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夜逃げをするのではありませんが、写真の容量がいっぱいになり、やむなく引越しいたします。 以下のバナーからリンクしています。 長らく、楽天さんにお世話になりましたが、システム上の都合で残念です。 こちらの情報は、削除せずに残したいと思います。 特に、川柳250年の日記は、そのまま記録として生きています。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
2008年01月29日
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年賀状は、ものごころついた頃から欠かさず出してきた。 唯一、11月末に祖母が亡くなった年だけは、年賀状を買っただけで出さなかった。 今年も楽しみのお年玉抽選。 500枚を越える今年のお付き合いの結果を、娘と女房が一枚ずつ楽しんだらしい。 「当ってたわよ…」というので、成果を聞いたら、なんと末等が4枚と言う。 「よく見たか…?」とつい聞き返してしまった。 例年であれば、当らないといっても切ってシートが10枚以上の成果。今年はヒドイ。 ところが、20枚にも満たない娘…巳年…は、3等のブランド食材が1枚当ったそうだ。 人生、仕事の時間や数ばかり多くあっても、なかなか報われない私のような子年と、ほっておいても他者さまから運が向く三柳や娘のような巳年の違いがあることを、まざまざと見せつけられた。 ところで、写真を多用してきたブログはきれいで、記録にもなりましたが、いよいよ50MBの許容量にひっかかってしまいました。 フリーのシステムだからしかたありませんが、残念ながら古い写真の整理が必要なようです。 楽天さま、もっとアルバムスペースをくださいませ…。
2008年01月29日
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2008年01月29日
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<川柳画>という用語があります。 川柳に絵を添えて、その意味を、より分り易く、また面白くしたものです。 これは、川柳にはじまったことではなく、既に川柳画に先立って、句に絵を賛した作品は、狂歌や俳諧(または発句)への添え絵があります。 狂歌では、すでに明和7年(1770)の英一蝶による『一蝶画譜』の中にそれが見られます。 猿ひき われかれを廻すと嘘は思ふらめ まわされて世を渡たる猿曳 大川の遊山舟を相手にしての舟に乗った猿曳(猿廻し)の絵が右の狂歌に添えられています。 まだ、川柳画が生まれる65年も前のものですが、その後、〈川柳画〉としてイメージが形成されていく原形質が、柄井川柳在世中の『誹風柳多留』五篇と同じ年に、同じ短詩型の狂歌で見られることは、川柳と絵が出会ってゆく過程として、興味深いことですね。
2008年01月28日
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川柳は、句会、公募などに投句して<競吟>を楽しむ一般的切り口があります。句会において入選することは痛快です。入選には、ある種のカタルシスがあります。また、句会を通じて、同行の士とめぐり合い、新しいコミュニケーションができるでしょう。 同じ、川柳を作ることでも自分自身を見詰め、真の自分と出遭うような、<作句>の喜びもあります。こちらは、句による競争というものではなく、「作家」として自らの存在自体を表現することです。これらの句から、人と人との心の繋がりができるでしょう。 そして、川柳には<読む>楽しみがあります。古川柳以来、250年間に作りつづけられている作品を読むことによって、その時代時代のニンゲンの在り方が垣間見えます。特に、風俗や習慣、考え方など、時代を生に表現した名句の鑑賞は、愉しいものです。 さらに、川柳には、作品をやり取りする楽しさがあります。出産、入学、結婚、昇進、出版…など、人生の節目節目に、お金やモノだけを贈るのではなく、祝吟を一句添えることで、そのコトバのプレゼントは一生の思い出になります。 また、大切な方が亡くなった時に作る一句は、追悼句として家族へ贈られるとともに、作者自身の心のメモリアルになります。 川柳の文化としての広さは、ちょっとやそっとでは語れません。 いっしょに、川柳で人生を二倍に生きてみませんか。 嬉しい時の一句は、喜びを二倍にし、悲しいときの一句は、悲しみを半分にしてくれることでしょう。やさしく、入門から、作家の要請、指導者の指導、専門研究者への資料提供からアドバイスまで、玄武洞川柳道場で知的汗を流してみませんか。 一度、こちらを覗いてみてください。
2008年01月27日
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絵(特に簡略画や俳画)と川柳、写真と川柳の組合せは、新しい表現世界を生み出してきました。 漫画家の宮尾しげをは、「川柳の賛に画をつけたものを、川柳画と云う」と定義しています。 川柳史の中でさいしょに登場した川柳画と呼べるような作品は、明和7年(1771)刊の『誹風柳多留』五篇にあります。 Web川柳博物館(朱雀洞文庫)蔵 これは、呉陵軒可有の序文に添えられたものです。 もっとも、「川柳画」というよりは、当時の川柳風組連の主な名を幔幕に記し、これに あぶみへもつもれ初瀬の山桜 という、おそらく呉陵軒による宣伝的な句を添えたものでしょう。とても装飾的です。 「あぶみ」は馬に乗る時に足をかける部分のことですが、「あふみ」すなわち「近江」につながり、当時大きな取次(これが後に今日でいう吟社のような作家の集まり「連」になります)の名前です。「初瀬」も山の手の大きな取次名。「山桜」は、下谷の川柳風の旗本でもある「桜木」を表しています。いわば、コピー広告にもなっています。 右から幔幕の名前を挙げると「梅」「籬」「柳水」「水仙」「若松」「兜」「松葉」「錦」「霞」と読むことができます。 柳多留も五編を迎える頃には、柄井川柳という点者が江戸の前句附界を代表する存在となり、押しも押されもせぬ点者となっていました。この絵からは、その自信が伝わってくる気がします。
2008年01月27日
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書庫で資料を探していたら、懐かしい雑誌が出てきた。 「まんがっぽ」。もう30年以上も前のものだ。 川柳とマンガは、絵本柳多留などと称して江戸時代から人気があった。 新川柳になってからも、<川柳漫画>という用語ができるほど人気があった。 今日では、独立したジャンルとして発表されることは少ないが、多くの雑誌で川柳とマンガのコラボレーションが行われている。 川柳とマンガは、互いを補完しあい、より面白い表現としてアピールをもつ。 そんな中に「衡己(ひでき)」の名を見つけた。 15歳の川柳作品が、はじめて雑誌に載った嬉しい想い出。 瓢太郎(竹本)さんのような東京のドンに混じって、私の名があるのは、今見ても嬉しい。 残念ながら、私をかわいがってくれた小鍛冶(本間)さんや、鱗太郎さんは、もう亡くなってしまった。 川柳も、大きく世代が変わってしまい、昔を偲ぶようになったということは、私も年を取った証拠なのだろう。
2008年01月26日
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川柳が嫌で、絵かきになりたかった頃、絵を描くのが大変だった。 川柳を稼業にすると、川柳を作るのが大変になった。 世の中、うまくいかない。 今は、絵を書いている時間の方が癒される。 先日、日本近代詩歌文学館への作品を描くときに出した絵具がそのままだったので、片付ける前に描きかけだった娘の絵に手を加え、句を入れた。 なんだか、昔の絵を描く愉しかった気分が戻った。 それを見ていた娘が、「私にも書かせて…」と、私の席へ割り込む。 何をするのかと見ていたら、いきなり朱墨を手に塗り、色紙へペタリ。 ついでに句を書いた。 まったく物怖じしない素振りに呆然。 私は、「作品に対して構えすぎている」とつくづく知らされた。
