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(琉歌の里恩納の石碑/万座毛第二駐車場)沖縄本島北部西海岸にある「恩納村」に生まれた女流歌人「恩納ナビー」は18世紀初め頃、琉歌歌人として活躍した女性です。「恩納ナビー」が生きていた時代は琉球文化の黄金時代と呼ばれ文学、音楽、舞踊と一流の文化人が輩出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。「恩納村」の美しい自然の中「恩納ナビー」は自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したのです。(恩納ナビーの歌碑)「恩納ナビー(恩納なべ)」が生まれたのは1660年頃だと推測され、自然の美しさに恵まれ神々、木、森の精たちと語らいながら成長したと伝えられています。万座毛第二駐車場に「恩納ナビーの歌碑」があります。「恩納岳あがた 里が生まり島 森もおしのけて こがさなたな」(恩納岳の彼方には 我が愛する人の故郷がある その山をも押しのけて 引き寄せたい)(恩納奈邊記念碑/表面/万座毛周辺活性化施設)(恩納奈邊記念碑/裏面/万座毛周辺活性化施設)「恩納ナビー」が万座毛に残した輝かしい琉歌の世界に沖縄の文化史を誇りとし「奈邊(ナビー)」の歌碑を御即位記念として、万座毛入り口に昭和3年11月10日に石碑が建立されました。現在は万座毛周辺活性化施設の新設に伴い施設内に移設されました。「恩納村」の人々は沖縄の三大女流歌人と言われる「恩納ナビー」の歌を愛し「恩納村」の誇りとして、後世に伝えるために「恩納奈邊記念碑」が建立されたのです。(恩納ナビーの歌碑/万座毛周辺活性化施設)(万座毛/沖縄県指定天然記念物)2020年10月にオープンした「万座毛周辺活性化施設」に「恩納ナビーの歌碑」があります。この歌碑は昭和3年の建立後に50周年を祈念して、昭和54年に新しく建立されました。1726(享保11)年に琉球王府「尚敬王」自身を先頭に、具志頭親方蔡温をはじめ各重臣臣下をのこりなく(約200人)率いて北山巡行のおり、恩納「ムラ」の景勝地万座毛に立ち寄った際に「恩納ナビー」が詠んだ歌です。「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」(波も風も穏やかになってほしい はるばる国王が万座毛に立ち寄られるのだから その顔は拝みたいものだ)(恩納ナビー生誕屋敷跡)(カンジャガー)「恩納集落」の西側にマッコウ屋(屋号)と言われる「恩納ナビー生誕屋敷跡」があります。「恩納ナビー」は兄1人に女1人として生まれました。屋敷は現在空き地になっていますが「恩納ナビー生誕の地」の石碑が建立されています。屋敷の東側に「恩納村」の指定文化財に登録される「カンジャガー」と呼ばれるウブガー(産井)の拝所があり、昔近くに鍛冶屋があったことが名前の由来となっています。産湯水や新生児の健康祈願(ミジナディ)の為に額につける水を汲む井戸で、正月1日に村人が井泉に感謝を込めて初御願に拝します。(神アサギ)(根神火神)「恩納集落」中央の恩納公民館の敷地内に「神アサギ」があります。この「神アサギ」は昔から現在地にあり、ノロ(祝女)により集落の神事を司る重要な建物です。昔から茅葺屋根は数年おきに集落の住民総出で葺き替え続けられています。また、公民館の敷地内東側に「根神火神」の拝所が祀られています。祠内には霊石が設置されており、集落の住民の健康祈願、地域の平和、安泰を願う「火の神」として崇められています。(恩納番所跡の拝所)(拝所内部/向かって右側)(拝所内部/向かって左側)「恩納集落」の北側に「恩納番所跡」があり敷地内には拝所が建立されています。番所とは間切の役場の事を言います。恩納間切は1673年(尚貞5年)に読谷村山間切から八村、金武間切から四村分割して創立され、この地に番所が置かれました。1853(嘉永6)年にはベリー一行も訪れ「恩納村」の美しさについて書き記しています。「恩納番所跡」は1882(明治15)年の恩納村における教育発祥の地でもあります。現在は拝所が設けられ火の神にウコール(香炉)と霊石が祀られています。(恩納松下の歌碑/表面)(恩納松下の歌碑/裏面)その昔「恩納番所」の近くに松の大樹があり、その下には村人への伝言用立て札が立てられていました。尚敬王時代(1713〜1751年)の冊封副使徐葆光(じょほうこう)一行が北部の名称巡りの途中「恩納番所」で一晩宿を取ることになりました。当時地方の農村では若い男女の「毛遊び(もーあしびー)」や「しぬぐ」など盛んに行われており、そのような風紀の乱れを冊封使一行に見せたくないという役人らしい発想から、風俗取り締まりの立て札が立てられたのです。(恩納松下の歌碑)その立て札を見た「恩納ナビー」はいささか皮肉を込めて次の歌を詠みました。「恩納松下に 禁止の碑の立ちゅし 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」(恩納番所前の松の下に 禁止の立札があるが 恋をすることまで 禁止しているのではあるまい)番所前の松の木は、戦後まで豊かな枝振りで緑陰をつくっていましたが、1955(昭和30)年に松食い虫の被害により枯れてしまい切り株のみ残されています。現在の松の木は2代目の松の木で「恩納松下の歌碑」の脇に植えられています。(恩納ナビ伝/上間繁市著)上間繁市著の「恩納ナビ伝」によると「恩納ナビー」の没年は不明ですが「恩納ナビー生誕屋敷(マッコウ屋)」の隣の島袋屋(しまぶくや)の娘であった「伊波マツ」さん老女の話では「ナビ女の晩年は一人暮らしで、老いた身でおりおり海漁りをしていた」という言い伝えを幼少の頃に聞いていたそうです。「恩納ナビー」はかなりの歳まで生き永らえていたと推察されます。(デース/墓地帯)(恩納ナビーの墓)「恩納ナビー」を埋葬している墓は「恩納集落」の俗称「デース」と呼ばれる墓地帯で、海を前にした小高い雑木林の中にあります。1660年代の古い墓で集落で言う「模合墓」で、幾人かで組合を作り均一の金銭と労力を出し合い建造する墓を意味します。その組合員の親族のみを埋葬した「模合墓」に「恩納ナビー」が埋葬されています。上間繁市著の「恩納ナビ伝」には、この掘り込み式の墓と内部の骨壷の写真も掲載されており、現在はウコール(香炉)、湯呑み、花瓶が設置されており集落の住民により祈られています。(厳谷小波句碑/恩納ナビーの歌碑)(恩納ナビーの歌碑)「恩納ナビー」は田舎乙女として水呑み百姓の貧しい家庭に育ち、当時の封建社会の厳しい時代で庶民の自由を熱望する気持ちを人一倍持っていました。「恩納ナビー」は琉球王府の布令規則などに真正面から反抗することなく、平易な言葉で自分の気持ちを正直に表現しています。「恩納ナビー」には万葉の秀歌にも劣らない歌が18首あるとされており、その中には琉球古典音楽や舞踊で今日、なお厳然として受け継がれ生き続けているのは確かな事実なのです。
2021.10.05
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(安里のテラ)沖縄本島中部の中城村の中央に「安里(あさと)集落」があり、面積は0.547㎢で西側は丘陵の斜面部となっており、国道329号線を挟んで東側には平野部が広がっています。「安里集落」は「桃原・下原・西原・後原・前原」の5つの小字から成り立っており、現在は「桃原・下原・後原」に住宅地が広がり「前原」の北側は墓地地帯となっています。「安里集落」を南北に通るかつて主要道路であった「スガチミチ/潮垣道」沿いには「安里のテラ」という県指定有形民族文化財があり、集落では「ティラ」と呼ばれています。戦前からカーラヤー(赤瓦屋根)であった「安里のテラ」の内部には四体のビジュル石(霊石)とウコール(香炉)、更にはヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所では参拝者はウチナーウコー(沖縄線香)やウチカビ(あの世のお金)に火をつけずにお供えする作法となっています。(安里のテラ内部/四体のビジュル石)(安里のテラ内部/ヒヌカン)「安里のテラ」は1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』に次のように記されています。『神社 俗ニ安里ノ寺ト云 安里村 笑キヨ、押明ガナシ、イベヅカサ、寄キヨラ 昔、屋宜村之百姓、屋宜湊ヨリ猟ニ出ケル処、俄ニ東風猛ク吹来ル故、安里ノ湊ニ舟ヲヨセ浜ニ下リ、暫寝ケルニ、土中ヨリ霊石一ツ出テ、我ハ権現也、掘出シ可崇、其方ノ病悩愈、種々ノ願可遂由、夢想アリ。夢覚テ見ケレバ、如夢霊石ノヤウニ見へケル石有リ。不思議ニ思ヒ占ヲ致シケレバ、正ク権現ノ御告也、急ホリ出シ可崇敬、トアリ。因、ホリイダシ見レバ、有霊石三。一ハ笑キヨ、一ハ押明ガナシ、一ハイベヅカサト、奉祝也。其后、霊石一ツ海中ヨリ浮来ヲ、寄キヨラト、奉祝。宮建立、右一所ニ奉安置、朝暮信仰イタシケル故持病モ愈、家富、子孫繁栄イタシ、男子ハ屋宜玉城ノ為大屋子、栄幸ニシテ終也。夫ヨリ村中、安里権現ト崇、諸人参詣仕由、申伝也。其末孫、当間村、ニヨク宮城、且、同妹鍋、右祭祀ヲ司ル也。』(安里のテラ)(安里のテラのカー)(ウマアビシグムイ跡)「安里のテラ」を建てたのは屋号「金万座」の先祖であると伝わり、代々その子孫が祭祀を司ってきました。建物の柱も「金万座」の米倉(高倉)に用いられていたものであると伝わります。戦前「安里集落」の人々は旧暦1月1日の元旦、9月9日のチクザキ(菊酒)、12月24日のウガンブトゥチ(御願解き)に拝していました。子孫繁栄、健康祈願、五穀豊穣の御利益があるとされ、現在も村内外から参拝者が訪れています。「安里のテラ」の北側には「安里のテラのカー」と呼ばれる井戸があり「安里のテラ」を拝んだ後にこの井戸も拝んでいたと伝わります。周辺住民は豆腐を作る水や、正月のワカミジ(若水)をこの井戸から汲んでいました。また「安里のテラ」の南東側にはかつて「ウミアビシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「安里のテラ」の周辺に点在していた「サーターヤー/製糖小屋」で作業する馬に水浴びさせる溜池として使用されていました。(屋号メーバルグヮー/前原小)(屋号ウフメーバル/大前原)(屋号ウシメーバルグヮー/牛前原小)「安里のテラ」周辺は「ヤードゥイ/屋取」と呼ばれ、琉球王国時代の士族が首里から農村に移り住み定住した人々の集落を「ヤードゥイ/屋取集落」といいます。1871年(明治4)の廃藩置県後、現在の潮垣線(スガチミチ)と安里中央線の十字路から西側に「前原/白氏」が最初に定住しました。その後十字路付近に「屋比久/吉氏・知名小/向氏・喜屋武小/水氏・宇小根/朝氏」が、そして南側の海沿い付近に「平安名」がそれぞれ移住してきたと伝わります。この土地は「前原」が最初に移住した事や「前原」系統の家が多い理由から「メーバルグヮー/前原小集落」または「アサトノシチャ/安里ノ下」と呼ばれていました。かつて屋号「前原小」には「力石」という青年達が力試しに使った石がありました。また屋号「大前原」の北側には「サーターヤー/製糖小屋」が隣接していました。(屋号クシメーバルグヮー/後前原小)(屋号トウマメーバル/当間前原)(屋号サンラーメーバルグヮー/三良前原小)「安里集落」の「メーバルグヮー屋取」は5つの門中で構成されていました。「前原」は『白氏 元祖 白楊基金城親雲上信懐 名乗頭 信』で、本家は首里大名にあり姓は「前原」です。現当主の5代前の先祖が首里鳥掘から「安里」に移り住んだと伝わります。「屋比久」は『吉氏 元祖 吉裔介儀間金城親雲上孟明 名乗頭 孟』で、本家は南城市佐敷にあり姓は「屋比久」です。「知名小」は『向氏 元祖 尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で、字南上原から分家し姓は「知名」となっています。「喜屋武小」は『水氏 元祖 水道仲村渠親雲上春良 名乗頭 春』で、本家は沖縄市宮里にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓して字北上原から分家しました。「字小根」は『朝氏 元祖 朝承起仲村渠親雲上盛亮 名乗頭 盛』で、本家は北谷町北谷にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓したと伝わります。(ヤマグヮーの拝所)(ヤマグヮーの拝所の祠)(ヤマグヮーの拝所のビジュル石)(ヤマグヮーの井戸)「安里集落」の中心部を南北に通る国道329号線の東側に「モーグヮー」と呼ばれる土地があり、その中に「ヤマグヮー」と呼ばれる一画があります。戦前は今よりも西側にありましたが土地改良により現在地に移動しました。「ヤマグヮー」にはコンクリート製の拝所が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。祠の内部には三体のビジュル石(霊石)が祀られており、沖縄における石を神として祀るビジュル信仰の拝所となっています。「安里集落」では「ヤマグヮー」の拝所はグングヮチウマチー(五月ウマチー)とルクグヮチウマチー(六月ウマチー)の年中行事で拝まれています。グングヮチウマチーは旧暦5月15日に行われる稲の生育を祈願する行事で、ルクグヮチウマチーは旧暦6月15日に催される稲の収穫に感謝する行事です。この「ヤマグヮー」の敷地内には井戸跡が残されておりウコール(香炉)が祀られています。(ムラガー/シチャヌカー)(ムラガー/シチャヌカーのウコール)「ヤマグヮー」の拝所から南南西側に「ムラガー/村井戸」があり「シチャヌカー/下ノ井戸」とも呼ばれています。この井戸はカブイというアーチ状の石積みが施されており、現在も豊富な水が湧き出ています。「安里集落」の古老の言い伝えによると、この井戸は干魃が7ヶ月続いても水が涸れる事はなかったそうです。戦前はイジュンという井泉の湧き口を塞いで掃除をしていましたが、水が止まる事なく湧き出てくるので大変だったと言われています。また、この井戸は集落で子供が産まれた時に使うウブミジ(産水)や正月元旦に汲まれるワカミジ(若水)として重宝されていました。「シチャヌカー」にはウコール(香炉)が設置されており、水への感謝を祈願する拝所として住民に拝されています。現在、この井戸の湧水は周辺の農業用水として使用されています。(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)「安里集落」には国道329号線から護佐丸歴史資料図書館や中城村民体育館を経て中城湾に流れ込む「ヒールガーラグヮー」と呼ばれるガーラ(川)があります。戦前は川幅が2〜3mありましたが普段は水が流れておらず、雨が降った際に水が流れていました。中城村は1945年の沖縄戦に於いて激戦地となり、4月5日に「安里集落」は米軍の攻撃により消失しました。次の日には集落の西側に隣接する「北上原集落」では161.8高地の攻防戦が展開し日本軍が壊滅しました。戦後、それまで一筋に流れていた「ヒールガーラグヮー」の川筋が米軍により変えられ、現在は国道329号線の2ヶ所から流れる小川が「ヤマグヮー」と「ムラガー」の中間辺りで合流して東側に流れ込み、そのまま中城湾の海へと続いています。(ヤンバルヤー)(ヤンバルヤー)「安里集落」の東側にある浜はかつて「ヤンバルヤー」と呼ばれており、戦前はヤンバルから来るサバニの舟着場であったと伝わります。サバニとは沖縄のウミンチュ(海人)が使っていた舟の事で、沖縄の言葉で「舟」は「ンニ」または「ブニ」と発音しますが「サバニ」の語源は「サバ(サメ)」漁に使う「ンニ(舟)」から来たと考えられています。また「ヤンバルヤー」の浜はモーアシビ(毛遊び)と呼ばれる場で「安里集落」内外から若い男女が集まって語り合い三線を弾いて踊り楽しんでいました。モーアシビをしていると南側にある「津覇集落」の巡査がたびたび見回りに来る事があり、捕まらないように逃げ帰ったという古老の話が伝わります。現在「ヤンバルヤー」の浜は吉の浦公園ビーチとして整備されており、近年までウミガメの産卵が確認された美しい浜として住民に親しまれています。
2022.10.26
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(大山貝塚の祠)大山貝塚は沖縄県宜野湾市大山にあり、隣接する「森川公園」と恩納村の「SSS」に並ぶ沖縄の三大心霊スポットとして知られています。沖縄のシャーマン「ユタ」の修行場所としても有名で、大山貝塚は決して遊び半分や肝試しで訪れる場所ではありません。ここは沖縄の歴史を学ぶ場所であり、敬意を払って訪れる聖域なのです。(普天間基地のフェンス)宜野湾市のファミリーマート大山店から400メートルほど坂道を上がると米軍普天間基地のフェンスにたどり着きます。フェンス内は住宅エリアになっていて米軍関係者が普通に暮らしています。沖縄戦の時には大山貝塚近くの防空壕に沢山の沖縄の住民が避難していましたし、この一帯は沢山の犠牲者も出た激戦地でした。(大山貝塚の碑)フェンス沿いに50メートほど進むと「史跡大山貝塚」の碑に迎えられます。米軍基地フェンスに隣接するこの地に大山地区の守り神を祀るウガンジュがある皮肉、これは紛れもない沖縄の現実です。この碑の右手には大山貝塚に続く下り階段があります。(祠へ下る階段)階段を下り正面には大山貝塚のウガンジュが訪問者を待ち受けています。先人の霊、戦死者の魂、亡くなったユタの念が蠢く地場は不気味に、かつスピリチュアルに佇んでいます。階段を一段一段下りるにつれ重たい空気に身体が包まれてゆきます。これ以上進めない、進ませてくれない非常に強いパワーに足が動かなくなりました。(祠と鍾乳洞)石造りのウガンジュに手を合わせ名前を名乗り、訪れた理由を語りかけ沖縄の平和を祈りました。すると、それまで私の身体を縛り付けていた重過ぎる圧力がフッと消え、物凄い心地良い雰囲気に包まれました。ウガンジュの横には鍾乳洞の洞窟に下りる真っ暗な入り口があり「あの世への入り口」と呼ばれる聖域になっています。ユタはここから洞窟に入り厳しい修行をするのです。(大山貝塚のガジュマル)大山貝塚には神が宿るガジュマルがあります。琉球石灰岩をガジュマルの枝が何百年もかけて絡み付き見事な生命力を表現しています。ガジュマルの前にひざまづき瞑想を始め耳に聞こえる物、鼻から匂う物、目をつむり見える物、ガジュマルに触れる手に感じる物、そして精神が素直に想う物に集中して五感を研ぎ澄ませました。(大山貝塚の入り口)大山貝塚は確かにパワーの強いスポットです。遊び半分の肝試しに来る人には怖い心霊現象を与え、敬意を払って訪れる人にはスピリチュアルな心地良い雰囲気を与えます。私がパワースポットに取り憑かれる理由は、この掛け替えないパワーを感じる事と自分自身の魂の浄化の為です。大山貝塚はこの階段の下から今も訪問者を見つめているのです。
2020.12.16
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(屋良城之嶽)「屋良グスク」は沖縄県嘉手納町に流れる比謝川の中流に位置し、標高38mを最高所とする小高い琉球石灰岩陵上に築かれたグスクで「屋良大川グスク」とも呼ばれます。グスク北側を流れる比謝川を天然の堀として利用し、南西面に半円状に外郭を巡らせた輪郭式城郭で、築城は13〜15世紀と考えられています。御嶽の石碑には「屋良城之嶽 神名 笑司之御イベ」と記され、ウコールが祀られています。(屋良大川按司の墓)「屋良大川按司の墓(御先大川)」は屋良グスクの東側に位置し、以前は崖の中腹に位置していましたが崖崩れにより墓が崩壊したため、散乱した遺骨を逗子甕に分納し、真下の横穴を利用して1991年に移築しています。墓の石碑には「字屋良御先 大川按司之墓」と彫られウコールと霊石が設置されています。(字屋良ウブガー)屋良大川按司の墓の北東側に「字屋良ウブガー」があります。このウブガー(産川)は字屋良集落で古くから利用されてきた湧水で、正月にはこのガーから若水を汲んでいました。集落で子供が産まれるとウブガーから「ウブミジ(産水)」を茶碗に汲み、中指を浸して赤子の額を3回撫で回す「ウビナディ(お水撫で)」の儀式や「産湯」に使用しました。産湯に使用する場合はタライに湯を先に入れ、ウブガーから汲んだ水で薄めて使用するのが常で、その順序を逆にすると「さか湯」と呼ばれ、死者の体を清める際に使用する「アミチュージ(湯かん)」となることから忌み嫌われたのです。(屋良城址公園の無縁墓)(ガジュマルが絡まる無縁墓)1979年に整備された屋良城址公園内は、戦後に建てられたとみられる墓が多数点在し、骨や骨つぼがある30基を含む107基は所有者など手掛かりがないと言われています。受け継ぐ人がいなくなり放置された「無縁墓」が沖縄県嘉手納町の比謝川周辺に点在し、まちづくりや安全対策に影響が出ています。リニューアル工事を控える町立屋良城址公園には墓が116基あり9割以上が所有者不明。落石や崩落の対策工事が急がれる県営住宅下の崖にも誰のものか分からない墓があり、手がつけられない状態なのです。(所有者不明の無縁墓)比謝川一帯の墓の多くは戦後混乱期に土地の所有者に無断で建てられた可能性が高く、米軍基地に土地を接収されて住む場所もなく、この一帯に墓が集まったとみられています。大半は墓を守る子孫が絶えたか、移動して空き墓になったかとの見方が示されています。しかし琉球カミンチュ(神人)に言わせると、墓を移動しても地縛霊が墓に残るため、死亡した人の霊魂はこの場に居続けるそうです。(屋良城址公園を流れる比謝川)沖縄戦当時の屋良グスク周辺は日本兵を収監した捕虜収容所がありました。捕らえられた日本兵が収容所から脱走して比謝川を泳いで逃げないように、米軍は日本兵の両足を切断して逃亡を阻止したと言われます。更に米軍は日本兵の体をバラバラに切断して比謝川流域の木々に吊るし、捕虜である日本兵に逃亡を諦めさせようと試みたのです。そのため屋良グスク周辺の比謝川流域には日本兵の上半身だけがうごめく幽霊や、下半身だけが歩き回る幽霊が多数目撃されています。(ヌールガー)屋良城址公園には「ヌールガー」と呼ばれる井泉が祀られています。「ヌール(ノロ)」は琉球神道における女性の祭司の事で「ガー」とは湧き水が出る井戸の事を示します。琉球ノロがこの聖域で屋良集落の豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝う祭祀を行なっていたのです。「ヌールガー」の井泉には水神を祀る祠が建てられており、ウコールが設置されている拝所として現在も祈られています。(比謝橋)屋良グスク沿いを流れる比謝川には「比謝橋」がかけられています。この橋のたもとには「吉屋チルーの歌碑」があります。吉屋チルーは貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳にして那覇の仲島遊郭へ遊女として売られました。吉屋チルーは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられなかったのです。悲嘆にくれた吉屋チルーは食を絶ち、18歳で亡くなったと伝わります。(吉屋チルーの歌碑)歌碑には「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら (恨めしい比謝橋は お情けのない人が私を渡そうと思って 架けておいたのでしょうか) 」と記されています。これは身売りされて那覇に向かう途中、絶望的な吉野チルーが比謝橋で詠んだ悲しい歌です。(嘉手納ビル)嘉手納町屋良の比謝川流域は根本的に悪い土地で、悪霊が溜まりやすい地域とされています。この「嘉手納ビル」は沖縄で有名な心霊スポットです。この建物の一階にはかつて沖縄の大手スーパーが営業していましたが、殺人事件により幽霊の目撃が多発して閉店に追いこまれたのです。しばらく立ち入り禁止が続きましたが、現在は米軍関係者が経営するインターナショナルスクールになっています。(天川の井戸)「比謝橋」の袂に「天川(アマガー)」と呼ばる直径二尺程度の円筒型に積み上げられた井戸がありました。琉球王府時代にできた古典音楽の曲名「天川節」は古典女七踊の一つとしても有名で、この歌に登場する「天川の池」はこの天川の井戸から比謝川に流れ出る水路に出来た池とされています。「天川節の歌碑」も建てられおり「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」と記されています。(字嘉手納のンブガー)「天川」に隣接して「ンブガー(産川)」があり「アガリガー(東川)」とも呼ばれている井戸です。水源が豊富なこの井戸は干魃が続いても枯れることがなかったと伝わります。字嘉手納集落では子供が生まれると「サン(魔除け)」を結んだ桶で東に向かって水を汲み、その水を産湯に使い健康祈願をしました。戦後に現在の位置に移動して拝所として住民に拝まれています。(トゥヌマーチーモー)(イリヌウタキ/アガリヌウタキ)「トゥヌマーチーモー」は字嘉手納集落の殿(トゥヌ)の拝所があった祭祀場です。旧暦9月8日には「ヌールガーミジナリー」が行われ、ヌールガーで水のウガン(御恩)の拝みを終えたヌール(ノロ)が「トゥヌマーチーモー」で集落の住民の健康祈願の儀式を行いました。現在、敷地には「イリヌウタキ/アガリヌウタキ」の拝所が建てられ、集落の西と東の御嶽が一緒の祠に祀られ、それぞれウコールが設置されています。(神屋)嘉手納町の「中央区自治会事務所」の敷地内に「神屋」があります。「ヌル殿内」の役割があり「神アサギ」と呼ばれるヌール(ノロ)が祭祀行事を司る聖域として住民から拝所として拝まれています。かつては集落のヌール達が集団で暮らした場所で「ノロ制度」が定められた琉球王国時代には沖縄の各集落に「神屋」が設けられ、集落の恒例行事には欠かせない神聖な場所として住民に敬われていました。(字嘉手納集落の拝所の大ガジュマル)(拝所の天降り神と火の神)拝所には推定樹齢250年、樹高18m、胸高周囲8m、枝張24m、枝張面積146平方メートルの大ガジュマルがあります。この一帯には神が住むと言い伝えられ、その対象としてこのガジュマルは土着信仰として拝まれています。拝所には「天降り神」と「火の神」が祀られウコール(香炉)が設置されています。大ガジュマルの麓には2つの巨大な岩があり、神が宿る神聖な岩としてウコールが祀られています。(比謝川のマングローブ)嘉手納町の比謝川流域は沖縄戦に翻弄された地域でありますが、戦前は神が祀られた御嶽のグスクで豊かに繁栄した長い歴史があります。古からの遺跡文化財を大切に守り、若い世代に伝統を継承して行く事は重要です。歴史と自然が豊かなこの地域は嘉手納町のみならず、沖縄の歴史を解明するためにも非常に価値のある地域として大切にされてゆく事でしょう。
2021.01.11
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(砂辺の御嶽)北谷町「砂辺集落」の東側にある「御嶽の山」は神が住む聖域であり、砂辺集落の根所の住人以外の人がこの山で木を切ったり枝を折ると祟られると言われて非常に恐れられていました。沖縄戦の時、御嶽の山に掩体壕(えんたいごう)と呼ばれる壕を作る際、祈願を行わず樹木を伐採して作業員が怪我や病にかかったと言われています。(ヌールガー)御嶽の山麓には湧泉の「ヌールガー」があり拝所として拝まれていました。深さが5メートル程ある井戸は現在も水が湧き出ており「タキガー」「ウガンガー」「タキグサイウカー」とも呼ばれています。戦前、平安山ヌル(ノロ)が白装束を着て井戸で手足を清めてからトゥン(殿)など砂辺集落の拝所を巡りました。集落の住民は御嶽の山を「シジダカサン」と呼び、祟られると恐れ「ヌールガー」に近寄らなかったそうです。(村グサイ之墓)(大里ムチウリ之墓)御嶽の山の中腹に「村グサイ之墓」と「大里ムチウリ之墓」があります。隆起した石化珊瑚にガジュマルの枝が無数に絡まりつく墓にはウコール(香炉)が設置され霊石が祀られています。かつて「ムラシーミー」と呼ばれる集落で行う墓参りでは御嶽と共に祈願が捧げられていました。古老の話によると、御嶽の山には「ヤマサリーン」と呼ばれる神が住み、樹木の伐採の他にも葬式や弔問からの帰りに身を淨める事なく山に立ち入ったり、近くを通ったりすると大きなハブに追われたと伝わります。(砂辺御嶽/照神)「照神」の拝所が御嶽の山の頂にあります。赤瓦屋根の御堂の中には砂辺集落の守護神を祀るウコール(香炉)が設置されています。旧正月2日にはニードゥクル(根所)の家人などがタティウガン(立て御願)を行い、長寿、子孫繁栄、集落住民の無病息災などの祈願が行われています。また、旧3月のシーミー(清明祭)には「カミウシーミー」が行われます。(ヌール之墓入口)(ヌール之墓)御嶽の山の杜奥深くには「ヌール之墓」と呼ばれる拝所があります。この墓には、かつてノロ職にあった歴代のカミンチュ(神人)が葬られています。「ヌール之墓」には大小二つの石碑が建立されています。大きな石碑は高さ88センチメートル、幅67センチ、厚さ11センチで中央に「ヌール之墓入口」と陰刻されています。小さい石碑は「ヌール之墓」と刻まれ墓口右側に建立されています。この墓は3月のムラシーミー(カミウシーミー)の際に拝まれています。(ウチヤタイウメー之墓入口)(ウチヤタイウメー之墓)「ウチヤタイウメー之墓」が御嶽の山の東側にあります。砂辺集落の「ウチヤタイ(ウチャタイ)」と呼ばれる地域に残る歴史的価値が高い古墓で、戦前は非常に不気味で怖い場所として恐れられていました。この墓は無名の墓でしたが高貴な方の墓であるとして戦後に調査が行われました。墓の名前は「ウチヤタイの前(ヌメー)の墓」と「ウチヤタイ爺さん(ンメー)の墓」の二通りに解釈され、現在は「ムラシーミー」で拝まれています。(砂辺之殿)「砂辺之殿」は平安山ヌル(平安山、伊礼、浜川、砂辺、桑江の5集落の祭杷を管轄したノロ)が砂辺集落に来て拝んでいた拝所です。かつてはこの場の岩陰にウコール(香炉)が置いてあるだけで建物はありませんでした。「琉球国由来記」には砂辺集落の住民がこの拝所に芋の神酒六完を供えたと記されています。現在は琉球赤瓦の建物があり、内部には霊石とウコールが設置されて拝まれています。(御神屋根所)(ニガン)「砂辺之殿」に隣接した場所に「御神屋根所」があり、敷地内に「ニガン」と呼ばれるヒヌカンが祀られている拝所があります。集落の神官が住む家を根所(ニードゥクル)と言い、村の行事の祈願が行われる拝所を「御神屋」と呼びます。「御神屋根所」はシーシヌウグヮン(獅子の御願)の際に獅子舞の出発点となっており、戦時中には兵士がここに立ち寄り拝んでから出征していました。(犬川之井水神)(上ヌ犬川の屋敷にある霊石)(上ヌ犬川の屋敷にある霊石)「犬川之井水神」は「インガー」と呼ばれた集落の共同井戸で「上ヌ犬川」の屋敷の西側にあります。井戸は飲料水や炊事、野菜や手を洗う為にも用いられました。「上ヌ犬川」の屋敷の東側には霊石とウコールが設置されています。更に屋敷の西側の壁には穴が開けられており、その奥に霊石が祀られウコールが設置されています。(トゥティクゥの神の石碑)(トゥティクゥの神)「トゥティクゥの神」は「砂辺土帝君」と呼ばれ砂辺公民館北東側に位置します。「クラガーシルウム」と呼ばれる白芋を根所の祖先が初めて唐から持って来たという伝承があり「トゥーティークーの神」が祀られました。旧正月の7日には「世果報拝み」と称するトゥティクゥ拝みが行われます。(ウフシヌシー/石良具御イビ)御嶽の山の北側に「クシムイ」と呼ばれる高い山があります。クシは後方、ムイは山や丘の意味があり、砂辺集落の後方にある山という意味で「クシムイ」と言われています。この山の頂上には「ウフシヌシー」と呼ばれる珊瑚が石化した大岩があり拝所として祀られています。海から約500メートルの山の上に珊瑚の大岩がある謎に包まれた聖域となっています。(ウフシヌシーの拝所)(ウフシヌシーの拝所)「ウフシヌシー」の大岩には「伊平屋森/石良具御イビ」と刻まれた石碑が建てられています。石碑の左側には下り階段があり、階段を降りて直ぐ右側に一つ目の拝所がありウコールが設置されています。更に階段を降り突き当たりにはもう一つの拝所があり、同じくウコールが設けられてらいます。「ウフシヌシー」は大岩の迫力と共に、神が宿る神聖な空気に包まれるパワースポットなのです。(砂辺集落の西海岸)沖縄戦よりも琉球王国時代よりも更に昔の時代より「ウフシヌシー」の大岩は、聖なる山である「クシムイ」の頂で動かざる事なく砂辺集落と西海岸の美ら海を見つめて来ました。謎多き神の聖なる山は砂辺集落の平和も苦しみもひたすら黙って見守って来ました。私たちには争い事のない平和な世界を砂辺の「御嶽の山」や「クシムイ」に見せてあげる責任があるのでしょう。
2021.04.27
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(ジリチン毛/ジリチンモー)沖縄本島中南部にある浦添市「前田集落」に「ジリチン毛/ジリチンモー」と呼ばれる丘陵の森があります。「毛/モー」とは「野」の当て字で野原や広場を意味し「毛遊び/モーアシビ」という若い男女が野原や海辺に集まり飲食を共にして歌舞などで交流した集会にも「毛/モー」言葉が使われており、恩納村の「万座毛/マンザモー」の名称にも「毛/モー」という字が使われています。「前田集落」の「ジリチン毛/ジリチンモー」は県道38号線(警察署通り)沿いの「浦添グスク」や「浦添ようどれ」がある「浦添大公園」の南東端と「浦添市消防本部」に挟まれた丘陵の森に位置しています。「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側には入り口の階段が丘陵の内部に続いています。(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷のウコール)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷の火の神)「ジリチン毛/ジリチンモー」入り口の階段を登ると左手に「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」の拝所があり、社の内部には石造りの古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。拝所に向かって左側にはブロックで囲まれた「火の神/ヒヌカン」があり数個の霊石が供えられています。「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」は「前田集落」発祥の地で、初めてこの地に住んだ「根人/ニーチュ」の屋敷(根屋/ニーヤー)がありました。「前田」は「浦添グスク」の前方に広がっていた田畑の土地から名前が付けられたと伝わり、首里の士族がこの地に移り住み「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」に住み始めたのが「前田集落」の始まりだと言われています。現在は「前田集落」発祥の地たして人々に拝されています。(前田髙御墓/前田タカウファカ)(前田髙御墓の石碑)(前田髙御墓の手水鉢と霊石)(前田髙御墓のウコール)「ジリチン毛/ジリチンモー」の頂上付近には「前田髙御墓/前田タカウファカ」という墓があり、丘陵の高い場所に設けられた墓である事から「髙御墓/タカウファカ」と呼ばれています。この墓は県道38号線の改良工事のため、旧暦昭和50年乙卯12月13日に「前田名川原頂上1468番地」から現在の「前田山川原1962番地」に移転改修されました。この墓の前方に隣接する場所には「前田髙御墓」と刻まれた石碑、手水鉢、霊石が設置されています。さらに「前田髙御墓」の門石には霊石が祀られ、墓前には陶器製ウコール2基と石造りのウコール1基が祀られています。この石造りのウコールには「奉寄進/恵祖按司/前田按司/はか君加那し/恵祖子あや/久米きつは/てる君加那し/咸豊十一年辛酉九月/大里間切大城村/嶋袋筑登之親雲上」などの文字が記されています。(火の神/グフンシジの拝所)(火の神/ウミチムン)(グフンシジ)「前田髙御墓」の北側に隣接する小高い丘には「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」が祀られる拝所が建立されています。「火の神/ウミチムン」には3体の岩がカマド型に組まれており、4基の石造りウコール(香炉)と数個の霊石が供えられています。「ウミチムン」とは「3個のカマド石」を意味する言葉で、琉球古来から伝わる信仰で「火の神/ヒヌカン」が祀られています。一方「グフンシジ」は神が宿るとされる「ビジュル/霊石」を集落の守護神として崇めるのが一般的で、この拝所には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」のウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられ、現在も集落の住民により拝されています。(後之御嶽/クシヌウタキ)(まさら神)(ふえしじ之御嶽)「前田髙御墓」の西側には「後之御嶽/クシヌウタキ」「まさら神」「ふえしじ之御嶽」の合祀拝所があります。「前田髙御墓」と同様に県道38号線の改良工事のために「ジリチン毛/ジリチンモー」の丘陵に移設された拝所であると考えられます。もしくは「前田集落」は沖縄戦の激戦地でもあったため、戦争で破壊された御嶽や拝所がこの地に移動して祀られているとも考えられます。「後之御嶽/クシヌウタキ」にはウコール(香炉)2基が祀られており「まさら神」には、神が宿るとされる琉球石灰岩の岩塊とウコール1基が供えられています。更に「ふえしじ之御嶽」にはウコール(香炉)1基が設置された合祀拝所となっています。(ティーダウカー)(ユーアキガー/男泉)(ユーアキガー/女泉)「ジリチン毛/ジリチンモー」の南東端で「沖縄消防本部」に隣接する崖の上に「ティーダウカー」と刻まれた石碑が立つ井戸があります。「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味し、この井戸は見晴らしの良い南西方面に向いています。「ティーダウカー」の南側に隣接して「ユーアキガー/男泉」と呼ばれる井戸があり、円形の石で蓋が施された井戸の脇には石造りのウコール(香炉)が1基設置されています。この井戸は「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側に隣接する位置にある「ユーアキガー/女泉」と対になっており、丘陵の森の地下に流れる同じ水脈から湧き出ていると考えられ「ジリチン毛/ジリチンモー」の「ミートゥーガー/夫婦井戸」とも呼べる古井戸となっています。この「ユーアキガー/女泉」には霊石1体と石造りのウコール(香炉)1基が祀られています。(前田大屋の墓/前田大王の墓)(前田大屋の墓/前田大王の墓の石碑)「ジリチン毛/ジリチンモー」の北西側の丘陵中腹には2基の「平葺墓/ヒラフチバー」と呼ばれる掘り込み墓が並んでいます。向かって左側が「前田大屋の墓」右側が「前田大王の墓」となっています。「平葺墓/ヒラフチバー」の古墓は主に士族層の墓で、首里から「前田集落」移住した士族がこの古墓に祀られていると考えられます。墓前の石碑には次のように記されています。『前田大王 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一三二三番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 前田大屋 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一二六六番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 平成十五年十二月十三日 戌申 旧十一月二十日』
