全227件 (227件中 101-150件目)
.京都各所ご案内 (上の図をクリックし拡大、番号を確認のうえ下記のリンクページをご覧下さい)「京都見どころ一覧」 (NO.1~48まで) (NO.49~100は次ペーシへ) (No.97~158はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです 1 大田神社・・・・・・・カキツバタが揺れる・大田神社(2011.05.21) ・・・・・・葵祭とカキツバタ・上賀茂神社と大田神社(2012.05.19) 2 祇園・白川・・・・・・祇園放生会(2011.06.05) 3 千本釈迦堂・・・・・おかめ物語とぼけ封じ観音(2011.06.07) 4 晴明神社・・・・・・・陰陽道受け継ぐ晴明神社(2011.06.09) 5 藤森神社・・・・・・・あじさい苑は花いっぱい藤森神社(2011.06.12) 6 平安神宮・・・・・・・花しょうぶとすいれん咲く平安神宮(2011.06.16 ・・・・・・水面に映える紅枝垂れ、京都の守護神・平安神宮 (2012.04.21) 7 東林院(妙心寺)・はかない一日花、沙羅双樹の寺・東林院(2011.06.18) 8 法輪寺・・・・・・・・・起き上がりだるま、達磨寺・法輪寺(2011.06.23) 9 北野天満宮・・・・・大茅の輪くぐり、北野の天神さん(2011.06.25) ・・・・・・・梅の香ほんのり、縁日賑わう天神さん(2012.03.03) ・・・・・・・お土居(おどい)の紅葉、北野天満宮(2012.11.27) 10 天得院(東福寺)・花の寺、桔梗の花咲く天得院(2011.06.28) 11 両足院(東福寺)・白く染まる半夏生・両足院(2011.07.02) 12 白峯神宮・・・・・・・蹴鞠(けまり)と七夕祭・白峯神宮(2011.07.08) 13 龍安寺・・・・・・・・・鏡容池いちめんの睡蓮の花・龍安寺(2011.07.10) ・・・・・・こころを馳せる石のさき・石庭龍安寺(2011.07.14) 14 祇園祭り・・・・・・・ 京町屋と函谷鉾・祇園祭り(2011.07.17) ・・・・・・・コンチキチンのお囃子響く京の街・八坂神社と祇園祭り (2012.07.20) 15 法金剛院・・・・・・・浄土に咲く蓮の花「蓮の寺」・法金剛院 (2011.07.20) ・・・・・・いま咲き競う花の寺...待賢門院眠る・法金剛院 (2012.07.14) 16 京都植物園・・・・・"なでしこ"...見てきました・植物園(2011.07.26) 17 妙心寺・・・・・・・・・天井図「八方睨みの龍」と夾竹桃・妙心寺(2011.07.29) 18 八坂ノ塔・法観寺・東京スカイツリーと東山のシンボル八坂の塔・法観寺 (2011.08.01) 20 大寧軒・・・・・・・・・京の夏・南禅寺史跡・大寧軒(2011.08.04) 21 下鴨神社・・・・・・・京の夏・特別公開の本殿と大炊殿・下鴨神社 (2011.08.07) 22 建仁寺・・・・・・・・・国宝・風神雷神屏風図と百日紅咲く・建仁寺 (2011.08.13) ・・・・・・潮音庭と襖絵/雲龍図・天井/双龍図・建仁寺 (2011.08.16) 23 水路閣・・・・・・・・・インクライン・京の水の命綱/琵琶湖疏水・水路閣 (2011.08.19) 24 養源院・・・・・・・・・淀殿により創建..お江与の方(江姫)が再建・養源院 (2011.08.22) 25 知恩院・・・・・・・・・ふりかえれば法然さま..法然上人・知恩院(2011.08.25) ・・・・・念仏のふるさと..法然上人800年大遠忌・知恩院 (2011.08.28) 26 妙蓮寺・・・・・・・・・芙蓉の花いっぱい・酔芙蓉彩る・妙蓮寺(2011.09.18) 27 梨の木神社・・・・・三条實美祀る..萩の花咲く・梨の木神社(2011.10.04) 28 高台寺・・・・・・・・・東山・霊山の山麓..秀吉とねねの寺・高台寺 (2011.10.10) ・・・・・蒔絵の寺・北の政所(ねね)眠る・高台寺(2011.10.16) 30 円徳院・・・・・・・・・高台院(北政所・ねね)終焉の地・円徳院(2011.10.23) 31 方広寺/豊国神社・「君臣豊楽」「国家安泰」の鐘銘・方広寺&豊国神社 (2011.10.29) 32 御香宮神社・・・・・豊臣家と徳川家が同居する社・御香宮神社 (2011.11.05) 33 東福寺・・・・・・・・・古都にもしのび足・紅葉ほんのり東福寺(2011.11.12) 34 京都御所・・・・・・・平安遷都一千年余の内裏・京都御所(2011.11.19) ・・・・・春の一般公開・京都御所(2012.06.02) 35 高山寺・・・・・・・・・日出でて先ず照らす高山之寺・栂尾高山寺 (2011.11.26) 36 三千院・・・・・・・・・もみじ降る苔むす庭にこころ融く・大原三千院 (2011.12.03) 37 天龍寺・・・・・・・・・紅葉彩る名勝嵐山の借景映える・天龍寺(2011.12.10) 38 永観堂・・・・・・・・・東山の紅葉の名所・錦に染まる永観堂(2011.12.17) 39 金閣寺・・・・・・・・・旭日あび金色輝く金閣舎利殿・鹿苑寺/金閣寺 (2012.01.01) 40 伏見稲荷大社・・・人.人.人で埋まる初詣・伏見稲荷大社(2012.01.07) 41 えびす神社 ・・・・・人気大よせ「えべっさん」京都・恵美須神社 (2012.01.14) 42 三十三間堂・・・・・明日に向って射る/新成人通し矢・三十三間堂 (2012.01.17) 43 蘆山寺・・・・・・・・・紫式部ゆかりの地・蘆山寺(2012.01.28) 44 壬生寺・・・・・・・・・節分祭/大念仏狂言と新撰組・壬生寺(2012.02.11) 45 東寺・・・・・・・・・・・弘法さん/お大師様の寺/教王護国寺・東寺 (2012.02.25) 46 城南宮・・・・・・・・・鳥羽離宮の鎮守社/方除の大社・城南宮(2012.03.10) 47 東山花灯路・・・・・京都早春の風物詩・東山花灯路(2012.03.17) 48 常寂光寺・・・・・・・歌のふるさと小倉山/苔生し佇む・常寂光寺 (2012.03.24)
2013.08.30
コメント(129)
. 真言宗泉涌寺派 別格本山/瑠璃山・雲龍院 (ウンリュウイン) 御寺・泉涌寺(前々回UP)の別院と謂れ、南北朝時代の1372年北朝の後光厳(ゴコウゴン)天皇により創建され、後年皇子・後円融(ゴエンユウ)天皇により諸堂建立され写経を興される、また1500年代に入り後水尾天皇(修学院離宮を創建)により写経の道場として再建されました、他の塔頭寺院と同じく泉涌寺山内にありますが、天皇勅願の寺院で皇室との繋りの深さから別格本山と云う高い寺格が与えられています ↑庫裡玄関正面に於かれた襖絵「雲龍図」がお出迎え、いつの年代のものかは不明です 雲龍院は泉涌寺と同じく当初は律宗を基本に、禅・真言・天台・浄土を併せ持つ兼学の道場として興されていて、この襖絵を始めあちこちに禅宗の様式が見られます ↑「山門」 通常出入りの玄関門です、奥は庫裡の屋根です ↑「勅使門」 皇族方お出入りの門で、普段は閉じられています (右)境内は綺麗な短冊形の切り石や張石を配置した延段と云われる参道で導かれています、右手見えるのは鐘楼です ↑「庫裡」を正面に右手は本堂の屋根です、中央よりのは枯れた杉の木の先端です ↑「霊名殿」 後光厳天皇及後円融天皇の坐像、後小松・称光両天皇と後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇の御尊牌が奉祀されています ↑霊明殿前庭、徳川十五代将軍・慶喜が寄進した灯籠、少し傾いているやも?の説明あり、庭は白砂により皇室菊の御紋が形造られています ↑「龍華殿(リュウガデン)(本堂)」(重文) 屋根はさわら材を竹の釘で打った柔らかな曲線を描く杮(コケラ)葺きで現在貴重なものとされています、右手前は秋篠宮家悠仁(ヒサヒト)さまお印の木高野槇です (右)本堂前庭園、向うは勅使門です ↑龍華殿前です、今にも続く最古の写経道場として信仰を集め、古来沢山のご信者が写経に訪れたと記されています ↑龍華殿の額は書画堪能の後水尾天皇の第八皇女光子(テルコ)内親王の筆、正面は後円融天皇が信奉された写経塔です (右)本堂奥には鎌倉時代作の薬師如来坐像を中尊として、日光・月光両菩薩立像を脇侍とする薬師三尊像が祀られています (写真は院資料より)(この画像は拡大します) ↑庭園を囲み建てられている「書院」 南に面する「大輪の間」 ↑庭からの書院 (右)大石内蔵助の力強い書「龍淵(リュウエン)」 これは中国の言葉ですが、「龍は淵に潜み時期を待つ」とでも表現したのでしょうか、赤穂を退き山科に閑居していた折立ち寄り書き残されたものです ↑書院から見る庭園、東山月輪山を借景に庭石には豊臣秀吉建立の大仏殿の礎石も置かれ、石組みと幾種もの楓・松や刈込みが季節時々の風情を感じさせてくれる庭です ↑中央は落雷により立ち枯れしている背の高い杉の木です、境内に入った写真の木の先端と共に、登り龍に例えられています ↑書院「れんげの間」 見えるのは「色紙の景色」と呼ばれています、雪見障子の四角の窓からそれぞれ違った絵が眺められます、左より椿・灯籠・楓・松です ↑近くから見ると景色広がります、紅葉の折の風情また格別でしょう (右)お茶を頂きました、菊の御紋の黒釉お茶碗に朱の天目台、抹茶の色が鮮やかに引き立つ一服でした ↑書院「悟りの間」 悟りの窓・迷いの窓です、昨年ご紹介した鷹ヶ峰の曹洞宗(禅宗の一派)・源光庵で有名な窓です、ここ雲龍院にもありました(この画像は拡大します) ↑「悟りの窓」 禅の教えでは、正確な真円はありのまま自然の姿、偏見のない清らかな姿を指し、悟りの境地を顕わすとされています ↑「迷いの窓」 四角の窓は、人生に於ける苦しみを四つの角で象徴し、生老病死四苦八苦を顕わすとされます、前に置かれているのは般若心経の衝立です ↑書院横の坪庭、黒い石と白砂の簡素な庭ですが水を打たれ暫くすると模様が?いや仏字?現れました (右)鎌倉時代の作「走り大黒天」 よく見かける俵の上の大黒様と違い、左足を前に怒り相の珍しい寄木造りの大黒天立像です (写真は資料より) ↑書院西側の緑豊かな庭、秋には鮮やかに色ずく「五色の紅葉」と呼ばれる楓の木です ★(TOPページに「花いろいろ」UPしています、今 睡蓮(スイレン) です ホームで見て下さい) ★「京都ええとこ」一覧は、左サイド欄からご覧下さい.................................................................京都市バス 「泉涌寺道」下車 東へ徒歩15分雲龍院HP URL---http://www.unryuin.jp/-----------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.06.23
コメント(67)
. 天台宗総本山・比叡山延暦寺三門跡の一 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき) 皇室や摂関家の子弟が入寺される門跡寺院で、曼殊院・三千院(両寺院は既報)・妙法院(三十三間堂)・毘沙門堂と並び、天台五門跡寺院の一に数えられます 800年代伝教大師最澄(サイチョウ)により比叡の地に幾つも住坊が草創されたが、その一つ青連坊が当寺の起源とされ、ここ粟田口(アワタグチ)には1100年代行玄(ギョウゲン)大僧正時代に鳥羽上皇の后、美福門院が祈願所とされ移されています (この画像は拡大します) ↑「長屋門」 1629年後水尾天皇の後を承けた女帝明正天皇の時、中和門院の御所旧殿の門が移築されたものです ↑「御幸門(四脚門(ヨツアシモン))」 切妻造・本瓦葺で青蓮院西側に位置する正門ですが、皇族・摂関家の出入りのみに使われた門で、長屋門と同じく中和門院の旧殿の門です ↑「薬医門」 現在出入りはこの門のみです ↑「小御所」 御所より移築された建物で1788年天明の大火の後、後櫻町上皇(日本最後の女帝)がここを仮御所として使われた処から青蓮院を「粟田御所」とも呼ばれ、旧仮御所として国の史跡に指定されています ↑小御所大広間と広縁 松の絵は狩野派の作です ↑同上段の間 ここも狩野派の障壁画です (右)「一文字手水鉢」 豊臣秀吉の寄進による一枚岩をくり抜き造られたと謂われる手水鉢です ↑「本堂(熾盛光堂(シジョウコウドウ))」 方三間、宝形造りの小堂です ↑堂内厨子にはご本尊熾盛光如来の曼荼羅が安置されていますが、閉ざされたまま通常は非公開で、お前立ちとして翡翠にプラチナの象嵌製ご本尊が飾られています (右)堂内西面には国宝の青不動明王(これは複製画像)、五色の不動明王が存在しますが青不動はその最上位とされ日本三不動の一つです (両写真とも院資料より) ↑「宸殿} 元は中和門院の御殿でその後再興されていますが前に桜橘が配され、宸は天皇を意味しここには有縁の天皇のご尊牌が祀られています ↑広い宸殿前です、前には白砂と苔庭が拡がっています (右)東広間は、法然・親鸞の師は源信でその師元三大師(ガンザンダイシ)が祀られています ↑障壁画「濱松図(重文)17面、狩野一派による作品です (右)廊下杉戸に描かれた羽根をひろげた孔雀、黒田正夕筆 ↑「大玄関」(御車寄せ)四脚門から入り正面になります ↑大玄関に置かれている幕末の孝明天皇が常用された板輿です (右)「日月松桜百鶴図」 黒田正夕画伯筆で玄関の部屋全てに描かれています ↑「華頂殿(書院・客殿)」 庭に面した広々した客殿です ↑内部は「蓮・青の幻想」木村英輝氏描く60面の襖絵と三十六歌仙の額絵です ↑室町時代に相阿弥により造られた静寂の庭に面しています、こころ落ち着く空間です (この画像は拡大します) ↑相阿弥の庭です、粟田山の山裾を擁し造られた築山泉水庭の形式ですが、回遊式庭園でもあります ↑龍心池を中心にして柔らかな曲線の築山と多くの石組みに植込みが見事に調和しています ↑池中央には中島に替わり巨石が水に浮かぶが如く据えられ、左寄りには半月形に反る切石二枚の跨龍(マタギリュウ)橋がつけられて相阿弥の作風を感じとる事が出来ます ↑北側には小堀遠州の作になる「霧島の庭」多くの躑躅で彩られる庭です (右)早くも桔梗の花咲いていました ↑手水鉢とともに秀吉の寄進「御輿形燈籠」と奥は茶室「好文亭」 (右)「親鸞聖人童形像」 浄土真宗開祖親鸞は、天台座主で青蓮院第三世門主慈園のもとで9歳の折ここで出家得度しています ↑境内と築地塀に沿う五本の大楠は樹齢800年を超え、親鸞お手植えの木とされています ★(TOPページに「花いろいろ」UPしています、今 薔 薇 3 です ホームで見て下さい) ★「京都ええとこ」一覧は こちらからご覧下さい.................................................................京都市バス 「神宮道」下車 南へ徒歩3分京都市地下鉄東西線 「東山」下車 東・南へ徒歩5分青蓮院HP URL---http://www.shorenin.com/-----------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.06.13
コメント(102)
. 真言宗泉涌寺派総本山 東山(とうざん)・泉涌寺(せんにゅうじ) 天長年間820年代、弘法大師空海がこの地に草創した法輪寺(その後仙遊寺と称される)が起源とされ、鎌倉時代の1219年月輪大師俊じょうにより再興されのち寺内に霊泉が涌き出たところから泉涌寺と改称されます ↑大門にかかる扁額「東山(トウザン)」南宋時代の書家張即之(チョウソクシ)の筆 東山三十六峰の南端に近く泉山(センザン・別称月輪山(ツキノワサン))の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代に入り修学院離宮を造営された後水尾天皇から幕末の孝明天皇に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の香華院(菩提寺)として「御寺(みてら)泉涌寺」と尊称されています ↑「総門」 参道の途中に設けられた入口門ですが、ここから左右に塔頭が立ち並び境内は長い参道の先です ↑「大門(オオモン)」(重文) 江戸時代初頭に造営された内裏の四脚門が移設されています (右) 大門をくぐると正面下に遠く小さく見える伽藍、一番手前は仏殿です ↑「仏殿(本堂)」(重文)と背後は「舎利殿」 大門から見下ろす様と違いその迫力に圧倒されます ↑仏殿は1668年四代徳川家綱により再建されたもので、一重もこし付入母屋造りの唐様建築の代表作と謂われます (右)高い天井に描かれているのは狩野探幽筆の蟠龍図です (寺院資料より) ↑「三世仏」 仏殿内陣には過去・現在・未来の衆生安泰を護るご本尊、向かって左より阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の坐像が安置されています、南宋時代のお祀りの仕様で日本では珍しいとされます、作は運慶です (同寺院資料より) ↑「泉涌水屋形」 寺名の起源となった霊泉が今も尽きることなく涌き出ています、それを覆う屋形は仏殿と同時期の建築です ↑「舎利殿」 内裏にあった御殿が改装再建されたもので内陣の宝塔内には1228年に請来された仏牙舎利(釈尊の歯)が安置されています、こちらの蟠龍図は狩野山雪筆でひろく「鳴龍」として知られています (右)「勅使門」 天皇また皇族方のお出入りの折のみ開けられます ↑「霊明殿」の四脚門、奥の霊明殿は明治天皇により再建されたもので、天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の御尊牌が奉安されています ↑霊明殿、入母屋造り桧皮葺の宸殿です、一般の入場は出来ません (右)「清少納言歌碑」 {夜をこめて 鳥のそら音は・・・}の歌が彫られています、晩年をこの泉涌寺近くに隠棲し生涯を終えたとされています ↑「本坊と奥は御座所」 霊明殿の再建に合せ御所内の皇后宮御里御殿が移されたもので、現在も天皇、皇族方のお休み処とされています ↑御座所内、「門跡の間」 襖絵は狩野永岳筆の玉川山吹狩図です (右)「皇族の間」 は大和絵で奈良八景が描かれています ↑「玉座の間」 天皇、皇后の来寺された折に使われる部屋で、土佐派一門の筆で錦花鳥図です (お部屋三枚共寺内資料より) 今上天皇は在位10年の折御来寺されています ↑「御座所庭園」 霊明殿、御陵拝所に囲まれ自然と人工の巧を織り交ぜ趣向が凝らされています ↑低い築山に曲折する池、多くの木々が配され四季折々の風情が楽しめる静かな庭園です ↑「楊貴妃観音堂」 唐の玄宗皇帝が絶世の美女と謂われる亡き楊貴妃を偲んで彫らせた聖観音菩薩坐像、1230年湛海律師によって当寺に請来され祀られています ↑楊貴妃観世音菩薩と上に掲る扁額です (右)その楊貴妃観音坐像(重文) (寺内資料より) ↑「月輪陵(ツキノワノミササギ)」 境内西南の月輪山麓に設けられ歴代天皇方をお祀りします、奥の御陵は全て仏式の御石塔でお祀りされています ↑四条天皇・後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵・5灰塚・9墓が営まれています ↑背後の月輪山山腹には後月輪東山陵と東北陵が築かれています ↑幕末最後の天皇、孝明天皇と英照皇太后の陵墓です (右)月輪山麓の参道より伽藍を臨みます (この画像は拡大します) ↑元に戻り大門を少し下り見る「仏殿」です 尚その後の明治天皇はここより南の伏見桃山陵、大正天皇は八王子・武蔵陵墓地の多摩陵、昭和天皇は同じ武蔵野陵、にそれぞれお祀りされています ★(TOPページに「花いろいろ」UPしています、今 薔 薇 2 です ホームで見て下さい) ★「京都ええとこ」一覧は こちらからご覧下さい........................................................................京都市バス 「泉涌寺道」下車 東へ徒歩15分泉涌寺HP URL---http://www.mitera.org/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.06.03
コメント(118)
. 修学院離宮(シュウガクインリキュウ)は比叡山の麓、東山連峰の山裾に後水尾(ゴミズノオ)上皇によって1655年に起工4年をかけ完成した上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)の三つの離宮からなる、総面積54万5千平方メートルを超える雄大な園庭です 四季折々の素晴らしい自然の景観と、それぞれの歴史ある建物群は王朝文化の美意識を表す貴重なものとして、京都御所・桂離宮と共に皇室用財産として宮内庁所管の名園です ご紹介は1と2に別けてまとめました ★1、このページでは、上離宮の浴龍池(ヨクリュウチ)を中心とした壮大な庭園 ★2、三つの離宮にある五つの山荘を中心とした建物群は次ページへ ↑修学院離宮東側に面する「表総門」です 後水尾上皇、後陽成天皇のあと第108代天皇として在位したのは短く1611年徳川家康と秀忠の二枚権力政治の中即位し、秀忠五女和子(後の東福門院)を中宮に迎えたが、34才の若さで二女7才の明正(ミョウセイ)天皇(女帝)に譲位、以後四男後光明(ゴコウミョウ)天皇、八男後西(ゴサイ)天皇、十六男霊光(レイコウ)天皇と4代に亘り上皇として院政を敷き、秀忠・家光・家綱の幕府の軋轢(アツレキ)に対峙自らは和歌・管弦・茶の湯・立花にその才能を発揮される ↑離宮から眺められる比叡山 (右)離宮の略図です(この図はイメージです参考まで) 常に比叡を仰ぎみる処と願望され、10年余の歳月をかけてこころ癒される豊かな自然のこの洛北の地に、自らの生涯を懸けた山荘を築かれました ↑三つの離宮は美しい松並木(御馬車道(オバシャミチ))で結ばれ、その両側は自然のままの水田・畑地が広がっています、いまも近郊の農家により耕され景観が維持されています ↑上離宮「御成門」 竹で編まれた塀と共に簡素な中に品位を感じさせる門です ↑御成門を入ると両側背の高い刈込の石段を上ります、視界が遮られ何が待ち受けるか、興味を感じさせ趣向が凝らされています (この画像は拡大します) ↑東南高みには「臨雲亭」(以下建物は次頁にまとめご紹介します) ふり向けば眼下に拡がる「浴龍池(ヨクリュウチ)」 上離宮は見下ろす景観の素晴らしさを愉しむ為に造られ、離宮の美しい十境の一と謂われています、池には泳ぐ龍の姿に見立てた大小三つの島があり、池の周りは大刈込みと苑路が巡らされた美しい回遊式庭園です ↑中央の島は「万松塢(バンショウウ)」 夕刻島と松が水面に浮かぶ景観をさして名付けられた島です、 浴龍池は山の斜面に比叡の清水を堰き止め、高さ15メートル長さ200メートルの堰堤を築き造られた人工池です ↑浴龍池を通して、京都の北 鞍馬・貴船が連らなる北山を望みます ↑こちらは市内を西への眺めです、正面に大の字が横から読み取れる左大文字山 奥は愛宕山に連なる西山です 市内一望 京洛を見下ろすことの醍醐味、後水尾上皇はこうした景観を我が手に収めることで、徳川幕府に対しても威信を高めたと謂われています ↑「楓橋(カエデバシ)」 いまは青もみじ、秋は紅葉がよく映える中島へ渡る橋です ↑島に架けられた三つの橋の内一番短い木の橋です (右)滝見燈籠、この上に落ちる滝を眺めるとされた風雅な燈籠です ↑「土橋(ドバシ)」 中島から対岸へ架けられています、TOPの写真が全景で約200mの緩く反った欄干が風情を高めています ↑欄干の根元に土が盛られている処から名付けられたもので、欄干は栗の木で手斧(チョウナ)削りと云う技法で作られています (右)土橋から池を通して向うの松並木は「西浜」です ↑中島と万松塢に架る橋が千歳橋です ↑「千歳橋(チトセバシ)」 石造りで一見中国風に見える屋根付の橋で、自然の景観にそぐわない印象を受けますが、存在感がありやはり十境の一つです ↑紅のもみじと合わさり引き立つ千歳橋 (右)千歳橋の屋根上に飾られた今にも飛び立とうとする鳳凰です ↑「お舟屋」浴龍池はまた御舟遊びの場で、島々を廻りながら管弦・詩歌の会が催された処です、 ↑お舟遊びの舟発着の場です (右)西浜より万松塢を臨みます、左に見えるのは「御腰掛」故ダイアナ妃もご見学の折ここに腰掛けられ自然を愉しまれた処です (この画像は拡大します) ↑最後の一枚は、上から欲龍池全景を眺めた景色を逆方向から見た手前万松塢と緑に覆われた山の斜面です ★2、三つの離宮にある五つの山荘を中心とした建物群は次ページへ (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今 薔 薇 です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「修学院離宮前」下車 徒歩西へ15分修学院離宮HP URL---http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/shugakuin.html------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.05.24
