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これまで参加していた、某書評サイトに少し距離を置こうと決心した。ここは、抽選で献本が当たったら書評を書かなければならず、その際「審査」なるものがある。距離を置こうと思った、直接の理由は、この「審査」が何度となく遅れたからだ。その度に、苦情を挙げていたのだが、連絡ミスだったという理由で同じことが繰り返される。それならば、ほんとに「審査」っているのと言ったわけだが、営業上の理由で、「審査」が必要だと、同じ理由の繰り返し。
それなら、ランク分けをしているのだから、少なくとも、「免許皆伝」にはいらないでしょと言っても、放置プレイ。それまでにも、色々なことを言っていたのだけど、納得がいくまで、もう他の第1回免許皆伝の方と同程度にしか投稿はしないと宣言した。(他はほぼ休眠状態なので、実質投稿しないということ。こちらの方も、問題提起や改善提案をしているのだが)ところが、これが気に食わない会員が何人かいて、殆ど個人攻撃のような書き込みである。私の方から、その人たちを攻撃したことはないのに、あきれたことだ。どうも、私が、サイト側に色々言うのが気に食わないらしい。こういう人間は、どこにでもいるが、いくつか論点をあげてみよう。
○サイト側とレビュアーは対等か
私は対等の関係だと思っているが、只で使わせているのだから対等の関係ではないという会員がいる。しかし、規約第18条 書評と献本についての第9項には、次のようにある。
第9項 書評その他、利用者が自ら作成し投稿した文章や画像などの著作権は、利用者に属します。しかし同時に、本運営主体は、本サービスや書籍のPRやマーケティングの目的で利用者の著作物を引用することができることとします。
この手のサイトは大体そうなのだが、サイト側も書評を使うことができると明記してある。つまりは、掲載の代わりに、書評を使ってもいいよという相互互恵の関係である。これは、無料のブログなども同じだ。何らかのメリットがあるからこそ、このようなビジネスが成り立っている。誰もボランティアで、このようなものを作りはしないのだ。これがどうして対等ということにならないのだろう。対等である以上、要望を言うのは当然のことで、場合によっては、レビューをアップするのを止めるということを言うのもありだろう。これだけ説明しても、理解できないどころか、まったくフェーズの違うことを持ち出して、平等ではないと主張するのもいるから、もうどうしようもない。
○議論が始まると他のレビュアーは消耗するか
そういう人がいることは否定できないが、それが当然のことだとは思えない。そもそも、私とサイト側のやり取りに、勝手に入って来る人間がいるから議論になるのだ。そのやり取りを見て、勝手に消耗したと言われてもこちらも責任は持てないし、持つ必要もない。たとえば、野球で、選手が球団側と自分に関する契約改正で激しくやりとりしていたとして、それを見聞きしていた、実際の交渉にも関わってない、他の選手が辞めたとしたら、その交渉していた選手に責任があるとでもいうのだろうか。少し考えればわかることだと思うのだが、本当に論理的な考え方ができない連中だ。
○サイト側への要望は、サイトと直接やるべきか
以前、ある会員が、他のレビュアーについて苦情を言ったことがあったらしい。らしいというのは、オープンになっていないからで、その結果、一人は退会、一人は実質休会状態になってしまった。これは、どっちもどっちという感じもしなくはないのだが、裏でどんなやりとりがあったかは、まったくわからない。この時は、ただ、結果から推測することしかできなかったのだ。こういったことを、この連中は、望んでいるのだろうか。何かあれば、堂々と、オープンにして、議論するのが筋というものだろう。
そもそも、私がサイト側にどういう方法で要望を伝えようと、それは、私の自由であり、あくまでサイト側との問題のはずだ。なぜ、したり顔で、第三者がしゃしゃり出て、反論されると、どんどん感情的になるのだろう。公序良俗に触れない限り、他人の自由を最大限許容するのが、民主主義国家の原則ではないのか。
おまけに、まるで私が掲示板を荒らしたような中傷をする。私は、単に、言われたことにきちんと反論を続けているだけだ。反論が嫌ならやめればいい。何か言えば、反論があるかもしれない。当たり前のことだろう。それが分からないものは、ネットに書く資格はない。よくあるような無責任な炎上とは訳がちがい、私は淡々と反論しているだけだし、これからも何かあれば同じようにする。
「私は今のままでいい」という意見もいくつかはあった。しかし、それは自分の考えであり、別の意見を封じ込めるために言ってはいけない。「私は今のままではいけない」と思っている。会員として、そのことを言うのは、当然の権利であるし、義務でもある。そもそも、全会員が100%満足しているようなことなどあり得ない。だからこと、サイト側は、いろんな意見を吸い上げて、それに対応していく必要があるのだ。もちろん、全部を会員の言う通りにすることはできない。しかし、対応方針位は迅速にだすべきだろう。その方針が受け入れられなければ、それに従った対応をするのも、もちろん会員の自由なはずである。
私は、これまで、サイト側への指摘しかしておらず、第3者や、私を非難している連中を攻撃したことは一度もない。感情的な物言いで、自分たちが、掲示板が荒れる原因を作っておいて、人にその責任を押し付ける。自分の言うことに反論されると、すべて相手が悪いと陰でこそこそ言う。小人度し難しとはこのことだろう。