2022.07.17
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(ヌル殿内/ヌルドゥンチ)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里集落」があり、集落の中心部を南北に通る「新里ビラ」と呼ばれる急勾配の坂道があります。この坂道の途中にはかつてノロの住居があった「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」の拝所があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『バテン巫火神』と記されており『聞得大君嘉那志アラヲレノ時、与那原ニテ、バテン巫、大君之御前ニ出、神御名、テダ白御神ト、女御唄ノフシニテ付上ゲタル昔ノ例ハ、為有之ト也。バテンノロ神名、住古ハテダ白ト云フ。御同名恐多トテ、中古、改名之儀立願仕ケレバ、神託ニ、ヨナワシ大神ト被下タルトナリ。』との記述があります。(新里ビラ沿いのヌル殿内/ヌルドゥンチ)「場天ノロ/バテン巫」の神名は元は「テダ白/日白」であり、テダ白とはテダ代の事で「太陽神」の神霊が寄り付く「依代/よりしろ」を意味します。その神名を与那原(ヨナバル)で、第二尚氏時代の最高神女(ノロ)である「聞得大君」に付与した内容を「琉球国由来記」は記しています。「聞得大君」が初めての「アラヲレ/御新下り」で与那原で行幸した際に「聞得大君」の前に跪いた「場天ノロ」は「御唄/神歌」が唱えられる中で「テダ白御神」という自身の神名を「聞得大君」に献上しました。同名は畏れ多いので、それ以後「場天ノロ」の方は自身を「ヨナワシ大神/与那和志大神」と改名して名乗るようになったと「琉球国由来記」には記述されています。(ヌル殿内/ヌルドゥンチの3基のウコール)(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」はかつて「アガリゾー」とよばれており、現在は3つのウコール(香炉)と2つの火の神(ヒヌカン)が祀られています。ウコールは向かって右側は琉球開闢に係る「阿摩彌姑/アマミキヨ」の5世と言われる「御巣人大神/ウシジンテージン」、中央が琉球国以前のムラの祭祀行事に於いて最高の統治者でヌルの始まりであった「藩坐那志/ハンジャナシー」、向かって左側が佐銘川大主の娘で第一尚氏時代に佐敷の祭祀を管轄した神女であった「場天大ヌル/バテンウフヌル」の香炉とされています。また、戦前は「ヌル殿内」の敷地内に一対の大きな石造りのシーサー(魔除け獅子)が鎮座していて、南西と南東に別々に向いていましたが沖縄戦で消滅してしまいました。更に、集落の綱引きの際には「ヌル殿内」から出発して「新里馬場」に向かったと伝わっています。(中樋川グヮー/中樋川小)(中樋川グヮー/中樋川小の拝所)「ヌル殿内」から「新里ビラ」を南側に登ると「中樋川グヮー/中樋川小」に向かう森道が続いています。「澤川原遺物散布地」南端の森に位置するこの樋川(ヒージャー)は、東側丘陵の「崩利下原遺物散布地」方面から湧き水が流れ込んでいます。現在も水量が豊富な「中樋川グヮー」はかつて集落の「産井/ウブガー」として利用され、集落で子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)はこの産井(ウブガー)から汲まれて用いられました。更に、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。「中樋川グヮー」は心臓破りの坂として知られる「新里ビラ」の中腹辺りに位置しているので、昔は坂を登り下りする村人や旅人の休憩場所として重宝されていたと考えられます。(宮城殿/ナーグシクドゥン)(宮城殿/ナーグシクドゥンの祠)「中樋川グヮー/中樋川小」の南東側に約150メートルの位置に「宮城殿/ナーグシクドゥン」があり、祠には霊石が祀られています。この場所は「尚巴志」の弟とされる「大平田之比屋」の孫である「手登根里之子」の住居跡であると伝わっています。「琉球国以由来記」には『宮城之殿』と記されており『稲穂祭之時、シロマシ・神酒壱百姓。同大祭之時、神酒二百姓、供之。バテンノロ祭祀也。』との記述があります。「里之子(さとのし/さとぬし)」は琉球王国時代に王様の近くに仕えた若者で、親方(うぃーかた)の次位で筑登之(ちくどの)の上位にあたります。また、一間切を采地として総領する地頭職である「総地頭/惣地頭」の次男以下の子どもの呼び名でもありました。(上之樋川/ウィーヌヒージャー)(上之樋川/ウィーヌヒージャーの拝所)「宮城殿/ナーグシクドゥン」の西側で「新里ビラ」沿いの森の入り口に「上之樋川/ウィーヌヒージャー」の井戸跡があり「上之樋井/ウィーヌヒーカー」とも呼ばれています。この井戸跡には幾つもの霊石が祀られており、石造りのウコール(香炉)に「ヒジュルウコー」という火を灯さずに拝する「ウチナーウコー(沖縄線香)」が供えられています。「上之樋川/上之樋井」は「新里集落」の旧水源地で、水の神「ウシジン大人」が祀られている拝所となっています。また、かつてこの井戸は「産井/ウブガー」として利用され、赤子の産水(ウブミジ)に使用された他にも正月の若水(ワカミジ)として汲まれ、その水で茶を沸かし一年の無病息災を祈願しました。(タク川ノ御嶽の森)(タク川の滝)(タク川の拝所)「上之樋川」から「新里ビラ」を南側に登ると「上之川原」と呼ばれる場所に「タク川ノ御嶽」の森があります。この森にそびえる南側丘陵は「タク川山」と呼ばれ、神々が鎮まる聖地であると伝わっています。「タク川山」には「タク川の滝」が流れており、滝壺の脇には水の神様を祀る拝所が設けられています。この拝所では沖縄の線香である「ヒラウコー」やご先祖様が使うあの世のお金である「ウチカビ」を燃やさず拝し、来た時よりも綺麗にしてお供え物は持ち帰る仕来りとなっています。昔は「タク川」の水利で稲作が栄えた為、水に対する感謝と豊作祈願がなされていました。この地には田植えの儀礼が行われる集落所有の「フートィンジャ」と呼ばれる神田がありました。(タク川ノ御嶽)(タク山の中腹に登る階段)「タク川の滝」周辺の森は「タク川ノ御嶽」と称されており「イビ/イベ」と呼ばれる神が所在する最も聖なる場所は特定されておらず「タク山」の一帯が神々が宿る御嶽の聖域だと考えられています。この御嶽は並里系「嶺井門門中」の拝所で「琉球国由来記」には『タコ川ノ嶽 神名 カホウモリシマギシノ御イベ』と記されています。更に『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記述されています。因みに「花米/ハナグミ」は祭祀や儀礼に用いる生米の事で「ミハナ」や「ンパナ」とも称されます。また「五水」は既成の泡盛で御五水とも呼ばれ、更に「神酒」は村人が米、麦、芋で作った御神酒(ウンサク)を意味します。(御巣人御墓)(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の拝所)(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の石柱)「タク川の滝」の西側に「御巣人御墓」へ通じる長い階段があり、登り切った丘陵の中腹には古い彫込墓の「御巣人御墓」があります。「阿摩彌姑/アマミク」の子孫で4世の「御巣人大神」の墓には石造りのウコール(香炉)が祀られています。「御巣人御墓」から更に丘陵中腹を西側に進むと「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」と彫られた石柱が建つ拝所があり、祠にはウコール(香炉)が設置されています。「志仁禮久大神」は「シネリク/シネリキヨ」で「阿摩彌姑大神」は「アマミク/アマミキヨ」の事で、琉球王国最初の正史である「中山世鑑/ちゅうざんせいかん(1650年)」には天の城に住む「天帝」が琉球開闢の際に、自分の子供である「シネリク」と「アマミク」の夫婦神を地上に降ろしたと記されています。その後、二人は三男二女をもうけ長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は君々(上級女神)、次女はノロの始まりとされています。長男は「天孫子」と名乗り、国の主として統治したと伝わります。(並里御墓)(並里御墓の石柱)「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」の拝所を更に西側に進み続けると「並里御墓」があります。「新里村」の門中は先住民である並里系の「嶺井門/ミジョー・西銘/ニシメ・新地/ミージ」などで、この墓には「並里/ナンジャトゥ」の祖先が祀られていると考えられます。こちらの古墓も洞穴の入り口を石組で塞いだ彫込墓で、この洞穴で風葬された後に洗骨され、厨子甕に納骨されて葬られていると考えられます。この丘陵一帯には「中並里之墓」「手登根里之子の墓」「平仲大主の墓」が点在しており「新里集落」発祥と発展に関わった先人達が葬られ、神々として祀られる聖域として崇められています。集落を南北に通る急勾配の「新里ビラ」は周辺に幾つもの拝所が点在する"神の坂道"として長い琉球の歴史を刻んでいるのです。
2022.08.26
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(喜石原古墳群の亀甲墓)「中城ハンタ道」を「ペリーの旗立岩」から北側に進むと「喜石原古墳群」の深い森があります。その広大な森を抜けると「中城グスク」に到達し、首里城から勝連グスクまで続く「中頭方東海道」の中城村内を通る「中城ハンタ道」は終点を向かえます。歴史の道と呼ばれる「中城ハンタ道」は12世紀ごろ集落を繋ぐ道として開通し、14世紀前半に「中山王尚巴王」によって整備されたと考えられる道です。ペリー提督が率いる「大琉球奥地探検隊」が沖縄本島を北上する時にも「中城ハンタ道」が使用され、この道は昔から沖縄本島を南北に巡る際の主要道路として重宝されていました。(中城ハンタ道の迂回路)(オーシャンキャッスルカントリークラブ前の案内板)「ペリーの旗立岩」から「中城ハンタ道」の崖道を東側に下ると「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」の広大な敷地に突き当たります。本来の「中城ハンタ道」はゴルフ場の西側駐車場からクラブハウス、さらにゴルフコースの18番ホールから10番ホールを通り「村道ウフクビリ線」と「村道大瀬線」の交差点を抜けて「喜石原古墓群」の森に進みます。しかし、2003(平成15)年にゴルフ場が開場し、残念ながらこの区間の「中城ハンタ道」が消滅してしまいました。その為、現在は約800mに渡り「中城ハンタ道」の迂回路が設けられています。(中城ハンタ道/喜石原古墓群)(熱田根所門中の石柱)(熱田根所門中の拝所)「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」のゴルフコースを北東側に抜けて「喜石原古墓群」に入ると、本来の「中城ハンタ道」が再開します。その地点から「中城ハンタ道」を「中城グスク」方面に進むと、左側に「熱田根所門中」の石柱が立っています。その奥に細い森道が続いており、数十メートル進むと「熱田根所門中の拝所」があります。2本に分かれた木々の根元に石積みが組まれています。「熱田」は隣接する「北中城村熱田」の古集落の名前、「根所」は集落の発祥地、「門中」は集落発祥家の始祖を同じくする親族です。その為、この地は「熱田根所門中」の魂を祀る拝所だと考えられます。(ギイスノテラへの階段)(ギイスノテラ手前の拝所)「中城ハンタ道」を更に進むと道が二股に分かれており、左に進んだ直ぐの右側に「ギイスノテラ」への階段があります。階段を登ると木の根元に石積みで囲まれた穴がありウコール(香炉)が設置されています。「ギイスノテラ」は「琉球国由来記」に「神名ギイス森ナンダイボサツ」と記されており「添石集落」の「マス島袋」という人物の祖先が霊石を安置して奉り、その子孫によって祭祀を司ったと記されています。「添石集落」では昔から「シーシティラ(添石のテラ)」と呼ばれていました。(ギイスノテラのガマ)(ギイスノテラのガマ内部)「ギイス」とは「高い嶺」という意味で「ギイスノテラ」上部の岩山は「添石(シーシ)ガンワー」と呼ばれています。また「ギイスノテラ参り」と称して男装をした女性と意中の男性が夜な夜な逢瀬を繰り返していた事から「夜半前(ヤハンメー)御嶽」とも呼ばれています。沖縄では霊石を祀る神殿、洞穴、祠を「テラ」と言い、共同体の祭祀場である「御嶽」に対して航海安全やお授けなど「テラ」は個人的な願いを対象にしています。「ギイスノテラ」のガマ内部には多数の古い霊石が祀られており、琉球王国時代には「中城ハンタ道」を旅した人々もこの神聖な場所で祈りを捧げた事でしょう。(掘込墓/フィンチャー)(亀甲墓/カーミヌクーバカ)(破風墓/ファーフーバカ)「ギイスノテラ」から更に「喜石原古墓群」の森を西側に進むと幾つもの「堀込墓(フィンチャー)」が立ち並んでいます。砂岩層(ニービ)の崖を掘り込んだ穴や、自然のガマ(洞窟)を利用した「堀込墓」は沖縄で一番古い種類の墓として知られています。更に古墓群を進むと「亀甲墓(カーミヌクーバカ)」も多数点在しています。「亀甲墓」の独特な形は女性の子宮の形から型取ったと言われ「母から生まれ、亡き後も母に帰る」という「母体回帰」の思想に基づくと考えられています。「喜石原古墓群」の中心から離れてゆくと「破風墓(ファーフーバカ)」が多く見られます。「破風墓」は屋根があり堀りもある「家」の形をした墓で「ヤーグヮーバカ」とも呼ばれています。(添石ヌンドゥンチの墓の案内板)(添石ヌンドゥンチの墓の入口)(添石ヌンドゥンチの墓/地域情報システム「発見!なかぐすく」より引用)「ギイスノテラ」手前の二股の道を右に進むと「添石ヌンドゥンチの墓」があります。この古い墓は「中城グスク」の祭祀を司っていた「ヨキヤ巫(ノロ)」の一族のお墓です。「喜石原古墓群」内にあり「中城グスク」に近い「中城ハンタ道」の西側斜面地にあります。「添石ヌンドゥンチの墓」の入口には石垣が積まれ、琉球石灰岩で造られた石段は丘稜の頂きに続いています。現在は残念ながら深い草木に覆われており「添石ヌンドゥンチの墓」に到達する事が出来ないので、中城村の「地域情報システム『発見!なかぐすく』」より墓の画像を引用させて頂きました。(雷岩)(雷岩の大岩)「添石ヌンドゥンチの墓」から更に北側に進むと「喜石原古墓群」の森を抜けます。ひときわ目立つ琉球石灰岩の大岩があり、この岩に雷がよく落ちたことから地元では「雷岩」と呼ばれています。「雷岩」のある場所は「集落を結ぶ道」「新垣グスクへ続くハンタ道」「宜野湾市方面へ行く道」の3つの道が交わる地点で「雷岩」は旅人の目印となっていました。また、琉球王国最後の名将と呼ばれた「護佐丸公」が旧暦の中秋の名月の夜、宿敵であった勝連城城主「阿麻和利」の謀略により切腹し自害しました。その直後に空は厚い雲に覆われ、激しい暴風雨の嵐になり落雷がありました。雷が落ちたこの場所に突如出現した大岩が、この「雷岩」とだと言う伝承も残っています。(中城城跡の石柱)(中城城跡の正門)「雷岩」から更に進むと「中城ハンタ道」の終点地の世界遺産「中城城跡」に到達します。「南上原糸蒲公園」から「中城城跡」を繋ぐ全長6.2キロの「中城ハンタ道」は歴史の道として琉球王国時代からの「中城」の遺跡文化財を多数現在に継承しています。かつての先人達が旅をした「中城ハンタ道」は琉球王国時代にタイムスリップ出来るスポット、集落、御嶽、グスク、拝所などを巡る事が出来る「歴史の道」であり、中城村のみならず古の琉球の歴史的、文化的、民族学的、考古学的に様々な視点から満喫出来る重要な遺産となっています。
2021.11.05
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(トゥイヌファヌウタキ)沖縄本島中部にある「沖縄市」の中心部に、南北に細長く広がる「山内(やまうち)集落」があり「やまち」の名称でも知られています。「山内集落」はかつて「ヤマモモ(山桃)」の産地として栄え「ヤマモモの里」と呼ばれていました。戦前は「山内集落」と隣接する「諸見里集落」では「ムムサングヮチ」と呼ばれるヤマモモの季節(旧暦の3月)になると両集落内外から「ムムウイアングヮー(モモ売り)」で賑わっていたと伝わります。集落の北側には「桃山公園」があり周辺住民の憩いの場となっており、西側から南側に隣接する集落は「南桃原(みなみとうばる)集落」という名称で、この周辺一帯がかつて「ヤマモモ」で繁栄した名残があります。(トゥイヌファヌウタキの霊石)(トゥイヌファヌウタキの祠)「山内公民館」の北側に「トゥイヌファヌウタキ」とよばれる御嶽(ウタキ)があります。現在「山内市営住宅」がある御嶽の北側に隣接する土地はかつて「島袋アタイ」と呼ばれ、屋号島袋(イーリーシマブク)の畑がありました。ここには「山内集落」を発祥した「山内昌信(やまうちしょうしん)」が暮らした屋敷と、農業用水として利用されていた「島袋アタイグムイ」と呼ばれる溜池がありました。石切積みの石垣に囲まれた「トゥイヌファヌウタキ」の敷地には霊石が鎮座しており、御嶽の祠内部には幾つもの霊石とウコール(香炉)が祀られています。御嶽は旧暦8月10日に男性のみで拝まれています。(山内昌信の屋敷の火ヌ神)(島袋アタイグムイ)1974年に「山内市営住宅」の建設が計画され「山内昌信の屋敷の火ヌ神」と「島袋アタイグムイ」は南側に隣接する「トゥイヌファヌウタキ」に移設されました。御嶽に向かって右側が「トゥイヌファヌウタキ」中央が「山内昌信の屋敷の火ヌ神」そして左側に「島袋アタイグムイ」がそれぞれ祀られています。「山内昌信の屋敷の火ヌ神」の祠には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「島袋アタイグムイ」が祀られた場所もウコール(香炉)があり、住民はかつて集落の農業を支えたグムイ(溜池)の水への感謝を拝しています。(山内のお宮)(山内大明神)「山内公民館」西側に「お宮」と呼ばれる場所があります。鳥居を潜った敷地内には「山内大明神」の社があり「山内集落」の始祖である「山内昌信」が祀られています。「山内昌信」の父親は第二尚氏王統の初代国王「尚円王」(在位:1469-1476年)で、母親は集落の西側にある「平安山(へんざん)集落」のノロ(祝女)であった「金満(真加戸)」です。「平安山ノロ」は「平安山・浜川・砂辺・桑江・伊礼」の5集落の祭祀を司った位の高いノロでした。ちなみに「山内昌信」は南城市の「知念グスク」を築いた「内間大親」と、玉城朝薫の組踊「執心鐘入」で知られる「安谷屋若松(中城若松)」とは義兄弟とされています。(山内大明神のウコール)(山内大明神の社内部)「山内大明神」の社にはウコール(香炉)が祀られ、扉の内側には「山内大明神」と刻まれた霊石柱が鎮座しています。「山内昌信」が13歳の時「首里城」建設工事の際に大工としての才能を発揮して役人の上申により士族になりました。「山内集落」の「ヤマモモ」は「山内昌信」が王府に仕えている時、中国から持ち帰り集落に植えた木から広がったと言われています。後に「山内昌信」は出世し、王族の下に位置し琉球士族が賜ることのできる最高の称号である「親方(ウェーカタ)」に任命され、更に琉球王府の行政の最高責任者である「三司官」になりました。隠居後は生まれ故郷の「山内集落」に帰り、地元住民から「山内大明神」と崇められました。(イリーヌクムイの火ヌ神)(お宮の御嶽)「山内大明神」の社の左側に「火ヌ神」の祠があります。「イリーヌクムイ(西の溜池)」から移設された「火ヌ神」で「ウスデーク(臼太鼓)」と呼ばれる集落の祭りの際に拝されます。「ウシデーグ」とも言われ、祭りの余興芸能として演じられてきた女性のみで行われる円陣舞踊で、集落の五穀豊穣と村民の健康を祈願します。さらに「山内大明神」の右側には「御嶽」の祠があり「中山王国」へ結ぶ遥拝所の役割があります。更に集落の東側にある井戸の「シリンカーヌカー(イーザクヌカー)」との「クサイ(結び)」とも言われています。「シリンカーヌカー」は約500年前の大干ばつの際に、集落の住民の命を救った大切な井戸として祀られています。(マーニヌネカタ)(マーニヌネカタのウコール)(平安山ノロ殿内)「お宮」の後方に「マーニヌネカタ」と呼ばれる男子禁制の拝所があります。「山内昌信」が生まれて間もなく捨てられた場所とされ「ウシデーク」の際に女性のみで拝されます。「英祖王」と「平安山ノロ」の間に産まれた「山内昌信」は内密の子であったため父母知らずの身となりました。母親の「金満(信加戸)」は「平安山集落」のノロ(祝女)であったため、御嶽で誕生した捨て子として「山内昌信」を育てました。人目を盗んでは昼は歯米を与え、夜は乳を飲ませて育てたと言われています。「山内集落」の西側、北谷町吉原にある「平安山ノロ殿内」は「山内昌信」の母親の屋敷があった場所で、現在は「平安山ノロ」の「火ヌ神」が祀られています。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.03.26
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(メーヌウタキ/前ヌ御嶽)沖縄本島北部の西海岸最南端に「恩納村/おんなそん」があり、国道58号線沿いに「仲泊/なかどまり集落」があります。この集落は昔から「首里・那覇・名護・国頭」のほぼ中間地点にあたり、沖縄本島を行き交う旅人がこの土地で一泊したことから「仲泊」の地名が付いたと言われいます。琉球王府時代には近隣村の産物が「山原船/ヤンバルブニ」により那覇方面に運ばれる港として栄えました。「マーラン船」とも呼ばれるこの船は江戸時代から戦前まで琉球で荷物輸送に使われた2本マストの小型帆船で、主に沖縄本島北部の山原地域から薪や農林産物を那覇方面に運んだ事から「山原船」と称されました。更に1910年(明治43)に県道が「仲泊集落」まで開通すると、客馬車の起点と終点として多くの人々で賑わっていたと伝わります。(メーヌウタキ/前ヌ御嶽の祠内部)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽のニジリヌカミ/右の神)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽のフクギ林)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽の石柱)「仲泊集落」は焼物に使われる良質な赤土(赤陶土)の産地で、昔は「山原船」で那覇の「壺屋」へ陶土が運ばれていました。集落では「シジヤマ」という山から掘り出した陶土を船がいつ来ても良いように港に積み上げており、その場所は「ンチャマジミモー/陶土眞積毛」又は「コージサーモー」と呼ばれていました。「仲泊」の海岸は水深が浅かったため陶土の積み込みに苦労したと言われており「イノー地」と呼ばれる約200mほど溝を掘り船が容易に通れるようにしました。「仲泊集落」の南西側に「メーヌウタキ/前ヌ御嶽」の祠があります。御嶽の祠内部にはウコール(香炉)が設置されており、この祠から見て右側には御嶽の土地神である「ニジリヌカミ/右の神」が祀られています。「メーヌウタキ」は高樹齢のフクギ林があり、木々の手前には「メーヌウタキ」の古い石柱が建立され、霊石と共にウコールが祀られています。現在の「仲泊集落」は「メーヌウタキ」がある場所から津波被害のため移動したと伝わり、この御嶽がある場所は集落の「フルジマ/古島」や「ムトゥジマ/元島」であった言われています。(アシビナー/遊び庭)(アシビナー/遊び庭の拝所)(アシビナー/遊び庭の拝所/祠内部)(アシビナー/遊び庭の拝所)「仲泊集落」の中央部に昔から集落の行事等で老若男女が集う「アシビナー/遊び庭」と呼ばれる広場があります。この広場には戦後に造られた「アシビナーの神」や「ヒヌカン」とも呼ばれる拝所の祠が建立されており、祠内部には石造りウコール1基と陶器製ウコール2基が設置され泡盛、水、シルカビ(白紙)に米が供えられています。かつて「フルジマ」で行われていた「タチウガン/立ち御願」がこの祠で行われており、戦前までは「アシビナー」の「ターチューギー/双子の木」の前で祈願が行われていたと言われています。この「アシビナー」では旧暦9月9日に「ウスデーク/臼太鼓」という女性だけで行われる、集落の五穀豊穣と住民の無病息災を祈願する円陣舞踊が催されます。その昔、臼を太鼓代わりに叩いていた事から「臼太鼓」と呼ばれるようになったと言われています。「仲泊集落」では数十人の女性がお揃いの紺地の着物に赤い鉢巻きを締め、高樹齢のガジュマルやフクギの下を手踊りの他にも扇子や四つ竹(竹製の打楽器)を持ちながら踊ります。(龍宮之神/陶土眞積毛)(龍宮之神の祠内部)(仲泊海岸/イノー地)「仲泊区文化交流センター」の北側約100mの位置の海岸沿いに「龍宮之神」の祠が「仲泊海岸」に向けて建立されています。祠に祀られている「龍宮神」は海の航海安全や豊漁を祈願する海の神で、祠の内部には「龍宮之神」と刻まれた石柱、石造りウコール、陶器製ウコール、花瓶、霊石が設置されています。集落の「シジヤマ」から掘り出した陶土を集積する「ンチャマジミモー/コージサーモー」はこの「龍宮之神」の祠付近にあったと言われています。戦前までこの位置には「陶土眞積毛」の石碑が建立されていましたが、戦後になるとその代わりに「龍宮之神」の祠が造られたと伝わっています。「仲泊海岸」は全長約600mに渡り自然浜が南北に続いており、ウミガメが産卵する美しい海岸として知られています。2020年6月3日には、ウミガメが産み落としたピンク色でピンポン玉の大きさほどの卵が124個確認されました。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠内部)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽のヒジャイガミ/左の神)「仲泊集落」の北側に「恩納村立仲泊小学校」があり、この敷地内に「クシヌウタキ/後ヌ御嶽」があります。2本の背の高いヤシの木に挟まれた祠内部にはウコールと霊石が祀られており、祠から見て左側には「ヒジャイガミ/左の神」が御嶽を守護しています。この御嶽は集落が「フルジマ」から現在の場所に移動してから造られたとされ「フルジマ」のものは「メーヌウタキ」で、移動後のものを「クシヌウタキ」と称するようになりました。「仲泊集落」在住の古老によると集落で認知症により徘徊で行方不明になる高齢者は、昔から2つの御嶽の間では必ず無事に保護されますが、御嶽に挟まれた地域外では残念ながら死体で発見されてきたそうです。集落の前後に御嶽があることによって「仲泊」の「ウスデーク」歌の一節では次のように謳われています。『仲泊島や だんじゅ とよまりる しり口や御嶽 中や親島』(親王森)(親王森の石碑)(黄金森と刻まれたウコール)(仲魂之塔)「クシヌウタキ」と「シーサイドドライブイン」の間に「親王森」と呼ばれる丘陵があります。この丘陵の頂には石碑が建立されており「黄金森」と刻まれた石造りウコールが祀られています。日本の皇族で軍人でもある「北白川宮能久親王/きたしらかわのみやよしひさしんのう(1847-1895)」が1895年(明治28)に日清戦争により日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征した際に「仲泊集落」に立ち寄り、この丘陵の森で休憩した事から「親王森」と言われるようになりました。この森の海側に隣接して「仲魂之塔」の石碑が建立されており、沖縄戦で犠牲になった戦没者46名の氏名が記載されています。この土地には戦前までは「フルジマ」から移設されていた集落の「ガンヤー/龕屋」という小屋があり、死者を収めた棺を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる輿を収納していました。
2023.02.03
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(ヒャーカーガー)沖縄本島中部の「宜野湾市」に「大山集落」があり「大山ターブックヮ」と呼ばれる広大な水田地帯に流れ込む「大山湧泉群」があります。「大山集落」の中央部に「ヒャーカーガー」の湧水があり、更にその東側に「ナイシガー」の井泉があります。現在、これらの井戸の水は農業用水として利用されており、宜野湾市の特産品である田芋栽培に役立てられています。「大山集落」の最も東側で「宜野湾パイプライン」と「国道58号」の間に「フルチンガー」があります。「オーグムヤー/青小堀」と称されるこの場所には大きな洞穴があり、開口部から湧水が流れ出ています。「フルチンガー」の湧水は周囲の土地を侵食して、側面が急な「オーグムヤーガーラ/青小堀川」となっています。現在はコンクリートで覆われており石碑とウコール(香炉)が祀られた祠が建立されています。(ヒャーカーガー)(ヒャーカーガーの石碑)(ヒャーカーガーの湧水)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(ナイシガーの湧口)(ナイシガー)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠内部)(オーグムヤー/青小堀の石碑)(オーグムヤー/青小堀のウコール)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀)
2024.04.18
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(イツクマの浜)「伊計島」は沖縄本島中部のうるま市にあり面積1.8平方km、長さ約2km、幅約1km、周囲7.5kmの南北に細長い島です。与勝半島の北東側に浮かぶ平安座島、宮城島、そして伊計島に順に並ぶ島々はそれぞれハナレ、タカハナレ、イチハナレと呼ばれ、昭和47年に海中道路が開通されるまでは屋慶名港から出る船が唯一の交通手段でした。「伊計島」の住民は島の南部にある「伊計集落」に集中し、さまざまな遺跡文化財を有しています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ内部/向かって右側)(ヌンドゥンチ内部/向かって左側)「伊計集落」の中心部に「ヌンドゥンチ」と呼ばれるノロ殿内があり赤い鳥居が建てられています。伊計島のノロ(神人)が神々に祈りを捧げる聖域で、殿内の内部には向かって右側にヒヌカン(火の神)と七福神の掛け軸が祀られています。向かって左側にもヒヌカン(火の神)とビジュル霊石とウコール(香炉)が祀られています。琉球古民家の仏間と家屋構造は文化的にも歴史的にも非常に価値があります。(ウドゥイガミ/天神堂)(ウドゥイガミ内部/向かって右側)(ウドゥイガミ内部/向かって左側)「ヌンドゥンチ」の東隣に「N高等学校(旧伊計小中学校)」があり、校庭はかつて「伊計集落」のアシビナー(遊び庭)としてエイサーや獅子舞が披露される芸能の中心部でした。現在、その場所に「ウドゥイガミ/踊神」が祀られる「天神堂」があります。建物内部には向かって右側に七福神の掛け軸とウコール(香炉)、中央の仏壇にウコールと花瓶、更に向かって左側にはビジュル霊石とウコールがそれぞれ祀られています。(神アシャギ)(地頭火ヌ神)「天神堂」の南東側に「神アシャギ」があり「トゥンチマー」とも呼ばれます。伝統行事の拝みの際に海から訪れた神をこの場所で集落のノロが迎い入れてもてなします。さらに樹齢の長いガジュマルの木の下に「地頭火ヌ神」が祀られています。ニービ石で造られた石碑にはウコール(香炉)が設置されており、幾つもの霊石が供えられています。「地頭火ヌ神」があるこの場所は昔から集落の中心部であった事が考えられます。(伊計神社/種子取神社)(弁財天)「神アシャギ」と「地頭火ヌ神」があるこの地は「掟殿内(ウッチドゥンチ)」と呼ばれる「掟神(ウッチガミ)」を祀る聖地です。「ヌルドゥンチ」よりも古い歴史があると言われ「伊計集落」の祭祀行事の中心地として崇められました。現在、この地には「伊計神社」があり、境内には「弁財天」の社殿があります。「伊計神社」は「種子取神社」とも呼ばれ「琉球八社」の一つである那覇市奥武山「沖宮」の末社として奉仕されています。「伊計集落」の根所(集落発祥の地)に「伊計ノロ」の家と集落の4つの家の合資により建立された「伊計神社」の御本尊には「大黒」「恵比寿」「弁財天」が祀られています。「沖宮」の先代宮司の一番弟子であったカミンチュ(神人)の「伊計ノロ」が建立した神社であるため「伊計神社」には「沖宮」との強い結びつきが生まれたのです。(伊計権現堂)「伊計神社」に隣接して「七観音」が祀られている「伊計権現堂」があります。ここで「伊計神社」の代表である「中村ユキ子」さんとの出会いがありました。中村さんは現役の「伊計ノロ」で「伊計神社」を建立した「伊計ノロ」は中村さんの母親です。中村さんは「せっかくだから、見てあげるよ」と言い私を権現堂に案内しました。自己紹介と生まれ年と干支を言い会話が始まりました。「ここに迷わずにたどり着けたのは神様に呼ばれた証。あなたのように御嶽などに足を運ぶのは、そこの神様に呼ばれているから。もし肩が重くなったり体調不良になったら、歓迎されていないので立ち去るべき。もし歓迎されているなら非常に心地良い気分になる」など私は現役の「伊計ノロ」との会話に引き込まれていました。(権現堂の内部)続けて中村さんは権現堂の祭壇に目を向けると「あなたは"琉球八社(七宮八社)と首里十二支巡りをしなさい"とたった今、神様から告げられた。時間がある時に無理せず急がず全て巡れば、扉が開き次の段階に行ける。次の段階では新しく理解する事に気付き、新しく見えるもがある」と「七観音」の神様からのお告げを私に伝えたのです。さらに「あなたが住んでいる場所の土地神は普天満宮だから必ず拝みに行きなさい。働いている場所の土地神にも挨拶を忘れずに行うこと」と続け、土地や自然への感謝は人として当然の事だと伝言を頂きました。(伊計神社の祈りの30箇条)更に中村さんから「伊計神社の祈りの30箇条」を頂戴しました。第1条は「伊計神社」を祈る事から始まる意味が込められて、30箇条は第2条から始まっています。「伊計神社」と「伊計権現堂」に描かれた龍の絵画の作者による「弥勒菩薩(ミルク神)」が添えられています。30箇条の全てが大切で重要な要素でありますが、「2. 祈りは魂を込めて」「5. 祈りは無欲無心に」「18. 祈りは原始からの行動である」「22. 祈りは魂の根源に存在する」「23. 祈りは人間性を高める」の5つが現在の私の心に特に響きます。非常に貴重なものを頂いたので額縁に飾り大切にしてゆきます。(伊計島亀岩龍宮神)「伊計ノロ」の中村さんは「今度来る時は電話してから来たら良い」と言って私は名刺を頂戴しました。最後に中村さんに「これから龍宮神に行きなさい」と告げられました。「伊計神社」から南に一本道を進むと「イツクマの浜」に出て「伊計亀岩龍宮神」に到着しました。「亀岩」と呼ばれる孤立した岩には「龍宮神」の石碑が東向けに建てられており、海の神様である「ニライカナイの神」が祀られています。「伊計集落」の神事の中心地である「ウッチドゥンチ」から「竜宮神」への一本道は昔から「神道」であったと考えられます。(イツクマの浜/石獅子)(ウスメーハーメー)「伊計島亀岩龍宮神」に隣接して「イツクマの浜」があり、浜の脇には「石獅子(シーシ)」が設置されています。この「石獅子」は海中から発見されて引き上げられ、次のような逸話が伝わります。『昔、ある男が土地の開墾の為に石獅子を3つに割り除去しました。すると男に災いが起きた事から石獅子の祟りだと信じられたのです。』「石獅子」は元の姿に復元され「イツクマの浜」に向けて海の安全を見守っているのです。また「石獅子」の直ぐ西側には「ウスメーハーメー」の石柱が建立されています。「ウスメー」は"お爺さん"「ハーメー」は"お婆さん"の意味があります。(セーナナー御嶽)(セーナナー御嶽の鳥居)伊計島の最南端に「セーナナー御嶽」があります。この地は伊計島に最初に人が暮らした地と言われる聖なる森です。この御嶽の入り口に「御嶽の鳥居」が建てられています。現役「伊計ノロ」の中村ユキ子さんによると、この御嶽は「伊計神社」と深い関わりがあり、神社建立の礎となった神様が降臨した聖地と崇められています。SNS、YouTube、インターネット上では「セーナナー御嶽」が間違えた認識で紹介されています。御嶽の先の岩場にある"丸い鏡"は新興宗教が勝手に設置したもので「セーナナー御嶽」とは全く関係がありません。勿論、歴代の「伊計ノロ」も現役の「伊計ノロ」の中村さんも岩場の"丸い鏡"を絶対に拝む事はありませんし、うるま市教育委員会も文化財として認めていません。(セーナナー御嶽の石碑)(セーナナー御嶽の社)「セーナナー御嶽」の森に「金刀比羅大神、恵比須大神、大國大主神」が祀られています。「金刀比羅大神」は天神地祗八百万神の中で運を掌る神。「恵比須大神」は七福神の福の神、漁業の神。「大國大主神」は国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神。石造りの拝所は本殿と社殿に3つの神々が祀られていると考えられ、それぞれの神にウコール(香炉)と霊石が供えられています。「セーナナー御嶽」は定期的に「伊計神社」の現役「伊計ノロ」の中村さん達により清掃され拝まれているそうです。(セーナナー御嶽の拝所)(御先神様御降臨の聖地)「セーナナー御嶽」の森から海側に抜ける通路があり、向かって左側に御嶽の守護神である石造りの拝所がありヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。海に抜ける道の先も聖域となっており、拝所は神聖な場への"お通し"の役割もあると考えられます。更に向かって右側に「御先神様御降臨の聖地」と刻まれた石柱があります。つまり、この石碑が建立されている森の一帯は神様が降臨した聖地であると示しています。森を抜けると突然辺りが太陽の光に包まれており、大小数えきれない程の色とりどりの蝶々が私の周りを舞っていました。後に「伊計ノロ」の中村さんに話したところ「聖地があなたを歓迎している証。実際に蝶々がいたのか、それともあなたにしか見えない神業か、いずれにせよその不思議な体験は、一つクリアした事になる」と仰っていました。(聖地の石碑)無数の蝶々に歓迎されて森を抜けた突き当たりにニービ石造りの石碑が建っています。「天帯子御世結び (てんたいしうゆうのむすび) 伊計種子取繁座那志 (いけいたんといはんざなし) 中が世産女母親 (なかがゆううみないははしん)」と彫られています。つまり「伊計種子取」の神様を祀る石碑で13〜14世紀の「天帯子」の三山時代に「産女母親」によって建立された事を意味しています。この「種子取」の神は「農耕の神様」を意味し「伊計ノロ」の中村さんによると「伊計神社」は元来、この農耕神を祀った神社で、その証拠に「伊計神社」は別名「種子取神社」と呼ばれます。実際に「伊計権現堂」には「伊計種子取神社」と木彫りされた古い扁額(へんがく)が存在します。(伊計神社のフクギ道)「伊計ノロ」の中村さんが歴代ノロから受け継いだ「種子取神」の伝承があります。その昔、伊計島の先人が「セーナナー御嶽」を抜けた岩場から海に浮く大きな甕壺を見つけました。いくら手を伸ばしても甕壺は逃げてゆきます。その時は汚れた衣服だったので、後日きれいな正装をして再び訪れると甕壺が海から飛び出し上陸したのです。甕壺の中にはサトウキビ、イネ、イモの種子が入っており、先人は荒れた地を耕し種を植えて育て伊計島に果報をもたらしました。それ以来、伊計島では「セーナナー御嶽」の先に降臨した「種子取」を"農耕の神"と崇めて来たのです。(宮城島から見た伊計島)「種子取」の神がもたらした甕壺が浮いていた海底には大きな亀裂が入っており、干潮の時のみ全貌を見せます。「伊計ノロ」の中村さんはその亀裂がある場所に来る度に必ず見えるものがあると言います。どこかの国の民族衣装を着た数名の古代人が亀裂のある場所で祭事を行っている光景で、もしかしたら琉球発祥の地は久高島でも浜比嘉島でもなく、実は「伊計島」なのではないかと考えているそうです。「伊計島」は未だに解明されていない数多くの遺跡があり、島全体に神が宿るパワースポットとして日出る太平洋に今日も浮かんでいるのです。