2008年01月25日
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「オリックス マネー川柳」の公募期間も残すところあと1週間。 毎日、集まった句の選考をしてもしても、まだ後から投稿が切れません。 昨年並みの8万5千句を超えたかなあぁ~っと、担当者としては少しホッとしていましたが、事務局のお嬢さまから、「只今まで、9万6千句来ております。10万句にも達しそうです…」というメールが入りました。 これはもう、ホッとしたのを超えて、嬉しい悲鳴です。 1日に集中して捌ける選句数は2000程度。かなり頑張って4000句。 あと2週間ぐらいの間に、残された4万句を見るのは至難のことです。 かつて、初代川柳絶頂期に、10日間に3万句を捌いた記録もありますが、その時の大先達の大変さに思いが至ります。 懸賞金がかかった<公募川柳>はブームです。多くの方が、川柳という十七音の短詩文芸に興味を持っていただけることは、川柳に生きる私にとってとても嬉しいことです。 集まってくる一句一句を読んでいくと、多くの人々の思いが伝わってきます。 さて、川柳は文芸です。 思いの丈を十七音にコトバだけ並べたのでは<詩>になりません。そこに、作者のスタンスをしっかりと盛り込むことが必要です。 ダイエットスリムになるのは財布だけ ダイエット体重よりも減るお金 ダイエット体重減らず貯金減る ブランドの財布はいつも小銭入れ ブランドの財布重たい硬貨だけ ブランドの財布中身の方安い といった<同想句>がたくさんまいります。いずれも、庶民感情を表していますが、10万句に及ぶ句の中では、アピールが足らずに落選してしまうでしょう。 入選のコツは、人の思い及ばないマネーと自分の関係を十七音にすることです。 それだけでも、同想から逃れて、入選へ有利になります。 また、ブランドの財布で例を挙げれば、 ブランドの財布ぬくめる銭がない とすれば、単に小銭だけが入っているとか、中身が少ないという<状態>だけを十七音にしたのではなく、「ぬくむことがない」という作者感情が盛り込んだことになります。このほうが、単に状況を説明した句より、<共感>が強くなるでしょう。 「いい句」は、多くの人の共感を呼ぶように作らねばなりません。 そのためには、十七音(五七五)のリズムを大切にすることと、作者の心の欠片が少しでも盛り込まれることにあるでしょう。 私も、あと1週間、いっしょうけんめいいい句を選べるように頑張ります。 これを読まれた皆様は、是非、多くの人のこころに響く「いい句」を応募してください。
2008年01月24日
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日川協から総会の案内状が届きました。 住所には、個人会員の私の名がラベルにありましたが、併せて同一住所ということだったからでしょう、 尾藤一泉 様方 川柳公論 御中 という名称だけのラベルが貼られています。 これを見た、尾藤三柳事務所スタッフが「いつから一泉が公論の代表になったんんだ…」と騒ぎが起こりました。 これは、まったく私が意図したことではなく、一通の案内状が起こしたトラブルです。 さっそく、日川協の事務局に問合せをしました。すると、2枚葉書が入っている1枚を三柳に渡してくれという。昨年までは、別々に案内が来ていたので、そんがどんな意味を持つかは解からなかったのですが、事務の「合理化」という事なのでしょう。同じ住所の川柳公論を私の「様方」で送ってきてしまったのです。 今日、川柳界では「師弟」という認識が薄れていますが、私の所では古い師弟関係があります。私たちは、親子である以前に「師弟」です。 先日も書きましたが、親子なら縁も切れます。 しかし、川柳という世界の中で、育まれてきた師弟関係は、切っても切れません。 三柳の師・前田雀郎は、三度(みたび)その師・阪井久良伎の門を追われました。いわゆる<破門>です。川柳における時代感覚が、江戸趣味から抜けられなかった久良伎をして、雀郎を破門にしたのです。 しかし、雀郎は死ぬまで、久良伎を師として、その著述にも温かく破門を受け入れています。それは、師を越えるためのやむおえぬ道であり、久良伎を乗り越えたからこそ、雀郎があるのです。 三柳は、雀郎から破門されることはありませんでしたが、雀郎の教えをさらに広く、さらに深め、川柳の体系を大きく日本の言語文化における問答の中に位置づけました。しかし、雀郎の個人誌であった、「せんりう」を継承することはありませんでした。これも、師の教えからそれを越えた領域へと進めたのです。 一泉は、三柳が師というより、もっと間近な「門前」として川柳を身につけてきました。したがって、親子として生きてきた時間より、物心ついた頃から、川柳界に連れ回され、自然と川柳に目を開いたといっていいでしょう。直接、三柳から教わることは、ほとんどありませんでした。三柳が、第三者に教えたり語ったりするのを間近で見ていて、何時の間にか盗んでいたのです。 二十歳からは、「川柳公論」委員として、師弟という関係を明確にされました。 したがって、「尾藤一泉 様方 川柳公論 御中」などという記述は、あってはならないことで、こんな公文書が出てくると 「一泉、お前は何様だと思っているんだ…」 と、破門されても仕方ない状況になってしまいます。 「川柳公論」は尾藤三柳の個人誌です。 個人誌とは、主宰者が、隅から隅まで責任を持ち、その主張がページの隅々まで行き渡っているものです。単なる同人雑誌とは意味が違います。 私も、デザイナー、編集者として「川柳公論」の編集業務に関わっていますが、私のデザイン的提案を受け入れるかどうかは三柳の匙加減一つで、すべてが編集作業を行っている者に権限があるのではなく、主宰者の裁断を待って、作業をしているに過ぎません。 日川協の方は、軽く「一泉さんが事務なんだろ…」と言っていましたが、師弟関係では「事務」職はありません。年を取った三柳の補佐的な仕事は進んで行っても、それは私の師に対する思い入れであり、師は、決してそれを喜びません。「俺がルールブックだ」と言うでしょう。 「川柳公論」は、三柳なくして「川柳公論」ではありえないでしょう。 よく、「一泉さんが公論を継ぐんでしょ…」とも言われます。しかし、公論に集まっている方々の大半は、「三柳」という存在に集まっているものであり、私もその一人にすぎません。親子だからといって、継ぐ立場に無いのは、三柳やその中間が、雀郎の残した吟社を継がなかったことといっしょです。 師系とは、師が明確であってこそ、はっきりとした脈を描きます。 私は、「川柳公論」では、自分の思いの果てを出し切ることが出来ません。 それがしたければ、自分の主宰誌を持たねばならないのです。 私は、川柳250年次業を通じて、川柳が社会と一体とならなければ、どんなに吟社の会員を増やしても、それは社会からかい離した、自己満足の文芸でしかないと感じました。 それを、具体的に主張するには、残念ながら「川柳公論」という枠では無理と感じ、玄武胴川柳道場を創設しました。今年の1月1日をその創立日とします。 2月には、その機関誌「川柳 さくらぎ」が発行されます。わたしが生きてきた川柳界ももちろん大切にしてまいりますが、もっと社会と一体となれるような活動の拠点にしたいと思っています。 かといって、もちろんのこと、もちろん、「川柳公論」から出るわけではありません。三柳の弟子として、三柳が身罷るまでは、その元で学びつづけます。これは、かつての絵画工房と似た感覚かもしれません。 レオナルド・ダ・ヴィンチは言います。 「師を越えない弟子はやくざ者だ」 と。すべての面で師を超える事は難しくとも、自分の特徴を生かし、ある部分で師を乗り越えることが弟子の役割でしょう。 さあ、川柳を生活に密着した文化として、私たちと一緒に川柳を通じた自分探しの活動に入りませんか。本当の自分というモノを見つける契機となり、さらに自分たちが作った川柳作品が、社会への共感として人々の心に残るような活動を、玄武洞川柳道場からはじめてみませんか。
