全33件 (33件中 1-33件目)
1
前回のこのタイトル記事から3年数か月ぶりの続編ですので前回分から載せておきますさらに以前の文をお読みいただける方はカテゴリの「塾長のあゆみ」からご覧になっていただけたらと思います (前回分) ミーティングはいつも日曜日の夕方から開かれていた6月のミーティングがあった翌月曜日は他校舎での授業だったので桜井校での授業のため出勤したのは火曜日の夕方だったいつもの感じで校舎の扉を入ると何か空気の異なるものを感じ取ったとはいえ新年度が始まって以来すなわち新しい校舎長が着任して以来何度か感じたことのある空気でもあった僕は常に校舎のために努力をしているということを感じ取ってもらおうと頑張っていたわけであるが伝わっていないのかなと疑心暗鬼になることも度々あったしこの日もそんな日なのかな?くらいの気持ちで授業の準備をし中3の社会の授業を2クラス分こなしたそしていつもなら日報ミーティングが自然に始まる時間帯になって僕は突然校舎長から非常に深刻な顔つきで呼ばれ事務室から離れた教室に連れて行かれた僕は今日の業務で何かまずいことでもしたかな?くらいに思っていたのであるが教室に入りしばらくして校舎長は振り返り様に「お前、俺のやり方に不満があるのか?ついてこれへんのか?」と言われたその目は赤くなり涙がうっすらと浮かんでいた思いもよらない言葉に頭の中は???で一瞬で真っ白になったその時点では僕にはまだ先日のミーティングの出来事と結びついていなかった心の中では「何ゆうてはりますのん?僕は言われたことをきちんと忠実にやってますやん。力不足でできていないことがあるかもしれないけど、どこに不満を感じさせるような行動がありますか?」とつぶやいていたすると「この前のミーティングでみんながいる前で俺を糾弾したな。今まで十何年も校舎長をしてきて、いろんな講師と仕事してきたけど、ここまで惨めな思いさせられた講師はお前が初めてや。俺についてこれへんのか?俺がそんなに仕事してないように映ってるのか?そんなに仕事してないか?もうお前は辞めてくれていいと思っている。明日からお前が来なくなっても、もう代わりの講師は手配してるから、授業に穴があくこともないし心配しゃんでいい。ええやないか、どうせ、お前はOさん(前の校舎長)に頼んだら、○○塾で面倒みてもらえるやろ」と言われて、初めて先日のミーティングでの僕の発言がここまで校舎長に衝撃を与えてしまったのだということに気が付いたまたその日の出勤時に感じた空気の違いはこれが原因だったとうことが判明した(以上前回分) まさに晴天の霹靂である確かに自分で蒔いた種なのであるがいきなり後頭部を殴られたくらいの衝撃であったこんな言い方をすれば反省の色がないと言われるかもしれないが(いや実際に反省などはしていないのであるが)悪意をもって言ったわけでもないし一年目の新人がどうすればいいか戸惑っている中でそして四年目であった僕ですら校舎長の思惑を図りかねている中で言わねばならない一言だったと思っている僕にとれば誤解されているに過ぎないことでしかないただ「もうお前の代わりを手配している。明日からいなくなっても穴があくことはない」(真実かどうかは不明であるが)という言葉だけはショックだったしかしそんな誤解でこの校舎あるいはこの塾から去らなければならないのは本望ではない昨年度まで一緒にこの校舎で働いていた校舎長や専任がこぞって同じ地域の別の塾に移籍していった僕も誘われたがその方たちとの人間関係よりこの校舎に通い続けてくれる生徒を選んだのだそれと出来あがった大きな塾で頑張ることよりもこの地域ではまだまだ知れていない塾を大きくしていくことにやりがいを感じていた誘ってくれた元校舎長からは「恩を忘れやがって」と言われながらも残った塾であるだから誤解に屈したくはなかった「どうする?辞めるのか辞めないのか、今、ここではっきりと返事しろ」と問われ、返事に困った答はもちろん決まっているただその答え方がわからなかった
March 4, 2016
コメント(0)
ミーティングはいつも日曜日の夕方から開かれていた6月のミーティングがあった翌月曜日は他校舎での授業だったので桜井校での授業のため出勤したのは火曜日の夕方だったいつもの感じで校舎の扉を入ると何か空気の異なるものを感じ取ったとはいえ新年度が始まって以来すなわち新しい校舎長が着任して以来何度か感じたことのある空気でもあった僕は常に校舎のために努力をしているということを感じ取ってもらおうと頑張っていたわけであるが伝わっていないのかなと疑心暗鬼になることも度々あったしこの日もそんな日なのかな?くらいの気持ちで授業の準備をし中3の社会の授業を2クラス分こなしたそしていつもなら日報ミーティングが自然に始まる時間帯になって僕は突然校舎長から非常に深刻な顔つきで呼ばれ事務室から離れた教室に連れて行かれた僕は今日の業務で何かまずいことでもしたかな?くらいに思っていたのであるが教室に入りしばらくして校舎長は振り返り様に「お前、俺のやり方に不満があるのか?ついてこれへんのか?」と言われたその目は赤くなり涙がうっすらと浮かんでいた思いもよらない言葉に頭の中は???で一瞬で真っ白になったその時点では僕にはまだ先日のミーティングの出来事と結びついていなかった心の中では「何ゆうてはりますのん?僕は言われたことをきちんと忠実にやってますやん。力不足でできていないことがあるかもしれないけど、どこに不満を感じさせるような行動がありますか?」とつぶやいていたすると「この前のミーティングでみんながいる前で俺を糾弾したな。今まで十何年も校舎長をしてきて、いろんな講師と仕事してきたけど、ここまで惨めな思いさせられた講師はお前が初めてや。俺についてこれへんのか?俺がそんなに仕事してないように映ってるのか?そんなに仕事してないか?もうお前は辞めてくれていいと思っている。明日からお前が来なくなっても、もう代わりの講師は手配してるから、授業に穴があくこともないし心配しゃんでいい。ええやないか、どうせ、お前はOさん(前の校舎長)に頼んだら、○○塾で面倒みてもらえるやろ」と言われて、初めて先日のミーティングでの僕の発言がここまで校舎長に衝撃を与えてしまったのだということに気が付いたまたその日の出勤時に感じた空気の違いはこれが原因だったとうことに気が付いた
