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敬語ってものがどうも好きになれない。人との間に、要らん壁を作ってしまうから。 尊敬するってのは相手をそのまんま尊重することであって、相手を自分より上に持っていくことではないと思うんだ。だってそんなの嘘だから。上とか下とか無いから。単なる礼儀とは言え、言葉の上だけで「あなたの方が上ですよ」というポーズをされて嬉しいだろか。私は逆に居心地悪くなってしまう。尊敬語、謙譲語がコレね。 んで丁寧語、これは単純に、相手との距離を置くための言葉だと思う。何故距離を置かなくてはならないのか。 昔読んだ本にこんな例え話が書いてあった。うろ覚えだけど。 全ての人が同じ皮膚病を持っている惑星があるとする。その皮膚病は、触れるとひどく痛む、悲惨なものだ。生まれたばかりの頃は誰もが健康な皮膚だけれど、3歳ぐらいまでには症状が出始める。太古の昔からその病気は続いているので、人々はそれが健康な状態だと信じている。が、しかし、触れると痛いので、誰かと関係を結ぶには、皮膚に触れないようにお互い身を守らなければいけない。何かの拍子に触れてしまおうものなら、相手は激怒して触り返してくる。そうして憎み合いが始まってしまう。それでも愛し合いたいという欲求は非常に強いので、人々は危険を冒してでも関係を結ぼうとする。しかし相手の皮膚に触れないというのは至難の技で、人々は愛を求めているのに、結局憎しみばかり生み出して暮らしている…。言うまでもなく、この惑星とは地球のことで、皮膚というのは心のこと。誰もがあまりにも傷だらけの心を抱えていて、不用意に近づくとものすごく痛い。だからみんな、微妙な距離を保って生きている。仲良くなろうとしたら、痛みを覚悟しなくてはいけない。 もちろんこの例え話は敬語に関するものじゃなくて、人間関係全般のことなんだけど。でも敬語というのは、この「距離を置かなければ痛くて仕方ない」という状況を、すごく良く表している気がする。んで私は、痛いからと言って誰とも近づけないような世界は悲しいと思う。 誰かに攻撃されたと感じた時。相手は武器を突きつけてきた訳じゃなく、ただ近づこうと触れてきただけかもしれない。でも自分の心に傷があるために、触れられただけで攻撃に思えてしまう。そこで相手を憎む前に、自分の心の傷を自覚することが大事だと思うんだ。そこんとこがうまくいかないから、愛し合ってるはずの恋人同士も、数年で憎み合うようになったりする。 なんか話それちゃったな。こんなこと言って私自身、殆どの場合、うまくできずにすれ違ってしまう。でもなるべく、なぜ痛みを感じたのか、なぜ怒りを感じたのか、自分のどんな傷に触れてしまったのか…それを考えようと努力はしている。…えらい難しいんだけど。 でね、敬語ってのは、ただでさえ近づけずにウロウロしている人間同士を、余計に引き離してしまう力があると思うんだ。だからあまり使いたくない。でも常識として使うことになってるから、敢えて使わずにいると「あなたを尊敬してません」という意味にも取られかねないよね。だから難しい。本当は「あなたと近づきたいです」ってだけなんだけど、そう取ってくれという方が無理だもんね。 日本語って、そういう面ですごく損なんじゃないかと思う。感情の壁以前に、言葉で壁ができてしまうから。
2002.07.01
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同居人が一言 「僕、ワクワクしてくるとウンコが漏れそうになるんだよ」 ………やな体質だな。 一緒に本屋やCD屋に行くと、ほぼ確実に 「…やばい…」って真顔で言いに来る。 そうかあれはワクワクしてたのか。 緊張した時や「行きたくないなぁ」ってな時に、ハラが下ってくるのはよくある話。 んで、実はそういう「恐怖」というのは「ワクワク」(興奮)と同じエネルギーらしい。どちらの場合も、カラダ的には同じ反応が起きてるそうで。 だからほら、ジェットコースターやホラー映画みたいな実害のない(?)恐怖は、のーみそ的には「ワクワク」と受け止める、らしい。 ってな話を思い出して、「ワクワクうんこ」が「緊張うんこ」と同じだということに気付いたのでした。んま、放っときゃ1ヶ月は平気で出ない私には関係ない話。
2002.06.30
