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(伊達政仁 作)沖縄本島北中城村「荻堂(おぎどう)」は世界遺産の「中城グスク」の北側に位置し、古いカー(井泉)や縄文時代の貝塚を有する歴史の深い地域です。「荻堂集落」は県道146号線を中心に広がっており、東側は「大城(おおぐすく)集落」西側は「安谷屋(あだにや)集落」に挟まれています。「荻堂集落」の中心部に「イーヌカー(上の井泉)」があり、北側に隣接して「荻堂のシーサー群像」があり「荻堂のかりゆしシーサー」とも呼ばれています。北中城村文化協会の「シーサーで景観を創る会」により14体のシーサーが設置されています。(新垣正良 作)(安里幸男 作)(山下由美子 作)「荻堂集落」の北側に琉球石灰岩の丘陵崖下に形成された約3,000~3,500年前の「荻堂貝塚」があります。この貝塚は沖縄本島東海岸の中城湾に臨む標高約140mの丘陵に位置します。沖縄最古級の琉球縄文土器時代前期の貝塚として知られており、1972(昭和47)年の5月15日に国に史跡に指定されました。この貝塚は1904(明治37)年に鳥居龍蔵氏により発見されました。鳥居氏は人類学者、考古学者、民族学者、民俗学者で1904年に沖縄本島や石垣島の貝塚を調査して沖縄の先史文化を初めて紹介しています。(辺土名寿男 作)(山内米一 作)(穴倉広美 作)「荻堂貝塚」は1919(大正8)年に東京帝国大学(東京大学)の松村瞭氏により発掘調査が行われ、三枚の堆積層(表土,混貝土層,基盤の石灰岩)からは各種の南西諸島産貝殻、魚骨、獣骨の他にも土器、石器、貝製品が出土しています。特に土器では先端が二又の形をしたヘラで描かれた平行線文、山形文、爪型文などの文様が施された「荻堂式土器」が発掘されています。「荻堂式土器」の特徴は山形の口縁で平底の深鉢形を主体とし、わずかながら壺形を伴っています。文様は口唇部と口頸部に描かれ、口縁内面や胴下半部は文様が施されません。「荻堂貝塚」からの出土品は南島先史時代研究の標準資料となっています。(比嘉泥佛 作)(佐野壽雄 作)(国吉安子 作)14体の「荻堂かりゆしシーサー」はイーヌカーと呼ばれる井泉の北側に隣接して設置されています。「荻堂集落」はカー(井泉)の数が豊富で、他にもヒージャーガー、メーヌカー、イリヌカー、タチガーという井泉からも豊かな水が湧き出ています。「荻堂集落」周辺の地質は水を通しやすい琉球石灰岩と、水を通さない島尻層群(クチャ層)で構成されています。そのため隣接する「大城グスク」や「ミーグスク」更には「メーヌマーチュー」と呼ばれる丘陵に雨が降ると其々の層の境目を高所から低所に向けて水が流れ込み、地層の割れ目から湧き水が出る仕組みになっています。「荻堂集落」は古より豊富な水源と共に栄えた歴史を持つ「水の集落」と言えます。(糸村昌祐 作)(新垣秀昭 作)(外間裕 作)「荻堂貝塚」の丘陵北側の麓に「タチガー」と呼ばれる井泉が湧き出ています。この井泉だけは「荻堂集落」の他の井泉とは水源が異なっています。この井泉には清らかな湧き水が未来永劫に残る事を願い、祠地蔵尊(ほこらじぞうそん)が建立されています。その昔、水に濡れた犬が出入りしている小さな穴を見つけた人が、その穴を掘り下げて行ったところ、豊富な水が脈々と湧き出てきた話が伝わります。この「犬が見つけた湧き水」という有名な民話に由来したカー(井泉)が「タチガー」です。(青柳晃 作)(荻堂かりゆしシーサー)「荻堂集落」の西側丘陵の頂きには「荻堂の歌碑」が建立されています。この歌碑の挽物口説(ひちむんくどぅち)は、挽物大工が那覇市の若狭町から中部の「荻堂/大城集落」の坂を通って具志川の田場や天願へ仕事に出かける時に歌われた道中歌です。歌碑には挽物口説の有名な一説が記載されています。『(津波) あの坂 何んて言ゆる 坂だやべるか (主) あれややう津波 津波やう 荻堂大城の坂んて 言ゆんてんと (津波) あんす高さる坂も あやべさや』また「荻堂集落」は日本で一番早く咲くひまわりの祭り「北中城INひまわり」が開催されるなど自然と文化が共存する、平穏でゆとり溢れる集落となっているのです。
2022.02.01
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(鬼大城/大城賢雄の祖先の墓)沖縄本島北中城村にある「大城(おおぐすく)集落」は「歴史のさんぽ道」で知られ、周囲の自然環境と共存する沖縄の伝統的な集落形態を留めています。「大城集落」には民俗学的に価値のある拝所やカー(井泉)などの文化財が数多く残されており、旧暦7月17日には村のシンボルで守り神でもある旗頭が集落内を練り歩く「旗すがし」が行われます。また、隣接する「荻堂集落」と「大城集落」の成り立ちと関連する「兄弟棒」などの伝統行事が現在も行われ、有形無形の文化財と共に歴史的形態を多く残しています。(アガリガー/東井泉)「大城集落」の東側に「アガリガー(東井泉)」と呼ばれる井泉があり、集落の村ガー(共同井泉)の一つです。築造された年代は不明ですが、昔から「アガリガー」は主に集落東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴び等の生活用水として利用されました。戦前は旧正月2日(現在は1月3日)に集落の有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。現在も水源が豊富な「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られ、一年を通じて住民が訪れて祈りを捧げています。(メーチュンナー/前喜友名)(ウカンジャーモーの拝所)(拝所の祠内部)「アガリガー」の西側で「大城集落」に通る県道146号線の北側には「大城遺跡」があります。この遺跡の「メーチュンナー(前喜友名)」と呼ばれる場所には森の丘があり、その頂上には「ウカンジャーモー」という平場が広がっています。この広場にはコンクリート製の「ウカンジャーモーの拝所」が南向きに建立されています。拝所の祠内部には霊石が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。祠内部の正面奥側には琉球石灰岩の大小様々な古い岩が積み重なり、その前方にはコンクリート製ブロックが幾つも積まれています。(アガリヌカー)「ウカンジャーモーの拝所」の南西側に「アガリヌカー」と呼ばれる井泉があります。このカー(井泉)は「大城集落」の大半の住民が飲料水として戦後に上水道が整備されるまで利用してきました。戦前は旧正月元日の早朝に子供達が井泉の水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。大正14年(1925)に井泉の上にコンクリートでゴミ除けの屋根が取り付けられ、1959年と2001年にそれぞれ改築されました。また、井泉には魔除けである2体のシーサーが設置され、井泉の水を悪霊から守っています。(ヌンドゥルチ/ノロ殿内)(ヌンドゥルチ内部)「アガリヌカー」の北側に「ヌンドゥルチ(ノロ殿内)」が東側に向けて建てられており、建物内部にはヒヌカン(火の神)、霊石、ウコール(香炉)が祀られています。この「ヌンドゥルチ」はかつて「大城集落」の祭祀を司った「大城ノロ」の屋敷があった場所に建てられた拝所です。ノロ(祝女)は琉球王府により正式に任命された神女であり、1つの集落から複数集落の祭祀組織を統率しました。各集落でノロの家柄は決まっており、ノロの住む住居はノロ殿内と呼ばれ、守護神としてヒヌカン(火の神)を祀っていました。(チュンナーニードゥクル/喜友名根所)(チュンナー根所の内部)「ヌンドゥルチ」の北側で「大城遺跡」の最北端に「チュンナーニードゥクル/喜友名根所」があります。「大城集落」の発祥に関わる根所で「宜野湾間切喜友名村」から移住して「大城集落」の始祖となった人物が住んでいた屋敷がありました。集落の祭事巡拝では「ヌンドゥルチ」のヒヌカン(火の神)の次に「チュンナー根所」を拝します。「チュンナー根所」は丘陵の南側斜面に位置するため、根所の敷地内は三段の段差を形成しています。戦前は敷地の中央にカヤブキヤー(茅葺屋)の母屋があり、その右手には瓦葺き造りの神アシャギ、更に左手側には家畜小屋が建っていたと伝わります。(チブガー/チブ井泉)(チブガー庭苑のシーサー)「チュンナー根所」の西側で県道146号線沿いに「チブガー(チブ井泉)」があり「大城集落」で最も古い村ガー(共同井泉)だと伝わります。「チブガー」は「大城集落」のウブガー(産井泉)で新生児のウブミジ(産井泉)として利用され、更に集落で死者が出た場合に身体を清める水も「チブガー」から汲んでいました。水量が多く住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水に利用された貴重な井泉でした。また、多くの人達が「チブガー」に集まり出会いの場として大きな役割を果たしていました。「チブガー」に隣接する「チブガー庭苑」にはユニークなシーサーや東屋もあり、現在も住民の憩いの場として重宝されています。(イリヌカー/西井泉)「大城集落」の西側で県道146号線沿いに「イリヌカー(西井泉)」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の主に西側の住民が飲料水として利用されていました。大正11年(1922)に井泉の上にゴミ除けのコンクリート製屋根が設置されました。「イリヌカー」は水量が豊富であったため昭和10年(1935)頃に、この井泉を水源とした簡易水道が整備されました。「イリヌカー」の水は上の山へ続く琉球石灰岩の中に掘られた水路を通り石樋から流れ出します。言い伝えによると、19世紀後半に「大城」の屋号吉里の「ハブウスメー(ハブ爺さん)」と呼ばれた「新垣吉羊」さんが若い頃に勇敢に水路を掘ったと言われています。