2008年01月24日
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川柳の研究をするには、原典に当ることが重要です。 多くの川柳入門書が執筆されていますが、多くの場合、先行書の引用や孫引き、ひどいものになると無断のパクリとも思われる記述さえあります。 尾藤三柳という研究者の門前に居て、よかったと思うことは、常識と思われているような事でも、常に原典に当って確認してから執筆せよ…という姿勢を学んだことでしょうか。判りきっていることを再調査せよといわれ「面倒…」と思ったことも少なからずありましたが、どうしてどうして、調べなおすと、言い伝えられてきたことと随分違うといった事実の発見(再発見)もあり、「なるほど」と感じたことも少なからずありました。 25年前の『川柳総合事典』刊行時には、まだまだ川柳史料は不十分で、今日のようにネット検索の利便性が整っていなかった時代には、国立国会図書館は元より、地方の図書館まで足を運んで、「メモをしてくる」という足で稼ぐ作業に終始していました。そんな中で、メモの取り違えから、句の表記を間違ったまま執筆していたこともありました。 今日では、現地でのコピーも簡単であり、カメラもデジカメとなってからは、撮影したものがそのまま資料になるように、パソコンでの資料のデータベースも簡単に作れ、IT化は、私たちの研究を大きく支援してくれています。 さらに、ネットでの売買は、川柳史料を直接購入できる機会をぐんと増やしました。 昨年の川柳250年事業において、<目で識る川柳250年展>を開催できたのも、この25年間に古書市やネットオークションで入手した現物の史料があったからです。 そんな意味もあり、私は古物商の登録をし、少しでも有利に情報が集められるよう、体制を整えました。 脱サラをして古物を取ったときには、「古本屋でもやるのかい…」と、まわり中から笑われたものですが、意図が判ってくると、「一泉が川柳史料を集めているのなら協力してやろう…」という有難い御仁も現れ、私の川柳活動を理解してくれる人が増えてきました。 そんな中、「書画集覧」という一冊の本を紹介して頂きました。 内題は、「大成和漢書画集覧」で弘化元年(幕末)の書。編者は、廣覺道人で、江戸は大伝馬町二丁目の丁子屋平兵衛板。 「書家部」「画家部」「歌人部」「医家部」「茶人部」「連歌部」「俳諧部」「狂歌部」「雑部」「釈氏」「漢書画家部」に分類され、上は天皇から下は世捨て人までの名が紹介されています。 その中の「俳諧部」の最後のほうに川柳の名が見られます。 もっとも「川柳」ではなく「千柳」と表記されています。 古川千柳 江戸人 所謂千柳点祖 (ふるかわせんりゅう えどじん いわゆるせんりゅうてんのそ) と読めます。弘化といえば、五世川柳の晩年で、川柳一派は天保の改革にもめげず、一大勢力を誇っていた時期ですが、その川柳(狂句)界は一般社会とかい離した存在になっていました。 この書籍の編者は、おそらく当時江戸に居た五世川柳の存在を知らず、川柳点の祖を別の著名人・並木千柳と混同していたようです。 川柳・狂句を直接知る人なら、こんな間違いはしないと思いますが、書画の専門家から見た俳諧家としての柄井川柳に対する理解度は、こんな程度であったのかもしれません。 この書は、そんな意味で幕末における「川柳」という文芸の社会への浸透度が判るようで、面白く拝見しました。 昨年の川柳250年では、<目で識る川柳250年展>とそのカタログにおいて、かなり専門的な原典をもって川柳を紹介しました。 また、<サラ川>以来の公募川柳ブームによって、「川柳」がおおきく社会に浸透している時代です。 さらに、川柳が社会へ「正しく」理解されるように、あらゆる機会を通じて知らせていかなくてはならないでしょう。 それと併行して、川柳の原典資料を研究に供せるよう、収集整理と公開利用のシステムを作り上げていきたいと思います。川柳家が亡くなると、家族が無理解な場合には、川柳史料が散逸してしまいます。運良く、古書店などに回れば、リサイクルされるのですが、万が一「ゴミ」として捨てられてしまうと、大切な川柳の文化財が喪われてしまいます。 川柳史料が捨てられてしまうような場合には、貴重・不用を問わず、是非、<朱雀洞文庫>にご寄贈ください。将来の、川柳資料館ないし川柳博物館を目指して、川柳史料の収集と研究を行ってまいりたいと思います。 また、川柳関係の文物、書籍を「売りたい」と思われる方は、玄武堂までお問合せください。満足のいくお値段で、買取させていただきます。
2008年01月23日
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私にとっては、自分の事よりも他人さまの事のほうが優先する。 長い間、工場という製造現場で育ち、さらに、その責任者として指揮をとるようになると、自分の仕事だけをしていればそれでいい…という事では済まない立場だった。 「何? 機械が壊れた…」といえば、機械の修理に専念し、何よりも製造ラインが止まる時間を最小限にしなければならない。 「何、 パートさんが風と家事で二人こない…」といわれれば、研究室のスタッフを連れて現場に急行。滞りなくその日の仕事を進める。 「何? 急な工場見学…」と、いわれれば、まずは迎える場を整えて、案内に廻る。 いずれにせよ、<工場>という有機体を効率的に動かすためには、それなりの細やかな対応が要る。もちろん、生産計画や設備導入による効率アップや品質向上については、年中考えていなければならない。 <兼務>で研究室を任された私にとって、本当の仕事ができるのは、皆が定時で帰った後の夜の時間だった。 今思えば、会社ニンゲンとしてサービス残業をしてしまったが、絵具の研究という天職ともいうべき事ができたので、私にとって、当時は満足だった。 <チームワーク>。これが、組織を効率的に動かすのには必要なキーワードだが、ただ、仲良くしていればチームワークができると思っている御仁には、中間管理職の苦労は判るまい。 そんな経緯から、今日でも他人さまの仕事を優先してしまう性格は変わっていない。 我が家の殿様は、そういった<チームワーク>については全く無頓着な天才肌。 私の都合や仕事の状況などまったく感知しない。 三柳先生の仕事は、いつでも最優先で行われると思っている。 これが、<マネー>を貰っているサラリーマン業であれば、この不景気な時代に我慢もしよう。 しかし、ノーマネーで<家業>のような「川柳公論」の編集・版下作りをやらされ、「まだか? まだか?」と言われたのでは、私の稼業がなりたたない。<親子>なら縁を切るところだが、<師弟>という関係ではそれも難しい。 なんて言いながら、まず他人の仕事を済ませて、夜も寝ないで昼間寝て、自分の仕事を進めている自分を振り返ると、脱サラしても成長していないなあ~、とつくづく思う。 川柳公論は、いっちょ上がり。 印刷屋さん、お世話になっています。これから川柳公論を入稿します。 川柳のスポンサー様、こんな状況です。溜まったしごとをこれから頑張ります。お見捨てになりませぬように、お願い申し上げま~す。
2008年01月22日