コメント(121)
. 修学院離宮 (しゅうがくいんりきゅう) 修学院の名は元々10世紀後半にここに修学院(シュガクイン)と云うお寺が建立されたのが始まりで、南北朝の時代に廃絶となったが地名は修学院村として残り、そこに後水尾(ゴミズノオ)上皇により離宮が造営され修学院離宮と呼ばれる事となります、今もシュガクインとも云われます(画像拡大可) ↑比叡山の麓に上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)の三つのお茶屋(離宮)からなり、離宮背後の借景となる比叡東山の山林、松並木が融け込んだ壮大な山荘です ↑離宮内は数多くの楓ともみじで覆われています、今の時期紅もみじもまた彩りを添えています (右) 離宮の略図です(この図はイメージです参考まで) ↑「御幸門(ミユキモン)」下離宮の入口門で、柿(コケラ)葺きの屋根と花菱紋の透かし彫りが施される板戸の門です ↑門を潜ると、緑豊かな木々や花咲く池泉観賞式庭園が広がっています (右)「寿月観(ジュゲツカン)」 後水尾上皇の御座所とされていた下のお茶屋です、建物は杮葺き入母屋数寄屋風造りで上の扁額は上皇の宸筆(シンピツ)です (以下建物へは全て内部には入れず、外からの撮影で写真の色合い不安定でスミマセン) ↑寿月観一の間、十五畳に三畳の上段、1.5間の床と琵琶床と飾り棚があります、棚の上 戸袋には「鶴の絵」、下の地袋には「岩に蘭」の原在中(ハラザイチュウ)の絵が描かれています、襖絵は岸駒(ガンク)の「虎渓三笑(コケイサンショウ)」です (二人、共に江戸時代画家です) ↑同二の間、板戸は夕顔の絵で仙洞御所から移されたもので、手前は控えの三の間 襖絵は「泊舟(トマリブネ)」岡本豊彦作です ↑「袖形(ソデガタ)灯籠」 石柱をコの字形にくり抜き天に提灯を下げる、客人をいざなう灯籠として使われます (右)三つの離宮至る処で水音がして滝が造られ、木々の間は苔に覆われています ↑「中離宮」です、ここは創建当時にはなく10年程後上皇の第8皇女光子内親王の為の朱宮(アケノミヤ)御所、林丘寺(リンキュウジ・一部)がその前身でのち修学院離宮の一部となっています ↑「客殿」 1677年造営された東福門院(上皇の中宮、2代秀忠息女)の女院御所が移築された書院造りの建物で、周り紅葉の名所として有名です (右)前庭にある背の低い地を這う松です ↑客殿一の間、互い違いに配された大小五枚の棚板があたかも霞がたなびく様に見える所から「霞棚」と呼ばれ、桂離宮の桂棚。三宝院の醍醐棚と共に天下三棚と称されています ↑杉戸絵は祇園祭の鉾の絵、住吉具慶(スミヨシグケイ・江戸時代絵師)の作です ↑客殿から軒を連ねる楽只軒を渡る濡縁です、低い手すりがW字状に組まれた「網干(アボシ)の欄干」漁村で網が干してある形を表すとされています ↑「楽只軒(ラクシケン)」 手前一の間で奥が二の間襖絵は狩野探信(タンシン・探幽の子)の作「龍田川の紅葉」です ↑同一の間と次の間です (右)林丘寺へ石段前、見上げる程の大きい石組です ↑三つの離宮を繋ぐ「松並木(御馬車道)」です、左右には長閑な田園風景が広がっています ↑ここより「上離宮」です、修学院離宮の中一番高みにある「臨雲亭(リンウンテイ)」下離宮との標高差20mの処に造られています ↑臨雲亭一、二の間からは浴龍池(ヨクリュウチ)を眼下に、洛北から西山と市中を一望する景観が広がりますが、部屋には床も棚もなく一切の装飾を施さずただその眺望に向き合います (右)軒下のたたきには、赤い鞍馬石と黒い賀茂川石を1.2.3個と組み合わせ描いてあり「一二三(ヒフミ)石」と呼ばれます ↑池の中島にある「窮邃亭(キュウスイテイ)」で、宝形(ホウギョウ)造りの創建当初から現存する唯一の建物です ↑頂きには八方に面を持つ皇室御紋の瓦が載せられています (右)「窮邃」の扁額、これも後水尾上皇の宸筆です ↑窮邃亭は茶室として造られ十八畳の大広間のみで、窓に面し直角に折れた上段がおかれ茶席としての設えがなされています (この画像拡大します) ↑今回の一枚、中離宮・客殿の周りを覆う青もみじです ★1、上離宮の浴龍池(ヨクリュウチ)を中心とした壮大な庭園の頁はこちらへ (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今 薔 薇 です ホームで見て下さい)........................................................................ ☆ アクセス・HPは前ページをご覧ください。 (字数の制限にて説明足らずすみません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.05.24
コメント(6)
. 天台宗 竹内門跡・曼殊院(まんしゅいん) 皇室一門の方が代々住持となられる別格の寺院を門跡寺院と呼ばれ、青蓮院・三千院・妙法院(三十三間堂)・毘沙門堂と並び、天台五門跡寺院の一に数えられます 800年代伝教大師最澄(サイチョウ)により比叡の地に草創され、10世紀後半是算(ゼサン)国師により比叡山西塔北谷に移され東尾坊(トウビボウ)と名付け当寺開基とされています ↑曼殊院「勅使門」 新緑に映える厳かな門、常に開けられていますが通常この門からは出入り出来ません 平安後期1108年に忠尋(タダヒロ)天台座主が当院住持の時に東尾坊を改め曼殊院と称せられる事となり、のち1656年桂離宮を造営された桂宮智仁(トシヒト)親王の第二子で29代門主の良尚(リョウショウ)法親王により修学院離宮(後水尾天皇により造営、良尚親王は同天皇の猶子)近くのここ一乗寺の山麓に移され、庭園・建築共に同親王の識見・創意により造営されています ↑勅使門を真近に、正面は大玄関です 建物は江戸時代初期の代表的な書院建築で、その様式は桂離宮との関連深いものとされています ↑曼殊院に導く参道です、新緑と共に両側のツツジが目に優しく飛び込んで来ます ↑院を取り囲む築地塀と、その斜面は緑豊かで旺盛なウマスギゴケで覆われる参道です (右)寺院北側にある玄関門、現在の通用口となっています ↑「庫裡」(重文) 入口は大妻屋根で建物は大玄関に続いています、掛かっている額「媚竃(ビソウ)」は良尚親王の筆で論語の「偉人より身近に媚びよ」の教えだそうです ↑大玄関「虎の間」の襖絵(重文)、桃山時代の狩野永徳筆で当時現実に見た事のない虎を想像で描いた絵とされます、少し胴長ですが獰猛な感じがよくでた絵です (写真は少し見難いですが当院資料から、次の間も同) (右)同「孔雀の間」江戸時代中期、岸駒(ガンク)筆の親子の孔雀をバランスよく描いた日本画です、奥には善光寺如来が祀られています ↑「書院庭園」小堀遠州の作による白砂を海に見立てた枯山水庭園、大書院前には鶴島が配され 植えられている五葉の松は樹齢400年、鶴が表現されています ↑「大書院十雪の間と滝の間」(重文) ご本尊の阿弥陀如来が祀られ、障壁画は江戸初期狩野探幽の筆によるもので部屋の間の欄間は卍くずしで作られています (写真は資料より) (右)五葉の松の根元にある燈籠は曼殊院型と言われるキリシタン燈籠です ↑滝の間からの庭園です、いま満開の霧島ツツジが鮮やかに映ります ↑小書院前から見た鶴島と深紅のツツジです、新緑の枯山水庭園と見事に調和して殊のほか美しい姿を見せてくれます ↑霧島ツツジ、他のつつじに比べるとやや小ぶりの花ですが、その優雅な咲き振りは観る者を魅了します ↑大海に浮かぶ「亀島」です、庭の花はまだ少し早かったようです ↑庭の芯に滝石が組まれ岩組の間をぬって白砂の流れが海にそそぎます ↑「小書院」(重文) 大書院と同じく寄棟造りこけら葺きで書院建築の代表的なものと謂われています、この小書院静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現していると説明されています ↑小書院前にある梟(フクロウ)の手水鉢です、下の台石は亀 傍の石は鶴がかたどられ、使い易いよう廊下側に少し斜めに置かれています (右)小書院小部屋より庭を臨みます、小書院北側には茶室「八窓軒」が建てられています ↑小書院「富士の間」と奥は「黄昏の間」二畳台目の上段を備え、床・棚・付書院が設えてあります、欄間は当然ですが皇室菊花紋の数々です (右)床脇の棚は十数種の寄せ木で組み合わされたもので、「曼殊院棚」として知られています (写真は双方資料より) ↑大玄関奥の「坪庭」、小さな庭ですが趣ある落ち着いた庭です ↑昨24年12月3日明治天皇御崩御から100年のお詣りに合せ京都にこられた天皇皇后両陛下、初めて紅葉の曼殊院を訪れられています (写真は報道写真より) (右)境内前、平戸ツツジが色とりどりに咲き鮮やかに彩っていました (この画像のみ拡大します) ↑勅使門より続く築地塀に振り掛かる青もみじです、五本の筋が入るのは門跡寺院の格式を表します ★「花いろいろ」 TOPにUPしています、今 石楠花(シャクナゲ) です ★「京都ええとこ」 過去記事一覧 左自由欄のマップより検索してご覧下さい ........................................................................京都市バス 「一乗寺清水町」下車 東へ徒歩20分曼殊院HP URL---http://www.manshuinmonzeki.jp------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.05.12
コメント(138)
. 瑠璃光院(ルリコウイン) 正式名、浄土真宗東本願寺派 無量寿山/光明寺(本坊岐阜所在)の京都本坊です ここ比叡山の麓 大原「八瀬(ヤセ)」の地は矢背とも記されていますが、672年天智天皇の跡目を争い壬申(ジンシン)の乱を戦った天武天皇が背に矢傷を負いこの地で癒されてより、平安貴族や武士達より安らぎの郷・矢背(ヤセ)として愛されてきたと伝えられます ↑瑠璃光院 青もみじ降る趣ある「山門」です、 比叡山麓の傾斜を巧みに取り入れ、一万二千坪に及ぶ自然を借景とした名庭に植えられている楓は数十種、苔も十種に及ぶとされています ↑山門を入るとしっとりとした石段が緩やかなカーブを描き両側生い茂るもみじや馬酔木の木々の間を登ります、ここからが一の庭「山露路の庭」です ↑石段途中にある小さな庭門です、ここからは茶室玄関に導かれます (右)十三重の石塔が立つ苔庭です ↑さらに緩やかな石段の露地庭、両側の苔に目を奪われながら上に昇ります ↑石段を昇りきると比叡山麓からの清流が小さな滝をつくり流れています、その澄んだ水が廻りの青々とした木々、苔を育んでいるのでしょう 見えてきた建物は寺院風でなく書院造りのお屋敷です ↑本願寺歴代門跡もしばしば訪れたと著され、明治の初めここをしばしば訪れた明治の元勲三条実美公、ここ当時の庵に「喜鶴亭(キカクテイ)」と名付けられその直筆の命名額が遺されています ↑「書院二階」 TOPの写真が全景ですが、大きい写経机に外の青もみじが映ります、「庭屋一如(テイオクイチニョ)」との表現が美しく現わされる建物と庭の一体となった見事な空間です ↑「書院一階」 お茶席も設けられた落ち着いた部屋より庭を静かに眺めます 建物は自然の傾斜に数寄屋造りで建てられ、ここが上屋敷となります ↑書院には、飛鳥・白鳳時代を代表する奈良・法隆寺の有名な金堂壁画、昭和24年に残念にも焼失し失われましたが、明治・大正にかけ直接摸写された希少な作品が展示されていました (左) 蓮華座に安座される阿弥陀如来坐像 (右) 普賢菩薩像 です ↑当寺の主庭で瑠璃色に輝く浄土を現した庭「瑠璃の庭」です、苔と白砂石組みで設えられ、苔の間をぬって一筋のせせらぎが優美な曲線を描き清らかに流れています ↑自生している苔が、ある気象条件のもと色が変り庭が瑠璃色に輝いた処から瑠璃の庭と名付けられたと謂われています、仏教語で瑠璃とは浄土の世界を現します ↑奥に組まれた石組みには苔がはりつき、比叡の伏水が遣り水として流れ落ちています、石の色はいつもその水に濡れ青みを帯び瑠璃色の庭に融け込んで見えるのでしょう ↑本堂のご本尊阿弥陀如来像にお詣りして渡り廊下を進むと、窓からは下の屋敷屋根を通して八瀬の山麓と十三重塔に山桜が青みに慣れた目を和ませてくれます ↑茶庵「喜鶴亭」です、1700年代千家第六代覚々斎宗左(カクカクサイソウザ)家元の好まれた佇まいで和敬清寂の精神を映すとされています (右)茶室の前庭です ↑下屋敷の座敷より、水と石で現した庭園を臨みます ↑三の庭「臥龍(ガリョウ)の庭」 左上に見える燈籠の右横を頭に石と草木遣り水で天に駆けのぼる龍を現すとされる庭園です ↑築庭は佐野藤右衛門(代々名)一統の作と伝えられる静寂な自然の借景池泉庭園、眺める人の心を開放し、昇運の兆しをもたらすと謂われています (この画像のみ拡大します) ↑最後に、瑠璃光院前を流れる高野川の新緑と比叡山山麓です京都の川、東の流れ上流は大原川、八瀬川でこの高野川となり、下賀茂神社の南で一つ西よりの賀茂川と合流 鴨川と呼ばれたあと一番西の保津川、大堰川の桂川と合流先は淀川となります ☆瑠璃光院 今回毎年春と秋2回の一般公開をこの春を以って休止される事となりました、見られるのは以降今年5月31日限りです ★「花いろいろ」 TOPにUPしています、今藤の花です ★「京都ええとこ」 過去記事一覧左の自由欄のマップより検索してご覧下さい ......................................................................京都バス 「八瀬駅前」 下車 徒歩10分 叡山電車 「八瀬比叡山口」下車 徒歩7分瑠璃光院HP URL---http://rurikoin.komyoji.com/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.05.02
コメント(104)
. 今回の記事の前に、 「京都ええとこ」 ご紹介した過去の記事の索引を左の自由欄に設けました、表示されますマップより検索してご覧下さい (京都にお越しの折のご参考になれば幸いです)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 北法相宗大本山 音羽山・清水寺 京都へお越し頂いた折その多くはお立ち寄り頂いている清水寺、改めてご紹介でもありませんがここでは桜に埋もれる清水寺ご覧下さい (4月4日さくら満開の写真です) 奈良時代の末778年延鎮(エンチン)上人が開創され、のち坂ノ上田村麻呂公が上人に帰依し嵯峨天皇より北観音寺の寺号を享け仏殿を建立されたのが始まりとされています 清水寺の寺名は延鎮上人が夢に顕れた観音様の示し通り音羽山中より今なお途切れることなくこんこんと湧き、音羽の滝として流れる清き霊水と遭遇した事に由来します ↑清水寺への参道、清水道・産寧坂・茶わん坂・五条坂、のいずれの道を通っても境内正面にまず目にする光景です ↑「仁王門(三門)」(重文) 三間一戸の丹塗りといわれる朱塗りの楼門です、入母屋造り桧皮葺の室町様式の堂々とした門で"赤門"とも呼ばれています、両脇に安置されている像は鎌倉時代の作で京都では最大級の像といわれています 音羽山中腹13万平方メートルの境内に石垣を築き15の伽藍が立ち並びます、現在の諸堂の多くは度々の火災を経て1633年徳川家光の寄進により再建されたものです ↑重なって見える西門・三重塔と左右紅白のさくらです ↑紅枝垂れ桜、前方京都市内を一望できる位置に立っています ↑仁王門横に咲く桜、朱塗りの門に映えてほぼ7.8分まで開いているでしょうか枝ぶり見事なしだれ桜です ↑前は「西門(サイモン)」(重文) 八脚門の切妻造りで正面に向拝が付けられ拝殿風の門です、ここから見る夕陽は素晴らしく西方浄土を眺むるとされていたようです ↑「三重塔」(重文) 西門の奥に建つ高さ31m、元は平安初期嵯峨天皇の皇子誕生にあたり建てられた古様式を伝える日本最大級の三重塔です ↑「轟(トドロキ)門」(重文) 本堂への中門です、"普門閣"の扁額が掲げられている三間一戸の八脚門で、左右両脇に平安末期の持国天・広目天を祀っています ↑本堂の正面、仏殿の大きさは正面36m、側面30m、高さ18mあります(右)本堂前にせり出す舞台です 「本堂」(国宝) 「大悲閣」とも呼ばれ屋根は寄棟造り桧皮葺で、堂内は大きな柱で内陣と外陣が区分され内々陣にはご本尊の十一面千手観音立像と、毘沙門天・地蔵菩薩の両立像が安置されています、三尊とも秘仏とされていて中でもご本尊は33年に一度の開扉とされ、写真も非公表で"お前立ち像"が公表されています ↑本堂舞台より眺めるさくら広がる「錦雲渓」です、左斜面は音羽山で向う正面は阿弥陀ヶ峰です ↑同舞台よりさくら越しに西方京都の街を望みます ↑満開の染井吉野越しに見る本堂です、奥の院(現在修復中)前の桜を通して ↑「清水の舞台」は音羽山の急崖に高さ13m広さ190平方メートル、16角の周り2.3mの巨大な欅の柱(139本という)を立て貫(ヌキ)を縦横に通しせり出し部分を支えています、「懸(カケ)造り」或いは「舞台造り」と呼ばれ儀式・舞楽の奉納がされる正真正銘の舞台です (この画像のみ拡大できます) ↑子安塔(後述)への参道より眺める本堂から三重塔までの遠景、清水寺紹介によく出会う場面です ↑錦雲渓の下から見上げる舞台、正面左右に翼廊(楽舎です)が突き出して外観の美しさが倍加されています(TOP画像も参照) ↑舞台を支える懸造り、釘は使わず柱に貫を通して組まれています (右)「音羽の滝」寺名に由来する今は三筋のみ落ちる滝です、古来黄金水・延命水とし"清め"の水として尊ばれ、今もこの清水を汲み諸願祈られています ↑「子安塔(コヤストウ)」(重文) 清水寺一番奥にある美麗な桧皮葺の三重塔で高さ15mの名の通り安産・子育てに祈りを集めます うしろの山は、1598年豊臣秀吉が自身の遺骨をその遺命によりこの山の上に豊国廟として祀らせた阿弥陀ヶ峰です、今も立派な五輪石塔が祀られていて一帯は太閤坦(タイコウダイラ)と呼ばれます ↑本堂の内陣に祀られた陸前高田の流木松で彫られた"大日如来坐像"です、横に"一心合力"の念木が添えられています (右)は毎年年末の清水寺行事"今年の漢字"、2011年の「絆」です筆を持たれるのは現清水寺・森清範貫主(モリセイハンカンス)です、左の念木も同筆です ↑今回の一枚、さくらに浮かぶ三重塔です (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今京都のさくら 3です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「清水道」下車 西へ徒歩8分清水寺HP URL---http://www.kiyomizudera.or.jp/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.04.23
コメント(96)