December 18, 2012
コメント(0)
新人ばかりのスタッフで始まったその年度の校舎運営僕にとっても尊敬しながらも初めて直接下で仕事をするということもあり校舎長に具体的な手本を見せて欲しいという思いがあったのであるが毎日のミーティングや毎月のミーティングではどのように思うかどのようにすればよいか何をすべきかといった課題を投げかけられ考えや意見を求められるばかりでしかも僕のように経験のある者からみた視点でもそれは1年目には答えられないだろうしそもそも答えを出そうにも状況が把握できていないのではと思えるような課題であった案の定新人たちは言葉も出ず固まっているばかりその重苦しい課題を打開するために何とか僕が意見していたがそれに対してももちろんじゃぁ・・・という感じで返される有様であったそれでもそれに対して受け答えをして何とか新人たちの手本になれればと思っていたしかしそんなもやもや感が僕の中で爆発したのだろう6月にあった3回目のミーティングで「先生(校舎長)が、実際に行動して手本を見せてください。僕らには、まったく何をしていいのかわかりません。参考になるものを見せてください。そしたら、何をしたらいいのか考えられるようになると思います。」と意見したのだ今となってはそのときのその場の雰囲気がその言葉でどのようになっていたのか記憶にないのであるが何かしら新人たちにとって気持ちを代弁してくれたというような安堵感があったようには思っているなぜ記憶が定かでないかというと(もちろん18年も前のことでもあるが)僕にとって予期せぬ事態を招く結果となりそのことの強烈さがそのときの記憶を薄れさせたのだということは確かなことである
December 11, 2012
コメント(0)
月に一度のミーティング校舎長が毎回議題にしたいことをあらかじめレジュメにまとめそれにそって自由に意見を出し合い進められたレジュメといっても十数ページにもわたる冊子に綴じられたものでかなりの濃い内容のものである(ちなみに今でも僕はそれらをきちんと保管して持っている)ミーティングでは一年目は一年目なりの感じる意見を求められたし四年めである僕にはそれなりの意見を求められて当然であったし以前書いたように学生重役という役職とその会議に一年間参加していた経験もあったのでむしろプレッシャーを感じるほどであった何よりもこれまでの3年間校舎運営というものに関しては自己流を完全に認めてもらえていた環境であったし逆にこれというものを教えてもらってこなかったので新しい校舎長の感覚に対して自分の感覚がどうなのかという自信がなかったいやより正確に言うと僕なりには他の校舎や講師を見て自分なりにいろいろな校舎運営方法を感じ取っていたのであるがT先生の感覚というものが特にシビアなことを知っていたので僕の指導スタイルをどう捉えられるのか不安を感じていたし一方で今までのスタイルを変えてでも吸収するぐらいの気持ちでいたところが新人ばかりのスタッフという持ち駒に対して校舎長は最初少し手探りの状態で校舎運営を模索されていたようであるそれが僕には物足りなく感じていたもっともっとダメだしをし具体的な方法を示して欲しいと思っていたそんな気持ちが6月にあった3回目のミーティングで爆発したのかもしれなかった
December 8, 2012
コメント(0)
もし新しい校舎長に「お前は使わない」と言われてしまっていたらあやうく僕は行き場を失うところであったこの校舎を守るためにという信念を曲げずにとった行動が仇に成るところであった変な疑念を取っ払ってもらうために時間さえあれば校舎に行き事務的な仕事を手伝わせてもらったもちろん前の校舎長と違いそう容易くは事務給をつけてはくれないがそんなことよりも無給でもここでこの校舎のために力になれているだけで嬉しかったのだ本当に校舎のことを愛していると思って欲しかったのである新年度が始まっての春休みの講習はあちこちの校舎から手の空いている講師を寄せ集めて何とか乗り切るありさまで残ってくれた生徒たちにとれば僕以外はみんな知らない先生ばかりいきなり新しい慣れない先生ばかりになり戸惑いも大きかったはずであるその春休み中にいろいろあたって何とか新学期からのレギュラーの講師を確保することができたほとんどがまったくの指導経験がない新人講師であった僕はそのとき4年目に入ったところでもちろん学生講師としてはリーダー的な立場におかれていると同時に4年目ではありながらこの新しい校舎長からもっと多くのことを学び取り吸収したいという思いにかられていた自分の中では4年の経験がありながら校舎長の求めるリーダー像からはほど遠いに違いないしかし立場上、手本にならなければならないという気持ちの板ばさみであったそれでも授業終了後にその日のスタッフで情報を交換しあうミーティングはすごく新鮮に感じられたし月に一度の校舎会議は楽しみな時間であったスタッフ全員が同じベクトルを向いて働いているということが実感できていた
December 1, 2012
コメント(0)
次年度その校舎の校舎長を受け継いだのは奈良県内の校舎の統括責任者であったT先生(実は今でも年に数回お会いしたり、逆に奈良県内の入試情報その他を僕に尋ねられたりと頼りにしてくださったりしている)前年度途中までは順調だった校舎の塾生数も年度後半からは新しい入塾がめっきり減りむしろ退塾者が出つつあった先に書いた事情の影響であるそんな事態が無性につらくてたまらなかったせっかく順調に滑り出していた校舎なのにおそらくであるが地元の大きな個人塾2つも当時の塾の存在に少しは意識していたはずであるにも関わらずどんどんと崩れ去っていく現実しかし立て直そうにも責任者である校舎長は心ここにあらずの状態であるそんな状態に陥った校舎の建て直しとしてやってきたのがT先生である仕事に対して本当に真剣に真面目に取り組まれ休日でも無給で出勤され何よりも生徒第一を考えて仕事をされていたこの先生とは直接下で働いたことはなかったが一目見た瞬間から(失礼ながらも)この先生のそのような姿勢を感じ取ることができたのと担当されていた校舎に仲のいい学生講師がいたのでたびたびお会いしに行き授業後の校舎や食事に行って指導論を聞かせてもらったりしていたし僕の塾講師としてのモチベーションの高さをアピールしていたとはいえやはり僕は去っていった元校舎長の腰巾着のようなお気に入りの講師と思われているふしがあり今回も一緒に○○塾についていくだろうと思われていたそのため次年度の校舎の構想として僕は入っていなかったというよりも正直言って校舎の新しい建て直しのためには僕は邪魔な存在と思われていたに違いないしかし一方で新校舎長の他は全く講師がいない状態でもあった3月になり何とか疑念を抱かれながらも校舎に残り担当させてもらえることにはなったが他の担当講師を見つけるのにも苦労した新年度の船出であった