2021.05.22
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(浜川御嶽)沖縄本島南部にある「南城市」の東海岸に「百名(ひゃくな)ビーチ」があり、その北側には「浜川御嶽」の森が静かに佇んでいます。「百名ビーチ」は美しい白い砂浜と広範囲に渡る遠浅が特徴の天然ビーチで、地元住民からは聖なる浜として親しまれています。また"神の島"と呼ばれる「久高島」と深く関係するパワースポットとしても知られており「浜川御嶽」(神名:ヤハラヅカサ潮バナツカサの御イベ)は聖地として崇められています。(ヤハラヅカサの石碑)「百名ビーチ」の北側の海中に「ヤハラヅカサ」の石碑が建立されており、満潮時には水没し干潮時のみ石碑の全容を現します。石碑がある地点は琉球開闢の女神「アマミキヨ」が「ニライカナイ」と呼ばれる理想郷から上陸した際の第一歩を印した場所と伝えられています。石碑には「ヤハラヅカサ」と記され、石造りのウコール(香炉)が設置されています。4月の稲穂祭には琉球国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が参拝しました。(浜川御嶽への石段)(浜川御嶽の祠)「ヤハラヅカサ」の石碑がある「百名ビーチ」から森に入ると「浜川御嶽」に向かう石段が続いています。琉球開闢の女神である「アマミキヨ」が「ヤハラヅカサ」に上陸後、50メートルほど森に入った場所にある「浜川御嶽」に暫く仮住まいしたと伝わります。その後、南城市玉城の仲村渠(ナカンダカリ)集落の「ミントングスク」に安住の地を開いたと言われます。「アマミキヨ」はこの地で3男2女を儲け、その子孫が沖縄全土に拡散したと伝わります。(浜川御嶽/南東の拝所)(浜川御嶽/祠後方の拝所)(浜川御嶽/祠前方の石樋)「浜川御嶽」がある岩山の下に懇々と清水が湧き出る泉があります。「アマミキヨ」は「ヤハラヅカサ」に上陸後、この泉で疲れを癒やしながら近くの洞穴で暮らしたと言われます。現在も水量の多い湧き水が豊かに湧き出ており神の水として崇められています。「浜川御嶽」には拝所が多数あり石造りのウコール(香炉)や霊石が祀られています。御嶽の祠内には陶器製のウコールが設置されておりヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。祠の前方には湧き水を海に流し出す為の石樋も設置されています。(天然岩のトンネル)(岩を絞め殺すガジュマル)「浜川御嶽」で現在も行われている「東御廻り(あがりうまーい)」と呼ばれる聖地礼拝は、太陽の昇る東方を「ニライカナイ(理想郷)」のある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)と呼ばれた「南城市」の玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。 起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代の流れにより士族や民間へと広まりました。(岩間に絡まるガジュマル)琉球国王と共に「浜川御嶽」を参拝した「聞得大君(きこえおおぎみ)」とは、沖縄で古くから信じられてきた女性の霊力に対する信仰をもとにした「おなり神」の最高位の呼称です。国王の姉妹や王女など、主に王族の女性が国王によって任命され、第二尚氏時代の琉球神道における琉球王国全土のノロ(祝女)の頂点に立ち様々な儀式を司ってきました。(受水速水の入り口)(受水走水の拝所)「浜川御嶽」から南南西に500メートル程の場所に「受水走水(うきんじゅはいんじゅ)」と呼ばれる拝所があります。神名は「ホリスマスカキ君ガ御水御イベ」で、沖縄稲作の発祥の地として伝えられています。「琉球国由来記(1713年)」によると「アマミキヨ」が「ニライカナイ(理想郷)」から稲の種子を持ってきて、この地の「玉城親田」と「高マシノシカマノ田」に植え始めたと言われます。(御穂田の石碑)(受水走水の霊石)(受水走水のガジュマル)伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」と呼ばれる場所に落ちて死んでしまいました。稲穂の種子は発芽し「アマミキヨ」の子孫である「アマミツ」により「受水走水」の「御穂田(みふーだ)」と呼ばれる水田に移植されたと伝わります。この地は「東御廻り(あがりうまーい)」の拝所として霊域になっており、旧正月の初午の日には田植えの行事である「親田御願(うぇーだうがん)」が行われています。(アマミキヨのみち)「南城市」の「百名ビーチ」沿いに「新原ビーチ」から「浜川御嶽」に長閑に続く約1キロ程の道は「アマミキヨのみち」と呼ばれています。沖縄では琉球王国時代から伝わる自然崇拝的な信仰思想に基づく各種の宗教儀礼や祝祭が今日でも盛んに行なわれており、市民の生活や精神の中に資産が活用され、伝統文化として生き続け継承されています。「百名ビーチ」は透明度が高い美しい海で、まさに神に選ばれた"美ら浜"として人々に愛されています。「浜川御嶽」と「受水走水」の拝所には力強いパワーがみなぎり、自然界の神々を五感で感じ取れる聖域として存在しています。
2021.08.09
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(護佐丸の墓)琉球王国の歴史において「護佐丸(ごさまる)」と「阿麻和利(あまわり)」の2人の武将は欠かす事ができない存在です。「護佐丸・阿麻和利の乱」は1458年に尚泰久王治世下の第一尚氏王統琉球王国で発生した内乱で、第6代王に即位した「尚泰久王」の権力基盤は不安定で、国王の後継者争いの中で「護佐丸」や「阿麻和利」をはじめとする地方の有力按司(あじ)がせめぎ合っていた混乱する時代背景がありました。(護佐丸公之御墓の石碑)(護佐丸の墓への階段)沖縄本島中南部の「中城村(なかぐすくそん)久場」に「護佐丸の墓」があります。世界遺産に登録されている「中城城跡」の東側に隣接する「台グスク(デーグスク)」の丘稜に佇む「護佐丸の墓」は現存する亀甲墓としては、沖縄県内で最も古いものの一つといわれています。「台グスク」は「琉球国旧記」(1731年)には「泰城」と記されており「中城城」が造られる以前から存在した古いグスクと伝わります。丘稜の中腹にある「護佐丸の墓」まで登る階段が続き、亜熱帯の植物が生い茂る森を進んで行きます。(護佐丸の墓)「護佐丸(生年不詳-1458年)」は恩納村出身の15世紀に活躍した琉球王国(中山)の按司です。大和名は中城按司護佐丸盛春(なかぐすくあじごさまるせいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)です。1422年、第一尚氏王統の第2代国王となった「尚巴志」は二男「尚忠」を北山監守に任じ、「護佐丸」を読谷村の「座喜味城」に移して北山の統治体制を堅固にしました。その後「護佐丸」は「座喜味城」に18年間居城し、中国や東南アジアとの海外交易で黎明期の第一尚氏王統の安定を経済的にも支えました。(毛國鼎護佐丸之墓の石柱)「勝連城」を根拠地とする「茂知附按司(もちづきあじ)」が勢力を拡大すると「尚巴志」は1430年、中城の地領を「護佐丸」に与え「中城城」の築城を命じました。さらに息子の「尚布里」を江洲(現うるま市)、「尚泰久」を越来(現沖縄市)に置き「勝連城」を牽制したのです。「護佐丸」は与勝半島を眺望できる「中城城」の改築にかかり、1440年「尚忠」が第3代国王となると、王命で同年に完成した「中城城」に居城を移しました。(阿麻和利の墓)沖縄本島中部の「読谷村(よみたんそん)楚辺」に「阿麻和利の墓」があります。「阿麻和利(生年不詳-1458年)は15世紀の琉球王国において、勝連城主として勝連半島を勢力下に置いていた有力按司です。北谷間切屋良村(現嘉手納町字屋良)出身で幼名は「加那(カナー)」でした。中北山末裔の「伊覇按司一世」の五男が「安慶名大川按司一世」であり「阿麻和利」は「安慶名大川按司一世」の次男「屋良大川按司」と「兼城若按司(南山)」の娘の子と伝わります。(阿麻和利の墓)「阿麻和利」は悪政を強いる勝連城主の「茂知附按司」を倒して10代目勝連城の按司となりました。東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れて勝連半島に富をもたらします。勢いを増す「阿麻和利」に第一尚氏王統の第6代国王「尚泰久王」は、正室である「護佐丸」の娘との間に生まれた娘の「百度踏揚(ももとふみあがり)」を妻にとらせ「護佐丸」と「阿麻和利」の有力按司との姻戚関係を後ろ盾に、内乱で失墜した王権の復興を図りました。(阿麻和利之墓の石柱)しかし、1458年8月「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発したのです。王府史書によると、勢力を増す「阿麻和利」に対抗するため「護佐丸」が兵馬を整え、これを「阿麻和利」が「護佐丸」に謀反の動きがあると王府に伝えます。「尚泰久王」が「阿麻和利」を総大将に任じ「中城城」を包囲すると、王府軍と聞いた「護佐丸」は反撃せず妻子とともに自害しました。宿敵の「護佐丸」を除いた「阿麻和利」は王府に謀反を起こしましたが「百度踏揚」が「勝連城」を脱出し王府に変を伝え「阿麻和利」は王府軍(中山軍)によって滅ぼされたと伝えられます。(ガジュマルが絡まる阿麻和利の墓)王府軍により「勝連城」を追われた「阿麻和利」は生まれ故郷の「屋良(現嘉手納町)」方面に逃れてきます。さらに王府軍に追われた「阿麻和利」は「屋良」から読谷の「楚辺」に逃げ隠れますが、ついに、この墓の近くにある「親見原」の「ウェンミモー」と呼ばれる場所(現在の米軍通信施設トリイステーション内)で捕らえられ、首を斬られ殺されたと伝わります。ちなみに「阿麻和利」が捕らえられた「ウェンミ」とは"降参する"と言う意味だと言われています。(護佐丸の墓への階段)正史では「護佐丸」が忠臣で「阿麻和利」が悪人とされていますが、首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」(1531-1623)には「阿麻和利」を英雄として讃える"おもろ"が多数収録されています。「勝連の阿麻和利 聞ゑ阿麻和利や 大国 鳴響み 肝高の阿麻和利 聞ゑ阿麻和利や 大国 鳴響み」"勝連の阿麻和利 その名は沖縄全土に鳴り響いている 志高き阿麻和利 その名は沖縄全土に鳴り響いている"「勝連の肝高の阿麻和利 玉御柄杓 有り居な 京 鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま」"勝連の阿麻和利は 玉御柄杓を持っているほどのお方です 京都 鎌倉にこのことを言って その名を鳴り響かせよう"
2021.08.10
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(イーヌ御嶽/ヨセ森)沖縄本島中部のうるま市北部(旧石川市)の東海岸沿いに「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。この集落は沖縄貝塚時代前期〜中期(縄文時代後期)の遺跡があるほど歴史が古く「大山式・室川式・室川上層式・カヤウチバンダ式・宇佐浜式土器・グスク土器」が出土され「石器・貝製品・骨製品」も発見されています。「東恩納集落」の4箇所に御嶽があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」「雲古嶽(クモコウタキ)」が記されています。「東恩納集落」の北側には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の丘陵があり拝所の祠が設けられています。(ヨセ森/イーヌ御嶽の祠内部)(ヨセ森/イーヌ御嶽のイビ)(ヨセ森/イーヌ御嶽のガジュマル)丘陵の麓にある「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の祠内部にはウコール(高炉)が祀られておりヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この祠は御嶽の遥拝所としての役割があり、森に鎮座する巨岩に向けて建立されています。この巨岩こそが御嶽の「イビ」であると考えられ、神が宿る聖域として崇められています。「イビ」とは「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要かつ神聖な場所を意味しています。また「ヨセ森(イーヌ御嶽)」は「琉球国由来記(1713年)」に神名「イシノ御イベ」と記されています。ちなみに「イシノ御イベ」とは霊石を守護神とする沖縄における「霊石信仰」の事を意味しています。(嵩城嶽/チチグシクウタキ)(御嶽の祠内部)「東恩納集落」の中央部で、県道255号(石川池原線)と県道75号(沖縄石川線)の交差点に「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」があります。かつてこの地には「嵩城(チチグシク)」と呼ばれるグスク(城)があったと考えられ、この地に祀られたイビ(霊石)に神が宿るとして、住民の祈りの対象となったと思われます。「琉球国由来記(1713年)」には「嵩城嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には御嶽のイビ(霊石)が鎮座しています。この御嶽も「ヨセ森(イーヌ御嶽)」同様に「東恩納ノロ(祝女)」により祭祀が執り行われていました。かつて「東恩納ノロ」は「美里間切」に属する「東恩納集落」と、西側に隣接する「楚南(そなん)集落」の2つのムラ(集落)を管轄していました。(金謝敷嶽/カンジャシチウタキ)(アガリ/東恩納之殿)(金謝敷嶽/カンジャシチウタキのシーサー)東恩納公民館の南側に「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の社があり、この御嶽も「琉球国由来記(1713年)」に「カンジャシチ嶽/神名:イシノ御イベ」と記載されています。「琉球史辞典(1993年)」には「威部(イベ)は沖縄の御嶽の中で最も重要な部分、イベは神のよりまし、つきしろで、所謂神を斎くところである」と記述されています。「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の隣には「アガリ」と呼ばれる「東恩納之殿」の社があります。「殿(トゥン)」とは集落の住民による年中行事が執り行われる集落の中心的な場所であり、現在でも「清明祭」「旧暦五月六月ウマチー」「十五夜ウスデーク」「清明祭」「旧盆」「獅子舞」「カー拝み」「旧正月」などで拝されています。(雲古嶽/クモコウタキ)(雲古嶽/クモコウタキの祠内部)(雲古嶽/クモコウタキ)東恩納公民館の北側敷地内の斜面に「雲古嶽(クモコウタキ)」の森があり、丘陵の中腹に祠が建立されています。琉球国由来記(1713年)には「クモコ嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には霊石3体とウコール(高炉)が1基祀られています。沖縄において「3」には深い意味が込められており、沖縄を創造した「天・地・海」または「今が世・中が世・御先世」の3つの世を示しています。この3つの要素を3つの霊石に宿らせた「ビジュル」が沖縄に於ける「霊石信仰」の原理となっているのです。「ビジュル」とは豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる「霊石信仰」の対象で、16羅漢の一つの「賓頭盧(びんずる)」から由来し、主に自然石が拝所やヒヌカン(火の神)に祀られています。(雲古嶽/クモコウタキのイビ)(東恩納ノロ殿内)(神下毛/虎毛/カンサギモー)「雲古嶽(クモコウタキ)」を祀る祠の裏手に急勾配の丘陵があり、この森の頂上には御嶽のイビである大岩が鎮座しています。「雲古嶽(クモコウタキ)」の西側に「東恩納ノロ殿内」があり、建物の内部には「東恩納巫火神」が祀られています。「ノロ殿内」とは琉球王府から任命されたノロ(祝女)が住んだ場所で「ヌンドゥンチ」とも呼ばれています。また、東恩納公民館の敷地内に「神下毛(虎毛)」の祠があり「カンサギモー」と呼ばれるこの地には、かつて「東恩納ノロ」の「神アサギ(カミアシャギ)」があったと考えられます。「東恩納集落」と「楚南集落」の2つのムラを管轄した「東恩納ノロ」が集落の祭祀を執り行った「神アサギ」が存在した「カンサギモー」は集落の祭祀において最も重要な場所として現在も聖域として崇められているのです。
2022.04.14
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(インジングシクのガジュマル)沖縄市の中央部で米軍嘉手納基地に隣接する「八重島地区」に八重島公園があり、敷地内には珊瑚が隆起して形成された琉球石灰岩の山城があります。ガジュマル、ソテツ、他にも多種に渡る亜熱帯植物に覆われた「インジングシク」は奇妙な力を醸し出す謎が多い城跡となっており、多くの都市伝説も生まれています。(インジングシク麓の拝所)(グスク山頂に登る石段)週末には沢山の子供連れの家族が集まる大型遊具が多数ある広場の直ぐ脇に、突如ウガンジュ(拝所)が現れます。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 八重島真鶴繁座那志(ヤエジママツルハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。ウガンジュの横にはグスクの頂上に伸びる琉球石灰岩で造られた石段が続いています。麓の石碑の拝所は訪れる者をお通しするヒヌカン(火の神)の役割を持っていると考えられます。(インジングシク中腹の拝所)(拝所のビジュル霊石)亜熱帯植物のジャングルを真っ直ぐに切り裂く様な60段の石段を登ると、ゴツゴツとした琉球石灰岩の大岩の横に屋根付きの石造り建物がひっそりと佇んでいます。建物の中はウガンジュになっており御供物と共に霊石が祀られていました。ビジュルの拝所として「インジングシク」の構造である琉球石灰岩の堅固な地盤とグスク全体を司る守護神だと思われます。(拝所正面の石碑)(グスク頂上の展望台)石造りのウガンジュの正面のガジュマルの下にはもう一つの拝所があります。「天帯子御世(テンタイシウユウ) 八重島金満大主(ヤエジマカニマンウフヌシ) 中が世酉(トリ)のみふし)」と石碑に彫られています。石碑にはウコール(香炉)が設置されており、地域住民に拝まれています。拝所の祠と石碑がある場所の脇にはグスクの頂上に登る展望台に通じる階段がありました。(うるま市石川方面)(中城湾方面)ゴツゴツした琉球石灰岩の大岩を螺旋状に回り登ると素晴らしい絶景が現れたのです。「インジングシク」の頂上からうるま市石川方面を見渡すと、沖縄市北部、石川岳、うるま市石川の市街地、金武港、その先の金武岬まで眺める事が出来ます。また、沖縄市の西部、うるま市南部の市街地、中城湾、その先の勝連半島や勝連城跡、さらに先に連なる宮城島まで絶景が広がっています。(グスク麓のガマ)「インジングシク」の山城の麓に鍾乳洞(ガマ)があり、直径30センチに開いた入り口はそのまま地下深くの暗闇に続いています。このガマには遠い過去に人々に拝まれていた痕跡があり、琉球石灰岩造りの香炉台や一段上がる拝場の跡が確認されます。鍾乳洞(ガマ)は沖縄では昔から信仰や崇拝の対象とされており、神が宿り神に通じる聖域として崇められてきたのです。(八重島神社)(字久田井/差田井)八重島公園の「インジングシク」の北東に「八重島神社」があり殿内に安室家の香炉、嘉陽家の香炉、ビジュル霊石と香炉が設置された火ヌ神が祀られています。敷地内に「字久田井」と「差田井」の霊石と井戸が祀られた祠があります。字久田集落と佐田集落は現在、米軍嘉手納基地の滑走路になっており、沖縄戦で土地を奪われた両集落の住民が八重山地区に移住させられたのです。両集落の水の神をここに祀った拝所と考えられます。(八重島貝塚)(ヤシマガー)「八重島貝塚」は八重島公園に隣接する沖縄市民会館から東に約250mのところにある3500年~2500年前の古い貝塚です。この貝塚からは石器、貝殻、獣骨などが出土しています。現在も湧き出る井泉の「ヤシマガー」を石炭岩崖下にはさみ、貝塚の典型的な立地条件を備えています。「八重島貝塚」周辺は古代の人々が生活するのに非常に適した環境が整っていたと言えます。(八重島公園の東側入り口)八重島公園内にも墓が多数あり、公園沿いには非常に広範囲に渡る「中央霊園」も存在します。かつて八重島地区には多数の無縁墓が点在し、大規模な火葬場もありました。火葬場で焼かれて出た大量の遺灰は八重島地区の端に流れる比謝川に流されたと言われています。そのため、比謝川周辺は心霊スポットとして知られ、多数の幽霊の目撃情報があります。(八重島高層住宅)八重島地区の心霊スポットとして最も有名な場所が「インジングシク」がある八重島公園のすぐ北側の集合墓地の近くに建つ「八重島高層住宅」です。無縁墓地を壊して建てられた住宅で、特に4階以上の階に住む住民の多くが心霊現象を体験し、住宅は常に入居と退去を繰り返し部屋が埋まる事は決して無いと言われます。(インジングシクの森)謎が多く未だに全容が解明されていない「インジングシク」は八重島公園の敷地内にありますが、八重島地区全体が琉球墓群に覆い尽くされている独特な雰囲気がある地域です。神が宿るパワースポットである「インジングシク」と、琉球墓群の霊魂が漂う心霊スポットが絶妙なバランスで混ざり合う謎多き八重島地区は今日も静かに佇み、何も語らず来訪者を見つめているのです。
2020.12.31
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(田場集落/古民家の赤瓦門)旧具志川市の「田場集落」は、現うるま市の中心部で金武湾に面した地域にあります。古い石垣とフクギに囲まれた古民家が残る、古き良き琉球時代の雰囲気を感じる集落です。「田場集落」は伝統芸能が盛んな地域でもあり、臼太鼓や獅子舞、無形文化財指定のティンベーと呼ばれる盾と槍を用いた琉球古武術等が大切に保存継承されています。(浜千鳥の歌碑/表側)具志川ビーチと赤野漁港の間に位置する海辺に「浜千鳥の歌碑」があります。沖縄民謡の「浜千鳥節」や琉球舞踊の「浜千鳥」は非常に有名で、浜千鳥は沖縄の言葉で「チャジュヤー」と呼ばれます。具志川小学校近くの田んぼの水管理をしていたら、赤野浜で鳴く千鳥の声に郷愁感に誘われて歌に詠んだと伝えられ、旧具志川市の伊波家で19世紀半ば頃から代々口承されてきたそうです。(浜千鳥の歌碑/裏側)歌碑に刻まれた歌詞は表側に「旅や 浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘ららぬ 我親の おそば」とあり、裏側には「たびや はま やどぅい くさぬ ふぁどぅ まくら にてぃん わすぃ ららん わやぬ うすば」と記されています。(竜神宮の森)(田場竜神宮の祠)「浜千鳥の歌碑」の南側に「田場の竜神宮」がある森が海辺に佇んでいます。森の入り口から細い階段を登ると竜神宮の祠があります。竜神宮には海の神様が祀られており、海の恵みや航海の安全を祈る拝所となっています。「田場の竜神宮」の森からは金武港、浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島を見渡し、ニライカナイ(理想郷)がある東の海に祈りを捧げる聖地となっています。(竜神宮の祠の右側にある石碑)(竜神宮の祠の左側にある石碑)「竜神宮の祠」の向かって左側に建つ石碑には「あがり世遙拝之碑」と刻まれています。「あがり」とは沖縄の言葉で「東」を意味しており、遠く離れたニライカナイに遙拝(ようはい)する石碑が祀られています。左側にある石碑には「天在子(テンザイシ)の結(ムス)び 田場久麻牟繁座那志(タバクマムハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。(アカザンガー入り口)(アカザンガー)「アカザンガー」は田場集落で生活用水として利用されてきた水量が比較的豊富な井泉です。この井泉の周辺で弥生時代後期頃(沖縄貝塚時代後期)の遺跡が発見されており、この井泉の名に因んで「アカジャンガー貝塚」と呼ばれています。この貝塚から出土された土器は「アカジャンガー土器」と命名されました。この井泉は現在、地域の子供達の水遊び場として親しまれています。(田場ガー)(洗濯ガー)「アカザンガー」の北西側に「田場(ダーバ)ガー」という井泉があり、別名「産(ウブ)ガー」と呼ばれています。かつて飲み水や生活用水として利用してきた他に、正月の若水や子供が生まれた時の産水、ウマチー(豊年祭)や水ナディー(水撫で)の際に「カー拝」がありました。「田場ガー」の大きな井泉は飲み水や生活用水に使用し、小さな井泉は「洗濯ガー」と呼ばれ、井戸の前にある丸型の石を利用して洗濯をしていました。(田場ガーの祠)(石敷と石段)「田場ガー」は沸口を囲んだ2つの井池と水神の祠、マグサ(目草)、洗濯石、歩き道の石敷で形成されます。石積み様式は相方積み、布積み、土留めの上部には小石の野面積みも確認されます。旧具志川市内では最も優れた石造技術で施されたカー(井泉)の1つとして、田場集落では「命の泉」への感謝が込められ大切にされています。(田場港原の記念碑)「アカザンガー」と「田場ガー」の間に「港原」と呼ばれる田園地帯があり、人知れず草木に覆われて石碑が建っています。この一帯はかつて具志川最大の美田地帯でありましたが、昭和46年の大干ばつを境に土地が荒廃してしまいました。10年後の昭和56年に土地の蘇生整備が行われ、広大で肥沃な土地を再び荒廃させる事の無いよう記念碑が建てられました。そのお陰で現在の港原は豊かな自然に恵まれています。(田場の神女殿内)(田場の神屋)田場集落の北側で赤野集落に隣接する仲本家の屋敷は「神女殿内」で敷地内には「神屋」があります。「神女殿内」はヌルドゥンチと呼ばれ、集落で最高位のノロ(神女)が住む家となっています。「神屋」は神アシャギと言われ、ノロが神を呼び祭祀を行う神聖な場所です。神屋は扉が開けられており、内部には3つの霊石、陶器のウコール、石造りのウコールが設置されていました。(高等教育発祥の記念碑)田場集落の南側(田場1054番地辺り)に「高等教育発祥の地」と刻まれた石碑があります。石碑の裏側には「太平洋戦争直後の1946年1月より40年余、ここ田場原頭に極度の窮乏のなかて、学びて倦むことを知らぬ燃える青春群像があった。琉球大学の前身としての役割を担った沖縄文教学校、沖縄外国語学校が、幾多の俊秀を世に送り出した、ここは、戦後高等教育の発祥の地である。」と記されています。(田場168番地の拝所)田場集落は古より広大な田畑が広がる地域で「田場」という地名もそれに由来していると考えられます。井泉(カー)、神女殿内(ヌルドゥンチ)、御嶽などの遺跡文化財は県道8号の南側に集中している事から田場集落は北側で発祥し、時代と共に居住地が南側に広がったと思われます。そして田場集落の南側で沖縄の戦後高等教育が生まれ、現代の沖縄県の発展に大きく役立つ重要な地域として発展してきたのです。今後も歴史、文化、伝統を大切に守り、未来の沖縄に明るい光を灯す集落で居続ける事を期待しています。
2021.04.05
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(伊芸のがじまる)「伊芸/屋嘉集落」は沖縄本島の金武町西部にあり、うるま市石川に隣接する海沿いに位置しています。「伊芸のがじまる」は伊芸集落の中心に位置し、周囲は伊芸遺跡の布分地で古くは拝所があり神アサギがありました。金武町指定文化財に登録されるこのガジュマルは推定樹齢約330年、胸高円周3.9メートル、樹高11メートルの巨木で集落の住民の心の拠り所となっています。(伊芸のがじまる/神アサギ跡)長い歳月を生き続けるガジュマルは見事な気根を形成し、集落の歴史を樹幹に刻む「風水がじまる」と呼ばれる伊芸のシンボルとなっています。このガジュマルがある「がじまる公園」には神アサギ跡があり、かつて集落のノロが祭祀を行った聖域が継承されています。ガジュマルには神が宿ると言われ、木の枝を勝手に折ったり木登りをするのは厳しく禁止されているのです。(坊主森/拝殿)(山里和尚の墓)「伊芸集落」の東側に「坊主森」と呼ばれる森があり、中腹に拝殿があり祠の奥に「山里和尚の墓」が祀られています。山里和尚は伊芸集落で真言宗の布教活動を行っていた僧侶だと伝わります。2つある石碑の向かって左側には「大清康煕五十九年 権大僧都法卯頼宥 正位 康子十月二十二日去」と彫られています。石碑の上部に梵字のア(阿)の字が記され「大日如来(胎蔵界)」を意味しています。真言宗では戒名の上に阿字をつけることにより、亡くなった方が本来の世界に還り、仏そのものになったという事を表しています。(さくまつ公園の御嶽)(さくまつ公園の井泉拝所)「伊芸集落」の中央に「さくまつ公園」があり、公園の森の頂に御嶽があり香炉が設置されています。この森は古より伊芸集落の住民の信仰の対象だったと考えられ、森の頂に祀られている御嶽の拝所は集落の守護神と崇められています。御嶽の正面からは下り階段が続き、麓には井泉が祀られています。森からの恵みに感謝する神水を崇める香炉が設置されており住民に拝まれています。(ノロ家)(神屋)(御嶽)伊芸公民館に「ノロ殿内」の敷地が隣接しています。向かって右側の白い建物か「ノロ家」で、伊芸ノロが住む家として畳部屋の琉球仏壇に位牌が置かれています。左側の赤い建物は「神屋」と呼ばれる神アサギで、ノロが祭祀の儀式を行う神聖な場として3基の香炉、3つのビジュル石を祀るヒヌカン(火の神)が設置されていました。敷地の一番奥には「奉 皇紀二千六百年紀念」と記された「御嶽」の祠があり2基の香炉が祀られています。(カーメー/産川)(美徳川沿いの香炉)「ノロ殿内」の北側の山中に泡盛醸造所「松藤(旧崎山酒造廠)」があり、敷地の脇に美徳川が流れています。酒造場の北側にある森の中に「カーメー(産川)」の湧き水があり、湧き水が流れ込む川沿いの場所に香炉が祀られています。かつて伊芸集落の住民が「カーメー」の水を飲料水や生活用水の他にも、子供が生まれたときの産水や旧正月の若水に汲んでいました。美徳川に向けて香炉が設置されており「カーメー」の恵みを授かる聖なる川として崇められています。(祝女之墓/ノロの墓)伊芸集落の最東端の森に「祝女之墓」があり、歴代の伊芸ノロ達の魂が祀られています。このノロ墓は金武湾の「平田原の浜」に隣接する場所にあり、墓は伊芸集落のノロ殿内の方角を向いて建てられています。伊芸ノロ達は祭祀行事だけでなく、旧盆には「カーメー」の湧き水で神酒を造り住民に振舞うなど、集落の暮らしに深く根付く存在でした。(屋嘉集落の根屋/トンチ小)(根屋のヒヌカン)「屋嘉集落」は「伊芸集落」の西側に位置し、うるま市石川地区と隣接する小さな集落です。「屋嘉集落」の中央に屋嘉児童公園があり、敷地内に「根屋(トンチ小)」があります。屋嘉集落が発祥した時の火種を保管し住民に火種を分け与えたのが根屋(トンチ小)でした。それに由来して根屋を集落の火の神として祀り、屋嘉の守護神として崇めるようになったそうです。根屋には4基の香炉、ヒヌカンには3つのビジュル石が祀られています。(屋嘉のウフカー/大井戸)「屋嘉のウフカー」が「根屋」の北側にあります。金武町指定文化財の「ウフカー」は石積みの掘り下げ井戸で、屋嘉の村カーとして造られ飲料水や生活用水として利用されていました。この井戸は長年に渡り集落の祭祀と深い関係がある神カー(神井戸)とされ、旧正月元旦の若水や産水を汲み、死者の清めの水にも利用されました。(底森御嶽の鳥居)(底森御嶽の拝所)「屋嘉集落」の北西側に「底森御嶽(神名:コバヅカサノ御イベ)」があります。この御嶽は「琉球国由来記(1713年)」に金武間切屋嘉村底森御嶽と記され、屋嘉の「西の御嶽」と呼ばれています。屋嘉集落の成立と遍歴を知る上で重要な御嶽とされ、御嶽の森にはヒヌカン(火の神)が祀られる祠があります。屋嘉集落での神事の折々には祭司が祈願を司る聖地として信仰されている御嶽です。(ヨリブサノ御嶽の鳥居)(ヨリブサノ御嶽の拝所)「ヨリブサノ御嶽」は屋嘉集落の北東側に位置し「琉球国由来記(1713年)」に金武間切屋嘉村ヨリブサノ御嶽(神名:アコウヅカサノ御イベ)、祭祀は伊芸ノロに所掌と記されています。この御嶽は屋嘉集落の発祥と深く関わりを持ち、遥か昔から土地の守護神として崇められていました。屋嘉集落での神事の祈りには祭司により集落の繁栄と豊年の祈願が行われている由緒ある御嶽です。(ヨリブサノ御嶽の森)金武町「伊芸集落」と「屋嘉集落」共に御嶽は集落発祥の起源として崇められ、土地の守護神として祀られ続けています。御嶽の森が豊かな水源の井泉を生み、そこに人々が集まり集落を築き文化を形成させてきました。琉球国由来記にも記されるように、御嶽は神名が付けられており、神が宿る聖域として現在でも集落住民の祈りの対象とされているのです。
2021.05.09
