わぬ」です。感性の違う人、考え方の違う人、意見の違う人、民族、宗教など、世の中には自分とは価値観の異なる様々な人があるけれど、全ては切り口が違うだけ。人間と言う事には変わりありません。円筒形の筒も、横に切れば切り口は円。縦に切れば長方形。斜めに切れば楕円。でも、切り口は違っても円筒形の筒という本質は同じ物。それと同じで、まずは自分と同じ価値観の人と学び合い、集い合い、協力しあって成長しあっていければ良い。価値観の違う人は切り口が違うだけ。その人はまたその人と同じ切り口の方々と共に、成長し合えば良いだけのこと。でも人間と言う事には変わりないのだから、相手の思いを受け止める度量がありさえすれば、その違いもまた私の成長の糧になる。永遠に変わらない真理を縦糸。時代により、地域により、人により必要あって変わっていく約束事(道徳律)を横糸に、毎日の生活を織り成していく。私の中の真理の縦糸の本数が増えれば、それだけ大きな織物になることができます。願わくはペルシャ絨毯のように、手の込んだ織物を織りたいもの。さ、まずは糸紡ぎから始めましょ!あなたの笑顔が、大好きです。
2007.06.07
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今から8年ほど前の今日、祖母から教えられた事が未だに心と頭にしっかりと焼き付いていて、6月6日は忘れられない日として私の中に残っています。それは、どんなに地位や名誉があろうとも、お金をたくさん持っていようとも、死ぬときは裸の自分で、たった一人で死出の旅路につかねばならないと言う事。願うことなら、自分がしっかりとした状態で、「ピンピンコロリ」とこの世に別れを告げること。だけど、高齢化社会になって、医療も高度化して、中々そう願いどおり行かない世の中になっています。そして何よりも、まだまだ元気でしっかりとしていて、明るい未来の夢を描けるうちは、『もういつ死んでも良いよ!』なんて言えるそうですが、だんだんと自分に残された時間が見えてくると、『まだ死にたくない!まだまだ死ねない!』と思うのが常だそうです。そうこうしているうちにだんだん歳を重ねて、脳が弱ってきたときに現れるのがその人の生き様。体も頭も元気な時に、いかに立派な人だろうが、いかに地位や名誉を得ていようが、脳が弱ってきたときは、自分を飾る全てのものを薄皮を剥ぐように少しずつ少しずつ失っていく。残されるのは、自分の本質。さぁ、最後に残される私の本質はいったいどんなものなのでしょう?泣きたくなるような酷い物なのか。逃げ出したくなるようないやらしいものなのか。心温まるような優しいものなのか。 昔『いじわるばあさん』という漫画があったけれど、あのように『意地悪な人はより意地悪に。』『高慢な人はより高慢に。』『わがままな人はよりわがままに。』なってしまうようなのです。歳を重ね脳が弱ってきて理性が働かなくなってくると、現れてくるのはその人自身の本心とでもいうような部分。しかも、さらに誇張されて。もしも自分が心の奥底で『そんなことしたら人に嫌われる』とか、『私なんてこと言っているだろう?』と感じる事があっても、脳の指令が体の表面には出てその状態をリカバリーする事はできず、『嫌われるままに』『いやがられるままに』なるしかないのです。反対に、自分の心持を何かしら鍛えてきた人は、『それなりの人はそれなりに』なれる。七施を最初に教えてくれたのは祖母でした。その祖母は死ぬまで和顔施を忘れずに旅立ちました。童話の中のカラスのように、名誉や地位やお金やその他もろもろの学びを、拾った羽のごとく身につけて自分自身を飾り立てても、それはあくまでも装飾品。指輪のように、ネックレスのように、お化粧のように・・・・・。何かの拍子にいつでも外されてしまうし、取れてしまう。それでは、どうすればよいのか・・・・?『お前が宝石になれば良い。』それが祖母から習ったこと。何が正しくて何がいけないのか?自分はどんな人になりたいのか?自分はどう行きたいのか?ただおざなりに自分を飾る知識を得るのではなく、血となり肉として自分の中に消化していく智慧を得る。そしてその智慧の全ても自分自身に溶け込ませ、私自身が宝玉になる。そうすれば、決して外れたり取れたりする事が無い宝物になれる。しかし、これは決して楽な道のりではありません。自分自身に課す課題を自分に溶け込ませるということは、無意識のうちにその課題ができるようにならなければならないと言う事。自分自身の至らなさに気付いたら、即刻それを改める力を持たねばならないという事。自分を見つめる自分を持ち続けなければならないということ。でもね。私が死んだとき・・・。一人でも涙を流してくれる人がいてくれたほうが嬉しい。やっかいばらいができたと喜ばれる人にならないために・・・・・。さ、今日もまず飯炊きからです。あなたの言葉が、私の活力。
2007.06.06