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ひさしぶりに一日中制作三昧。 日本現代詩歌文学館から要請の「―川柳250年―川柳への誘い」への作品制作。 日頃、短冊の書き方や色紙の指導をしていても、さて、自分が書くとなると、また構えが違ってくる。とりわけ、現代作家60名の作品が並ぶというので、気合もやや入りすぎる…。 肩の力を抜くのに、半日ほど掛かった。 幸い、娘のいない子供部屋を占拠。日常の仕事を忘れる。 三柳には川柳で追いつかないと、一度は絵に活路を見出したが、元来の理科系のモノの捉え方は、絵画作品においても、また、川柳作品においても<理>が先走ってしまい、<情>が出てこない。学問として、分析的に川柳を見ることは得意なくせに、「作句」となると二の足を踏む。 川柳を見る眼が川柳を作る力より上であると、自分の作品が下手に見えて仕方ない。 いつの日か、作家としても大成したいが、目の上の三柳、その師系の雀郎、三太郎の作品を見るだけでも、その山の高さに距離を感じてしまう。 それでは、仕方がないので、総合力としての作品で勝負するしかなかろう。 芸術的センスはないが、器用さに任せた絵、たくさんの染筆作品から帰納的に学んだバランス感覚、雅印を自分で彫る篆刻。 自分の句を自分の書で書き、絵を添え、自分で彫った雅印を使用する。 ここまで、こだわってみれば、上手下手は別にして、私自身を表現することができたのではないか。ちなみに、絵具は、顔料から自分で作ったものであり、作品の裏打ちも自分でやった。 まあ、これで、できるかぎりのことをした。 怖いのは、染筆能力について、今確実に進歩する時期にある。数ヶ月前に書いた作品が下手に見え、一年前の作品には嫌気がさす。 今、精一杯の仕事も、翌年には粗が見えることだろう。 多くの先達の作品を眺めるとき、ほとんどの場合気負いがない。 なのに、実に自然によくできている。 もちろん、キーボードを仕事のほとんどに使っている私と、筆字を日常に使ってきた先達との違いは大きいが、それ以上に、良い作品を残してくれている。 できるかぎり多くの作品に触れ、先達の力を、少しでも盗みたいものと思っている。
2008年01月21日
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千年たったら、古典になる。平成万葉・千人一首 平城遷都1300年記念事業主催 奈良県・財団法人 奈良県万葉文化振興財団【第5回作品募集】募集詩歌部門 1、俳句 2、川柳募集テーマ:メインテーマ 「今に生きるあなたの思いを…」 個別テーマ 「愛」「別れ」「希望」「季節」「旅」「その他」応募期間:平成19年10月1日(月)~平成20年5月31日(土)応募規定:自作・未発表作品。一人3作品まで。すでに入選した人は応募不可。 入選作品の著作権およびすべての権利は、奈良県に帰属。応募方法:応募詩歌部門(俳句・川柳)、個別テーマ、作品に、氏名、年齢、 性別、郵便番号、住所、電話番号を記入。インターネットまたは ハガキで。作品および作者名には振り仮名を付してください。選 者:総括・中西進。俳句・長谷川櫂、大高翔。川柳・尾藤三柳。賞 :各部門1作品に最優秀賞(賞状・10万円) 同2作品に優秀賞(賞状・5万円)。両部門あわせて100作品に賞品。入選発表:入選者には平成20年9月頃通知。同時に公開発表。【応募先】 インターネット ハガキ 〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥10 (財)奈良県万葉文化振興財団「平成万葉・千人一首」係
2008年01月19日
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俳句には<業俳>という言葉があるが、川柳にはない。 歴代川柳嗣号者の中でも、川柳を生業とした人は少ない。 まず、初代川柳は、浅草新堀端龍宝寺門前の名主が職で、点者は「遊」であったろうか。年齢的には、引退後の専業ともとれる。そのためには、息子が門前名主を継いだという各章が欲しいのだが、それは未だなく、通説として初代川柳は、門前名主の<副業>のようにいわれる。もっとも、名主という公職の副業は許されないので、そのへんはしっかりと研究、考慮する必要があるだろう。 二代目川柳は、柄井川柳の息といわれるが、川柳風一派によって<草庵>を設けてもらっている。まさに業俳を生きたひとになるだろう。 三代目川柳も、柄井川柳の息といわれるが、武家勤めであり、二足の草鞋は履けない(スキャンダル引責説もあり…)と、早々に隠退している。 四代目は、八丁堀同心・人見周助で、これも公職の副業。後に職を取るか川柳を取るかで隠退を迫られた。業俳になりきれなかった人だ。 五代目、六代目は佃島の魚問屋主人。 こうして見ていくと、人生における生業をリタイアした人以外、<業俳>として活躍したのは、二世川柳と九世川柳ぐらいなもので、川柳で生計をたてる難しさは、昨日今日はじまったわけではないといえる。 明治の川柳中興以降の川柳家を見ると、職業川柳家と称しているひとが幾人かいる。 まず、阪井久良伎が挙げられるが、大資産家で、特に生業に就かなくても川柳活動ができたことを考えると、プロ川柳家ではなかったのではないか。 その点、井上剣花坊は、資産を持っていなかった分、川柳での活動が収入源であり、こちらこそ職業柳人といえるだろう。本人は職業を「川柳作家」と書いている。 その他、川柳を生業とした人は、「昭和川柳百人一句」の職業欄から拾うと、 職 業 阪井久良伎 : 川柳業 井上剣花坊 : 川柳作家 海野夢一佛 : 著述と川柳 近藤飴ン坊 : 川柳家 高木角恋坊 : 川柳詩人 小田 夢路 : 番傘川柳社評議員 釜永 睡花 : 川柳作家 川上三太郎 : 川柳家 麻生 路郎 : 「職業川柳人」宣言 塚越 迷亭 : 川柳作家 中村 山門 : 柳誌「川柳倶楽部」発行 ぐらいだ。戦後には、尾藤三柳と時実新子が職業川柳家として、社会的にも大きく飛び出したが、俳句界では食えても、川柳界において川柳だけで生業となったのは、この他に齊藤大雄先生くらいだろう。 かくゆう私は、三柳の真似?をして、45歳で脱サラを目指した。 といっても、体力的に長距離通勤が辛くなったことと、中間管理職の仕事上のストレスから、精神衛生上サラリーマンを継続するのが難しくなるという身体的原因もないではなかった。 そして3年目の今年、確定申告において川柳での収入がその他の収入(美大講師、デザイン・出版業)よりも多くなりそうな状況になってきた。川柳での収入は、雑誌の原稿料、公募川柳の選者料、川柳講演料、出演料など、川柳をベースとしたもの。 これで、少しは胸を張って「川柳のプロ」宣言ができそうな状態になってきた。 もちろん、プロ川柳家としての責任は重い。単なる一作家として、自分の主張だけをアピールしているという事ではすまなくなる。川柳に対しては、より客観的視野と、川柳史観に通達した価値観により、広く川柳に対処しなければならないだろう。 そのためには、更なる研鑚がひつようであり、一生学ぶ姿勢を求められるだろう。 <業俳>…私らにとっては<業柳>かもしれないが、川柳も広く見れば俳諧からの芽であり、<業俳>といえるまで、幅広く遡った部分までの力を持たないといけないのかもしれない。
2008年01月18日