(上の図をクリックし拡大、番号を確認のうえ下記のリンクページをご覧下さい)「京都見どころ一覧」 (NO.1~48まで) (NO.49~96は次ペーシへ) (NO.97~ は次々ページへ) 1 大田神社・・・・・・・カキツバタが揺れる・大田神社(2011.05.21) ・・・葵祭とカキツバタ・上賀茂神社と大田神社(2012.05.19) 2 祇園・白川・・・・・・祇園放生会(2011.06.05) 3 千本釈迦堂・・・・・おかめ物語とぼけ封じ観音(2011.06.07) 4 晴明神社・・・・・・・陰陽師/安倍晴明公を祀る・晴明神社(201401.29) 5 藤森神社・・・・・・・あじさい苑は花いっぱい藤森神社(2011.06.12) 6 平安神宮・・・・・・・花しょうぶとすいれん咲く平安神宮(2011.06.16) 7 東林院(妙心寺)・はかない一日花、沙羅双樹の寺・東林院(2011.06.18) 8 法輪寺・・・・・・・・・起き上がりだるま、達磨寺・法輪寺(2011.06.23) 9 北野天満宮・・・・・梅の香ほんのり、縁日賑わう天神さん(2012.03.03) ・・・・・お土居(おどい)の紅葉、北野天満宮(2012.11.27) 10 天得院(東福寺)・花の寺、桔梗の花咲く天得院(2011.06.28) 11 両足院(東福寺)・白く染まる半夏生・両足院(2011.07.02) 12 白峯神宮・・・・・・・蹴鞠(けまり)と七夕祭・白峯神宮(2011.07.08) 13 龍安寺・・・・・・・・・鏡容池いちめんの睡蓮の花・龍安寺(2011.07.10) ・・・・・・こころを馳せる石のさき・石庭龍安寺(2011.07.14) 14 祇園祭り・・・・・・・ 京町屋と函谷鉾・祇園祭り(2011.07.17) ・・・・・コンチキチンのお囃子響く・八坂神社と祇園祭り (2012.07.20) 15 法金剛院・・・・・・・花園の 苑をいろどる 蓮の花・法金剛院 (2014.08.01) ・・・・・・いま咲き競う花の寺...待賢門院眠る・法金剛院 (2012.07.14) 16 京都植物園・・・・・"なでしこ"...見てきました・植物園(2011.07.26) 17 妙心寺・・・・・・・天井図八方睨みの龍と夾竹桃・妙心寺(2011.07.29) 18 八坂ノ塔・法観寺・東京スカイツリーと東山のシンボル八坂の塔・法観寺 (2011.08.01) 20 大寧軒・・・・・・・・・京の夏・南禅寺史跡・大寧軒(2011.08.04) 21 下鴨神社・・・・・・・京の夏・特別公開の本殿と大炊殿・下鴨神社 (2011.08.07) 22 建仁寺・・・・・・・・・国宝・風神雷神屏風図と百日紅咲く・建仁寺 (2011.08.13) ・・・・・・潮音庭と襖絵/雲龍図・天井/双龍図・建仁寺 (2011.08.16) 23 水路閣・・・・・・・・・インクライン・京の水の命綱/琵琶湖疏水・水路閣 (2011.08.19) 24 養源院・・・・・・淀殿により創建..お江与の方(江姫)が再建・養源院 (2011.08.22) 25 知恩院・・・・・・・ふりかえれば法然様.法然上人・知恩院(2011.08.25) ・・・・・念仏のふるさと..法然上人800年大遠忌・知恩院 (2011.08.28) 26 妙蓮寺・・・・・・・芙蓉の花いっぱい・酔芙蓉彩る・妙蓮寺(2011.09.18) 27 梨の木神社・・・・・三条實美祀る..萩の花咲く・梨の木神社(2011.10.04) 28 高台寺・・・・・・・・・東山・霊山の山麓..秀吉とねねの寺・高台寺 (2011.10.10) ・・・・・蒔絵の寺・北の政所眠る・高台寺(2011.10.16) 30 円徳院・・・・・・・高台院北政所・ねね終焉の地・円徳院(2011.10.23) 31 方広寺/豊国神社・「君臣豊楽」「国家安泰」の鐘銘・方広寺&豊国神社 (2011.10.29) 32 御香宮神社・・・・・豊臣家と徳川家が同居する社・御香宮神社 (2011.11.05) 33 東福寺・・・・・・・古都にもしのび足・紅葉ほんのり東福寺(2011.11.12) 34 京都御所・・・・・・・平安遷都一千年余の内裏・京都御所(2011.11.19) ・・・・・春の一般公開・京都御所(2012.06.02) 35 高山寺・・・・・・・・・日出でて先ず照らす高山之寺・栂尾高山寺 (2011.11.26) 36 三千院・・・・・・・・・もみじ降る苔むす庭にこころ融く・大原三千院 (2011.12.03) 37 天龍寺・・・・・・・紅葉彩る名勝嵐山の借景映える・天龍寺(2011.12.10) 38 永観堂・・・・・・・東山の紅葉の名所・錦に染まる永観堂(2011.12.17) 39 金閣寺・・・・・・・・・旭日あび金色輝く金閣舎利殿・鹿苑寺/金閣寺 (2012.01.01) 40 伏見稲荷大社・・・人.人.人で埋まる初詣・伏見稲荷大社(2012.01.07) 41 えびす神社 ・・・・・人気大よせ「えべっさん」京都・恵美須神社 (2012.01.14) 42 三十三間堂・・・・・明日に向って射る/新成人通し矢・三十三間堂 (2012.01.17) 43 蘆山寺・・・・・・・・・紫式部ゆかりの地・蘆山寺(2012.01.28) 44 壬生寺・・・・・・・・・節分祭/大念仏狂言と新撰組・壬生寺(2012.02.11) 45 東寺・・・・・・・・・・・弘法さん/お大師様の寺/教王護国寺・東寺 (2012.02.25) 46 城南宮・・・・・・・鳥羽離宮の鎮守社/方除の大社・城南宮(2012.03.10) 47 東山花灯路・・・・・京都早春の風物詩・東山花灯路(2012.03.17) 48 常寂光寺・・・・・・・歌のふるさと小倉山/苔生し佇む・常寂光寺 (2012.03.24)
2013.04.20
コメント(4)
(上の図をクリックし拡大、番号を確認のうえ下記のリンクページをご覧下さい)「京都見どころ一覧」 (NO.49~96まで) (NO.1~48はこちらで) (No.97~166はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです 49 随心院・・・・・・・・・はねずの梅/小野小町の随心院(2012.03.31) 50 渉成園(枳殻邸)・やっと桜が咲きました/東本願寺・渉成園 (2012.04.07) 51 醍醐寺・・・・・・・醍醐の花見/豊太閤花見行列・醍醐寺(2012.04.14) 52 退蔵院(妙心寺)・砂紋に枝垂れる桜と国宝/瓢鮎図妙心寺・退蔵院 (2012.04.28) 53 三室戸寺・・・・・・・斜面いっぱいに彩るつつじ/宇治・三室戸寺 (2012.05.12) 54 葵祭上賀茂神社・平安絵巻/葵祭と上賀茂神社・大田神社の杜若 (2012.05.19) 55 宝厳院(天龍寺)・風薫りみどり生す/獅子吼の庭・宝厳院(2012.05.26) 56 勧修寺・・・・・・・・・氷室の池に花一面/山科・勧修寺(2012.06.09) 57 梅宮大社・・・・・・・「この花咲くや池」に花しょうぶ彩る・梅宮大社 (2012.06.16) 58 二尊院・・・・・・・静まりて青いもみじの小倉山・二尊院
2013.04.20
コメント(3)
. 今回の記事の前に、 (お時間のある時にご覧下さい) ☆ 2013年の京都の桜と椿をまとめました、タイトルをクリック頂くと記事にリンクしています。 ★ 1、なからぎの道・京都植物園の桜 (4/4) ★ 2、平野神社・平安郷の桜 (4/5) ★ 3、法金剛院・京都御苑ほかの桜(3/26~4/5) ★ 4、椿寺ほか桜と共に満開の椿 (3/15~) ---------------------- 真言宗大覚寺派 大本山 嵯峨山・大覚寺 (旧嵯峨御所・大覚寺門跡) 嵯峨天皇と檀林皇后の離宮であった嵯峨院が寺に改められ、876年天皇の皇女正子内親王(セイシナイシンノウ)が清和天皇から寺号を賜り大覚寺となります、その後の四代の上皇が院政をしき南北朝の時代には南朝の拠点となった処でもあり、明治維新まで代々法親王が住職を務めた門跡寺院で、心経写経の根本道場として知られまた華道の「嵯峨御流」の総司所(家元)でもあります ↑表門を潜ると正面「式台玄関(大玄関)」奥は庫裡です、唐門、石舞台を中心に宸殿・御影堂・霊明殿・五大堂・心経殿・正寝殿などの堂宇が立ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えています ↑「表門」 勅使門と比べると豪華さはありませんが、格式ある重厚な門です (右)玄関 「松の間」 障壁画は狩野永徳筆により描かれた「松に山鳥図」で前の輿は後宇多天皇1300年代ご使用の御輿です ↑「宸殿(シンデン)」(重文) 後水尾天皇の中宮・東福門院和子(徳川秀忠の息女)の旧殿が移築されたもので、寝殿風の桧皮葺の建物で内部は四室に分かれ各室襖絵は狩野山楽筆の桃山時代を代表する金碧画が飾られています ↑前庭は白砂が大海を模して敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(桜でなしに梅)が構えています (右)周囲に広縁が巡らされ、格子戸は蔀戸(シトミド・外側へ押し上げる戸)が用いられています ↑各堂宇へはこの屋根つきの回廊「村雨の廊下」で結ばれ、雨に濡れず各堂を廻れます (右)「正寝殿(セイシンデン)」(重文) 客殿で大小12の部屋に分れ、「上段の間」には玉座があり院政を執られた部屋が再現されています、襖絵は同じ狩野山楽と渡辺始興筆によるものです ↑「御影堂(ミエドウ・心経前殿)」 御所の饗応殿が下賜され移築されたもので、嵯峨天皇とその後の二天皇と弘法大師の像を安置し、堂宇の中程に位置し心経殿の拝所でもあります ↑「五大堂」 大覚寺の本堂で心経の本山とも謂われます、江戸時代に再建されたもので不動明王を始めとする五大明王が奉祀されています、堂の東側の縁は観月台で大沢の池を望みます ↑「霊明殿」 総朱塗りの建物で、ご本尊の阿弥陀如来がお祀りしてあります (右)「心経殿(シンキョウデン)」 堂宇の中心とされる建物で、嵯峨天皇始め六天皇直筆の写経・般若心経を収蔵し開扉は60年に一度とされています、薬師如来像が安置されている校風造風の八角堂です ↑宸殿の襖絵(オリジナルは収蔵庫で複製です) と (右)御影堂天井の花の絵です (両方とも撮影禁止で、寺資料より) ↑「唐門(勅使門)」と紅枝垂れ桜 大覚寺の紹介でよく見られるツーショットです、江戸時代嘉永年間に造られた四脚門で菊の御紋が浮き出る美しい姿をしています、前は石舞台です儀式や奉納行事に使われます ↑五大堂からのUPです、唐門は一年一度毎年8月20日の宵弘法(万灯会)しか真近で見る事が出来ません ↑紅枝垂れ桜、もう数日で満開 少し早かった様子でした ↑境内、周りに咲く染井吉野は満開でした ↑唐門の屋根とソメイヨシノ と (右)境内の西と南を流れる御殿川と勅使門前の石橋・太鼓橋に懸かる里桜です ↑「心経宝塔」 弘法大師像を祀ります、大沢の池の北西付近、朱の色も鮮やかな多宝塔・心経宝塔は、嵯峨帝心経写経1150年を記念して建てられたもので、今では大覚寺の風景に欠かせないものとなっています ↑「大沢の池」 中国の洞庭湖(トウテイコ)を模して嵯峨天皇が築造したものと謂われ、平安時代の名残を留める日本最古の庭池とされています、周囲1kmで周りを廻る散策路も造られ四季折々の風情が楽しめます ↑松が二本が植えられている菊ヶ島、他に大きい天神島と池に突き出る庭湖石と共に二島一石が「いけばな嵯峨御流」の基本とされています ↑池の周り いま満開の染井吉野と里桜が彩っていましたこの大沢の池、秋には平安時代より船に乗り観る「観月の夕べ」が催され、日本に於ける名月鑑賞の地としても知られています (次回も未ださくら関連記事です、近々にUPします) (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今京都のさくら 2です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「大覚寺」下車 すぐ大覚寺HP URL---http://www.daikakuji.or.jp/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.04.14
コメント(99)
. 法金剛院・宥清寺・京都御苑ほかの桜です (2013.03.26~)↓法金剛院2枚です (2013.4.1) ↓宥清寺2枚です (2013.4.1) ↓立本寺2枚です (2013.3.29) ↓成願寺2枚です (2013.4.1) ↓千本釈迦堂2枚です (2013.3.26) ↓地蔵院(椿寺)2枚です (2013.4.1) ↓京都御苑4枚です (2013.4.1) ↓佐野邸の庭2枚です (2013.4.5)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!
2013.04.13
コメント(10)
. なからぎの道と京都植物園の桜です (2013.4.4)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!
2013.04.13
コメント(7)
. 平安郷の桜です (2013.4.5) 平安郷 嵯峨野・広沢池西畔にあります世界救世教の宗教施設です さくらは桜守・佐野籐右衛門氏が維持管理され、常時は非公開ですが例年春と秋に無料で一般公開されています、宗教絡みですが勧誘等一切ありません-------------------------------------------------------- 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!
2013.04.13
コメント(4)
. 椿寺(地蔵院)ほか8ケ所の椿です (2014.4.9更新) ↓以下3枚は妙心寺・退藏院です (2014.4.8) ↓以下4枚は椿寺です (2014.4.8) ↓以下7枚は京都市植物園です (2014.3.3) ↓以下9枚は椿寺です (2013.4.1)椿寺の椿、五色に咲き分け、散椿の名前通り花ごと落ちず一片ずつ散ってゆきます ↓以下3枚は二条城の椿です (2013.3.16) ↓以下3枚は植物園の椿です (2013.3.15) ↓以下2枚は千本釈迦堂の椿です (2013.3.26) ↓法金剛院の椿です (2013.4.1) ↓成願寺の椿です (2013.4.1)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!
2013.04.13
コメント(3)
. 京都府庁旧本館 ルネサンス様式の建物の外観は、正面の一段と高くなった屋根を中心に左右両翼に対称に張り出した形で西洋近世の大廷館を彷彿とさせるものがあります ↑明治37年に竣工ししたレンガ造りの西洋建築で、昭和46年まで府庁本館として機能し、国の重要文化財に指定されていながら現在も執務室や会議室として使用され、創建当時の姿をとどめる日本最古の官公庁建築物とされています ↑建物内の廊下(左)と二階へあがる踊り場(右) 内部は随所に和風の優れた技術が巧みに取り入れられ、内部の意匠は建築と云うより工芸品といった趣があります ↑本館通路から中庭を臨みます 中庭は桜守として全国的に活躍される造園家・佐野藤右衛門氏の桜庭です ↑二階へのおどり場から窓ガラス越しに庭の桜を眺めます ↑庭中央の桜は、円山公園の一本桜・初代「祇園枝垂れ桜」の孫桜にあたります 花は密生せず繊細で妖艶な遺伝子を受け継いでいると謂われます、またその咲き振りは背後のモダンな建物を透かし見て、見事な建築とのマッチングは藤右衛門氏造園の粋とされます ↑紅一重の枝垂れ桜と左少し低く見られるのは紅八重の枝垂れ桜です一重の桜は祇園桜同様密生せず、八重の桜は花が盛り上がって見えます中庭にはこれらの桜を含め6本の桜が咲き誇っています ↑容保桜(かたもりざくら)です、珍しく山桜と大島桜との特徴を合わせ持ち、通常の山桜より大輪に咲く新品種とされる桜です 本府庁敷地内に幕末京都守護職・松平容保の上屋敷があり、天皇を守護し京都を護った当時の経緯から、会津の現松平家承認を得て佐野藤右衛門氏が命名した桜です ↑本庁敷地内にある京都守護職・松平容保上屋敷跡の石碑です ここ上屋敷は天皇の坐す京都御所と徳川慶喜が居とする二条城(前記事)の中程御所寄りに位置し、公務の折の金戒光明寺(既報)と共にその任に当たった処です ↑「蛤御門」 上屋敷より近く、御所の外塀東中央に位置する御門です 1864年天皇を守護すべく京都守護職として薩摩藩等とともに御所に攻め込む長州藩を降した「禁門の変(蛤御門の変)」が戦われた場所です、しかし以後変遷する歴史の大波のなか孝明天皇の信任を厚く得ていた松平容保でしたが、徳川家との義を重んじた故に将軍慶喜共々その後連携した薩摩・長州から朝敵と見做され京都を去ることとなります ↑蛤御門の外柱に残る弾痕の跡です(白く色が落ちたように見える所が弾の跡) (右)京都守護職時代の松平容保 (写真は金戒光明寺説明資料より) 慶喜の偏心もあり不本意にも朝敵の汚名まで被せられた容保、藩の窮地は「我が過ち」と涙するも非情にして激動の幕末の嵐の中に翻弄された一人だったのでしょう 付記しますが、会津藩はこの藩主・容保を同じく涙し迎えています ↑蛤御門を入ったすぐ南、御所の内塀が見える桃の庭です いつもは桜より一足先に咲きますが、今年は早い桜と同時に白・赤・薄ピンク・濃ピンクの綺麗な花満開でした ↑約100本が植えられている桃の林、甘酸っぱい香りが庭一杯に漂っていました、梅とも又桜とも異なる彩り華やかな桃庭です ↑白と薄ピンクの桃の花UPです ↑「出水小川の枝垂れ桜」です 付近に出水(付近の地名です)の小川が流れる雅な小公園があり名付けられた一本桜です、その大きく傘のように膨らんだ枝ぶりは見るものを圧倒します ↑春風に揺れ上から降るがごとしの枝垂れのさくらです(青空でないのが残念!) 同じ御所内でも近衛邸跡の枝垂れ桜(昨年UPしています)の付近にはたくさんの桜が入り乱れ咲き誇っていました(後日ご紹介します) (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今京都のさくらです ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「府庁前」下車 徒歩北へ3分京都府庁旧本館HP URL---http://www.pref.kyoto.jp/qhonkan/京都御苑HP URL---http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.04.03
コメント(99)
. 徳川家康により創建、三代家光が整備完成させた二条城 1603年京都御所の西南真近に京都の守護と家康自らの上洛の際の宿舎を目的とした、合戦用の城でなく徳川家権力の証しを誇示するための平城として築城される 徳川家康はここ二条城で将軍就任の祝賀の儀を行い、1611年には豊臣秀頼との所謂「二条城の会見」の場所ともなり、大阪冬の陣・夏の陣への軍議もここで行なわれています ↑本丸を囲む城壁と内濠で、向う南西角は天守閣跡の天守台です のち三代家光が後水尾天皇をここに迎える為、本丸と天守閣を含む豪華な城への大改築が行われ、桃山時代を代表する武家風城郭書院「二の丸御殿」が誕生しました、沢山の障壁画を含む煌びやかな内装はそのまま今に伝えています ↑(左)外濠と「東南角櫓」、(右)「東大手門」(共に重文)それぞれ外部から見る二条城の象徴です、門は石垣と石垣の間に渡櫓を渡した櫓門形式です 1634年二代秀忠死後、三代家光が30万の兵を引きつれ上洛二条城に入場したのを最後に将軍を迎える事は途絶え、幕末の動乱期までの230年間二条城は歴史の表舞台より一旦姿を消します ↑「唐門」 二の丸御殿の正門で、唐獅子・鳳凰・牡丹などの極彩色彫刻が施され、前後軒唐破風付の四脚門(重文)です 奥に見えるのは二の丸御殿の玄関です (唐門は現在修復中で囲われ見られません、この写真のみ2011.5月のものです) 時を経て1862年十四代将軍家茂の上洛にそなえ全面的に修復されますが、家茂病に倒れ、1866年一橋慶喜十五代将軍の宣旨を受けるも戦い利あらず翌年十月ここ二条城に四十藩の重役参集し、大政奉還の会議と宣言がなされ徳川幕府ここで265年の幕を閉じます ↑「二の丸御殿」 「車寄」(玄関)から続く御殿は「遠侍(トオサムライ)の間」「式台の間」「大広間」「蘇鉄の間」「黒書院」「白書院」の6つの建物が廊下で結び造られています、車寄を含め国宝です ↑車寄の欄間は表裏が異なる豪華な彫刻が施されています、表は五羽の鸞鳥(ランチョウ・空想の神鳥)と上は唐獅子が彫られています (右)二の丸御殿の配置です、雁行状に造られた各建物それぞれに大きな部屋が目的に合せ造られています ↑庭に入り向うから遠侍・式台・大広間の各建物です (右)は二の丸庭園を前にした黒書院です ↑二の丸御殿内「大広間」一と二の間です、将軍が諸大名らと対面した最も広く豪華な部屋で、二重折上格天井で設えられ障壁画は狩野探幽作「老松」です (障壁画は3000を超えうち1016面が重文) (右)1867年この大広間で行なわれた大政奉還の会議の模様が現在それぞれに模された人形で再現されています (尚、殿内は写真禁止で上下4枚は、二条城資料・パンフよりの転写です) ↑「式台」 参上した諸大名が老中と対面した処で、老中三の間の「雪中柳鷲図(セッチュウリュウロ)」御殿の障壁画の中で優れたものとされています (右)「黒書院」 将軍が政務を執るところで一と二の間さくらと雉、季節感のある障壁画が描かれてあります ↑「二の丸庭園」(国の特別名勝)八陣の庭とも呼ばれます、池に蓬莱島と左右に鶴亀の二島を配した書院造庭園で小堀遠州の代表作と伝えられ、大小の石組みと松で力強く神泉蓬莱の世界を表した庭園と謂われています ↑右側二段の滝組と森も造られ、大広間・黒書院と当時あった行幸御殿からそれぞれ正面として見られる三正面形式の池泉回遊式庭園です ↑「本丸櫓門」(重文) 本丸を囲む内濠に架る本丸の正門です、入母屋造の櫓門で家光の本丸増築時に造られています (右)本丸御殿内、玄関・御書院・台所を臨みます、1788年の大火で殿舎は一度焼失しのち再建されたものです ↑「本丸庭園」 明治に入って作庭された芝生と植樹を中心にした回遊式の庭園です ↑「御常御殿」(重文) 1893年京都御苑内にあった旧桂宮御殿を移築されたものですが、この建物は宮御殿の遺構として残る貴重なものとされています (右)洋風庭園とされる本丸庭園内にあって存在感のある松と灯籠 ↑「天守台」(天守閣跡)より本丸の全景です、天守台は本丸増築時に伏見城の層塔型五重五階の天守が移築されましたが1750年の落雷により焼失、以後再建されず跡地のみとなっています ↑同じく天守台より、本丸(右手)を囲む内濠と本丸西門を臨みます ↑天守台の南下は梅林です、梅林・梅の花はHOMEのページをご覧ください ↑二条城三つ目の庭園「清流園」です、元は淀城へ移された初代天守閣の跡地に、江戸時代京都の豪商・角倉了以(スミノクラリョウイ)の屋敷一部と庭木や庭石800ヶを譲り受け、全国から集めた銘石300個を合わせ造られています ↑「和楽庵」「香雲亭」の二つの茶室と川に大小の石・石橋や木々を配した和風の池泉回遊式山水園と、東側の芝生を敷き詰めた洋風園との和洋折衷庭園で、現在は訪れる国・公賓の接遇場所ともなり、一昨年の全国630余の名園の中でこの清流園は6位に、二の丸庭園は8位にランキングされています (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今二条城の梅林です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「二条城前」下車 真前です 市営地下鉄東西線 「二条城前」下車 徒歩2分二条城HP URL---http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/index.html------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.03.23
コメント(102)