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いろいろな会合に参加すると、世の中にはいろいろな方がいらっしゃるものだなぁとつくづく思います。千差万別というように、十人十色というように、いろいろな個性があり、それがぶつかり合い、惹かれ合い、自らも成長していくのだなぁと改めて思い知らされます。できる事ならたくさんの人に好かれたい。多くの人に愛いされたいと願うのが世の常でしょうが、『私』という個性を眺めたときに、そうそうむしの良い事も望めないとも思い知らされます。この世に存在する物事は全て『3D』です。それは心も同じ事。物事を正確に見つめたいと思い、いつも身近に置いているのは折り紙で折った正方体の小さなサイコロ。これは、6面全て違う色です。今私が見ているのは赤い四角だけれど、ちょっと転がして見れば全く違う色になる。心も、人も、目の前にある問題も、今ある出来事も、全てはこの正方体と同じ。この一面からだけ見ているから、物事が狭小に歪曲されて見えてくる。あっちも、こっちも、そっちも、全ての方向から見ることを始めて、何故?何故?何故?何故?と自分自身に問いかけてみる。すると、象が蟻に、鯨がめだかに、そして馬がペガサスに・・・・。少しずつ本当の姿を現してくれる。『ことの本質』を見失わないために、常に自分の心眼を鍛える努力が必要だとつくづく思うのです。勉強、勉強、また勉強ですね~。今その著書にて教えを頂いている青山俊薫尼のお好きな言葉である、『弄花香満衣(花を弄すれば香り衣に満つ)』(花をもてあそんでいると、花の中に身を置くと、その花の香りがいつの間にか着物に染みつくように、人も良き友、良き師、良き環境に身を置くことにより、いつの間にか良くなる。)と言うものをいつも心に秘めて、良き友、良き師、良き環境に、自分の身を置くことを、生涯の課題に据え、生きていければと願うばかりです。良き師、良き友の中で、心をコロコロ転がしながら円く円~く自分を磨き、皆と手を携えてさらに良き環境を作る事を目指して行く。一人では、ついつい楽なほうに逃げてしまったり、挫折したり、一人よがりになってしまったりしがちだけれど、そこに同じ志を持つ仲間がいる事できっとその問題を乗り越えていけるはず。そこに同志がいると思うだけで、きっと暗闇に立ち向かう力を得られるはず。あ、その前に・・・・。「君はもう参加しなくていいよ」と言われないように、自分を自分で磨くことも夢ゆめ忘れないようにしなくっちゃ・・・・。私の大事なあの方に、大好きなこの方に、大切なこの方に、尊敬するこの方に、『お前もまた香り満る花だ』と言って頂ける様に・・・・・。子供を持って正にそうだと思う詩が、『子を抱いていると行く末の事が案じられるよい人に巡り合ってくれとおのずから涙がにじんでくる』 仏教詩人 坂村 真民先生 私が子供に願うように、私の両親が、祖父母が、やはりそう願ってくれたはず。内なるものを、内なる声を、もっともっと見つめる事にいたしましょう。あなたのその声が、私を元気にしてくれます。
2007.06.04
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今日は、満月です。お月様の浄化が大好きな私は、新月も、上弦の月も、満月も、下弦の月も、それぞれに風情があって大好きなのですが、満月のあの冴え冴えとした光を浴びて自分自身も大地から浮かび上がるような感覚は何とも言えません。かぐや姫がお月様に還って行ったのは、絵本によるとやはり満月の夜のようだけれど、このような日にお迎えに来たのも分かるような気がします。今日の日中のお天気は曇り・・・。夜には少しだけでもお月様が顔を出してくれると嬉しいんだけれど・・・・。パワーストーンの浄化のためにも、月夜の散歩を楽しめると良いなぁ。月の満ち欠けにあわせて、私のスケジュールも十五日周期。夜の時間を楽しむために、十五個の引き出しを用意しています。一つは昨日のお習字の時間。他にも、読書、手紙,裁縫、お料理のレシピの整理、座禅などなど・・・・。一日に開けるのは一つの引き出し。時間はきっちり90分。私が私に戻り、私をする時間。一月かかっても少しずつしか進まない、とっても効率の悪い趣味の数々。まぁ、あくまでも趣味の世界ですから・・・・・。でも引き出しを開けるたびに、「あれからもう半月・・・・。」と、自分を振り返るにはちょうど良い具合です。それを繰り返して、もう六月。一月一日の私から、さてどれだけ前に進めたことか・・・・・。月好きなので、月にちなんだお話は大好きですが、その中でも最近心に残る物。小笠原日凰尼様の本の中にありました。仏様のお言葉だそうです。『月ゆがむにあらず。波騒ぐなり日暗むにあらず 雲かかるなり雲去れば また輝く暗き魂を通してながむる世界は 暗黒なり花は心無く開けども月は心無く照らせども涙に仰げば月も泣き笑いて見れば花も微笑む』人の気持ちの持ちようで、同じ物でも全く違ったものに見えてくる。でも見えている対象は、誰が見ても同じ物。どうせこの世を目にするならば、全てを微笑む物として目にしたい。そのためには、私が上手に微笑む力を持つことが必要ね。朝が来るのも嬉しいけれど、日中出来るだけ傍を楽にして、夜の帳が下りてくるのが待ち遠しい私です。あなたの元気が、私の力!