November 29, 2012
コメント(0)
今僕は今までお世話になった塾を離れお世話になった上司にライバル塾へ引き連れられようという状況に立たされているしかし自分の中での結論は半年前に出ていた実は半年前校舎長から「もし、俺が○○に移ったら、一緒についてくるか?」と聞かれていたその時、しばらく答に悩むそぶりを見せてから「ここに残りたいです」と答えていたそう答えることによって少しでも校舎長がこの塾に踏みとどまってくれないかという淡い期待もあったもちろんそんな僕の一言ごときで翻るような現実ではないことは百も承知である後日他の先生(他塾へ行く意思を固めている)からその時の僕の返事で校舎長がかなりショックを受け「ずっとかわいがってきてやったのに、あいつは恩を忘れやがって」と言っておられたと聞いたそして年度末が近づいて、改めてもう一度一方的に向こう側の人事と顔合わせをするという機会を設定されたその機会を楽しみにしていたのは僕がお金や待遇で動くだけの人間じゃない信念を持って仕事をしている骨のある人間だということをアピールしたかったからである顔合わせではそのようなことを伝えやんわりとお断りの気持ちを伝えさせていただいたかくしてお世話になりかわいがっていただいた校舎長と袂をわかつ日がきたのであるすなわち僕は次年度も当時の塾に残ることが決定したちなみに僕ともう1人いた学生講師はその塾に移っていったし(結局は1,2年ほどで辞めたみたいだけど)何人かの生徒も一緒に転塾していった正直校舎長や何人かの講師が去っていったことよりも一緒に転塾していった生徒がいたことのほうが悔しかった
December 21, 2011
コメント(0)
中学高校時代プロレスにはまっていた当時はアントニオ猪木率いる新日本プロレスとジャイアント馬場率いる全日本プロレスがありもちろん両方観るというプロレスファンも多かったが新日派、全日派と呼ばれるいずれかの熱狂的なファンも多かった僕が贔屓にしていたのは新日本プロレスところが当時の新日本プロレスは人気レスラーが次々と離脱して(レスラーは、新日本プロレスと契約している会社員のようなもので、いわゆる自ら退社したり契約解除をして辞めていく。また、お世話になっている先輩レスラーに引き連れられ辞めていく若手レスラーもいた)新しいプロレス団体を作ったりライバルの全日本プロレスに移籍したりして屋台骨がかなりグラついている時期だったそんな中大好きだった藤波辰爾は最後まで新日本に残り会社を守ろうと必死に戦っていた自分をここまで育ててくれたのは・・・今、自分があるのは・・・そんな思いが藤波を会社に残らせたその誠実感をリスペクトしそんな姿に中学生ながら感動していた
December 16, 2011
コメント(0)
企業として塾として年度がわりは新しい体制でのスタートを切る時期であるそのためには数ヶ月前から人員配置が検討されはじめる当然新しく入ってくる人員とその年度でいなくなる人員を把握して行われていく僕の中でもわかっていながらも認めたくない事実がはっきりと浮き彫りになる日がやってきた新しい配置表には校舎長と後2名の専任の名前がない当たり前、わかりきったことなのであるがこのまま年度が替わらないでいてくれたら・・・という思いでいっぱいだったそこに名前がなかった専任は同じ町の大きな個人塾へ移ることになっていたそして僕がどうしなければならないのかもわかっていた数日後校舎長から「今度、○○の人事が会って話したいみたいやから、俺もついて行ったるから準備しとけよ」と言われた「多分、待遇とかの話も出るやろうから、遠慮せずに正直に話しして来い」とも言われたついにこの日が来たか・・・もちろん僕の心の中では意思は決まっていたある意味この日が来るのが楽しみだった
December 7, 2011
コメント(0)
どんな業種でも同じであろうが不況が続く中コストカットをして経営の乗り切らなくてはならない塾業界の場合まっさきに対象となるのが人件費のカットである(人件費カットといえば、どの企業でも行われているリストラの一環であるが、塾の場合、専任に対しては勤務時間の短縮=残業を認めない≠業務の量は減らさない=サービス残業の増加となる。さらに、一番効果のある人件費カットは非常勤講師への支払い減である。すなわち、授業時間数を減らすこと。例えば、1コマ70分授業が、60分授業にするというようなもので、=生徒にとっても、指導時間が減らされることを意味する=実質、授業料のアップである。当然、会社側は、短時間でも効果のある授業を研究して行う努力をしなさいと指令を出す。また、非常勤の持ちコマ数を専任にまわすことによって、専任の重労働となり、非常勤にとっては収入源により、転職を考える=いい講師を失うあるいは確保しづらくなるといったしわ寄せが起こる)塾を取り巻く空気が働く者のやる気を失わせていく学生講師の僕の目から見ても専任講師陣の塾(会社)に対するモチベーションを失われていくのが明らかだった(僕の場合は、校舎長のおかげで授業数を減らされることもなく、むしろいろいろな仕事を回してもらい十分な収入を確保してもらっていた=当然、会社的には好ましくないことである)というよりは校舎長が来年度の身の振り方をどうしようとしているかははっきりとわかっていたし校舎長が僕の身をどのようにしようとしているかもわかっていたただその事実を認めたくない気持ちでいっぱいで心ここにあらずの上司と共に過ごし何も気づいていない振りをして過ごすこの年度の後半がすごくつらい日々であり週に何日かの他校舎への出勤日がその気持ちを緩和させる日々となっていたそんな中あっという間に年度末が近づいてきたやってきては欲しくない嫌な嫌な時期がせまっていた