. 臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院 1341年時の将軍・足利尊氏が天龍寺の夢窓国師を開山として衣笠山の南麓に中興され、尊氏の死後その院号から寺名を等持院と称することとなる金閣寺の義満、銀閣寺の義政を経て禅宗十刹の筆頭寺院とされ、市中にあった等持寺を併合して足利将軍家十五代の菩提所となります 境内は広くこの付近の地名・小松原の名の通り、閑寂な松林が綺麗で今もその名残りを留めています ↑庫裡から入り方丈へ向くと禅宗の祖師「達磨大師」の大きい衝立(幅二間)が目に入ります、元天龍寺派管長の関牧翁師の筆になる豪快ながら少しユーモラスな祖師像です ↑等持院「表門」 です、後ろは庫裡で形良い屋根は禅宗寺院によく見られます、入り口となる山門はずっと手前にありここまで広い参道が導いてくれます ↑「方丈」 桁行19m梁間12mの一重入母屋造りで1616年福島正則が妙心寺海福院の客殿を移した建物で、南広縁は快い音が響く鶯張りが施されています方丈にはご本尊・釈迦如来座像が安置され、内部の襖は桃山時代の狩野興以作になる襖絵があり年一度公開されています (右)「方丈南庭」 禅宗庭園によく見られる松や桜の木と石・白砂の落ち着いた枯山水庭園です ↑庫裡より続く「書院」から、お茶を頂きながら石組みに草木・花木があしらわれた庭を眺めていると心やすらぎます (右)庭から書院と庫裡を臨みます、手前の灯籠は中台(写真一番下)が六角型の珍しい等持院型灯籠と謂われています ↑ご紹介している庭は禅宗中興の祖で当寺開山・夢窓国師(夢窓疎石・国師は後醍醐天皇より授かった号)の作で三大名園の一つとされています、この方丈北庭のうち西の庭「芙蓉池(フヨウチ)」 芙蓉の花を形どって変化に富んだ石組みと枝ぶり見事な松が配され、古い木立で区切られた回遊式庭園です ↑八代将軍義政が相阿弥と茶道を極めたと謂われる静かで落ち着いた茶室「清漣亭(セイレンテイ)」 が庭の北の背に造られ、下に広がる鯉泳ぐ池を見おろし、その立体感溢れる庭は優れた造園師とも謂われた夢窓国師の代表作の一つと謂われています ↑「清漣亭」 上段一畳を武家床の貴人席とする珍しい二畳台目の茶席です、当時背後の櫛形の窓を開ければ衣笠山ののびやかな姿が眺められたとされています 小さい写真ですが下は茶室前に置かれた等持院型灯籠と江戸時代の司馬温公型(中国の故事で、凹凸の大きい石に水穴が彫られたもの)の手水鉢です (右)古い木立の庭はいちめんの苔で覆われています ↑「霊光殿」 尊氏公が日頃念持仏とされていた地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊とし足利歴代の将軍と家康の木像が安置されています ↑霊光殿内部、正面は中央ご本尊・地蔵尊、左右に達磨大師・夢窓国師像で両側左右に徳川家康と足利歴代将軍の等身大の木像です(五代義量・十四代義栄両将軍を除く)家康像が一緒なのは、足利家を重んじてきた家康の意を汲み家光が寄進したものとされています (右)飾られている足利尊氏の木像です (写真は双方当院資料より) ↑庭の南中央にある足利尊氏の墓・宝筐印塔(ホウキョウイントウ)です、室町時代の形を示していると謂われ、宝瓶には蓮(芙蓉)の紋様が彫られています (右)北側中央にある足利歴代将軍の遺髪を納めた供養塔・十三重石塔、高さ5mあります ↑有楽椿(ウラクツバキ・胡蝶侘助{ワビスケ}椿)樹高十数メートル、根元の幹周り100cm、三ッ別れした400余年の大木で現存の有楽椿中で最大樹と説明してあります、背の高い大木です 寒の頃から4月まで咲いていると謂われ、豊臣秀吉が秀頼に命じ当寺の再建をした折植えられたものとされています ↑今まだ彩りの少ない庭に優しい薄紅色で咲いていました有楽椿の名は、織田信長実弟の織田有楽斉が茶席の花として愛用したことに由来していますが、京都では有楽椿、江戸では太郎冠者の名で呼ばれた花です、いまこの有楽椿は古社寺でしか観られません ↑北庭の東の苑池「心字池(シンジチ)」、草書体の心を形どって造られた池庭とされていますが、岸辺の何処から見ても全形が見えない複雑な形で「こころ」と同じと表現したものともされているようです ↑鎌倉・室町時代の池の特徴をよく表している池とされていますが、古木立ちと川と見える池は静まりかえり幽遠の境地のようです ↑霊光殿奥にいま咲いている紅梅ですここ二つの庭には、今咲く有楽椿と梅、次いで観られる馬酔木(アセビ)、新緑と共にさつき、夏・半夏生からくちなしそして芙蓉、紅葉から雪に白く浮かぶ冬景色も加え四季を通してその時々の趣きが感じられるよう造られているようです ↑有楽椿より少し濃いピンク鮮やかな色合いでした (右)「鐘楼」 表門前にある堂々とした屋根と四本柱の彫り物を合わせ重厚で落ち着いた鐘楼です (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今 梅 です ホームで見て下さい)........................................................................京福電車(嵐電) 等持院駅(白梅町一駅西)下車 北へ徒歩5分等持院関連HP URL---http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/toji-in.htm (等持院 HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.03.15
コメント(55)
. 臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺 日本にある臨済宗妙心寺派の寺院3,500ヶ寺の総本山で、寺内には38の塔頭寺院をかかえています その塔頭寺院の中で、国の名勝に指定されている美しい庭園を持つ二ヶ寺をご紹介します、1、大法院は例年春・秋に特別公開されています、文中特に触れている以外は昨2012年5月の写真です2、東海庵は今年12年ぶりの特別公開でした (今後も不定期公開のようです) 「一、真田家の菩提寺・佐久間象山眠る大法院」 ↑1662年信州松代藩主・真田信之(真田幸村の兄)をその遺命により孫の長姫(オサヒメ)が信之を祀り創建し、真田家の菩提寺となる 大法院の院号は信之の法名に因み付けらています 正面は「庫裡」です ↑「山門」を入り庫裡を通ると客殿を囲むように苔生す露地庭園がひらけます露地とは茶室に付随する庭との意で仏教では「清浄世界」を表し、幽玄を醸し出すと謂われているようです、茶の庭は美しさだけでなく用と美の適合を厳しく問われ造られています ↑大法院の庭園は、外露地・中露地・内露地の三段構成で造られ秀でたものとされています 苔生した東屋と石燈籠が趣きある「中露地」です ↑大小の庭石と蹲踞(ツクバイ)が庭を引き締めています「外露地」です ↑ 庭に面する「方丈」 (右)方丈の襖絵は、江戸中期の絵師・土方稲領(ヒジカタトウレイ)が描いた障壁画で、「叭叭鳥図(ハハチョウズ)」叭叭鳥は中国の鳥です、賑やかに囀る声が聞こえてきそうです ↑苔に幾何学模様の石畳みが引き立っている「内露地」です 信濃の国で「文武の誉れたぐいなし」と謳われ真田家に仕えた松代藩士「佐久間象山」 ここに眠っています (右)墓地への門 ↑「象山の墓」 幕末兵学者で西洋学問を知る一人者と謂われ、公武合体・開国論を唱え吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・坂本龍馬など多数の門弟を教え、のち松陰思想は高杉晋作・山県有朋・伊藤博文・木戸 孝允などに引き継がれ新しい日本の礎となります (写真は2011.10の公開時です) 一方で徳川家の義と恩顧に生き、藩としてやむなくこれと戦った会津藩士の一人山本覚馬(山本八重の兄、のち新島襄と同志社創立に関わります)もまた佐久間象山を師と仰いでいます、象山暗殺の場に一番最初に駆けつけ、のち勝海舟の頼みにより象山の遺児を養育したとされています ↑佐久間象山1864年攘夷派の浪士に暗殺され亡くなります (左)三条木屋町の三条小橋に立てられている「象山遭難の地道標」 北へ一丁とあります (右)木屋町御池高瀬川沿いに設えられた「遭難の碑」です ともに維新十傑・大村益次郎の碑と並び立てられています (写真共に2013.2です) -------------------------- 「二、趣きの異なる3つの庭園をもつ・東海庵」 ↑1484年妙心寺四派のうち由緒ある東海派の本庵として、尾張の高僧悟渓(ゴケイ)禅師を開山として建立された寺院です 甍はお城の屋根を見るようです元来禅の無は体(本体)、相(形相)、用(その働き)とされ、東海庵の3つの庭がそれを表現していると謂われます ↑妙心寺本坊の法堂の東、綺麗な白壁が続き山門があります(右)いつも門は閉じられている方丈に続く「唐門}です ↑山門正面の甍です ↑方丈の南面に広がる体の庭は、妙心寺本山の禅堂を借景に作庭された砂庭「白露地(ハクロジ)の庭」一木一草も無く、白砂を敷き詰めまっすぐの直線を一面に引いてある庭です ↑(続き)方丈前の庭は禅宗寺院で一番大事な処、100坪余の清浄感あふれる庭です (右)書院西庭の盆庭と呼ばれる相の庭「東海一連の庭」国の名勝・史跡に指定されています ↑(続き)不老不死の仙人が住むといわれる3つの島にそれぞれ一本の松が配され、海を隔て三尊石と礼拝石はじめ多くの石で理想境を表した枯山水庭園です、自然石を利用した大きい一文字手水鉢も庭に融け込んでいます ↑用の庭は方丈裏と書院の廊下に囲まれた七坪の空間に、波紋を描く白砂と七個の石を直線的に並べた書院式坪庭です ↑(続き)縦一直線ながら向きは八方(世界)を指し、砂紋は中央の要石から水紋のようにその八方に届いています (右)庭めぐりを終え寺内山門・鐘楼・方丈・をのぞみます ↑京都でもようやく梅の花ほころびました 2013.2.21 * 妙心寺は今迄に、 2012.4.28「砂紋に桜枝垂れる」で塔頭・退蔵院 2011.7.29「天井図八方睨みの龍」で本山・妙心寺 2011.6.28「儚し沙羅双樹の花」で塔頭・東林院 をそれぞれご紹介しています TOPページにも「早春の 梅 」UPしています ホームで見て下さい)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.02.23
コメント(121)
京都ええもん 「京呉服」 「京都・和装の集い」 上賀茂神社神前で行なわれたキモノ園遊会での若い女性による、踊るきものショー 艶やかな京呉服の紹介です (画像はすべて大きくなります) 若い女性の爽やかな笑顔で終わりました
2013.02.17
コメント(5)
. 京都守護職として幕末1862年から6年間、松平容保(かたもり)公率いる会津藩一千人が本陣を構えていた広さ4万坪の自然の要塞・丘陵地黒谷に広がるお寺で、またここは新撰組誕生の地でもあります 浄土宗・大本山 紫雲山・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) ご本尊は阿弥陀如来 白河禅房・くろ谷さんとも呼ばれています 法然上人は1175年修行していた比叡山を下り、ここ黒谷の丘陵地に初めての草庵(さび住い)を設けられたのが始まりです ↑「高麗門」 徳川幕府により、城郭構造へと造り替えられた折に設置された門と伝わります、門より諸堂域へはまだ先です ↑「山門」 応仁の乱で焼失後1860年に再建された三間三戸、二階二重門で高さ20m、後小松天皇よりの2mの勅額「浄土真宗最初門」が掲げられる重厚な門です (二年前より修復中で今見られません、この写真のみ2011年修復直前に写したもの) ↑ここまで石段で数十段、諸堂はまだ上です (左)「鐘楼」 直径1.3m重さ2tで1623年に建立されたものです (右)「阿弥陀堂」 1605年豊臣秀頼により再建された当山諸堂宇中最も古い建物です ↑阿弥陀堂に安置されている恵心僧都の最後の作と謂われるご本尊「阿弥陀如来像」 (右)天井に描かれた迫力ある「雲龍図」です (両写真は紹介資料より) ↑ 黒谷境内の石碑から「御影堂(ミエイドウ)」大殿(ダイデン)とも呼ばれます、法然上人75才時の肖像が安置されています ↑御影堂正面で、法然上人第24番霊場と洛陽33ヶ所第六番霊場の札が掛けられています (右)運慶の作と伝えられる中山文殊像で日本三文殊の一つとされています (写真は当寺資料より) ↑TOPの写真は御影堂まえ、ここは「大方丈」とそれをバックにした「鎧掛けの松」、源頼朝の忠臣熊谷次郎直実が若武者平敦盛を討ったのち思い悩み当寺で法然上人の教えをうけ、その折鎧をこの松に掛け出家を決意したとされている松です ↑大方丈の額「白河禅房」法然上人は師の叡空上人からこの名の禅房を与えられ、後光厳天皇より金戒の二字を賜り金戒光明寺と呼ばれる事となります (右)同大方丈の「虎の間」の屏風です、襖を移動すると4頭の虎が2頭に見える様描かれています (写真は紹介資料より) ↑「紫雲の庭」 法然上人の生涯と浄土宗の広がりを白川砂と杉苔、大小の石で周りの人々を表現したものとされています、上は比叡山修行時代を表すとされています ↑(左)浄土宗開宗から金戒光明寺の興隆を (右)上人幼少時代の美作の国 をそれぞれ表した庭と説明されています ↑紫雲の庭の北庭「ご縁のみち」と名付けられた庭で、いろいろ見方を教えてありますが、ここは日本庭園の代表的な三尊石組の庭です、左→が勢至菩薩(坐像)、右手前の←は観音菩薩(立像)、奥の←小さくみえる石は阿弥陀如来に見立て造られています 後方は大方丈です ↑「三重塔」(重文)文殊菩薩を本尊とし文殊塔とも呼ばれます、家康が熱心な浄土宗徒であった事から徳川家との結びつきは深く1633年二代将軍秀忠公の菩提を弔う為建立された塔です ↑(左)こちらには秀忠公正室のお江与の方(お江・浅井長政三女)の遺髪をが納められ祀られています、三代家光公の乳母春日局により建立されたと記されています (右)三重塔北にある塔頭「西雲院(サイウンイン)」のお堂におかれた紫雲石、法然上人比叡より下りこの黒谷で最初に腰かけた石で、直後紫雲が一面にたなびき天より光明がさしたとの紫雲山・金戒光明寺の謂れが残されています ↑山の北東に設けられた300坪もの「会津藩殉難者墓地」、会津藩が京都守護職の役目を担ってより6年の間に尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末の京都、その後鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士を合せ352名の会津藩士が祀られています ↑(左)「殉難者供養塔」 それぞれ藩士が遠く想いを馳せた鶴ヶ城とふるさとの山々の写真が慰霊を慰めるべく花と共に供されていました (右)整然とお墓が並びます、毎年6月京都会津会の主催の下地元会津より大勢の方が来京法要が営まれています ↑(左)戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いを経て母国会津で新政府軍に下った会津藩、その中に一緒に戦った「幕末のジャンヌダルク」山本八重 鶴ヶ城明け渡しの前夜涙ながら無念の想いを 「明日の夜は いずくの誰か眺むらむ なれし御城に 残す月影」とお城の蔵の壁に書き残した、この軸は金戒光明寺に残されている八重84才自筆達筆の書です、サインは八重子(すべて自著のサインはこの名でされています、写真は紹介資料より) (右)戦いのあと3年後、奇跡にも生きていた兄覚馬をたより京都へ出て同志社を創設したクリスチャン新島襄と出会う、自らもクリスチャンとなり1,867年襄と再婚30才、鉄砲から知識人へと新島八重、夫をしてハンサムな生き方と云わしめた同志社英学校(いまの同志社大・今出川学舎)の創立に関わる、上の写真は晩年二人で過ごした御所東側の旧邸です (右下)夫・襄は1890年46才で死去、同志社は兄覚馬が引き継ぎ自らは裏千家茶道、日本赤十字社活動を経て日清戦争時には篤志看護婦として活躍、「日本のナイチンゲール」と呼ばれたが、終始「ならぬことは ならぬもの」の姿勢貫いた「ハンサムウーマン」・「同志社の母」は87才上の自宅で生涯を閉じ、ここより東2k東山・若王子山の山上に夫・襄、兄・山本覚馬夫婦と共に眠る ------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.02.02
コメント(133)
. ★ 京都の初詣 六神社の神前です、 .(ただ写真は今年の初詣ではありません、ご了承ください) ▼「伏見稲荷大社」 商売繁盛・家内安全・五穀豊穣・国土安穏...等のご利益を授けられる 稲荷大神を祀り和銅年間710年に創建されたお社で、全国3万社に及ぶお稲荷さんの總本宮、また昨年三が日全国第四位の278万人のお詣りがあった関西最大の初詣スポットです ↓豊臣秀吉寄進の朱塗りの「楼門」より入ります ↓本殿に続く「拝殿」です 通常はこちらよりお詣りします ▼「八坂神社」 ご利益は 開運成就・災厄退散・諸芸上達・家内安全....等 「祇園さん」という呼び名で親しまれています、656年祇園社として創建、素戔嗚尊(スサノオノミコト)ほか八柱を祀る、三が日は西楼門からの四条通りを埋め尽くす人並み100万人で埋まります ↓「西楼門」四条通から八坂神社の表玄関の楼門です ↓「本殿」前です 三大祭の一「祇園祭り」は当神社夏の大祭です ▼「平安神宮」 ご利益・・・開運招福・無病息災・家内安全.....など 平安遷都時の桓武天皇と最期の孝明天皇を祀り、遷都1100年を記念して1895年(明治28年)に創建、京都の護り神として京都市民の力で平安京大極殿を5/8の大きさで再現した姿です ↓正面「應天門」です ↓大極殿を模した朱塗りの「外拝殿」通常はこちらよりお詣りです ▼「北野天満宮」 ご利益・・・学問、合格成就・開運招福・良縁成就...等 学問の神様菅原道真公を祀り、福岡・大宰府天満宮と共に学業成就を願う全国の受験生の願いを受け止める「天神さん」、947年の創立全国一万社の總本宮です ↓力強い天満宮の扁額がかかる「三光門(中門)」から入ります ↓「拝殿」前です、うしろ本殿に続きます ▼「晴明神社」 ご利益・・・厄除け・災厄、方除け、魔除け・無病息災・商売繁盛...等 陰陽道(おんみょうどう)を説く・安倍晴明公を祀り、1007年創建の陰陽師伝説が甦る話題のスポットで、一条戻り橋の安倍晴明公屋敷跡に鎮座します ↓陰陽道の護符である五芒星の提灯と石の鳥居をくぐり境内へ ↓「拝殿ついで本殿」です いま世にある暦歴、吉兆・占法は陰陽道と共にこの時期を起源とされています ▼「今宮神社」 ご利益・・・良縁開運・健康長寿・疫病退治・立身出世...等 994年大己貴命(オオナムチノミコト)を祀り疫病の退散を願い創建された神社ですが、江戸時代京都西陣の八百屋の娘お玉から五代将軍綱吉の生母となった桂昌院の玉の輿伝説から「玉の輿神社」とも呼ばれています ↓朱塗りの「楼門」です 疫病を鎮めた伝説からは今も「やすらい祭り」として地域挙げての例祭がおこなわれています ↓「拝殿&本殿」前です 私事ですが自分の婚礼はこちらの神前でお願いしました 京都のお正月三ヶ日の初詣、ご覧の通り沢山の人で各神社賑わいを見せます、 ご来京の折お詣りいただく神社ありましたでしょうか?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.01.01
コメント(196)
. まだ暫く休養させて頂きます ★京都今年の紅葉です せめて一度だけでもと思い、近くの見頃の紅葉三景ご紹介します あれこれ説明を加えられず写真のみですみません、それぞれの雰囲気を感じ取って頂ければ幸いです。 (すべて拡大します、各所2枚です) ↑広沢ノ池の畔にある「京都平安郷(ヘイアンキョウ)」 箱根の「箱根美術館」、熱海の「MOA美術館」を所有する世界救世教の京都施設です、通常は非公開で春・秋に日を限定一般に開放されています 「平安郷の紅葉」はこちらです ↑8月にご紹介した鷹峯「源光庵」 悟りの窓・迷いの窓の紅葉です 前訪問の折こちらの紅葉を是非ご紹介したく思い伺って来ました 「源光庵の紅葉」はこちらです 2012.8.31前記事「迷いの窓・悟りの窓源光庵」のUPです ↑「北野天満宮・もみじ苑」御土居の紅葉です 豊臣秀吉が築いた洛中を一円とする史跡「御土居」、現存して視られる貴重な遺跡を彩ります 「御土居の紅葉」はこちらです 2012.3.3前記事「梅の香ほんのり北野天満宮」のUPです (TOPページの「花いろいろ」UP、今京都名の薔薇3です ホームで見て下さい)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.11.27
コメント(192)
. 北野天満宮・もみじ苑 御土居の紅葉 「此の度はぬさもとりあへず手向山 もみじの錦神のまにまに」ご祭神菅原道真公のお歌通り、御縁のもみじ250本が色とりどりに彩り錦秋の世界へ導いてくれます (写真はすべて拡大します)
2012.11.27
コメント(5)
. 広沢ノ池の西畔にある「京都平安郷(ヘイアンキョウ)」 歴史的風土保存地区に延べ3万坪に及び嵯峨野の美観と風情が溢れ、四季の花苑や茶室があちこちに設えられた広大な施設です (写真はすべて拡大します)
2012.11.26
コメント(2)
. 鷹峯・源光庵 静かで青葉が映えて美しかった寺内、紅葉の見事さは想像を超えていました、彩りと共に人も溢れていましたが悟りの窓に再会してきました (写真はすべて拡大します)
2012.11.26
コメント(2)
. いま暫く休養させて頂いております ★今年の紅葉情報です 京都の紅葉お尋ねを頂いていますのでご一報を、昨年は随分遅い目でしたが今年は例年並みで進んでいます、早い所では今週末17~18日で五分から七分充分堪能頂けると思います、全般には23~25日の連休で一番の見頃を迎える所多いと思いますが場所によりでしょう(ここ暫くの冷え込みの具合で変わりますが) お尋ねなどありましたら、コメントかメッセージへどうぞ お気を付けてお越しください 記事はそのままで引き続き過去のUP記事の纏めです、昨秋の紅葉名所五景(うち四ヶ所はUPしています) 京都にお見えのご参考になれば幸いです (すべて拡大します、各所2枚です) ↑西山・「光明寺」 紅く染まる西山連峰の麓、もみじの参道、女人坂の紅葉は特に見事でよく知られています 昨年写真の準備はしましたがUPできていなかった紅葉の名所です、寺内の写真次の頁でご覧下さい 「もみじのトンネル・光明寺」へ ↑大原・「三千院」 洛北東の山中にあり京都の隠れ里と呼ばれ、苔むす庭と生い茂る樹林に映える紅葉が鮮やかです 2011.12.3 「苔生す庭にもみじ降る 三千院」でUPしています ↑栂尾・「高山寺」(とがのお こうざんじ) 洛北清滝川の清流に臨む山腹に老木に覆われた紅葉、再興・明恵上人「あかあかや あかあかあかや・・・」の詩は高山寺域の紅葉を云い得て妙です 2011.11.26 「日出でて先ず照らす高山の寺」でUPしています ↑東山・「永観堂禅林寺」 東山のすそ野に広がる紅葉は、まるで極楽のようと例えられ「もみじの永観堂」と称されています、また「岩垣紅葉」はここ永観堂七不思議の一つとされています 2011.12.17 「錦に染まる東山・永観堂」でUPしています ↑嵐山・「天龍寺」 嵐山、亀山を借景にした「曹源池(そうげんち)庭園」の紅葉は有名で、錦に染まる木々の彩は池にも映えて見事な景観を見せてくれます 2011.12.10 「もみじ彩る名勝嵐山・天龍寺」でUPしています デュークエイセス 女ひとり 1番.三千院、2番.高山寺です 昨年の京都の紅葉は少し遅い目でした、写真はすべてUPした日付けより一週間前の撮影です、今年の予想ではもう少し早まりそう(?)です (TOPページの「花いろいろ」UP、今京都名の薔薇2です ホームで見て下さい)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.11.13