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(石川龍宮神/石川赤崎)「うるま市石川(旧石川市)」は沖縄本島中部の東海岸にあります。「うるま市石川」の太平洋と「恩納村仲泊」の東シナ海を結ぶ直線距離がわずか4キロであるため、そのくびれは沖縄本島の「みほそ(へそ)」と呼ばれ「うるま市石川」は"みほそのまち"の愛称で親しまれています。石川岳の麓に広がる美しい金武湾を望む石川漁港周辺には5つの龍宮神が祀られており、古より石川の漁業の発展と航海の安全を見守り支えてきました。(石川龍宮神/石川曙)(石川龍宮神の拝所)(龍宮神の石柱)「うるま市石川」の太平洋側に位置する「石川ビーチ」と「石川龍宮ビーチ」間にある大岩の上に、1つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。拝所は北側の金武町方面に向けられており、金武湾の航海と漁業の安全を祈願しています。祠のウコール(香炉)には神に祈る際に使用するシルカビ(白紙)、ヒラウコー(沖縄線香)、粗塩が供えられています。これは燃やさずに供える「ヒジュルウコー(冷たい線香)」と呼ばれる御供です。このお供えは海が満潮に向かう時刻のみに行われる神聖な祈りとなっています。(龍宮神に供えられたウミガメと粗塩)(石川龍宮神の大岩麓にある拝所)「石川龍宮神」の拝所には大小2体のウミガメと粗塩が「龍宮神」に捧げられていました。非常に衝撃的ですが「うるま市石川」の伝統的な「龍宮神」への祈りが継承されている証拠でもあります。「石川龍宮神」の大岩西側の麓には、こじんまりとした拝所が設けられ霊石とウコール(香炉)が祀られています。「龍宮神」が建立される大岩そのものを祀る拝所だと考えられ、規模は小さいながらも大きな意味がある聖域として祈られています。(石川ビーチの鍾乳洞窟)(洞窟内の拝所)「石川龍宮神」の北側に「石川ビーチ」があり、ビーチに隣接して鍾乳洞窟があります。ソテツ(蘇鉄)や亜熱帯植物に覆われた洞窟の内部は浜の砂と岩石で覆われています。入り口は2箇所あり比較的広い空間になっています。床の浜の砂には大量のカニの巣穴があり、冷たく張り詰めた空気に包まれています。ツララのように垂れるゴツゴツした天井の洞窟の奥には霊石が祀られた拝所があります。この洞窟は沖縄戦の時に住民が避難して多数の命が助かったガマであり、現在は「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られています。(ウミチルの墓)「石川龍宮神」の南西側に隣接する場所に「ウミチルの墓」があり、彼女は俗称「チルーウンミー」と呼ばれています。「ウミチル」は石川の集落に初めて機織り、染め物、ウスデークー(女性のみで行われる円陣舞踊)を指導した方と伝わります。戦前からこの地にあった「ウミチルの墓」は1973年の大型台風で流された為、仮安置していましたが2008年に改修されました。現在も「うるま市石川」に伝統文化と芸能を伝えた人物として「ウミチルの墓」は住民により大切に祈られています。(グジヨウ神/ビズル火の神)「ウミチルの墓」の正面に鍾乳洞に「ビズル火の神」の霊石とウコール(香炉)があり「シルカビ」に「ヒラウコー」がお供えされています。「ビズル(ビジュル)」とは主に沖縄本島でみられる霊石信仰で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。仏教の16羅漢(お釈迦様の16人の弟子)の1人である「賓頭盧(びんずる)」がなまった言い方で、自然石が「ティラ」と呼ばれる洞穴などで祀られています。その左側には「グジヨウ神」と呼ばれる神が祀られた石碑とウコール(香炉)が隣接しています。この拝所は現在も「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られる聖域となっているのです。(天願マグジーの名が刻まれた石碑)「天願マグジー」には伝説が残されています。昔、具志川間切に「天願タロジー」という武士と妻の「天願マグジー」が住んでいました。ある日「天願タロジー」は以前より対立していた金武間切の「金武奥間」という武士に刺し殺されたのです。拉致された「天願マグジー」は「金武奥間」を油断させて「あらぶち(現うるま市石川東恩納)」に差し掛かると小刀で「金武奥間」を刺し殺したのです。「天願マグジー」はその後「あらぶち」の洞窟で暮らしたと言われていますが、他の伝説では「伊波按司」の愛人になったとの伝承もあります。この石碑には「伊波按司」と「天願マグジー」の名が一緒に刻まれており、大変興味深い文化財となっています。(石川龍宮神/石川曙)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)「石川龍宮ビーチ」の南東側に拝所の岩山があり海側の断崖上に、2つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。この「石川龍宮神」の石碑は西側に広がる金武湾と更に奥に続く太平洋に向けられています。非常に古い石碑で長年の間、潮風や台風に耐えながら航海と漁業の安全を祈願し祀られています。この「石川龍宮神」がある岩山は他にも3つの祠が建てられており、昔から御嶽岩山の聖域として崇められてきたと考えられます。(大宗富着大屋子の石碑)(大宗富着大屋子の墓)(石川龍宮神/字石川)龍宮神の岩山から更に南東に進むと崖麓に「大宗富着大屋子の石碑」と「大宗富着大屋子の墓」があります。「大宗富着大屋子」は琉球王府から任命されて恩納村から石川村に赴任し街並みを碁盤目状にする区画整備を行い、石川川の補修工事を行い集落に安全をもたらした人物です。現在は「大宗富着大屋子」の出身地である恩納村前兼久の方々が祈る場所として崇められています。ここから更に参拝道を南東に進み突き当たった岩森の麓に、3つ目に紹介する「石川龍宮神」が祀られ石碑は石川漁港向けに建立されています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)(屋根上に構える龍の石像)4つ目に紹介する「石川龍宮神」は石川漁港の北東にあり、亜熱帯植物が生い茂る森の中にひっそりと佇んでいます。鳥居を抜けて進むと拝所の社があり、社の内部と左右両脇には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。敷地内には1968年に建立された「石川龍宮神」の石碑が祀られており「龍宮」の文字の下に「神人 知念カマ 神子 平良カメ 神子 平良善春」と3人の名前が刻まれています。「石川龍宮神」の屋根上には左右2体の龍の石像が据えられています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)5つ目に紹介する「石川龍宮神」は4つ目に紹介した「石川龍宮神」の社に隣接しています。この場所は元々は金武港の海に面していましたが「石川火力発電所」と「石川石炭火力発電所」の建設により海が埋め立てられ「石川龍宮神」が海から約300m離れてしまいました。そのため4つ目に紹介した「石川龍宮神」の横に新たな「石川龍宮神」の塔を立て、海が望める塔の頂きに「龍宮神」の石碑を建立したのです。塔の麓にはウコール(香炉)が祀られ多くの人々に参拝されています。昔から海と共に生き海の恵みに感謝してきた「うるま市石川」の民は、これからも変わらず守護神の「龍宮神」を崇め祈り、大切な伝統文化を後世に継承して生きて行くのです。
2021.09.27
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(小禄墓)沖縄本島中南部の宜野湾市「嘉数(かかず)」の「嘉数高台公園」は沖縄戦で数多くの人々が亡くなった激戦地でした。この公園の北側には琉球大学の敷地から国道58号線を超えて、西海岸に流れ込む全長4.5キロの「比屋良(ひやら)川」があります。緑豊かな川の両脇には10m余りの断崖絶壁がそそり立ち、多い所で3段もの横穴状に彫り込ん古墓群が連なっています。これらの古墓は数100年前に造られ、沖縄県指定の有形文化財に登録されています。(宇地泊川/比屋良川の橋)(小禄墓)「比屋良川」は別名「宇地泊(うじどまり)川」とも呼ばれており、この川沿いに「小禄(おろく)墓」があります。川沿いの急な崖の中腹を掘り込んで、前面を切石や自然の雑石で塞いだ古琉球の墓です。「小禄墓」の大きさは幅8.5m、横2.4mで、葬式の際に龕(がん)と呼ばれる御矯(肩にかつぐ輿)がそのまま墓に入ると伝えられるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目地が付いており、常時取り外せるような仕組みとなっています。墓内には「おろく大やくもい」という古琉球の高級官人が葬られています。(小禄墓石彫香炉)(小禄墓石彫獅子)墓前に祀られた石造りウコール(香炉)の四面には火炎宝珠(太陽)、麒麟、花生け、四隅には獅子が浮き彫りされています。嘉慶11年(1806年)に中国の「馮姓」の士族により寄贈されました。香炉に向かって右側には墓を守る石彫の獅子が祀られています。現在は劣化が著しく原型が分かり辛い状態ですが、獅子が立ち上がっている形をしています。「石彫香炉」と「石彫獅子」はそれぞれ宜野湾市の指定有形文化財に登録されています。(小禄墓内石厨子)(小禄墓古墓群)「小禄墓」の内部には沖縄県指定有形文化財の「小禄墓内石厨子」が納められています。琉球王国第二尚氏王統の第三代「尚真王」時代に造られた、粗粒輝緑岩(あるいは細粒斑粝岩)製の石厨子です。石棺の正面中央には「弘治七年おろく大やくもい六月吉日」の銘文が彫られています。中国年の弘治7年(1494年)と記する文字は、沖縄県で最古級の平仮名文字と言われています。「小禄墓」の断崖には他にも3段に彫られた古墓が群がっています。高級官僚であった「おろく大やもい」同様、古琉球において身分の高い人物の墓だと考えられています。(宇地泊川/比屋良川沿いの古墓)(シュイワタンヂ/首里渡し)「宇地泊川(比屋良川)」周辺にある崖の中腹には「小禄墓」の他にも多数の古墓が点在しています。中腹まで石段が積まれている墓や、断崖絶壁で辿り着けない墓まで多種多様です。この川には「シュイワタンヂ(首里渡し)」と呼ばれる道があります。旧国民学校の通学路と川が交差する場所にあった川を渡る「ワタンジ(渡し)」の事で、大雨が降ると川が増水して渡れませんでした。この道は首里に行く道であったため「シュイワタンヂ(首里渡し)」という名前が付けられました。(ウシヌクスービラ/ウシヌクブービラ)「小禄墓」の南側に「ウシヌクスービラ」と呼ばれるビラ(坂道)があります。昔は現在よりも坂道がきつく牛が糞をしながら登った為「ウシヌクスービラ」と名付けられた説と、周囲の地形が牛のコブや牛の後頭部(クブー)に見える事から「ウシヌクブービラ」と呼ばれるようになった説があります。かつて、この坂道に交差して首里への道として利用されていた宜野湾村を横断する道がありました。道の両側に松の木が林立していたので「ナンマツ(並松)」と呼ばれていました。それに因み、現在この周辺には松の木が多数植えられています。(アガリガー)(アガリガーのウコール)宜野湾市「嘉数公民館」の南西側に「アガリガー(東ガー)」があります。比較的に規模の大きなこの井戸は「嘉数集落」のウブガー(産ガー)で、集落で子供が産まれると「ウブミジ(産水)」として井戸の水が使用されました。また、正月には「ワカミジ(若水)」を汲んでいました。「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られており、水の神と恵みへの感謝を祈る拝所となっています。この井戸は現在も水量が多く、ポンプで水が汲まれ農業用水として重宝されています。(ティラガマの出入口)(ティラガマの内部)(ティラガマの拝所)「嘉数集落」の最南端で浦添バイパス(国道330号)沿いに「ティラガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。この鍾乳洞は沖縄戦の際には防空壕として「嘉数集落」の住民の命を守りました。さらに、このガマは昔より伝説がある洞窟で「首里桃原」に住んでいた美女が家から逃げ出した時に休息したガマだと伝わります。その女性は宜野湾市にある「琉球八社」の一つの「普天満宮」の祭神である女神だと言われています。「ティラガマ」の内部奥は神が宿る鍾乳石があり、2基のウコール(香炉)と霊石が祀られる拝所となっています。この拝所にはヒラウコー(沖縄線香)がお供えされており、普段から人々の祈りの聖地として崇められているのです。
2021.12.07
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(マンジュウガンジュ/満喜世御願所)沖縄県沖縄市の「高原集落」を南北に通る国道331号の東側に「満喜世山」と呼ばれる小高い丘陵があり、頂上に「マンジュウガンジュ」の祠が建立されています。この拝所の祠内部には「高原海洋神」と刻まれた石碑が祀られています。かつての「高原」は「嵩原/たきばる村」と「満喜世/まんじゅ・まんじゆ村」に分かれており「御当国御高並諸上納里積記」によると田畑とも中の村位と記されています。「満喜世村」の脇地頭は康熙8年(1669)から康熙14年(1675)まで「満喜世親雲上幸清」が務めており、他にも地方役人に与えられた「オエカ地」が置かれていました。「マンジュウガンジュ」の東側には「満喜世之殿」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『満喜世之殿 満喜世村 稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛・筵一枚 満喜世大屋子、神酒二 一米、一芋。同村百姓中、供之。美里巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(満喜世山/マンジュウガンジュ)(マンジュウガンジュの入り口)(満喜世山の森)(マンジュウガンジュの祠)(マンジュウガンジュの祠内部)(高原海洋神の石碑)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(満喜世山の森)(満喜世山/マンジュウガンジュ)(満喜世之殿)(満喜世之殿の拝所)(満喜世之殿)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿)
2024.05.06
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(謝刈公園から望む北谷町美浜)沖縄本島中部の西海岸に北谷町があります。戦後の混乱の中で北谷町で最も栄えた地区が謝刈(じゃーがる)部落です。険しい山岳地帯を切り開いて形成された部落は、幾つもの急な坂道や迷路のような細い路地が所狭しと詰め込まれています。戦争の逆境を見事に力に変えて開拓された「謝刈部落」は、地区そのものが沖縄戦を語る上で非常に重要な遺跡文化財として高い価値があります。(米軍基地内の旧北谷集落)1945年の沖縄戦でアメリカ軍が北谷町の海岸より上陸し一帯を占領しました。米軍はその海沿いの土地にアメリカ陸軍のHamby Airfield(ハンビー飛行場)の滑走路を建設し、更に現在の国道58号線の内陸部の土地も徴収してアメリカ海兵隊のCamp Foster(キャンプ瑞慶覧)を構築したのです。アメリカ軍に土地を奪われた北谷集落の住民は、北に数キロ離れた謝刈部落の険しい山中に移住する事しか許されませんでした。(謝刈三叉路)謝刈部落の中心部に「謝刈三叉路」があり「ジャーガルミチ」と呼ばれる県道24号の坂道が90度に差し掛かっています。三叉路の「幸地書店」は歴史の長い老舗で周辺地域の店舗が閉まる中でも営業を続けている謝刈部落のシンボル的な店として謝刈の住民に愛され続けています。琉球バスの「謝刈原」バス停の赤瓦屋根の古民家は、古き良き謝刈部落の雰囲気を醸し出しています。(ナポリ座跡)(謝刈劇場跡の敷地)険悪で急な山岳地帯であった謝刈部落には戦後1万人以上が移住させられました。謝刈三叉路には映画館の「ナポリ座」が1953年辺りに建てられ、1965年に閉館してからは部落のエイサーを披露する場として現在でも建物は残っています。「ナポリ座」の裏手には以前より露天劇場の「大平劇場」があり、1952年に改築されて「謝刈劇場」に改称されました。1965年頃に閉館するまで琉映貿系の映画館として住民に親しまれていました。(謝刈公園沿いのワイトゥイ跡)謝刈部落の北部に「ワイトゥイ」と呼ばれる切り通しの道がありました。断崖を掘削した農道の事で、うるま市勝連の平安名集落にある「ワイトゥイ」が有名です。謝刈部落のワイトゥイの断崖はかつて10メートル以上あり、昼間でも非常に暗く住民に恐れられていました。道幅は3メートル位で荷馬車が1台通れる細道だったと伝わっています。現在は広い道が整備されて、ワイトゥイの片側は眺めが良い謝刈公園として地域住民の憩いの場になっています。(トーヤマヌカー)謝刈部落の中心部に北玉児童館があり敷地内に「トーヤマヌカー」があります。謝刈部落にあった2つの共同井戸の1つで、深さが2〜3メートル以上あった「チンガー」と呼ばれる釣瓶井戸でした。「トーヤマヌカー」はワク(湧水)ではなかったので干魃の際には水が枯れていました。現在は「水神」と刻まれた石碑が建てられ、ウコール(香炉)が設置されていました。(イーヌカー)「トーヤマヌカー」の北側に「イーヌカー」があり、謝刈部落にあった2つの共同井戸のもう1つでした。部落に個人井戸があった家はほんの数軒だったため、ほとんどの住民が「イーヌカー」を利用していました。謝刈部落で1番水量が豊富な井戸で、深さは1メートルほどあり釣瓶を利用して水を汲んでいました。水量は戦前の半分くらいになりましたが現在でも水が湧いています。部落では「カーウガミ」と呼ばれる水の神を祀る行事が行われています。(ジャーガルビラ)(ワイトゥイから降るジャーガルビラ)ジャーガル公園の南部からワイトゥイを結ぶ「ジャーガルビラ」と呼ばれる急勾配な坂道があり、かつては石畳で頑丈に造られていました。「ジャーガルビラ」はイニンビー(死者の人だま)が出る事で有名で、謝刈部落の南側にある白比川からイニンビーがやって来ると信じられていました。また、米軍が上陸して来た時には「ジャーガルビラ」に地雷を設置して誰も通さないようにしていたそうです。ちなみに「ジャーガルビラ」の東側を「アガリグミ」西側を「イリグミ」と部落を分けて、親戚同士を一緒に住まわせたと伝わります。(謝刈のビジュル/拝所)(祠の内部)謝刈部落の西側に「ジャーガルモー(謝刈毛)」と呼ばれる野原があり、そこに3つのウンチケー(霊石)が祀られた祠があります。沖縄には古くから石信仰があり、3つの石はそれぞれ「天地海」を現しています。祠の内部には霊石、ウコール(香炉)、賽銭箱が設けられていました。この拝所は旧暦2月2日、旧暦8月15日、旧暦11月15日に拝まれています。かつてこの場所では旅の安全を祈って船を見送る「フナウクイ」が行われていました。(ビジュルの石碑)(マーイサー)「ジャーガルモー」にはビジュルの石碑があり「拝所 字謝刈部落」と刻まれています。石碑の下には「マーイサー」と呼ばれる1つ100キロ程ある丸石が数個置かれています。部落の若者達が力比べで持ち上げていたと伝わります。「マーイサー」はもともと南東側にあった「マーイサーモー(セーネンモー)」と呼ばれる野原に設置されていましたが、現在はジャーガルモーに移されています。(ジャーガルミチ/県道24号)(吉原14番地の霊石)謝刈部落の中心部のジャーガルミチ(県道24号)沿いに、ニービ石造りの古い霊石と石敢當の石碑が設置されています。T字路や突き当たりではなく民家の入り口に設置されており、ジャーガルミチの北側を向いています。白比川から謝刈部落に昇ってくるイニンビー(死者の人だま)を追い返す魔除けとしての役割があると考えられます。(ホースガー)謝刈部落の南西側に「ホースガー」と呼ばれる涌井戸があります。「ホースガー」は宇地原(うじばる)公園の敷地内にあり、戦前より水が豊富な井泉でした。ホースガーの名称は戦後に付いたもので、ゴムホースを入れて水を引いていた事が名前の由来になりました。戦前は宇地原(うじばる)のガー(井戸)なので「ウージガー」と呼ばれて周辺住民に重宝されていました。(謝刈湯の跡地)(謝刈部落の細道)謝刈部落の中心部にはかつて「謝刈湯」と呼ばれた銭湯があり、現在は解体後に新しいアパートが建てられています。謝刈部落の路地裏は急勾配な細道が迷路のように張り巡らしています。東西南北が分からなくなる不思議な路地が多く、部落の高齢者が元気に坂道を登ってゆく姿を頻繁に見かけます。かつては北谷町で一番栄えた地区ではありましたが、現在は学校や児童館が建ち並ぶ住宅地として穏やかで落ち着いた街並みになっています。謝刈部落は戦後の激動の沖縄を力強く生き抜いた人々の魂が込められた地区であり、平和を象徴する特別な聖域となっているのです。
2021.04.19
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(松川殿之毛拝所)沖縄県那覇市に「松川(まつがわ)集落」があり、集落の北部の丘陵地に「松川殿之毛拝所」と呼ばれるウガンジュがあります。この拝所がある敷地は「殿之毛(トゥンヌモー)」と称され「松川殿之毛拝所」は集落の守護神を祀る霊域となっています。首里王府時代に「殿之毛」北方から南西方向にかけて集落が形成され「茶湯崎村」と称されていました。清の官僚「徐葆光(じょほこう)」が1721年に著した「中山伝信録」には「松川」と記されており、松川脇地頭の所領地でした。明治初年に「松川村」と改称され、明治41年には「真和志村字松川」となりました。また、古くから「首里坂下」とも呼ばれてきた歴史があります。「松川殿之毛拝所」は「真壁・茶湯崎・安謝」の3村を管轄した「真壁(大あむしられ)」と呼ばれるノロ(祝女)が七神を祀り村の繁栄を祈願していました。(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)『賓頭盧尊神/じんずるそんしん』徳と救済・疫病祓いの神仏『土帝君/トウテイクゥ』土地と屋敷の神仏『金満善神』豊作と繁栄の神仏『御嶽火之神/ウタキヒヌカン』御嶽の根神、腰当神(クサティガミ)、祖霊神『東代御通し/アガリユーウトゥーシ』アマミクの世の神・アガリ世の神『中山御通し』首里親国御通し(遥拝所)『北山御通し』今帰仁あおりやへノロ、今帰仁世の神(松川殿之毛拝所/赤瓦屋根の上のシーサー)(殿之毛の石碑)(上之井/水神)「松川殿之毛拝所」の赤瓦屋根の上には一体のシーサーが鎮座しています。沖縄のシーサーは災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの役割がある他にも、幸せを離さない意味も込められています。「殿之毛」は現在「殿之毛公園」として整備され「松川集落」の人々の出会い、親しみ、賑わいを目的とした広場として活用されています。「殿之毛」と彫られた巨大な石碑をシンボルとして、旧6月の綱引きや旧3月の村遊び、更に沖縄相撲(角力)の他にも集落の諸行事の開催の場として「殿之毛公園」は住民の生活に欠かせない場所となっています。「殿之毛公園」には「上之井/ウィーヌカー」の水神を祀った祠が建立されており、祠内には古くから残るウコール(香炉)が設置されています。(上之井/ウィーヌカー)(前之井/メーヌカー)(サーター屋井/サーターヤーガー)「松川集落」は「今帰仁森/ナキジナームイ」を背景に、首里城の西側に位置しています。「殿之毛」の南側丘陵の麓には「上之井/ウィーヌカー」の井戸があり、手押しポンプが設置され、正面には魔除けの「ヒンプン」が井戸を守っています。この井戸から南側には「前之井/メーヌカー」があり、井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られ、同じく正面には「ヒンプン」が設置されています。さらに「殿之毛」の西側、坂下通りの松川交差点近くに「サーター屋井/サーターヤーガー」があります。「サーター屋」とはサトウキビを製糖する小屋の事で、製糖過程でこの井戸の湧き水が使われていました。井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、他の井戸同様に水の神を崇めて水の恵みに感謝する拝所となっています。(新屋敷/ミーヤシチの井戸)(新屋敷/ミーヤシチの賓頭盧神/ビジュル神)(新屋敷/ミーヤシチの拝所)「殿之毛公園」の西側駐車場に隣接する土地には「根屋/ニーヤー」と呼ばれる「松川集落」に最初に移り住んだ始祖の屋敷跡があります。現在は「新屋敷/ミーヤシチ」と呼ばれ、北側に向けられた3箇所の拝所が残されており「新垣家門中」と「豊村(旧姓新垣)門中」の土地となっています。敷地内には井戸を覆った祠があり、内部には石積みされた古井戸の穴が開いていて正面に霊石とウコール(香炉)が祀られています。この祠のすぐ後方にある別の祠内部には「賓頭盧神/ビジュル神」と記された霊石、もう1体の霊石、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。更に、この北側にはコンクリートのブロックでコの字型に囲まれた小型の祠がありウコール(香炉)が祀られています。(松川樋川/マチガーヒージャー入口)(松川樋川/マチガーヒージャー)琉球王国時代「松川集落」には綺麗な湧き水が多く、美人が多くいる場所として有名でした。「殿之毛公園」の北側で、首里城の西側に延びる尾根の南側丘陵に「松川樋川/マチガーヒージャー」の井泉があり、昔から『美人になれる湧き水』として地域住民に親しまれていました。この丘陵の下部は12〜14mの急斜面となっており、湧き水は主に泥岩で構成される豊見城層内から湧き出る地下水であると考えられています。「ノボホテル沖縄那覇」の敷地東側に「松川樋川/マチガーヒージャー」の入口があり、通路を進むとガジュマルの木の下に井泉が佇んでいます。この井戸は平面で見ると鍵穴型をしており、入口から2段の石段を下りた場所に広がる石畳みの踊り場は幅約1.2〜2m/奥行き約3.5mと細長く、両側は布積み(豆腐積み)の美しい石垣が積まれています。(松川樋川/マチガーヒージャー)(松川樋川/マチガーヒージャーの名板)(松川樋川/マチガーヒージャーの樋口)井泉の貯水槽は半円型で間口約1.9m/奥行き約1.5m/深さ約0.3mとなっています。中央の奥部は上下2段の張り出しとなっており、湧き水は下部の張り出しに設置された石樋を通じて流れ落ち、貯水槽の両側にはウコール(香炉)が1基づつ祀られています。「松川樋川/マチガーヒージャー」の踊り場や張り出しは実用的ではなく装飾的であるため、この井泉は地域住民が生活用水を汲んだり水浴びをしたムラガー(村ガー)ではなく、琉球王府の御殿や庭園の水場として造られたと考えられています。現在でも有名な『美女伝説』が残るこの井泉は「松川集落」では聖地と崇められ、多くの住民が線香を持ち寄り水の神に拝してるのです。
2022.06.17
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(前田の権現)沖縄本島中南部の浦添市「前田(まえだ)集落」の西部に「前田権現」と呼ばれる拝所があります。「キッチャキ石」と呼ばれる霊石を権現として祀られ、旅の安全や家内安全が祈願される拝所として人々に崇められています。「キッチャキ石」は「つまずき石」を意味する霊石で、四方をコンクリートで囲い正面に2箇所の覗き穴が設けられた祠の内部に「キッチャキ石」が祀られています。「前田権現」の祠には2つの石造りウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)と共に小さな霊石も供えられています。祠に向かって右側には中型の霊石も数体祀られており「前田権現」に於ける沖縄の霊石信仰の文化が現在も大切に継承されています。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/祀られるウコールと霊石)(前田権現/向かって右側の灯籠)「前田権現」の祠には2基の灯籠が建立されており、左側の灯籠の3面にはそれぞれ「奉寄進」「嘉利二拾 庚戌 吉日」「阿氏 佐久田親雲上守祥」と彫られています。「阿氏/あうじ」とは琉球三国時代(南山・中山・北山)の南山王国の王族の血筋であり「佐久田」は前田集落に多く見られる姓です。さらに「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。「前田権現」には次のような伝承が残されています。『その昔、首里を往来する人々がこの地を通るたびにキッチャキ(つまずく)する石がありました。いくら片付けても石は元の場所に戻り、再び人々がつまずくので「キッチャキ石」と呼ばれるようになりました。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/古井戸)(ハンタタイガー)そんな時、ある役人が使者として中国に赴く事になり「もしキッチャキ石の神様が権(かり)の姿であるならば、役目をきちんと果たし、何事もなく無事に帰国できるという私の願いをきっと叶えて下さるに違いない」と一心に祈りを捧げました。その後、役人は中国で役目を果たし、無事に沖縄に帰る事が出来たのです。』以来「キッチャキ石」は権現として人々が崇拝するようになり、古老によるとこれが「前田権現」の起源となり今も語り継がれています。「前田権現」には古い井戸があり権現の地から湧き出る水として住民に崇められています。井戸には古い石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「前田権現」の西側には「ハンタタイガー」と呼ばれる井戸があり「前田権現」の丘陵の地下を通る水源から湧き出ていたと考えられます。(トゥンチガー)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神祠内部)「前田権現」から南東に60メートル程の場所に「トゥンチガー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸の北側には1基のウコール(香炉)と1体の霊石と思われる石が祀られています。「トゥンチ/殿内」はドゥンチとも言われ、脇地頭以上の家柄や親方(ウィーカタ)及び士族の家柄の屋敷を意味します。「トゥンチガー」はその屋敷で使われていた井戸の事で、そこから南側に道を挟んだ場所にある古い「ヒヌカン/火の神」は、かつてこの地に建てられていた「トゥンチ/殿内」の敷地に祀られていた「ヒヌカン/火の神」であると考えられます。北側に向けて造られた「ヒヌカン/火の神」の祠は3つの琉球石灰岩を組んで造られており、祠内部には古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川)(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川の拝所)「トゥンチガー」から東側に150メートル程の場所に「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」と呼ばれる古井戸があります。屋号「ナカミーヤー/仲新屋」の屋敷前にあった井戸であると考えられ、井戸の北側に向けて霊石が祀られており古い石造りのウコール(香炉)が設置されています。比較的に井戸の敷地が広いため、水量が豊富で様々な用途に使用されていたと考えられます。沖縄の屋号は「ヤーンナー」と呼ばれ、家の方位、位置、地理、家主の職業、本家か分家、兄弟の何番目など様々な事柄や特徴に因んで名付けられました。「ナカミーヤー/仲新屋」は屋号「ミーヤー/新屋」の一つの呼び名で、他にも「ミーヤーグヮー/新屋小・イリミーヤー/西新屋・ウシミーヤー/牛新屋・メーミーヤーグヮー/前新屋小」など多種に渡ります。(石川門中/川端の拝所)(石川門中/川端の仏壇)(石川門中/川端の位牌/ウチナーイフェー)(石川門中/川端のヒヌカン/火の神)「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」から東に20メートル程の場所に「石川門中/川端の拝所」が建てられています。「石川門中/川端」と記された表札の建物の内部には仏壇があり3基のウコール(香炉)が設置され、それぞれに花瓶、酒椀、水椀が供えられています。向かって一番左端には「石川門中/川端の位牌」が祀られており、中央に『石川家先累代之 霊位』右上から『自得宗寿信士/釋浄徳信士/木覚道全信士』右下から『徳室妙寿信女/貞室豊雲信女』と名前入れされています。沖縄の位牌は「ウチナーイフェー」と呼ばれ、位牌札は上段が男性で下段が女性と決められています。仏壇に向かって左側には「石川門中/川端のヒヌカン/火の神」が祀られ、石造りウコール(香炉)に花瓶、酒椀、水椀が供えられています。(カーバタガー/川端井戸)(瑞穂の泉の石碑)(カーバタガー/川端井戸のウコール)「石川門中/川端の拝所」敷地の南側に面して「カーバタガー/川端井戸」があります。この井戸はこの土地に昔から住んでいた「川端家」の屋敷で使われていた井戸で、隣接する拝所はその後「旧姓川端の石川門中」として受け継がれたウガンジュであると考えられます。円形コンクリートの蓋が施された井戸には「瑞穂の泉」と彫られた石碑が立っており「昭和十八年四月二十二日改修」とも記されています。さらに、井戸の北側には石造りの古いウコール(香炉)が設置されています。「前田集落」に点在する井戸のウコール(香炉)はいずれも北側を向いており、その北側の先には「舜天王・英祖王・察度王」の3王朝が10代に渡り居住した「浦添グスク」の丘陵が構えています。「前田集落」では井戸からの水の恵みを王様からの恵みと重ね合わせて敬意を込めて拝していたと思われます。
2022.07.07
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(前兼久トゥングヮ/仲泊トゥングヮ)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん)」の西海岸線沿いに「前兼久/まえがねく集落」があり、この集落は沖縄の方言で「メーガニク」と呼ばれています。「前兼久集落」には昔から「アーマンチュ/天人」に纏わる伝承話があります。「アーマンチュ」とは「ニライカナイ」という海の彼方にある理想郷に住む神を意味し、沖縄には「アーマンチュ」に関する「巨人伝説」や「アーマンチュの足跡」更には「アーマンチュの洞窟」など多くの伝承が存在しています。「前兼久集落」の古老によると、太古の昔の世は北からの波は南へ、南から来る波は北へと越えてゆくばかりで、当時の沖縄には土地は少なく海ばかりが広がっていました。そんな時「アマミキヨ/アマミク/阿摩美久」と「シネリキヨ/シネリク/志禰礼姑」という「アーマンチュ」と呼ばれる男女の二神が「ニライカナイ」から「国頭村/くにがみそん」の「阿須森/あすもり」に降臨しました。(仲泊海岸/仲泊トゥングヮ/前兼久トゥングヮ)(前兼久トゥングヮ)「阿須森」に降りた「アマミキヨ」と「シネリキヨ」が『人間をお与えください』と懇願すると女が2人、男が1人生まれました。彼らは海から貝を拾って洞穴の中で食べて暮らし始め、そこから沖縄の国が広がって行ったのです。更に、島々を造ろうと天秤棒で土を運んでいると途中で棒が折れてしまいました。その時に海に落ちた土が「前兼久」と「仲泊」の2つの海上の小島になり、それぞれ「前兼久トゥングヮ」と「仲泊トゥングヮ」と呼ばれるようになったと伝わっています。また「アーマンチュ」が天と地を分けた神話も沖縄にあります。『遥か昔、天と地は分かればかりで人間は狭い隙間を這いつくばっていました。そこに「アーマンチューメ」という巨人神が現れ、硬い岩場を見つけると両足を踏ん張り両手で天を支えて持ち上げて強く放ちました。すると天は遥か上空に昇り人間は歩いて暮らせるようになりました。』その時に出来たと言われる「アーマンチュ」の足跡が沖縄各地に伝わっています。(前兼久漁港から見た前兼久トゥングヮ)名護市羽地には次のような話が伝わっています。『昔、とても天が近く人間は困っていた。アマミキヨという人が真喜屋の大川と羽地の大川のトゥシという所に足を踏ん張って天を押し上げたそうだ。昔はその時の足跡が残っていた。』また、うるま市安慶名には『昔、天と地はくっ付いていて離れていなかった。そのため人々は這って歩いていた。アーマンチュが何処からか降りてきて那覇のユーチヌサキ(雪の崎)に立って天を持ち上げた。』という伝承が残されています。更に、南城市佐敷津波古には『130歳である福人の前にアーマンチュが現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた。』と伝わり、渡名喜島には次のような伝説があります。『タカタンシーと呼ばれる場所には昔、アーマンチュの足跡だという大きな石の窪みがあった。大昔アーマンチュは粟国島と渡名喜島をひとまたぎで渡ったそうだ。次に久米島にひとまたぎで渡ろうとしたが、海に落ちて死んだそうだ。』(仲泊トゥングヮ/ヒートゥー島)「前兼久トゥングヮ」の南側約300mで恩納村立仲泊小学校の北西側約400mの位置に「仲泊トゥングヮ」の岩島があります。この島は地元の住民に「ヒートゥー島」と呼ばれており「ヒートゥー」とは「イルカ」を意味します。かつて沖縄本島北部の名護湾でサバニ(沖縄で古くから利用された漁船)に乗った漁師が湾内に入り込んだイルカを手投げ銛で仕留めた「ヒートゥー漁」が3月から5月にかけて行われていましたが「仲泊トゥングヮー」の周辺で「ヒートゥー漁」が行われていた詳細は確認されていません。しかし「仲泊海岸」は現在でもウミガメの産卵が確認されるほど美しい海なので、昔はこの「仲泊トゥングヮ」からイルカの群れが見られた事から「ヒートゥー島」と言われるようになったと推測されます。因みに沖縄本島北部ではイルカを食する習慣があります。スーパー等でもイルカ肉が販売されており、刺身や炒め料理で食されています。(仲泊トゥングヮの廃墟)(仲泊トゥングヮの湾曲橋)1975年(昭和50年)に本部町で開催された「海洋国際博覧会/Expo'75)の際に沖縄振興の流れで「仲泊トゥングヮ」にも開発計画が持ち上がりました。「仲泊集落」の北側にある「シーサイドドライブイン」が沖縄の本土復帰に伴い、内地からの観光客を見込んで「仲泊トゥングヮ」にイルカ料理専門の海上レストランとミニ水族館の建設に取り掛かりました。しかし「仲泊トゥングヮ」の小島に掛ける橋の建設許可が下りず、建設半ばで計画は頓挫してしまいました。さらに、この島には下水処理のインフラが無く、海を汚染させる恐れがあった事から地元のウミンチュ(漁師)から猛反対を受けていたと伝わります。現在も「仲泊トゥングヮ」には当時からの廃墟が残されたままとなっており、島の西側には岩塊とを結ぶ湾曲したコンクリート製の橋が掛かっています。(シーサイドドライブインから見た仲泊トゥングヮ)(イユミーバンタのアーマンチュの足跡)「仲泊集落」の南側にある「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の東側に「イユミーバンタ」と呼ばれる海の魚の群れを見る崖があります。この崖上には芝生の広場となっており、昔から「アーマンチュ」の足跡であると言われています。また恩納村「万座毛」や読谷村「残波岬」も「アーマンチュ」が足を置いた場所だった言い伝えがあります。更に沖縄市には次のような神話があります。『東南植物楽園の南側で「バシクブー」と呼ばれる場所にある「福地グシク」の丘陵は「アーマンチュ」が枕にしていた。』『東南植物楽園の敷地内にある「ナーカジ」と呼ばれる平場には「アーマンチュ」のかかとの跡が2つ残されている。』『東南植物楽園前の交差点で「ナーカジアジマー」と呼ばれ場所に「ジャンジャラーシー」と言う洞穴には「アーマンチュ」が踏んで歩いた足跡が残っている。』(仲泊のイユミーバンタ)(イユミーバンタからの絶景)石垣島から与那国に広がる八重山列島にも「アーマンチュ」の伝説があり、石垣島の「白保」には次のような伝承が残されています。『その昔、天の神がアーマンチュに天から降りて下界に島を創るように命じました。アマン神は土を槍矛でかき混ぜて島を形成し、アダン(阿檀)林の中で最初の生物であるヤドカリを創りました。その後、ヤドカリの穴から2人の男女が生まれた。』八重山の開闢神話の特色としてヤドカリが登場します。南西諸島ではヤドカリは「アマン」と呼ばれ、語源は「アーマンチュ」から来ていると考えられます。因みに 「アマン」はサンスクリット語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラビア語、ウルドゥー語、ペルシア語で「平和、安全、無事、宿、保護」を意味する言葉である事も非常に興味深い点となっています。
2023.03.10