2007.06.01
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書道の墨の香りが、一日の疲れをすっと抜き去ってくれるような気がします。その昔祖母は、庭の畑の里芋の葉に落ちた朝露の雫を集めて、早朝の書を楽しんだそうですが、私はまだまだそこまで辿り着けずにいます。私のお習字の時間は、子供が寝静まってから・・・・。今日一日の自分の課題を全て終えた後の、安堵感に浸りながら楽しむ時です。最近は「ごゆるり禅」の教えに従って、自己流ながら「般若心経」のお写経を楽しんでおります。お写経をする前の練習に、必ず書くのが『かな手本「いろは歌」』。なんとなくあの字の配列や、音の響きが気にいって、反古にした紙にさらさらっと書いておりました。しかし、今日読んだ本の中に書かれていた事に、びっくり!いろは歌は、実は弘法大師禅師が、仏法の奥義を詠んだ歌だったんです。有名な事だったのかもしれませんが、私は今日始めて知りました。うーん、幾つになっても人生勉強。学びの道は果てしなくですね~。さて、いろは歌。『色は匂えど (花は色艶やかで、匂いも香しく咲いているけれど) 散りぬるを (やがて散っていく)若き世 (同様に人の世も、若いと思っていても)誰ぞ 常ならむ (誰が常である者がいようか)有為の奥山 (このようなとらわれの思いから)今日越えて (今覚めることができて)朝き夢みし 酔いもせず (空ろな夢のような思いに、酔う事もない)この歌には、仏教の究極の思想であるという「四法印」が詠まれています。「一切皆苦、(世の中思うようには行かないものである)諸行無常、(あらゆる物は移り変わると言う事)諸法無我、(あらゆる物は実体がないこと。)涅槃寂静 (悟りを得た安らぎの境地こそ究極の人生である)」そして、これらを一まとめにして「空」といい、禅はこの「空の生きかた」を学ぶものなのです。「空」とは、天堂如浄和尚により、次のように説かれています。「全身体と口をもって空を唱え、東西南北風に任せて、等しく人々の為に智慧の教えを説く”丁東了滴丁東”」(風になびき”丁東了滴丁東”ちんちろりんちんちろりんと鳴る風鈴の音のように、とらわれず、あるがままを、チンチロリン、チンチロリンと、自由に生きたいものです)』 (公方俊良著 禅に学ぶ人生90の智慧より)まぁ、毎回つらつらと書き連ねていた「いろは歌」にこれほど奥深い意味があったとは。人生の生きかたを指し示す教えを、昔は一番最初に子供が学ぶ文字として与えられていたのですね。ただ、知識を得るためだけでなく、いつの日か智慧と熟す種を自分の中に蒔く学び。昔は大嫌いだった勉強も、見方を変えて問い学ぶ道だと思えば楽しい道中。さぁ、我が家の姫もそろそろお静まり遊ばしたご様子。早速墨等磨る事にいたしましょうか。一枚書き上げられますように。(邪魔が入らないようにしなくっちゃ)あなたの笑顔で、私も元気。
2007.05.31
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先日のドライブでちょっと寄り道をして、お抹茶作りの体験をしてきました。てん茶というお抹茶用に加工されたお茶の葉を、石臼で挽いて粉末にする。そして挽いたお茶を篩いにかけ、お抹茶の完成です。2秒間に1周回すくらいのゆっくりした速さで、20グラムのてん茶を1時間ほどかけて挽いていく。のんびり、ゆっくり、子供の顔を見ながら、おしゃべりしながらの時間です。昔の仕事は全てが自分の肉体を使ってのもので、一日中朝から晩まで働いていたと聞くけれど、子供との会話は今よりもあったのかもしれません。子供も篩をかけるお仕事をして(ただふるうだけですが)、自分もこの仕事の一端を担ったという自信と喜びにご満悦の表情を浮かべています。「物心ついたら、その歳にあった仕事をさせなさい。それがきっと後々の生きる自信につながるから。」と祖母がよく母に言っていたけれど、子供の表情を見ているとそれが実感できます。自分も家庭という名の社会の一員。その中で仕事をして家族に協力する事により、働く喜びを頂き、人の喜ぶ顔という恩恵を受ける。大人になると窓際族とかリストラになるのを怖がるけれど、「あなたは何もしなくて良いから」と家族に言う事は、それが例え子供であっても窓際族に追いやったのと同じ事。もっと、子供に働く喜びを感じさせたいと思った1時間でした。