December 3, 2011
コメント(0)
夏休みに行われる中3の勉強合宿従来なら専任講師以上に非常勤である学生講師の指導力を売りにしているイベントであったのにいやイベントだけでなく当時の塾は学生講師パワーがものすごく授業のわかりやすさ、おもしろさは専任を上回る人気があったしかしその夏の勉強合宿はオール専任で実施ということになったすなわち人件費カットである合宿をするとなると会場となるホテルの貸切費用と食事代それに往復の交通費(バスチャーター代)と人件費などが必要となるこれらの総合計に当然ながら塾としての利益を上乗せし生徒の参加見込み人数で割ったものが一人当たりの参加費用となるここに非常勤講師が参加するとなると丸々人件費が必要となりその分生徒一人当たりの参加費は増額されてしまう参加費が高くなれば参加率が悪くなり逆に収益が見込めなくなる経営的な判断でいけば当たり前の方針であるいくら専任を動員しようが毎月の給料の範囲内+αですむこれも前年の塾同士の合併によるところが大きかったちなみにこの合宿で僕がとった行動はもぐりで合宿に参加するということだった同じ校舎の後輩学生講師と一緒に自分の車で合宿が行われるホテルまでかけつけた食事など外へ食べに行けばよいし寝る場所も最悪、車の中で寝ればと思っていた実際にはみんなと同じ食事をホテルでいただけたし寝る場所も直属の専任の部屋にふとんをひいて寝ることができた手当てなど欲しいとも思わなかったしとにかく合宿期間中頑張っている子どもたちと共にその世話をしたかっただけである
December 1, 2011
コメント(0)
お世話になっていた当時の校舎長校舎長=校舎の責任者とはいえ1企業のサラリーマンでありあくまでも企業の運営方針の指示の元校舎を任されているだけであるすなわち校舎長の方針で校舎が運営されているのではなく企業の運営方針の実行を任された駒でしかない(企業に雇われる身として、当たり前であるが)自分の考えに合わないことでも企業の方針ならば従わざるを得ないお金のため生活のためを思えばそこはわりきって企業戦士にならざるを得ないのであるがやはり生身の人間愚痴を言いたくなるものであるましてやそれに見合う見返りがなければわりきることもできなくなってくるものであるじわじわ押し寄せるバブル崩壊後の影響その他諸々の経費節減策当然僕ら非常勤講師に対しての待遇悪化は専任以上であることはいうまでもない思い描いていた収入アップは見込めなくなる中この校舎長のおかげでそれなりの収入を確保できていたそんな中こんな出来事があった(次回に続く)
November 30, 2011
コメント(0)
当時僕がメインに担当していた校舎すなわち今真学道場Shin がある場所を校舎にしていたその塾であるが校舎としては2年目を迎えていた1年目は順調に生徒数も増やしていき2年目も勢いは緩んだがそれでも塾生の紹介を中心にぼちぼち生徒は増えてはいた今まで社会担当だけであったのがこの年は英語、理科も担当することにもなり3校舎で週に5日授業をしていた当然僕は俄然やる気を出して頑張ろうとしていたメインの校舎の校舎長は僕が1年目の途中からずっとお世話になってきた方である(詳しくはこの記事を御参照下さい)非常勤でありながら僕を一番の部下のように面倒を見てくださったというのはこの校舎長はちょうどその時に他塾から移籍してきたばかりだったのでこの塾での部下というか自分の手下のような感覚でたまたま担当日が同じになった僕をかわいがってくださったしかもその頃は僕自身も担当クラスがありながらそのクラスの生徒がゼロということで授業不成立=給料なし(授業がないのに、この先生と話をするために校舎に行っていた)という状況なのを知ってくださっていたので新校舎開校後は僕に出来るだけ授業コマを増やせるようにしてくださったし事務手伝いの仕事も回してくれて事務給も入るようにしてくださったそして仕事だけでなくプライベートでも仕事後に食事やカラオケ、ボーリングに行ったりオフの日にゴルフや競馬観戦に行ったりと本当にお世話になった
March 5, 2011
コメント(0)
塾講師3年目を迎えて2年目がいろんな意味で大抜擢してもらった1年だったとしたら3年目はその地位を定着させる1年だったように思う僕自身そういう気持ちで頑張ろうとしていたプロ野球界に例えるなら僕はドラフト指名で期待されて入団した選手ではなくドラフト外のテスト入団みたいなもの(実際にはテストも面接も受けていないのだが)入団した球団(校舎)はパリーグの人気のない球団(塾そのものは、当時大阪奈良でそれなりの勢力があった塾)レギュラー陣を押しのけて勝ち取ったというより玉不足で運よく試合に出せてもらえる環境だったことしかもそれこそクリーンナップを任されてしまったような感じ僕本人はその状況を重荷に感じることはなくむしろ使ってもらえることに喜びを感じていたが実績がない分信頼感をもってもらっているという実感はなく早くその信頼感をもってもらえるようにと必死だったただ芝居の格言に百回の稽古よりも一回の本番というのがあるように校舎の中心講師として仕事させてもらったことが成長を早めたと思うただ僕がメインに担当していた校舎に少しずつ不穏な空気が流れつつあった
February 25, 2011
コメント(0)
初めての卒業合宿しかも専任講師に代わり僕が担当校舎の生徒の引率を一手に引き受けることになった全体の集合場所は大阪上本町まずはそこまで生徒を連れて行くことから始まる校舎最寄り駅での待ち合わせの時刻や乗る電車の時刻など事前の電話連絡も当然1人でこなしいざ当日無事全員を連れて大阪上本町まで到着することが出来たそこからはバスで全体移動であるが行く先々でのバスを下車しての自由行動や宿舎では生徒をまとめなくてはならなかったし上から受けた指示を生徒に伝えたりと気が抜けない他校舎の生徒たちは人数が多い分複数の顔見知りの先生がいるので生徒のほうも知っている先生を誰か見つければ何とかなるし先生のほうも手配をして分担して生徒を統率すればよかったが僕の生徒たちは僕しか知らない子たちであったし生徒も僕しか知っている先生はいないという状況丸3日間校舎最寄り駅まで生徒たちを送り届けるまで本当によくやったというか無事責務を果たせてホッとした思いであった翌年、さらにその翌年も卒業合宿を引率したがかなり気持ちの余裕を感じながら引率が出来ていたこの合宿での一番の思い出は朝方まで生徒たちと語り合ったりトランプやUNOをしていたことであるもちろん前述の体験談の続きも約束どおりした今振り返ってもであるが当時からこの生徒たちのおかげで僕自身かなり成長させてもらったと感じている