(ウフグシク/大城グスクの入口)(大城御嶽)(ウフグシク/大城グスクの拝所)「大城集落」の北側にある「上の杜」の琉球石灰岩丘陵の中央部に「ウフグシク(大城)グスク」があります。標高は150〜160mで最高部は北中城村で1番高い場所となります。グスクの頂上には「大城御嶽」があり数体の神が宿る琉球石灰岩が祀られ、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「北中城村史(1971年)」には「ウフグシクグスク」は「英祖王」の第三子である「中城王子」が居住したグスクであると伝わります。ちなみに「英祖王」は沖縄本島で最初に王朝を築いた"神の子"の王統とされる「天孫氏」の最後の王です。同じ北中城村には「英祖王」に王位を譲った「舜天王統」の第3代国王であった「義本王」の墓があります。(ウフグシク/大城グスクの石積み)(鬼大城/大城賢雄の祖先の石棺)(鬼大城/大城賢雄の祖先の石棺)「ウフグシク(大城)グスク」には戦前には沢山の石積みが残されていましたが、戦時中には旧日本軍機関銃座の造築にグスクの石積みが使われました。現在、石積みはグスクの北側に僅かに残されています。この石積みの向かい側には琉球石灰岩の2つの洞穴があり、それぞれに「鬼大城(大城賢雄)」の祖先の石棺が納められています。石棺にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。ちなみに「鬼大城(ウニウフグシク)」は大城賢雄(後の越来賢雄)という15世紀の琉球武将です。石棺にはそれぞれジュウニフン(12本)のヒジュルウコー(火を付けない線香)がお供えされている事から「鬼大城/大城賢雄の祖先」の子孫が先祖供養として拝したと考えられます。(ミーグスクの入口)(ミーグスクの御嶽)(ミーグスクの火の神)「大城集落」の北側で「ウフグシク(大城)グスク」東側に隣接する丘陵に「ミーグスク」があります。「ミーグスク」の入口は琉球石灰岩の大岩が城門のように構えており、通路を進むと行き止まりの崖上に「ミーグスクの御嶽」があります。この御嶽には「ミーグスクの火の神」が祀られており「ニービヌフニ(ニービ石)」製の霊石が設置されています。琉球石灰岩の大岩に空洞穴があるように見えますが、上部の大岩が下部の岩の上に乗っている状態にあります。神の業として信仰の対象となったと推測され、かつて旧暦9月に集落行事として御嶽から「今帰仁」を遥拝していたと伝わります。「ミーグスク」は「大城集落」のルーツが「北山」の「今帰仁」にあると考えられる興味深いグスクとなっているのです。
2022.01.27
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(辺土名寿男 作)沖縄県北中城村安谷屋(あだにや)に「第一安谷屋交差点のシーサー群」があります。「第一安谷屋交差点」は「北中城インターチェンジ」入口に程近いため「北中城インター入口交差点」や「安谷屋西交差点」とも呼ばれています。県道81号(宜野湾北中城線)と県道29号(那覇北中城線)の交差点で、交通量が多い主要な道路で知られています。この交差点に「シーサーで景観を作る会」が主導して、北中城村を中心に活躍するプロとアマ15人の陶芸家による15体のシーサーが設置されています。シーサーは魔除けの役割があり、多くの車が行き交う「第一安谷屋交差点」で交通安全を祈願しています。(穴倉広美 作)(新垣正良 作)「第一安谷屋交差点」がある「安谷屋集落」では「ウマチー」と呼ばれる稲(旧暦2月)と麦(旧暦5月/6月)の収穫を祝う農耕に関わるお祭りが行われています。「ウマチー」は琉球王国時代の公的な祭祀で、明治時代以降は其々の月の15日に行われるようになりました。「安谷屋ウマチー」は「仲の神屋」「根所火の神」「安谷屋グスクの七殿」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「邊土大主之墓」「熱田神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」を巡り、神への感謝と集落の住民の健康を祈願します。ちなみに「仲(ナーカ)」は「安谷屋」発祥に関わる草分けの家筋だと伝わります。(青柳晃 作)(山下由美子 作)「安谷屋集落」では旧暦6月25日に「カシチー」という新米の収穫を祝う祭りが行われます。集落の各家庭では収穫した糯米(もちごめ)を蒸して作った「カシチー」と呼ばれる強飯(おこわ)を神棚、仏壇、ヒヌカン(火の神)などに供えて、豊作と家族の健康を祈ります。「安谷屋カシチー」は「仲の神屋」「根所火の神」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「ティラグヮー山」「久米島遥拝」「邊土大主之墓」「中城若松の墓(仲家のみ)」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」を巡拝し豊年と住民の健康を祈り、夕方には「仲の庭」や「クシミチ(後道)」で綱引きが執り行われます。(比嘉泥佛 作)(外間裕 作)旧暦7月17日頃「安谷屋」では邪霊を鎮め集落の住民を守る「ウシデーク」という祭祀が執り行われています。「ウシデーク」とは沖縄諸島の伝統的な民族芸能で、集落の婦女子による集団舞踊の事です。しかし「安谷屋」では「ウシデーク」を踊った伝承が無く、なぜ「ウシデーク」という名称が付けられたかは謎に包まれています。「ウシデーク」では「仲の神屋」「根所火の神」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」「アシビナー」の6箇所が巡拝されます。「ウシデーク」の供物として「ビンシー」と呼ばれる御願用具を持ち運べる木箱、ヒラウコー(沖縄線香)、泡盛が用意されます。(伊達政仁 作)(安里幸男 作)旧暦8月15日の中秋の名月では「十五夜拝み」「御月御祭(ウチチウマチー)」「御月御願(ウチチウガン)」として、小豆を表面にまぶした「フチャギ」と呼ばれる餅を神棚、仏壇、ヒヌカン(火の神)に供えます。この日、集落では綱引きや獅子舞、演舞や芝居などが演じられます。かつては「安谷屋」でも闘牛が行われたと伝わっています。「安谷屋十五夜」では「イームイ」と「アシビナー」で住民の健康と安全を祈願する祭祀が執り行われています。「十五夜」の御願ではヒラウコー(沖縄線香)とシルカビ(白紙)が用意され、屋外や井戸では線香に火を着けずにシルカビの上に置いて拝みます。(新垣考昭 作)(糸村昌祐 作)ムラガー(共同井戸)や祖先に縁のあるカー(井泉)を拝み、水に対する感謝や集落の繁栄、更に住民の健康を祈願するウビナディ(御水撫で)やウビー(御水)という祭祀が行われています。「安谷屋」では旧暦8月吉日に執り行われ「8月ウビー」と呼ばれており「仲の神屋」「根所火の神」「クサイヌカー」「クガニジガー」「イーヌカー」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「タカヒージャー」「クルマガー」「ミートゥガー」「後原ヒージャーガー」「チブガー」「中城若松の墓」「邊土大主之墓」「ユージヌカー」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「ウフカー」「安谷屋ヌンドゥンチ」の20箇所を巡拝します。(山内米一 作)(国吉安子 作)沖縄では旧暦12月に一年間に願い事をした神様に感謝して願を解くウグヮンブトゥチ(御願解き)、又はフトゥチウグヮン(解き御願)と呼ばれる祭祀が行われています。「安谷屋」では旧暦12月23日に「安谷屋フトゥチウグヮン」があり「仲の神屋」「根所火の神」「イーヌカー」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「邊土大主之墓」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」の10箇所を巡り、年始に祈願した事を解く拝みを行います。また「安谷屋」では新年を迎えると「8月ウビー」で拝む20箇所の拝所を巡る「正月ウビー」の御願が行われています。(佐野壽雄 作)(仲村実 作)「安谷屋」では「シマクサラシ」と呼ばれる、人々に災厄をもたらす悪霊や疫病が集落に入る事を防ぐ行事があります。御供物として牛や豚を屠殺(とさつ)してヒジャイナー(左縄)に肉や骨を結んで、集落の東西南北の出入口に張ります。ヒジャイナーを張る事により集落に結界をめぐらせ悪霊や疫病の侵入を防ぐ役割があります。祭祀の後に牛や豚の肉は村人で分けて食したと伝わります。「安谷屋」では旧暦2月1日に「シマクサラシ」が行われています。現在、北中城村で「シマクサラシ」の行事が残っているのは「和仁屋」と「安谷屋」の2集落のみとなっています。(第一安谷屋交差点)「第一安谷屋交差点のシーサー群」がある北中城村「安谷屋」には、昔から先人より大切に受け継げられる年中行事が執り行われています。御願の集落である「安谷屋」ならではの陶芸家の交通安全への強い願いが15体のシーサーに込められています。県道81号沿いには中城村文化協会や県立芸術大などが連携した「彫刻カジマヤー計画」で100基近い焼き物のオブジェが設置されており、村が推進する「田園文化村」計画を盛り上げています。「第一安谷屋交差点」は丁字路で、県道29号が県道81号に突き当る場所です。本来ならば沖縄では「石敢當」が設置されるポイントですが、力強い15体の魔除けシーサーが交通安全を祈願しているのです。
2022.01.21