帰宅後、早速お茶を点ててみることにしました。お家の中ですから、略盆手前で・・・・。お菓子を用意して、サラサラと出来たてのお茶を点てて、しばし静かなるお茶室気分。お味はというと・・・・、きっと同じ額を出してお抹茶を買ったほうが美味しい物だったかもしれません。しかし、娘は今までに無くお作法に興味を持ったよう。今までもお茶を点てていたのですが、どちらかというと「飲めれば良い」という頂き方だったのに、今日はどうも様子が違います。所作の一つ一つが気になって、手の動きにも足の運びにも興味津々の様子。それまで何も心の琴線に触れなかった本をふと気になって読み返した時や、それまでは馬耳東風だった話しに急に耳を傾けたくなった時など、今までは全くといって心をかすらなかった物がすっと心に染み入る瞬間があります。今、もしかしたら娘にとってその時かも。そう思い、挨拶の話から始めました。挨拶の挨は、積極的に迫って行く事。拶は、切り込んで行く事を意味します。つまり、私やあなたの中に眠るもう一人の私、もう一人のあなたを引き出して、目覚めさせる働きかけをする事。道元禅師は、「愛語施」(愛の言葉、慈しみの言葉を施す事)をお説きになる時、「世俗には安否を問う礼儀あり、仏道には珍重(お大事に)の言葉あり、不審(ご機嫌いかがですか)の孝行あり」と示しておられます。真心を込めて、相手の安否をお尋ねする、心の潤滑油である心嬉しい挨拶を交し合う喜びを、上手に味わう事を楽しみたい。ホイットマン(アメリカ)という詩人の詩のように、『女あり二人ゆく若き うるわし老いたるはなお うるわし』というような素敵な女性になる為に・・・・・。会津八一先生のように、『御同様、気をつけて、落ち着きて、美しき人になりたく候』を心かけていきたいと思います。よき茶のみ友達を得て、今日からは二人旅。さぁ、二人で美しき人を目指すわよ!まぁちゃん!今日もあなたのお陰で、私も笑顔。
2007.05.30
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先日、福岡県でも有名なお茶の産地にちょっとドライブ。お天気も良いし、野菜のソムリエの方がなさってる美味しい野菜料理のレストランもあるという事で、私にとってはお勉強も兼ねたドライブです。あまりにも暑く台所に立ちたく無い!という心と、生きている年数が長くなるとだんだん美味しくて体に良い物を少量ずつ多品目頂きたい!というわがままな体からの要求に見合う料理をいかに見つけるか・・・・?それが、私のお台所仕事に対する思い。食卓は、どうしても同じメニューに偏りがち。でも理想は、たっぷりのお野菜とちょっぴりの動物性たんぱく質で構成された食卓。 あまり運転は好きでは無い私にとっては大冒険なのですが、新しいレシピの気付きを頂くためにもちょっぴり勇気を振り絞り・・・・・。そして、そこで今回頂いた気付き。美味しいご飯と、美味しいお味噌汁。少量ずつのお野菜のお料理(3品)。一汁三菜のシンプルな食事がいかに美味しいか?早速、美味しい棚田米のかげ干しされたものを買い求めました。自宅に何冊もある料理の本から、美味しいご飯の炊き方とお味噌汁の作り方を拾い出し、試してみる事にいたしましょう。ごゆるり禅を学び初めたのと同時に、精進料理のお勉強も始めました。これから旬の夏野菜を使ったお料理をピックアップして、我が家の味を作っていくつもり。ご飯は土鍋で炊いて、お味噌汁の出汁はいろいろと工夫して・・・・、何度も何度も失敗しながら、少しずつ少しずつ自分の物にしていく。私なりの食卓の基本を作り上げていく過程は、正に人生の基本を作り上げていくのと同じ事。そう言えば、にがい(苦い)はクルシイ、からい(辛い)はツライ、あまい(甘い)はウマイ。いろいろな味を楽しむ事ができる舌を持つという事は、いろいろな人生の楽しみを味わうチャンスも増えると言うもの。その心で接して行けば、きっと子供の心にも何かを響かせることができるはず。ある料理研究家の方が、『名刺の肩書きは「飯炊き女」です。いかに上手にご飯が炊けるか?これは、とっても難しい。水加減、火加減ひとつ、お米の品種ひとつとっても炊き方が全然違います。いかに美味しいご飯を炊くか?は、五感をフル活動させて始めて出来る事。そして、食べていただく相手への愛情が原動力。』と仰っていました。毎日頂くご飯。今日から死ぬまでに、何回炊く事になるのでしょう。これから炊飯器という他人任せにせず、まずは土鍋を使って、火加減、水加減を自分で考え、五感をフルに使って、美味しいご飯の炊き方を自分の物にする。そこから、また新しい自分が見つけられそうです。何よりも、「飯炊き女」って、どこか色気があるでしょ?今日も、晴れ。あなたも私も顔晴れ!