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転がったとこに住みつく石一つ 大石鶴子 の句は、印象に深いものがありました。 何といっても、第一回の全日本大会の<大賞>で、その年の川柳界を代表した句と、駆け出しの川柳家であった私の胸にも深く刻まれました。 当時の日川協は、大阪の川柳家が中心になり、川柳の文芸的地位向上のため立ち上げたもので、関西に優れた指導者がゴロゴロと居たのを感じました。 その頃の三柳は、今の私とほぼ同じ世代で、東京の野口英世会館で開催されることになった第一回の全日本大会に、先輩の渡辺蓮夫氏(故人)と駈けずり廻って準備していたのを覚えています。その折、写真記録のために連れ出されたのが私で、いよいよ日本に大きな川柳の流れが生れると、心を躍らせたものでした。 その時の一葉です。 挨拶をする雲雀代表を撮ったものですが、舞台の脇に座る三柳も写っています。 この時、募集された「一」という題の大賞句も、この写真に写っています。 三柳をはじめ、日川協の大会運営者の間で「大石鶴子って何者だ?」という騒ぎがあったそうです。だれも、鶴子さんのことを知りませんでした。作者を特定する過程で、それが川柳中興の祖のひとり井上剣花坊の娘だということが判明、その因縁の深さに、一同ビックリしたと聞いています。 一句が生れるためには、もちろん作者の努力もありますが、「句を選ぶ」という行為を行う選者の大切さを今更に感じます。 その点で、250年前に前句会に名乗りを挙げた「川柳」という選者の目の確かさが、今日文芸の名称として<川柳>を頂く契機になったことが頷けます。 さて、本日の玄武洞川柳道場・錦糸町では、これまで作句を中心に学んできましたが、今年からは一歩進んで、作品の鑑賞と「選」という行為について学び始めました。 他人の句を鑑賞する力をつけることは、とりもなおさず自らの作句能力を磨くことにもつながります。 ただし、好作家が名選者とは限りません。 作家的資質と選者的資質はイコールではないのです。 専門川柳家にとっては、いずれも学ぶ必要がありますが、どちらを主に活躍するようになるかは、それぞれの持った経験と能力がおおきく影響することでしょう。
2008年01月18日
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あなたの作りたい句は、(イ)いい句 (ロ)うまい句 (ハ)目立つ句 のどれか? (イ)は、老練者でもめったに生まれない。 (ロ)は、先行句の分析、鍛錬によって自ら身につけるもの。 (ハ)は、竸吟の場で相対的に目にとまりやすい一過性のもの。(ハ)だけが、即製で指導可能ですが、本質的なものには繋がりません。 転がったとこに住みつく石一つ これは「いい句」です。 ・昭和52年5月 第一回全日本大会(東京)大賞作品 ・課題「一」 加盟吟社主宰者154人選 ・作者・大石鶴子(井上剣花坊次女・柳樽寺川柳会主宰) 「いい句」が生まれるためには、それを見極める「いい選者」が必要です。この場合は、衆知を集めることで最大公約数を得ました。個人の見落としをカバーするためにも多数選は有効です。 その150人選にも匹敵するほどの選者が、250年前の江戸に登場しました。 江戸・浅草新堀端、天台宗龍宝寺門前の名主、柄井八右衛門 俳号・無名庵 川柳。前句附の点者(選者)一種の懸賞募集(万句合)として行われ、この選句がたいへん面白かった。ここでは、世態・人情を穿ったいわゆる「いい句」「うまい句」が一般化しなかった。入選発表が内輪だけの一枚摺り(暦摺り)で、散逸しやすかった。柄井川柳が選ぶ「いい句」「うまい句」が、一冊の句集という形を取ることによって、その面白さが一挙に評判を高め、人口に膾炙していきます。それが『はいふうやなぎだる誹風柳多留』略して『柳樽』(中に、いい味、うまい味が詰まった酒樽)です。これが、一句独立した文藝としての「川柳」の発祥です。(明和2年=一七六五=)7月)この年の5月(現在の6月半ば~7月半ば) 単行本化の企画下谷竹町2丁目(上野駅山下口前)花屋久治郎(星運堂) 下谷住・水禽舎木綿(呉陵軒可有) 作者グループリーダー「いい句」「うまい句」の基準化(理論化) 人気の源をエキスとして取り出す 一句立ての面白さを支える条件《一章に問答》――「いい句」「うまい句」は問答の面白さにある。 2つの概念(2段構成)の矛盾対立 「母親は(もったいないが)騙しよい」 「かんざしも(逆手に持てば)おそろしい」 「孝行のしたい時分に 親はなし」 「本降りになって出て行く雨宿り」 現実の中の意外な真実(⇒見立て) 「冬の田は山葵おろしのように見え」(俳句との違い) 「ひん抜いた大根で道を教えられ」(俳句との違い) 「使者は先ず馬から下りて鼻をかみ」 「屁をひっておかしくもない独り者」(人生) 川柳の「川柳性」もしくは「伝統」とはこの呉陵軒の川柳観に根ざします。 「いい句」「うまい句」の基準を確立、伝統文藝としての川柳の基礎をきずき上げるとともに、以後二百数十年の歴史を開いた呉陵軒可有と、花屋久治郎、その大本ともなった柄井川柳の三人は、川柳の神とも崇めるべき大恩人であり、現在、その三人のための川柳忌、可有忌、花久忌を営んでいます。 ・ 明治以降、川柳には自分を取り巻く世界(客観的側面)に対する自分の内側の世界(主観的側面)が加わり、可触可視の世界から不可触不可視の世界までが包含されて、近代川柳一〇〇年の間、第二次大戦後は、特にこれまでの歴史にない多様化の時代を迎えています。 対象や形式は変わっても、物事を矛盾として捉え、現実の奥に隠された真実を取り出すという「川柳性」を究極とするかぎり、それは川柳であり「伝統」から外れるものではありません。したがって、外見上の用語や形式が晦渋だからといって、その心の姿を無視して、一概に「伝統」にあらずとする態度は正しくありません。 現在はまた、一般川柳のほかに、属性をもつ川柳が盛んになっています。<時事川柳> 読売新聞東日本版 年間十万句 入選率 2% 専門作家増加、体系化と実作力の充実 英訳され海外にも紹介 <サラリーマン川柳> 年間五万~八万句 選集17冊ベストセラー 文庫本化 優秀句は膾炙して古典化<企業川柳> 数千~数万 レベルも向上 一般川柳の「いい句」「うまい句」が、より待望されます。
2008年01月17日
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「オリックス マネー川柳」の公募も終盤に差し掛かってきました。 毎日、集まった句の選考に追われています。前回の8万句を上回るかもしれない集句は、時代のマネーに対する思いの深さからなのでしょう。 読んでいく一句一句に切実さを感じます。 公募川柳では、いかに、平凡でないところでお金とニンゲンの関わりを発見し、そこに喜怒哀楽を見つけるかが入選の分かれ目です。 過去に出た句や、誰でも思いつく発想は、上手く作ってもなかなか上位入選できません。 新しい自分とお金との関係を見つけ出すことが、川柳として残る作品への窓口です。
2008年01月17日
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いつもの時間、いつもの場所で「川柳学」の編集会議。 今日は、川柳学会会長の脇屋先生もまじえて、川柳250年事業で手薄になっていた川柳学会の「川柳学」における社会的活動を本格的に論じ、いくつかの決定をすることができた。 ある意味、このままの状態で継続するだけでは、どうしても先細りになることから免れない。 「川柳学」の発刊以来、3号雑誌と目されながらも、まがりなりに実績を積み、研究成果でも目新しい報告もできた。 継続は力と、進めてはきたが、「川柳学」自体の魅力を増さねば、さらなる社会的貢献が難しい状況に置かれているのも事実。 魅力ある誌面づくりは、新しい読者層へのアプローチでもあり、今日、話し合われたことは、次号の編集に生かされるであろう。 新しい一歩が踏み出された。 ★★★「川柳学」読者募集★★★ 機関誌「川柳学」では、川柳という文化の体系化についての研究発表はもちろんですが、川柳を通じた言語文化の楽しみも追いつづけてまいります。 古川柳から現代川柳、さらには、ブームともいわれる公募川柳まで、幅広く紹介しています。 また、資料を収集・展示・利用できるような川柳博物館建設への運動も行ってまいります。 川柳の指導者はもちろん、川柳に少しでも興味のあるかる方は、ぜひご購読ください。 詳細は、川柳学会ホームページにてどうぞ。
2008年01月16日