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(王妃御墓/ウナジャラウハカ)沖縄県北中城村「喜舎場集落」の北側丘陵の中腹に「ウナジャラウハカ」と呼ばれる琉球国王妃の墓があります。琉球石灰岩の岩陰を塞いで造られた墓で「舜天王統」三代目の「義本(ぎほん)王」(在位1249-1259)の妃の墓所と伝えられています。この墓は「EMウェルネス/暮らしの発酵ライフスタイルリゾート(EMウェルネス/コスタビスタ沖縄ホテル&スパ)」の東側に隣接する深い森にあり、このホテルの南側駐車場と森の北側からアクセスする事が出来ます。(ウナジャラウハカの森)「義本」は「舜天王統」と同様、存在さえ不明であり実在しない伝説上の人物と伝わりますが「舜天王統」の3代目にして最後の王と言われています。「中山世鑑」によると、2代目の王である「舜馬順煕」の第1王子として1206(開禧2)年に生まれ「舜天」の孫にあたります。「舜馬順煕」の死後、1249(淳祐9)年に44歳で「琉球国中山王」に即位しました。しかし、その翌年に飢餓が起き、更に翌年には疫病が流行り琉球国民の半数が死亡したと伝わります。(花崎家中古之墓)この状況を憂いた「義本」は家臣を集め、徳の無い自分の代わりに誰に王位を譲るべきかを問いたところ、皆は「英祖」を推薦しました。試しに「英祖」に政治を行わせると災厄は止み国が治ったので、1259(開慶元)年に54歳の「義本」は在位11年で「英祖」に王位を譲ったとされています。「ウナジャラウハカ」の森を進むと「花崎家中古之墓」が現れます。岩場を掘り込んだ古い墓で「花崎家」は「義本王」の直系の子孫であると言われています。(花崎家中古之墓の石柱)(花崎家中古之墓)「義本」との関わりが深い「花崎家」の伝承によると「義本」は国頭村の辺戸(へど)に隠遁し、時世が落ち着いてから読谷村の瀬名波(せなは)に移り住み、晩年は北中城村仲順(ちゅんじゅん)で没したと伝わります。しかしながら「義本」を祀ったとされる墓は知られている中で沖縄本島北部の国頭村に7箇所、中部の中城村の「ナスの御嶽」に1箇所、更に鹿児島県奄美群島に2箇所と、合計10箇所に点在しています。退位後の「義本」の消息は不明ですが、それが人々の関心と同情を買い、その後「義本」と由縁があると称する者が墓を設置しています。(王妃御墓/ウナジャラウハカ)(王妃御墓/ウナジャラウハカの柱)ウナジャラウハカの森の丘稜中腹に「王妃御墓/ウナジャラウハカ」があります。「北中城村史」(1971年)には「義本王」の直系の子孫である「花崎家」の口伝として、墓内には「義本王」「真鍋樽按司」「西之按司加那志」「桜尚」の厨子が安置されていると記されています。この記述からこの墓は「義本王」の墓である可能性があり、墓がある森には「花崎家」の古墓が伴っており王妃の墓と共に合祀されている為、県内外に伝わる10箇所の「義本王の墓」よりも、この地こそが「義本王の墓」である信憑性が増します。ちなみに「按司」とは王族の位階および称号で「第二尚氏王統」では王子に次ぐ称号ですが、王妃や王女なども「按司」と呼ばれていました。しかし、一般的に女性を呼ぶ場合は「加那志」という敬称を付けて呼ぶのが通例でした。(王妃御墓の東側にある堀込墓)(王妃御墓から登る石段)(王妃御墓の西側にある堀込墓)ウナジャラウハカの森には古墓が点在しており「義本王」の子孫や血縁関係がある家の墓であると考えられます。「義本」が統治していたとされる時代は、小規模のグスクが沖縄の各地に点在し、沖縄本島全域を統治していた人物はいなかったとされています。「中山世譜」によると「天孫氏王統」が首里に王城を築き、それ以降の王も首里を居城にしていたと言われます。しかしながら「義本」らの「舜天王統」は浦添グスクに居住したと伝えられています。この森も史書に記されていない小さなグスク、あるいは御嶽であった可能性もありますが詳細は不明です。(ガジュマルのアーチ)(ガジュマルの下にあるガマ)(ガジュマルの下にある大岩のトンネル)「王妃御墓」からさらに森の頂上に向かうと、樹齢の長いガジュマルが地面と平行に育ちアーチ型を造っています。ガジュマルには精霊が宿る言われており、ウナジャラウハカの森の精霊が住んでいるような雰囲気を醸し出しています。ガジュマルの根元にはガマ(洞窟)が大きな口を開けており、入り口には霊石が祀られる拝所となっています。更に、ガジュマルの枝先が到達する岩場の麓には自然に大岩が組まれて出来たトンネルがあり、神が宿る御嶽のような神聖な空気を感じます。(ウナジャラウハカの森の頂上にある拝所)(ウナジャラウハカの森の頂上にある拝所)(ウナジャラウハカの森の頂上)「義本王」も合祀されていると伝わる「王妃御墓」の森の頂上は見晴らしがよく、周辺地域で最も高い位置となっています。この頂上には拝所がありウコール(香炉)と共に位牌が祀られています。森の頂上に育つソテツの木の間からは米軍の施設「アワセメドウズ」ゴルフコース返還後に開発された「ライカム」エリアが広がっています。「イオンモール ライカム」をはじめ、高層マンションや大規模な病院、更にはコンドミニアムホテルや住宅などが立ち並ぶ新しい街並みと変貌を遂げています。「義本王」も「王妃」も数百年の時を超えて、琉球から沖縄、沖縄戦から現代と、この深い森から見守り続けているのです。
2021.11.19
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(北中城村/渡口集落)沖縄県北中城村東部の丘陵地域に「渡口(とぐち)集落」があります。「渡口みどり公園」をはじめとする豊かな緑の自然、琉球古民家や細い路地が残る歴史溢れる集落には、ゆったりとした静かな時間が流れています。「渡口集落」には琉球の文化とロマンがたくさん詰まった遺産が多数存在しているのです。(和仁屋間のテラ/渡口のテラ)「渡口集落」の東部に「和仁屋間のテラ」があります。「渡口のテラ」とも呼ばれるある南向きの石造建築物の構造は、桁と梁が約3.4m、高さ1.35mの方形造りで、石灰岩の屋根の頂上には宝珠があります。壁は大方切石の布積みで、側面と背面に部分的に野面積みが確認されます。前面入口部分の天井は一枚の琉球石灰岩で、他の天井材は第三紀砂岩と呼ばれる材質で造られています。(和仁屋間のテラの内部)「和仁屋間のテラ」の内部には高さ50~80cm程度の砂岩(ニービヌフニ)が四個あり他にも小型の霊石がいくつかあります。これらの石はビジュル、ボージャーブトゥチ(赤子の仏)、クヮンマガハンジュウヌカミ(子孫繁栄の神)などと呼ばれています。祭祀は渡口集落では行わず、一般に子宝に恵まれない婦人が子が授かるように祈っています。(渡口の梵字の碑/アビラウンケン)古代インドの梵語(サンスクリット)の文字が記されているこの碑は高さ104cm、幅55cm、厚さ13cmの細粒砂岩(ニービヌフニ)を使用しています。アビラウンケンは「胎蔵界大日如来」の真言の意で、宇宙の生成要素の地、水、火、風、空を表し、梵字五文字に一切の万象を網羅すると言われています。「胎蔵界」は胎児が母の胎内にいるように、真理が内在している事を示しています。(渡口洞穴遺跡)(渡口洞穴遺跡周辺の霊石)「渡口の梵字の碑」がある細流砂岩丘陵の崖面に立地する「渡口洞窟遺跡」です。弥生〜平安時代(約1700年前)からグスク時代初期(約900年前)の遺跡と考えられています。洞窟の上は拝所になっており、かつて洞窟の北側にある家々に火災や精薄児などが続出したのでユタに占ったところ「拝所の下に地位の高い先人の遺骨があるので、それを掘り出して祀りなさい」とお告げがありました。拝所の下を掘ってみると、洞窟が発見されて人骨や石器類とともに「渡口の梵字の碑」が出土したと伝わります。(渡口の殿)(渡口の印部土手石/しるべどていし)「渡口洞窟遺跡」の上部に位置する「渡口の殿」と呼ばれる拝所です。祠の内部には3つの霊石とウコール(香炉)が設置されています。この「渡口の殿」のすぐ裏に「渡口の印部土手石」があります。シルビグァーや原石(ハルイシ)ともいわれ、琉球王府が元文検地(1737~1750年)を行ったときの土地測量の目印と境界に使った図根点です。材質は細粒砂岩(ニービヌフニ)で「とくち原 ニ」と原名と仮名文字が刻まれています。石碑の大きさは高さ39cm、幅25cm、厚さ3.5cmです。(北東部のムラガー)(ムラガー入り口の拝所)渡口集落の北東部に「ムラガー」があります。渡口集落の共同井戸で飲料水として利用されてきました。戦前は旧暦元日の早朝に井戸の水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。「ムラガー」の入り口には拝所の祠があり、水の神様への祈りと感謝の場となっています。(北部のムラガー)(ムラガーの泰山石敢當)(ムラガーの霊石)この「ムラガー」は比較的大きな敷地となっている為、集落の飲料水の他にも洗濯や農作物を洗う為にも利用されていたと考えられます。井戸には「泰山石敢當」と刻まれた古い石敢當と魔除けの霊石が供えられています。神聖な水源に悪霊が寄り付かないように設置されたと思われます。この地域で「泰山石敢當」は非常に珍しい石敢當で大変貴重な文化財です。(ンブガー)(ンブガーの石柱)「ムラガー」の西側にある「ンブガー」で、「ウブガー」や「産ガー」とも呼ばれる井泉です。集落で子供が産まれるとこの井泉から水を汲み産湯に使用しました。また、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつける「ミジムイ」や「ウビナディ」とよばれる水撫での儀式にも「ンブガー」の水を利用していました。「ンブガー」にも霊石が設置されており、悪霊から貴重な水源を守っているのです。(上の御嶽/イーヌウタキ)「和仁屋御嶽」や「和仁屋御願」と呼ばれる渡口みどり公園内にある拝所です。「渡口集落」に隣接する「和仁屋集落」の発祥の地とも言われています。屋根と壁はそれぞれ一枚のサンゴ石灰岩で造られ、東側に向いて建てられています。高さ80cm、幅107cm、奥行き61cmで、祠には三つの神体(砂岩)が安置されています。渡口集落ではハチウビーとウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日)に拝している重要な拝所です。(クミシ嶽)(クミシ嶽の内部)「クシミ嶽」は渡口みどり公園内の南東に位置し、渡ロメーガーラ(前の川)にかかるメンター橋の近くにある拝所で「クバジ嶽」とも呼ばれています。瓦ぶきの祠で高さ145cm、横118cm、奥行き94cmです。天井と左右の壁はそれぞれ一枚の粟石(第四紀段丘性石灰岩)で造られ、後方の壁は二枚積み上げられ、祠の中には霊石が5つ安置されています。さらに、この場所は「渡口集落」の南側にある「熱田集落」の発祥の地と伝わります。(北東に向けられた石柱)(東に向けられた石柱)「渡口集落」には古い石柱が多数散財しています。沖縄は昔から石への信仰が強く、集落の至る場所で石敢當や魔除けの霊石を見つける事が出来ます。拝所の祠には必ず霊石が設置されており、人々は祈りを捧げています。古き良き琉球の暮らしが垣間見れる「渡口集落」では、特に歴史の深い貴重な泰山石敢當や魔除け霊石が遍在し、今もなお効力を発揮して生き続けているのです。