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(瀬良垣竜宮神)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」の北部に「瀬良垣/せらがき」集落があります。1635年以降に先島を除く沖縄本島と周辺離島の石高を間切と島ごとに集計した帳簿である「琉球国高究帳」には「せらかち村」その他の地誌には「瀬良垣村」と記されています。「瀬良垣集落」の北西側に「サーシヌ子/サーシヌクワ」と呼ばれる小島に「瀬良垣竜宮神」の祠がありニライカナイ神が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『一御前 神名 シマネドミ 年浴之時、仙香・花米五合・神酒一、瀬良垣村百姓中供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』との記述があります。「サーシヌ子」の北側に「サーシ屋」という旧家の畑があった「サーシノハナリ/サーシバナレ」と呼ばれる小島があり、旧暦三月三日に「瀬良垣村」の神女と村人により拝されていました。(サーシヌ子/サーシヌクワ)(サーシヌ子/サーシヌクワ)(サーシヌ子/サーシヌクワ入り口)(瀬良垣竜宮神/シマネドミの祠)(瀬良垣竜宮神/シマネドミの石碑)(瀬良垣竜宮神/シマネドミのウコール)(サーシヌ子/サーシヌクワから見たダイヤモンドビーチ)(サーシヌ子/サーシヌクワから見た名護市方面)(サーシヌ子/サーシヌクワ周辺の瀬良垣小島嶼群)(サーシヌ子/サーシヌクワのソテツ)(サーシヌ子/サーシヌクワから見たサーシノハナリ)(ヨリアゲ森方面から見たサーシノハナリ)
2024.02.04
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(砂辺馬場公園)「砂辺集落」は沖縄本島中部北谷町の西海岸に位置し、集落の歴史は古く1713年に琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」にも名前が記されており、美ら海を望む平和な暮らしがあった集落でした。海面を覆い尽くす米軍艦隊による艦砲射撃と共に上陸作戦が遂行された悲劇の日、1945年4月1日までは…(第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント)「砂辺馬場公園」には「第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント」があります。日本唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄全体で20万余りの尊い命を奪い去りました。モニュメントには「沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争に繋がる一切の行為を否定する…沖縄戦の風化をゆるさない歴史的礎として、米軍上陸碑をここに建造する」と記されています。(砂辺馬場公園の砂辺之竜宮神)「砂辺集落」西側の海辺には「砂辺馬場公園」があり、敷地内に「砂辺之竜宮神」の拝所があります。竜宮神は海の神様が祀られており竜宮神の石碑と石造りの香炉が設置されていました。沖縄戦で米軍に占領されていた砂辺集落は1954年(昭和29年)に沖縄に返還されました。集落に戻った住民は砂辺集落の復興に力を尽くしたのです。(唐井之水神)(唐井之水神の井戸内部)砂辺馬場公園の北側に「唐井之水神」があります。「トーガー」と呼ばれるこの井戸は深さ3メートル程あり、水量は現在も豊富で石組は戦前から存在しています。米軍により井戸は埋め立てられていましたが、ある住民の眼病をきっかけにユタの助言で井戸が発見され整備されました。「トーガー」は戦前より水の神に祈るムラウガミ(村拝み)の対象であり、現在は旧暦1月2日の「カーウガミ(井戸拝み)」で拝まれています。(ウブガーの入口)(砂辺ウブガー水神の石碑)「ンブガー」または「ホーヤーガー」とも呼ばれ、階段を降りた鍾乳洞窟の先に水が沸いています。子供が産まれた時に井戸の水を音を立てないように汲み眉間に水を付けました。また、水を組む時に手を振るわせると子供が喘息になるとも言われたのです。正月の若水もこの井戸から汲み、芭蕉(バナナ)の葉で作ったニーブと呼ばれる器でゆっくりと水を飲んでいました。(クマヤーガマの門)(クマヤーガマへの階段)砂辺集落の南部にある自然の形のままのガマ(洞窟)で「クヤマー」と呼ばれています。米軍による1945年10月10日の「十・十空襲」の後、クマヤーガマを防空壕として使う様に整備されて天井には6つの空気穴が設置されました。その後の空襲では300人余りの住民が非難し、1人も死傷者を出さなかったと言われています。(クマヤーガマ納骨拝殿)戦後に砂辺集落が米軍に摂取されガマの入口が埋められてしまいました。クマヤーガマ周辺は1956年に返還され更地になり、住宅地の開発が行われました。平成元年にガマの入口が発見されると発掘調査が行われたのです。ガマの入口からヒスイやかんざし等の装飾品が出土した他に、風葬が行われた場所であったため多数の古い頭蓋骨や人骨が発見されました。それらの人骨はクマヤーガマに隣接した納骨拝殿に納められています。(砂辺之寺/ティラ)(ティラのガマ)「クマヤーガマ」の西側にあるガマで拝所として聖域として拝まれていました。ガマの内部は10名程が入れる狭さでしたが、戦時中に「クマヤーガマ」と細い地下通路で結ばれて防空壕として利用されました。旧暦8月15日に「ティラメー」という拝み行事があり、旧暦9月には住民が重箱に揚げ豆腐、芋の天ぷら、魚料理などを持ち寄り「ティラ」に拝みに行きました。(天孫子按司之墓)国頭村辺戸の「安須森」今帰仁村の「カナヒヤブ」南城市の「斎場御嶽」を創った天帝と呼ばれる琉球開闢の神様が、自分の子供である男女を地上に降ろし、二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなったのです。長男は「天孫子」と名乗り国の主として統治したと伝わり、砂辺集落にあるこの「天孫子按司之墓」は次男の按司が眠る墓だと言われています。(踊神之墓の石碑)(踊神之墓)砂辺公民館に隣接する場所に「踊神之墓」がありウコール(香炉)が設置されています。戦後に砂辺公民館を建設する際に多くの人骨が発掘された為この地に祀られています。戦前にはこの地にアシビナー(遊び庭)があり、集落の住民はムラアシビ(村遊び)でエイサーを踊っていました。それに因んで踊神(ウドゥイガミ)を祀る墓が建てられたのです。(獅子屋/シーシヤー)「踊神之墓」から東側の道路を1本渡った場所に「獅子屋」と呼ばれる獅子舞を奉納する拝所があります。獅子舞の獅子を収める小屋で集落では神聖な場所とされています。旧暦7月17日のシーシヌウグヮン(獅子の御願)や旧暦8月15日の十五夜に集落の有志により獅子舞が披露され、普段は「獅子屋」に箱に収められ大切に安置されています。(地頭火の神の入口)(地頭火の神)この地はもともと地頭と呼ばれる砂辺集落の集落長の屋敷があった場所で、廃藩置県で地頭が那覇に引き上げた後も残ったヒヌカン(火の神)を祀っています。この場ではかつて集落の公的な祭祀に使用された場所で、以前はヒライサーと呼ばれる石化したテーブル珊瑚で造られた祠でした。弱い造りだったため台風が来るたびに劣化してしまい、現在は砂辺集落により堅固な祠が建立されています。(伊平屋ウトウシ神)「伊平屋ウトウシ神」はイヒュウトゥーシとも呼ばれる拝所で、伊平屋の按司を遥拝するための拝所です。砂辺集落の最北端に位置し、「カンカー」と呼ばれる魔除けの儀式や「イヒャウトゥー拝み」と呼ばれる祈願行事を行なっていました。砂辺集落の北の入り口を見張る守り神としての役割があり、集落への「お通し(ウトウシ)」として拝する場でもありました。(砂辺集落北部を仕切る嘉手納基地のフェンス)(砂辺集落上空を飛来するMC-130J)1945年の沖縄戦に米軍が上陸した砂辺集落は米軍嘉手納基地に隣接しておりフェンスで仕切られ、上空を特殊作戦機MC-130Jが爆音を立てて日常的に飛来します。かつて米軍が上陸したビーチには現在、米軍関係者を対象とした巨大マンションや宿泊施設が建てられ、砂辺集落には米軍関係者が数多く生活しています。砂辺集落は琉球王国から継承される遺跡文化財が数多く残ると共に、返還後も米軍関係者が普通に生活する"チャンプルー集落"となっています。沖縄では米軍基地問題は賛否両論多々ありますが、砂辺集落は沖縄の米軍基地の現状を分かりやすく示している集落となっているのです。
2021.04.26
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(屋慶名のガジュマル)「屋慶名集落」は沖縄本島うるま市の東方に位置し太平洋と金武湾に面しています。琉球王朝時代に勝連間切りに含まれ、与那城の先人は奄美から大和、朝鮮にかけ海外貿易の船乗りとして活躍していました。屋慶名港は前に浮かぶ藪地島が太平洋の荒波を防ぐ防波堤となり、船舶の出入りに都合の良い港であり当時のエネルギーであった薪や炭を始め、あらゆる生活物資を輸送するマーラン船(山原船)の中継拠点として大いに栄えていました。(屋慶名の土帝君)「土帝君(トゥーティークー)」とは沖縄における中国の土地公(土地の神様)を意味し「球陽」の巻九によると、1698年に大嶺親方鄭弘良が中国から土地公の神像を持ち帰り自分の領地である旧小禄村大嶺を祀ったのが最初だと言われています。現在、沖縄では42箇所の「土帝君」が見つかっており「屋慶名の土帝君」の祭祀は農業等の繁栄を祈願し、中国の土地公の誕生日である旧暦2月2日に拝まれています。(3代目屋慶名のクワーディーサー)(屋慶名のクワーディーサーの歌碑)屋慶名自治会の敷地に「屋慶名のクワーディーサー」があり、現在のクワーディーサーは3代目となっています。古葉手樹(コバテイシ)と呼ばれる木で沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布しています。墓の庭に植えられ人の泣き声を聞いて成長すると言われる神秘の木です。1670年頃から歌い継がれる「屋慶名クワーディーサー」の歌はとても有名で、木の麓には歌碑が建てられています。また、10月には「屋慶名クワーディーサー祭」が行われ集落の有志によるエイサーの演舞が奉納されています。(旧屋慶名区役所のヒヌカン)(ヒヌカンの祠内部)屋慶名区役所と屋慶名公民館は道を一本挟んだ「屋慶名自治会」に移転しており「ヒヌカン(火の神)」は昔から同じ場所で住民に拝まれています。祠の内部には3基のウコール(香炉)と、天地海を意味する3つのビジュル霊石が祀られています。屋慶名集落の守護神として外部からの悪霊を祓う役割があります。隣接する「屋慶名のクワーディーサー」と共に屋慶名集落の長い歴史を見つめてきた大切な文化財となっています。(屋慶名のフクギ)(フクギの麓にある古井戸)屋慶名集落の中央に「西屋慶名」と「東屋慶名」を分ける屋慶名川が流れています。西屋慶名にある屋慶名川沿いの屋敷に、周囲をブロックで円状に囲んだ古井戸があります。古井戸には石作りの半蓋と屋根が取り付けてあり、苔に覆われた古い石段が敷かれています。古井戸の脇には樹齢の古いフクギの木が育っており、古井戸の水の神を祀っているように天に向かって一直線に伸びていました。(屋慶名西公園のガジュマル)(屋慶名西公園の拝所)屋慶名自治会の北側に「屋慶名西公園」があります。公園には高樹齢のガジュマルがあり、幾本もの枝がお互いに絡み合いながら大地にしっかりと根を伸ばしています。ガジュマルはキジムナーと呼ばれる妖精が宿る神の木として崇められ、勝手にガジュマルの枝を切ったりすると妖精に祟られると言われています。公園の東側には小さな井戸跡に拝所の祠が祀られていました。(与那城監視哨跡の入り口)(与那城監視哨跡)「与那城監視哨」は航空機を早期に発見し、敵味方を区別して防空機関に知らせるための施設で、屋慶名集落の「イシマシムイ」の丘の上にあります。正八角形のコンクリート製で、入り口以外の7つの壁面には1つずつ窓枠があり360度見渡せる構造になっています。壁面には沖縄戦当時、米軍による銃撃を受けた痕跡が現在も生々しく残っており、戦争遺跡として大変貴重な文化財となっています。(イシガー)(イシガーのガジュマル)「屋慶名監視哨」がある「イシマシムイ」の丘の麓に「イシガー」と呼ばれる井泉があります。水源が豊富な「イシガー」はかつて集落の飲料水や生活用水に使用され、水の神様が祀られています。井泉の霊水の恵みを受けて樹齢の高い立派なガジュマルが育っています。神が宿る「イシガーのガジュマル」と呼ばれ、昔から集落の住民の信仰対象とされていました。(イリーガー)(アガリガー)「屋慶名集落」の西側(西屋慶名)に「イリーガー」、東側(東屋慶名)には「アガリガー」があります。沖縄の言葉でイリーは西、アガリは東、ガーは川や井泉を意味します。屋慶名集落の井戸は比較的大規模で井戸の手前に広い空間が設けられている事が特徴的です。他集落ではあまり見かけない構造を可能にしているのが屋慶名集落の豊富な湧き水で、この集落が古より港町として繁栄した証となっています。(メーガー)(フルガー)「屋慶名(東)交差点」の周辺には井泉が集中しており、東屋慶名地区が水源の宝庫となっています。西屋慶名はガジュマル、フクギ、クワーディーサーなど数多くの霊木に覆われており、東屋慶名には豊富な神水が湧き出ているのです。「メーガー」も大規模な井泉で門構えがある堅固な構造です。「フルガー」は東屋慶名の「兼久商店」駐車場にある小さな古井戸となっています。(兼久商店)(兼久商店の自動販売機)(屋慶名の海にあるHYロゴマーク)東屋慶名の「兼久商店」は沖縄のバンド「HY」のファンにとって、余りにも有名な聖地として知られています。HYが2001年に発表したアルバム「Departure」に「兼久商店」というタイトルの曲が収録されています。商店の自動販売機には「HY誕生の地」と記されており、HYと非常に関わりのある商店としてメンバー、ファン、地元住民に愛され続ける非常に価値の高い文化財となっています。更に、屋慶名の海には石が並べられてHYのロゴマークがデザインされています。このロゴマークは干潮時のみ現れて見ることが出来ます。(屋慶名郵便局前のフクギ)「海の民」であった与那城の人々は大正から昭和初期にかけて東南アジア、中南米など広く海外へ雄飛し活躍し、屋慶名地区は周囲の離島を結ぶ拠点として政治、経済、文化の中心地として繁栄しました。屋慶名集落には東屋慶名の井泉と西屋慶名の木々の自然という貴重な財産があり、琉球王国時代からの遺跡文化財が多数継承される魅力溢れた地域となっています。集落には古き良き琉球の時間がゆっくりと流れており、大自然の神々を感じるパワースポットとなっているのです。
2021.05.13
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(キシマコノ嶽/161.8高地陣地)沖縄本島には琉球王国時代前半の首里城から勝連グスクまでを結ぶ「中頭方東海道」があり、中間の中城村内を通る道は「中城ハンタ道」と呼ばれる全長約6.2kmの歴史の道となっています。沖縄の言葉で「ハンタ」とは「崖」を意味し、中城村内では山の尾根や崖沿いに道が通っている事から「ハンタ道」と呼ばれています。「中城ハンタ道」の周辺には多数の遺跡文化財が点在しており、琉球の歴史を知る重要な資料となっているのです。(東太陽橋にある中頭方東海道の標識)(東太陽橋にあるハンタ道の標識)12〜14世紀頃までは「ハンタ道」は各集落やグスク間を繋ぐ道として利用され、15世紀に琉球王国を誕生させた「尚巴志王」により王府と地方の情報伝達の為に整備されました。「ハンタ道」の起伏に富んだ地形や、東側の眼下に広がる村落風景と美しい中城湾が一望できる絶景は散策する全ての人を楽しませてくれます。また、琉球王国時代より伝わる多数の遺跡文化財が残る歴史の道は魅力と浪漫に溢れています。(糸蒲の塔/南上原糸蒲公園)中城村の南部に「南上原糸蒲公園」があり、敷地内には「糸蒲の塔」がある小高い丘があります。かつてこの丘には琉球王朝時代に不動明王を祀った「糸蒲寺」が建立されており「琉球国由来記(1713年)」によると、日本から来た補陀落僧(ふだらくそう)が住職をしていました。この寺には糸蒲ノロと住職の有名な伝説があります。『ある日、幼い女の子を家の外へ追い出して話し合いをしていた糸蒲ノロと僧侶は、この幼女の言葉によってノロの夫に密通を疑われてしまいます。二人は憤慨し糸蒲ノロは「この幼女の家の女子は末切れ末切れ(女子は途絶える)」という呪いを吐き乳房を噛み切って自殺したのです。すると僧侶は「糸蒲寺」の財宝を糸蒲御嶽へ隠して櫃(ひつ)に入りました。直後に寺は炎上して焼失した櫃の中は空っぽになっていた(昇天した)そうです。それから幼女の家に女児は生まれなくなり、その後「糸蒲寺」は再建されず1700年代には寺の石段だけが残っていたそうです。』(糸蒲の塔/沖縄戦戦没者を祀る拝所)また、火事で寺が焼失する瞬間、寺の本尊が首里城の漏刻門(ろうこくもん)に現れたという伝説もあります。南上原の東端標高約150mの丘陵にある「南上原糸蒲公園」の東側に「糸蒲遺跡」があります。このグスク時代の遺跡は糸蒲門中(ムンチュー)が現在の津覇集落へと移住する前の集落跡といわれており「糸蒲遺跡」からはグスク土器や白磁などが出土しています。さらに「糸蒲寺」の周辺は琉球の「田芋発祥の地」として知られています。「糸蒲寺」の補陀落僧が日本から持ってきた田芋を寺の近くに植え、そこから沖縄中へ広まったという伝説が残っています。(ウトゥーシ/遥拝所)「南上原糸蒲公園」の丘の東側麓に「糸蒲のウトゥーシ」と呼ばれる合祀拝所があり「ウトゥーシ」とは遥拝所の事を意味します。この一帯は糸蒲門中の居住地跡と伝えられており、この拝所にはコンクリート製のウコール(香炉)が3基並んでいます。それぞれ「糸蒲ノ嶽/神名:掛カネ森ノセジ御イベ」と「シキマタノ嶽/神名:シキ森ノセジ御イベ」と呼ばれる御嶽への遥拝所と「糸蒲寺」への遥拝所と言われています。糸蒲門中は西原の棚原グスクとの戦いに敗れ、糸蒲に逃れて一時生活をしていました。その後、より住み易い平地へと下りて行ったと伝えられています。(ウトゥーシのヒヌカン/火の神)「ウトゥーシ」の西側に隣接して「ヒヌカン(火の神)」があり、シルカビ(白紙)に包まれたヒラウコー(沖縄線香)が供えられていました。「ヒヌカン」など神様への御願では15本の線香を供える決まりがあり「ジュウゴホン(十五本)」と呼ばれます。これは「ジュウニフン(十二本)」に「サンブンウコー(三本御香)」を加える」とも言われます。この「ジュウニフン(十二本)」は「十二干支」を意味し「サンブンウコー(三本御香)」には「ミティン(三天)」の神様へお通しをする意味合いがあります。ちなみに「ミティン(三天)」とは、この世の三つの要素で「ジーチ(地)」「ウティン(天)」「リュウグ(龍宮=海)」を意味します。「サンブンウコー(三本御香)」は「チジウコー」とも呼ばれています。(東太陽橋)(東太陽橋の標識)「南上原糸蒲公園」の北側に「東太陽橋(あがいてぃだばし)」が架かっています。「1日の計は朝にあり、朝日を拝み、1日の夢を抱く絶好の場所である」の意味を込めて「東太陽橋」と名付けられました。1日のパワーを貰える朝日と絶景が見られる人気のスポットです。「東太陽橋」からは中城湾、知念半島、久高島、津堅島、勝連半島、中城城跡が一望出来て、橋の親柱は中城城跡の門をモチーフとして造られています。毎年正月には初日の出を拝む人々が多数訪れます。(南上原のユクヤー)(南上原のユクヤーの案内板)「東太陽橋」から「中城ハンタ道」を北に向かうと「南上原ユクヤー」があります。この地点は古くから「ハンタ道」を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」と呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで南上原を中心に周辺地域から若い男女が集まり「モーアシビー(毛遊び)」の場所としても利用されていました。ちなみに「モーアシビー」とは主に夕刻から深夜にかけて若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会をいいます。(北上原のユクヤー/奥間毛)(北上原のユクヤーの案内板)「南上原のユクヤー」から「ハンタ道」を北に365mの位置に「北上原のユクヤー」があります。「奥間集落」の上方にあり地元では「ウクマモー(奥間毛)」と呼ばれています。「奥間集落」から坂道を上ってきたり「ハンタ道」を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」とも呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで北上原を中心に周辺集落から若い男女が集まりモーアシビー(毛遊び)の場所として利用されていました。(安里村壱里山)(安里村壱里山の案内板)「北上原のユクヤー(奥間毛)」から「ハンタ道」を北に295m向かうと「安里村壱里山」に辿り着きます。「壱里山」とは琉球王国時代に造られた道の目印です。首里城から一里(約4km)おきに設置され「中城村」ではこの場所に「壱里山」が設もうけられました。1646年の「正保三年琉球国絵図帳」に「安里壱里山」と記されています。ここでは明治から昭和の初期頃まで、北上原の東側に住んでいた人々が、毎年秋に集まって農事の成績を品評するハルヤマスーブ(原山勝負)や学事奨励会や宴会など地域の行事を行う場所として活用していました。(キシマコノ嶽の大岩)(キシマコノ嶽の案内板)(キシマコノ嶽の大岩根元のガマ)「安里村壱里山」の北側に標高161mの丘稜があり「ハンタ道」を300m進んだ丘の頂上に「キシマコノ嶽」と呼ばれる御嶽の森が広がっています。この御嶽周辺は中城村「奥間集落」の発祥地として知られており、戦前まで集落の豊作祈願や繁栄祈願が行われていました。この御嶽は「琉球国由来記(1713年)」には「キシマコノ嶽/神名:天次アマヅキノ御イベ」と記載されています。当時はノロ(神女)を中心に集落の人々がこの御嶽を拝んだとされています。現在でも「奥間集落」の人々に拝まれていますが、山奥で往来が不便な為に集落近くにウトゥーシ(遥拝所)を設け、そこから御嶽を拝んでいます。(監視哨内部/南側の入り口)(監視哨内部/北側の監視窓/銃眼)(監視哨内部/東側の監視窓)(監視哨内部/西側の監視窓/銃眼)「キシマコノ嶽」周辺は沖縄戦直前に旧日本軍の軍用陣地が構築され、御嶽の大岩上部は敵の飛行機を360度見張る監視哨として整備利用されました。北は北谷町から読谷村、南は浦添市から知念半島辺りまで一望できる高台に位置しており、当時の標高計測値が161.8mあった事から「161.8高地陣地」と呼ばれるようになりました。「キシマコノ嶽」の大岩の下にあるガマも旧日本軍の陣地として銃眼や外部へ通じるトンネルとして利用されました。戦争遺跡として二度といたましい戦争が起こることが無いよう、後世に平和の尊さを伝える場所として保存されています。−『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「中城ハンタ道」(中編)』に続く−
2021.10.22
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(安平田の御嶽/アヘダノ嶽)沖縄県内で唯一海に面していない「南風原町/はえばるちょう」は沖縄本島南部に位置しており、この町の中南部に「照屋/てるや集落」があります。「照屋集落」は「喜屋武集落」と「本部集落」に隣接し、この3つの集落は「サンカ/三箇」と呼ばれています。「照屋」の村発祥は集落の東側にある「クガニムイ/黄金森」の「イシジャー」に住んでいた人に関わりがあるとの伝承があります。この人物の長男が「喜屋武」次男が「照屋」三男が「本部」の各村の始祖となり、子孫が広がって行ったと言われています。また「イシジャー」にいた「大城子」という人物が「ティーラバル/照屋原」で「喜屋武・本部・照屋」の三カ村の村立てをしたとも伝わっており、村の年中行事は古くからこの三カ村共同で行われてきました。(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿の祠)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿の祠内部)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿のヒヌカンの祠)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿のヒヌカンの祠内部)「照屋集落」の東部で那覇市安謝と糸満市潮平を結ぶ県道82号沿いの東側丘陵に「安平田の御嶽」があります。「アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿」の祠内部には石造りの「ウコール/香炉」が祀られており、火を付けない「ヒジュルウコー」が供えられています。また隣接する「アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿」の「ヒヌカン/火の神」の祠内部にはウコールに霊石が祀られ、さらに三体の「ビジュル石」が設置されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『アヘダ之殿 照屋村 同御嶽之殿 照屋村』と記されており『稲二祭之時、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 照屋村百姓、五水四合宛、玉那覇村 百姓、供之。玉那覇巫祭祀也 此時、巫一人・居神一人、照屋百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』との記述があります。(アヘダノ嶽/安平田の御嶽)(アヘダノ嶽/安平田の御嶽の井戸)(アヘダノ嶽/安平田の御嶽の井戸)「アヘダノ嶽/安平田の御嶽」は「照屋集落」に属していますが「照屋村」との直接的な関係が無いと言われ、西側に隣接する「津嘉山集落」の祭祀で拝まれる拝所となっています。この御嶽は「照屋集落」では「アヒダシー/安平田子」と呼ばれており「琉球国由来記」には『アヘダノ嶽 神名 ヨラムサノ御イベ 玉那覇巫崇所。』と記されています。「玉那覇ノロ」が「照屋村」にある「アヒダシー」の屋敷跡とされる「アヘダノ嶽」と、その一族の屋敷跡である「アヘダ之殿」を拝む理由は「玉那覇ノロ」の父親の旧跡として拝するようになったと言われています。その後、代々「玉那覇ノロ」が慣例として拝むようになったと伝わっています。また「ミーヤシチムンチュー/新屋敷門中」の祖先が「今帰仁」から「アヘダノ嶽」に来住したと伝わっており、旧五月・六月の「ウマチー」の際に御嶽を拝しています。(照屋公民館/照屋自治会)(ナガモー/ナガ毛の御嶽)(トゥンヌシチャ/殿の下)(トゥンヌシチャ/殿の下の拝所)「安平田の御嶽」の西側で「照屋集落」の中央部に「照屋公民館/照屋自治会」があり、この公民館は戦後に現在の場所に移されました。この一帯はかつて「ナガモー/ナガ毛」と呼ばれる広場で、松の大木が生えた「アシビナー/遊び庭」としてムラの住民の憩いの場でありました。旧暦6月の綱引きや旧暦7月のお盆のエイサーが行われたのも「ナガモー」で、現在は公民館の敷地に「ナガモーの御嶽」があり、祠には3基のウコール(香炉)が祀られています。ナガモーの南側にある「メーミチ」沿いには「トゥンヌシチャ/殿の下」と呼ばれる拝所があり、石造りのウコールに霊石が祀られ線香が供えられています。この「トゥンヌシチャ」は「安平田子」の次女「マグジー/真呉勢」が浦添から「ナカマウフヌシ/仲間大主」を婿養子に迎えて結婚後に住んだ屋敷跡です。「ウマチー」の際に「安平田の御嶽」を拝んだ「津嘉山/親国」の旧家一行が帰路に立ち寄って休んだ場所であると伝わっています。(サーターヤー跡の石碑)(サーターヤー跡/仲組/西組)(サーターヤー跡/上江洲組/西原組/仲筋組/新組小)(メーミチ)「ナガモー」の東側にはかつて6つの「サーターヤー/製糖小屋」があり「サーターヤーグミ/製糖屋組」により管理されていました。現在「サーターヤー跡」の石碑が建立されており、石碑の下にはかつて「ナガモー」で若者達が力比べをした「力石」が埋められています。「仲組/ナカグミ・西組/イリグミ・上江洲組/ウエズグミ・西原組/ニシバラグミ・仲筋組/ナカシジグミ・新組小/ミーグミグヮー」の6組で「一号組〜六号組」とも呼ばれて「一号組」の「仲組」が最も規模が大きかったと伝わっています。14〜15歳になると製糖小屋に出て作業を手伝い、行事は製糖小屋単位で行いました。また製糖作業は門中の「ユイマール/共同作業」で行い、製糖組は実質的には親戚同士の組織でした。その昔は製糖作業の動力は馬を利用していましたが、発動機が導入されると昭和17年に「共同製糖工場」が出来ました。そして戦後になると「組」は無くなり「班」と呼ばれるようになったと伝わっています。(夜警団屋跡)(トーフヤー/豆腐屋跡)(ナカミチ)(馬を水浴びさせたクムイ/溜池跡)「ナガモー」の南側に「夜警団屋跡」と呼ばれる場所があります。「照屋集落」は交通の便が優れていましたが、泥棒や不審者の被害も多かったと言われています。夜間の警備のために若者が多く集まる場所として1950年に「夜警団屋」が建てられました。後に青年会員が消防団の役割も兼ねるようになると、火を消す道具や消防用資器材を保管して集落の安全安心を担いました。「夜警団屋跡」の北側に隣接した家は昭和13年以降に「トーフヤー/豆腐屋」を営んでいましたが、当時は行商人が多く集落に来ていて「首里山川」から毎日「トーフヤー」が豆腐を売りに来ていたと伝わります。「夜警団屋」と「トーフヤー」の間の道は「ナカミチ」で、この道を東に進むと「シーサーヌメーヌカーラ/カーラグヮ」にかかる橋があります。この橋沿いには「照屋ノロ」が公務で使う馬を水浴びさせたクムイ(溜池)の跡地があります。(ヌルジー/ノロ地)(ヌルジー/ノロ地の井戸)(照屋の石獅子/アガリのシーサー)(照屋の石獅子/アガリのシーサー)「照屋集落」の北側に「ヌルジー/ノロ地」と呼ばれる場所があり、かつて北側に隣接する「本部集落」に属していました。「ヌルジー」の「ミーフダ/三穂田」という水田では「ノロ/祝女」が祭祀の際に使用する稲穂が栽培されていました。現在、この土地では芭蕉(バナナ)が栽培されており古い井戸跡が残されています。なお「ヌルジー」の南側の屋敷はその昔「ユーフルヤー/銭湯」を経営していたと伝わっています。「ヌルジー」の西側には「照屋の石獅子」があり「アガリ/東のシーサー」とも称されています。現在「照屋集落」には2基の石獅子があり、どちらも「本部集落」に向いていると言われています。一方「本部集落」では「八重瀬岳」への邪気払いを意味する「フーチゲーシ」を目的に石獅子を設置しましたが、結果的に「照屋集落」を向くことになりました。「照屋」の住民は自分達の集落に石獅子が向けられていると思い、対抗するために「本部」に石獅子を向けたと伝わっています。
2023.11.10
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(かすりの道の標識/琉球かすり会館)沖縄本島南部の「南風原町/はえばるちょう」に「ティーラ/照屋・チャン/喜屋武・ムトゥブ/本部」の「サンカ/三箇」と呼ばれる3つの集落を巡る「かすりの道」があり「かすりロード」とも呼ばれています。「かすり/絣」とは染め抜かれた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りなす図柄の"かすれ"から「かすり」と呼ばれています。身の回りの動植物や生活道具、さらに自然界から着想を得て巧みに反映されています。「かすり」の技術は14〜15世紀に沖縄が東南アジアの国々と交易をしていた頃、インド発祥の「かすり」がインドネシアやフィリピン、中国などを経由して沖縄に伝わったと言われています。(トゥイグヮー)(カキジュー)(イチチマルグムー)(ブリブサー)「トゥイグヮー」は鳥(トゥイ)を模った「かすり」で、曲線は同じ長さに染められた緯絣(よこがすり)を両手で左右にずらしながら織る「幅小寄/ハバグヮーユイ」や「手寄/ティユイ」と呼ばれる技法で織られています。「カキジュー」は鍋や道具を吊るして掛ける道具の紋様となっています。このような沖縄の生活に密着した道具をモチーフにしたかすりのデザインが豊富にあります。「イチチマルグムー」は緯絣2本ごとに絣の無い緯糸1本を織り、ぼかして5つの丸い雲を表現した紋様となっています。「ブリブサー」は夜空に輝く星団を経絣と緯絣の重なりで地色との対比を強調して群星を表現しています。(トゥイグヮー)(絣糸の張り伸ばし場)(絣糸の張り伸ばし場)(絣糸の張り伸ばし場)親子で飛ぶ「鳥小/トゥイグヮー」は琉球絣の中で最も多く用いられる緯絣の紋様として知られています。海外から沖縄に伝わった「かすり」は琉球王府を通じて薩摩に渡り、そこから日本全国各地へと広がって行きました。「南風原」で特に琉球絣が盛んになったのは大正時代の頃で、南風原尋常小学校に織物を指導する女子補習学校が併設され、熊本県出身の「金森市六」が絣技術を指導しました。退職後は「宮平・山川」で織物工場を経営して南風原の織物産業の発展に貢献しました。その功績もあり、現在では「南風原町」は琉球絣の最大の産地となっています。「かすりの道」沿いには絣糸の張り伸ばし場が点在しており、周辺住民の生活の一部として集落の風景に自然に溶け込んでいます。(経緯絣/たてよこがすり)(ハナアシー)(ミミチキトーニー)(ビックー)(ピーマの絡み合わせ)「経緯絣/たてよこがすり」は機(はた)に似た絣と2つの四角は経絣と緯絣が重なり地色との対比を強調し、絣全体がバランスよく配置してあります。「ハナアシー」は経絣3筋の切れ間に緯絣3筋を織り併せ、花の形を2つ段違いに並べた紋様です。「ミミチキトーニー」は耳つき(ミミチキ)の四角い容器(トーニー)の事で、芋洗いの箱・動物の餌箱・湯船などを表し、小絣が2つの耳のように付いている紋様となっています。「ビックー」は六角形の中に花をあしらった吉祥紋様で、織幅に並ぶ鼈甲が小さく、その数が多いほど長寿を願う気持ちが込められています。「ピーマ」と呼ばれる緯糸の絣だけで描く左右もしくは上下対象のが複数合わさり、抽象的な模様や具象的な波や小動物などを表現しています。(ヒチアーシ)(絣模様の外壁)(琉球かすり会館)(かすりの道の標識)「ヒチアーシ」と呼ばれる道具は、経絣用に整形した糸の束を図案通りに柄を合わせて固定するために使われます。「琉球かすり」の大きな特徴はおよそ600種という多彩な幾何学模様の図柄で、琉球王府時代から伝わる『御絵図帳』をもとに職人が現代の感覚を取り入れながら進化し続けています。織は緯糸を経糸の間に手投げ杼で織る昔ながらの技法で丹念に織り上げて行きます。また「南風原町」の童歌に『ティーラ チャン ムトゥブ (照屋 喜屋武 本部)』があり、3つの村は鼎(かなえ)のように向き合い、互いのムラの娘さん達が揃って布織りの自慢話や布織り競争をする唄が伝えられています。
2023.11.28
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(アブチ川に架かる安波茶橋/北橋)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)」の最北端で、県立浦添工業高校の東側に「安波茶橋(あはちゃばし)」と呼ばれる石橋があります。南橋は小湾川に、北橋はアブチ川にそれぞれ架かっており、首里から読谷方面に抜ける「中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)」と呼ばれる、琉球王国時代に造られた幹線道路の宿道が通っています。「安波茶橋」周辺には現在も石畳道が当時のまま残されており、このアーチ型の石橋は昔から沢山の旅人や通行人で賑わいました。アブチ川に架かる北橋から川沿いを西側に下ると丘陵の森の麓に井泉があり、琉球王国時代から現在に至るまで変わる事なく水が湧き出ています。(北橋から赤皿ガーに向かう道)(赤皿ガー/アカザラガー)(赤皿ガー/アカザラガーの拝所)「安波茶橋/北橋」からアブチ川を伝って西側に進むと右手に「赤皿ガー」が現れます。琉球王朝最後の王様であった「尚寧王(1564-1620年)」が首里城から琉球ハ社の1つである普天満宮(宜野湾市)に参拝する途中、家来が琉球漆器の赤い皿(椀)で井泉の湧き水を汲んで国王に差し出していた事から、この井泉は「赤皿ガー/アカザラガー」と呼ばれるようになりました。ちなみに「ガー」とは沖縄の言葉で井泉や井戸を意味します。井泉の右脇の小さな洞穴にはビジュル(霊石)が鎮座しており、水の神様が祀られた拝所となっています。「赤皿ガー」は琉球王国時代から原型をとどめていると言われ「尚寧王」もこの「赤皿ガー」のほとりで暫し休憩を取っていたと考えられます。(西の井/イリヌガー)(西の井/イリヌガーの手押しポンプ)「経塚の碑」が建立されている「うちょうもう公園」の西側に「西の井/イリヌガー」と呼ばれる拝井戸があります。浦添市社会福祉協議会「ひまわり学童クラブ」に隣接する契約駐車場に古井戸が残されており、古く錆びた手押しポンプが設置されています。井戸は円形に石垣で積まれており、上部はコンクリート製の蓋が被せられています。井戸の周囲は比較的広い敷地が設けられているため「西の井/イリヌガー」は水量が豊富で、周辺住民の飲料水の他にも井戸の水で衣類の洗濯や野菜などを洗っていたと考えられます。現在は手押しポンプのハンドルは折れて紛失していますが、水道が普及するまで「西の井/イリヌガー」は周辺住民の憩いの場として賑わっていたと思われます。(古井/フルガー)(古井/フルガーの石碑)(古井/フルガーの手押しポンプ)(古井/フルガーの拝所)「経塚集落」を南北に通る「経塚通り/県道153号線」の近くで経塚1丁目6番地の住宅の庭先に「古井/フルガー」と呼ばれる拝井戸があります。その名前の通り「経塚集落」に古くからある井戸で、現在も比較的に保存状態が良い手押しポンプが現存しています。井戸の脇には「ふるがー」と彫られた石碑が建立されていてウコール(香炉)が設置されています。さらに2体のビジュル(霊石)が並んで鎮座しており、古くから水の神様を石に祀り水の恵みに感謝する拝所となっています。この「古井/フルガー」は現在もカーウガン(井戸の拝み)で祈りを捧げる、神聖な場所として周辺住民に崇められています。ちなみに、この手押しポンプは「川本式ポンプ」で、昔から品質の高い井戸ポンプとして広く知られています。(御殿井/ウドゥンガー)(御殿井/ウドゥンガーの手押しポンプ)「古井/フルガー」の南側に「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれる拝井戸があります。琉球王国時代末期の王族である「本部朝勇」と、その弟で空手家(琉球唐手)として名高い「本部朝基」が生まれた「本部御殿」が首里赤平村にありました。かつて「本部御殿」の別邸が経塚のこの地にありましたが沖縄戦で屋敷は失われてしまいました。しかし、別邸の屋敷で使われていた井戸が現在も残っており「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれています。この別邸跡の近くには「本部御殿墓」があり、さらに首里から普天満宮に通じる「中頭方西海道」も近かったため「本部御殿」の人々が墓参りやお宮参りの休憩場として「経塚集落」に別邸が建てられたと考えられています。現在も「御殿井/ウドゥンガー」は王族が使用していた井戸として「経塚集落」では大切に崇められているのです。(龍巻井/ルーマシガー)(龍巻井/ルーマシガーの石碑)経塚にあるショッピングモール「サンエー経塚シティ」の敷地北側に「龍巻井/ルーマシガー」という拝井戸があり、地元では「ドゥーマシガー」とも呼ばれています。井戸にはウコール(香炉)が設置され住民により拝されています。その昔、日照りの時に龍が天に立ち昇るのを見て、その地を掘ったところ水がこんこんと湧き出たことから「龍巻井/ルーマシガー」と呼ぶようになりました。それからこの場所は「龍巻/ルーマシ」と言われ、豊富な水資源に恵まれ稲作が多く営まれました。現在「龍巻井/ルーマシガー」は大型ショッピングモールの裏手にひっそりと佇んでおり、近くには「龍巻松の木公園」が整備されて地元住民の憩いの場となっています。(夫婦河/ミートゥガー)(夫婦河/ミートゥガーの石碑)(夫婦河/ミートゥガー/夫井戸)(夫婦河/ミートゥガー/婦井戸)「経塚の碑」がある「うちょうもう公園」から「経塚通り/県道153号線」を渡った西側に「夫婦河(ミートゥガー)」の拝井戸があります。敷地には2基の井戸が並んで据えられ、それぞれにウコール(香炉)が設置されています。向かって左側の井戸蓋には「夫」と彫られており、右側の井戸蓋には「婦」と彫られています。沖縄の言葉で「夫婦」は「ミートゥ」と言い、2基の井戸にはそれぞれ丸い形の霊石が祀られています。浦添市「経塚集落」は澄んだ水が湧き出る井戸が豊富で、先人は昔から水への感謝を示す為、井戸に線香をあげて祈りを捧げてきました。琉球王国時代から残る拝井戸は「経塚集落」の歴史に欠かす事が出来ない神様からの恵みの象徴として、現在も住民により大切に守られているのです。
