出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年08月07日
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 幕府は清河の建議を受け入れ、有志の募集を行う。”(江戸時代年表/山本博文)



 まずは、幕府の文久の改革について。
 文久の改革は、寺田屋事件で京都の公家や天皇に評価を受けた島津久光が建白書の提出し、孝明天皇がその建白書を受入れることで始まった。内容は久光の意見が大幅に取り入れられたもので、薩摩藩が幕府に介入し、幕府崩壊の方向性が決定的となった 幕政改革 といわれる。(幕府にとっては改悪?)。
 薩摩藩 島津 久光 は、尊皇派で幕府維持での改革、公武合体を推進していた。急進派の尊皇攘夷/倒幕派である八郎とは、同じ尊皇でも考え方が微妙に違う。
 同時に幕府は天皇から、決して行いたくない攘夷実行を迫られていく。

その文久の改革の主な内容は次のようなものだった。

A. 安政の大獄の処分者の赦免と復権
B. 旧一橋派が中心の人事
(一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽(慶永)の政事総裁職(大老格)、会津藩主松平容保の京都守護職)
C. (攘夷実行の約束のために)将軍上洛を決定(229年ぶり)
 →→→ 後の文久3年3月に攘夷を実行することを約束(実行日期限5月10日)
D. 参勤交代制の緩和(三年一勤・在府100日・妻子の帰国許可)
E. 軍事改革 - 幕府陸軍の設置、西洋式軍制の導入
(三兵戦術/艦船を米蘭に発注、蘭に留学生派遣)、兵賦令(旗本から石高に応じて農兵もしくは金を徴収する)の発布などが行われた。
F. 洋学研究 - 蕃書調所を洋書調所とし拡充改組、洋学教育の導入。
(榎本武揚・西周らのオランダへ留学)


次に、「 文久の改革 」と「 急務三策 」の内容を比較してみる。

 八郎が唐突に提出したような印象の「 急務三策 」は、文久の改革のすぐ後に出され、内容も文久の改革のA、C、Eに対応するようだ。(内容の解説を⇒の後に添える。)
その急務三策は、(攘夷・大赦・教育)の3つが主題であった。(それぞれは、長いので省略。)おそらく山岡などの幕臣から幕府の情報を得ての対応と考えられる。

a). その一に曰く、 攘夷 。  (文久の改革Cに近似)
 ⇒ 重要な内容だったのだろう、第一に掲げている。これは、文久の改革と直接関係がないように見えるが、八郎が主導する後の浪士組の画策に関係している。浪士組の結成の目的は攘夷だったが、そのほかに将軍家茂の京都上洛の警護のための人材という名目もあった。その将軍家茂が上洛した理由は、攘夷を誓わせる意図で天皇から呼び出されたことが理由だった。

b). その二に曰く、天下に 大赦 。(文久の改革Aに同じ)
⇒ 数か月前にも松平春嶽へ「 幕府の元老に上り大赦を論ずるの書 」の上書を送っている。八郎の心情としては、これが第一だった。池田徳太郎、石坂周造、熊三郎(弟)、お蓮(妻)らが獄中で苦しんでいることを助けるため、また、自分自身のためにも大赦を得なければならなかった。

c). その三に曰く、天下の英材を 教育 。(文久の改革Eに近似)
⇒ 「夫れ非常の変に処する者は必ず非常の士を用ふ、故に能く非常の大功を成す。・・・」(「清河八郎」大川周明著)。浪士を集めることに通じる。


 経緯は、次のようになる。(*は、世の中の出来事)

*1862/6/6(文2/5/9): 島津久光 (佐幕攘夷)が、大原重徳(公家)を勅使として江戸へ派遣することを決定する。
*1862/7/3(文2/6/7): 大原重徳 が、島津久光と薩摩兵1000人に随行して江戸へ入り、勅命をたてに幕政改革( 文久の改革 )を要求する(幕府との交渉の開始)
*1862/7/6(文2/6/10): 島津久光と大原重徳は、徳川家茂(将軍)に対して、 一橋慶喜 松平慶永 (春嶽)登用の勅旨を伝える
*1862/8/4(文久2/7/9):一橋慶喜が、将軍後見職に就任する。(松平春嶽を新設の政事総裁職に任命)
*1862/9/14(文2/8/21): 薩摩藩(島津久光ら)、江戸からの帰りに、生麦事件を起こす
・1862/10/ 2(文2/閏8/9): 八郎、水戸での活動と(同志の)大赦のための上書を書き始める
・1862/10/17(文2/閏8/24): 八郎、松平春嶽へ「 幕府の元老に上り大赦を論ずるの書 」の上書送付(田尻浜の空窪寺(現茨城県日立市)で)、その後 東北遊説へ(10/7まで)
*1862/12/17(文2/10/26): (勅使)三条実美らが 攘夷督促 のために京都から江戸に来る
・1863/1/1(文2/11/12): 八郎、松平春嶽に「 急務三策 」( 幕府大執権春嶽公に上る書 )を差出す(水戸)
・急務三策の上書を伝え聞いた伝馬町の牢獄にいた 池田徳太郎 石坂周造 が、「 志士の大赦」と「 浪士募集 」の必要とを力説した書を獄吏より高家中条中務大輔(経由した後に近衛関白へ) に送る

 お尋ね者(指名手配者中)で、郷士の身分の八郎が幕府に上書を送りそれが採用される・・・というのは、尋常ではない。幕府の上層部の人間と交渉すること自体むずかしいだろう。これを可能にしたのが、幕臣の 山岡 松岡 (虎尾の会)だ。この2人が仲介役となった。
 同じく、牢獄から公家などのパイプ役となった虎尾の会メンバー( 池田徳太郎 石坂周造 )の裏工作は効果が大きかった。獄中の囚われの身でありながら 池田と石坂は飯番を懐柔して山岡や石坂と連絡を取りあっていた。このことは尋常ではない。
 幕府に近づくことは、(この時期は監視が和らいだようだが)失敗すれば、逆に捕らえられたり罪が重くなる危険もある。

 お尋ね者になっても、牢獄にあっても、自分や仲間が捕らえられても、(虎尾の会の) 行動がぶれない信念、結束力の強さ、実行力に驚かされる。
 ← (清河八郎(初代)像、立川町パンフレット(’94年))

 この「急務三策」は、八郎の知見や知識の豊かさを裏付けする内容で、文久の改革時の幕府上層部に認めらる。

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 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
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最終更新日  2020年05月07日 22時40分19秒
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