2007.05.28
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お寺のように開放された家に住み、日常の暮らしの一こま一こまを修行のように楽しみながら、生きる喜びに溢れる毎日を過ごすのが夢の私・・・・。座右の銘に、「夢を見て、夢を追い、夢を喰う」を掲げている以上、大きな夢に近づくための小さな夢をシャボン玉のようにたくさん描いて、それを追い掛けるためのお勉強に勤しむ毎日。いつかは、この夢をムシャムシャと食べてしまい、私の血と肉にしたいと思っています。日々の暮らしに流されないために、今は読書の時間が何よりも嬉しいと感じます。日常のわずかな隙間に本を読み、月夜の晩には散歩して、雨の降る日は瞑想を。静と動を楽しみながら、日々の暮らしが楽しい修行。掃除一つ、洗濯一つとっても、その中に大きな喜びが見つけられる。苦痛だと思うことも目線を変えるだけで極楽になる。そういう一秒一秒を過ごしたいと思っています。今日読んでいるのは、有名な尼寺のご住職さまが共著された本です。その中に、「八風吹けども動ぜず・小笠原日凰尼」という項がありました。人生には、山あり谷あり。そしてどこにいても様々な風が吹きぬけていきます。どんな風を受けようとも柳のように受け流し、吹き去った後はまたそこに凛と立つ人になりたい私には、とっておきの言葉。では、八つの風とはどういうものか?一つずつ見て行くことに致しましょう。『一つ目の風は、利益風。毎日がいい事尽くめで、笑いが止まらない風です。しかし、万事好調な時は実は一番危ない。いい気になって自信過剰となり、あとで後悔する事になります。二つ目の風は、衰風。何をやってもうまく行かず、嫌な事が次々と起こる風です。この風の時はじっと我慢して、あわてず自信喪失しないようにして、吹き過ぎるのを待つ時です。三つ目の風は、毀風。陰で悪口ばかり言われる風。陰口が気になり、自分の足元がお留守となって、大事な事を見失うことになって、転げ落ちることになります。四つ目の風は、誉風。陰で他人が褒めてくれる風です。何かと他人が褒めていた事を伝えられると、これまた足元がお留守となって、うかうかとなって落っこちる時です。五つ目の風は、称風。直接目の前で褒められる風です。褒められた事でいい気になって、本当は大して偉く無いのに、その気になってしまう。世の中には褒めておいて足元をすくう人がたくさんいるし、油断していると得意面になって、いやらしい人間ができあがる。六つ目の風は、譏風。目の前で悪く言われる風です。それで、カッと頭に来て喧嘩したり、あるいはげっそりして自分は駄目な人間だと思い、悲しくなって足元がよろけてしまいます。七つ目の風は、苦風。何かと文句をつけたり苦情を言いたくなる目に会って、思うことに邪魔が入るので腐ってしまう。心がむしゃくしゃして、心ココにあらずになって何かと失敗する。八つ目の風は、楽風。大変な事をしなくてはならないときに、必ず誰かがやってきて助け舟をだしてくれる風です。親切にして頂き、喜び、感謝する。その時はそれで「良かった」とご機嫌になるけれど、その後他人の助力を当てにするようになるから危険。人生には、この八つの風が付き物です。 日によって、月によって、入れ替わり立ち変わり、吹いて行ったりします。その度に、右往左往してよろめき慌てるのではなく、風吹くままに動揺せずに生きていけることが大切です。』本当に、様々な風が吹きあれ、時には複合体となって台風になる事も良くあること。でもその風を受けて動ずること無く、逃げる事無く、倒れる事無く、しっかりと根をはり立ちつづけたいと思います。樹齢80年の樹には、10メートル近い根っこがあるそう。大地にしっかり根を張って、自分自身を支え、栄養分や水分を頂くのはもちろんの事、有事の際は大地を固め支える役を担う。ただ、頂くだけでなく、いつの日かお返しできる自分でありたいと願います。私の根っこは、どのくらいなんでしょう?あなたの輝きがまぶしい位!