コメント(107)
. いま暫く休養させて頂いております ご心配をお掛けして申し訳ありません、まだ日常新しい記事の写真など準備が出来ないでおります、今暫くじっとしてと思っています、よろしくお願いします 引き続き過去のUP記事の纏めです、今秋の京都の紅葉見頃はもう少し先になりますが、昨秋の紅葉名所五景(うち四ヶ所はUPしています)ご覧下さい、京都にお見えのご参考になれば幸いです (すべて拡大します、各所2枚です) ↑西山・「光明寺」 紅く染まる西山連峰の麓、もみじの参道、女人坂の紅葉は特に見事でよく知られています 昨年写真の準備はしましたがUPできていなかった紅葉の名所です、寺内の写真次の頁でご覧下さい 「もみじのトンネル・光明寺」へ ↑大原・「三千院」 洛北東の山中にあり京都の隠れ里と呼ばれ、苔むす庭と生い茂る樹林に映える紅葉が鮮やかです 2011.12.3 「苔生す庭にもみじ降る 三千院」でUPしています ↑栂尾・「高山寺」(とがのお こうざんじ) 洛北清滝川の清流に臨む山腹に老木に覆われた紅葉、再興・明恵上人「あかあかや あかあかあかや・・・」の詩は高山寺域の紅葉を云い得て妙です 2011.11.26 「日出でて先ず照らす高山の寺」でUPしています ↑東山・「永観堂禅林寺」 東山のすそ野に広がる紅葉は、まるで極楽のようと例えられ「もみじの永観堂」と称されています、また「岩垣紅葉」はここ永観堂七不思議の一つとされています 2011.12.17 「錦に染まる東山・永観堂」でUPしています ↑嵐山・「天龍寺」 嵐山、亀山を借景にした「曹源池(そうげんち)庭園」の紅葉は有名で、錦に染まる木々の彩は池にも映えて見事な景観を見せてくれます 2011.12.10 「もみじ彩る名勝嵐山・天龍寺」でUPしています デュークエイセス 女ひとり 1番.三千院、2番.高山寺です 昨年の京都の紅葉は少し遅い目でした、写真はすべてUPした日付けより一週間前の撮影です、今年の予想ではもう少し早まりそう(?)です (TOPページの「花いろいろ」UP、今京都名の薔薇2です ホームで見て下さい)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.11.02
コメント(107)
. 光明寺の紅葉です (23年秋・写真はすべて拡大します) 光明寺「総門」前です 表参道「女人坂」のトンネル TOPの写真もこの坂上方です 本堂「御影堂(みえどう)」正面前です 「鎮守社」前です 色合いが綺麗でした 「釈迦堂」の屋根と西山を望む 御影堂と釈迦堂を結ぶ「回廊」から 女人坂ともみじの参道の岐点です 薬医門前の「もみじの参道」 まだ少し彩り浅く、見頃には上一面真っ赤に染まるトンネルとなります 尚、前紹介ページは「御本廟」前の色とりどりの鮮やかな紅葉 と「御影堂」側面の赤晴れやかなもみじ です
2012.11.02
コメント(3)
. いま暫く休養させて頂きます ご心配をお掛けして申し訳ありません、まだ日常新しい記事の写真など準備が出来ないでおります、もう暫く静養してと思っています、よろしくお願いします 過去にUPさせて頂いた中から関連します記事を纏めました、今回「京都の五重塔」です、写真など見て頂ければ幸甚です。 (すべて拡大します) 「東寺」 寛永21年(1644年)徳川家光寄進により再建された、高さ55mで京都で一番高い五重塔です 2012.2.25 「弘法さん、お大師様の寺・東寺」でUPしています 「法観寺」 通称八坂の塔です 室町時代永享12年(1440年)足利義教再建によるもので、高さ46m京都祇園に欠かせない風景です 2011.8.1 「東山のシンボル八坂の塔・法観寺」でUPしています 「醍醐寺」 天暦5年(951年)醍醐天皇追悼のため朱雀天皇により起工された京都最古の塔で高さ38m、相輪部が塔の1/3あります 2012.4.14 「醍醐の花見・醍醐寺」にてUPしています 「仁和寺」 寛永14年(1637年)東寺と同じく徳川家光寄進による塔で高さ33m、屋根の大きさが各層同一の安定して見える塔です 2012.8.17 「緑あふれる御室御所・仁和寺」にてUPしています (TOPページの「花いろいろ」UP、今京都名の薔薇です ホームで見て下さい)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.10.20
コメント(128)
.いつも応援 有難うございます先日、少し体調を崩しブログの更新ままなりません、申し訳ありませんが暫く休養させて頂きます今回「相国寺」の予定でしたが、説明が伴わず取り止めさせて頂きました。入院等重篤な事はありませんので、回復これ努め復帰致したく思っています、その節にはまた宜しくお願い申し上げます。 山科・大乗寺の「酔芙蓉」ですあさ白く花ひらき、日の昇るにつれ頬を染め、日中には優しいピンクに化粧します、そして日暮れ夜中には赤く染まって花を閉じます 咲いた花一つ一つすべて異なる表情を見せてくれます (写真の中赤く閉じているのは昨日咲いた花です) 写真はすべて拡大して見て頂けます大乗寺 「市営地下鉄 御陵(みささぎ)駅」下車 西南へ徒歩15分------------------------被災地に届けよう!------------------------ お尋ねなどありましたら、下記メッセージにお願いします[メッセージはこちらから]
2012.10.03
コメント(133)
. 臨済宗/南禅寺派 金地院(こんちいん) 南禅寺の塔頭です 1400年代足利義持の帰依を得て、洛北・鷹が峰に創建された禅宗寺院でしたが、1605年以心崇伝(いしんすうでん・金地院崇伝)和尚が南禅寺塔頭の現地に移建した寺院です 崇伝和尚は、徳川家康・秀忠・家光の三代に亘り親任され幕議に参画、行政を始め天下僧録伺(そうろくし)となり社寺の諸事を掌り、「黒衣の宰相(こくえのさいしょう)」と呼ばれ江戸幕府の基礎の確立に貢献した名僧と謂われています 金地院崇伝、東照宮を含む諸堂の建築並びに本山南禅寺の伽藍造営にも尽力しています ↑小堀遠州により大規模に再建された方丈庭園「鶴亀の庭」、北側の大方丈の内より見た風景は座観式額縁庭園として名高い庭で、国の特別名勝に指定されています ↑南禅寺境内に面する「表門」です、ここに塔頭金地院ありとする門でしょう 金地院には一つの寺院では珍しい6つの門が設えられています、それぞれに意図あって造られています ↑「大門」 あらためて寺内に入る玄関門です (右)「明智門」(唐門) 1582年明智光秀が母の菩提の為に、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立された門で後年当寺に移されたものです 大徳寺は豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行った寺院だった経緯からでしょう 方丈庭園と弁天池への入り口門です ↑「庫裡」 奥に書院・茶室・方丈に繋がっています (右)「弁天池」 今睡蓮の葉一面の池、中島に鎮守堂があり弁財天が祀られています、二枚の大きい石橋は岡山藩池田公寄進に寄るものです ↑「楼門」 東照宮の玄関門で拝・本殿はこの真っ直ぐ奥の小高い所に造られ、ともに向きは真東 江戸城を向いて建てられています 寺内此処からは神社です 公道に面し正面よりは入れませんが、門両脇には家康公と崇伝翁の像が置かれています 右下は上に掛る東照宮の扁額です ↑楼門から東照宮へ昼なお暗い古木に覆われた長い参道です (右)東照宮の建物すべて、当然ですが三つ葉葵紋瓦です ↑東照宮「拝殿」 1628年に崇伝和尚が徳川家康遺訓により、家康の遺髪と念持仏とを祀り造営されたもので、当時諸堂が完備されてこれより10年前に完成された日光・東照宮に比すべきものだったと謂われています 右側見えるのが東照宮「御成門(おなりもん)」で貴人の参拝時に通られた門です、又TOPページは東照宮「御透門(おすかしもん)」一般に東照宮参拝時に通る門です ↑左拝殿に続く「石之間と本殿」(重文)です、拝殿共々京都に遺る珍しい権現造り(拝殿と本殿を石之間等幣殿で結ぶ造り)で建てられています (右)拝殿内に掲げられている三十六歌仙の額は江戸時代の宮廷絵師・土佐光起(とさみつおき)の筆です ↑拝殿の「天井鳴龍」 狩野探幽筆の初期の傑作と謂われています、妙心寺の法堂(昨7・29UP)、泉涌寺の仏殿も又探幽の作になります (寺内資料より) ↑左側縁の広い「大方丈」(本堂・重文) 間口26m奥行き20mの書院造りこけら葺きの建物で、右側中央に白砂が敷かれる方丈南庭・鶴亀の庭です ↑方丈前です 1611年崇伝老師が徳川家光より伏見桃山城の一部を賜り移建したもので、仏間にはご本尊地蔵菩薩(鎌倉時代仏師・快慶作)を祀る、上に掛る額は「布金道場(ふきんどうじょう)」 山岡鉄舟(鉄太郎)の筆(下にUP)です (右)方丈内の襖絵 狩野探幽筆(資料より) ↑書院内の長谷川等伯筆「猿猴捉月図(えんこうそくげつず)」(重文)水面の月を捉えようと手を伸ばす猿の姿を表したものです (右)茶室「八窓席」(重文) 茶人でもあった小堀遠州の作、三畳台目の席で窓が八つあった処から名付けられたが、修築でいま六つのみです、貴人座の扱いで京都三名席の一つとして名高い茶席です (二枚とも資料より) ↑「鶴亀の庭」 1632年崇伝翁が徳川家光の為に、作事奉行を勤める小堀遠州に命じ5年をかけ作庭されたもので、桃山時代の豪壮な意匠が見られる蓬莱式枯山水庭園で、1500坪の広さの中に常緑樹と苔・石組で山や森・島をつくり、大海を表わす白砂と合わせ構成されています 庭西側より全体を眺めます ↑庭西側より「鶴島」です 左の鶴首を前に鶴が巣篭り中の姿を現し、松は青々として鶴の羽のように華やかに茂っています ↑庭中央は群仙島を象り、仙人が住むと謂われる蓬莱山を表した三尊石の石組みが配され、前の平らな石(3畳あります)は東照宮への祈りを表す遙拝石です、また奥のこんもりした木々と刈り込みは、幾重にも折り重なる深山幽谷の光景を模したものです この上の東照宮いま木が生い茂り望めません ↑「亀島」 右の亀頭石を前にいま正に海に潜ろうとする亀の姿を表したものとされています 一番左亀尾石で曲がりくねった柏槇(びゃくしん)が植えられ鶴島とは異なった雰囲気を醸し出しています ↑庭から東を望みます、手前の門は明智門の唐様屋根で背後は東山の山並みです 東照宮に家康の遺訓が紹介されていました 「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」 と。 (本山・南禅寺は紅葉の時期にUPの予定です) (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今芙蓉です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「南禅寺・永観堂前」下車 徒歩7分金地院関連HP URL---http://everkyoto.web.fc2.com/report665.html (金地院HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.09.29
コメント(102)
. 河井寛次郎(かわいかんじろう) 1890年~1966年[昭41没] 日本の陶芸家 陶芸のほか彫刻・詩書・随筆・金工等の分野でも優れた作品を残しています 島根県安来町(市)の大工の家に生れ、現東京工業大学窒業科卒後陶芸家に師事する事なく、京都の陶磁器試験場で2年後輩の濱田庄司と共に、一万種以上の釉薬や中国陶磁等の研究を行い、その後五代目清水六兵衛(現は八代)の技術顧問などを経て自らの陶作活動を開始する ↑1937年自ら設計した居宅兼仕事場、囲炉裏(イロリ)や黒光りする柱・梁、丸椅子は臼を切取り自らの作、心地よい板間で置かれる調度品は自らのデザインの物が多く、整然と並び独特の雰囲気が漂っています ↑表造りは、べんがら格子に竹矢来の京町屋造りで、現在の河井寛次郎記念館です 大表札は棟方志功筆(世界の板画家)、黒田辰秋作彫板(木・漆芸家)です 二人は師と仰ぐ寛次郎亡きあとこの工房に掲げた ↑「居間」 囲炉裏の自在鉤(カギ)は自身のデザインで、戸棚には屋根が付けられ木像が置かれています 寛次郎当初は中国・朝鮮の技法に倣い華やかな作品を発表一躍注目を集めるが、世評に反し自ら疑問を感じ 柳宗悦(ムネヨシ・美術思想家)提唱する民芸運動に濱田庄司らと共に展開、古典や飾り物でなく日常使われる「用の美」や伝統を受け継いだ無名の工人が造り出した物の中こそ健全な美しさがある、そんな民芸を見い出しその価値を広めようとの活動に入ります 棟方志功,黒田辰秋,バーナード・リーチ(英国の陶芸家)もまたこの日本民芸運動に参加しています 京都・清水坂に在って、京焼・清水焼のブランドに背を向け、釉薬を駆使した生活陶器の制作を目標とし独自の世界を築き上げます、この頃より寛次郎は作家としての銘を作品に入れていません 数多くの名品を生み、1937年パリの万国博覧会でまた1957年ミラノの国際工芸展でそれぞれグランプリを受賞するが、国内での賞は一切を辞退 文化勲章・人間国宝・芸術院会員についても再三の推挙も固辞し、無位無冠の生涯一陶工を貫きました ↑工房新築の際に柳宗悦より贈られた振子時計、以来75年時を刻んでいます (右)同じく濱田庄司が贈った箱階段、京町屋らしい設えで手すりはなく下がる木駒紐を掴んで二階へ上ります ↑二階寛次郎の写真が飾られている「書斎」です、自作の大臼テーブルと椅子、上のランプシェード(次室も)も自らのデザインです (右)上段の間「客間」です 自作の木彫像(奥)と木彫面(手前)が飾られています ↑「中庭」で右側が茶室・陶房・素焼窯、奥が登り窯です (右)陶房内 作品の準備・作業場です ↑「蹴(ケ)ロクロ」が二基並ぶ陶房です 素朴で重厚な形状とそれを彩る色鮮やかな釉薬、躍動感溢れる独自の文様が光る寛次郎作品、ここから生まれました ↑素焼き釜です、造られた器は粘土を乾燥させたのち、ここで600~700℃で8時間ほど焼かれます ↑登り窯「鐘渓窯(ショウケイガマ)」30才の折清水六兵衛より譲り受けて築いた巨大な登り窯です、五条坂の斜面を利用し造られています ↑登り窯焚口です、火は通常二昼夜2000束の割り木で燃やされます (右)窯の中、素焼きされたのち釉薬をかけた器が入り、この炉内温度1350℃で焼かれます ↑「釉の河井」と呼ばれた寛次郎数多くの釉薬や造形の試し片が残されています (右)寛次郎自らの想いをたくさんの色紙・ノートに残しています 描いた時期は離れていますが想いは近い表現「手考足思」・「手讀足解」、ロクロを廻し作陶の折の想いでしょうか、釉壺と共に ↑寛次郎の作品から (左)晩年の作「三色打薬(ウチグスリ)茶碗」(日本民芸館所蔵・資料より) (右)「三彩果虫陶筥(サンサイ カチュウ トウバコ)」32才の作品(寛次郎記念館所蔵) ↑(左)「三色釉扁壷(サンショク ユウ ヘンコ)」38才の作(足立美術館所蔵・資料より) (右)「辰砂丸文角瓶(シンシャ マルモン カクビン)」42才の作品です(日本民芸館所蔵・資料より) 寛次郎の作品当記念館はもとより、京都国立博物館・故郷島根/足立美術館・倉敷/大原美術館・東京/駒場/日本民芸館(日本民芸運動の拠点)等に多数寄託され、常設或るいは時を見て特別展示されています ↑木彫りの作品「合掌」(資料より写)合わせられた両手に大事に護られている丸い玉、両手は火をも顕わしているようです (右)木彫「手」で手に花の蕾を持ち、片方丸い玉です(現物) ↑河井寛次郎 丸い石に寄り添う晩年の写真(記念館資料より)です 中庭に置かれた丸い石、1937年工房建築時に故郷安来の旧友連が燈籠を記念に贈ろうとの話の折、是非にと云って造って貰いうけた石で、この丸い石寛次郎の創作活動にとって「いのち」を表現したもののようです 上二つの写真の丸い玉はやはり「いのち」と置き換えれば意図するところ見えてきます 彼の随筆「いのちの窓」の中の一文に 「道を歩かない人 歩いた跡が道になる人」 先人柳宗悦への献辞として詠まれたものですが、振り返れば寛次郎の立派な足跡そのものでしょう (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今芙蓉に変わりました ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「東山五条」下車 徒歩5分河井寛次郎記念館HP URL---http://www.kanjiro.jp/------------------------------------------------------------------------
2012.09.22
コメント(111)
. 日蓮宗 大虚山(だいきょざん)・光悦寺 1615年桃山・江戸初期に、代々稼業とし現在も続く刀剣の砥ぎ・鑑定から書画や漆芸・作陶・蒔絵・彫刻等多岐の分野で独自の芸境を展開した芸術家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は徳川家康公よりこの鷹ヶ峰の地を拝領し、一族及び工匠らと移住し光悦村として芸術郷を築きます 現在この付近一帯は鷹ヶ峰光悦町と名付けられ、鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰、TOP画像です)を望む景勝の地です 光悦は本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けていたが、没後自ら深く信仰し法華経寺院の発願をしていた経由から、日蓮宗本法寺の日慈上人を開山に迎え光悦寺に改められます ↑玄関らしきものはなく、趣ある細長い参道(元々寺でなく住居への緑溢れる通路でした)が奥深く続きます 寺内も含めこのお寺らしくない参道は光悦寺の見所の一つです 石碑は寺名でなく「本阿弥光悦翁𦾔蹟」とあります ↑少し進むとようやく寺らしい簡易な門が造られ通路まだ先へ続きます ↑暫く行くと出会う建物、珍しい趣ある茅葺きの鐘堂です 元禄3年(1690年)鋳造とあります ↑境内に七棟設けられている茶室への待ち合い処と庫裡本坊(右)です ↑「本堂」右下の扁額「光悦寺」は開山日慈上人の筆です (右)中には入れませんが本尊十界曼荼羅を安置し、宗祖・日蓮上人がお祀りされています ↑鷲ヶ峰を背にして庭のほぼ中央に位置する「光悦寺垣」です、光悦翁の創作と謂われる竹で作られた透かし垣で、光悦寺の有名な遺跡です ↑みどりの苔と楓の庭に溶け込んでいる光悦寺垣、長さ18mのもので枠を半月状に曲げてその中に菱形の格子を組んで作られ、徐々に高さの変わる独特のもので牛が臥せている姿に似ているところから臥牛垣(ねうしかき)とも呼ばれています ↑茶室「大虚庵(たいきょあん)」 光悦翁が居室として使っていた処でその名より寺号大虚山(だいきょざんと読まれます)とされたもので、翁はここで80年の生涯を終えます、切妻造柿葺の建物で大正の時代に入り五帖台目の茶席に改められています 茶室は光悦寺垣に面し建てられていて、右は建物正面です ↑もう今迄の写真からお気付きと思いますが、境内に溢れる楓の葉は先の方から色ずいて、一足早く秋の気配が感じられます これより下は、境内に点在する茶席とそれを巡るきれいな参道をご覧下さい ↑「三巴亭(さんはてい)」 数寄屋造りの八畳二室と水屋からなる茶席で、一室は光悦堂と称し仏壇に光悦翁の木造が安置されています ↑「了寂軒(りょうじゃくけん)」 鷲ヶ峰の借景が綺麗な茶席で、常題目堂のあった処と謂われ又この名光悦の戒名にもつけられています、前庭のドウダンツツジもまた有名です ↑「本阿弥庵」 一族の名が付いた茶席で、境内一番南にありはるかに京都市内を望める処に建てられています (右)本阿弥庵前に置かれた石燈籠と蹲踞(つくばい)です 茶室これ以外に「徳友庵」「騎牛庵(きぎゅうあん)」「自得庵」が点在しています ↑「本阿弥光悦墓碑」 境内の木々の覆われた一角に静かに立っています 「了寂院光悦日豫(ヨ)居士」と刻まれています (右)境内を散策して見上げると、色ずき空に綺麗に映えていました 本阿弥光悦は茶道に於ても一流一派に偏することなく、古田織部や織田有楽斎にも教えをうけ、千宗旦とも深く交り茶道の奥義を極めたと謂われています ↑今回の一枚、長く続く菱形に敷かれた石畳と緑溢れる参道です 境内巡ってみるとお寺と云うより「山荘」と云う風情が広がり、参道の雰囲気はまた「茶席への垣の小道」と呼ぶのが似合っています (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今百日紅です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「鷹ヶ峰源光庵前」下車 すぐ光悦寺関連HP URL---http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/koetsu-ji.htm (光悦寺HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 ファブリックフィールド 京都みすや忠兵衛・手芸材料 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.09.15
コメント(115)