February 19, 2011
コメント(0)
さて卒業合宿であるが僕が担当している1つの校舎の生徒がほぼ全員参加してくれるようになった予想もしていなかったしはっきりいって僕の勧誘活動の成果というよりはたまたまラッキーな展開になっただけという気がするのだが2月の私立入試の終わった後の授業で生徒たちが今日で塾に来なくなる生徒がいるから(私立専願合格者)最後に先生の話をして欲しいという流れになった本来なら公立受験者がいる中で絶対今の僕ならば許さないであろう事を当時の僕は校舎長の許可を得て僕の経験談の話をすることにしたそして最後にこの続きは卒業合宿で・・・だからみんなで卒業合宿に行こうということにしたのだと思うそれでも内心この子らが行きたいと言っても家庭の許可はでないだろうと思っていたところがどっこいほとんどの生徒が親の許可をもらってきた十数名が参加したのだこれでノルマ達成であるこのとき僕の分の旅費は負担した記憶がないのであるがおそらくこの校舎の専任の引率者がいないのでその分を僕の旅費にあてがってもらったのだと思うこのような全校舎が一同に会するイベントは自分をアピールするチャンスであると同時に他校舎の先輩先生方のリーダーシップを学ぶまたとないチャンスなのだわずか2年目でまだまだ経験が乏しい僕には貴重な体験であるどうしても参加したかったが担当校舎からの生徒の参加者がいなければ参加できないそれがわずか十数人でも生徒が参加してくれ僕も参加できるようになり本当に有難かった思い出である
February 18, 2011
コメント(0)
おそらく卒業合宿勧誘の指令が出たのは1月の重役会議だったのだと思うそれまでは自分の校舎からは誰も参加しないだろうと思っていたし校舎所属の専任もこれといったPRもしていなかったしむしろ「うちらの校舎から行く者が、いるはずがない」と影ではささやいていたのである理由は大手塾というのはことあるごとにイベントを行い毎月の授業料とは別の費用が発生するほとんどが勉強のためなのであるがチラシなどの広告物には授業料だけを掲載して安く見せておき実際入塾すると思わぬ費用が加算されてしまうのだイベントの告知があるたびに「えっ、また!」という保護者の悲痛の叫びが聞こえてくるそれでも勉強のため高校合格のためということで保護者の方は我慢して支払ってくださっているそれが勉強ではないイベントにとなると結論は見えているそれでも塾の歴史が長い大阪地区では最後の卒業合宿が一大イベントとして定着し卒業合宿に行くために小学校や中1から入塾しことあるごとに先生から卒業合宿の楽しい話を聞かされ志望校に合格できなくても卒業合宿だけは参加するというような子も中にはいるものは考えようであるが高校合格祝いを兼ねて家族旅行をせがまれるところもあるだろうがお世話になった塾の先生が引率者となり子供だけ旅行に預けるほうが出費は少なくすむさて僕が担当した校舎は卒業合宿なんて定着していない校舎であるどうやって勧誘するか校舎長に重役会議で10人の勧誘ノルマが出たことを告げると一言「かわいそうに!」と同情され苦笑いするしかなかったとにかく使命を果たしたい保護者に恨まれようが卒業合宿に行きたいと生徒に思わせるしかないそこで思いついたのがポスターであるこの塾の各校舎にはそれぞれの校舎の講師が作成した手作りの掲示物がたくさんある研修会などで他の校舎に行ったときには必ずそれらをチェックしていた当然卒業合宿告知のポスターも見たことがあったそれらを思い出しながらカラー画用紙にポスターカラーでコピーを書きイラストを描きながら担当校舎分プラス1枚のポスターを完成させた
July 6, 2010
コメント(0)
講師2年目にして3校舎中学3学年分の社会の授業をほとんど任され通常授業テスト対策各期講習会中3日曜特訓夏の勉強合宿さらに学生重役といろいろな経験の中でそのスキルを磨かせてもらうことが出来たそして2年目最後に課された使命があったこの塾には中3最後のイベントとして中3卒業合宿というのがあった合宿とは言うものの勉強合宿ではなく高校合格決定後の旅行を楽しもうというものである受験に向けて頑張ってきて最後に生徒も先生もいっしょに思い出を作ろうというイベントであるとはいえ自由参加であり参加するには自己負担で費用が発生するだから参加しない生徒も結構いる最後にみんなで楽しもうという趣旨ではあるがたくさんで参加すれば盛り上がるし何百人という生徒が参加しての旅行であるから夏の勉強合宿同様何台ものバスを連ねての移動となりイベントとしての注目度も高まるそのために学生重役には一人につき10人以上勧誘するというノルマが課されたのである(記憶が定かではないが15人か20人以上勧誘すると自身の合宿参加費がタダにしてもらえたはずである)実は僕にとってはとても不利なノルマだったというのはこの卒業合宿塾恒例のイベントとして定着しているため大阪や奈良北部の校舎の生徒にとっては心待ちにしている生徒も多いしかし僕が担当していた校舎は開校1年目や2年目といった校舎なので生徒自身卒業合宿というイベントを知らないのである知らないから当然楽しみなんかしているはずもないそんな条件下で10人以上の勧誘ノルマであるしかも他校舎は3年生だけで何十人とか下手すれば百人を超えるところもある僕が受け持つ校舎は十数名のべ40人ほどなのださて困ったぞという状況であるとにかく生徒にその気にさせて乗せるしかないまず最初にしたことはポスター作りであった
July 3, 2010
コメント(0)