2021.03.23
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(島袋集落の古民家)沖縄県北中城村の最北端にある集落が「島袋集落」で"しまぶく"と発音します。米軍施設であった「アワセメドウズ」と呼ばれたゴルフコースが沖縄県に返還されて建設された「イオンモールライカム」に面した集落です。細い路地が交わり琉球古民家が数多く残る、古き良き沖縄の雰囲気を感じる事が出来る癒しの部落です。(ヌルドゥンチ)島袋集落の北部にある「ヌル殿内(ヌルドゥンチ)」で、集落の祭祀を司るノロの居宅です。沖縄ではノロ制度が崩壊しつつありますが、多くの地域で無人の建屋や敷地の一角に拝所のみが設けられ、村の祭祀の重要な祈願所であり豊年祭、感謝祭、エイサーなどが奉納される場であります。また、神と交信交歓できる場としてヌンドゥルチは聖地として崇められいます。(字島袋トゥン火の神)「ヌルドゥンチ」の敷地内で北側にあり「字島袋トゥン火の神」です。ヌルドゥンチの敷地内にあるノロのヒヌカン(火の神)で、島袋集落の南の入り口を守護する役割も果たしていると考えられます。石段を登った先にある火の神は琉球赤瓦屋根の祠になっていて、祠内部にはウコール(香炉)や霊石が祀られています。(島袋197番地の石敢當)(島袋182番地の石敢當)島袋集落は細い路地が多く行き止まりも多数存在します。その為、悪霊が溜まりやすいと信じられているT字路の突き当たりや十字路の角に「石敢當」と呼ばれる魔除けの石碑や石標を発見する事が出来ます。現代の「石敢當」の多くは御影石、大理石、琉球石灰岩が使われていますが、画像にある100年以上前の石敢當の石碑には、ニービ石と呼ばれる細粒砂岩が使用されているのが特徴的です。(梵字の碑/カンマン)島袋集落北部にある安座間家の屋敷外に建つニービ石(細粒砂岩)製の「梵字の碑/カンマン」です。梵字は古代インドで文章語や文章を書く時に用いられたサンスクリット語で、仏教と共にアジアに広まり「神仏を一字で現す文字」として中国を経て日本に伝わりました。いつの時代に沖縄に伝わり島袋集落に設置されたのか不明ですが、不動明王の「カンマン」は「カン」と「マン」のふたつの梵字を組み合わせた荘厳体と呼ばれるものです。(マーカーガー跡)(マーカーの御嶽)(ンマイー/馬場跡)島袋集落の東側に「マーカー」と呼ばれる島袋集落発祥の地があります。島袋集落の創始者である根人(ニーチュ)が使用した井泉がこの「マーカーガー」で、この井戸跡にはウコールが設置されて水の神を祀っています。マーカーガーに隣接する丘陵には「マーカーの御嶽」があり、その「腰当て(クシャティ)」の上部には「ンマイー」と呼ばれる、馬の美しさを競う琉球古式競馬(ンマハラシー)が行われていた馬場の直線道路があります。(九年堂の御嶽)「九年堂の御嶽」は島袋集落の東側、旧外人住宅の北外れにあります。この御嶽周辺の整備に九年の歳月を要した為「九年堂の御嶽」と呼ばれるようになったと伝わります。祠は東向きで幅88センチ、奥行き93センチ、高さ57センチあり、材質はサンゴ石灰岩で造られています。壁はそれぞれ一枚石が使用され、屋根の頂上には宝珠が設置されています。祠内には2つのサンゴ石灰岩の神体とウコール(香炉)が設置されています。(梵字の碑/ボロン)島袋集落の比嘉家屋敷東角の塀上に建つ梵字(古代インドの文語であるサンスクリット文字)の石碑で屋敷の角につき当たる道に向かって建っています。高さ34cm、幅40cm、厚さ11cm、材質は細粒砂岩(二-ビ石)です。ボロンは一字金輪の種子で、仏菩薩の功徳は全てこの一字一尊に帰すると伝わります。比嘉家も地域も梵字の碑に拝する事はなく、石敢當と同じように魔よけの役割がある石碑と考えられています。(梵字の碑/カンマン)島袋公民館がある島袋中央公園に隣接する西側にある「梵字の碑/カンマン」です。高さ35センチ、幅34センチ、厚さ9.2センチ、材質は細粒砂岩(二-ビヌフニ)です。カンマンは不動明王の種子で、除魔、除災、諸願成就を意味する梵字碑です。家人や地域の人が拝することはなく、石敢當と同じように魔除けの役割があると伝わります。(梵字の碑/カンマンの2m右にある石敢當)(島袋中央公園脇の石敢當)島袋集落には100年以上も前に建てられたと考えられる細粒砂岩(ニービ石)製の石敢當が多く点在しています。風化と共に彫られた石敢當の文字が薄くなっているのも特徴で、少なくとも明治時代後期から大正時代より令和の現代に渡り、さまざまな歴史を見つめながら島袋集落の魔除けとして路地脇に立ち続けているのです。そんな歴史ある石敢當に手を触れるだけで、非常に強いパワーを感じる事が出来ます。(タンパラガー)(タンパラガー裏の石敢當)現在の島袋集落は「タンパラ」と呼ばれる屋号の家を中心に発展したと伝わっています。タンパラの屋敷にはこの「タンパラガー」と呼ばれる古井戸が残されています。井戸は非常に深く掘られており、入り口は鉄柵で守られています。さらに「タンパラガー」の直ぐ裏手には古い石敢當があります。T字路でも十字路でもない場所にあるこの石敢當は水の神様が宿る「タンパラガー」を悪霊から守るように建てられています。(島袋499番地の石敢當)(島袋375番地の石敢當)沖縄ては石敢當は神聖な石碑として大切にされており、新しく家を建てたり道路を作っても古い石敢當の石碑を動かす事はありません。魔除けとして昔から先人が守って来た財産を無闇に移動して傷つけたりしたらバチが当たると誰もが知っています。細粒砂岩(ニービ石)製の古い石敢當は明治時代や大正時代から同じ場所に存在しており、古より島袋集落を悪霊から守っているのです。(島袋15番地の小型石柱)この石柱は高さ30センチ程の小型で、石敢當の文字や梵字は刻まれていません。魔除けの意味を持っていると考えられますが、いつの時代に誰が建てたのか詳細は不明です。島袋集落に隣接してイオンモールライカムやプラザハウスショッピングモールなど人々で賑わっていますが、島袋集落に一歩踏み入れると古き良き沖縄が残っています。島袋集落に多数分布する古い石敢當や梵字碑は、沖縄戦も経験している貴重な文化財として単なる魔除けだけでなく、沖縄の有形財産としてこれからも後世に大切に伝わる事でしょう。
2021.03.22
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(熱田マーシリー)沖縄県北中城村に「熱田マーシリー」という有名な悲恋伝説があります。その伝説の聖地が国道329号線沿い、渡口交差点と中城モールのちょうど真ん中に佇む「熱田マーシリー」です。この隆起した琉球石灰岩の大岩が「熱田マーシリー」と呼ばれるクシャティ(腰当て)で、北中城村の文化財として登録されています。(北側から見た熱田マーシリー)悲恋伝説によるとその昔、現在の八重瀬町である具志頭(ぐしちゃん)間切の白川桃原樽金(タルガニー) と、現在のうるま市にある勝連(かつれん)間切浜村の浜川真鍋樽(マナンダルー)がお互いに恋したが、結ばれることなく二人とも恋焦がれ死んでしまい、遺言によって一緒に埋葬されたと言われています。その墓が「熱田マーシリー」と伝わっているのです。(勝利のV字ガジュマル)具志頭(ぐしちゃん)間切は現在の八重瀬町にあり、この「具志頭V字ガジュマル」は具志頭地区のシンボルとして知られています。昭和39年に当時の具志頭中学校の敷地だったこの場所に、幹がVの字に分かれたガジュマルを生徒が見つけて来て卒業記念として植えました。その後は役場の敷地になりましたが、このガジュマルに祈ると勝利につながると言われており「勝利のV字ガジュマル」と呼ばれています。(熱田マーシリーの入り口)「熱田マーシリー」の悲恋伝説は「難題聟」とも呼ばれている琉球民話です。琉球王国時代に具志頭村に白川タルガニーという美男子がいました。ある日、白川タルガニーは商人から「勝連浜の村に琉球一番の美女が住んでいる」と聞きました。すると白川タルガニーは「自分の目で見てみたい」と、わざわざ具志頭から遠く離れた勝連南風原の浜原という村に出掛けたのです。(熱田マーシリーの琉球石灰岩とガジュマル)白川タルガニーは村で浜川マナンダルー見つけ、その美貌に一目惚れしてしまい「私の奥さんになって欲しい」と結婚を申し込みました。浜川マナンダルーも白川タルガニーが美男子であったため、一目惚れしてしまいましたが思い詰めてしまったのです。そこで浜川マナンダルーは白川タルガニーがどれだけ頭が良い人物か知るために謎掛けを出しました。「二頭の馬に鞍を一つ載せて、一人で乗ってきて下さい」(琉球石灰岩の下に湧き出る井泉)白川タルガニーは謎々の意味が分からなくなり、具志頭に戻って村のお婆さんに助けを求めたのです。人生経験豊富なお婆さんはこう言いました。