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以前、ロルフィングというボディーワークを受けた。これがなかなか衝撃的な体験で…全部で10万ぐらいかかったけど、その甲斐はあったと思う。 体中の筋肉を包んでいる「筋膜」ってのを、施術者が手や肘を使ってほぐしてくれるんだけど。体が面白いようにぐにゃぐにゃ変形するのね。10回通ったけど、私は一回目で背筋が真っ直ぐになって、肺に入る空気が倍ぐらいになった。10回通った後は、会う人会う人に別人だとか、幸せそうな顔になったとか言われたりした。それぐらいガツンと効く。慢性的だった肩凝りや頭痛なんかもスッパリ消えちゃったしね。 技術の性質上、下着姿で受けなきゃいけなくて、最初はエライ恥ずかしかったけど、そこは開き直るしかない。パンツに手つっこんで、びっみょーなトコをゴリゴリされたりするんだけど、そーいう時はもう、どっかに意識飛ばしとくしかないね。そんなのもそのうち慣れてどうでもよくなって参ります。で、そのワークでいろんなことに気付いた。まず、それまでの自分が、どれだけ全身ガチガチに力を入れて生きてたかということ。ほぐしてもらったホワホワの体を経験すると、どんな精神状態の時にどこに力が入ってしまうか、凄くよくわかるようになる。 何かと戦っている時、緊張している時は、肩に力が入る。怯えたり警戒したりしている時は、呼吸がものすごく浅くなって、ひどいと止まってたりする。今の自分を認めたくなくて現実逃避したい時は、足に力が入る。いつでも逃げられる体勢ってことだろうね。 それと、触られるとくすぐったくて死にそうな部分ってあるでしょ?それから、痛いともくすぐったいとも違う「それ以上深く押されると自分が壊れる!ムリムリ!ぎゃー死ぬ」って感覚の部分もあって。(こんなん日常生活じゃ味わったことなかったけど)そういうのは全部、小さい頃からたくさん感情を溜め込んできた部分なんだと教えてもらった。ネガティブな感情の時、そこに力を入れて乗り切るのを繰り返してるうち、誰にも触れさせたくない部分ができてしまうんだって。 で、施術中は、いくら抵抗しても「はいはい大丈夫だよ~別に死なないから」とかいってゴリゴリされるので、こっちもどうにか耐える方法を編み出す。で、辿り着いたのは、逆らわないということ。抵抗して力を入れてしまうと、痛いのやくすぐったいのは余計ひどくなる。難しいことなんだけど、勇気を振り絞って一切の力を抜いてみる、どうにでもしてくれと任せきってみる、そうすると不思議と苦痛は消えるんだ。ああ、くすぐったさや痛みを使って、自分の中の傷を守ってたんだ、触れないでくれっていうサインだったんだ、って実感した。 これは日常の苦痛にも通じることなんだろうな、と思った。苦しくてもジタバタせずに、流れに身を任せる。これは体の力を抜く以上に、とても難しいことだけど。まだまだ私にはできないけど。そうやって生きていけば、きっと楽なんだろうと思った。 そんなこんなで、あれ、オススメ。肩凝りとかが治らない人にもいいし、体と気持ちの関係に、たくさん気付けるという点でも。あ、別に回しもんじゃないですよ。
2002.06.29
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TVでサッカーを見ながら思ったこと。 サッカーにはサッカーのルールがあって、みんなそれに同意した上でゲームをするわけじゃない?選手はもちろん、見ているほうも真剣。あのゴールにボールが入るかどうか、それがもう大問題になる。 でもさ、サッカーのルールを全く知らない人、極端な話、ゲームという概念そのものが無い人がいたとして(犬とかでもいいよ)。そんな人やら犬なんかから見たら、ボールがどこに行こうと、どうだっていいわけだ。「あの人たち、なんであんな真剣にボールなんか蹴って、走り回ってるんだろう??」って感じで。 本当はボールがゴールに入ろうが入るまいが、誰も死んだりしないし、今日もごはんは美味しい。それでもわざわざ、そんなこと承知の上で、みんなゲームというものを創り出して、真剣に遊ぶ。 なんかね、この世界そのものが、サッカーと変わらないんだと思った。ふとした瞬間に。 みんなが今見ているこの現実、その中では人も死ぬし、信じられないぐらい辛いこともいっぱい起こる。でもそれすら、あくまで真剣な遊びでしかないんだ。みんなで同意したルールに則ってこの世界は作られている。これをもっと外側から見たら、サッカーと同じ程度のことなんだろうって。「みんな真剣にやっとるなぁ…頑張れ」ぐらいのね。 みんな、同じような人間に育てられて、同じように学校行って、おんなじTV見て。世界のあれこれが、もう揺るぎようのない「絶対」のような気がしてしまってる。あまりにも小さい頃から、何度も何度も同じことを刷り込まれてきたから。ホントは全部、人間が作ったルールでしかなくて、前提を取っ払って取っ払って取っ払っていけば、正しいことも間違ったことも、なんにもないのにね。悲しいことも嬉しいことも、ヒトがそう「受け取る」だけ。モノや現象は、ただそこに「ある」だけなんだ。 なんか、書いてしまえば当たり前だし、頭ではずっとそう考えてきた。けど。サッカー見てて「ああ」って思ったんだよ。こういうことだよな、世界はこうなってるんだ、って。実感したというのか。 気が狂いそうなとき、私はこんなことを考えて乗り切ったりする。何でもありなんだって。ゲームがゲームと思えなくなってるだけなんだから、って。
2002.06.27
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