2学期になると中学3年生は受験に向けた勉強が加速度を増していく大手の塾などでは日曜日や祝日などを利用して特訓授業が組まれていくことが多い実際には塾としての売り上げを増やすために通常授業とは別商品としてしかも塾生は強制参加で追加費用を徴収するためのものであるそんな内部事情はさておきこの特訓授業を1年目は担当させてもらえなかったが2年目からは担当を任せてもらえるようになったその日曜特訓と題された特別授業は生徒にとれば1回2教科ずつ毎週授業がある担当する教師にとれば3,4週間ごとに授業が回ってくる当然、その授業分の収入も増えることになるので臨時ボーナスをもらったような気持ちであるただそれ以上に受験生の特訓を担当させてもらっているという気持ちの上での優越感とそれに応えなければいけないという責任感をひしひしと感じていたと同時にこの特訓で使用した教材は塾の教務が作成したものであったが入試必須事項が適切にまとめてありまた入試レベル問題が豊富に集めてあり2年目の僕にとっては入試問題レベルの問題を集中的に解く機会となりまたレベル別に2種類用意されており同じ単元をレベルの差をつけて教える経験もでき生徒以上に教務力のスキルがアップさせてもらえたと思っているこういった特別授業で使用する教材は教務課をもっている大手塾の強みであるといえるだろう
May 26, 2010
コメント(0)
2年目の夏休み もう一つ大きな経験をさせてもらったそれは塾の中3受験合宿に参加したことだ僕自身中学受験塾で4年生から6年生にかけて生徒として夏と冬の勉強合宿に参加したことがあったが今度は引率者として初めての参加である今でははっきりした数は忘れたがその塾の全教室十数校あわせて数百人が参加する大規模な合宿である各校舎から貸し切りバスで出発し途中のサービスエリアで合流しそこからはバス十数台を連ねての行軍だった授業はレベル別に3クラスに分けられていたが当然1クラスは200人くらいはいただろう大広間に会議用の机を並べられている前に立つ先生から一番後ろの生徒までは20メートルくらいはあっただろう僕ら学生講師はどこかのクラスに入り机間巡視しながら居眠りしそうな生徒や集中していない生徒の監視役だったとはいえ見回りのクラスを指定されているわけではなく自由に好きなクラスに行ってよかったし正直、監視役としては必要以上の生徒がいたので適当に抜け出して休憩を取ることも認められていたしかし僕が一番したかったことはいろいろな先生の授業を見ることであった前もってその日の授業スケジュールを確認しておき見る順番を決めていた今となっては印象に残っている授業は2,3人であるが中にはせっかくの合宿というイベントでこんなレベルの授業でもいいのか?と思ったものもあったもう一つこの合宿で吸収したいと思っていたことは先輩学生講師らの引率力というかリーダーシップだった毎月の研修会で先輩講師らには会っていたが実際、生徒を目の前にしての先輩方の振る舞いというのはこんな機会にしか触れることができない自らも自分の校舎の生徒を引率しなければならなかったが横目で他の先輩方の振る舞い・言動に注目させてもらっていた生徒にとっては厳しい2泊3日の合宿だったであろうが僕自身も普段味わえない有意義な勉強をさせていただいた合宿初参加であった
May 15, 2010
コメント(0)
塾でのクラス担当の配置の仕方生徒の意見に左右されないというのが原則であろうただし生徒との相性が合わずその主たる原因が先生側にある場合は生徒の成績下降につながる前にすみやかに手を打たねばならないだろう今回のように年度初めから担当していたのが僕でその僕の指導に何ら問題もなく生徒との相性もうまくいっていたにも関わらず塾内の人員配置のために担当が替わらねばならない場合後釜の担当者と生徒との相性がうまくいかないとなれば元の担当のままでいくのが良策である(校舎長なり新担当者が時間をかけてでも生徒の気持ちを変えていく自信があるのなら強引にでも変えるべきなのであろうし=もちろん生徒のほうも先生が変わるなら塾をやめると言って本当にやめることなどよっぽどのことがない限り起こりえない)結局2学期以降も僕は従来のクラスを担当することになったこのクラスは一年目で新人であった僕が新規開校当初から見てきたクラスで特別な思いがあったのでとりあえず彼ら彼女らを引き続き最後まで担当できるようになったことが何よりもうれしくほっとしたこんな出来事であっても2年目のまだまだ青二才にとっては専任に勝てたという事実がさらなるモチベーションの高まりを生むきっかけとなったりするのである
March 6, 2010
コメント(1)
塾にとって専任講師が授業を担当しない空き時間があるのは経営的にかなりの無駄であるその分余計な人件費がどこかで発生していることになる学生講師である僕がフルに授業を担当し空き時間のある専任講師がいるという状況はまさに改善しなければならないことであったそのために夏休みも後半にさしかかるころ奈良南部ブロックの校舎長が集まり2学期からの時間割の組み換えについての会議が実施されたすなわち空きのある専任講師を僕が担当していた校舎にあてはまるために生じる人間の配置のひずみを調整するためだがここで僕が予想していたことが判明する夏期講習中僕に代わって担当していたクラスの生徒から授業に対して不満の声が大爆発したのである2学期からもその先生なら塾をやめるとみんな言い出したのである断っておくが僕は何も手を打っていない生徒たち自身が自発的に言い出したことである夏休み中は僕もその校舎には一切行く余裕がなかったからその爆発がどれくらいのものだったかは全くわからないただそのようになるだろうなということだけは予想できたのだ↑クリックお願いします
June 22, 2009
コメント(0)