2022.06.27
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(真地大権現堂/前田の普天間グヮー)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)集落」に「真地大権現堂」という洞窟の拝所があり、一説によると権現八社の1つであると伝わっています。この土地は「経塚子の方原」と呼ばれる小字の東側丘陵で「前田/経塚近世墓群」に分類される古墓群に位置しています。この古墓群からは1701年に洗骨された「我謝筑登之親雲上」と女房、さらに1757年に洗骨された「那氏平敷筑登之親雲上」と同人妻の骨が発掘されました。「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。この丘陵にある「真地大権現堂」は別名「前田の普天間グヮー」と呼ばれており「普天満宮」の女神が休憩した伝説の洞窟として知られています。(真地大権現堂の鳥居)(真地大権現堂の石獅子/向かって左側)(真地大権現堂の石獅子/向かって右側)沖縄には「普天間グヮー」と呼ばれる拝所が6ヶ所あり、その内の5ヶ所は首里と普天間の間に点在する洞窟となっており女神が休憩した場所とされています。琉球八社の1つである「普天満宮」には首里桃原に女神が出現され、のちに「普天満宮」の洞窟に籠られた縁起伝承があります。 1「普天間グヮー/女神の生誕地」那覇市首里桃原 2「普天間グヮー/西森御嶽洞窟」那覇市首里儀保 3「普天間グヮー/真地大権現堂洞窟」浦添市経塚 4「普天間グヮー/前田権現洞窟」浦添市前田 5「普天間グヮー/嘉数ティラガマ」宜野湾市嘉数 6「普天間グヮー/神山ティラガマ」宜野湾市愛知 (旧神山/普天間基地内)(真地大権現堂の龍柱/向かって左側)(真地大権現堂の洞窟)(真地大権現堂の龍柱/向かって右側)次のような「普天満女神」由来の伝承が残されています。『昔、首里の桃原に美しい乙女が住んでいました。 とても優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となり、島中で噂となりましたが不思議なことに誰一人その姿を見た人はいません。彼女はいつも家で機織りに精をだし、決して他人に顔を見せませんでした。彼女の神秘的な噂に村の若者達は乙女に熱い想いを寄せていたのです。ある日の夕方、彼女が少し疲れてまどろむうちに荒波にもまれた父と兄が目の前で溺れそうになっている夢を見ます。乙女は驚き二人を必死で助けようとしましたが、片手で兄を抱き父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母に名前を呼ばれて我に返り、父を掴んでいた手を思わず放してしまいました。幾日か過ぎ、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還しましたが、父はとうとう還りませんでした。(真地大権現堂の賽銭箱とウコール)(真地大権現堂の洞窟内に祀られた霊石とウコール)(真地大権現堂の燈篭と手水鉢)乙女はいつものように機織りをしていましたが、その美しい顔に愁いが見えます。 神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが乙女の心から放れません。以来、旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日でした。 乙女の妹は既に嫁いでおりましたが、ある日夫が「姉様は美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから一目会わせてくれないか。」 と頼みました。暫く考えた妹は「姉はきっと断わるでしょう。でも方法があります。私が姉様の部屋に行き挨拶をしますから、そのとき何気なく覗きなさい。中に入ってはいけません。」と答えました。(御神託拜聞記念/陳氏比嘉門中の石碑)(真地大権現堂鳥居建立/奉納者/施工者)(真地大権現堂の土地に関する案内板)「姉様しばらくでございます!」 妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけ、途端に逃げるように家を飛び出しました。末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天間の丘に向かう乙女に、風は舞い樹々はざわめき、乙女の踏んだ草はひら草になってなびき伏しました。乙女は次第に神々しい姿に変わり、普天間鍾乳洞に吸い込まれるように入って行ったのです。そして、それ以来再び乙女の姿を見た人はありません。 現身の姿を消した乙女は「普天満宮」の永遠の女神となったのです。』この時に乙女が暫し休憩を取ったとされる場所が、那覇市首里から宜野湾市普天間にかけて現在も点在する5ヶ所の「普天間グヮー」と呼ばれる洞窟となっています。(真地大権現堂/鳥居の額束)(真地大権現堂の前田/経塚近世墓群の丘陵)(比嘉家納骨堂)「真地大権現堂」の土地は戦後の所有者確認作業(1946-1951年)にて所有者が確認出来なかったため、現在も「所有者不明土地」となっています。しかし「真地大権現堂」には「乾隆四拾六年 辛丑 九月拾貳日 御神拜聞記念 陳氏 比嘉門中」と彫られた石碑が建立されており、鳥居建立の奉納者は「比嘉仁和氏」であり、更に「真地大権現堂」南側の丘陵中腹には「比嘉家納骨堂」があります。「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第62条により、この120平方メートルの土地は浦添市が管理を行なっていますが「真地大権現堂」には「比嘉家」が深く関連している事が見て取れます。ちなみに「門中/ムンチュー」とは沖縄に於ける始祖を同じとする血縁集団の事です。17世紀後半、琉球王府による士族の家譜編纂の開始以降、士族階層を中心に沖縄本島中南部で「門中/ムンチュー」が発達したのです。(比嘉門中の墓/2号墓)(比嘉門中の墓/3号墓)(比嘉家之墓/比嘉家門中之墓)「真地大権現堂」がある「経塚子の方原」の小字から北東側に「前田東前田原」と呼ばれる小字があります。この小字の中心部にある「前田小学校」北側の砂岩層(ニービ)の丘陵中腹には初期の堀込墓である「比嘉門中の墓/2号墓」の古墓があります。ここから更に北東側は「前田前田原」の小字があり「比嘉門中の墓/3号墓」の堀込墓がある琉球石灰岩が隆起した大岩があります。この古墓の敷地には新しい「比嘉家之墓」と「比嘉門中之墓」が隣接しています。「真地大権現堂」も「比嘉門中の墓」の古墓も同じ「前田/経塚近世墓群」に属しており、昔から前田集落の住民と首里から移り住んだ琉球士族の墓が多数存在しています。「真地大権現堂」は家族の健康祈願に加えて、子どものすこやかな成長を願う「子育て祈願」に訪れる人が旧暦の9月を中心にして多くなり大切に拝されています。
2022.07.02
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(冨着古島の御嶽/アフシマノ嶽)「冨着集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線にあり、この集落の「古島/フルジマ」は東側にある丘陵にあり、琉球王国時代の村の祭祀や生活は全て「冨着古島」で営まれていました。「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の屋敷東側に隣接して「冨着古島」の御嶽があります。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『アフシマノ嶽 神名 コダマノイベヅカサ 富着村』と記されています。「冨着古島」の年中行事として4月15日は「マチチャ御願」が執り行われ「御嶽」と「地頭火神」を拝してハブの卵が孵化しないように祈願しました。さらに10月1日の「竈廻い」の行事では「御嶽」と「地頭火神」を参拝した後に男老数人が各家の竈を廻り「1(ティー)、2(ター)、3(ミー)…10(トー)。110デヤビル。」と言って祈願したと伝わります。(冨着古島の御嶽入り口)(御嶽の森)(御嶽に張られたヒジャイ縄/左縄)さらに「琉球国由来記」には『四月朔日ヨリ五月中、山留也。然ドモ、公用ニ竹木伐デ不叶故、為作物崇折之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。稲穂祭三日崇、且、同穂祭之時、仙香・花米五合宛・麦神酒二器宛。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器。年浴之時、仙香・花米五合・神酒二。柴指之時、仙香・花米五合。ミヤタネノ時、仙香・花米五合・神酒二器。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也 竈廻之時、火之用心ニ掟・頭々、村々掃除見廻也。後効之。』との記述があります。赤瓦屋根の建物は御嶽の森に向けて建立されており、非常に強い「セジ/霊力」により御嶽全体が包まれています。この御嶽の入り口周囲には大規模に渡り、聖域を守護する役割である3本の「ヒジャイ縄/左縄」が張られています。(御嶽に張られたヒジャイ縄/左縄)(根神屋の屋敷跡/カミヤー)(アシビナー/遊び庭跡)「冨着古島」の御嶽の北側に「根神屋」の屋敷跡があり「カミヤー/神屋」が建てられています。「山田ノロ」が古島で祭祀を行った際、供えられる神酒は「富着村」宗家の「アガリ家」で作られ、三穂は「前兼久村」の「殿内田」と呼ばれる「ナーシルダー/苗代田」から持参しました。捧げ物は「前兼久村・谷茶村・富着村・仲泊村」からの乾魚から「山田ノロ」は七コーシ盆「ノロの供神」に三割五分コーシ盆「冨着根神」に一コーシ盆「居神達」に一割五分コーシ盆が捧げられました。また9月1日の「神酒御願」の際には古島集落の各家から花米一合を当て募り神酒を作ったと伝わります。この神酒を「アガリ家・ミーヤ家・根神屋・上家」の四家に捧げ、各村人が都合の良い家で神酒を頂きました。「根神屋」の南側に隣接した場所にはかつて「遊び庭/アシビナー」があり「冨着古島」の盆踊りなどの年中行事で老若男女が集っていました。(ミーヤ家の神アサギ)(神アサギ前の霊石)(神アサギ前の石組)(神アサギ内の霊石)「根神屋」の屋敷跡に隣接した北側に「ミーヤ家」の屋敷跡があり、この敷地には「神アサギ」が建てられています。「ミーヤ家」は「冨着古島」の草分けである「アガリ家」に次ぐ旧家であると考えられています。「山田ノロ」がこの家の仮屋で一泊されていたのも「ミーヤ家」が「根神」出自の家であったからであると伝わります。さらに「冨着」の古老によると「ミーヤ」は大昔に「アガリ家」から分家したと言われています。「山田ノロ」の後継が絶えてからは「冨着根神」を柱として昔から継続する「前兼久村・谷茶村・富着村・仲泊村」の四ヶ村合同祭祀を行うようになりました。「山田ノロ」が祭祀を司っていた現存する「神アサギ」を使用するのは恐れ多いため「ミーヤ家」の敷地内に「冨着根神」が祭祀を執り行う「神アサギ」が新たに建てたと考えられます。この「神アサギ」の内外部には古い霊石が現在も祀られています。(上家の屋敷跡)(富着金細工の屋敷跡)(子孫仲村の表札)「ミーヤ家」の東側に隣接した場所には「上家」の敷地跡が現存しており、かつて「神酒御願」の際に「神酒」が捧げられた集落四家の1つです。さらに「ミーヤ家」の西側の敷地はかつて「富着金細工」の屋敷があり、姓は「金城」でしたが現在は「仲村」となっています。当時は「恩納村」では有名な財産家で「アガリ家」の分家であり村の神女もこの家から出たと言われています。「富着金細工」の家は鍛冶工として財をなし「恩納村」では「前兼久・富着・仲泊・伊武部・山田」さらに「金武村」の「屋嘉」にも水田を持っていました。現在の「うるま市」の「東恩納」にある屋号「当ノ屋」から「仲泊」の水田を買った有名な話は今でも伝えられ、この水田を買い求めた資金は「屋嘉」と「山田」の水田を売却した金を元手にしたと言われています。因みに、この「当ノ屋」は「普天満宮」の洞窟に現れた「熊野権現」と名乗る仙人が「当ノ屋」に黄金(神徳)を捧げて苦難を救ったとの伝承があります。(クシヌカーへの道)(クシヌカーの遥拝所)(クシヌカー)(クシヌカーの拝所)「根神屋」から北東側に丘陵を下って行く道があり、途中に「クシヌカー」への遥拝所が設けられ、霊石が祀られています。高齢者や足が不自由な参拝者が急な斜面を下りずに「クシヌカー」を拝するように遥拝所が設置されていると考えられます。丘陵の麓まで降りると「クシヌカー」の小川が流れており、川沿いには霊石が祀られています。集落では9月15日の「井泉拝」では遠い先祖が恩恵を受けた「クシヌカー」に水の恩恵に対する感謝の祈願が行われます。「冨着古島」の草分け旧家で、源「南城市」の「玉城」に始祖を持つ「アガリ家」の南側丘陵の麓には「メーヌカー」が流れています。「井泉拝」において集落の南北に流れる2つの拝川を「玉城」の「受水/ウキンジュ・走水/ハインジュ」と重ね崇めて「冨着古島」の豊作祈願も同時に「井泉拝」の行事で祈願されていたと一説では考えられています。
2023.04.20
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(根立森の御嶽/真魂之塔)沖縄本島北部西海岸の「恩納村/おんなそん」に「真栄田/まえだ集落」があります。「真栄田公民館」がある小高い丘陵は「根立森」と呼ばれ、集落の御嶽として祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根立森 神名 カナモリイベヅカサ 真栄田村 稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。年浴、且、柴指ノ時、仙香・花米五合宛・神酒二宛、同村 百姓中 供之。真栄田巫ニテ祭祀也。』と記されています。この御嶽の祠に隣接して大東亜戦争戦死者の慰霊碑「真魂之塔」が建立されています。(御嶽の祠)(御嶽の祠内部)(御嶽の石碑)(真魂之塔の慰霊碑)(大東亜戦争戦死者の石碑)「根立森」の御嶽の北側には2016年10月9日に復元された「御願所」の祠が建立されています。この地には戦前まで祠があり集落の年中行事、旅立ち、徴兵されて戦地へ赴く際に住民が拝んでいました。当地の屋号は「ユナニ」と呼ばれ「真栄田集落」の草分け旧家として「真栄田ノロ」を輩出したと言われています。「ユナニ」の祠は沖縄戦や天災などで倒壊し、戦後の荒廃した状況の中、祀られていたウカミ(御神)は「ユナニ」の末裔により一時的にヤンバル(山原)に移動されていました。その後1958年頃にウカミは当地に戻り、仮の祠が建てられていました。現在は新しい「御願所」が建立され、内部には「ユナニ」家のヒヌカン(火の神)と「ユナニ」家から出自した「真栄田ノロ」が祀られています。(御願所)(御願所の祠内部)「琉球国由来記」には『真栄田巫火神 真栄田村 山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香・花米五合。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。年浴之時、仙香・花米五合・神酒二 百姓中。柴指・ミヤ種子ノ時、仙香・花米五合・神酒二器 百姓中。十月朔日竈廻之時、仙香・花米五合・神酒二 百姓中、供之。真栄田巫祭祀也。』と記されています。更に『神アシアゲ 同村 稲穂祭之時、シロマシ二器・花米九合・麦神酒二 百姓中、五水二合 地頭、供之。真栄田巫祭祀也。且、同大祭之時、五水二合・花米九合 地頭、神酒三 百姓中。柴指之時、神酒二 百姓中、供之。同巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(真栄田の一里塚)(真栄田の一里塚の案内板)(真栄田の一里塚)(歴史の道/国頭方西海道)(真栄田の一里塚の標識)歴史の道である「国頭方西海道/くにがみほうせいかいどう」は琉球王府時代(1429-1879年)に造られた道で、当時の主要道路として宿道(旧道)と呼ばれていました。首里を起点にし、浦添、読谷村喜名、恩納村を通り名護以北に向かう道を「国頭方西海道」と呼びます。「一里塚」は琉球王府時代から明治時代にかけて使用された宿道に設置され、旅人の道程の目安にされていました。恩納間切(現在の恩納村)には五箇所に設置され「真栄田の一里塚」は「喜名番所」から一里の場所に造られています。「真栄田の一里塚」は土と炭を混ぜ合わせた土塚で、その上部には琉球松が植栽されています。(国頭方西海道/PVに使用された十字路)「真栄田の一里塚」と「フェーレー岩」を結ぶ「国頭方西海道」の途中に農道の十字路があります。この十字路は2024年4月19日に「アジマァ」より発売されたシングル「ありがとう」のPVに使用されました。1993年、日本レコード大賞「特別賞」を受賞した「りんけんバンド」の楽曲「ありがとう」を照屋林賢がアレンジしました。30年の時を経て爽やかで瑞々しい編曲となり、照屋林賢プロデュースの沖縄音楽ユニット「ティンクティンク」によりカバーされて受け継がれました。
2024.05.31
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(スクブ御嶽)沖縄市登川の閑静な住宅地に「すくぶ公園」があり、敷地のど真ん中には「スクブ御嶽」の神山がどっしりと構えています。沖縄の公園で御嶽があるのは珍しく、公園敷地の大半を御嶽が占めている神秘的な空間に包まれています。(スクブ御嶽の石碑)赤い鳥居の左側には「スクブ御嶽」と記された石碑があります。石碑の奥には御嶽のガー(井戸)が祀られており石造りのウコール(香炉)が設置されています。スクブ御嶽のスクブとは稲の籾殻の事で、沖縄市には「三人の力持ち」という有名な琉球民話があります。(鳥居脇のウコール)昔、池原にウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーという三人の力持ちがいたそうです。三人はいつもスクブ御嶽に手を合わせて「催眠術を教えて下さい」とお祈りしてから武術の稽古をしていたので、たいそうな力持ちになり三人に勝つ者は誰もいなかったそうです。三人は稲を刈ってきたら、それをお椀に入れてつつき、食べた後の籾殻が山のように積まれたことから「スクブ御嶽」という名前が付いたそうです。(スクブ御嶽の階段)鳥居を潜り階段を登って行くと奥には拝所が見えてきます。ここから一直線に天空に延びる階段を一段一段上がるにつれて、御嶽周辺の登川地区と池原地区を見渡せる素晴らしい風景に変わって行きます。(お通し拝所のウコール)鍵がかけられた鉄格子の中には3つの石造りのウコールと琉球石灰岩で作られた古いウコールが1つ設置されていました。私は拝所にひざまづき手を合わせ、自己紹介とスクブ御嶽に訪れた理由を告げて沖縄の平和を祈りました。(拝所脇の出入口)拝所の右にも鉄格子があり、半開きながらも私を奥地へと誘い込む雰囲気を醸し出していました。私は拝所にこの先に進み見学する旨を告げて一礼し、暗闇に不気味に続く縦に細長い入り口に足を踏み入れたのです。後日、登川地区に住む方から話を聞いたのですが、この扉が開いている事は滅多になく、正月やお盆など特別な時のみ解放されるそうです。(スクブ御嶽の丘陵)扉を抜けるとそこは整備されていない亜熱帯ジャングルになっており、ここからは完全に神の聖域で非常に強いパワーが張り詰めた空気に一変しました。ガジュマル、シダ植物、多種にわたる亜熱帯植物をかき分けつつ、猛毒のハブに気を付けながら足場の悪い道なき道を少しずつ少しずつ進み続けます。(スクブ御嶽)辿り着いた場所は「スクブ御嶽」のウガンジュで、ウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの三基の石造りウコールが設置されていました。御嶽の右手前にはマース(琉球粗塩)が三つ盛られるのを確認できます。私はスクブ御嶽にウートートー(拝み)して沖縄の平和を祈りました。(お供えの沖縄粗塩)どうやら先程通過した拝所は「スクブ御嶽」のヒヌカンと考えられ、御嶽本体へのお通しの役割があると思われます。ハブがいつ出ても不思議でない無整備の亜熱帯ジャングルは足場が非常に悪く、御嶽を訪れる方々がもし足が悪かったり歳を取られていた場合、手前のお通しの拝所で祈る事が出来るのです。(御先御殿/殿内)再び入り口の赤い鳥居に戻り公園を時計回りに散策すると、山の麓の右手に「御先 御殿 殿内」と記された拝所を発見し、拝所に続く階段を登り鉄格子のある場所を目指します。(御先御殿/殿内の内部)そこには足元に大小多数の石と一つのウコールがあり、格子内部には四つのウコールが設置されていました。さらに左奥に白装束を着た白い髭の神様の絵画、中央奥には観音様の像、右奥に子供を膝に座らせて抱き抱える観音様の像が祀られていました。(御先御殿/殿内の石碑)拝所の右側を進むと石碑が建てられており「子(ネ)ぬは午(ウマ)ぬは卯(ウ)めは西(トイ)め 四チン中軸(ナカジク)や池原と登川 登川ぬ村ぬ湖金軸拝(クカニジクウガ)で 池原ぬ村ぬ波座軸(ナンザジク) 拝(ウガ)で世々といちまでん 幸(シアワ)せぬ御願(ウニゲ)」と記されています。(ウガミン登/金満宮の石碑)石碑の右奥には「ウガミン登 金満宮」と記されたもう一つの石碑と四つの石造りウコールが設置されていました。石碑には霊石が祀られています。かつて、この地に「ウガミン登 金満宮」があったと考えられます。(スクブ御嶽麓の拝所)さらに左奥に登る坂道を進むと鍾乳石の下に黒く丸い筒状の石物があり、その横にはヒヌカンのウコールが無造作に置かれていたのです。中央の黒い筒状の物体は御嶽公園入り口にある井戸跡と同じ素材と形状をしていました。これは鍾乳石から湧き出たカー(井泉)があった場所だと考えられます。(すくぶ公園の竣工記念碑)スクブ公園の北西には竣功記念碑が建てられていてスクブ御嶽の歴史が記されていました。第二次世界大戦後、登川地区はキャンプ ヘーグ(Camp Hague)と呼ばれる米軍海兵隊の基地がありました。1977年5月14日に沖縄に全面返還されましたが、それまでは基地内で小型核兵器の訓練などが行われていたのです。訓練中に兵士数人が事故で被ばくし、通常の80倍以上の濃度の内部被ばくが確認された事が報告されています。(すくぶ公園)沖縄市登川地区で生まれ育った知り合いの話では、米軍統治下のスクブ御嶽の山を海兵隊が崩そうとすると、必ず重機が倒れる原因不明の事故が連続し、海兵隊員が3名死亡したと言われています。更に、沖縄返還後に民間の工事業者がスクブ御嶽の区間整備をしていたところ、重機が突然ひっくり返る大事故が起きたとも言われています。また、スクブ御嶽周辺の住宅やアパートでは心霊現象がかなり多く、御嶽の神山に謎の青い発光体が出現する目撃情報も多数耳にします。(スクブ御嶽のウコール)これらの不可解な出来事は琉球民話に登場するウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの「三人の力持ち」がスクブ御嶽を守護している証なのか。それとも祀られた石の神様の祟りなのか。いずれにせよ、御嶽に訪れた私自身が奇妙な力により惨事に巻き込まれなかった事に感謝したいと思います。
2021.01.04
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(幸地グスク)西原町の幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上に「幸地グスク」があります。この幸地グスクが建てられた丘陵は南北に長い分水嶺で、南方は首里方面、北方は中城方面につながっています。グスクは瘤のような高地を中心として、その東西の低地に向かって伸びる尾根を利用して造られています。(ビージル)グスク内の最高地点にはビージルの祠が建てられていますが、周辺を観察するための櫓台と考えられています。ビージルの北東下は30メ一トル×30メートルほどの広さを持った曲輪となっており、この曲輪の北寄りには井戸があります。また、西方から北西にかけても幅が10メートルほどの削平地が数段造られ、居住地化されたと考えられます。(幸地グスクガー)幸地グスクの中央部の広場には「幸地グスクガー」という井戸が2基設置されていました。このグスクの注目すべき点は、峰の上を通過する「峰道」がグスク内を通過することにあります。幸地グスクは15世紀前半に造られ、その後数十年間はグスクや関所として、また戦乱期の後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性があります。(幸地按司ガー)幸地グスクの按司は「熱田子(あったし)」と呼ばれ、悪知恵が働き異常に女性にだらしない好色按司として知られていました。幸地グスクの北部にある棚原グスク按司の妻は絶世の美人だったそうで、棚原按司の妻の美しさに目を付けたのが幸地グスクの幸地按司(熱田子)でした。熱田子は棚原按司を殺して棚原按司の妻を奪おうと企んだのです。夫を殺された棚原按司の妻はグスクを逃げ出すが熱田子に執拗に追いかけられ、遂に捕まってしまいます。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌を噛み切って自害したと伝わります。(グスク上門ガー)熱田子はこの悲劇を反省するどころか、間もなく幸地グスクの南側に隣接する津喜武多(チチンタ)グスクの按司の妻に色目を使いだします。津喜武多按司と親交を結んで仲がよい間柄になりましたが、熱田子の真の目的は津喜武多按司の妻の美貌に惚れ込み横恋慕していたためだと言われています。(熱田橋)ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰りに津喜武多按司の妻が亭良佐川(ティラサガー)で艶やかな黒髪を洗っているのを発見すると泥土を投げていたずらしました。妻は非常に立腹しそのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭したものの、何しろ熱田子はあなどり難い力を持っています。その場は取りあえずは兵を動かすことなく機会を待つことにしました。(幸地按司墓の入口)その一方で、熱田子は腕が立つ腹心の部下数人を密かに呼び「今こそ此の機会を利用して、早目に手を打ち災いを取り除いてしまおう」と策略を練ったのです。熱田子は部下達と共に津喜武多按司を訪問し、今回のことは行き違いによるものだと上手く説明して謝りました。按司は相手の丁重な謝罪を受け入れ、直ぐさま仲直りのための酒宴を催し歓待することになりました。(幸地按司墓の森)宴もたけなわになった頃、熱田子が津喜武多按司に向かって「按司殿は世に優れた宝剣をお持ちとお聞きしております。以前から、是非とも一目拝見させて頂きたいと思っておりました。」と申し出たところ願いが許されたのです。按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に熱田子は按司を一刀両断に斬り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片っ端から皆殺しにしたのです。(幸地按司墓)これは幸地グスクの北東にある山の中腹に佇む「幸地按司(熱田子)墓」です。さて、津喜武多按司を殺害した熱田子は思いを寄せてきた美しい妻を色々と説き伏せようとあれこれ試みましたが、貞節な妻は夫殺しの熱田子を憎みながら井戸に身を投げ自害したのです。妻と遠縁の上に按司と仲が良かった今帰仁按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒し、自ら討伐するため大軍を率いて直ぐさま出陣したのでした。(幸地按司墓)熱田子は敵の軍勢が到着するなり自ら今帰仁按司を出迎え、平身低頭して自分の罪を認めて謝り、今帰仁の大軍を自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は大々的に酒の席を設け、遙々やってきた遠征をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は勝ち戦だと有頂天になり、夜が更けるのも忘れ思う存分に酒を飲み御馳走をたらふく食べました。熱田子は事前に自分の軍兵を城の近くの北山に待機させていました。合図によって熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆ど応戦することも出来ずに、難なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして、今帰仁按司も討ち死にしました。(チチンタグスクの入口)熱田子の策略により自害した今帰仁按司には四人の息子達がいて、その四人は堅く仇討ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に不意をついて熱田子を急襲したのでした。流石に戦国の世にずる賢く名をはせた熱田子も遂に討ち亡ぼされ、四人の息子達は熱田子を倒して見事に津喜多按司とその妻、棚原按司とその妻、そして父親と今帰仁兵士達の仇を討ったのでした。(チチンタグスク)奇しくも熱田子の墓は直ぐ南側に位置する津喜武多グスクに向いています。天罰が下って殺害された熱田子は、死んでからも自分の墓から愛しの津喜武多按司の妻が暮らしたグスクを静かに見つめているのです。熱田子の墓と津喜武多グスクの間に流れる小波津川に「安津田橋」が掛かっており、津喜武多グスクに隣接する安津田集落の名は「熱田」の名が由来していると思われます。そう考えると非常に気味が悪くなり、執拗に好みの女性を追いかける熱田子の荒んだ執念に強い恐怖を感じます。(幸地按司墓)「幸地按司(熱田子)墓」は墓石の周辺だけ藪蚊の大群が飛び回り、私の腕や顔に異常なほどに噛みつき吸血し始めました。更に、この日は無風の快晴の天気にも関わらず、墓上の木々はバリバリと爆音をたてながら枯葉が大量に吹き荒れていたのです。まさに、未だ成仏しきれない熱田子の悪霊が墓の周辺を蠢いて、私の訪墓を沸々と拒絶しているように感じました。
2021.01.26
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(伊計大橋)うるま市に勝連半島から海中道路で繋がれた平安座島と伊計島の間に「宮城島」があります。宮城島は「タカハナリ(高離)」の名称でも知られており、写真は伊計島の入り口に掛かる伊計大橋から見た宮城島です。宮城島は「池味(いけみ)」「上原(うえはら)」「宮城(みやぎ)」「桃原(とうばる)」の4つの大字で構成されます。池味集落は島北東の漁港近くに、そして桃原集落は島南部の平坦な低地に位置しています。(桃原のウブガー)平安座島から宮城島に入ると桃原集落があり、桃原は琉球王府時代に首里の氏族等が移り住んで形成された宿取り集落です。この「桃原のウブガー」は桃原集落唯一の井戸で「ムラガー」や「共同井戸」と呼ばれています。昔は子供が産まれると、ここの水を産湯に使用していました。1876年(明治9)年に造られ、旧暦の元旦には若水を汲んで先祖に備え、一家の健康と繁栄を祈願してお茶を沸かして飲みました。(桃原のお宮)「桃原のお宮」は「桃原守護神」と呼ばれ、集落の各家の家族や親族は旧暦1月1日のハチウガン(初御願)、ジューグスージ(十五祝い)、旧暦9月9日の菊酒、旧暦12月24日のトゥミウガン(止め御願)の日に祈ります。また、桃原集落には「トウバルナンダギー(桃原南嶽)」と呼ばれる伝統の琉球古典舞踊が大切に継承されています。宮城島には次の琉球歌謡(おもろさうし)が残されています。「聞ゑ宮城(みやくすく) 選び出ぢへの真金(まかね) 島踊(しまよ)りや 勝り 鳴響(とよ)む宮城」"名高く鳴り響く宮城島よ 選び出された真金神女の島踊りは見事である"(ゴリラ岩)桃原集落の東側に「ゴリラ岩」があります。砂が堆積して形成された知念砂層と呼ばれる露岩(岩石)です。宮城島では親しみを込めて「ゴリラ岩」または「ライオン岩」といった愛称で呼ばれています。泥岩、凝灰岩、砂岩、石灰岩が重なった地層になっていて、筋状に見えるのはノジュール(団塊)と呼ばれ石碑などの材料に使われています。(タチチガー)宮城島の北部に「池味(いけみ)集落」があります。沖縄の方言で"イチミ"とも呼ばれており、18世紀の初めの頃に島外からも人々が移り住みました。池味集落の中心部にある「タチチガー」は中城ウメーという人により池味集落で初めて発見された湧水です。村ガー(共同井戸)として上(イーヌカー)は主に飲料水、下(シチャヌカー)は溜池で洗濯などの生活用水等に利用されていました。因みに、タチチガーの湧水にはザリガニが多数生息していました。(魔除けの石柱)タチチガーの東側にある「魔除けの石柱」です。沖縄の各地にはT字路の突き当りに「石敢當」などの文字が刻まれた魔除けの石碑や石標が設けられていますが、宮城島では魔除けの石柱や霊石が集落の至る所に設置されています。この「魔除けの石柱」は「石敢當」のようにT字路の突き当たりではなく、十字路の角に設置されていていました。もともとT字路だった場所が後に十字路になったのか、もしくは宮城島だけに伝わる魔除け方法に基づいているのか、未だに謎は解明されていません。(イークン御嶽)「イークン御嶽」は南山王の他魯毎の四男と上根(イークン)家の娘の間に出生した子孫を祀っていると言われています。池味と上原の2集落の神事の中心的な場所で、現在でも上原集落のノロ(神女)は「イークン御嶽」をまず先に拝んでから各地にある拝所での行事を巡ります。(ウンチカー)尚巴志に滅ぼされた南山王国最後の国王の他魯毎と家臣が宮城島の上根(イークン)グスクに逃亡したという言い伝えがあります。この井泉は「イークン御嶽」から西の山中にある「ウンチカー」です。他魯毎は民衆や按司たちに対し酷薄な王であったと言われており、尚巴志に南山の貴重な水源であった嘉手志川と金の屏風との交換を持ちかけられると何の考えなしに了承してしまい、金の屏風と引き換えに嘉手志川を利用していた人々の信望を失ったと言われています。(南グスクの入り口)イークン御嶽の北側に「南グスク(ナングスク)」があります。南山から逃れた宮城按司はイークン山に住んでいましたが、後に南グスクに移ったと言われています。南グスクには今でも自然の岩を利用した城門跡や石垣などが残っています。南グスクの入り口には琉球石灰岩の階段がありました。(ナンガー)入り口の石段を登り切ると石灰岩と亜熱帯植物か生い茂る森道に変わります。まず初めの二股に分かれた道を左に進むと「ナンガー」と呼ばれる井泉がありました。沖縄の線香であるヒラウコー(平御香)が供えられていました。水の神様を拝む24本の火をつけない線香(ヒジュルウコー)が残されていたので、旧正月に集落のカミンチュ(神人)が拝していた事が分かります。「ナンガー」はナングスクの貴重な水源として昔も今も大切にされていると考えられます。(南グスクの按司火ヌ神)先ほどの二股に道が分かれた場所に戻り、右に進んで自然岩の城門を抜けると「南グスクの按司火ヌ神」が現れました。このヒヌカンはグスクへの"お通し"の役割を持つウガンジュ(拝所)で、内部には霊石とウコール(香炉)が設置されています。私はお賽銭と共に自己紹介とナングスクを訪れた理由を告げ、手を合わせてウートートーしました。(宮城按司とその妻の墓)「南グスクの按司火ヌ神」から先に進むとグスク中腹に再び二股に分かれた道が出現しました。左に行くと巨大な岩が重なり合う神秘的な空間があり、二股の道を右に進み更にグスクを頂上近くまで登ると「宮城按司とその妻の墓」がありました。それぞれの墓にウコールが設置されており、宮城按司夫妻は仲良く寄り添いながら安らかに永眠している雰囲気が佇んでいました。(クカルンダガー)「南グスク」を後にして次に向かったのは宮城島北部にある池味漁港です。池味漁港周辺にはマングローブ群が広がり、マングローブの森に豊かな水源を供給するのがこの「クカルンダガー」です。池味集落と伊計島の間に隆起した丘陵の麓にひっそりと佇む「クカルンダガー」には蛙が多数生息していて水質も透き通った神水となっていました。(クカルンダガーのウコール)「クカルンダガー」の井泉にはウコールと巻貝殻が供えられており、非常に神聖な水源として崇められています。「クカルンダガー」の場所を見つける際に、うるま市が発行する資料を元に探し求めていたのですが、間違った地点が記載されており暫く浜を彷徨ってしまいました。浜に隣接する防波堤内部にはマングローブ群が広がり、そこに丘陵の麓沿いに進む暗く細い通路を発見したのです。その通路を進んだ結果、偶然に発見したのが「クカルンダガー」でした。(西原村の浜入り口)さて、宮城島には有名な「ウミガメ伝説」が伝わります。約250年前、上原集落に漢佐伊(カンサイ)という60歳余りのお爺さんがいました。ある日、サバニ(舟)で具志川に行った帰り急に舟が転覆し、宮城島から約6キロの沖で漂流してしまいました。その時、突然ウミガメが現れてお爺さんを背に乗せて宮城島西原村の浜まで送り助けてくれました。(西原村の浜)この浜はウミガメがお爺さんを送り届けたとされる西原村の浜です。この浜の周辺は「西原遺跡」が広がり、かつて西原村があった場所と考えられます。西原遺跡の山から流れ出る湧水がこの浜に流れ出しています。ウミガメに助けられたお爺さんは湧水を飲んで上原集落まで無事に帰る事が出来たはずです。(池味自治会の案内板)宮城島「桃原/池味集落」には豊富な水源の井戸や遺跡文化財が数多く点在しています。また、琉球石灰岩の石垣に囲まれた琉球赤瓦屋根の古民家も多数立ち並んでいて、古の沖縄にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。さらに、集落内は細い路地が多く車を停める場所を探すのが困難な中、見ず知らずの私に民家の敷地を駐車場として快く貸してくれた宮城島のオジーやオバーに心から感謝したいと思います。