. 北山杉 上下同太の円直材で、緻密で堅く又節がなく光沢もあり床柱として最適の材質を誇り、又和風建築は勿論様々な現代建築にも調和し多種用途に使用され、京都の銘木として伝統工芸品に指定されています 北山杉のふる里 京北町(けいほくちょう)・中川 京都市街の西北約20Kmに位置して現在は京都市に編入され北区・中川と呼ばれますが、隣接する小野郷(おのごう)と梅ヶ畑とともに御所に産物を献上する「供御人(くごにん)」としての地位を授かり古来より北山丸太の生産・販売に携わってきました 室町時代1390年代からここに産する北山杉の皮をむき加工してつくられた北山丸太、千利休により完成された「茶の湯」文化を支える茶室や数寄屋造りの建築用材として頻繁に用いられるようになり、今日まで600年余の歴史を刻んできています ↑前回記事の鷹ヶ峰・源光庵より北へ約4Kmの「京見峠」からの京都市内の展望です、右手の尖った先の木の少し上ミギ京都タワーが見えます 今はこの景色森林保護の為木が生い茂り見えません、この写真7年前のものです 正面に見えるのは東山です ↑先の峠道でも行けますが、普通は紅葉で知られる高雄を経て周山街道を中川に入ります ここから美しい北山杉の山と杉林の景色が続きます ↑清滝川に沿って杉山が続きます、谷あいの眺めです ↑中川地区の地域一体の地形は急斜面で険しく雪深い事で知られています、この厳しい自然条件の中で北山杉は育てられています ↑間伐により間引きされ見事に立ち並ぶ杉林です 北山丸太、杉の木の皮を剥いだ丸太のまま人目につく処で用いられます、フシやキズがあっては磨丸太になりません、北山地方では緻密な育林技が伝統として代々引き継がれています ↑空に向かい真っ直ぐに伸びる北山杉 30~40年かけてやっと成木となります この真っ直ぐな丸太を作るため、現在の北山杉すべて挿し木(さしき)から育成されます 杉はまた太り過ぎないよう枝を落とし光合成を抑える一方、細くならない様枝打ちには細心の注意が払われます ↑最も重要な技術「枝打ち」、植林から伐採までに何度となく繰り返し鋭利なナタやカマを用い、また木から木へ飛び移りながらの作業は北山杉の伝統技術です (右)「本仕込み」という工程で、伐採のあと山の斜面での「皮剥ぎ」及び「現場乾燥」をおこないます (両方の写真は北山杉(協)資料より) このあと、小剥ぎという点検工程の後、冬の厳しい寒さの中冷たい清滝川の砂での「磨き」を経て、初めて光沢ある丸太となります ↑「天日乾燥」一週間ほど天日で乾かした後、さらに倉庫の中で半年から一年乾燥させて漸く北山磨丸太完成です (写真・資料より) ↑完成品です *右より「磨丸太」 (北山丸太の基本の品種です) *2本目「天然ちりめん絞り丸太」 (天然絞りのうち最も希少な品種です) *次の2本は「天然出絞丸太」(自然に絞り様の凹凸のある品種で模様一本毎に異なります) *左端は「人造絞丸太」(伐採2年程前に人工的に絞り模様をつけた一番多い品種です) (右)北山杉を使った和風会議室 丸太を用いた床の間と北山垂木(タルキ)用材を使った天井照明・障子、杉材のテーブル・行燈等で造られた部屋です ↑杉丸太断面です、これで約60年のもので床柱用でなく太く育てたものです (右)丸太を使った和風照明二灯、他にも杉材を使った製品沢山あります ↑「台杉」元来の北山杉の育て方です、急峻な山で効率よく育てる方法として編み出された山人の創意工夫の産物と謂われています 根から「取り木」と呼ばれる基本の台を創り、それから垂直に枝を伸ばし「立ち木」に仕立て育てます、30~40年かけて成木とし伐採し繰り返し立ち木を育てる方式です 生産量の変化から一本皆伐方式へ変わりましたが、最近この台杉方式が見直されて来ています また台杉、観賞用としての需要が増し和風の庭園や美術館、寺院、ゴルフ場などにもよく使われています ↑ 最後に 急斜面に綺麗に並ぶ北山杉です 川端康成作「古都」はここ北山杉の里が舞台となった作品です、映画・TVでも数多く取り上げられてきています、また東山魁夷画伯「北山初雪」は川端康成ノーベル賞受賞時にお祝いに贈られた雪の北山杉を描いた作品です (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今夾竹桃(キョウチクトウ)です ホームで見て下さい)........................................................................JRバス 京都駅発京北・周山線「菩提道」以北「小野郷」までの各地域北山杉関連HP URL---http://www.kyotokitayamamaruta.com/------------------------------------------------------------------------
2012.09.08
コメント(117)
. 曹洞宗/ 鷹峰山 寶樹林・源光庵(ようほうざん ほうじゅりん・げんこうあん) 1346年臨済宗・大徳寺の二代目徹翁(てつおう)禅師により開創されましたが、1694年加賀・大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師が当寺に住持され、曹洞宗の復古を願い改宗された、ここから「源光庵」と共に別名「復古禅林」とも呼ばれます ↑本堂内 源光庵の名を広めた円い「悟りの窓」と四角の「迷いの窓」です 心静かに座り庭園を眺め禅の境地の一端に触れます ↑源光庵 細い参道に導かれ簡素な玄関門を潜ります (右)参道が続きます 右手は北山杉です、ここ鷹ヶ峰(地名の表示)より北へ京見峠を越えると北山杉のふるさと京北(けいほく)・中川です ↑同じ石畳と両側の北山杉の正面は「楼門」です、左右に円窓を持った珍しい造りで心に落ち着きを感じさせる門です ↑楼門には改宗当時の宗旨「復古禅林」の額が掲げられています (右)「本堂」 1694年改宗当初に卍山禅師により創建されたものです ↑広い本堂内東西に見通しています (右)ご本尊は釈迦牟尼仏、脇侍(きょうじ)に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)の両尊者を祀り、西に霊芝(れいし)観世音が安置されています、1681年卍山禅師が京都・宇治田原の山中にて感得された自然の霊芝観音像で宮中にて供養され祀られています ↑源光庵のもう一つの見所、本堂天井全体に張られている「血天井」です、関が原合戦の前哨戦"伏見城の戦い"で徳川家忠臣の鳥居元忠1800 の軍勢が4万とも謂われた石田三成軍に伏見城を攻め落とされ、残る元忠以下380人が自刃した、血で染まった床を徳川家と懇意であった卍山禅師が手厚く供養し、その霊を慰める為ここ源光庵天井に張ったものです 他にも徳川家と繋がり深い東山・養源院(昨年8月22日にUPしています)ほか三ヶ寺の天井に残されています (鮮明な跡が見られる所は避けています) (右)鳥居元忠一党の位牌が手厚く祀られています ↑「迷いの窓」 迷いとは「釈迦の四苦」をいい、四角の窓は誕生から一生を終えるまでの「人間の生涯」を格子ある四つの角で顕し、生老病死の四苦八苦を顕わしているといわれます ↑「悟りの窓」 円は大宇宙を表現していて禅の心を現すとされています、ありのままの自然な姿、清らかで偏見のない姿、これが悟りの境地だと教える窓です ご住職のお話 窓を眺める作法、 まず迷いの窓の前で自分の姿を見て自問自答し自我を見つめます、そのあと悟りの窓の前で自分を見つめ直す、さすれば純粋で本来の自分の姿に変われる との説明でした (悟り、迷いの窓の説明難しい所を避けて平易な表現にしています、不十分な所ご容赦) ↑「本堂前庭園」です 刈り込みと楓の緑が綺麗な庭です 春の花や紅葉の時期はまた違った彩りを見せてくれます ↑「書院と庭園」 書院は周り縁が巡らされ庭には降りられませんが、みどり一杯の前庭・苔の西庭が目の前に広がります ↑「書院前庭」 本堂前庭には池がありますがこちらは飛び石と築地に木々溢れる枯山水庭園です (右)「書院横苔庭」 燈籠に苔が美しく映える静かな庭です ↑茶葉乾燥炉 江戸時代和紙で設えた紙面に葉を広げ炭火で乾燥させお茶の葉を造った炉です (右)開ばんと雲ばん 開ばん(上)木魚の原形と云われています、儀式の始まりや日々の行事を報ずる魚板で、黄檗山・萬福寺と同じ物だそうです 雲ばん(下)は、銅版で朝昼の食事の知らせに使われていたものです ↑最後に再度「悟りの窓」 円窓からの庭の風景は角度を少し変えて視るだけでそれぞれ異なって見えます 見方を変えれば物事万事違った様にみえると教えているのでしょうか。 (TOPページ「花いろいろ」今撫子(なでしこ)です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「鷹ヶ峰源光庵前」下車 すぐ源光庵関連HP URL---http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/genkou-an.htm (源光庵HPはありません) ------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 京都 夢み屋(京の飾り物)和雑貨&インテリア 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.08.31
コメント(110)
. 臨済宗大本山・大徳寺塔頭 龍源院(りょうげんいん) 1502年大徳寺72世・東渓宗牧(とうけいそうぼく)禅師を開創として、能登・畠山義元、豊後・大友義長ら領主により「霊山一枝軒(りょうぜんいっしけん)」と名付けられ創建された、大徳寺山内では最も古く歴史ある寺院です その後大徳寺の山号龍寶山から"龍"と、臨済宗の祖と謂われる中国松源派の"源"の両字から「龍源院」と称されることとなります 「表門」(重文) 開創当時の建立で四脚門切妻造、桧皮葺きの重厚な門です 門内の緑があざやかに目に飛び込んで来ます 「庫裡」 今こちらが玄関となります (右)石畳の参道奥が木々で覆われていますが「唐門」(重文)桧皮葺の正面玄関です、今は閉ざされて左の庫裡から入ります 「開祖堂」 開祖・東渓禅師の塔所(たっしょ・祀所)で唐様木造建築の代表作とされています (右)「本堂(方丈)」(重文) 1502年に建立され唐門も合わせ、禅宗方丈建築の様式を残した唯一最古の遺構とされています、一重入母屋造り、桧皮葺きの建物です 「木造釈迦如来坐像」(国宝) 鎌倉時代の傑作と謂われ1250年僧・行心造の墨書があり、京都八釈迦の一体とされています 「龍と波の図」襖絵 方丈室中の全面十六枚に豪胆に描かれた襖絵で、筆者は不明ですが桃山時代の作と謂われています 「竜吟庭(りょうぎんてい」 方丈の北側に面する苔で覆われた北庭、室町時代特有の三尊石組からなる須弥山(しゅみせん)形式の枯山水庭園で絵師・相阿弥(そあみ)の作と謂われています 杉苔で洋々たる大海を表し、28個の石と石組で島と陸地をかたち造り仏教の教えを説くとされています 中央が須弥山(シュミセン *サンスクリットSumeru、スメール山 インド仏教で一番高い聖山を指します)で左右を合わせた石組は三尊石を顕し、その前の板石は「遙拝石(ようはいせき)」三尊石を仰ぎ拝する信心の心の表れとされます 「開祖堂前庭園」 杉苔がいっぱいに広がっています (右)同庭園に置かれている「桃山型石燈籠」で元大宮御所から移されたものです 方丈前庭(南庭)の「一枝坦(いっしだん)」 冒頭に記した寺名霊山一枝軒からとって命名されています、白砂と7つの石で簡潔に抽象的な蓬莱山の世界観を表現した庭で、掃き整えられた直線と曲線、石や石組と苔地に配置の妙が感じられる枯山水庭園です 手前丸くかたどった苔の中に岩が立つ亀島が非常に印象深く飛び込んで来ます白砂で大海原をあらわし、左手の石組みが仙人が住むと伝えられる不老長寿の吉祥の島"蓬莱山"を模り、右手の石組みは鶴島を現している典型的な禅宗庭園です 「滹沱底(こだてい)」 書院南側の阿吽(あうん)の石庭です 宗祖臨済禅師の住い中国河北省の滹沱河(こだがわ)よりの銘で、白砂に豊臣秀吉が建立した聚楽第の基礎石(凹凸石)が東西に配されている庭です 阿吽の石庭 西側の穴の開いた石「阿の石」(凹石) (右)東側は「吽の石」(凸石)です 「東滴壺(とうてきこ)」 方丈東側の日本最小の壺庭で、白砂に三石と二石の2群の五個の石のみで表現されている庭です UP上は奥の二石、下は手前三石です 豊臣秀吉と徳川家康が対局した折使われたという四方蒔絵の碁盤と碁筒(後方鏡に映っています) (右)当院に伝わる1583年の在銘のある日本最古と謂われる種子島銃 今日の一枚再度「竜吟庭」 碧々した杉苔と石組みが見事に調和して、静かに眺めていると時の経つのを忘れます (龍源院、方丈内仏像・襖絵も含め写真の制限なしです、比べ本山・大徳寺は寺内は勿論庭園も写真一切不可、疑問大) (TOPページ今京都・五山の送り火です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「大徳寺前}下車 すぐ龍源院関連HP URL---http://everkyoto.web.fc2.com/report626.html (龍源院HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 京都 夢み屋(京の飾り物)和雑貨&インテリア 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.08.24
コメント(115)
. 真言宗・御室派総本山 大内山・仁和寺(にんなじ) 平安初期886年(仁和2年)光孝天皇の勅願で建て始められたが翌年崩御、遺志を継いだ宇多天皇により888年に落成し当初"西山御願寺"と称されたが、すぐのち年号をとって仁和寺とされた ご本尊に阿弥陀如来を祀り、宇多天皇が出家の後この仁和寺伽藍の西南の位置に「御室(おむろ)」と呼ぶ僧坊を建てて住み、以後皇子や上皇の入寺が続いたため仁和寺を「御室御所」との別称でも呼ばれることとなります、「御室」の旧地には現在「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群と名勝庭園が国の史跡に指定されて残されています 1470年代の応仁の乱で伽藍は一度全焼するが、1624年以降の寛永年間徳川幕府により伽藍は整備され、皇居(現京都御所)の建て替えに伴い旧皇居の紫宸殿・清涼殿・御常(おつね)御殿などが仁和寺に下賜境内に移築され、9万平方メートルの広さに門跡寺院としての風格を整えます 「二王門」(重文) 徳川家光の寄進により建てられた仁和寺の正門で、二王門は左右に見える二体の金剛力士を安置していることに由来しています、また幅19m、高さ20mあり知恩院三門・南禅寺三門と並び京都三大門の一つとされています 二王門を潜ると長い参道の先は朱の「中門」(重文) 左手側が御殿、奥山は成就山で 1827年当時29世門跡が四国88札所の砂を持ち帰えらせて、約3kmの御室八十八ヶ所霊場が設けられ、今も四国へはお詣りできない方の88ヶ所巡りが行われています (右)中門から続く石畳みと石段を登り「金堂」(国宝)へ、御所寝殿造りの紫宸殿が移築されたもので内陣には「阿弥陀三尊像」が祀られています、TOPの写真が金堂正面です 「鐘楼」(重文) 入母屋造り朱塗りの袴腰式二階建で、高欄が廻らされ鐘は普段外からは見えない珍しい建物様式です (右)「御影堂(仏堂)」(重文) 桧皮葺の桃山様式の建物で、御所の清涼殿の一部を賜り建てられたもので、宗祖弘法大師像・開山の宇多天皇像などが安置されています この他境内には「経蔵」・「観音堂」・「九所明神」など重文の建物群が立ち並びます 「五重塔」(重文) 高さ36m余1644年造営されたもので、上層程屋根が小さくなる一般的な塔と違い、江戸時代の特徴を顕し各層の屋根の大きさほぼ一緒です 「百日紅(ヒャクジツコウ)」お堂の上に今綺麗に咲いていました、一般的に"さるすべり"ですが名としては"ヒャクジツコウ"の方が花木らしく綺麗ですね (右)振り返り参道をとおして重厚な二王門を眺めます、門柱の間から見える景色も含めTVや映画によく登場した場面です 「仁和寺御殿」 旧御室御所の本坊表門(重文) 奥に見えるのが御殿大玄関です、この表門の北側に御皇族方や賓客出入りの「勅使門」が造られています 「御殿大玄関」 寺院の玄関でなく皇居御車寄せ似の宮殿の玄関です (右)御殿内「白書院」、「黒書院」、「宸殿(しんでん)」、「霊明殿」にそれぞれ仁和寺の特徴ある「渡り廊下」が縦横に巡らされています 「宸殿」 御殿内儀式・式典などに使われる中心的な建物で、元は御常御殿が移築されたものでしたが焼失して再建されています 南北にある庭と共にやはり宮殿の雰囲気が漂います (右)「南庭」 宸殿の南側に位置する白砂を敷き詰めただけの簡素な枯山水庭園で、前方正面は勅使門 右は内側から見る二王門の屋根で 手前右は"右近の橘"、向う側"左近の桜"です 宸殿内書院造り上段の間 明治の日本画・大和絵の原在泉画伯の襖絵、桜と奥は孔雀です、欄間は檜の手彫で折上格天井(おりあげごうてんじょう)で造られています 白書院の襖絵 福永晴帆画伯の筆 「松」 (右)黒書院の襖絵 堂本印象画伯の筆 「松」 「霊明殿」 桧皮葺平屋宝形造りで内部折上格天井も含め平安様式を模した仏殿で、御殿内一番奥に位置します (右)霊明殿内部 一室三間幅の仏壇には木造薬師如来像(保管霊宝館)を祀り、仁和寺の歴代門跡の御位牌を安置しています 「北庭」 中央に心字池が配された晴れやかな緑あふれる池泉回遊式庭園です 江戸時代の作庭様式を取り入れた屈指の寺院庭園と謂われています 庭の背後の築山には百日紅の花と共に、紅い葉のもみじも混じり美しい色合いを見せていました (右)池の中央、綺麗な石組みと石橋、形造られた刈り込みと松が映えています 池西寄り、睡蓮が優しい色でまだ花を浮かべています (右)池東側、中島は形造られた松の碧さが池を覆っています 奥に築山が配され北庭一番の景観とされる処です、背後に五重塔 手前は中門の屋根で中央茅葺きの建物が草庵風の茶室「飛濤亭(ひとうてい)」(重文)です 当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもあります (こちら仁和寺境内 貴重な建物内部も含め、写真制限ありません) ☆ただ字数制限にて説明不足スミマセン (TOPページ今京都・五山の送り火です ホームで見て下さい)........................................................................☆京都市バス 「御室仁和寺」下車すぐ ☆京福電鉄 「御室仁和寺」下車 徒歩3分仁和寺HP URL---http://www.ninnaji.or.jp/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.08.17
コメント(102)
. 顕本(けんぽん)法華宗総本山 妙塔山・妙満寺 (みょうとうざん・みょうまんじ) 1389年日蓮上人の教えに帰依し元天台宗の高僧日什大正師(にちじゅうだいしょうし)が67才の高齢時に時の帝・後円融天皇に上奏、顕本法華宗を興し妙塔山・妙満寺を建立し根本道場とする 妙満寺は六条室町の創立より応仁の乱など幾度かの兵火に遭い洛中を移転したが、1583年豊臣秀吉の時代に寺町二条に移り400年にわたり「寺町二条の妙満寺」(今の京都市役所北側)と親しまれてきたが、昭和43年に「昭和の大遷堂」を挙行、現在の岩倉の地に移り今日に至っています 正面は「本堂」 広い参道右側(北面)に本坊・方丈・大書院・開山廟・道場などが立ち並び、左側(南面)は仏舎利塔と塔頭「成就院(じょうじゅいん)」、あと三ヶ寺の塔頭が連なる一大寺院です 朱の反り橋と石橋の向う「山門」です 橋の下は池で今睡蓮と蓮がまだ咲いていました (右)「本坊」 唐風の立派な玄関です 本堂前の間口全幅の広い石の階段と本堂 (右)妙塔山の扁額が架る本堂前です 「仏舎利大塔」(ぶっしゃりだいとう) インド・ブッダガヤ大塔(高さ52m)は、釈迦牟尼仏が悟りを開いた聖地にアショーカ王が紀元前200年頃建てた供養塔で、仏教最高の聖跡とされていますが、その釈迦牟尼仏の教えの象徴として同大塔をかたどり造られた日本初の仏舎利大塔(実物の約1/2)です 正面には日蓮上人の顕されたご本尊と久遠本仏・釈迦牟尼仏坐像が祀られています 仏舎利大塔上部には古来より妙満寺に格護されてきた仏舎利が安置され、下部は全国の檀信徒の納骨堂となり豊田佐吉翁以来のトヨタ家一門を始め多くの篤信者の遺骨が安置されています (右)塔の外壁にはお釈迦様の金色の仏像486体が四方に祀られています 「安珍・清姫伝説の鐘」 "鐘に恨みは数々ござる" 能や歌舞伎等で有名な「娘道成寺」に登場する安珍・清姫の梵鐘がここ妙満寺に伝わっています鐘は道成寺で蛇身となってより、災厄が多々起こり清姫のたたりと恐れられ竹林に埋められたが、秀吉根来攻めの折大将仙石秀久が京都・妙満寺に持ち帰り当山法華経の供養により怨念が解かれ、音色美しい霊鐘として甦ったとされています (撮影禁止で写真は当山資料より) 「紀伊州日高郡矢田庄・道成寺鋳鐘」とあり最後に天正14年(1359年鋳造)と彫られています、高さ≒1m、直径63c、重さ250kの鐘です、毎年五月中旬鐘供養が行われ、この鐘に道成寺演じる芸能人を始め芸道精進を祈る人が多く訪れます (右)当山「鐘楼」安珍・清姫梵鐘は展示室に保管され、ここに架る釣り鐘は別に鋳造された鐘です 「方丈」 玄関より入り (右)「本坊」前庭に面する座敷です 元成就院の「雪の庭」 江戸時代の俳諧の祖とされる松永貞徳(まつなが・ていとく)の造営による庭で、当山の岩倉遷堂の際に塔頭の成就院よりこの本坊に移築された庭で、比叡山の借景をとりいれた枯山水庭園で冠雪の折の眺望が美しく、雪の庭と呼ばれています 松永貞徳は又清水寺の成就院に「月の庭」、北野の成就院に「花の庭」を造り、成就院「雪・月・花」の三名園と並び称されてきました、この内北野の花の庭は現存しません 庭へ降り(今はオコラレマス)少し右に振ると比叡の峰借景の庭となります 当山に伝わる名水「中川の井」湧き出ていた井戸の遺構と右側の石は1380年代秀吉五条の大橋の築橋の際の橋脚となったものの一つです (右)山門前の池に咲く睡蓮と蓮です 本堂前の石段の上から振り返って眺める霊峰・比叡の山、前は山門と塔頭法光院です お断りです、次回はこの妙満寺と続き記事に出てきました今特別拝観中の清水寺・成就院「月の庭」UPと思っていましたが、この月の庭一切の写真不可との事で記事に出来ません、庭の写真がいけない理由が理解出来ませんがやむなく取り止めにします、同じ様なところ数ヶ寺ありますが京都の世間狭い悪い一面です、抗議の為敢えて付け加えさせて頂きお許し頂きますように。 (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今桔梗です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「幡枝」下車 徒歩3分妙満寺HP URL---http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【抹茶スイーツ】京都 宇治・辻利 抹茶チョコ 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.08.10
コメント(104)