そんな合併劇があったものの現場の校舎ではその一年間は従来の塾の方針で運営が進められていた心のどこかには合併に対する抵抗感がありながらも日ごろの業務をこなしているとそれは表には出てこないむしろ地元の大きな塾に対しての負けたくない気持ちの方が常にあった1週間ほぼフルに3校舎掛け持ちで授業をし日々研究し、プリントを作成し、成長していく自分を感じ取れることができたこんな環境に身を置くことができたのも当時の直接の上司であるo氏のはからいが大きかったからであるところが学生講師である僕がそんなにも授業を担当していることに対して疑問を言う先生もいた正確には専任で空いている先生がいたのだ僕が担当すれば賃金が余計に発生する専任は授業の数に関係なく一定の賃金が支払われる僕の授業を減らせばそれだけ人件費を浮かせることができるので経営的にはごく当たり前の意見であるちょうど夏期講習をきっかけに僕はある校舎の受け持ちを外れることになった外された校舎は僕が1年目の後半から担当していた校舎でその校舎が開校された当初からの担当なので最初から全員の生徒を知っているので(詳しくはこのブログを)どうしても外されたくない校舎だったしかし僕には元の担当に復活できる自身があったどっちみち授業数が増える夏期講習では普段担当しているクラス全部を授業するのは物理的に不可能でありどれかのクラスは外れなくてはならなかったそして夏休みだけ我慢すれば・・・↑クリックお願いします
June 18, 2009
コメント(0)
さて当時僕が学生講師として働いていた塾はライバル関係にあった塾と合併することとなったその相手の塾は奈良県内にはなかった塾なのでどのような塾かは知らなかったが周囲の反応、雰囲気からはかなりの抵抗があることが感じ取れたそれはそうである長年ライバルと思って対抗意識を燃やしてきていたわけである自分たちの塾に対するプライドを感じながら働き授業をしてきたものにとって今度から同僚として一緒に働くことになりましたといわれても素直には馴染めないものであるましてシステムを統一するにあたって両社のいいとこ取りで調整されてはいたのであるが必ずしもいいとこ取りとは言えないし今までは良かれと思ってしていたことが採用されずに相手方の方法が採用されて部分に対してはかなりの抵抗を感じるものであるまた人的にも社的にもかなりのリストラが行われたもちろん学生講師の立場ではあったもののやっと塾に対して愛着を持ち始めていただけにいやかなりの愛着が芽生えていただけに僕なりに相当な抵抗感を感じていたのはいうまでもない↑クリックお願いします
June 13, 2009
コメント(0)
学生講師の2年目に大抜擢されて経験した学生重役おそらくならば2期、3期は続けていたはずであるしそのつもりであったところがそうはならなかったというのはこの年この塾にとって大きな転換期を迎える事件が新年度2ヶ月目に起こったそれは当時大阪の同一地区でライバル関係にあった塾と合併したのである違う塾が合併したのであるから授業料、授業時間数、行事、経営方針その他多くの相違点がある合併した年度は従来の塾の形式で各校舎が運営されることとなったが翌年度からは当然ながら統一されるそんな中で学生重役という役職、会議は廃止されることになったのであるやっと塾に慣れその塾の持つ良さがわかってきた時期で自分でも何か出来ることが見つけられるようになってきていただけに学生重役が廃止されることは残念でならなかった↑クリックお願いします
June 10, 2009
コメント(0)
学生重役に任命された僕はその肩書きという箔と同時に学生講師の中の代表という無言の重荷を背負わされることになる他の学生重役のほとんどが生徒としての卒塾生であり今上司として一緒に働いている専任講師はかつての恩師であったりする塾の歴史やその地域での塾のポジションを知り尽くした方々であるそんな先輩方に混じって月に一回社長を議長に会議を行うのである毎回事前に議題についての課題が出されていたが2年目の僕にとって授業の準備である教材研究すら大変であったのに会議が近づいてくると議題に対する課題に負われるというつらい時間であったそれでも何とかくらいついて行こうと必死だったのと当然ながら2年目にしてそのような経験を1年間させてもらえたのは大きな財産であったまた校舎での働きも学生重役という名に恥じないようにという気持ちで頑張れていたと思うちなみに学生重役に任命されて一番うれしかったことは人生で初めて肩書きのある名刺を持てたことである↑クリックお願いします
June 5, 2009
コメント(0)
当時働いていて塾は大阪府下の近鉄沿線や奈良県北部ではかなり名の知れた塾だった実際ひとつの校舎に200名や300名といった生徒がいたりしてそういった校舎には当然主力の専任講師や学生講師もたくさんいる講師間の結束力も強くカリスマ的な専任講師に学生講師がついていくまた学生講師の間でも先輩が後輩をひっぱるといった強烈なエネルギーがあった一方僕が配属されている校舎(すなわち奈良県南部)は新規開拓地域であったがかといって最前線として主力専任講師が投入されたわけではなかったいや厳密には地元の有名塾から引き抜いた専任を校舎長に置いていたのではあるがそんな環境の中で大阪や奈良北部の校舎をうらやましく思いながら新規校舎で唯一の学生講師として自由にさせてもらえることにやりがいを感じていたそんな中新年度が始まったある日校舎に行くと校舎長から「お前、学生重役に選ばれたぞ」と告げられた「えっ!」という思いと「やった!」という思いが交錯しながら俺の名前と顔を中央に覚えてもらえるチャンスだと思った学生重役とはその塾でバイトする全学生講師の中から5人が選ばれ(自薦・他薦)月に一回、塾の社長が主催する会議に参加し学生目線の意見をやりとりし塾の経営に活かすというものだ同時に月に1万円の手当ても支給された(会議の後は社長のポケットマネーで会食もあり、結構いいものを食べさせていただいた)2年目の僕が学生講師4年目といった先輩講師の中に入りしかも社長に直参して経営会議的なことに参加できるというのは当時の僕としては重荷でありながら大きな経験をさせていただいたと思っている↑クリックお願いします
March 10, 2009
コメント(0)
さきの説明会の補助は当然手当てをいただくことが出来たが普段の自分の授業がない日も校舎に行っては何かと教材研究をしたり校舎の手伝いを買って出ていたもちろん自らすすんで校舎の手伝いをしても手当ては出ないとにかくお金に関係なくずっと塾に関わっていたかったいや塾という空間の中で自分の知らないことが起こっていることが不安ですべてを把握していたかったまた授業だけをしにくるアルバイト講師だと思われることも嫌だった確かにアルバイトという身ではあるのであるが授業以外のことも把握している立場でいたかったすなわち塾にいたりいなかったりではあの先生は授業の時にだけ塾にいる先生と思われてしまう授業がなくても塾にいて仕事をしている塾にいないときは別の校舎に授業にいっているそう思われたかった若さだけで生徒から親近感をもたれるのではなく塾にいなくてはならない存在として見られたかった実際バイトであるということは生徒も保護者も気付かれてはいなかった↑クリックお願いします