2021.02.15
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(宮城島の宮城御殿)うるま市宮城島の中心部に「宮城集落」と「上原集落」が東西に隣接しています。宮城集落にある「宮城御殿(ナーグスクウドゥン)」は通称"カミヤグワー"と呼ばれていて、「観音堂」の呼び名でも親しまれています。一説には北山系の按司を祀っているとも言われています。昔、泊グスク近くのトゥマイ浜に大木が漂流しているのを知った村人が、総出で大木を引き上げようとしましたが全く動きませんでした。(宮城御殿/ナーグスクウドゥン)神のお告げを聞いた喜屋原ユタハーメーが「ノロ(神女)の仲泊ハーメーが音頭を取らなければ動かない」と言うので、仲泊ハーメーが大木に乗り音頭を取ると、不思議にも簡単に陸揚げする事が出来ました。村人はこの大木で現在地に神殿を造り、宮城集落の守護神として信仰してきたのです。(宮城ヌル御殿)宮城御殿の向かいには「宮城ヌル御殿」が建てられいます。沖縄のノロ(神女)はヌルとも呼ばれ「宮城ヌル御殿」には喜屋原ユタハーメーや仲泊ハーメー、更には宮城集落の歴代のノロの魂が祀られています。浜に漂着した神木一本で建てられた宮城御殿は、特に幼児の健康や発育に特にご利益があり、旧暦1月18日には「ウクワンニンウガミ」(御観音拝み)が行われ、島内外から沢山の参拝者が訪れます。(地頭火ヌ神)宮城中央公園内に「地頭火ヌ神」があり、琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を地頭火ヌ神と言います。火ヌ神(ヒヌカン)の祠には3つの霊石が祀られており、宮城集落の村人を厄災から守り健康を守ってくれる神様として崇められているのです。(世持神社)宮城御嶽の東側には「世持神社」があります。「世持(よもち)」とは沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味があります。「世持神社」農耕の神様で宮城集落の村人は五穀豊穣を祈り、収穫された農作物を神社に捧げて神に感謝しました。(泊グスク)宮城集落の東側、宮城島の北東に「泊グスク」がひっそりと佇んでいます。標高37.4メートルの琉球石灰岩の大地上に作られたグスクで、グスク内や周辺からは琉球グスク時代に属する輸入陶磁器や土器などが発掘されています。泊グスクは別名「トマイグスク」や「隠れグスク」とも呼ばれています。(泊グスクの階段)「泊グスク」の入り口から一直線にグスク中腹に登る階段があります。1322年、後北山王国の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた今帰仁グスクの仲宗根若按司の末っ子である志慶真樽金の一族が、宮城島に逃れた後に「泊グスク」を築いたと伝わります。また「泊グスク」は伊計グスクとの抗争に負け、生き残った樽金の子孫は後に「宮城村」を作ったと言われています。(泊グスクの中腹)グスク入り口の階段を登ると、グスク南側の琉球石灰岩の壁沿いに進む道が続いています。グスク内には拝所があるようで、年に数回ほど宮城集落のノロ(神女)が拝みに訪れて崇め敬われています。また、無闇に肝試しや遊び半分で立ち入ると厳しい神罰が下ると言われているので、普段から立ち入る者がいない「神山」となっているそうです。(アガリ世ヌ神)そんな畏怖の念を起こさせる「泊グスク」の奥地に、私は一歩一歩ゆっくりと足を進ませて行きました。深い森の内部に入ると辺りが薄暗くなり始め、ゴツゴツした琉球石灰岩と亜熱帯植物が行方を困難にさせて行きます。しばらく暗い細道を進むと突き当たりに拝所を発見しました。「アガリ世ヌ神」(アガリの御嶽)と呼ばれるウガンジュ(拝所)でウコールと霊石が祀られていたのです。(按司ヌメーの御嶽)「アガリ世ヌ神」の少し手前に更に細く薄暗い道があり、行き止まりかどうか半信半疑のまま足を踏み入れました。すると急に張り詰めた空気に一変し、四方八方から数多くの"何か"に見詰められている気配を強く感じたのです。私は恐怖心に襲われないよう、必死に森に話しかけながら心を落ち着かせて平常心を保ちました。そこから数十メートル先の突き当たりに「按司ヌメーの御嶽」が私を待ち受けていたのです。御嶽には巻貝殻やウコールが設置されていました。(上原集落のヤンガー)「按司ヌメーの御嶽」にお賽銭を供えて手を合わせて拝み、神罰が当たらない事を望みながら私は「神山」の泊グスクを後にしました。さて、琉球石灰岩と第三紀層泥灰岩(クチャ)の地質で成り立つ宮城島は、雨水を保水する理想的な地形で多くの湧き水があります。上原集落の「ヤンガー」は宮城島で一番の湧出量を持ちます。(ヤンガーの井泉)上原集落と宮城集落の村人の飲水としてだけでなく、毎年正月の若水や赤子が産まれた時の産水としても使用されており、日常生活に欠かせない貴重かつ神聖な水源となっています。「ヤンガー」は1849年に間切の地頭代が他の役人や住民と共に造られました。この改修工事の功績を称えた琉歌があり「やんがはいみじや いしからるわちゆる よなぐすくうめが うかきうえじま(ヤンガ走い水や 石からどぅ湧つる 与那城御前が 御掛親島)」と記された歌碑が建てられています。(上原ヌン殿内)「ヤンガー」から程近い場所に「上原ヌン殿内」があります。集落の祭祀を司る最高位のノロ(神女)はヌンと呼ばれ、ヌンの住居を「ヌン殿内」といい、ヌンや他の神人がウマチー(村の五穀豊穣や繁栄を祈願する祭り)などの祭祀を行う場でもありました。「上原ヌン殿内」の敷地には数本の魔除けの石柱が設置され神秘的な雰囲気を醸し出しているのです。(高離節の歌碑)上原集落の南西側にある「シヌグ堂遺跡」には「高離節の歌碑」が設置されています。歌碑には「高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばうれ」と記されています。歌の作者は近世沖縄の和文学者として名高い平敷屋朝敏の妻である真亀(まがめ)と伝わっています。歌は「高離島(宮城島)は様々なことを教えられるところです もう十分に思い知ることができました 私の生まれ育った地に願わくば 命あるうちに帰りつけますように」という意味で、悲劇的に宮城島に流刑された真亀の複雑な心情が歌われています。(シヌグ堂遺跡からの絶景)真亀は夫の平敷屋朝敏が薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで政治犯として処刑され士族から百姓に落とされました。夫が悲劇の死を遂げ島流しにあう辛さ、寂しさと貧しさに耐えながら、優しく接してくれる島の住民への感謝の念と故郷への思いを募らせる真亀の心情が「高離節」の歌に込められています。「高離節の歌碑」は絶景が広がるシヌグ堂バンタに建てられています。(宮城島の浜)宮城島は面積が5.5kmで周囲が12.2kmの小さな離島でありながら、宮城、上原、桃原、荻堂の4つの集落に多数の遺跡文化財や井泉が点在しています。更に縄文時代、グスク時代、琉球王国時代、そして現代へと歴史の移り変わりの中で激動の時代を生き抜いてきました。現在でも石垣が積まれた琉球古民家が多く残り、優しい島人は生まれ育った宮城島を誇りに思いながら、伝統行事を大切に守り後の世に継承してゆく事でしょう。
2021.02.16
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(ウッカガー)「金武/並里集落」は沖縄本島中央部の東海岸に位置し、金武湾に面して対岸に勝連半島、平安座島、宮城島、伊計島を望む地域にあります。「金武/並里集落」の北側は恩納岳連山を挟んで恩納村と接し、面積の約60%を米軍基地(キャンプ・ハンセン)が占めています。「金武/並里集落」は水源豊富な井泉に恵まれ、沖縄貝塚時代の古代より人々の平穏な暮らしがありました。(ウッカガーの赤瓦屋根)(ウッカガーの正面)「並里集落」に金武町指定文化財に登録される「ウッカガー」の井泉があり「金武大川」の名でも知られています。「ウッカガー」は琉球石灰岩の多孔質を基盤とした地下水の湧き出た代表的な井泉です。大正13年に衛生上の見地から用途別に区切り、井泉口の根を飲料水、男女別の水浴場、洗濯場、芋洗場を設けて構築され住民に重宝されたのです。(長命の泉の石碑)この井泉は上水道が普及する以前は「並里集落」の住民の飲料水であり、元旦の若水を汲み、夏には水浴を楽しみ、また地域住民の出会いの場でもありました。井泉は干ばつ時にも渇水せず豊富な湧水量は1日に1000トンを超え、先人より継承された清水は石碑に示された「長命の泉」を象徴しています。(ウッカガーの火の神)(金武大川鍾乳洞)「ウッカガー」の井泉の丘の中腹にヒヌカン(火の神)の祠がありウコール(香炉)が設置されています。「ウッカガー」の守り神であり水の神が祀られています。ヒヌカン(火の神)から更に丘を登ると「金武大川鍾乳洞」があり、豊富な水源を生み出す土地の神が祀られています。鍾乳洞の入り口にはウコール(香炉)が設置されており拝所として聖域となっています。(キンタガー/飲料水井戸)(キンタガー/水浴場)金武町指定文化財に登録されている「キンタガー(慶武田川)」は「並里集落」南東の端に位置し、周辺地域は並里集落発祥の地とされています。湧き出る水は夏場でも枯れる事なく、井戸は飲料水井戸、男女別の水浴場、洗濯場、芋洗場に分かれています。飲料水用の井戸には10箇所程から豊富な水が勢い良く流れ出していました。(キンタガー/芋洗場・洗濯場)(神泉の石碑/ビジュル神)上水道が普及する以前は周辺住民の飲料水であり、洗濯や水浴の他にも夕涼の場としても住民の生活に根付いていました。現在でも井泉は農業用水として大切に利用されています。キンタガーには「神泉の石碑」と「ビジュル神」が祀られており、それぞれウコール(香炉)が設置された拝所として地域住民が豊富な水源に感謝して水の神に祈っています。(ティダガー森林公園)「金武集落」の金武町立金武中学校西側に「ティダガー森林公園」があります。南北に400メートル、東西に100メートルに広がる森林公園には3つの井戸が拝所として祀られています。公園には南北にせせらぎが流れており、種類が豊富な亜熱帯植物のジャングルになっています。御嶽のように神聖な雰囲気を醸し出し、神が住む聖域と呼ぶに相応しい深い森に包まれています。(ナーカヌカー)「ティーダガー森林公園」にある3つの井泉のうち一番北側に「ナーカヌカー」があります。嘉陽層の谷筋を掘ったカー(湧水)で、現在も香炉があり旧正月のカーウガン(井戸の拝み)でティダガーの参道から遙拝されます。以前は周辺住民の飲料水や洗濯等生活用水に使われていました。今でも水量が非常に豊富で「ナーカヌカー」の学習広場は湧水で溢れていました。(ティーダガー)「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味します。「ティーダガー」は嘉陽層の谷筋を掘ったカー(湧水)で、香炉が設置されており金武集落の金武地区、並里地区、他の地区の人々が信仰の対象として拝んでいます。旧正月に「ティーダガー」の水を含んだ土を持ち帰り、豆団子にして額に付けるミンナデ(水撫で)の儀式が行われていました。「ティーダガー」の水は飲料水に使われる事はなく、信仰の対象として崇められていました。(ミーガー/ジョーガー)(ミーガー/ジョーガー)「ミーガー/ジョーガー」も嘉陽層の谷筋を掘ったカー(湧水)で隣接し合った井泉です。今となってはその位置関係を明確に知る事は出来ませんが、小さなサークダー(谷底の田んぼ)の水源の他にも飲料水や生活用水として使われていました。近隣住民の子供達の絶好の遊び場で水浴びの姿がよく見られたそうですが、現在は井泉の拝所として拝まれています。(モーシヌ森公園の神アサギ)「並里集落」の東部に「モーシヌ森公園」があり神アサギが建てられいます。かつてこの森に「ヌンドゥンチガー」と呼ばれる井泉とノロ殿内がありました。戦前は金武ノロが拝み祭祀の行事をする場所であった事から、公園整備の際に現在の場所に「神アサギ」が移されました。また、琉球王国時代にはこの地にウトゥンヤーシキ(御殿屋敷)があったと伝わっています。(神アサギの御嶽神)(神アサギのビジュル神)モーシヌムイ(モーシヌ森)は御嶽の森として崇められ、神アサギの内部右側には「御嶽神」が祀られています。左側には「ビジュル神」が祀られており、天地海を意味する3つの霊石とウコールが設置されています。明治時代までは「並里集落」の女性達による祭祀舞踊のウスデーク(臼太鼓)が神アサギにて奉納されていました。(モーシヌ森公園の川神)モーシヌ森にかつてあった「ヌルドゥンチガー」や、かつて御嶽の森から湧き出ていた井泉を祀る「川神」の祠があります。「金武/並里集落」では水の恵みに対する神への信仰心が非常に強く、住民は豊かな水源に感謝して生活してきました。湧水が出る森や御嶽も多く存在し「金武/並里集落」の人々の生活根源である水源は、これからも未来永劫と平和を象徴するように湧き続ける事でしょう。
2021.05.02
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(神アサギ/ウイヌアサギ)沖縄本島北部の「今帰仁(なきじん)村」の東側に「湧川(わくがわ)」集落があります。「琉球国由来記(1713年)」には今帰仁間切の地頭代が「湧川大屋子」とあり、1738年にこの集落が創設された際に「湧川」と名付けられたと伝わります。「湧川集落」の祭祀行事は北側にある「勢理客集落」の「勢理客ノロ」の管轄になり「勢理客・運天・上運天」の3つの集落と共に祭祀が執り行われるようになりました。「湧川公民館」の敷地に「ウイヌアサギ」と呼ばれる「神アサギ」があり五穀豊作の感謝と子孫繁栄を祈願する「ウプユミ(大折目)/ワラビミチ」の際に「勢理客ノロ」やカミンチュ(神人)により拝されています。(神アサギの内部)「神アサギ(ウイヌアサギ)」はノロや神人による祭祀が行われる聖域で、内部にはタモトギとウコール(香炉)が祀られています。現在も大切に継承されている「ウプユミ(ワラビミチ)」は「今帰仁村」の年中行事で最も重要な祭祀で、旧盆あけの亥の日に執り行われます。まず「勢理客ノロ」や神人を「湧川集落」の「神アサギ(ウイヌアサギ)」で待ち「勢理客ノロ」と神人が「神アサギ(ウイヌアサギ)」に向かう前に集落の子供達が太鼓を五回を打ちます。そして「勢理客ノロ」と神人のウガン(御願)が終わると、再び太鼓を五回打ち鳴らし「神アサギ」での祭祀は終わります。(新里屋)(新里屋の敷地内にある祠)(祠内部の火の神と女神図像)(新里屋の仏壇)次に「勢理客ノロ」と神人は「神アサギ」の南西側にある「新里屋」でウガン(御願)を行います。「新里屋」は「湧川集落」の発祥に関わった「根屋(ニーヤ)」であり「北山王統」の血筋を継ぐ一門だと伝わっています。「新里屋」の敷地内には祠があり内部には三組の霊石/石造りウコール(香炉)、更に一組の女神図像/金属製ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。「天孫氏二十三世」の弟の長男が「孫太子(開山長老)」六男が「今帰仁王子」で、その長男である「兼松金王」が「三代北山王」を継ぎました。この「三代北山王」の跡目を代々継承してきたのが「新里一門」となります。因みに「孫太子(開山長老)」が「新里屋」を建てた人物だったと伝わっています。(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)「新里屋」の仏壇には図像が3面、位牌が8柱、ウコール(香炉)が10基祀られています。向かって左から「千手観音菩薩図像」「家族図像/北山大按司の位牌」「開山長老図像/孫太子大君の位牌」「ミルク(弥勒)像」「今帰仁之子思次郎/今帰仁按司樽金/北山王子松金/北山王亀寿の位牌」「思次良湧川按司/長男樽金湧川按司/北山世主/帰真/霊位/樽金湧川按司/養子の位牌」「湧川奴留之元祖の位牌」「新里大主の位牌」「新里筑登之/新里親雲上/新里筑登上/新里里之子/新里親雲上の位牌」「新里新光/新里新松/カマダ/新里親雲上/次良新里親雲上/武樽新里/新里親雲上の位牌」がそれぞれ祀られています。更に仏壇の1番左側には「勢理客ノロ」が祭祀に使う弓があり、1番右側にある火の神には霊石とウコール(香炉)が2基づつ祀られています。(新里屋の火の神)(奥間アサギ/ヒチャヌアサギ)(奥間アサギの火の神)「新里屋」での御願(ウガン)を終えた「勢理客ノロ」と神人は次に「湧川公民館」の脇にある「奥間アサギ(ヒチャヌアサギ)」を拝し、集落の子供達により太鼓が五回打たれた後に「勢理客集落」へ向かいます。「奥間アサギ」は「湧川集落」の「神アサギ」ではなく「勢理客ノロ」の男方の旧家で、一般的な「神アサギ」とは異なり小屋の内部に旧家の火の神が祀られています。かつて「湧川集落」では神人の跡継ぎがなくなり、祭祀の継承が絶たれる運命にありました。その時に男方に繋がりを持つ「勢理客ノロ」の管轄になったと伝わっています。そのため「湧川集落」では「神アサギ」に類似した「奥間アサギ」が現在でも残され、ウガン(御願)の対象として大切に拝されているのです。
2022.03.18
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(大城家/屋号ウフジュクの神アサギ)沖縄本島の北部の「本部町」に隆起珊瑚礁で形成された「瀬底島」があり「島尻マージ」と呼ばれる土壌が分布しています。「瀬底島」の中央部に「瀬底集落」があり、この集落の草分け旧家である「大城家/屋号ウフジュク」の屋敷に「神アサギ」が建立されています。「大城家」の「ムートゥヤー/元屋」である「大底門中」の先祖が「瀬底島」に移り住んだ15世紀中頃には島の先住民が暮らしていましたが「北山監守今帰仁按司」の子孫で武力と統治力のある「大城家」により島は支配されたと伝わります。「大底門中」は現在も集落の「ニーヤー/根屋」としてウフシヌヘー、ノロ、神人などを出し、島の祭祀の中心的役割を担っています。この「大城家」の屋敷の東側に神を迎えて招宴する「神アサギ」があり、内部には神の依代である「タムト木」と呼ばれる丸太が祀られています。「神アサギ」での祭祀の際にはこの「タムト木」の上に線香を供えて祈願します。(大城家のカミヤー/神屋)(カミヤーの仏壇とヒヌカン)(カミヤーのトゥクシン/床の神)(カミヤーの仏壇)「神アサギ」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『麦・稲三祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、線香 巫、花米九合・神酒弍・五水五合・肴壱器 百姓。芋祭之時、仙香 巫、蕃薯三器・神酒弍・肴壱器 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記されています。「大城家」の敷地内で「神アサギ」の東側には「カミヤー/神屋」があります。仏壇には『大城親雲上・大城筑登之・内城按司・内城大主・内城按司女神・内城按司祝女・七之ウミナイビ乳母・七代先祖・八代先祖』などの位牌が建立されており、仏壇の左側には「ヒヌカン/火の神」の霊石が三体祀られています。「カミヤー」の中央には「大城家/大底門中」の先祖である「ウチグスク/内城按司」と考えられる人物を描いた掛軸と刀が飾られており、向かって右側には「寿」と記された木彫りの扇子が二面据え置かれています。(大城家の鳥居)(大城家のニーヒヌカン/根火神)(ニーヒヌカン/根火神の祠内部)(アシビモー/遊び毛/フチャムイのガジュマル)「神アサギ」の北側に面して「ニードゥクル/根所」と呼ばれる赤瓦屋根の祠があり「ニーヒヌカン/根火神」が祀られています。この祠は「大城家」の屋敷東側に建立されているため「大底門中」の「ヒヌカン/火神」であると考えられています。旧暦2月の麦の豊作祈願で麦の初穂を供える「2月ウマチー」と、旧暦5月の粟の穂を供えて粟の豊作祈願と集落の住民の健康祈願を行う「5月ウマチー」でウフシニヘーやノロなどの神人が「ニーヒヌカン」を拝します。また旧暦3月の麦の豊作に感謝しウブク(ご飯)・酒・カティムン(おかず)・線香を供えて祈願する「3月ウバングミ」と、旧暦6月に粟の豊作を感謝しウブク・酒・カティムン・線香を供える「6月ウバングミ」でもウフシニヘーやノロなどの神人により祈願が行われます。「大城家」の東隣には集落の踊りが行われる「アシビモー/遊び毛」があり「フチャムイ」とも呼ばれています。旧暦8月15日の「シシウグヮン/獅子御願」では「アシビモー」に獅子を安置し「ヤナカジゲージ」と呼ばれる「ヤナムン/悪霊」祓いの祈願をします。(若狭松御願/ワカサマチウガン)(若狭松拝所の石碑)(若狭松御願/ワカサマチウガンの祠内部)「大城家」の「神アサギ」から西側の場所に位置する「ウチマンモー」と呼ばれる広場に「ワカサマチウガン/若狭松御願」の拝所があります。その昔、この一帯に青々とした立派な松の木があった事からこの名前が付いたと伝わります。「ワカサマチウガン」の祠内部には石造りウコール(香炉)が2基と鉄製のウコールが1基祀られており、この拝所には『若狭松拝所 一九六三 . 八 . 廿五 .』と記された石碑が建立されています。「ワカサマチウガン」は「瀬底集落」の年中行事で悪風祓いと農作物の豊穣、さらに村人の健康と村の繁栄を祈願を兼ねた「ウフユミシヌグイ」の6日目に拝されます。この行事は一年で最も重要な祭祀で旧暦7月18日から24日の1週間に渡り行われます。この拝所は「瀬底の七門中/大城・上間・仲田・湧川・仲原・仲程・奥原」の「仲田門中」と深い関わりがあると言われています。(御天竜神地の拝所)(御天竜神地の石碑)(御天竜神地のウコール)旧暦7月23日の「ワカサマチウガンの日」の午後、神人および「仲田門中」の人々が「ワカサマチウガン」の拝所に集まり、重箱(仲田門中)・おにぎり・酒・シブイ(冬瓜)の薄切・刺身の味噌和え・線香を供えて祈願します。「ワカサマチウガン」に隣接して「御天竜神地」の拝所があり大小無数の石が積まれています。『御先 御天竜神地 ニライカナイ』と刻まれた石碑が建立されており、石造りのウコールと数個の霊石が祀られています。『御先/ウサチ』は「アマミキヨ・シネリキヨ」の琉球開闢の世の中である「御先の世/ウサチユー」を意味し『御天/ウティン』は「天」を指します。琉球神道に於ける主神は遥か東の海の彼方に存在する「ニライカナイ/理想郷」に住む神であり、この海の神こそが「龍宮神」であると信じられています。この拝所は海の神に通じる聖域であり、航海安全や豊漁祈願が行われる「地/ジーチ」として崇められています。(慰霊塔)(慰霊塔)(刻まれた戦没者名)更に「ウチマンモー」の南側には昭和32年に建立された「慰霊塔」があり沖縄戦で戦没した軍人・軍属の御霊を祀り、毎年6月23日の「慰霊の日」に「慰霊祭」が執り行われています。1944年(昭和19)10月10日の「十・十空襲」では「瀬底島」と沖縄本島の「先本部」の海峡に停泊していた潜水母艦「迅鯨/じんげい」がアメリカ軍の攻撃により沈没しました。この空襲により「瀬底島」の民家と学校が消失し島民1人が死亡し、翌年の1945年(昭和20)4月22日、アメリカ軍は「瀬底島」に上陸したのです。沖縄戦に於いて「瀬底島」出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となりました。戦時中「本部町」の住民は「名護市」の「久志・辺野古」の収容所に移動させられましたが「瀬底島」の住民は収容されなかったと伝わります。この理由として「瀬底島」の主要な人物が島の学校を再建する事を条件にアメリカ軍と交渉して島民は収容所への移動を免れたと言われています。
2023.06.05
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(ノロ墓)沖縄県うるま市に「神の島」と呼ばれる「浜比嘉(はまひが)島」があります。約2キロ平方メートルの小さな島には琉球開闢の祖アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)の夫婦神が暮らしたと伝わる鍾乳洞窟、アマミチューの墓、小高い丘のグスク、更に30ヶ所を超える御嶽や拝所が点在します。勝連半島から海中道路を利用して「平安座島」から浜比嘉大橋を渡ると「浜比嘉島」に到着します。「浜比嘉島」の入口のT字路を右に進むと「浜集落」、左に進むと「比嘉集落」があります。「比嘉集落」に向かう海沿いの道を進み「アマミチューの墓」の小島の手前に「ノロ墓」の標柱が立っているのが確認出来ます。(ノロ墓の入り口)(ノロ墓入り口の厨子甕)(ノロ墓の鳥居)この神秘的な「浜比嘉島」の「比嘉集落」には代々の「比嘉ノロ」が葬られた古墓があります。「ノロ(祝女)」とは沖縄本島や奄美群島の公的司祭者としての神女の事で、一つの集落ないし数集落の祭祀組織を統率していました。ノロの語源は「祈る、祈る人、神の意思を述べる人」などの意味で9世紀頃から人々の生活と共に存在していました。琉球石灰岩の石段を登ると鳥居が現れ、その先に「ノロ墓」が佇んでいます。この「ノロ墓」の周辺にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯植物が生い茂り、木漏れ日が神秘的な雰囲気を醸し出しています。「ノロ墓」の入り口には遺骨を収納する厨子甕が置かれており、琉球石灰岩の岩門を通り抜けて石段を登ると「ノロ墓」の鳥居が現れます。(ノロ墓)(ノロ墓の斜め上にある古墓)(ノロ墓の崖下にある古墓)鳥居をくぐり更に急な石段を登ると正面に「ノロ墓」が佇んでおりウコール(香炉)が祀られています。「浜比嘉島」の「比嘉集落」の祭祀を司った歴代「比嘉ノロ」の御霊が眠る古墓は、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の急斜面の中腹に位置します。「ノロ墓」に向かって左斜め上の斜面には自然ガマを利用した古墓があり、入り口はブロックが積まれて塞がれています。かつて風葬に使われたガマであると考えらます。更に「ノロ墓」に向かって右下側の崖下にも古墓があり、ガマの入り口はブロックで塞がれてウコール(香炉)が設置されています。この古墓の前方に蓋の無い古い厨子甕が置かれています。(按司の墓のガマ)(ガマ入り口の石棺)(ガマ内部)「ノロ墓」に向かって斜め右上に進む石段があり進むと崖の中腹に大きく空いたガマ(鍾乳洞)があり、鍾乳洞の入り口から差し込む太陽光が洞窟の奥を神秘的に照らしています。ガマ入り口には幾つもの霊石が祀られた「按司(あじ)の墓」の石棺が鎮座しており蓋の破損が確認出来ます。これは南側に隣接する「比嘉グスク」按司の石棺であると考えられます。「按司」とは琉球諸島にかつて存在した階位を意味し、琉球王国が設立される以前はグスク(城)を拠点とする地方豪族の称号として使われました。王制が整った後は王族のうち「按司」は王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)が就任しました。琉球国王家の分家が「按司家」と呼ばれるようになり、更に王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも「按司」が用いられました。(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)ガマ内部を進むと右側に拝所が確認されて幾つもの霊石が祀られています。そこから奥に進むと左側に6体の石柱と霊石が祀られて粗塩が盛られています。鍾乳洞の自然石を利用した6体の石柱が何を表しているのか不明ですが、沖縄の歴史で欠かす事が出来ない「御先の世・中の世・今の世」の3つの世と、沖縄を創造する「天・地・海」の3つの要素を意味していると考えられます。更にガマの奥に進むと大人が1人通れる穴が2つ空いており、その場所には石柱とウコール(香炉)が祀られてる拝所となっています。この地点まではガマの入り口からの太陽光が届きますが、この先のガマは右奥に進む為、光が途絶えて完全に暗闇に包まれます。(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)そのまま大人が1人通れる程の穴をくぐり、太陽光が届かない暗黒のガマ奥地を進むと、右側に数個の霊石が祀られた拝所があります。この拝所の背後には鍾乳石の石柱を中心に霊石が祀られています。更にガマの奥地には幾つもの霊石が祀られている拝所となっています。この先もガマは続いていますが人が入れない狭さになり、実際にガマがどこまで続いているのかは不明です。このガマは「按司の墓」と呼ばれていますが、ガマ内部に祀られる幾つもの拝所はノロが拝する聖域とも、ユタが修行する霊域とも言われています。うるま市のカミンチュ(神人)もこのガマを拝むとも聞いた事があり、神の島「浜比嘉」のこのガマは神秘的な雰囲気を醸し出しています。(ガマ内部から見た入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマから眺望するアマミチューの墓)ガマ、拝所、御嶽などの聖地には呼ばれる人が選ばれていると言います。このガマは順序を経て拝する必要があると私は考えます。ます「ノロ墓」の崖下に湧き出る「ハマガー」の聖水で身を清め、次に「ノロ墓」を拝します。葬られるノロに「按司のガマ」への立ち入りを許可された者のみ、本来ガマに迎えられます。ガマの奥地は非常に心地良い雰囲気に包まれており、瞑想をして魂を浄化する最高の聖地でした。ガマの出口からは神様により計算し尽くされたかの様に「アマミチューの墓」がある岩の小島が眺望できます。「ノロ墓」「按司の墓のガマ」「アマミチューの墓」の地理的バランスは、琉球の開祖である神様のみが創造できる仕業であり「浜比嘉島」が「神の島」だと呼ばれる紛れもない所以の一つなのです。
2021.01.01
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(与儀遺跡)「与儀集落」は沖縄市南部の国道329号線沿いに位置し、北中城村渡口地区に隣接しています。「与儀集落」は先祖を敬う事を重んじている地域で、多くの御願(うがん)行事が昔から大切に継承されています。旧正月、五月ウマチー(豊穣祈願)、六月ウマチー(収穫祭)、六月カシチー(収穫感謝祭)、八月シバサシ(悪霊祓い)、九月菊酒(健康祈願)、十二月ウガンブトゥチ(火の神の昇天)など、一年を通じて琉球王国時代から続く旧暦の伝統行事が行われます。(シマカンカー)(シマカンカーの左縄)「与儀集落」に伝わる「シマカンカー」は沖縄市で唯一継承されている無病息災を祈る伝統儀式で、旧暦11月1日に集落の北側と東側の入り口2カ所に豚の皮を結んだ左縄(左撚り縄)を飾って疫病や厄災をもたらす悪い神が入らないように祈ります。"カンカー"とは見張る、見守るの意味で「シマカンカー」は「シマクサラシ」とも呼ばれる悪疫払いで、集落を悪霊から守る為に戦前から行われている大切な祭事なのです。(上殿)(上殿の祠内部)「シマカンカー」が行われる「与儀遺跡」の中に「上殿」があります。この地は「与儀集落」を創始した「仲加」の祖先が暮らした場所と言われています。「上殿」は旧暦の1月1日(旧正月)、5月15日(ウマチー)、6月15日(ウマチー)、6月23日(カシチー)、8月10日(シバサシ)、9月9日(菊酒)、12月24日(ウガンブトゥチ)の行事で拝まれます。「上殿」の祠には霊石、霊石柱、ウコール(香炉)、巻貝が祀られています。(与儀遺跡のガジュマルとデイゴ)(与儀遺跡の井戸)「上殿」がある「与儀遺跡」には樹齢が約100年のガジュマルと、同じく樹齢約100年のデイゴの古大木が集落を守っています。ガジュマルは神が宿る木で「キジムナー」という沖縄の妖精が住むと言われています。デイゴは言わずと知れた沖縄県の県花です。デイゴが見事に咲けば咲くほど台風がよく来る年になると言われており、その年のデイゴの咲き具合によっては、その年の台風の当たり年かどうかを占えるようです。更に「与儀遺跡」にはかつて遺跡で暮らした住民に利用された井戸跡が残されています。(神屋トニー)「与儀遺跡」の南側にある「神屋トニー」です。獅子舞を踊る神聖な場所とされており、拝所は旧暦の1月5日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれています。広場の奥側にはカミヤー(神屋)と呼ばれる神の祀る屋敷跡があり、ヒヌカン(火の神)などが祀られています。集落の住民はこの地を「ナーカアサギ」とも呼んでおり「仲加」の祖先が住居を構えた場所であると伝えられています。(与儀の石碑)「神屋トニー」の南部には石敢當のように畑地の隅に置かれている「石碑」があります。ニービ石でつくられた石碑には「◯◯◯ 西方 廣 ◯ 百難無」と記されています。何故この位置にこのような石碑が置かれて、石碑にどのような意味があるのかは未だに解明されていません。魔除けの意味が込められていると考えられていますが、多くの謎に包まれた「石碑」は今日も与儀集落の片隅に静かに佇んでいるのです。(ウブガー/産川)謎の「石碑」から道を挟んだ正面には「ウブガー(産川)」があり、集落の住民は「キヌガー」と呼んでいます。元旦の若水や子供が産まれた場合は、この井戸から水を汲む慣わしとなっていました。現在は8月10日(シバサシ)に拝まれています。この日は屋敷の御願をして、屋敷の神への感謝と家族の繁栄と安全が祈られます。また、周りと円滑な生活が送れるよう願いが込められるのです。(火ヌ神)(チナヒチ場所/綱引き場所)「与儀集落」の中心部にある「与儀自治会」の敷地内に「火ヌ神」があり、3つの霊石が祀られています。かつて集落の全員がこの場に集まり豚を殺して食べたと伝わっており、旧暦11月1日の「シマカンカー」の日に「火ヌ神」が拝まれています。「与儀集落」の「火ヌ神」は土地の守り神として、悪霊祓いの意味も込められている聖域として崇められ住民により祈られています。また「与儀自治会」の前の道は「チナヒチ(綱引き)場所」となっており「与儀集落」の大切な行事として多くの住民で賑わいました。(渡口の屋敷跡)(渡口の屋敷の祠内部)「与儀自治会」の南東側に「渡口の屋敷跡」があり、渡口の祖先に按司がいたと伝えられています。祠内には大型の霊石が3つ、小型の霊石が3つ、ウコール(香炉)が3つ祀られています。また「渡口の屋敷跡」の片隅には別の祠があり、地頭代の役人が暮らしていたといわれています。「与儀集落」の住民は「ジトーヤー」や「シルドゥンヤー」と呼び崇められています。「渡口の屋敷跡」は旧暦の1月1日、5月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれています。(クガニチュー)(クガニチュー祠内部)「クガニチュー」と呼ばれる拝所が「与儀集落」の南部の入り口にあります。「クガニッツー」や「クガニツー」とも呼ばれるこの拝所は、旧暦5月15日、6月15日、9月9日、11月10日、12月24日に拝まれています。戦前までこの拝所の左側に海石で造られたシーサーがあったという。それは「クガニチュー」と同様に「魔よけの神様」として信じられていました。特に11月10日の「シマカンカー」の行事は、祠を境に豚肉や骨がついた左縄を吊るす慣わしになっています。(ウルグチガー/下口井)「与儀集落」の最南端の崖の下に「ウルグチガー」があります。集落の住民はこの井戸の当て字を「下口井」としています。旧暦8月10日のカーウガン(井戸の拝み)の行事に拝まれ、水への感謝と家族の繁栄と健康を祈願します。ガー(井戸)には水の神様が宿る神聖な場所で、水と親しむ場であると同時に畏敬の念を持って接する聖地でもあります。(ヒーケーシー)「与儀集落」の東側にある「ヒーケーシー」と呼ばれる魔除けの石柱です。石敢當(イシガントウ)とも言われ、この古い石柱は南西側(集落の東側)を向いています。石柱の表面には「◯◯奉山石敢當」と記されています。現在は屋敷内にありますが、古より与儀集落を疫病や厄災から守る重要な役割があったと考えられます。また、集落の外部から悪霊が入らないようにする集落の守り神でもありました。(アダンジャガー)「与儀遺跡」の東側の坂道にある「アダンジャガー」です。「アダンヂガー」や「アカンジャーガー」とも呼ばれる井戸で、旧暦8月10日に行われるカーウガン(井戸の拝み)で祀られる井戸の一つとされています。井戸は神聖な拝所である為、周辺にゴミ等を捨てる行為は絶対に許されず罰当たりな行為になります。現在はコンクリートの板で蓋がされていますが、水源への感謝と水の神への祈りが捧げられる拝所となっています。(アナガー)「アナガー」という井泉が「与儀集落」の中北部にあり、住民は「クワガー」とも呼んでいます。初めて集落にやってきた与儀の祖先たちは、この湧水から生活の水を得たと言い伝えられています。現在の井戸は昭和52年に改築され、豊富な水源は主に農業用水として重宝されています。「アナガー」も同様に旧暦8月10日のカーウガン(井戸の拝み)に水への感謝と家族の繁栄と健康が祈願されています。(ヤマグヮー)「アナガー」の周囲には「ヤマグヮー」と呼ばれる聖なる森があります。森の西北にある拝所を「ウィーヌヤマグヮー」と呼び、南東にある拝所を「シチャヌヤマグヮー」と呼んでいます。これらの拝所は「琉球国由来記」(1713年)にも記載されており、旧暦の5月15日、6月15日、6月25日、12月24日に拝まれています。南東の拝所付近にある井戸は「ヤマグヮーガー」と呼ばれています。さらに、この森は与儀の人間が初めて住み着いた場所と伝えられ「ナコウジマ(名幸島)」と呼ばれているのです。(魔除けの石碑)「与儀集落」にはT字路の突き当たりにある現代の石敢當とは異なり、十字路の角に石柱の魔除けが設置されています。琉球王国時代から大切に継承される旧暦行事も住民の生活に根付いており「シマカンカー」と呼ばれる沖縄市に唯一残る有形文化財の祭事も残っています。井戸に宿る水の神様への祈りも受け継がれ「与儀集落」の繁栄と平和が保たれています。ぜひ、これからも集落の若者達が生まれ育った集落に誇りを持って、琉球の伝統文化を後世に引き継いで行く事を心から望んでいます。