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川柳250年実行委員会の実行委員長・前田先生から早朝に電話が掛かってきた。 昨夜来、何とはなく寝付かれず、ついつい徹夜の仕事をしてしまってボ~っとしていた時だった。 「新聞見たかい?」 何を言わんとしているのか、よく判らないでいると、 「川崎誠一さんが亡くなったよ」 という。まだ、私は何を言われたのか、しばらくは判らなかった。 「死亡記事に川崎さんが載っている」 とまで言われ、ボーっとしていた頭が割れた感じがした。 先日、初代画像を返却にお宅に伺った時は、三柳と似たところがあり、いかにも古風な紳士らしく着物姿で出迎えていただき、川柳などについて歓談したばかりだった。 私のようにスポーツ面から新聞を見るようなニンゲンには、なかなか判らないが、「新聞は棒記事から」というオーソドックスな文化人には、直に判ったようだ。一緒に川崎様宅へ足を運んだ前田先生の驚きもきっと大きかったろう。 一昨年の夏、はじめて川崎様が幻の川柳像の所蔵者と判り、私がお訪ねしたのはもう随分昔のように感じるが、祖先を語り、初代川柳画像について語られた時の笑顔は、私の脳裏から離れない。あの画像が川柳250年に出てきたからこそ、その画像が看板のように広告や記事に載り、全国を駆け巡り、事業が成功へと開けた。 快く「文化のためなら…」と川柳像を貸し出していただいた川崎様は、そういう意味でこの事業の大きな貢献者だった。 川柳人の一人として心からの感謝を申し上げるとともに、その訃報に接し、ただただ哀悼を申し上げたい。どうか、やすらかに。そして、これからも川柳を見守りつづけていただきたいとお祈りいたします。 棒記事のはらりと割れる春の空 一泉
2008年01月15日
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川柳新聞の山本さんのお通夜に出席。 ほとんどが、ご親戚で見知った川柳家は川柳学会の芳忠先生だけだった。 立正佼成会式の葬儀で、私たち3人ぐらいしか外者はいなかったようだ。初めて見る参加者も全員が鞄から経文を取り出し、唱和する形の読経にびっくりした。導師様も黒いスーツの喪服で、襷をかけた姿というのもはじめて。多少のカルチャーショックに見とれているうちに、焼香の番が廻ってきた。 祭壇の肖像は、最晩年のものだろうか。やや瘠せた感じを受けた。 川柳に情熱を燃やし、《川柳新聞》という新しいメディアを世に送った方だが、その葬儀に、ほとんど川柳家らしい人が見えないのは少し寂しく感じた。もちろん、郊外の葬儀場で、高齢化した川柳界の方々が出席するには不便であり、昼間の葬儀に出席する方もあるのかもしれない。 そういえば、《川柳新聞》創刊時も、関東ではほとんど関心を示されなかったという。句会ばかりの川柳界に、メディアとしての新しい風を送り込んだのは、もう随分昔だ。 最近は、主幹自体が体を悪くされ、情報を取りに歩くことが出来なかったのか、その内容についても心配がなかったわけではない。しかし、川柳を文化として伝えようという試みに、私は少なからぬ共感をもっていた。 どうか、安らかに。遺志は、少しでも実現できるよう、努力したいと霊前に誓った。
2008年01月14日
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カラリさん、いつもありがとうございます。 今月も、忙しさに紛れて、遅れていました。カラリさんの一言で、重い腰をあげました。 玄武洞川柳道場 Web句会 12月課題「賢い」 優秀句 ロボットが俺のジョークで笑ってる 高知 勲<評>鉄腕アトムや鉄人28号に夢中になった私らの世代にとって、ロボット技術は「夢」だった。コンピューター技術の進歩、人工知能の発達など、飛躍的な技術革新は、もはや想像を越える領域にはいっている。「賢さ」の集積で作り上げられていくロボットが、ジョークを解するようになったとき、主客は逆転して、ロボットに人間が従えられる時代も近いのかもしれない。勲さんの句は、軽い表現の中に、現代の科学技術の状況と、その裏に見え隠れする危機感を見事に描いた。「賢い」という題を通じて、人間社会の現在、未来を捉えた優れた作品だ。 飽食のカラスに顔を憶えられ 宮城 ルビーの指環<評>カラスが賢いということは、予てから言われていることだが、都会を餌場とするカラスは、田園を生活の場とするカラスとは一線を隔して「飽食」である。作品の表面的には、ゴミなどを漁りにくるカラスを追い払う作者を利口なカラスが顔を覚えたという意味だが、どっこい、カラスは人間社会の中にも棲んでいる。あまり、正義をひけらかし、筋を通そうとすると、腹黒い飽食のカラスに顔を覚えられてしまうことになる。 佳作 手作りの料理を出すという餌付け 高知 勲<評>今回の集句の中で、勲さんは光っていた。他の三句もまずまず。ここでは、優秀句には及ばないが、題詠として見事な状況を描いた。オトコは、オンナの手料理というものには弱いのだろう。見事に「餌付け」するオンナのしたたかな賢さを一句に仕立てた。 合コンで次善を選ぶ処世術 新潟 伊塚紅白<評>人生、「最善手」ばかりが道をひらく訳ではない。「次善」を選択する知恵も賢さの現われだろう。ましてや、「合コン」という設定では、誰もの意識が集中する光った人より、やや視線からそれている「次善」の人を選ぶという作者の思想は、まさに「賢しい」処世術にちがいない。 賢さも程々がよし獄中記 岡山 迷 留「賢い」という題で、その題を読み込むことは、やや不利である。なぜなら、「賢い」といってしまえば説明になってしまうからだ。しかし、これを逆手に取った描写をすると、そのコトバが生きてくる。時事作品でもあり、元某次官の姿が彷彿としてくる。 その他は、暦摺(発表紙)で御覧ください。
2008年01月14日
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昨日午前6時、川柳新聞主幹の山本克夫さんが亡くなられた。 三柳とは、《東京タイムズ》時代からの旧知で、川柳公論にもよく顔を出されていたことから、私も知らない仲ではなかった。川柳250年においても、体調のことがあり、先頭を切ってとはいかなかったが、後援に回るなど陰から力添えをしてくれていた。 「川柳250年ですか。廃刊とも思ったが、川柳新聞もそれまで頑張らねば…」と、最後の力を振り絞っていたが、だんだん内容が薄れていく誌面を見ていて、よほど体調も悪いのだろうとは思っていた。 またひとり、幼い時からの私の姿を知る方を失ってしまった。氏の略歴を示すことで、深く哀悼したい。山本克夫 やまもと かつお)1932-2008 本名・山本孝二。昭和7年5月1日、群馬県生れ。東京タイムズで書籍広告を長く担当、在社中に社内の俳句会、番傘系の川柳十二社に参加する。防長新聞記者を経て、昭和51年(1976)10月、川柳新聞社より、《川柳新聞》創刊。主幹となる。 昭和55年(1980)6月、叢文社より創刊した川柳諷刺雑誌「川柳時代」の編集長を務める。 昭和64年(1989)8月、日本川柳ペンクラブ創立とともに事務局長就任。 その他、日本ビジネス川柳倶楽部顧問、朝日カルチャーセンター、公民館生涯学習講習講師のほか新聞・雑誌や公募川柳選者をつとめ、川柳普及に貢献する。平成20年1月12日没。瑞生院法永孝徳信士。享年76。 主要著書:『酒の肴になる』(1966。共栄書房) 『性生活百科』(1969。共栄書房 ) 『川柳の作り方・楽しみ方』(1995.12。主婦と生活社) 『川柳おふくろの味』(1996.11。集英社) 『楽しく始める川柳』(1998.12。金園社) 編・共著:『原爆川柳・原子野』(緑書房) 『雑学もの知り辞典』(新星出版社) 『男と女の雑学辞典』(徳間書店) 『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)等。 川柳の余韻で止まる輪転機 玄武洞
2008年01月13日