2007.05.26
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今日も暑くて、昼間の温度は30度を超えていました・・・。外は、うだるような熱気。このまま本格的な夏になると、一体どうなるのかとちょっと不安です。しかしこの熱気のお陰で洗濯物も良く乾き、夕方の楽しみも一入です。何事も悪い事ばかりを見ていれば辛くなるけれど、そのすぐ横に良い事もセットして用意してくださっている。『過福あざなえる縄の如し』を小さな事にまで見つける事ができれば、幸せはそこかしこに溢れていますね。今、喜びを感じられる私の感性は、澄んだ湖に近くなっているのかも。そして、もうすぐ夜。お日様も大好きだけれど、お月様も大好きな私。今日も月夜の散歩が楽しめそうです。子供の頃は暗いのが大の苦手だったのに、大人になるとお月様の光を浴びたくて仕方なくなる時があります。自己浄化を願っているのでしょうか?そんな今日の私の心にぴったりの言葉を見つけました。『心月弧円万象を呑む』盤山宝積禅師の言葉です。『月の光は、あらゆる物に泊まります。濁水にも清水にも、露のように小さな水滴にも、また大海にも。好きも嫌いもなく全ての物を包含する月の心は、実に円満です。この月の心を自己の心とするのです。短所も長所も含めた自己を認め、また短所も長所もある相手を認め、うなずいていくことです。』という意味です。どんな人にも弱点はあり、それにより劣等感を抱くものです。しかし、だからといって全てにおいて劣っているわけではありません。美しい夜景が際立つのは、「闇」を隠すから。私の中にある得意分野を発掘して、その種智を育てていけば、きっと劣等感も隠れてしまうはず。古代の人が言うとおり、「一方を認める時は、一方は暗い。しかし、暗いというのも同化に過ぎぬ」のです。さぁ、素敵な月の光になって、円に心を照らせるか?静かな湖の水面に映る、冴え冴えとした月の影。想像しただけも、素敵です。今日の夜の月光で、心を浄化してから始める事にいたしましょう!あなたの心が、とっても素敵!