January 19, 2009
コメント(0)
地元に新規開校したその塾で 学生アルバイトの身ながら毎週のように実施される入塾説明会・テストに補助として参加させてもらった普通塾の先生は新しく入塾してきた生徒とは教室で初対面をする授業前に事前に新しい生徒が加わることを聞き名前をチェックしどんな生徒かということを頭の中で思いをめぐらせながらどのように声を掛けるかなどを考えることになる(実際そこまで考えられる塾講師は少数派ではないだろうか)しかし入塾説明会に参加させていただいたことにより新しい生徒との対面はこの時点でしていることになりしかもテスト監督中に1時間あまりその生徒を観察もできその後テストをすべて採点させてもらっていたことにより彼ら彼女らの学力を肌で感じ取ることがその時点で出来ていた(もちろんあくまでも第一印象にすぎないが)実はこのとき地元の教室と隣町でも同時に新規開校ということだったので午前と午後で両教室の説明会を移動しながら行っていた専任の先生と一生に行動しながら塾運営に関わっているということが非常に楽しく感じられる瞬間であった ↑クリックお願いします
January 16, 2009
コメント(0)
まさかまさかの地元での新規開校であったこの塾で最初に担当した校舎は車で1時間以上かかる場所その次に担当することになった校舎で30分という場所だったのが自宅からたった数分の所に校舎が出来るのだこれは偶然というより運命としかいいようがない気がしたしかも単なる地元というだけではない僕の地元には奈良県で1,2を争う大きな老舗個人塾の発祥の地であるのだ(ちなみに僕はこのいずれかの塾の出身でもある)この塾の代表はその二つの塾にけんかを売り込んだのだ大阪では名の知れた勢いのある塾が奈良の老舗個人塾に殴りこみといったところだ中学時代はいずれ大学生になったら地元のお世話になった塾でアルバイトをしようと考えていた実際同級生などで既にアルバイトをしていた者もいたしかし運命のいたずらとも言うべきかそれらの塾を敵に回すことになった大阪では誰もが知る塾であったが僕の地元では知名度は皆無である当時地元の知り合いに塾講師のアルバイトをしていると言う必ず17○塾?1○塾?と聞かれたものである相手が知らないのを承知でいつも□リックっていう塾やねん?えっ?ハンドパワー教えてんの?とつっこまれたものであるそのたびに苦笑いしながらいつかこの場所でも誰もが知っている塾にしてやると心の中でつぶやいていたのである
December 12, 2008
コメント(0)
10月以降は毎週レギュラーの授業が入るようになりさらには定期テスト対策になるともう一つの校舎でも授業を受け持つようになり多くの経験を積ませていただけるようになったそしてこの年度の最後に予期せぬ事実がこのときの塾が僕の地元に新校舎を出すことになったのだ(ちなみにその場所こそが現在真学道場Shinのある場所である)そしてその校舎長がO氏僕にとってそれまで縁がないと思っていた塾が地元に進出するとなると縁を感じずにはいられない僕の地元は奈良県でも最大と最高をかかげる個人塾が二つあるちなみにO氏はそのひとつから移ってこられたもちろん僕の塾魂をさらに燃え上がらせたのはいうまでもないこの校舎の立ち上げ準備に学生講師ながらO氏の下で携わらせていただいた↑クリックお願いします他のすばらしい塾の先生方のブログが見れます
December 5, 2008
コメント(0)
1ヶ月後やっと社会を選択する生徒が出現したこの年の僕が担当した生徒は 中3生もちろん僕にとって初めての高校受験生である 男子2人女子2人であったが 彼ら彼女らと共に僕も勉強していたという気がする 卒塾以来会っていないが4人とも名前は覚えている 中2生すごく物静かで こちらからの問いかけにもほとんど返答がないような子達であったが最初の授業で君たちは畝傍高校に入りたいと少しでも思ったことがあるか?まさかこの塾から畝傍高校は無理と思ってるんじゃないだろうな という檄を飛ばした もちろん無反応であったが この学年は徐々に生徒数も増え活気も増し賑やかながらお互い切磋琢磨しながら勉強する雰囲気になっていった最終的には一人だけであったが畝傍高校合格者も出た 最後はこの子らと一緒に塾の卒業旅行にも参加し そこで一晩語り合った思い出が・・・ 中1生大人しい男子4名 騒がしいお転婆女子4名で初めて指導したのは2学期中間対策 結果はほぼ全員が20点台というありさま 結果を聞いてめちゃくちゃ凹んだのはいうまでもない 期末では2問に1問合わせようを目標に何とか50点台をとらせることに成功!この学年の子らも最終的には当たり前のように80点台はとらせられるようにまで成長 僕の中ではこの子らが僕を大きく成長させてくれたと言っても過言ではない 今でも交流のある子が多いのもこの学年である またそのうちの一人は美容師になり僕の髪の毛をカットしてくれていたことも
December 4, 2008
コメント(0)
が いきなりその決意を打ちひしがれる事実が判明当時 社会の担当で初めて受け持ちのクラスの日に校舎に行くと社会を選択している子がいない・・・結局 その後1ヶ月は授業がない状態が続いた(もちろん無給)ただこの校舎で出会ったO先生は(奈良県内有数の大きな個人塾から移ってこられたばかりであった)初期の僕の塾人生の大きな影響を与えることになった人物であり毎週授業がないにも関わらず校舎に行きO先生といろいろな話をして帰るということが楽しくてこれが数週間続いたまた生徒がいなければ授業は出来ない=収入がないという状況が 僕にさらなる塾講師魂のエネルギーを大きくする原動力となったのである↑クリックお願いします他のすばらしい塾の先生方のブログが見れます
December 3, 2008
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1