「妊娠している分娩前の馬に鞍を載せて、今すぐ乗って行きなさい」すると浜川マナンダルーは非常に感心して白川タルガニーをますます気に入ってしまいました。浜川マナンダルーは更にこんな謎掛けを出したのです。「上のすだれと下のすだれが仲良くなった時に来てください」(熱田マーシリー内部の空間)再び答えがわからない白川タルガニーは具志頭のお婆さんを再度訪ねました。するとお婆さんは「上のまぶたと下のまぶたが一緒になって眠った時分、つまり夜中に忍び込んで来なさい」と答えました。白川タルガニーは言われた通りに夜中に浜川マナンダルーを訪ねると、見事に謎掛けを解いた白川タルガニーにお盆を出しました。お盆には小刀、ご飯が入ったお椀、竹で作った箸を置いて、そのまま自分の布団の床に就いてしまいました。(小さな石が幾つも積まれた石垣)白川タルガニーは「晩飯でも食べなさい」と思ってご飯を食べてしまいました。すると浜川マナンダルーは突然怒り出して白川タルガニーに「帰れ」と言って家から追い出してしまいました。意味が分からないまま怒らせてしまい失恋した白川タルガニーは、具志頭に戻りお婆さんに全ての経緯を話しました。するとお婆さんは「これは、直ぐに私を抱いてくれという意味だ」と説明したのです。(高くそびえる琉球石灰岩)小刀は沖縄の言葉で"シーグ"だから"直ぐに"という意味、お椀は沖縄の言葉で"わん"は"私"、竹は"ダキ"で"抱き"という意味、米は"込め"。つまり「直ぐに私を抱き込め」という意味だと、お婆さんは答えたのでした。白川タルガニーは「ああ、そうか、残念だった…」と恋に焦がれた挙げ句、恋の病で死んでしまいました。(具志頭〜勝連南風原)白川タルガニーを追い出してしまった浜川マナンダルーも、相手が美男子で気に入っていながら素直になれず謎掛けを繰り返した事に後悔しつつ、同じように恋に焦がれて死んでしまったのでした。二人の遺言で男は女の見える場所、女は男に見える場所に遺骨を納めるようにとあり、具志頭と勝連南風原から両方の村の人々が遺骨を運んで来ました。すると丁度「熱田マーシリー」の拝所で二人の遺骨が出会ったのです。そこで、この地に白川タルガニーと浜川マナンダルーを合葬しようと墓が造られたのでした。(うるま市勝連南風原の「浜川ガー」)「浜川ガー」は「ハンガーガー」とも呼ばれ、浜川マナンダルーが頭髪を洗髪した場所として知られています。浜川マナンダルーは勝連グスク7代目の城主である浜川按司の娘で、彼女の黒髪は身長の1.5倍もあり竿に髪の毛をかけて洗ったとの伝説があります。因みに「浜川ガー」への行き方は、うるま市発行のパンフレット「南風原の文化財」に記載されている地図をお勧めします。(浜川ガー)「浜川ガー」は南風原村のウブガー(産川)として利用されていました。集落で子供が産まれるとこの井泉から水を汲み産湯に使用し、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつける「ミジムイ」や「ウビナディ」とよばれる水撫での儀式にも「浜川ガー」の水を利用していました。現在でも、旧正月元旦に南風原集落及び、周辺の集落の門中により「カーウビー拝み」で祈られています。(浜川ガーの内部)(浜川ガーのガジュマル)「浜川ガー」は現在も豊かな水が湧き出ています。浜川マナンダルーがその美しく長い黒髪を洗った透き通った聖水は祈りの対象になっていて、井泉にはウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられていました。ガジュマルから生える無数の細い根が、まるで浜原マナンダルーの髪の毛の様に垂れ下がり、非常に神聖な雰囲気に包まれます。(西から見た熱田マーシリー)「熱田マーシリー」は「マーシリーグスク」とも呼ばれています。もともと拝所として熱田集落の人々に拝まれていましたが、この拝所に白川タルガニーと浜川マナンダルーの墓が造られました。「熱田マーシリー」の森の内部には無数の小さな石が積まれた石垣の人工建造物があります。そこに悲恋の末に亡くなった美男美女が寄り添って眠っています。(浜川ガーの入り口から見える勝連グスク)勝連グスクは世界遺産に登録されているグスクで、7代目城主である浜川按司の娘が「熱田マーシリー」の悲劇のヒロインである浜川マナンダルーです。勝連グスクは10代目城主の阿麻和利が1458年に琉球王府により滅ぼされました。「熱田マーシリー」の悲恋伝説は今から600〜700年前から伝わる伝承で、その頃から白川タルガニーと浜川マナンダルーが同じ墓で寄り添っています。この比翼塚は非常にロマンティックな悲恋伝説として琉球の歴史に深く刻まれているのです。
2021.03.16
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(熱田の島根殿)北中城村「熱田(あった)集落」は沖縄本島中部東海岸の中城湾に面し、西の丘陵地から熱田漁港に広がる山麓にある長閑な集落です。熱田集落は車が1台通れる細い路地で覆われており、古き良き琉球赤瓦屋根の民家が多数残る歴史を感じる地域となっています。集落を通る国道329号線は交通量が多い主要な道路ですが、一歩集落に立ち入ると静かでゆったりとした時間が流れています。(熱田シー)熱田漁港の西側の畑の中にある「熱田シー」の祠は、珊瑚石灰岩で造られており西側に向いています。かつて熱田には旧暦3月15日に「サングヮチウマチー」と呼ばれる豊年祈願の祭祀があり、大城ノロ、安谷屋ノロ、瑞慶覧ノロ、島袋ノロが揃い「熱田シー」でネズミなどの害虫駆除祈願をしていました。現在はウマチー(豊年祈願)とウハチー(収穫祭)で祈られています。(熱田公民館の島根殿)「島根殿」は熱田公民館の敷地内にあり、集落の中央部に位置しています。「オミヤ」または「シマニドゥン」と呼ばれ、祈願の対象は海水に侵食された大きな岩です。沖縄戦前までは神人がウマチー(旧暦2月15日、5月15日、6月15日)に御花、線香、神酒を供えて集落の住民の健康とムジュクイ(作物)の豊年祈願をしました。現在でも字の役員が各ウマチーに祈っています。(ロ山石敢當)「ロ山石敢當」は熱田公民館の南東側、民家の西側塀の外に西向きに立っています。石敢當は中国起源の除災招福の石柱で、魔除けの役割があるとして沖縄に伝わっています。この石敢當はそもそも「泰山石敢當」と刻まれていましたが、偉い人と同じ名前を使用するのは失礼に当たる風習に従い「泰」の字を尚泰王(在位1848〜1879年)の時代に削ったと考えられます。「山」の字の上には文字を削った跡が残っています。(アガリユーヌウトゥシドゥクル)「アガリユーヌウトゥシドゥクル」は熱田公民館の敷地内にある西向きに建てられた拝所です。島根殿に祈願するウマチーの日に同時に祈られています。拝所の名前に示されているように「東(アガリ)ユーへの御通し所」の意で、東のニライカナイ(理想郷)に向かって集落に豊穣をもたらす事を祈願するウガンジュ(拝所)です。(ンブガー/産川)熱田公民館の北東側に「ンブガー/産川」と呼ばれる井泉があります。集落で子供が産まれるとこの井泉から水を汲み産湯に使用しました。また、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつける「ミジムイ」や「ウビナディ」とよばれる水撫での儀式にも「ンブガー」の水を利用していました。(ニーヤー/根屋)(ニーヤーガー)熱田公民館の北側に「ニーヤー」と「ニーヤーガー」があります。ニーヤー(根屋)は熱田集落の創始者のあった家の事で、現在は屋敷だった敷地内に石造りの祠が建てられています。祠内には3つの霊石が供えられており、ウコール(香炉)も設置されて拝まれています。「ニーヤー」から道を挟んだ北側には「ニーヤーガー」があり集落の創始者が利用していた井戸跡が残されています。(ニーヤー脇の石敢當)(熱田214番地の石敢當)熱田集落には古くから残る「石敢當」が多数存在しています。石敢當はT字路の突き当り等に設けられる「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標で知られていますが、熱田集落の古い「石敢當」はT字路の突き当たりではなく、十字路の角に立てられています。100年以上前の沖縄の魔除け石柱と同じ位置に立てられており、琉球から伝わる風習が現代の人々の生活の一部として存在しているのです。(熱田352番地の井戸)(熱田64番地の井戸)(熱田公民館横の井戸)山麓に広がる熱田集落は丘稜から湧き出る水が豊富で、集落の至る場所に現在も井戸跡が多数残っています。古民家の庭には必ず古井戸があり、路地の脇にも名も知らぬ井戸跡を発見する事が出来ます。昔から熱田集落は水源に困らない村として発展してきた事が分かりますし、水道が整備されている現代でも古井戸を大切に残すという事は、集落の人々にとっての井戸は「水の神様」に祈る拝所の役割があると考えられます。(熱田258番地にある謎の石碑)熱田集落には読解不可能な謎の文字が刻まれた石碑があります。北中城村の文化財にも登録されていない石碑で、石敢當と同じような魔除けの意味があると思われます。また、宇宙の生成要素である地、水、火、風、空を表した梵字(アビラウンケン)である可能性もありますが詳細は不明のままです。この謎の石碑は古くから沖縄各地に存在する魔除けの石柱と同じニービヌフニ(細粒砂岩)で造られており、少なくとも100年以上前のものだと考えられます。(熱田公民館の警鐘)熱田公民館にある火事を伝える警鐘です。この警鐘は沖縄戦で米軍が残した不発弾を再利用しています。現在は赤いペンキが塗られ火の用心の文字が記されています。さて、熱田集落には「熱田の南島(フェーヌシマ)」という伝統芸能が伝わっています。1980年に北中城村の無形民俗文化財に指定され伝統芸能で、熱田集落で古くから伝えられてきた踊りです。空手をイメージした動きで手踊りと棒踊りの二種類があります。(エーガー/染物の藍(エー)を洗う専用井戸)「熱田のフェーヌシマ」は赤く長い髪をたらした風貌で行われる手踊りと棒踊りの伝統芸能で、謎の歌と共に手踊りから演舞が始まります。「タウチュンナータイ タウチュンナータイヨ チョウオーヨーティメウターン イエチョウハアタイ フーテーヨーフィヨ フィタイフィタイ チンサーン チントーンヨーオーサイ チューサイヨー スイナー」と歌われますが、その歌の意味は全く不明なのです。(イチバルガー)熱田集落の無形民俗文化財として昭和55年に指定されていますが、熱田集落では少子化や継承者不足に悩まされています。「熱田のフェーヌシマ」という熱田集落だけに伝わる伝統文化を大切な財産として後世に伝えるためにも、無力ではありますが私もこの記事を通じて伝えたいと考えています。そして、1人でも多くの人に北中城村の「熱田集落」や「熱田のフェーヌシマ」を知ってもらうきっかけになれば幸いです。