2007.05.24
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子供の頃はキリスト教が身近にあり、親族にクリスチャンもいるのに、何故だか仏教に惹かれてしまう私。身近な人が心の病を得てからは、それにますます拍車がかかってきました。何か、ご縁があるのかもしれません。自分を見失わないために。自分を内省するために。自己に内在する力を見つけるために。喜んで生き、満喫して死ぬために。時代の流れに翻弄され、目先の事ばかり追いかけ、隣の芝生の青さに心奪われ、日々右往左往する私自身が、今心から『深思高飛』・・・深く物事を熟慮して実践してこそ、大きく飛躍できる・・・する事を、望んでいるからかもしれません。禅の教えの中で最近気に入っているのが、「虚堂和尚十病論」です。これは、今読んでいる『禅に学ぶ人生99の智慧 公方俊良著』という本の巻頭に書かれていたものです。この本は「十病論」をキーワードにして、人生や仕事が上手く行かない時に陥る原因は心にあるので、人が陥りやすいそれぞれの病を治し、壁を突き破り、素晴らしい人生を歩むための処方箋が書いてあります。では、『十病論』の現代語訳です。一 自信のなさ二 目先で判断してしまうこと三 今までの自己の価値観や偏見に囚われて動けないこと四 自分はこれで良い、相手はこうあるべきだと決め付けること五 心が自由に働かず、「自分はできない」と思うこと六 小さな満足に甘んじること七 人付き合いや知識の範囲は狭いこと八 一つの理論に凝り固まり、偽物を信じてしまうこと九 見栄や外見にとらわれること十 つい慢心してしまうことさぁ、いかがでしょうか?この十の問題は、私の心に宿る澱みのようです。私の目標は、風に吹かれる透明な湖のような心を持つこと。そこは、常に湖底には流れがあって、澱む事の無いところ。目標に近づくためには、この澱みを解消していかなくてはなりません。流れ込む川の水の水質を変えること。治水すること。護岸を自然に戻すこと。今日から、この本でお勉強。学べる自由が有難い。造り酒屋の血を引く者としては、私自身という米に、智慧と知識の麹の種智を蒔き、心の水を使って、願わくば最高級の吟醸酒に仕立て上げたいものです。それぞれの材料に、時間という手間暇をかけて、少しずつ少しずつ仕込んで行く。それが美酒になるころに、その醸し出す芳香に酔いしれながら、死出の杯を飲み干せるように・・・・。さぁ、私に与えられた時間はいかほどでしょうか?貪欲に、良い麹を仕込む事にいたしましょう。杜氏のふる~る、顔晴ります。 あなたの笑顔が、一番のご馳走よ。
2007.05.23
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先日に引き続き、盛永宗興 師の『子育てのこころ』を読んでいます。育自の道半ばの私にとっては、読んでいて耳が痛いどころではなく、心にズキズキ突き刺さるような教えを頂いております。しかし、心地よい刺激。痛気持ち良い刺激です。「知るを楽しむ」喜びに浸れる自由を、心から感謝するばかりです。ほんの数十年前の戦時中は、自由に自分の好きな本を読むこともできなかっただろうし、また空襲にハラハラしどうしで子供を抱えての毎日だったら、「本を読む」事自体が不可能だったかもしれません。多くの方の屍が礎となって今の自由と平等を手に入れているという、自分の努力とは無関係の所から得られる幸せと喜びにもっと感謝の念を持たねばと思う日々です。子供の頃の我が家のお正月の三社詣での際は、父から必ず近隣にある戦没者慰霊碑にもお参りに連れて行かれていました。子供の時は「なぜ誰もいないここでお参りしなければならないのか?」とか「通りすがりの方が変な目で見ているのではないか?」等、疎ましく思うこともありましたけれど、戦争体験者である父は、「屍の上の幸せは感謝の心を持って享受するべきものなのだ」と、背中で教えていたのかもしれません。「こうやって子供を導いていく」という方法を無言で教えてくれた父にも感謝しなければと、子を持って初めて知る親心です。さて老師は、本の中で次のように述べられていらっしゃいます。『我々は自分の幸せを考えるとき、まず何をするでしょうか?一つには、「自分が幸せになる為に、環境を作るという考え」があるでしょう。環境の中には、環境を支えている道具立てやシステムも含まれます。自分を取り巻く環境をよくする事で、幸せなろうとする考え方です。二つには、「自分が幸せになる為に、自分の生きかたを変えるという考え」があるでしょう。三つには、「一と二の両方をやって、幸せになるという考え」もあります。大雑把にこの3つの方法があるとして、本当に幸せになる方法はさて何番でしょう?ほとんどの人達は、こんな風に三つ上げると、「自分の考え方も変え、同時に環境も変わるという両方をやらなければ、幸せにはなれない」と答えると思います。それって、本音ですか?ほんとに?本音は、「周りが良くならなかったら、私がどんなに頑張ったって駄目だ」と思っていませんか?仏教で教えている幸せになる方法は・・・・・。一でも二でも三でもありません。唯一つ。自分自身を変えるという事だけです。臨済宗の祖師 臨済禅師は、「外に向かって求むることなかれ。求むるところあればみな苦なり」(自分の外界に向かっていろいろな条件を出し、それを叶えてくれと求めていくならば、必ずそれは苦しみにしかならない。だからそれをやめなさい。)と教えられていらっしゃいます。自己を変革する事によってのみ、地獄を極楽に変える事ができるのです。禅宗でいう「瓦礫を変じて黄金となす」とするために。儒教でいう「窮すれば変ず、変ずれば通ず。」(自分のやり方を変える事によって、そこに新たな道が開けてくる。)とするために。』自分を変える事を潔くできる人であり続けたいと思います。師いわく、『自分自身が、人間として何が幸せなことであり、何が不幸せなことであると考えるか?何が本当に価値のある事なのか?下手に追い求めると、何が大きな不幸を呼ぶ元になると思うのかは、とても大切なことであると気付いて欲しい。』と仰っています。その一番大切なけじめは、『周囲の環境が自分にとって都合よくなることではなく、いかなる環境の中にあっても文句を言わないで、自分がその中で適合できるように、自分自身を変革して行くこと。一度便利になってしまった世の中を逆行する事はできません。それゆえにこそどんなに周囲の環境が変わろうとも、便利に流されて己の心の柔軟な力を見失うことだけは避けなければ、大変な落とし穴に落ち込んでしまいます』という事だそうです。自分の中にある、『変革しうる無限の可能性である種智』を信じ、自分が変わる事により地獄を極楽に変える。師が仰るように、これを筋金入りで腹に据え、将来を作る子供に接していきたい。教育ではなく、接していくことが大切なのですから。さぁ、まぁちゃん。今日も私の後ろに付いといで!ワクワク探しに行くよ!あなたも私も元気元気!