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「二代川柳」の落款のある古い扇が、山形県の骨董屋のオークションに出た。 もちろん、これを見逃すわけにはいかないが、謎の多い二代目の柄井川柳の染筆が、どうして山形にあるのだろうかと思うと、その真偽に迷いが生れる。 もちろん、山形は柳風狂句の一大結社があった。狂句ほか文芸の盛んな土地柄だ。『誹風柳多留』に最初に現れる地方投句グループも山形だった。 もし、これが本物であれば、歴史的資料のひとつになるが、ネット上での写真だけではその検証もできない。 「とにかく手に入れよう…」 と、入札だけは糸目を付けずに行った。 さきほど、その結果が出て、もう一人の江戸研究者らしき入札者と競ったが、気合の差で、私のものとなった。もちろん、本物である確証はない。 かつて、初代川柳の真筆として秋田の旧家から見つかり、十世川柳の手で「宗家三種の神器」のひとつとなった「錦木回文の和歌懐紙」も後に偽者と判明、今日ではその所在さえ不明になっている。 誹風柳多留四〇篇にある二世川柳の直筆らしい署名と比べてみると、今回落札の扇面の署名 柳多留40篇の署名 であり、だいぶ異なる。 いずれにせよ、数日中に手許に届くと思われるが、眉唾の品である。 落札の時間を前に、夢中になっている私を見て、女房は首を横に振って立ち去った。 「あなただけ楽しんでいいわねぇ…」 確かに、昨年以来、仕事を家庭に持ち込んでしまい、いい思いをしているのは、私だけだったかもしれない…。反省。
2008年01月12日
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爺ばかに輪をかけ親ばかが歩く 三柳の爺馬鹿ぶりは、厳しい親としての側面を知る息子の私にとって、いかにも目尻が下がった別人として感じてきたが、どうしてどうして、私も親バカであるとつくづく感じた。 男系の尾藤家にとって、クッキーを焼く娘など想像もできなかったし、また、そういった材料も道具も我家では視界の中に存在しなかった。 小学校5年の家庭科で料理に興味を持った私に、祖母も三柳も「男子厨房に入るべからず」の教えを説いた。家庭科の成績で「5」を貰ってって帰ると、「そんなことで喜ぶな」と釘を刺された。 以来、料理も洗濯も、幸か不幸か私にとって守備範囲外となった。 今日、娘が自分で捏ね、型を抜いて飾り付け、焼くこともしたというアツアツのクッキーを仕事場に持ってきた。決して「マイウ~!」とは言えないが、焼きたての温みが伝わるお菓子を口にし、娘も「女の子になってきた」という実感をもった。 誰が見るか判らないブログに、こんなことを書いている自分に「俺も親バカ」であると、もうひとりの自分が笑っているのに気づく。 「おかわりいりますか?」 と、言われ、ついお代わりをしてしまった。 なんとまあ、私も親のはしくれだったことだろう。
2008年01月12日
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1年間にわたり、ポスターや雑誌の写真、テレビなどで全国に流れ、現物は、東京―札幌―新潟と旅をした<元祖柄井川柳翁像>は、ようやく所蔵者の川崎さまの手に帰った。 初代川柳にとっては、長旅であったが、日本各地に広がった自らの名を文芸名とする短詩が、広く行われていることに瞠目したことだろう。 川柳250年事業において、大きなカンバンの役割も果たしていただいた川柳像は、その疲れを癒すべく、持ち主の手に戻った。 前田実行委員長から手渡された軸をしみじみ眺め、「すこしでも文化のお役に立てたことはとても満足で嬉しい。ありがとう」という川崎氏の笑顔は、私らにとっても同じ嬉しさで伝わった。 各地の展覧会の写真に目を細め、川柳250年実行委員会制作の初代川柳翁純銀メダルを手に「いい記念になります。また、柄井川柳さんの出かける用事ができましたら何時でもおっしゃってください」と、有難いお言葉もいただいた。 私ども川柳家にとって、やはり名称の祖としての柄井八右衛門には、久良伎や三面子のコトバではないが、どこかに慕うものがあり、時代を超えても、その面影を追いかけてしまう。 師系のアイデンティティーが薄くなった今日、もういちど初代川柳から始まる自らの文芸に思いを馳せ、そのルーツを確めたことは無駄ではなかったと感じた。 よきとしの翁を抱いた一千里 一泉 この古の画像に触れることができた幸せを、あらためて噛みしめている。
2008年01月11日
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川柳250年を終えて、新しい年も松が取れました。 1年間、龍宝寺の初代川柳辞世句碑脇と、墓所に翻っていた「川柳250年」の幟を巻きに、ご住職の元を訪ねました。 初代川柳の名は、この事業において文芸名<川柳>とともに、改めて社会に浸透し、多くの方が川柳名称の由来を知ったことと思います。 もう、川柳の名をお茶の銘柄と思って「かわたなぎ」などという人は少ないでしょうが、初代の名がそのまま文芸名になったということについては、目から鱗のようでした。 帰りに、「川柳発祥の地」の記念碑を訪ねました。 交差点という事もあり、てで撫でると、掌が真っ黒になりましたが、その分、おおくの通行人が目にし、撰文を読んだことでしょう。あらためて、8月の暑い日差しの下での除幕式が、私の脳裏によぎりました。 今思えば、よくこんな夢みたいな事ができたと思いますが、ひとりの力ではなく、川柳を心底愛する方々の力によって、この偉業が実現したのだと思うと、ともに汗を流した方々の笑顔が思い出されました。 川柳251年は、新しい一歩です。 江戸からの大きな文化と伝統の灯を守り、新しく開かれた世界に川柳を広げていきたいと思います。
2008年01月11日
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250年の文化とはいえ、しょせん川柳は楽しみの器。 川柳の肩書きを振りかざしたり、川柳が原因でいがみ合うなど、何と馬鹿なことだろう。 そういいながらも、江戸っ子の一途は、筋を曲げることが呑み込めない。 玄武洞川柳道場の十則にも、「川柳で争わぬこと」を項目に入れているが、まだまだ私も若い。 もっと老獪に、利害を計算して利口に立ち回ればよいのだが、生まれながらの性格はなかなか直らない。 まあ、ゆっくり温泉にでも浸かって、頭を暖めて来たい。 何?冷やすんじゃないかって…? そこが問題なんです。精神的ストレスが高揚すると、自律神経が狂って、頭が冷た~くなって、目眩がします。こんな時は、風呂にゆっくり浸かっていると、少し楽になります。 雅子さま以来、私の症状は社会的にも認知されたようですが、三柳にいわせれば俗に言う「怠け病」です。時折、人生の何もかもが嫌になって、逃げ出したくなることもありますが、逃げたらそれこそ負け組みでしょう。 4度目の年男。また川柳をはじめてもう34年。そろそろ「オトナ」にならなくてはとも思っています。幸い、周囲にはまだよい先達がおり、この一途な江戸っ子を笑いながら指導してくれます。持つべきものはよい先達とつくづく思います。 先達のコトバに浸かる 湯に浸かる
2008年01月08日
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一昨日、忙しい私の背中をつついて、「浅草に行きたい…」と三柳が言う。 本日中に終わらせなければいけない日本現代詩歌文学館の川柳展示パネル案をパソコンに向って制作、さいごのレイアウトをしていた。 「何しに行くの?」と問えば… 「江戸っ子は、浅草寺に行かないと年が明けた気がしない」という。 迷惑な江戸っ子である。 松も取れようという時期だが、境内には出店が並び、多くの人出がある。困ったのは、ほとんどのパーキングが満車なことだ。 老江戸っ子の気持を満足させるのも、エネルギーが要るものだ。 別に、浅草寺に行って何する訳ではない。 お参りをして、仲見世で買い物(私の目からは無駄遣いに見えるが…)を楽しみ、甘味処で葛きりを味あう。毎年の事といえばそれまでがが、浅草での老川柳家は、とても愉しそうだった。 私は、三柳はじめ家族が時間を楽しんでいるだけでよいが、溜まった仕事を思うと、こんなことしてていいのかなぁ~とも思う。 しかし、こうして過ごす時間が人生では大切でないか。 川柳をしている時も愉しいが、ついあくせく時を忘れ、家族を忘れてしまう。 この家族の時間が、自分のアイデンティティーを再確認させる。 この平穏な暮しが続くことをただただ願いたい。