○ビジネスでやっているから迅速を心がけるべきではないか。
これも、兼任でやっているという呆れた反論があった。兼任だろうが、専任だろうが、ビジネスには変わりはない。あくまでも事業の一環としてやっっており、決してボランティアではないのだ。そして、ビジネスである以上、厳しさが付きまとう。あんたら、自分たちが趣味で作った、仲良しクラブと勘違いしていないかと、ただあきれるばかりだ。
○サイト側が「審査」は必要だと言っているのだから従うべきだ。
大本営発表をそのまま信じて、納得しろということだろうか。対等である以上、納得できる理由を聞くことは当然だろう。こういう発言があると、本当に日本人は、ムラを作るのが好きだと感じる。
○私が感情的か
鏡のような対応を心がけているだけ。感情的な攻撃には、そのように見えるよう迎撃する。理知的な議論で、こちらが感情的になったことは一度もない。理知的な議論ができる人に対しては、議論の後、結構仲良くなったりしている。今回は、相手がそうでないので、同じように返しているだけ。
私がツイッターにつぶやいた言葉を見て、連中の中に、気分が悪いと言うものがいた。しかし、それは自分たちがやっていることに、同程度の反応があるということに気が付かないのだろうか。感情的な反応には、同じような反応が返ってくるということである。(まあ、そう見えるような書き方をしているところもあるが)。私も、攻撃されれば、当然の権利として、迎撃はするが、こちらから攻撃をしかけたことはない。まあ、自衛隊みたいなものである。しかし、そのことが、鏡に写った自分を見ているということが分からないとしたら、もう救いようがないだろう。
○某ネット古本屋の退会は誰のせいか
私と議論になったうちの一人が、ツイッターで明らかに私を個人攻撃している悪口を言っていたのを見つけたので、抗議したところ、それを言い訳にして、「本が好き!」を退会してしまった。ツイッターは公開されているものという意識がなかったのだろうか。悪事が発覚したのに、開き直って退会とは、まるで幼稚園児のような行動だ。悪いことをしたら、まず謝るのが筋ではないか。小学校で習わなかったのか。こうなると常識を疑ってしまう。もちろん退会は自分の意思であり、誰のせいでもない。
それに関して、また例の連中が集まって、まるで私が追い出したかのように言っている。悪いのは100%悪口を言った方だろう。悪事を働いた方を擁護して、なぜ私が非難されなければならないのか。まるで、集団でいじめに加担しているアホな中学生レベルの反応ではないか。事の理非を判断する力に欠けているとしか言いようがない。
一般に、日本人は、議論が下手で、何かあるとすぐ感情的になってエキサイトする。そして、周りが見えず、自分たちの言うことが絶対正しいと思い込む。もっとも、すぐに徒党を組みたがるのは、万国共通か?いずれにしても、反論される覚悟がなくては、ネットで主張すべきではない。
それまでは、サイト側からは、遅ればせながら、回答らしきものがあったので、しばらく暖かく見守っていこうと思っていたのだが、こういうことがあると、もうあそこに寄り付きたくはない。そうはいっても、登録している蔵書のが莫大なうえ、他に蔵書管理方法もないので、仕方なく使い続けているのだが。これを使うことは、既に1000以上の書評を提供しているからには、当然の権利というものである。
(追記)
考え方の違いがあるのは当然で、それが民主主義の根幹をなすものですから、一方的な考え方を感情的に押し付けるものでない限り、尊重したいと思っています。理性的な意見には、例え反対でも、意見自体は尊重する。決して、人格に及ぶようなことは言わないというのが私の主義です。
相手がそうでない場合は、それなりの対応になりますが。
また、議論が平行線なら、それ以上続けても仕方がないので、打ち切りを宣言します。
(追記2)
これは、ムラを作って、仲間内だけで本の感想をしこしこ話していたい派と、私との、埋めがたい考え方の相違も原因があると思う。この違いは、前々からうすうす感じていた。
私の場合、ムラ内でやっているようなことには興味がない。自己啓発の一環として、色々な書を読み、書評を書く。同じ書くなら、少しでも良い書評にしたいし、感想文もどきしか書けない者たちとは、一線を画したい。ムラ社会に興味がないからこそ、要望があれば、サイト側にも伝えるし、自分の居心地が悪ければ、ムラに留まる気もない。正直、誰が決めたか分からないようなムラ社会のオキテなどどうでもよいのだ。しかし、、自分たちでオキテをつくり、それに従うことを他に求める連中がいる。これこそ、私がもっとも嫌うことだ。そもそも、後から来て、勝手にオキテをつくり、先住民にそれに従えという。何を考えているのか。
丸山眞男は、日本人は蛸壺社会だと看破した。こういうことがあると、彼の提唱したモデルの適用範囲というのは、非常に広いものだと実感する。仲間内で、感想文を披露しあっているばかりではなく、たまには、蛸壺から出て、不特定多数の人間を意識した、書評というものを書いてみる気はないのだろうか。
(追記3)
あそこの掲示板に書いたコメントをかなり削除した。提言のようなことも多いのだが、サイト側がやる気があるのなら、既にひかえているはずだし、例の会員たちのやり取りは、この記事一つで済むからだ。Fade awayの一環ということもある。
※本記事は、2015.10.31付で、 「文理両道」
に掲載したものの最終稿の抜粋です。
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