. 真言宗・智山派総本山 五百佛山・智積院 根来寺(いおぶさん・ちしゃくいん・ねごろじ)が正式名称です 1589年豊臣秀吉と淀殿に生まれた鶴松が3歳で亡くなった時にその菩提を弔うため妙心寺・玄興(げんこう)高僧を開山として建立された祥雲禅寺、他方秀吉に抵抗した紀州・根来寺は全山焼き払われ姿を消すが、秀吉没後1600年徳川家康は難を逃れていた根来寺玄宥(げんゆう)僧正に豊国社の社域のこの地と祥雲禅寺を寄進して根来寺智積院の再建となります 智積院は真言宗・智山派の総本山として、成田山新勝寺(しんしょうじ)、川崎大師平間寺(へいげんじ)、高尾山薬王院などの本山を始め現在全国に末寺3千余寺を擁し、檀信徒数30万人と謂われています 智積院「総門」 阿弥陀ヶ峰を背にする伽藍の玄関で、いつもは閉ざされている七条通り正面の山門です、東福門院の表門が移築されたもので奥に見えるのは本坊及大書院です 「冠木門(かんきもん)」 総門より少し南に位置する二本の柱に横木を渡した略式の門ですがここが通常の出入り口となります (右)「唐門」を通して講堂、方丈、桃山時代の遺構と謂われる大講堂、祥雲寺当時の姿を残す名勝庭園に続きます 「金堂」 1701年徳川綱吉の生母桂昌院の寄進により建立されたが1882年火災により焼失再建されています 智積院の扁額の下中央扉と右の水瓶まえに見える紋はここ智積院寺紋の桔梗紋です、寺内瓦前面や灯篭、垂れ幕など随所に見られます 前身祥雲寺の建立に携わり功績のあった築城の名手加藤清正の家紋がそのまま寺紋とされ、桔梗の花もあちこちに植えられこの時期境内を彩っています 金堂内のご本尊「金剛界大日如来像」また金剛経(国宝)も受け継がれています (大日如来像及以下の障壁画・襖絵は寺内資料より) (右)「収蔵庫」 桃山文化を偲ばせる長谷川等伯・久蔵父子の作「大書院障壁画」25面(国宝)が飾られています 障壁画のうち 紙本金地著色 「松に立葵図」 と 同 「松に秋草図」です 桃山時代に全盛期であった狩野派に対抗し独自の画風を確立した長谷川等伯一派の絵は日本の障壁画を代表するものとして知られています 講堂・方丈には沢山の襖絵が見られますががその一枚 後藤純一描 「浄」 夏 寺庭に咲く蓮の花と小鳥たちの絵です (右)大玄関前の襖絵「布袋唐子嬉戯(ほていからこきぎ)図」 "布袋さんと子供の笑顔をもった姿は平和のしるし" と描いたのは1912年月樵道人(げっしょうどうじん)今から100年前の絵です 祥雲寺時代の遺構と謂われる庭園は「利休好みの庭」と伝えられ中国の名山「廬山(ろざん)」、池は「長江(ちょうこう・揚子江)」をかたどって造られた池泉観賞式庭園です 名作庭家・小堀遠州がかかわるとされています 石組みと綺麗な刈り込みを力強く配置した庭で、正面築山から水の流れを滝石組より石橋を通り落して、満々と水をたたえる池を配し奥行きある雄大でいて緻密な空間を見せてくれます 池の水際にある左「羅漢石」 滝に向って合掌している形で、滝の流れる音から仏さまの教えを聞き取ろうとする姿を顕しています (右)「一文字手水鉢(ちょうずばち)」 水穴が一文字に見えるところから名付けられる、黒の石で彫られ池に浮かぶ一艘の舟に見立てています 大書院の落縁の下まで池が広がっていて、平安期の寝殿造りの釣殿(つりどの)に似せて造られたと謂われています 正面は「宸殿」です (右)「鐘堂」1616年に鋳造された豊国社神廟内の鐘櫓にあったものが移築されたものです ここ智積院で鳴らされる年末の「除夜の鐘」百八つは一般からの参加もあり撞かれて年を越します 境内参道に咲く桔梗の花です 凛として咲く性質と清楚な美しさ、下向きに努力するひたむきさを感じさせ万葉の時代より多くの人々に愛されてきた歴史を持つ由縁の花 桔梗です 白の桔梗また趣がありますね 秋の七草の一つとされ夏から秋にかけてその可憐な風情を移すとされていますが、ここの桔梗は夏の盛りだけの様です ひときわ大きい刈込は琴三弦の撥(バチ)を現したもので 遠州の遊び心と謂われています、正面は桃山様式の祥雲寺の遺構で風情を感じる二枚の青石の橋です、また池の水は泥を堆積させあえて淀みを作り深い緑の色が演出されています、時折鯉が踊りみどり掻きあげて水の流れを感じさせます (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今蓮の花3です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「東山七条」下車 徒歩すぐ智積院HP URL---http://www.chisan.or.jp/sohonzan/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【抹茶スイーツ】京都 宇治・辻利 抹茶チョコ 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.08.03
コメント(105)
. 朝日山・平等院鳳凰堂 (言うまでもなく京都世界遺産の一寺です) 1681年寺社奉行の裁定により院内・浄土宗の浄土院と天台宗の最勝院の2つの寺院が共同で管理・維持する事となった珍しい単立の仏教寺院です 今年9月3日より遺構維持改修のため26年3月迄鳳凰堂の姿暫く見られなくなります、「平等院蓮」と命名されたここだけに咲く蓮の花と共にご覧下さい 元々宇治の地は源氏物語の宇治十帖の舞台ともなるように、平安時代初期から貴族の別荘が多く、平等院の地は9世紀後半 光源氏のモデルとも謂われた左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘であったものを関白・藤原道長の宇治殿を経て、その子頼道が仏寺に改め1052年平等院とされたものです 「鳳凰堂」(国宝) 1053年の建立 浄土式庭園阿字池(あじいけ)の中島に東向きに建つ、今少し色褪せていますが、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように美しい姿を水面に映します 当初阿弥陀堂と呼ばれていた中央が本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊(よくろう)、中堂背後の尾廊の四棟をもって鳳凰堂と呼ばれます 「鳳凰」 中堂の大棟の南北両端に向い合い据え付けられた鳳凰一対(現在のは復元摸像)です (たまたまいいのか悪いのか? 鷺鳥が一羽棟にとまり動きません) 鳳翔館(宝物館)に保存されている銅製鋳造鍍金「鳳凰」(国宝)北方像 像高1m 幅35cm (写真禁止で当院パンフレットより、以下阿弥陀像・菩薩像、梵鐘共々に) (右)改めてご紹介するものではありません、昭和28年に発行された10円硬貨(表)と平成16年に新一万円札として発行されたお手元に沢山お持ちのお札(裏)、共にここ平等院の絵柄です 平等院の玄関 朱の「表門」 (右)浄土に描かれる楼閣をイメージして造られたと謂われる 阿弥陀堂・中堂です 「阿字池」北岸から遺構より再現された朱の欄干の平橋(ひらばし)と反り橋(そりばし)を渡り北翼廊へ、右方は中堂から伸びる尾廊です (右)中堂前です、前の池にかけてはやはり再現された州浜と石灯篭が一基ほかに飾りはありません 中堂前より阿字池を通して綺麗に剪定された緑鮮やかな松と柱間には藤棚が見える浄土式庭園を臨みます(国の名勝指定) (右)池を通し見た中堂正面、格子状の障壁に付けられた丸窓 阿弥陀仏のお顔に位置し東方より阿弥陀様を拝めるよう意図されたもので、かって人々は院内で拝めず宇治川畔より阿字池に映る鳳凰堂に西方浄土の阿弥陀仏の宮殿を見たと謂われています ご本尊「木造阿弥陀如来坐像」(国宝) 平安時代を代表する仏師定朝(じょうちょう)の作で寄木漆箔の仏像2.8m、蓮華座1.8mに大きな光背がつけられはるかに見上げる大きさです 背後に少し見えるのは雲の中をイメージした菩薩像で周りを取り囲んでします 上の「天蓋」と壁面の「九品来迎図及極楽浄土図」また国宝です (右)その「雲中供養菩薩像」全部で52体(国宝) 雲に乗り楽器を奏するもの、蓮・宝珠持つもの、舞う、合掌するものなど多様な菩薩が彫られています 平安時代を代表する「姿の平等院鐘」、「音の園城寺(三井寺)鐘」、「勢いの東大寺鐘」の三名鐘の一つに数えられています 鐘堂に架っているのは形状同じに造られた複元摸鐘です(右)鳳翔館に保存されている鳳凰、飛天、獅子等が描かれた江戸時代12世紀の「梵鐘」(国宝) 高さ2m、口径1.3mの銅製鋳造です 「扇の芝」 1180年源頼政は以仁王(もちひとおう)の勅旨を奉じ、これ迄知遇を得てきた平清盛率いる平家打倒を掲げ宇治川の決戦に及んだが、平知盛の軍勢に敗れ平等院観音堂北のこの場所で扇を敷き辞世の和歌を残し自刃する 謡曲「頼政」にも登場します (右)不動堂奥に静かに祀られている立派な「頼政の墓」です 辞世 「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」 「平等院蓮」 200年前の種子からここで育てられた柔らかな純白無垢の花です 「大酒錦(だいしゅきん)」 と 「藤壷蓮」と名付けてあります 阿字池の蓮は池狭しと咲いていません、池のところどころに一連の蓮の束として池に浮かんでいます (右)蓮と共に寺院に咲いて映えるもう一つの花、睡蓮(すいれん)池の西岸を彩っていました もう一度咲ききった大きな「平等院蓮」です 平等院蓮はここで発掘された1粒の種子から開花した奇跡的な花とされ、門外不出の蓮の花とされています (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今立本寺の蓮です ホームで見て下さい)........................................................................京阪電車宇治線 「宇治」下車 徒歩15分JR奈良線 「宇治」下車 徒歩25分 平等院HP URL---http://www.byodoin.or.jp/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.07.27
コメント(106)
. 八坂神社と祇園祭り 656年の創建とされ釈迦生誕地に因む祇園精舎の守護神とされる牛頭天皇(ごずてんのう)を迎え、主祭神に素戔嗚尊(すさのおのみこと)と東西御座に妻子二神を祀り、「祇園社」と呼ばれていましたが1868年の神仏分離令により「八坂神社」と改められ今日に至っています 四条通真正面の「西楼門」(重文) 全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社2,300社の総本社で、通称「祇園さん」と呼ばれています 869年に各地で疫病が流行した際に収まらなかった怨霊を鎮められるのは、偉大な神格の神に頼るほかないと素戔嗚尊の祇園社に祈願、これを鎮めるため当時の国の数66本の矛を立て神輿(みこし)を広大な庭園のある神泉苑(二条城近く)に送り祈ったとされています、これが祇園祭の起源でいま1100年余の歴史を刻んでいます 「本殿」(重文)と本殿前です 疫病消除の神として全国各地に勧請された祇園社、疫病退散・厄除けひいては商売繁盛の御利益(ごりやく)を授けてくれる神様として信仰を集めています 祈る若いカップルと一人男性にも良い御利益が授かることでしょう 「舞殿」 通年の各奉納行事や結婚式がとり行われます、毎夜奉納された提灯にあかりが灯されます 祇園のお茶屋さん芸舞妓さんの提灯が目につきます (右)「石鳥居」 八坂神社の正門は南に面したこの石鳥居をくぐり南楼門(奥に見える朱の御門)より入ります 1646年の建造で京都一大きな石の鳥居です(重文) 日本三大祭りの一つ祇園祭り(他は大阪・天神祭、東京・神田祭)は、毎年7月1日から31日までの一ヶ月間に渡り多彩な行事を繰り広げます 15日八坂神社能舞台で行われた今様伝統芸能の祇園祭奉納です 13日行われた長刀鉾「稚児社参の儀」今年の稚児 F君(10才)烏帽子に水干(すいかん)姿で白馬にまたがりここ町会所から神社まで、祭りの無事を祈り練り歩く (右)立ち上がった長刀鉾、長刀の先まで25mあります 函谷鉾(かんこぼこ) 鉾頭は月と山型です (右)動く美術館とも謂われ山鉾に架る縣装品は見事なものばかりです、上は菊水鉾・前掛 皆川月華作「飛鶴図」、下は函谷鉾・水引「群鶏菊花図」と胴懸のペルシャ絨毯他です 「宵々山」 函谷鉾 前403年中国の孟嘗君(もうしょうくん)が、家来に鶏の鳴き声をまねさせて関門を開かせ難をのがれたという故事「函谷関(かんこくかん)」より命名された鉾です 長刀鉾 上に乗るお囃子は総員40人で宵々山を盛り上げています (右)月鉾 月と書かれた沢山の提灯が遠目からでもはっきり見通せます お囃子のアップです、長刀鉾(左)と函谷鉾、熱気が下まで伝わります 「山鉾巡行」 長刀鉾を先頭に山鉾32基(今年から伝統復帰する大船鉾の唐櫃を入れて33基)の行列が都大路を巡ります 生身のお稚児さんは先頭の長刀鉾のみです お稚児さんによる「しめ縄切り」、先頭をゆく長刀鉾が行う儀式です (右)いよいよ巡行のスタートです 河原町御池での二度目の辻回しです (右)上は2番目「郭巨山(かっきょやま」、下は3番目「霰(あられ)天神山」後ろに続く「蟷螂山(とうろうやま)」です 今まさにハイライト「辻回し」です、裂いた青竹を車輪の下に差し入れ総勢50人で重さ11トンの鉾を引き回します、3回で方向転換その度に大きい拍手歓声に包まれていた伝統行事でした 今年宵々々山からの4日間の人出連休もあり120万人を数えたようです (尚・字数制限にかかり説明少し割愛しています、お許し下さい) (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今蓮の花2です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス・市地下鉄 四条烏丸中心に 八坂神社HP URL---http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/祇園祭 セレクション (お暇に・YouTubeで見るをクリックして)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 【京のおばんざい】祇園・藤村屋 ちりめん山椒 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.07.20
コメント(117)
. 律宗/唐招提寺派 五位山・法金剛院(ほうこんごういん) (2) 双ヶ丘(ならびがおか)麓に位置して平安時代の830年右大臣清原夏野の山荘をのち双丘寺(そうきゅうじ)とされたのが始まりで、文徳天皇による天安寺を経てのち寺運衰えるも平安末期1130年鳥羽院天皇の中宮でのちの崇徳天皇・後白河天皇の生母 待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)が再興し法金剛院とされる 法金剛院 再興当時は宸殿・南御堂・三重塔等を有する大きな伽藍でしたが、応仁の乱や続く幾度かの震災に依り多くの堂宇を焼失、また明治に入りJR山陰線建設により境内縮小されて今日に至っています 「西御堂(礼堂)」 お堂の周りはこの時紫陽花の花で彩られていました 待賢門院41才鳥羽天皇皇后の地位を捨てここで出家し、仕える歌人堀河局(ほりかわのつぼね)らに囲まれて44歳の若さで亡くなるまで俗世を離れ静かに過ごしたとされています 「表門」 簡素な門構えですが静かな佇まいを感じさせています 右は「書院・庫裡」 蓮の葉覆う池越しの正面です 左チラチラ白っぽく写るのは花が咲く沙羅の木です 待賢門院の意が汲まれた庭は、五位山を背に極楽浄土を見たてて造られた回遊式浄土庭園で平安末期の姿を留めるとされています(いま蓮の葉が覆い全体が捉えられません) 写真は、6月30日(紫陽花・沙羅の花)、7月11日(蓮・桔梗の花)の時を分け撮ったものです 法金剛院は関西花の寺第13番霊場とされていてこの時あじさいの花が境内一杯にうめていました 春の梅・桜に始まって、花菖蒲・菩提樹・沙羅・紫陽花・桔梗・百合・蓮から菊・紅葉まで四季折々の美しい風情を見せてくれます なかに桜は待賢門院桜と名を被せた立派な枝垂れ桜が礼堂前にあります(一部既報) 池の北寄りに巨岩を配し造られた「青女(せいじょ)の瀧」 日本最古の人口の瀧と謂われこの庭園と背後の五位山を合せ国の特別名勝に指定されています (右)重文の木造阿弥陀如来座像は2.3mの大作で平安後期の仏師院覚の作と謂われています 他に十一面観世音菩薩像など多くの重文が仏殿に納められています (写真は資料より) 法金剛院 通称「蓮の寺」とも呼ばれます 極楽浄土に咲くと謂われる蓮の花、清楚でいて優美な花形は心すがすがしくしてくれます 池の中はまだ少し早かった様ですが世界中の蓮の花を集め苑池や鉢に植えられています 蓮の花 花言葉は神聖、清らかな心とあります、その優しい色合と共にお釈迦様そのものを現すのかも知れません 蓮の花の形をした蓮華座にすわる仏さま、仏教の思想・美術と深く結びついた花で、古来よりお寺に咲く花として一番相応しいとされてきています 中国の成句(せいく・ことわざ)に「蓮は泥より出でて 泥に染まらず」、俗世の欲に染まらず清らかに生きることへの象徴の様にされる蓮の花です 若くして亡くなった待賢門院璋子は法金剛院の背後、五位山の北の位置(現在の花園西陵)に葬られています (右)待賢門院堀河(璋子中宮の時より出仕し、共に落飾出家し璋子に仕える)の歌碑 「ながからむ心もしらず黒髪の 乱れてけさは物をこそ思へ」 百人一首 80番不思議と待賢門院璋子の歌は存せず、仕えた堀河局の歌人としての足跡が多く残ります 桔梗の花も又お寺に似合う花です、万葉集・源氏物語にでてくる朝顔は桔梗とも謂われています (右)前真如堂で咲いていた菩提樹と沙羅の花、法金剛院にも植えられていましたが菩提樹は既に終っていましたが、沙羅の木こちらで綺麗な花を咲かせていました 二尊院で触れました西行法師、「永遠の女性」と詠った待賢門院璋子を思慕して叶わず武士を捨て出家したとも謂われています 西行法師遺作 「願わくは花の下にて 春死なむ その如月の望月の頃」後段の頃とは釈迦の亡くなった2月15日を指します 花は桜をさすのが定説ですが西行の頭には釈迦入滅のとき咲き落ちた沙羅の花もあったのでは? 因みに西行亡くなったのは釈迦より一日遅れ2月16日72才でした 礼堂から書院・庫裡前 待賢門院の心を映すように大きく広げた葉と優しい色の蓮の花が咲いていました (法金剛院と蓮の花1 昨年7月にUPしています) (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今紫陽花4です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「花園扇野町」下車すぐ 又、JR花園駅下車 西へ200m法金剛院関連HP URL---http://www.y-morimoto.com/hananotera/13hokongo.html (法金剛院にはHPありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 【京のおばんざい】祇園・藤村屋 ちりめん山椒 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.07.14
コメント(98)
. 天台宗 鈴聲山・真正極楽寺(れいしょうざん・しんしょうごくらくじ)が正式名 通称 真如堂(しんにょどう)、元々本堂に付けられた名の真如堂が寺名となる 不断念仏の道場として、浄土宗開祖・法然上人や浄土真宗開祖・親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者や民衆の篤い信仰を集め、特に女人の深い帰依を受けてきたと謂われています 「本堂」(重文) 984年比叡山延暦寺の戒算(かいさん)上人が、比叡山常行堂(じょうぎょうどう)から阿弥陀如来を移したのが始まりとされ、応仁の乱で焼失した伽藍は足利義政により再建され市内各地を転々とするも1717年現在の地に復し今日に至る 「総門」 1万2千坪の境内一番南に位置する朱塗りの正門です (右)本堂前 建物は15間四面の天台宗本堂の最大規模と謂われています 青もみじが綺麗に映える本堂側面です (右)中央がご本尊阿弥陀如来像(慈覚大師円仁作)、右側は千手観音菩薩立像(伝教大師最澄作)、左側不動明王坐像(三井寺開祖・智証大師作)(各重文)をお祀りしますが常時は閉扉され目に触れません 阿弥陀如来立像は女人禁制の比叡山から遷座され、衆生また特に女人を救う「うなずきの弥陀」と呼ばれています (堂内撮影禁止で寺内資料より) 「三重塔」 優美な姿で境内さくら・紅葉の時期とも合わせ真如堂を象徴する塔です 先程の三像のほか国宝の法華経6巻(運慶筆)、絹本著色普賢菩薩像、紙本著色真如堂縁起、慈円僧正消息(いずれも重文)や大涅槃図が所蔵されています 書院東の庭「涅槃の庭(ねはんのにわ)」 如意ヶ岳から雄大な東山の山並み(TOPの写真)を借景とし造られた枯山水庭園です 正面中央に並ぶ四つの石、左を頭にしたお釈迦様の入寂を現した庭で、沙羅双樹の下で廻りを弟子や生類たちが囲み嘆き悲しんでいる様子が、石組や白砂・植栽により表現されているそうです (右)書院奥の「隨縁の庭(ずいえんのにわ)」 世の事象が縁に依って様々な現れ方をするとの教えを表す庭です 本堂から書院に真っ直ぐ伸びる回廊(右)早くも紅葉?と見間違う綺麗な楓、白壁に映えて鮮やかな色合いを見せていました 本堂前大きく枝を伸ばす「菩提樹」の大木、お釈迦様がこの木の下で悟りを開かれたとされる聖木です、共に黄色い花を付けますがインド原木の菩提樹はクワ科ですが、日本で育っているのは中国原産のシナノキ科だそうです、因みにシューベルトのリンデンバウム(菩提樹・堀内敬三氏訳名)は西洋種で白い花をつけます 菩提樹 浅黄色で散房状の下向きに咲く小さい花で甘い香りを漂わせています、花が開いている時期は短く一週間ほどで実を付けます 右は本堂の真如堂と書かれた扁額を背にして咲いていました 「沙羅の木」 こちらはお釈迦様がこの沙羅双樹の花の下で最後の説法をされ入寂されたと謂われる聖木です、花は朝に咲き夕べには落ちて儚さに例えられています また「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す・・・」と平家物語にも登場しますが、沙羅双樹と云う名は二本の沙羅の木と云う意味ですインドの沙羅は40mにも及ぶ大木ですが、日本のは「夏椿」ツバキ科で10~20mの木です 鐘堂に下にはまだまだたくさんのの紫陽花ここ盛りと咲いていました 総門から本堂に続く広い参道 ここも又深緑の木々が覆い爽やかな風吹いていました 最初に三聖木と記しましたがもう一本の聖木はアショカ(和名・無憂樹・ムユウジュ)お釈迦様誕生の折咲いた花とされ、憂いの無い木と訳されています、ただこの花木他の聖木と違って日本で読み替えられた木は存在しません (沙羅双樹で知られる妙心寺・東林院は昨年6月18日「はかない一日花」にてUPしています) (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今紫陽花4です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「真如堂前」下車 西へ徒歩10分(少し急な石段あり)真如堂HP URL---http://shin-nyo-do.jp/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 賀茂茄子 【京のおばんざい】祇園・藤村屋 ちりめん山椒 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.07.07