2008年01月08日
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川柳「さっぽろ」の1月号が届き、嬉しい実感にひたりました。 第13回大雄賞を受賞することが決り、無冠の私にとっては、逆立ちするほど嬉しさを感じました。 川柳公論という土俵で、内部の委員として「賞を出す側」として活動する私にとっては、句会での特選賞や合点入賞という刹那的「賞」にしか縁がなく、<評価>される立場ではありませんでした。 このたび、川柳学会創設以来の一連の川柳に対する思いと行動が、川柳250年を通じて客観的に評価していただけたことは、何よりの慶びとなりました。 もちろん、もとより何か賞など貰おうと思って行った行為ではありませんが、結果を見ていてくれた方が居たこと、これが私にとって川柳に対して更なる貢献をしなければ…という大きな後押しになってくれます。 副賞をどうするかって? しがない大学講師の私にとっては、「生活費」としたいところですが、これは何よりも「川柳」に使いたいと思います。女房も、これまでは取上げないでしょう。 大きな夢は、川柳博物館ないし川柳文学館のような川柳専門の資料館を設立し、川柳史料の収集・保護・研究・公開というこれまで個人の朱雀洞文庫で行ってきた小さな仕事を公的にすることです。 川柳史料は、今でも毎日のように購入しています。直接、史料に当ることが研究者として孫引きや曾孫引きによる書籍の刊行だけの目先の目的を達することからの脱却です。そのためには、出来得るかぎりの史料を収集しなければなりませんが、これは金銭的にも場所的にも個人には限界があります。 すずめの泪の私の小遣いの大半が、古い虫食いの古書に消えている現実を家人は快く思いませんが、この副賞を思い切り史料の購入に使うことについては、きっと文句はないでしょう。 斎藤大雄先生には「現代川柳大衆論」のパネル討論において「否」の立場で論陣を張りました。 しかし、そんな論と論のぶつかり合いを超えて、同じ川柳を社会へ普及したいという「思い」から、ともに川柳250年事業を推進してきました。 その大雄先生の懐深さが、一泉の行為を評価してくれるということに、あらためて先輩柳人の大きさを感じました。 これを機に、さらに自分のための川柳ではなく、公のための川柳に貢献していく決意が固まりました。川柳300年への土台づくりへ邁進していきたいと思います。
2008年01月08日
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玄武洞川柳道場錦糸町教室のロビーで、川柳作品展が今日から開催された。 川柳250年の年に縁を得た、新しい川柳家による染筆作品。 この一年間で、自分の思いを十七音に結ぶ術を身につけ、それを「書く」という行為で発表する術を学んだ。 その一年の集大成ともいえる作品展は、思いのほか出来栄えが良く、満足のいく展示ができた。 友情出品として、一泉の師系にあたる三柳と脇屋川柳先生の作品、さらには、初代川柳の肖像もならび、展示に華を添えてくれた。 「川柳を書く」ということは、句会で句箋に句を書くこととは少し異なり、句の内容ばかりではなく「作品」としての完成度が求められる。さらにいえば、作家の個性を発揮できるチャンスでもある。 昨年の1月5日に、五七五の定型ということも知らずにはじめた入門者が、1年後には個性を意識するまでになったことは、おおいに嬉しいかぎりで、よく言ったことを吸収して身につけてくれたと思う。これも、それぞれの才気と努力の成果だろう。 昨日、小田原城の脇で見た俳句の発表(短冊)に比べても個性がある。 短冊の伝統的書き方を教える指導者も少なくなったことを常々感じさせられるが、この俳句の書き方も、嘆く宗匠がいるのではないか。ちょっとしたことでも、先達は欲しいものである。 それに引き換え、手前味噌だが、教室で学んだことをしっかりと受け止め、さらに自らの工夫を凝らしてくれる私の弟子連は、一を聞いて十を知るほどの進歩振りで、私は目を細めてばかり。 自分の作品の前で照れながらも誇らしげな顔は、とてもイイ。 さあ、今年もまた新しいことを学びながら、作家として社会へ個性を発揮、実力を問えるような者になっていってほしい。 「師を越えない弟子はヤクザ者である」というレオナルド・ダ・ビンチの言葉を胸に、それぞれが私を乗り越えていく日を楽しみにしてしまう。
2008年01月05日
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尾藤家恒例の正月行事は、元旦だけにして二日より近くの温泉へ。これで、女房衆の手間も半分で済むことになるだろう。代々の行事は、なかなか手間が掛かる内容だった。 自らを番犬とは思ってもいないジューン君を連れて泊るには、宿の制約も多い。 元犬飼首相の別荘を改装して旅荘とした定宿は、三が日から人出があったが、さいわい宿のご厚意で、馴れた広間を使わせてもらうことができ、尾藤家初めての正月旅行が実現した。 十国峠 少し足を伸ばして十国峠へ。快晴の富士を真向かいに、新しい年を満喫する。 温 泉 正月から温泉は、贅沢な気分だが、この二泊三日は、川柳250年で疲弊した五体に充電するのには格好の時間となった。何よりも、家人が喜んでくれたことが嬉しい。 私は、正月休みにも宿題があるのでパソコンと染筆用具を持ち込み、皆が寝静まってから作業に掛かる。オリックスのマネー川柳の応募句は、いくら選考してもまだ積み残しがあるほどの活況。選者として嬉しい悲鳴だが、同想がほとんどであることにもやや悲鳴。 ほんの少し、作句時の視点を変え、作者自身とマネーの関わりを見詰めればよい句になるのだろうが、大半は「既成概念」の十七音化に留まっている。これを超えることが入選に繋がる句となる条件であろうし、文芸性も高まると思う。 染 筆 ひとりで夜なべをしていると、娘が這い出してきてパチリ。 一泉専属カメラマンは、こんな油断をフレームに収める。 我家での仕来りのひとつ「書初め」において、今年は特別な意味がある。 3月、日本現代詩歌文学館開催の「川柳250年 川柳展」へ、現役作家として作品の出品を求められ、これに応じた書初めという名誉ある時間がもてた。写真は、例年の書初めとはちがい、短冊だけではなく、大作の半切作品を書こうと構想を練っているところ。 どんなのが出来たかって? それは、岩手の文学館でご披露させていただきます。 最終日は、買い物などをしながら小田原城下へ。城址公園を歩いていると、桜が咲いていた。 とても穏やかな三が日で天気にも恵まれたが、まさか、桜のほころびを目にするとは思わなかった。これも、温暖化の影響なのだろうか…。 さくら 今年への意欲をチャージする時間として、この旅行はとてもよかった。 こんな、平穏な日々が続いて欲しいとつくずく思う。
2008年01月05日
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三笠の時代から欠かさず行なっていることに、正月の家族写真がある。 一度だけ、ある事情からそれを行なわなかった年に、私の祖母が亡くなった。恒例行事を欠かしたことを後に悔いることになったが、巡り合わせというものに不思議な思いがした。 今年の写真。 5人と1匹は、川柳251年を穏やかに迎えた。 忙しかった昨年の正月からすると、ずいぶんと心に余裕ができた。 川柳をすることは、本来カタルシスであったが、ここ数年はストレスになっていた。 今年は、本来の川柳に戻したい。 わが道を行かん 翁の背を追って
2008年01月02日
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