2021.03.15
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(喜舎場公の墓)沖縄本島中部の北中城村に「喜舎場集落」があります。喜舎場集落は北中城村のテンブス(ヘソ)である中心部に位置し、斜面緑地や集落の背景となる丘陵緑地といった豊かな自然環境や景観を残しています。また、中城湾や西海岸を見下ろす絶景なども数多く存在し、訪れる人々の心を癒してくれる集落です。(喜舎場の石獅子)喜舎場集落の南部に「喜舎場公園」があり「喜舎場の石獅子」がどっしりと構えています。元々この石獅子(シーサー)は集落の南西側に隣接する安谷屋集落にある"カニサン"と呼ばれる巨岩に向かって鎮座していました。この巨岩が喜舎場に災いをもたらすフィーザン(火山)であると信じられ、その返しとして石獅子(シーサー)が据えられたのです。巨岩に対する火除けと魔除けとしての村獅子として崇められていたのです。(喜舎場の殿)石獅子から見える場所に「喜舎場の殿(トゥン)」があります。「殿」は「神アサギ(神アシャギ)」とも呼ばれる神祭りを行う聖域で、4本柱で壁がない吹き抜け構造の小屋となっています。「喜舎場の殿」の祭壇には霊石が祀られており、御願に用いられるヒラウコー(沖縄の線香)が供えられていました。(喜舎場公の鳥居)(岩間に架けられた石橋)喜舎場公園を進むと「喜舎場公」と記された鳥居が建ち、その先には「喜舎場公之墓所」に向かう長い石段が続いています。94段の石段を昇り終えると巨大な岩に挟まれた通路があり、岩間の上には石橋が架かっていました。「喜舎場公之墓所」への天然の岩門からは神聖な聖域として空気が一変します。(喜舎場公の墓)岩門を潜った先に「喜舎場公の墓」が姿を見せました。琉球石灰岩の岩塊の中心には8段の階段があり、その上に宝珠が供えられた石の祠が建てられています。喜舎場集落の創建者である「喜舎場公」がいかに集落の村人から大切にされ敬われていた事が伺えます。また、琉球王国の正史として編纂された歴史書である「球陽」の外巻「遺老説伝」には「往昔、喜舎場公ナル者有リ、此ノ邑ヲ創建ス。因リテ喜舎場村ト名ヅク。是レ故ニ今ニ至ルマデ毎年二月、村長皆其ノ墓ヲ祭ル。墓ハ本村後岩ニ在リ」と記されています。(喜舎場公之子孫上代之墓)「喜舎場公の墓」の正面には更に大岩を上る石段があります。先ほど、鳥居から続く石段を昇り詰めた場所にあった岩間に架けられた石橋は、この「喜舎場公之子孫上代之墓」に続いていました。喜舎場公の子孫が眠る石造りの墓には霊石、花瓶、ヒラウコー(沖縄の線香)が供えられており非常に神聖な空気に包まれていました。(喜舎場村祖先御墓/アーマンチューの墓)「喜舎場公の墓」と「喜舎場公之子孫上代之墓」を後にして、更に先の急な石段を降ると左側に通路がありました。その奥には「喜舎場村祖先御墓」(アーマンチューの墓)があり、霊石、ウコール(香炉)、花瓶が供えられていました。現在、旧暦9月18日に例祭が執り行われており、ムラシーミー(字の清明祭)には「喜舎場公の墓」と「喜舎場公之子孫上代之墓」と共に拝まれています。(イーヌカー/上の井戸)「アーマンチューの墓」から更に石段を降ると右に昇る通路があり、薄暗い森の奥地に続いていました。その通路を進むと亜熱帯ジャングルと琉球石灰岩の巨岩が不気味な雰囲気を醸し出しており、辿り着いたのが「イーヌカー」(上の井戸)でした。横120センチ、縦60センチ、深さ75センチに琉球石灰岩で積み上げられています。ハチウビー(旧正月)やウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日の豊穣祈願と収穫祭)に集落の住民により拝まれている神聖な井戸です。(仲間神屋)(喜舎場の火ヌ神)「喜舎場公園」の北側に琉球赤瓦屋根の「仲間神屋」があり、喜舎場村を創建した喜舎場公の直系にあたる家と伝えられています。集落の重要なウガンジュ(拝所)となっており「喜舎場公例祭」や様々な祭事で拝まれている重要な場所です。「仲間神屋」に隣接した場所には「火ヌ神」があり、喜舎場集落の住民の無病息災、幸福と安寧、繁栄を見守る役割があります。石垣に囲まれた「火ヌ神」には魔除けの石柱も一緒に設置されていました。(喜舎場のおもろの碑)(喜舎場のおもろの解説碑)喜舎場集落の南部にある「喜舎場のおもろの碑」です。歌碑には「一 きしゃは つくりきよ きしゃは おなりしや ゑけ はひ 又 よへ みちやるいめの まよなかのいめの 又 いめや あとなもの いめや うせなもの 又 おなり たちへともて つくり たちへともて」と記されており「喜舎場の美しいツクリ(人名)を抱いたと思ったものの、それは昨夜見た夢であったよ、夢はたよりないものよ」という高笑いを意図した狂言的な歌です。古琉球の人々は健康な笑いこそは共同体に世果報をもたらす力の根源だと考えたそうです。(ウフカー/大井泉)(洗濯ガー)(カーグムイ/井泉小堀)「喜舎場のおもろの碑」の西側に「喜舎場ウフカー(大井泉)」があります。ンブガー(産井泉)や共同井戸とも呼ばれる北中城村で一番大きな井泉で、敷地には「ウフカー」「洗濯ガー」「カーグムイ」があります。「ウフカー」は飲料水等の生活用水に、「洗濯ガー」は衣料等の洗濯に、「カーグムイ」は畑の帰りに手足を洗うために利用する事が義務付けられていました。正月にはワカミジ(若水)、新生児が産まれた時はウブミジ(産水)を汲み、旧5月のウマチー(収穫祭)には住民が水の恵みに感謝して祈願したのです。(王妃御墓の木札)喜舎場集落の北部に丘稜の森があり、その中腹に王妃御墓(ウナジャラウハカ)があります。王妃御墓には「EMウェルネスリゾート/コスタビスタ沖縄ホテル&スパ」に隣接する細い山道から行く事が出来ます。このホテルは沖縄が本土復帰前に開業して一時期は米軍関係者の宿泊客で賑わいましたが、その後はバブル崩壊と共に廃業に追い込まれました。隣接する王妃御墓がある丘稜の深い森が不気味な雰囲気を醸し出していた為、廃業後は「幽霊ホテル」として噂になるほどホテル周辺は人々から恐れられていました。(王妃御墓/ウナジャラウハカ)「王妃御墓」は舜天王統三代目である義本王の妃の墓と伝えられています。義本王は天災異変が相次いだことを理由に王位を英祖に譲って隠遁したとされ、国頭村辺土で没したとも、北中城村仲順で没したとも言われています。「北中城村史」には義本王の直系の子孫である花崎家の口伝として、墓内には義本王、真鍋樽按司、西之按司加那志、桜尚の厨子が安置されていると言われています。「王妃御墓」には霊石とウコール(香炉)が設置されており、集落の住民の神聖な場となっているのです。(喜舎場公園の入り口)北中城村喜舎場集落には、先人たちから受け継いできた多数の文化財が残っています。それぞれの文化財はいわば北中城村の歴史と文化の象徴です。喜舎場集落の大切な財産が次の世代へと大切に継承され、聖地である集落の平和と発展が末永く続く事を心から願っています。これからも喜舎場集落では琉球王国時代から続く素晴らしい旧暦行事が大切に継続される事でしょう。
2021.03.02
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(中城若松の銅像)中城若松(安谷屋若松)は琉球組踊の創始者である玉城朝薫(1684-1734)の組踊「執心鐘入」の主人公「中城若松」のモデルとされている人物です。さらに時代をさかのぼると琉球王国時代の歌謡集「おもろさうし」にも登場しています。若松は第二尚氏初代国王尚円王と安谷屋ノロ(神女)との間に生まれた子と言われていて、父尚円王が即位してから中城若松は安谷屋城主となりました。(ユナハン丘稜)その後、尚真王が王位に即位し地方の按司(豪族)などを首里に集居させる「中央集権」により首里に上り、上間村(現在の那覇市上間)の地頭職に就きました。死後、中城若松の遺言により安谷屋の地に葬られたと伝えられています。「中城若松の墓」は「安谷屋集落」の北側の「ユナハン」と呼ばれる丘陵の山頂にあります。山頂は隆起した琉球石灰岩が剥き出しになっており、多くの樹木に覆われながらも比較的広い空間となっています。(中城若松の墓)ユナハンは現在「若松公園」として整備されていて北中城村や宜野湾市の住民の憩いの場になっています。ユナハンの頂上にある「中城若松の墓」は昭和57年3月18日に北中城村の史跡に指定され、墓の前方には琉球石灰岩の切石を積んで囲んだ墓庭があります。墓は岩土に宝珠が設置された塔型の祠になっており、宝珠の下部が墓の本体という説とウコール(香炉)の奥側が墓だという説があります。墓のある頂上からは南側の麓に広がる「安谷屋集落」から西海岸を見渡せる絶景が広がっています。(中城若松の母の墓)(中城若松の妻の墓)「中城若松の墓」から石段を降りてゆくと「中城若松の母の墓」があります。ユナハン丘陵の中腹にある洞窟を琉球石灰岩の岩石で蓋をする型の古墓で、洞窟内にはウコール(香炉)が設置されて安谷屋ノロであった中城若松の母が祀られています。