コメント(114)
. 曹洞宗永平寺派・詩仙堂 丈山寺(しせんどう じょうざんじ) 1641年徳川家の家臣であった石川丈山が武士を捨て隠居のため造営した山荘で、その後世俗を離れた生活を送る 石川家は父祖代々徳川譜代の家臣であり、丈山もまた16才で徳川家康に仕え33才の大阪夏の陣で目覚ましい功名を立てるが、軍紀を破り突入した咎めを受け家康より蟄居を命じられことから、出家中国の儒教や書道を学び清貧の毎日を送ることとなる 建物の名はでこぼこした山の斜面に建てられた住いとの意で、「凹凸?(おうとつか)」と付けられるが、狩野探幽によって描かれた中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間が中心とされているところから「詩仙堂」と呼ばれることとなる 写真は表門「小有洞(しょういどう)」屋根には苔が付く極めて質素な造りの門です 以下、丈山が史跡・詩仙堂の十境と見たてた主なところです (左)門から入り竹林・竹垣の石段をのぼり昼なを薄暗い小道です (右)石段に導かれた入り口門「老梅関(ろうばいかん)」をくぐる 右側趣向を凝らした雲形の窓がみえる建物正面です、玄関上は3階建ての「嘯月楼(しょうげつろう)」で、この建物の姿は詩仙堂の象徴となっています (左)玄関には「死生大事」の札が架っています、左下にUPしたのは当初の表札でしょう「凹凸?」と書かれた木札です(右読みです)、右書院の正面に於いてあります (右)「書院」床の間には、隷書の大家と謂われる丈山直筆の三幅の掛軸「福・禄・寿」が掛かっています 書院から眺める南庭です、丈山自ら作庭した唐様庭園で木々の配置ときれいな刈り込みの庭は、当時に於ける代表的な庭園とされています 「詩仙の間」壁には獅子が子を谷に落とす図の扇形の壁窓があり、上方には中国の詩人三十六人の肖像とその図上に詩が書かれて掲げられています 我が国の三十六歌仙にならったもので、詩人の坐像元々は狩野探幽の筆で、詩は丈山自筆の隷書体で書かれたものでしたが、現在のものは小早川秋声画伯(近世日本画家)の模写です (詩仙の間を始め、室内は撮影不可で資料より) (左)同三十六詩人の書と肖像です (右)詩仙の間より臨んだ南庭です 下の庭「百花塢(ひやっかのう)」百花を配している庭という意味で四季折々の花が咲き、小川と池が風情を盛り上げています ここには七竃(ナナカマド)の白い花咲ききっていました (左)茶室「残月軒」この建物は丈山作庭時にはなかったものですが、静かな下の庭に面して我が国における文人茶(煎茶)の開祖丈山をつたえる茶室です 手前白の大きな紫陽花です (右)自然の渓流を通して落ちた池の周りにも小さな花がたくさん植えられ、僧都(そうず)と呼ばれる獅子脅しの時折響く高い音は、静寂な庭に趣を添えています さつき過ぎた庭に、いま青・紫・白の紫陽花の花彩っていました 池のそば繊細で可憐な京鹿の子(京がのこ)とひかえめながら可愛い蛍袋(ホタルブクロ)が花をつけていました 庭側からみる詩仙の間と嘯月楼 堂の上に目立つこの楼閣は、丈山が月を見・庭を見て詩歌の世界に浸り、また京の街を一望し時の流れを感じたと謂われています 詩仙堂 馬郎婦観音(めろうふかんのん)を祀り、大本山永平寺・曹洞宗のお寺となったのはまだ近く昭和58年で丈山寺の寺名をうけ、いま詩仙堂・丈山寺と呼ばれています (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今紫陽花2です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「一乗寺下り松」下車 徒歩東へ7分詩仙堂HP URL---http://www.kyoto-shisendo.com/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【抹茶スイーツ】京都 宇治・辻利 抹茶チョコ 【京つけもの】京都・大安 夏のお漬物 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.06.30
コメント(110)
. 天台宗 小倉山・二尊院 正式名は小倉山二尊教院華台寺(にそんきょういんけだいじ) 830年代嵯峨天皇の勅願により慈覚大師(じかくだいし)が開山したお寺で、のちに湛空上人(たんくうしょうにん)により再興され、ご本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を並べ祀るところから二尊院の寺名となります 「総門」 1613年伏見城の「薬医門」を地元の豪商角倉了以(すみのくらりょうい・大堰川と高瀬川の開削工事を完成・既報)により移築されたもので、姿かたちはお寺のものでなくやはりお城の御門です 「紅葉の馬場」と呼ばれる総門より本堂まで200m続く参道です、桜ともみじが交互に植えられ春・秋には美しい彩りが見られますが、青もみじの生き生きとした緑の参道、また素晴らしい趣を感じさせてくれます (左)「唐門(勅使門)」 応仁の乱で焼失したものを足利義政時代三条西家により本堂と共に再建される (右)「本堂」 京都御所の紫宸殿(ししんでん)を模して造られ、外陣の床はうぐいす張りです、手前の松は、長唄の名曲「軒端の松」 ・・・小倉山 軒端の松に慣れて久しき・と藤原定家(後述)の歌が添えられています、また左手は平成3年現天皇皇后両陛下行幸記念碑とその松です (左)本堂前です、内陣もまた内裏と同様式にて造られています、上に掛る二尊院の勅額は後奈良天皇の揮毫により本堂再建時に下賜されたものです(右下にUP) (右)二尊の如来像、鎌倉時代・春日仏師の作(重文)と謂われています、 右は釈迦如来で「発遣の釈迦(ほっけんのしゃか)」 人が誕生し人生の旅路への出発を送り出して下さる如来像、 左は阿弥陀如来で「来迎の弥陀(らいごうのみだ)」 その人が寿命を全うした時に極楽浄土よりお迎え下さる如来像です (二尊院さんの説明より) 「小倉山峰のもみじ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」 背後青もみじで埋まる小倉山です 百人一首の誕生地、小倉山を詠った貞信公(藤原忠平卿・平安初期公家・関白)26番の歌です (左)「法然上人廟」 中国唐の時代の善導大師により広まった釈迦の教えは、日本に伝わり法然上人に受け継がれ、その高弟湛空上人がここに二尊を祀り再興されたとされています 先の小倉山中腹に登り祀られています(右)小倉山荘「時雨亭跡(しぐれていあと)」 上人廟より山道を奥に入り、選者藤原定家(ふじわらのていか・平安末期公家・歌人)がここに籠り小倉百人一首を撰じたと謂われる遺跡です、今は石組みだけしか残っていません ただ時雨亭については、他に少し南の常寂光寺(3月に既報)にも、また北に在る厭離庵(えんりあん・拝観謝絶)にもその跡が見受けられ確かな程は不明です (左)「八社ノ宮」 室町時代に造営されたもので、伊勢神宮や熱田神宮など八つのお宮が祀られています 添え木などで補われていますが、古さを感じます (右)「黒門」 境内もう一つの門です、勅使門と比べると柱組だけの簡素な門ですがここ二尊院の佇まいに欠かせない風景です (左)御所と同じ朽葉色(くちばいろ)に五本線の壁(格式の高さを顕します)にそって、緑豊かな苔庭が設えられています (右)「西行法師庵跡・西行井戸」 総門入った処の草庵跡と二尊院手前の歌人として使っていた井戸跡です 平安末期、公家・朝廷にも親しかった北面武士佐藤義清(のりきよ)が若くして武士を捨て出家、西行と名をかえ歌人として各地を歩きましたが知人定家の誼でここ二尊院にも庵を構えていました 本堂側から見る唐門(勅使門)です、紅葉・青の時季を問わず前うしろのもみじとの風情が美しく映える門です うっすらと読める勅額「小倉山」は先の代、後柏原天皇より下賜されたものです 花の名アジサイには多くの説がありますが、藍色が集まったものを意味する、あづさい(集真藍)=あじさい・紫陽花との見方が多い様です 学名ハイドランジアは水の器と云う意味だそうで、やはり梅雨の時期に合う花です 境内鐘楼前 ここに静かに咲いていました 二尊院に咲く紫陽花 古くから伝えられている色はむらさき系の花、一部白の花見つけました 帰路また涼しい風が吹き抜ける嵯峨野・竹林の小道を歩きました 終りに小倉百人一首より 西行法師 86番 「嘆けとて月やはものを思わする かこち顔なるわが涙かな」 藤原定家 97番 「来ぬ人を待帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身も焦がれつつ」 (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今紫陽花1です ホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「野宮神社前」下車 徒歩西北へ20分二尊院関連HP URL---http://ukyoku.jugem.jp/?eid=57 (二尊院HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【抹茶スイーツ】京都 宇治・辻利 抹茶チョコ 【京つけもの】京都・大安 夏のお漬物 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.06.23
コメント(109)
. 梅宮大社(うめのみやたいしゃ) ご祭神は大山祇神(おおやまずみのかみ)その御子・木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)及他二神で800年代嵯峨天皇の后・檀林皇后(だんりんこうごう)が移し祀られたのが起源でその後両天皇と御子・仁明天皇(にんみょうてんのう)も相殿(あいどの)に祀られています 梅宮大社「楼門」 二層部には奉納された酒樽が並びます 大山祇神は御子誕生を喜び穀物をもって初めてのお酒「天甜酒(あめのたむさけ)」をつくりお祝いされたと日本書紀に書かれているそうです、以後酒解神(さかとけのかみ)と呼ばれ「酒造の租神」として崇められています (左)赤の鳥居から神社正面 (右)手前「拝殿」と奥は「拝所・本殿」です 子宝に恵まれなかった木花咲耶姫命とその後の壇林皇后が御祈祷により一夜にしてご懐妊され、火焔の中をくぐり又本社殿の砂を敷かれご安産になられた云い伝えから「子授け・安産の神」としても有名です 梅宮大社 ご神花は梅です、名の通り境内西神苑には梅の花も多く時季には大勢の人で賑います、また梅宮の"梅"は"産め"にもかけられた名前でもありす (左)本殿前 相殿にお祀りされている嵯峨天皇は日本三筆の御一人であり、父橘氏は日本最初の学校を創設された方であることから「学業成就の神」として、又その子の仁明天皇は横笛の名手で、我が国最初に雅楽の作曲をされた方でもあることから「音楽芸能の神」としても又知られています (右)跨げ石(またげ石) 黒く太いご神木前の丸い石です、本殿に参拝し御祈祷を受け、夫婦順に3回またぐと子を授かると謂われいる石で、子宝を願い多くのお参りがあります 池中亭茶室 1852年に造られた山荘 「芦のまろ屋」 芦で葺いた円みのある田舎家で今に残る唯一のものとされています、優雅な屋根の姿が趣ある風情を感じさせます 前に大納言源経信(みなもとつねのぶ・平安時代後期の公家歌人)の歌碑が建っていました 「夕ざれば 門田の稲葉訪れて 芦のまろやに秋風ぞ吹く」 (百人一首No.71) 経信公が秋訪れた当時周りが稲田の山荘を詠ったもの 東神苑「咲耶池(さくやいけ)」 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)から命名されています、池端には霧島ツツジまだ咲いています(左) と 池の中島に舞い降りて餌を求めるつがい?のサギ(右) TOPの画像は咲耶池全景です 花菖蒲 池の周りに綺麗に植え込まれ、中島の湿地には多くの花が群れて咲いています 中神苑「勾玉池(まがたまいけ)」 勾玉の形に造ってある池ですが花しょうぶで覆われ見えません、見事に咲き揃い風に揺れています 元々古典植物の花しょうぶ、花の色も多種で絞りや覆輪などと組み合わせると、五千種にも及ぶと云われています よく羽を広げ飛び立つ鳥の姿に例えられます 苑内数少ない優しいピンク色 と 何本もの筋が美しい模様となる薄紫の花しょうぶ 勾玉池奥のあじさい苑、少し早い目でしたが、既にあちこちに色とりどりの紫陽花の花 美しい顔を染めていました 咲耶池の綺麗に形造られた石橋の花回廊、霧島ツツジ残る前方右手池面は白の睡蓮の花いっぱい、左手は湿地に咲く花しょうぶです (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今紫陽花1ですホームで見て下さい)........................................................................京都市バス 「梅宮神社前」 下車北へ徒歩3分梅宮大社HP URL---http://www.umenomiya.or.jp/------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう!【京野菜】京都祇園・かね松 【京のおばんざい】祇園・藤村屋 【抹茶スイーツ】京都 宇治・辻利 【京つけもの】京都・大安 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.06.16
コメント(106)
. 勧修寺(かじゅうじ が正式な読みですが、地名も含め かんしゅうじ と呼ばれるのが一般的です) 山号は亀甲山(きっこうざん)で真言宗山階派(やましなは)大本山です 平安中期の900年醍醐天皇が生母藤原胤子(いんし)追善の為創建され、以来皇室との繋がりが深く代々の法親王が入寺、門跡寺院の格式を維持してきています 境内西側の芝生と池に面し建てられた楼閣風の「観音堂」、諸堂の中で一番新しく昭和初期の建物で観音像が祀られ、頂には鳳凰が飛び立とうとしています(左下UP転写) (左)「勧修寺正門」 境内東側に位置する諸堂は徳川綱吉の帰依を受け再建されています (右)「書院(重文)」 江戸初期の書院造りで1686年後西天皇の旧殿を下賜されたもので、飾られていた国宝刺繍釈迦如来説法図は勧修寺繍帳とも呼ばれ今奈良国立博物館に所蔵されています、又一の間の違い棚は勧修寺棚と呼ばれて有名、現在書院は非公開です (左)「宸殿」 1697年明正天皇の御殿を下賜されたもので、入母屋造り桟瓦(さんがわら)葺きで格子戸の美しい建物です (右)「本堂」 元は近衛家の建物で、ご本尊千手観音菩薩立像は醍醐天皇の等身像であったと謂われていますが、現存の像は室町時代の作のものです 観音堂前の池泉回遊式庭園「勧修寺氷池園(ひょうちえん)」がワイドに拡がります 南大日山と醍醐の山々を借景として奥行きのある空間と四季折々の美しい色彩が合わさる風情ある庭園です 庭園の中心「氷室(ひむろ)の池」平安時代には、毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀豊凶を占ったとされています、京都でも指折りの古池です 今いちめんに咲く睡蓮(スイレン)です、今少し経てば頭をだす蓮(ハス)の花との競演が観られます 池面にピンクと白の彩 きれいに映えています 時折舞い降りる野鳥と池中の緋鯉が静かな水面を揺らします 池端には杜若(カキツバタ)の淡い紫と白の花 みどりの葉とともにゆれています 花しょうぶと思ったのですが、こちらのご住職の説明はカキツバタ、少しすれば花菖蒲も花ひらく様です (左)薄紫のカキツバタ ひらいた花・今にも開かんのところ・まだ蕾の三態です(右)珍しい野生の黄しょうぶ、鮮やかな黄色がひときわ際立ち共に池端を彩っていました 書院と本殿の前庭に広がるのは枯山水庭園の「平庭」です (左)ここにも緑いっぱいの杉苔が覆っています (右)「臥龍(がりゅう)の老梅」江戸時代に京都御所から移植された白梅で、親・子・孫三代のおめでたい古木です、親は根のみ、子は枯木で共に龍を現し、孫は力強く伸びています 右側は「勧修寺灯篭」 水戸光圀公の寄進による灯篭で、背が低く笠が大きいユニークな形が有名で勧修寺型と謂われ 水戸灯篭・雪灯篭とも呼ばれています、黄門さまらしいユーモラスなスタイルとの説明が加えられてあります 中央は樹齢750年と謂われる「偃柏槙(ハイビャクシン)」の幹と伸びる枝、一本の木が地を這い前うしろに枝を広げる"ひの木科"の常緑灌木で、我が国でも名高い名木に数えられています 手前、波うっているように見えるのが地に這って伸びるハイビャクシン、奥は大きな青もみじ越しに見える観音堂です (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今花しょうぶですホームで見て下さい)........................................................................京都市営地下鉄・東西線 「小野」下車 西へ徒歩5分勧修寺関連頁 URL---http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/kajyu-ji.htm (勧修寺HPはありません)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 京象嵌バッグハンガー(受注生産品)京漆器 舞妓さん乱箱京扇子 京名所 夏扇京竹工芸 筆筒(受注生産品) 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.06.09
コメント(107)
. 京都御所 昨年秋の公開(11月19日の日記)に続き2012年春の京都御所(後編)です 公開は4月でしたが、丁度さくらの花をお伝えする時期と重なり今回となりました、前編にお伝え出来ていない処中心にご紹介します 京都中心に位置する91万平方メートルの京都御苑の中、それぞれ独特の様式をもつ門と築地塀(ついじべい)に囲まれた11万平方メートルの京都御所、10余棟の建物群は平安京の時代より明治に至るまで皇居の地として国の行事が執り行われた所です 紫宸殿(ししんでん・前回既報) 御所の中で最も格の高い正殿で、御即位式などの儀式が 行われていた御所の象徴的な建物です、間口33メートルの入母屋桧皮葺き総檜造りの宮殿建築です昨秋は入れなかった南庭より正面を臨む、ただ右近の橘、養生の為仮屋に囲われていました 「賀茂祭群参図」 御三間(おみま)の襖絵 先日ご紹介した葵祭の行列の模様が描かれていました 江戸時代後期の駒井孝礼筆による作品 路頭の儀、牛車の行列です (左)内親王お成りを先導する皇族の女性の姿で小桂(こうちき)と呼ばれる実物大の人形です、この後に塗輿(ぬりこし)が続きます (右)秋の公開時に飾られていた 御楽(ごがく)初めの様子です いずれも小御所(こごしょ)に飾られ、平安の世から続く儀式・行事を表しています 御所の建物群屋根の頂、大棟の両端にはすべて菊の御紋の瓦と金箔の御紋が付けられています (右)御車寄せの屏風絵 「龍の図」江戸時代画家・鶴沢探鯨(つるさわたんげい)の作品 (左)「清涼殿」(せいりょうでん・既報)入母屋桧皮葺きで中殿(ちょうでん)とも呼ばれ、天皇の日常の御住居として使われた処です (右)「小御所」 御元服御殿とも呼ばれ東宮御元服や立太子などの儀式や、和歌会始め・御楽初めなどの行事も行われた処です、又明治維新で有名な「小御所会議」はここで開かれました、書院造りと寝殿造りを織り交ぜた建築様式の建物です 「御学問所」(おがくもんじょ) 六室に分かれ親王宣下(せんげ)・新茶封切・月例の和歌御会・摂家親王の謁見(えっけん)等の諸儀が行われた (右)同所下段の間の屏風絵 同じく平安後期・原在照筆の「岳陽楼図」(がくようろうず) 楼上から波濤の続く中国・洞庭湖の壮観を眺望した作品 「御常御殿」(おつねごてん) 常御所とも謂われ天皇の日常の御座所として使われた御所内で最も広い御殿です (右)同御殿上段の間の襖絵 狩野派・狩野永岳筆「尭任賢図治図」(ぎょうにんけんとちず) 古代中国の聖王、尭が賢人を任用し国を治めたとの故事が描かれています 「御内庭」(ごないてい) 御常御殿の東側に造られた優雅な庭園で、曲折した遣り水に豪華な石組みと土橋・石橋を架け茶室へ導き、趣向を凝らし静かな庭園です (左)御内庭のなか竜泉の庭と呼ばれている処でせせらぎに囲まれた松の数々は見事です (右)「御池庭」(おいけにわ・TOPの写真も・一部既報)小御所前の池を中心にした回遊式庭園で、反り橋(欅橋)・石橋と円い石を敷き詰めた州浜に、綺麗に手入れされた木々が池に映る四季美しい庭園です (左)御台所跡から見る八景の間と御学問所、手入れされた松がひときわ美しく建物を引き立てています (右)御所外側です、淡い朽葉色(くちばいろ)に等間隔の白い五線が引かれた築地塀と 御苑内ひときわ目立つ樹齢300年にもなる幹周り5mの椋(むく)の大木、京都の歴史を見続けて空に伸びています 「建春門」(けんしゅんもん) 御所の正門は南面・「建礼門」(けんれいもん・既報)ですがそれに次ぐ東側に位置する向唐破風(むかいからはふ)の堂々とした屋根を頂く四脚門です、皇后陛下及勅使出入りの門とされていますが、現在は外国賓客の出入り門とされています 「建礼門・紫宸殿・清涼殿・御池庭などは昨11月19日の前編ご覧下さい」 (TOPページに「花いろいろ」UPしています、ホームで見て下さい)........................................................................京都市営地下鉄烏丸線 「今出川」下車徒歩15分 但し見られるのは春秋2回の公開時期のみ 宮内庁HP URL---http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html ------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 京象嵌バッグハンガー(受注生産品)京漆器 舞妓さん乱箱京扇子 京名所夏扇京竹工芸 筆筒(受注生産品) 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2012.06.02
コメント(94)
全227件 (227件中 101-150件目)