2007.05.21
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自分を変えて見る。人の為ではなく、まず自分の為にやってみる。そういう目線で物事を見るようになったら、「育児」が何故「育自」と謂われるのか?が見えてくるようになりました。そして、今自分に必要な「育自書」も。「子供を育てる」ということは、「子供の為に○○する。」「子供の為に○○させる。」ではなくて、一途に「自分を育てる」事。私の背中を見て、生きる術を子供は自ら自分自身で学び取って行く。私が一番やりたい事。それは、自分を世間のお役に立つ人間に育てる事。いえいえ、これではおこがましい。世間のごやっかいにならない人間に育てる事。さぁ、手をつけるところがたくさんあるぞ~!さて、今読んでいる育自書は、盛永宋興 妙心寺塔頭大珠院元住職が書かれた、「子育てのこころ」という本です。その中で、「何を幸せと考え、何を不幸せと考えるか」という章ががありました。その概略は・・・・。『人間には、本音と建前があります。そして、親の背中を見ながら子供が学び取って行くのは、親の「本音」の部分です。では、人間の本音とは何か?それは、「自分が可愛い」という事です。これはお釈迦様もはっきり仰っています。お釈迦様の生き様を経典を通して見て見ると、人間世界が始まって以来、お釈迦様ほど自己愛が深かった人はいないのではないかと思われます。お釈迦様が偉大になられた本当の出発点は、「どうしようもないほどの自己愛」です。自分が可愛い。だからこの自分が本当に幸せになるためにはどうしなければならないか?を、誤魔化す事無く追求され、そして本当の意味で自分を幸せに出来た人がお釈迦様です。「自分はこのようにして幸せになった。だからあなた達もこのようにして幸せになりなさい。」と教えられたのが仏教です。ですから、どうしようもなく本音である事。すなわち自分が可愛くて幸せになりたい。少なくとも不幸せになりたくない。この本音から出発して欲しいのです。ただしこの時一番注意する点は、「私は何を幸せと考え、何を不幸せと考えているのか?」という事です。この点をちょっとでも間違えると、自分も人も共に不幸せにしてしまう恐れがあります。もし間違えて、本当の幸せを辛い事と思い、不幸になる種を楽しい事と勘違いすれば、努力すればするだけ不幸へと寄っていってしまいます。そしてそれを見習った子供達もまた、不幸の方へと歩き始めるのです。』人間は、本能のみで生きる動物ではありません。学習する本能も身につけて、この世に生を受けたのです。生まれたときに持っていた能力以上の物を、そこに膨らませて生きて行く動物なのです。今日よりも明日、明日よりも明後日。そうやって、死ぬときまでに、生まれたときには想像も出来なかったような智慧と知識を身につけて行く。お経を詠んだ後に唱えるご回向の中に。「種智を円にせんことを」という言葉があるそうです。「種智」すなわち「智慧の種」仏教では、「全ての物には仏様と寸分違わぬ智慧(種智)と徳相を持っている」と教えられるそうです。与えられた種を育てて、活かして行く。山ほどに与えられた種智の中から、今日はどの種を蒔いて育てましょうか?あなたの笑顔が大好き!
2007.05.19
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