さらに「中城若松の母の墓」の隣には「中城若松の妻の墓」があり、墓の前には石製のウコールが設置されています。中城若松の母と並んで祀られており、ユナハンの中腹から頂上に佇む夫である中城若松を見守っているのです。(中城若松の火ヌ神)(拝所/ウガンジュ)「中城若松の墓」から東に100メートルの場所に「中城若松の火ヌ神」があります。この祠はもともとユナハンの麓に建っていた中城若松の屋敷跡にありましたが、若松公園の広場建設に伴い屋敷跡が埋め立てられる事になり、1989年12月12日に現在地に移設されました。「中城若松の火ヌ神」の祠内にはウコールや神石が設置されてウガンジュ(拝所)の役割があります。「中城若松の火ヌ神」がある小高い丘の裏麓には別の「火ヌ神」があり、ウコールと3つの神石が祀られていました。こちらの「火ヌ神」は若松公園と安谷屋の地の守り神として設置されていると考えられます。(邊土大主之墓)(野呂殿内/ヌルドゥンチ)「ユナハン」の南側の麓に「邊土大主之墓」が建てられています。「大主」とは「按司」に次ぐ高い身分の称号で「邊土大主」は「安谷屋按司」に次ぐ権力者でありました。また「安谷屋集落」の中心部に「野呂殿内」の屋敷があります。ノロ殿内やヌルドゥンチとも呼ばれる場所はノロ(祝女)が集団で住み祭祀を行う聖域で、現在は安谷屋ノロの子孫が暮らす屋敷となっています。ノロ制度が存在しない現在でも多くの人々が「野呂殿内」を訪れて現代の安谷屋ノロに会いに来るのです。(安谷屋のおもろ碑)「野呂殿内」から南西側の安谷屋公民館脇に「イームイ公園」があり、敷地内に「安谷屋のおもろ碑」が建立されています。歌碑には安谷屋グスクと城主、その城主と村人が互いにふさわしい関係にあったと謡い、安谷屋に世果報をもたらす城主を讃える事により村の繁栄を願った「おもろ」が記されています。御さけやらはかふし一 あたにやの きもあくみの もりに 世かほう よせわる たゝみ又 くすくと たゝみと しなて又 たゝみと まなてすと しなて (「おもろさうし」巻ニ)一 安谷屋の敬愛されている杜に 世果報を寄せなさる城主又 安谷屋グスクと城主がつり合って又 城主と愛すべき村人が和合して(安谷屋グスク)「中城若松の墓」がある若松公園の東側には「安谷屋グスク」が隣接しています。北中城村に点在するグスクでは、この「安谷屋グスク」が最も古いと言われています。安谷屋按司は勝連グスク按司の阿摩和利を討伐した鬼大城を中心とする第二尚氏の転覆計画に加わりますが、クーデターが察知されて鬼大城は滅ぼされます。後難を恐れた安谷屋按司は身を隠し、その後に尚円王の子である中城若松が安谷屋グスク城主になりました。(根所の火ヌ神/ニードゥクルヌヒヌカン)「安谷屋グスク」は南北約80m、東西約110mの大きさがあり二つの郭からなる連郭式の構造です。北西側にあるグスクの入り口には「根所の火ヌ神」(ニードゥクルヌヒヌカン)があります。この火ヌ神は一帯に「安谷屋集落」に関わる家があった事を歴史的に示す拝所で、字の祭事行事があるたびに拝まれています。「安谷屋集落」発祥の神が祀られている土地の守り神の役割があります。(イーヌカー)安谷屋グスクの中腹にある「イーヌカー」と呼ばれる井泉跡です。現在は湧水は出ていませんが、琉球王国時代には「安谷屋集落」の大切な水源として住民は洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。また、旧正月の元旦には若水を汲んでヒヌカンや仏壇に供えて、新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈っていたと考えられます。水の神が祀られるこの井泉は地域住民の祈りの対象とされています。(上の御嶽)「安谷屋グスク」の山頂にはウコールと琉球石灰岩が並べられた「上の御嶽」というウガンジュ(拝所)があり、グスクの守り神だと考えられます。中城若松は有名な琉球組踊「執心鐘入」に主人公として登場します。美少年として名の知られた中城若松は、首里での奉公に向かうその途中に日が暮れてしまい山中の宿に泊めて欲しいと願います。その宿では若い女が1人で留守番をしていました。女は親が居ないときは泊められないと断ります。しかし若松が名乗ると女は有名な若松に憧れの思いを寄せていたので、これは思いがけない好機と態度を一変させて家に招き入れたのでした。(宿の女の銅像)若松公園の入り口に設置されている「宿の女」の銅像です。若松は眠りにつきますが、女は若松への思いを遂げようと若松を起こして関係を迫ります。「そんなつもりはない」と頑なに拒む若松に女は「これも運命ですよ」と激しく迫り、しつこく若松に詰め寄ります。身の危険を感じた若松は、女の手を振りほどき外へと逃げ出したのです。(遍照寺跡)首里の末吉公園にある「遍照寺跡」です。当時、遍照寺は万寿寺とも呼ばれ、現在はわずかな石垣の遺構のみ残っています。さて、若松は末吉の万寿寺に逃げ込み住職に助けを求めます。住職は若松を鐘の中に隠し、寺の小僧達に番をさせ「決して寺に入れるな」と言いつけます。そこへ若松を追って宿の女がやって来たのです。(遍照寺跡の敷地)遍照寺(万寿寺)跡に残る寺の土台の一部と敷地です。ともあれ、小僧達は女を追い出そうとしますが、女は強引に寺に入ってしまいます。 寺中を探し回る女のただならぬ気配に気付いた住職は、若松を鐘から連れ出して逃がします。逆上した女は鐘にまとわりつき、鬼に変身してしまいます。しかし、住職は法力によって鬼女を説き伏せ鎮めることができ、中城若松を助ける事に成功したのです。(劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑)末吉公園に「劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑」があります。記念碑には中城若松が主人公である組踊「執心鐘入」の様子も表現されています。沖縄の民俗文化の未来のために生誕三百年を記念して「執心鐘入」ゆかりの地を朴し、この記念碑は建てられました。中城若松は組踊の他にも琉球歌謡集「おもろさうし」にも登場します。(若松のおもろの石碑)若松公園には「若松のおもろ」の石碑があります。石碑には「あだにやのわかまつ あはれわかまつ よださちへ うらおそうわかまつ 又きもあぐみのわかまつ」と記されています。直訳すると「安谷屋の若松は枝を伸ばし村を守護する立派な松である」と言う松の木を褒める内容ですが、この歌には安谷屋の若松の根心と聡明さ、有望な未来を若さと豊かさを象徴する松の枝に託して謡われた「おもろ」が掛けられているのです。(中城若松の墓)おもろ名人として知られる唄三線の始祖「赤犬子」が安谷屋のあたりで「まつ」という一人の子供と出会い、その振る舞いを見て作った歌がこの「若松のおもろ」です。中城若松は遺言に託した通り、愛する生まれ故郷の安谷屋の地に母と妻と共に同じ丘陵に永眠し、ユナハンの頂上から沖縄の平和と繁栄を見守っているのです。
2021.02.09
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(荻堂タチガーの祠地蔵尊)沖縄県北中城村の「荻堂集落」と「大城集落」には「平成の名水百選」に選ばれた10箇所の湧水があります。それぞれの集落の地質は大城グスクやミーグスク丘陵、メーヌマーチューと呼ばれる小丘陵の周辺に琉球石灰岩の地層があり、その下に島尻層群が広がっています。水を通しやすい琉球石灰岩が「荻堂大城湧水群」の湧き水を支える水源域となっています。(大城アガリガー)まず1つ目の湧水は「大城集落」の東側にある「大城アガリガー」です。「大城集落」の共同井泉(カー)の1つで、主に集落東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。戦前は旧正月2日、現在は1月3日に区の役員有志が水の恵に感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。(大城アガリヌカー)「大城アガリガー」の西側には「大城アガリヌカー」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の大半の住民が飲料水として戦後上水道が布設されるまで利用してきました。戦前は旧元日の早朝に子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈りました。(大城チブガー)3つ目に紹介する湧水は「大城アガリヌカー」の南側にある「大城チブガー」で「大城集落」で最も古い共同井泉と言い伝えられています。このカー(井泉)は「大城集落」のウブガー(産井泉)で新生児のウブミジ(産水)として利用されました。また、死者が出た場合に身体清めの水としてこのカーから水を汲んできたのです。水量が豊富で住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用された貴重なカーでした。(大城イリヌカー)「大城チブガー」の直ぐ西側に「大城イリヌカー」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の主に西側の住民が飲料水として利用してきました。戦前は旧元日の早朝に集落西側の子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。(安里アカダガー)「大城集落」の南西側に「安里アカタガー」があります。主に集落南東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。戦後は農業用水として利用されて、現在も「安里アカタガー」周辺には田畑が広がっており、安全面を考慮して転落防止のフェンスが張られています。(荻堂の歌碑)「荻堂集落」にある「荻堂の歌碑」です。