2021.03.01
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(渡具知泊城/トゥマイグシク)沖縄本島中部の西海岸に読谷村「渡具知集落」があります。比謝川の河口に天然の良港を有し、昔から文物の交流の地として栄えてきました。「渡具知」は「ワタイグチ」と呼ばれ「絵図郷村張(1649年)」には「戸口村」と当てていましたが、現在では「渡具知」と表記するようになりました。沖縄の歴史の大きな節目には読谷村「渡具知」の名前が必ず現れ、1609年(慶長14年)の薩摩島津の琉球侵攻軍も、1945年(昭和20年)の沖縄戦の米軍も「渡具知」を上陸拠点にしています。(渡具知泊城/トゥマイグシク)今から約640年前、三山(北山/中山/南山)戦国時代に「英祖王」のひ孫と伝えられる3代目「湧川按司(今帰仁按司一世)」が家臣の本部大主(もとぶうふぬし)の謀反により滅ぼされました。本部大主の策略で国頭の山賊の成敗に「湧川按司」に行かせて、その留守中に城を乗っ取ってしまいました。家臣の潮平大主(すんじゃうふぬし)に助けられた「湧川按司」の幼い息子「千代松金」は乳母に抱かれ父の従兄弟である北谷大主(ちゃたんうふぬし)のいる北谷城下の砂辺砂辺村に身を隠したのです。「千代松金」は名前を「丘春(うかはる)」と変え殿内屋(トゥンチャー)で育てられました。(渡具知泊城/トゥマイグシク)その後「丘春」は読谷山間切「渡具知」に移り「渡具知泊城」を築き城主となりました。巨大な奇岩で構築された城で「丘春」は18年の長い歳月をかけて「本部大主」に殺された父の仇を打つ計画を練り機会を伺っていました。「丘春」は読谷山「大木徳武佐」にて旧臣を集め、今帰仁城(北山城)に攻め入り「本部大主」を討ち城を奪還したのです。しかし「丘春」と家族は湧川王子の孫で湧川按司二世の子「怕尼芝」の反乱に討たれ「丘春」の子「今帰仁仲宗根若按司」が落命し、一族は再び中頭や大宜見に離散する事となってしまいました。(今帰仁城主之墓の案内板)(今帰仁城主岳春/真玉津/臣下之墓)(鷹の目洞窟/タカミーバンタ)隠居の身であった「今帰仁按司丘春」は戦に追われ、長年住み慣れた読谷村間切に逆戻りします。「渡具知泊城」で再び今帰仁城奪還の態勢を整えようと試みましたが「丘春」は力及ばす当地で終身しました。岩グスクの東側にある「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」に「今帰仁岳春(丘春)」、丘春の妃「真玉津」、臣下の合葬墓があり、墓に向かって右側には「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」が東側に続いています。墓の建立に伴い、この周辺一帯は「渡具知泊城(トゥマイグシク)」と称されました。(今前昔大湾按司時代ノロ之墓)(渡具知大湾按司之墓)「今帰仁城主岳春/真玉津/臣下之墓」の左側には「今前昔大湾按司時代ノロ之墓」が隣接している事から「丘春」に深い繋がりがあった、非常に位の高いノロ(祝女)であったと考えられます。さらに「ノロ之墓」西側に続く崖の中腹には「渡具知大湾按司之墓」が鍾乳洞に構えています。初代「大湾按司」は今帰仁城主「丘春」の孫にあたり、按司の遺骨はこの「渡具知泊城(トゥマイグシク)にて「丘春」を衛るように祀らています。(親泊大主/今帰仁下り世/渡口掟/村世之墓)因みに「渡具知泊城(トゥマイグシク)」の東側に「セクルディドゥビーチ」と呼ばれる浜があり、ビーチ脇の「メーヌハンタ」の崖下に「親泊大主/今帰仁下り世/渡口掟/村世之墓」があります。今帰仁城下には「今帰仁集落」と深い関わりのある「親泊集落」があり今帰仁城を支えた人々が住んでいました。「親泊大主」も「丘春」と縁のある豪族で「怕尼芝の変」の混乱で今帰仁を逃れたと推測されます。「渡口掟(ウッチ)」は読谷山間切渡具知村の掟(役人)で「親泊大主」は「渡具知」の地に移り住み深い関係を築いたと考えられます。(鷹の目洞窟の西側出入り口)(渡具知の梵字碑)「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」を東側に抜けると「梵字碑」の祠があります。この碑は16世紀前半に琉球国に仏教を広めた「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」に関係し、石碑に刻まれている五文字は古代インドのサンスクリット語で「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と読み、漢字表記では「阿毘羅吽欠」となります。これは「大日如来」の真言で宇宙の5大要素である「地水火風空」を表し「オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン・ソワカ」と唱えることによて、魔障を退散させ善福を招く力があると信じられています。(アビラウンケンの梵字碑)「梵字碑」の建立当初は渡具知港が見渡せる「メーヌハンタ」断崖台地の上にありました。「ヒーゲーシ(火返し)」の神と呼ばれる七福の神で「ンナトゥゲーシ(港護り)」の神でもあり、港の安全と比謝川流域の航路の無事を祈願して祀られています。「渡具知集落」では旧暦9月の御嶽御願(ウタキウガン)の時にこの「梵字碑」を拝みます。石碑の材質は細流砂岩で「ニービフニ」又は「ニービ石」と呼ばれます。2016年、台地下の崩落により現在地に移設されました。「梵字碑」の祠内にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。(米軍上陸の地碑の展望台)(米軍上陸の地碑)余談になりますが「鷹の目洞窟(タカミーバンタ)」の真上には「米軍上陸の地碑」と渡具知港を見渡す展望台があります。1945年4月1日に米軍が読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸しました。かつて経験した事のないこの戦争は島の文化と人々の平和な暮らしと多くの尊い人命を奪いました。この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地ともならないことを村民は祈念しています。「米軍上陸の地碑」は太平洋戦争と沖縄戦終結50周年を期して1995年12月に建立されました。(ウフガチシ)(ウフガチシの仲龍宮/中龍宮)(トゥマイグシクの世龍宮)「渡具知」の西ヌ浜(イリヌハマ)に「ウフガチシ」と呼ばれる大岩があり、岩の上に「仲龍宮/中龍宮(ナカルーグー)」と称する「龍神宮」の石碑が建立されています。干潮の時のみ訪れる事が出来る聖地で地元住民に崇められています。更に「渡具知泊城/トゥマイグシク」の岩間には「世龍宮(ユールーグー)」と呼ばれる「龍神宮」が祀られており、これらの拝所は「渡具知の聖地」として親しまれ旧暦9月の御嶽御願(ウタキウガン)の際に住民に祈られています。沖縄戦での戦没者への祈りと共に海の神への感謝を込めて参拝されています。(大木徳武佐の鳥居)「渡具知泊城」の北北東約3キロの場所にある丘陵岩陰に「大木徳武佐」と呼ばれる祠があります。一帯は樹木が茂り岩陰にコンクリート製の鳥居と祠が建っています。祠に向かって右側の「徳武佐碑」には「今から六百年前 三山戦国時代 中今帰仁按司 戦に追われ 此処にて身を遁る 其の後当他方にて過し帰城す 古来徳武佐お宮と称し崇拝す (毎年旧九月十三日参拝) 一九六四年旧九月十三日」と記されています。(大木徳武佐の祠)(大木徳武佐の祠内部)今帰仁城を追われた「丘春」がこの地で旧臣を集め、今帰仁城(北山城)に攻め入り「本部大主」を討ち城を奪還した事により、その子孫がこの場所を徳として毎年9月13日に参拝するようになりました。その後「大木集落」でも「徳武佐拝み」を行い集落の繁栄を祈るようになったと言われています。「大木徳武佐」のお宮は救世の神や子授けの神のみならず、除難、招福・家内健康・繁栄のご利益もあるとして多数の人々が参拝に訪れます。(泊城公園の入り口)(渡具知泊城/メーヌハンタの台地)「梵字碑」と「米軍上陸の地碑」があるメーヌハンタの花咲く台地にはヤギが放し飼いされる平和な光景があります。かつては「丘春」が今帰仁から逃げ落ち身を隠した「渡具知泊城」周辺は「琉球処分」や「沖縄戦」の上陸地にもなり、時代の戦乱の世に翻弄されてきました。「泊城公園」は琉球の長い歴史が詰め込まれた時代の証人として存在し、多くの拝所を有する聖地として人々に崇められ拝まれているパワースポットなのです。
2021.06.05
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(残波岬公園)「宇座集落」は沖縄本島西海岸にある読谷村の北端に位置し、全体的に東高西低のなだらかな傾斜の地形をしています。海に迫り出した残波岬は観光地として有名で、その北側の海岸線は断崖絶壁で南西側には広い砂浜海岸のイノー(礁池)が広がっています。豊富な漁場と水源に恵まれた農地で「宇座集落」は"半農半漁"の村として栄えました。また「宇座集落」には拝所やカー(井泉)が多く存在し、旧暦1月の初御願(ハチウガン)や12月24日の解御願(フトゥチウガン)で十三箇所が拝まれています。(神アサギ)「宇座集落」の中心部に「神アサギ」があります。戦前までは小高く盛り上がった地形になっており、当初は神殿は無く広場のみ存在した。後に四本柱の瓦葺の小屋が建てられましたが、壁も床もなく軒の低い簡易様式でした。かつては「瀬名波集落」からノロ(祝女)が訪れ「宇座集落」の山内門中や与久田門中の神人も加わり祭祀が執り行われていました。現在「神アサギ」の祠には神を祀る三体の霊石が設置されヒヌカン(火ヌ神)として祀られています。(西井戸/イリガー)(男井戸/イキガガー)「神アサギ」の西側に「西井戸(イリガー)」があります。「宇座集落」の産井(ウブガー)でもあり、この井戸で出産の報告と赤子の健康を祈願しました。与久田門中に伝わる伝承では「義本王(舜天王統最後の王/在位1249~1259年)」が与久田の屋敷に逗留し漁の帰りにここで網を洗ったことから「網洗井戸(アミアレーガー)」とも呼ばれます。さらに西側には「男井戸(イキガガー)」があり、かつては畑仕事や海からの帰りに手足を洗ったり水浴した井戸でした。戦後、米軍基地建設により埋立てられましたが、1979年に井戸跡を掘り当ててタンクを設置し、水の神様を祀る拝所となりました。(ワランジャ井戸/ワランジャガー)(松田井戸)「ワランジャ井戸(ワランジャガー)」は「宇座集落」の南西部にあり、1846~1854年の間に沖縄に滞在したハンガリー出身のキリスト教宣教師で医師でもある「バーナード・ジャン・ベッテルハイム」が宇座を訪れ、ここの水を飲んだという伝説が残る井戸です。また、集落南部には「松田井戸」があります。この井戸がある場所にはかつて「宇座集落」の発祥とされる「松田シマ(集落)」があり、この住民により利用された井戸だとされています。ちなみに「琉球国由来記(1713年)」には「松田」の名が記載されています。(スヌメー殿内/スヌメードゥンチ)「宇座集落」の南東部に「スヌメー殿内(ドゥンチ)」があります。「宇座集落」の拝所の中で第一の拝所とされ、セジ(霊力)の高い神であると言われています。集落の大きな行事や対外行事の際には、先ずここに拝みに行く慣わしとなっていました。「スヌメー殿内」は「宇座集落」発祥の七家の一つである「クニシー」が最初に仮の住居をここに構えた場所であると伝わります。戦前までこの地には松の大木が茂っており、昼でも暗く物静かで神々しい雰囲気に包まれる聖域でした。祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られています。(東井戸/アガリガー)(石小堀/イシグムイ)「東井戸(アガリガー)」は「宇座集落」の東部にあります。かつては正月の若水を汲む井戸であり、飲料水として利用されたために水浴や洗濯は厳禁でした。「宇座集落」では最も古いカー(井戸)の一つとされており「西井戸(イリガー)」と同様に、形状は切石を丁寧に積んだもので保存状態が良好な石造建築物です。更に東側には「石小堀(イシグムイ)」と呼ばれる井泉があります。現在は草木に覆われていますが、岩の下から清水が湧いており、その水を溜めてクムイ(ため池)を作っています。(クニシーの御神)(百次シー/ムンナンシー)「クニシーの御神」は「神アサギ」の東側に位置します。「クニシー」と呼ばれた人は最初「スヌメー殿内」で生活し、その後そこから150mほど西方の場所に屋敷を構えて新しい村づくりを始めたと伝わります。屋敷跡には「クニシーの御神」として祈られており、建物内部にはウコール(香炉)や霊石が祀られています。その西側には「百次シー(ムンナンシー)」があり「百次シー」屋敷跡の一画に祠がつくられています。祠内にはウコール(香炉)、花瓶、茶碗が供えられています。(鍋之甲/ナービナク)(鍋之甲の内部)「百次シー屋敷跡」の北側に隣接して「鍋之甲」があります。首里王府が派遣した鍛冶職であったのか、以前から宇座に住んだ人であったのか不明ですが、鉄器や農具の製作や修繕を行った家です。絶家した後も屋敷地や墓地は「宇座集落」が拝所として管理してきました。現在も屋敷には位牌が祀られ、毎年旧盆と大晦日(トゥシヌユール)には集落の役員によって祈られています。建物内部には5つのヒヌカン(火ヌ神)と霊石が祀られています。(宇座グシク)(鍋之甲墓)(二重兼久鍋之甲墓/クニシーの墓/無縁墓)「鍋之甲墓」は「宇座集落」の北部にある「宇座グシク」の北側にあります。隣接して儀間の二重兼久(ティーガ ニク)から移転された「鍋之甲(パーパー/お婆さん)の墓」や「クニシーの墓」があり「無縁墓」も同じ場所に祀られています。「宇座グシク」は支配者の居城や集落ではなく、葬所や古墓を由来とする聖域としてのグシクです。他にもグシク周辺には「宇座集落」で一番の金持ちであった「宇座イェーキ」の墓をはじめ多くの墓が位置しています。(東ノ神之屋/アガリヌカミヌヤー)(東ノ神之屋の霊碑)(東ノ神之屋の霊石)「宇座集落」の北端側には「残波岬公園」があり、公園の最東端の断崖絶壁に「東ノ神之屋(アガリヌカミヌヤー)」と呼ばれる航海安全を祈願する拝所があります。「東ノ神之屋」は絶壁の中腹にある自然洞窟を利用した拝所で、ニライカナイ(理想郷)に通じる聖域とも言われています。拝所には3基(天・地・海)の霊碑が建立されており、それぞれ石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「東ノ神之屋」と記された石碑にもウコールが設置されて拝まれています。(南妙法蓮華経の石碑)(潮吹穴/スーフチガマ)(西ノ神之屋/イリヌカミヌヤー)「東ノ神之屋」の西側の岬に「南妙法蓮華経」の石碑が祀られています。石碑の裏側には「日本山妙法寺」と彫られています。「残波岬公園」の中央にある「潮吹穴(スーフチガマ)」は海に通じる竪穴の洞穴で、かつては海が荒れると空高く潮を吹き上げました。更に西側には「西ノ神之屋(イリヌカミヌヤー)」の祠があり「東ノ神之屋」と対になる拝所となっています。航海安全や武運長久を祈願した拝所で、両神之屋はかつて芝生道(神道)で繋がっていました。(泉井戸/イジュンガー)(北浜屋原のマチ矼)「宇座グスク」の北側にある「泉井戸(イジュンガー)」は1879年(明治12年)の廃藩置県以後、首里から移り住んだ崎原屋取の人々が使用した井戸です。「宇座集落」の西部に「北浜屋原のマチ矼」と呼ばれるアーチ形状の矼があります。設計から施工まで「宇座集落」の人々を中心に行われ、石材は隣接する宇座海岸から切り出された宇座石が使用されました。技術や材料ともに宇座が生み出した石造建築物で、アーチ部分は崩れることなく矼の美しい形を現在に伝え、当時の石工技術の高さを知ることができます。(残波岬公園の大岩)沖縄戦後「宇座集落」の全域が米軍基地として接収されたため住民は「長浜」「高志保」地域へ集団移住を余儀なくされました。それから約30年後の1976年に米軍基地が返還されると、土地改良事業により整備されて集落は復帰先地公共施設整備事業(道路、水道、排水路など)により生活の基盤が整えられました。その後、宇座農村公園や拝所の整備も行われ、住民念願の生まれ故郷への復帰と帰住が現在も進んでいます。「宇座集落」の本当の意味での「終戦」を一日も早く迎えて欲しいと心から望んでいます。
2021.07.03
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(シナハウガン/崎原嶽)沖縄本島中部西海岸の「読谷(よみたん)村」北部に「瀬名波(せなは)集落」があります。海岸沿いにあるこの集落は「読谷石灰岩」の地盤が広がっており「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれています。この名称は沖縄の言葉で"岩場が多い地域"という意味に由来しているそうです。「瀬名波集落」は読谷村で最も古い集落の一つとして歴史が長く、首里王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし(1531-1623年)」には「せなはかわひら(瀬名波川平)」や「せなはいしよひら(瀬名波磯坂)」と謳われているように「瀬名波ガー」と呼ばれる井泉がある「瀬名波海岸」に下りる美しい岩場の絶景が特徴的です。(シナハウガン/崎原嶽の祠内部)(シナハウガン/瀬名波ウガンの遥拝所)「瀬名波集落」の北側に「シナハウガン/瀬名波ウガン」という御嶽の森があります。「琉球国由来記(1713年)」には「崎原嶽」と記されており、集落の大御願やフトゥチウガン(解き御願)の際に拝されています。戦前は集落の出征兵士が戦場に赴く前に「シナハウガン」で武運長久を祈願しました。また、本土へ旅立つ人が乗った船が集落の沖合に通りかかると、焚き火をして舟送りをする場でもありました。「シナハウガン」のイビである祠内部には幾つもの古いビジュル(霊石)が祀られており、現在でもヒラウコー(沖縄線香)をお供えして御願する人々が多数訪れます。さらに、御嶽の森の麓には高齢者や足が悪い方が御願する為の「遥拝所」が設けられています。(按司墓跡之碑)(カクリグシク)(カクリグシクの按司墓)「シナハウガン/崎原嶽」の南側に「カクリグシク」と呼ばれるグスクの岩山があり、丘陵中腹の洞穴に「按司墓」が存在します。戦乱の時代に、ある按司がこの地まで逃れて来て亡くなったと伝わっています。この「按司墓」は集落の「シーミー(清明祭)」の時に拝されており、現在は「シナハウガン」の遥拝所に「按司墓跡之碑」と彫られた石碑が建立しています。古墓を由来とする「カクリグシク」は別名「シナハグシク(瀬名波グスク)」と称され、民俗学者の「仲松弥秀(なかまつやしゅう)」によるとグシクは『石垣に囲まれ、神が存在、または天降る聖所で、神を礼拝する拝所と一つにした聖域である』と定義しています。(イユミーバンタ)(ムイヌカーヌガジラーシー)(スーキ屋敷跡)「瀬名波集落」最北端は海に向かって断崖絶壁になっており、この崖の上は「イユミーバンタ」と呼ばれる魚の群れを発見する場所でした。「イユミーバンタ」から南側の崖下には「ムイヌカーヌガジラーシー」と呼ばれる溶食により特徴的な形をした岩礁があります。この名称の由来となった「ムイヌカー」と呼ばれる井泉がこの崖下にあり、かつて戦に逃れた按司が井泉の水を飲み命を繋いだと伝わっています。それに乗じて井泉は「ウムイヌカー(思いのカー)」とも呼ばれています。なお、この按司は「カクリグシク」の「按司墓」に葬られている同一人物だとされています。「イユミーバンタ」の南西側には「スーキ屋敷跡」と呼ばれる場所があり「スーキ」と呼ばれるモンパの木と共に屋敷跡が残されています。(カガンジウタキ/カガミ瀬嶽)(カガンジウタキ/カガミ瀬嶽の祠内部)「瀬名波集落」中央部の「カガンジバル(鏡池原)」に「カガンジウタキ/カガミ瀬嶽」と呼ばれる御嶽があり「カガンジヌウカミ」や「鏡地御嶽」とも呼ばれています。「琉球国由来記(1713年)」には「カガミ瀬嶽/神名:テルカガミノ御イベ」と記されており「瀬名波ノロ」が祭祀を司る拝所として崇められていました。「カガンジウタキ」の祠内部には複数のウコール(香炉)と霊石が祀られており、前庭には石製の丸柱や四角柱が3本立っています。集落の大御願、フトゥチウガン、ウマチー(旧暦2月、3月、5月、6月)などで拝され、御嶽の木陰は「瀬名波ノロ」が休憩する場所でもありました。(ジュリグヮーシー)(チンガー)「カガンジウタキ」の北側に「ジュリグヮーシー」と呼ばれる「瀬名波集落」に伝わる伝説の場所があります。「カクリグシク」に身を隠す按司を討ち取る為に追手が迫っている危機を事前に聞いた「ジュリ」という遊女が、按司にその事を知らせようとしました。しかし「ジュリ」は追手にこの場所で殺されてしまいます。それからこの場所は霊力が高く、昼間でも三線の音色が聴こえてくるとして人々に恐れられました。「ジュリグヮーシー」の南側に「チンガー」と呼ばれる掘り抜き鶴瓶井戸があります。戦前まで「瀬名波集落」の共同井戸として飲料水や生活用水に重宝されました。現在は水の恩に感謝して大御願やフトゥチウガンで拝されています。(コーチンダ道)(コーチンダ道の岩塊)(コーチンダ道の亀甲墓)「ジュリグヮーシー」の東側に「コーチンダ道」と呼ばれる森道があり、かつて「コーチンダバーマ」と呼ばれる珊瑚礁の浅瀬まで続いていました。「コーチンダ道」を進むと琉球石灰岩が隆起した岩塊があり、麓には地中に向けて洞窟が続いています。この岩塊は「コーチンダ道」の森を守護する御嶽のイビであるとも考えられますが詳細は不明です。さらに森道を進むと「亀甲墓」の古墓が現れました。門石(じょういし)の前には花瓶があり花が供えられ、向かって左手の角にウチカビ(あの世のお金)を燃やすカビアンジ(焚き上げ)の器が置かれています。「コーチンダ道」は現在も「瀬名波集落」の歴史の道として大切に残されているのです。
2022.05.24
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(七瀧拝所/喜如嘉七滝)沖縄本島北部の西海岸に大宜味村「喜如嘉(きじょか)集落」があり、集落の南側に大規模に広がるヤンバルの森に「七瀧拝所」と「喜如嘉七滝」があります。『七瀧拝所』と刻まれた扁額の鳥居をくぐると右手に小高い塚があり「七瀧拝所」の祠が建立されています。この拝所は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『キトカサネ森 神名 七嶽ノイベナヌシ 喜如嘉村』と記されており『毎年、四度・四品・百人御物参之有祈願也。此時御花米、自公庫。仙香・御五水、間切ヨリ出也。』との記述があります。更に、王府の命で1731年に琉球王国の官僚・歴史家であった「鄭秉哲/ていへいてつ」が漢文で編集した地誌『琉球国旧記』には「七瀧拝所」は『奇度重森(在喜如嘉邑。神名曰七嶽威部那主)』と記されています。(喜如嘉七滝)(七瀧拝所の祠)(七瀧拝所の祠内部)「喜如嘉七滝」は「段瀑/だんばく」と呼ばれる滝で、最上段から滝壺まで七段の軌道がある事に由来して「七滝/ななたき」と言われています。この滝の水は北側の「幸地川」に流れ込み、その後「アミガー/浴川」に合流して北西に進み西海岸の海に到達します。また集落の古老によると、その昔「喜如嘉七滝」の流れを利用した水車が稼働していたとの伝承が残されています。琉球王国時代には滝壺の東岸側に石を積んだ拝所としていましたが、昭和10年に現在の位置に祠を建立し「七滝拝み」と称して拝されています。琉球赤瓦屋根が葺かれたコンクリート製の祠内部には「七瀧ノイベナヌシ/七嶽威部那主」が祀られた3組のビジュル石(霊石)と3基のウコール(香炉)が設置されています。更に「喜如嘉七滝」の地下深くにある天然深層水を汲み上げた天然ミネラル豊富な「沖縄の命水/七滝の水」が「ぬちぬみじ/命の水」として販売されています。(七滝の水/鎮守の森)(シークワーサーの木々)(シークワーサーの実)「七瀧拝所/喜如嘉七滝」に向かって右側に広がる丘陵は「鎮守の森」と呼ばれています。この森は「七滝」から西側にある「ヒンバームイ/ヒンバー森」の南側にかけては聖域とされており、かつては樹木の伐採が厳しく禁じられてらいました。現在「鎮守の森」の丘陵斜面にはシークワーサーの木々が植えられており沢山のシークワーサーの実が育っています。「喜如嘉集落」がある大宜味村はシークワーサーの産地として有名で「シークワーサーの里」と呼ばれています。シークワーサーはミカン科の寛皮柑橘で果皮が緑色、未熟の間は酸が強く黄色に熟したものは適度の甘味と酸味があります。沖縄の言葉で「シー」は酸「クヮーサー」は食べさせるを意味し「イシクニブ・フスブタ・タネブト・ミカングヮ・イングヮクニブ・ヒジャークニブ・カーアチー・カービシー」などの系統があります。(アカガー/赤川)(ミーガー/新川)(アサウイミガー/朝折目川)「喜如嘉集落」では旧暦1月2日に「ハーウガン/川御願」の行事が行われます。集落で昔から利用されている井泉にはウコール(香炉)が設置されており水の神が祀られています。集落のハミンチュー(神人)や住民が井戸や拝所を巡り集落の飲料水や恩恵に感謝して拝み、同時に集落の発展と住民の健康も祈願します。「ハーウガン」は『アカガー/赤川・ミーガー/新川・ビガーガー/比嘉川・ウガミ/御神(七瀧拝所)・アサウイミガー/朝折目川・アサギガー/アサギ川・ミンカーガー/ミンカー川・マザガー/真謝川・ハーグチガー/川口川・ヤマニーガー/山根川・ヒンバームイの拝所』の順序で祈願されます。海の神と山の神へ感謝する「ウンガミ祭り/海神祭」の早朝に「喜如嘉」の浜辺に下りてニライカナイの神を迎える「アサウイミ」の儀式に向かう直前、集落の神女達が必ず決まってこの井戸の水を飲む事が「アサウイミガー」の名称になったと伝わります。(アサギガーの石柱)(アサギガー跡)(ミンカーガー/ミーカーガーの石柱)(ミンガーガー/ミーカーガー跡)「ハーウガン」では各拝所で唱えられる次の祈願文句がありました。『○○ガーヌウカミガナシ グンドゥイチグヮチフチカナヤビティ アザガーヌミジハミヤビークトゥ クガニマクヌクヮーマーガターヤ健康 成功シミティウタビミソーリ』現在「ニーヤー/根屋」の拝所がある敷地にはかつて「神アサギ」があり、そこから北側に隣接した場所には神女が祭祀を行う際に使用された井戸があり「アサギガー」と呼ばれていました。この場所は現在「アサギガー」と刻まれた井戸跡を示す石柱が設置されています。更に「喜如嘉七滝/七瀧拝所」の北側には「ミンカーガー/ミーカーガー」の跡があり、井戸の痕跡はありませんが「ミンカーガー」と記された石柱のみ現在は残されています。その昔、この井戸は「喜如嘉集落」南西側の住民の飲料水や生活用水として重宝されていたと伝わっています。(マジャガー/真謝川)(ハーグチガー/川口川)(ヤマニーガー/山根川)「ハーウガン」の祈願文句は『○○川(川/井戸名または拝所名)の神様 この度一月二日になりました このように字の川々を拝んで感謝しておりますので どうか黄金マク(神言葉で喜如嘉集落の意味)の子孫は健康 成功させてくださいますようお願い致します』という意味となっています。「マジャガー/真謝川」と「ハーグチガー/川口川」は「イリナカジョウ/西仲門」の屋敷の下に二基並んで構えています。また「ヤマニーガー/山根川」は「山根」の屋敷内にある井戸です。「喜如嘉集落」には『道あきり』というウムイ(神唄)があります。『あきり あきり(あけよ あけよ) かみがみち あきり(神の道 あけよ) しどがみち あきり(勢頭の道 あけよ) ぬるがみち あきり(祝女の道 あけよ) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します) かみが たなばるに(神の 棚原に) いながにぶ うきてぃ(おなた様の柄杓 浮けて) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します)』(平良真順の銅像)(門中拝所)(門中拝所の祠内部)「喜如嘉公民館」の向かい側に「平良真順/1874-1972年」の銅像があります。『喜如嘉の四大偉人』と呼ばれた「平良真順」は医師として地域医療に貢献し、村議や県議として沖縄の政界で活躍した功績を讃え、1984年の十三回忌に際し「平良真順」の生家敷地に銅像が建立されました。また「平良真順」の生家の南隣に隣接する屋敷に「門中拝所」があり「マジャウイ/真謝上」の森に向けて建立されています。コンクリート製の祠内部にはビジュル石(霊石)とウコール(香炉)が祀られており、花瓶と湯呑が供えられています。「喜如嘉集落」には次のような『諸神御送りが節』という唄があります。『エイエイ あふの御神(エイエイ あふの御神) なーむとむかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて) やまぬ神(山の神) なーむとむとかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて)』(キザハターブク/喜如嘉田圃)(喜如嘉民謡の石碑)(琉球赤瓦屋根とシーサー)「喜如嘉集落」の北側には美しい田園地帯が広がっており、地元では「キザハターブク/喜如嘉田圃」と呼ばれて親しまれています。以前は稲やビーグ(井草)の栽培が盛んでしたが、近年は生花用のオクラレルカやフトイなどの花々の産地として知られています。また集落には「喜如嘉朝憲」作の『喜如嘉民謡』があり歌碑が建立されています。『一、めぐる山陰によ かくまりし喜如嘉村 前や海ひかえ ウマル吾村よ 二、ひんば森登てよ うし下い見りば 稲穂ぬみるく なうりゆがふよ 三、七滝ぬ水やよ 七ちから落てるよ 白糸ぬ眺み なうり美らさよ 四、八月んなたるよ 喜如嘉浜下りて 若者ちゃぬ恋路 浜ぬ千鳥よ 五、謝名に立つるよ 喜如嘉糸芭蕉や 喜如嘉美童ぬ てかしかきてよ 六、文化大宜味喜如嘉村 民主々義ぬ魁けよ 老いん若さんわらびんちゃまで 皆うり福々よ』
2022.11.16
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(西の御嶽/宮鳥御願)沖縄本島北部にある「本部/もとぶ町」の西側に周囲7.3キロ平方メートルの「瀬底/せそこ島」があります。この島の住民は「瀬底島」を「シマー/島」と呼びますが、対岸の本部半島の人々は「シーク」または「シスク」と呼んでいます。国道449号線から「瀬底大橋」を渡った場所にある「瀬底島」の西側に「瀬底ビーチ」があります。この浜の南側には「西の御嶽/イリヌウタキ」の森が佇み、別名「宮鳥御願/ミーヤトゥヤウガン」と呼ばれています。この御嶽は1913年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『ヨネフサキ嶽 神名 カネマツ司ノ御イベ』に相当すると考えられます。「瀬底集落」の西側約900メートルの場所にある「西の御嶽」は木々が生い茂る一帯に2〜3メートルの窪地にあり、御嶽の周囲は石灰岩の口の広い洞穴となっています。この拝所には「ノロ/祝女墓」の他にも洞穴内に4つの古墓が祀られています。(初代瀬底ノロ墓)(呂氏仲程瀬底一世の石碑)(洞穴内の古墓)(洞穴内の古墓)「西の御嶽」の「ノロ墓」は破風型のコンクリート製で、石碑には「呂氏仲程瀬底一世 昭和十一年四月建立」と記されています。この古墓には「瀬底村初代公儀ノロ」が祀られていると伝わります。葬られた祝女は若い頃から公儀ノロを務めた美女で、旧暦五月三日に穀物の豊作祈願を行う「ティラムヌメー」と呼ばれる祭祀の前に「トールマイ浜」にて身体を清める洗い髪をしていました。その時、以前から沖に停泊していた鹿児島船の船乗りに暴行され、ノロは「宮鳥御願」の森に逃げ込み身を隠しました。ノロは暴行した船乗りに『残波に行けば、お前達の船は破れてしまえ』と手を合わせて船乗りに呪いをかけたのです。その後、天候が回復して船を出したところ残波で船は難破して船乗りは全員死亡し、ノロはそれを見届けた後に洞穴で自ら命を絶ったと言われています。その骨神がこの「西の御嶽」の古墓に祀られていると伝わっています。(宮鳥拝所)(宮鳥拝所の石碑)(宮鳥拝所の祠内部)(宮鳥御願の竜宮神)旧暦五月の「ウフウグヮン/大御願」ではその昔、ノロ墓から骨を出して洗い清めていました。この骨洗いは「ミススイ/御洗清」や「スン」と呼ばれ「瀬底集落」の「仲程門中」が担当してきました。この「ウフウグヮン」は「七ウターキ/御嶽」の祈願で麦の豊作と村人の健康と繁栄を願います。現在はノロや神女達が集落にある七ヶ所の御嶽を巡り大豆九升・酒三合・線香二十五束を供えます。その昔は徒歩で巡っていたため一日がかりの行事となり、道中は供物を小使いの少年が担いでいたと伝わります。「宮鳥御願」の森には「宮鳥拝所」の祠があり、内部には三体の霊石と三基の石造りウコール(香炉)が祀られています。また祠の脇には「宮鳥拝所 一九九二年八月吉日改築」と刻まれた石碑が建立されています。この祠から浜の方向へ進むと「竜宮神」の拝所があり「竜神」と記された石碑、形の異なる三基の石造りウコール、一体の霊石、シャコガイの貝殻が海に向かって祀られています。(サンケーモー/三景毛)(大底門中/大城家の拝所)(大底門中/大城家の拝所)「瀬底集落」では旧暦五月と九月の「ウフウグヮン/大御願」の行事に「七御嶽」が拝まれます。参拝の最後に集落の南側にある「サンケーモー/三景毛」と呼ばれる小高い丘に行き「瀬底島」の西側にある「水納/みんな島」に向かって神人全員が拝みます。この行事は「水納島」にある「メンナの御嶽」へのタンカー(御通し)だと言われています。この「サンケーモー」には「大底門中」の拝所があり、この門中の「大城家/屋号ウフジュク」は「瀬底集落」の「ニーヤ/根屋」で、集落で最も古い約500年余りの歴史を持つ旧家です。「大底門中元祖由来記」には「大底門中」は第一尚氏「尚巴志」王統の「北山監守今帰仁按司」で、数代に渡り「山北今帰仁グスク」に駐在して山北諸郡を統治していました。第七代「尚徳王」が滅亡した時に「北山監守今帰仁按司」の子孫の1人が「瀬底島」に移り住み、村を創建して「瀬底集落」の草分けとなったと言われています。(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所)(仲田門中拝所)「サンケーモー」には他にも「上間門中/上間家/屋号アガーリ」の拝所があり、別名「シークウェーキ」とも呼ばれています。伝承によると「上間門中」の始祖である「細工大主」は「瀬底島」に渡って来た当初は「アンチ浜」の海岸丘陵にある「カンジャーガマ」でカンジャー(鍛冶屋)をしていました。当時は士族や農民にとってカンジャーは重要で島民に重宝され、貯めた蓄えで土地を購入し「瀬底集落」に住居を構えるようになったと伝わります。第二世から第五世までは「本部間切地頭代役」を務めて「健堅親雲上/キンキンペーチン」と呼ばれていました。第二尚氏「尚円王」の子である「山内親方」のお供を若い頃からしていた第二世は中国の清に渡り、土地神(農耕神)である「土帝君」の木像を持ち帰り「瀬底島」に祀るなど豪農と慈善事業家として知られていました。また「サンケーモー」には集落で第三の旧家である「仲田門中」の拝所も設けられ、石碑の前には「首里」と「津嘉山」の石柱が建立されています。(前の御嶽/南の御嶽)(前の御嶽/南の御嶽の祠)(前の御嶽/南の御嶽の祠内部)(前の御嶽/南の御嶽の森)「前の御嶽/メーヌウタキ」は「瀬底集落」の南西の方角に約500メートルの場所にこんもり茂った「ウチンメー」と呼ばれる小丘陵にあります。別名「南の御嶽/へーヌウタキ」とも言われるこの御嶽は「瀬底島」の拝所の中で最南に位置しています。コンクリート製の祠内部には三体の霊石と一基の石造りウコール(香炉)が祀られています。以前は赤瓦屋根の祠でしたが、昭和40年代に現在の姿に建て替えられました。「前の御嶽」は「瀬底の七御嶽」の一つで「国守りの神」が祀られているとの伝承があり「瀬底島」を守護する御嶽であると考えられています。旧暦五月と九月の「大御願」の際に拝される「七御嶽」の最後に参拝される拝所として知られています。ちなみに旧暦五月の「大御願」では「瀬底ノロ」や神女等により麦の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄を祈願し、九月の「大御願」では豆の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄が祈祷されます。
2023.05.28
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(西森公園の拝所)沖縄本島中部の「沖縄市」に「越来/ごえく集落」があり、越来中学校の北西側に「ニシムイ/西森」と呼ばれる小高い丘陵の山が位置しています。この山は「西森公園」として整備されており、建立された祠内部には「ウガン南之御嶽/ウガン西之御嶽/ウガン之大御嶽/西森之御嶽」と刻まれた四体の石碑と四基のウコール(香炉)が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『南風之嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 越来村 西之嶽 神名 マネヅカノ御イベ 同村 大嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 同村 西森 神名 マネヅカノ御イベ 同村 右四ケ所、越来巫崇所。』と記されています。「南風之御嶽」と「西之御嶽」は現在の越来中学校の敷地内にありましたが、中学校建設に伴い「ニシムイ」の山に拝所が移設されました。この祠に向かって右側に隣接して「ウガン結びぬカー・うちちガー・ドゥンチガー」の拝井戸が合祀されており、更にその右側には「ビジュル」の祠があり内部には霊石とウコールが祀られています。また「ニシムイ」の南側丘陵中腹には琉球王朝に仕えた五大姓(五大名門門中)の一つである「馬氏」の「仲真門中」の古墓が現在も残されています。(西森公園の入り口)(ニシムイ/西森公園)(南風之嶽/西之嶽/大嶽/西森の祠)(ウガン南之御嶽の石碑)(ウガン西之御嶽の石碑)(ウガン之大御嶽の石碑)(西森之御嶽の石碑)(南風之嶽/西之嶽/大嶽/西森のウコール)(ウガン結びぬカー・うちちガー・ドゥンチガー)(西森公園の拝所のビジュル)(ビジュルの祠内部)(西森公園の拝所)(ニシムイ/西森公園)(馬氏仲真門中之墓)(馬氏仲真門中之墓の石碑)(馬氏仲真門中之墓)
2024.05.28
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