「このまま多額の税金を使って鉄道を維持すべきか、あるいは資金を使うならもっと使い勝手のいい交通機関にできないか、」
「例えば、鉄道に比べて、バスは学校や病院の目の前に立ち寄るなどこまめに運行でき、本数も増やせるので、地域住民の利便性が増すこともあるでしょう。」
「普段は利用していないが地域の象徴だから廃止してはならない-という情緒的な議論は避けるべきです。」
これらの主張は、既に当ブログで、何度も取り上げてきたところです。
「バスが○○の近くを通るようになったから(鉄道より)便利になった」このような声も、多様な交通需要の中では当然出てきますし、否定するつもりはありません。 各地の事例、特に鉄道からバスに転換した地域を見てみると、バスが病院なり学校なり、主要な地域の施設に立ち寄ることにより、所要時間が大幅に長くなった例が見られます。そもそも、商店も含めた地域の方が利用する公共施設の配置が、中心市街地を外れた場所に配置されている事例が増えています。駅を中心とした場所にコンパクトになぜ配置されなかったのか。バスは路線の開設も廃止も容易に見えますが、実際は、廃止が許可制から届出制になったことにより、容易な廃止だけが進んでいます。ハードやソフト面での「まちづくり」と連動させて、しっかりした筋のある公共交通機関を構築し、そこから派生する二次交通を充実させる。これが公共交通の利便性向上と、まちの発展につながることになるでしょう。「筋のある公共交通機関」として、既存の鉄道を最大限利用しない手はありません。
もう一点、もう30年以上前になりますか、国鉄赤字ローカル線廃止問題が浮上した際、「時刻表から私たちの街が消える」との廃止反対スローガンに対して、「情緒的な反対はすべきでない」「鉄道のない街に対して失礼だ」との反論が寄せられていました。「地域の象徴」とか「時刻表に載る」ということが「情緒的」かどうかはわかりませんが、鉄道が地域のアイデンティティになり得ること、地域の名前とそこまでの行き方を、全国的な媒体に明確に掲載、PRされる広告効果、これらは決して馬鹿にできないものと考えます。地域が鉄道を利用しない理由と「情緒的」ということとは、別の問題です。前者は、「乗る仕組みづくり」を地域で(あるいは地域外の人と一緒に)考え実践していく。後者は、地域の鉄道に抱くアイデンティティを、「見える化」(金銭価値への変換)した上で、「乗る仕組みづくり」や「まちづくり」と連動した展開を積極的に行えば、「情緒的」であるとの指摘は、むしろ地域活性化へのプラスになります。
「路線別の利用状況などの情報提供を日ごろから積極的に行う必要があります。」
鉄道運行に関する情報の地域への開示は、まさにその通りだと思います。しかし、国鉄赤字ローカル線廃止問題の際にさんざんやり玉に挙げられた、路線別収支係数のような、幹線とローカル線との収入の分配方法でいくらでも数値が変えられるようなデータの出し方は、線区の存廃について誤った判断を招きます。このときは、収支係数の発表が赤字線廃止の世論形成に大きな役割を果たしましたが、実は、国が路線存廃を判断した根拠に、収支係数は使われていません(特定地方交通線の選定は、輸送密度が判断基準となりました)。現在、特定地方交通線の選定基準(4,000人/キロ/日)に満たない輸送密度の線区は、JR北海道営業距離の内、75%を占めるに至っています。(「提言書」別紙44ページ)
「乗る仕組みづくり」「稼ぐ姿勢」を持ち続けることを大前提として、地方において鉄道が存在する意義は、少子高齢化が進み、コンパクトシティあるいは地方への投資が「選択と集中」といわれる中で、鉄道の存在がいかに地域経済に効果を与えるかを重視すべきで、輸送密度だけが存廃の判断基準ではなくなってきています。このことは、指摘しておきたいと思います。
全体的に、国広氏の論調は、会社の不備や問題点を厳しく指摘しているように見えて、会社が負うべき鉄道運行の義務を縮小するという、鉄道会社側の思惑に立脚している点で、企業防衛的な視点を感じずにはいられません。(続く)