歌碑の挽物口説(ひちむんくどぅち)は、挽物大工が那覇市の若狭町から中部の荻堂大城の坂を通って具志川の田場天願へ仕事に出かける時に歌われた道中歌です。主と共の津波の二人が口説の歌詞を弥次喜多さんよろしく掛け合いで歌いながら踊って展開する小歌劇です。歌碑には挽物口説の有名な一説が記載されています。「(津波) あの坂 何んて言ゆる 坂だやべるか (主) あれややう津波 津波やう 荻堂大城の坂んて 言ゆんてんと (津波) あんす高さる坂も あやべさや」(荻堂ヒージャーガー)「大城集落」の西側に「荻堂集落」が隣接しています。6つ目に紹介するのが「荻堂集落」の東側にある「荻堂ヒージャーガー」です。1965年(昭和40年)12月に水道が通水されるまで、大半の家庭がこの湧水を飲料水として利用してきました。戦前は旧元日の早朝に集落西側の子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。因みに「荻堂ヒージャーガー」は「大城イリヌカー」と隧道(トンネル)で繋がっており、同じ水源を共有しています。(荻堂イーヌカー)「荻堂ヒージャーガー」の直ぐ北西に「荻堂集落」の共同井泉であった「荻堂イーヌカー」があります。1965年(昭和40年)12月に水道が通水されるまで、屋敷内にチンガー(井戸)が無い家庭にとって洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として貴重な井泉でした。また、住民の情報交換や老若男女の触れ合い、憩いの場として大きな役割を果たしてきました。(荻堂メーヌカー)8つ目に紹介する湧水は「荻堂イーヌカー」の南側にある「荻堂メーヌカー」です。主に周辺住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。現在の「荻堂メーヌカー」周辺には田畑が広がり、カー(井泉)の水は農業用水として利用されているようです。(荻堂イリヌカー)「荻堂集落」の西側には「荻堂イリヌカー」があります。「荻堂集落」の住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として貴重なカー(井泉)でした。また、住民の情報交換や老若男女の触れ合い、憩いの場として大きな役割を果たしてきました。戦前は旧正月2日、現在は1月3日に区の役員有志が水の恵に感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。(荻堂タチガー)最後の10個目に紹介する湧水は「荻堂集落」の北側にある荻堂貝塚丘陵の麓に湧き出る「荻堂タチガー」です。清らかな湧き水が未来永劫に残る事を願って祠地蔵尊(ほこらじぞうそん)が建立されています。昔、水に濡れた犬が出入りしている小さな穴を見つけた人が、その穴を掘り下げて行ったところ水が脈々と湧き出てきたという「犬が見つけた湧き水」という有名な民話が生まれたカー(井泉)が、この「荻堂タチガー」です。(チョーデー広場)「荻堂集落」と「大城集落」のちょうど中間には「チョーデー(兄弟)広場」があり、両集落は昔から"チョーデー(兄弟)部落"と呼ばれていて深い絆で繋がっています。「荻堂大城の旗スガシー」は毎年旧暦の7月17日に両集落により共同開催される県内でも珍しい祭事です。荻堂が「天下泰平遊楽」大城が「飛龍昇天」の旗頭を先頭に、それぞれ「チャイファー」という掛け声に合わせてお互いの字にある聖地を巡拝しながら集落内を練り歩きます。巡拝が終わるとチョーデー(兄弟)広場に集まり、一人づつ代表を出して「チョーデー(兄弟)棒」を演じます。北中城村の「荻堂集落」と「大城集落」は昔から切っても切れない絆で強く結ばれています。古より神水が湧き出る豊かな資源を仲良く分け合いながら伝統文化を共に受け継いできた両集落は、沖縄県でも非常に珍しい独自の発展を遂げてきました。「荻堂大城湧水群」がある北中城村が女性長寿日本一に君臨している理由は、豊かな神水と伝統文化を継承するチョーデーの精神の恵みである事は間違いありません。「荻堂/大城集落」には今日も平和でゆっくりとした時間が流れているのです。
2021.02.02
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(仲順大主之墓)沖縄県北中城村に県民に大変馴染みの深い「仲順(ちゅんじゅん)集落」があります。仲順大主は13世紀の琉球豪族で「仲順集落」の創建者と言われています。有名なエイサー曲「仲順流り」には仲順大主にまつわる伝承が歌詞になっていて、仲順大主が登場する琉球歌劇「仲順流り」も広く知られています。また、1187年から1259年の3代73年間にわたり「琉球国中山王」として王位に就いた舜天(しゅんてん)王統最後の王「義本王」を戦乱からかくまったとの伝説が残っています。(仲順流りの碑)「仲順集落」の北側にある小高い山の麓に「仲順公園」があります。公園には「仲順流りの碑」がありエイサーで有名な歌の歌詞が彫られています。「仲順流り」は北中城村仲順に伝わる仲順大主にまつわる話を題材に、祖霊供養の歌として作られ、各地のエイサーに取り入れられて歌いつがれています。歌の発祥に関わる仲順の地を讃え、歌の末永い伝承を念じ石碑が建立されました。(根殿の社)公園の階段を登ると高台に「根殿の社」と呼ばれる拝所があります。左側の段にはウコールが設置され、その奥には中央に「仲順大主神霊」、左に「義本王神霊」、右に「舜天王神霊」と記載された神棚に琉球仏花瓶が供えてあります。右側の鉄格子の内部には琉球石灰岩のゴツゴツとした神石と灰が納められていました。(お宮の拝所)仲順の「お宮」と呼ばれる「根殿の社」の一帯は「仲順原遺物散布地」となっており、琉球グスク時代(約500〜800年前)の土器や白磁が発掘されています。「お宮」の北側には琉球石灰岩の大岩が点々と存在し、最も北側にはウコールが設置されたウガンジュになっていて神聖な雰囲気に包まれています。(ウフカー)「仲順公園」の南側に「ウフカー」と呼ばれる井戸があります。「仲順集落」は「ナスの御嶽」付近から現在地に移動したと伝えられており「ウフカー」は「仲順集落」のウブガー(産井戸)になります。「ウフカー」は集落発祥に関わる神聖な井戸であり、戦前までは仲順公園内のお宮で行われる例祭(旧暦9月13日)の時に拝まれていました。また、戦後の一時期まで「ウフカー」で旧正月の若水を汲んでいたそうです。(上門ガー)「仲順集落」の中心部に「上門ガー」と呼ばれる井戸があります。「仲順集落」の起源は「ナスの御嶽」付近の上門原に住居を構えた七世帯(仲順七煙)にあるとされます。その頃に産井戸として使用されていたのが「上門ガー」です。井戸の中はクルトゥ石(砂岩)で左右に区切られている事からミートゥーガー(夫婦井戸)であったとの伝承もあります。(仲順大主之墓)仲順集落の北側に「仲順大主之墓」があります。現在から約700年前に「仲順集落」を作り統治していた仲順大主には3人の息子がいました。ある時、誰に家督を継がせるか決めるために仲順大主は病気の振りをして3人を試すことにしました。「私は食べ物が喉を通らなくなってしまった。赤ん坊に与える乳なら飲むことができる。赤ん坊はあきらめて乳を全ても貰えないか?」長男と次男は親より自分の子を優先してこれを断ったが、三男は親の命を救うべく自分の赤ん坊に与えるはずの乳をすべて差し出したのです。(仲順大主之墓の左奥の墓)「仲順大主之墓」の左奥にはもう一つの墓があります。この墓が義本王の墓やノロ墓など多くの説が出ていますが、未だに誰の墓なのか謎に包まれたままです。さて、仲順大主は三男の赤ん坊を東の森の三本松の木の下に三尺の穴を掘って埋めるよう伝えました。言われるがままに三男がそこで穴を掘ると黄金の財宝が見つかったのです。財宝と家督は三男が継ぎ幸せに暮らしたそうです。これが有名な「仲順大主の財宝譲り」という民話です。(ナスの御嶽)「仲順集落」はかつてこの「ナスの御嶽」をクシャテ(腰当て)として南側に発展していったと伝わります。御嶽の中にある琉球石灰岩の大岩が御嶽のイベ(神の在所)であると考えられ「琉球国由来記」(1713年)には、神名は「ナスツカサ御イベ」で安谷屋ノロが祈願する場であると記されています。また「舜天」「舜馬順煕」「義本」の3人の王が祀られているとも伝わっています。(仲順ビジュル)「ナスの御嶽」の西側に「仲順ビジュル」があります。ビジュルとは十六羅漢のひとり賓頭盧(びんずる)がなまったもので、沖縄では主に霊石信仰として、豊作、豊漁、子授けなどの祈願が行われる場所です。仲順ビジュルはかつて花崎門中のノロにより旧暦9月9日に例祭が行われていました。以前は「喜舎場集落」にある王妃御墓(ウナジャラウハカ)付近の御願毛(ウガンモー)に所在していましたが、区画整理で現在の場所に移されました。(賓頭盧尊者の石碑)石碑には「賓頭盧尊者」と彫られています。賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)は神通力のとても強い人だったと言われ、お釈迦様が人々の病を治すように命令されました。病気に苦しんでいる人は「賓頭盧尊者の石碑」に直接触れ、自分の患部と同じ場所をなでることでそれが治ると言われます。「賓頭盧尊者の石碑」は病気平癒を叶えてくれる撫仏(なでぼとけ)なのです。(坂道の標識)北中城村の「仲順集落」は坂道が多い地区で遺跡文化財が点在するパワースポットとなっています。沖縄では旧盆には各地の青年団によるエイサーで必ず「仲順流り」が披露されます。歌い踊り継がれるこの念仏歌により仲順大主の偉業も同時に継承され、沖縄の人々の心に強く刻み込まれます。今年の旧盆も沖縄の各集落で無病息災、家内安全、繁盛を祈り、祖先の霊を供養するために行われるエイサーにて「仲順流り」が披露される事を楽しみにしています。
2021.02.01
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